第1話 君の望んだ夢をここに
――初めてイツコの「部品」が「交換」されたのは、あのツインテールのトラブルメーカーな二等種を出荷したときだった。
担当素体の管理番号を見るに、あれからもう9年の歳月が経っているらしい。
これだけ月日が経っても、人間様に変えられた身体はシワもシミも、白髪の一本すらも見つからない……成体となった頃の若々しさを保ったままだ。
(俺でさえそうなんだ。……常に『交換』されていれば、変わりようが無い、か……)
彼は使用開始時間を知らせる頭の中の声と、転送魔法による世界の揺れに身を任せながら、今日も始まってしまった一日を思い、祈るように組んだ手を握りしめる。
(……そうだ、俺は生きる。今日も生き延びる。イツコよりも、一秒でいいから……長く)
草色の髪を無造作にかき上げた、周囲から『仏』と呼ばれるオス型の調教用作業用品は、あの日のことを……己の選択への後悔を、一日たりとも忘れたことは無い。
いや、忘れたいと思ったところで、忘れさせては貰えない。
だって
人間様が作った器に移し替えられた脳機能と、誰かの部品で作った寄せ集めでしか無くなった、なのにあの頃と何も変わらない見た目で見知った行動を繰り返す傀儡を、自分は「イツコ」として扱わなければならないのだから。
「イツコ、訓練室に行くぞ。あと、管理官様からこの個体の情報を共有するように言われた。性器従属機能実装中の個体なんだが、少し進捗が遅れているんだ」
「ありがとう、確認するわね。ええと……あなたは」
「…………379M085(X)、ヤゴと呼べば良い」
「分かったわ『初めまして、ヤゴ』よろしくね」
「……ああ」
――そうして今日も、さよならを言えなかった君の抜け殻との、新しい……けれど変わらない一日が始まる。
◇◇◇
イツコの修理――後に実用化され「大改修」と呼ばれるようになった、二等種から死という救済を取り上げる悍ましい措置が行われて以来、イツコの身体は数え切れないほどの「交換」を繰り返している。
一応外見は、オリジナルのイツコと同じになるように規格が定められているらしい。
当初は少し目の色が明るかったり、指が短かったりしたものだが、最近では部品に加工を加える技術が発達したらしく、むしろオリジナルと遜色ない外見を保っている。
微妙な差異に気付くのは、恐らく長年傍で彼女を見続けてきたヤゴだけだろう。
ただし、イツコらしき形をしているのはあくまでも外の皮だけ。
その頭……正確には生体モジュールで作られた脳機能には、運用する中で生じた問題を解決するためにいくつかの制限が付け加えられていた。
その中でも最も大きな制限は、記憶だ。
大改修で一旦全ての作業用品に関する記憶を消去されたイツコは、その後も何度か性能の低下問題を引き起こした。
調査の結果、彼女が周囲の作業用品に対して――誰なのかは知ってはいけない気がする――特別な感情を抱く度に性能を低下させることが発覚する。
作業用品としての性能を最大限発揮するためには、親愛の情を……まして恋愛感情などは決して持たせてはいけない。二等種の恋は、性能は勿論のこと、その耐用年数すら大幅に損なってしまうから――
人間様からすれば非常に重大な、しかしヤゴからすればたったそれだけのために、イツコは共に働く作業用品に関する記憶を毎日リセットされることになったのである。
だから、イツコとの出会いは毎朝「初めまして」から始まる。
彼女は調教に関する知識や経験はもちろんのこと、管理官や担当素体のことは全て覚えている。
昨日の作業で話した内容は脳の記憶領域にしっかり書き込まれているから、調教用作業用品としての働きには一切支障が無い。
ただ、作業用品の記憶だけが、毎日ごっそりと頭の中から抜け落ちる。
作業の合間の他愛ない話も、誰かをからかった出来事も、そして、イツコには許されない死への切符を掴んだ作業用品を見送った痛みも――一晩寝れば全てがリセットされてしまう。
そんな彼女に当初は不気味さを感じていた作業用品達も、今ではすっかり慣れたものだ。
今や毎朝イツコに自己紹介をすることに、そして昨日の話題が作業の事以外何も通じない不便さに疑問を抱くモノは、一人を除いてどこにもいない。
◇◇◇
「……こっちは順調だな。既に性器従属反射の形成が見られる。俺の担当もイツコの担当も問題なし。だが……これか、進捗が遅れている個体は」
「そうね。……このくらいなら経験上放置していても問題なさそうだけど、保護区域4で奏功した抵抗を削ぐプログラムをダウンロードしたわ。ヤゴ……で合ってるかしら、この端子をそっちの差し込み口に差して頂戴」
「……ああ」
耳のあった場所に取り付けられた金属質な光沢を持つ送受信モジュールから、イツコは端子のついた長いコードを取り出し、ヤゴが性器従属機能実装機に差し込むや否や、同期したプログラムをインストールする。
その瞳にヤゴは……いや、目の前の景色は何も映っていない。
まるで壊れる寸前だったあの日のように、虚空を眺めながら別のイツコの情報を受け取っている。
そう、今は彼女以外に、別の「イツコ」が存在する。しかも……11体も。
――大改修から数年後、あの胸糞悪い管理部長殿はイツコの脳を複製し、同じ外見で作ったアンドロイドを「調教用作業用品製造機」として全国の保護区域に配備したらしい。
つまりイツコは死ぬどころか「増えた」のだ。
全ての機体は同期し、イツコの調教技術を取り込み、フィードバックを繰り返す。お陰でどの保護区域でも以前に比べて調教効率が、そして調教用作業用品の品質自体も改善したと、人間様は大満足のようだ。
(……果たして俺は、これをイツコと呼んで良いのだろうか)
本来のイツコであった部位が奪われ、見知らぬ何かに置き換えられる度に、そして全てが置き換わってからは毎日のように、ヤゴは自問自答を繰り返している。
これはあくまでもイツコを模した精巧な機械に過ぎない。イツコは最初の大改修で死んだ、だから魂だってこの牢獄から解き放たれ、想い人と再会しているのだ……そう信じようと努力もした。
けれど、ふとしたときに「イツコ」が、あの頃のままで顔を覗かせるお陰で……ヤゴには割り切るという救済さえ許されないらしい。
……あれは2-3年前だったか。
ヤゴは管理部長から、随分昔……いや、それこそイツコがまだ「本当の」イツコであったときに製造した、脳みそが豆腐で出来ているような困ったちゃんの性処理用品が、出荷後6年目にして無気力個体と判定されリペア対象となり、結果等級がCに格下げされた事を告げられた。
当然、懲罰の宣告と共に、だ。
出荷した性処理用品の製造責任は、その個体が廃棄処分となるまで続く。
もちろんその責任を負うのは作業用品だけで……結果、ヤゴは「棺桶行き」5日間と2ヶ月に渡る貞操帯装着を命じられ、地獄のような日々を過ごす羽目になったのだ。
その間、イツコは毎朝のように「初めまして」とヤゴの情報をその脳内モジュールに書き込む度、楽しそうに彼を揶揄い続けた。
『いつもながら大変ねえヤゴも、ふふっ……にしても、子ネズミちゃんは相変わらずなのね』
彼女の言葉に、過去との繋がりは無い。
何故そんな……まるでずっと前からヤゴを覚えているかのような口調で笑うのかも、恐らくこの見かけだけの器は理解していないように見える。
けれど……あの言葉、あの声色、あの仕草。
そして何より、貞操帯に中心を無理矢理押し込められた苦しさに、思わずしかめっ面になったヤゴを見て漏らす嗜虐者らしい恍惚の吐息は、まさにヤゴの知る、聡明で上品ながら目を掛けたものはとことん甚振ることを楽しんでいた「イツコ」そのもので。
懲罰がきっかけで発生した大改修前の思い出を想起させたこのやりとりは、当該個体をリペアしているいずこかの保護区域からの情報共有によるものだと頭では分かっていても、寄せ集めの肉体にまだイツコが宿っているように錯覚してしまったヤゴの心に、悲痛な慟哭を上げさせたのである。
◇◇◇
(あの時、ちゃんとさよならを告げていれば……イツコの魂をこんなものに留めずにすんだかも知れない……)
己の行為と彼女の死。そこに因果関係など、冷静に考えれば存在するはずが無い。
それでも、そうやって後悔の念を留めておかなければ、いつか他の作業用品と同じように目の前の彼女を、誰よりも……性処理用品以上にモノになってしまったこの紛い物を「イツコ」と認めてしまいそうで……
いつしか彼にとっては、後悔そのものが一種の救いと化していた。
(イツコ……いや、ここでは何も考えるな。隙を見せるな、人間様は俺達二等種を簡単に壊せるのだから……!)
訓練室へと向かう道すがら、隣を歩くイツコのかんばせに、甘く切ない思いが過る。
思わず反応しかけた萎えることの無い中心を叱咤しながら、ヤゴは今日も彼女への想いをひた隠しにする。
ヤゴの想いは、少なくとも管理部長にはとうの昔にバレている。
それでも彼が何も罰せられずに使われているのは、あくまでヤゴが貴重な「未覚醒で優秀な調教用作業用品」だから。
万が一、この想いを外に漏らそうものなら……管理部長様ご自慢の優秀な「作品」を貶めたとして、あり得ない重さの処分が下るだろう。下手をすれば、こうやって彼女の側にいることすら許されなくなるに違いない。
(俺には何もできない。だからせめて……願い続けてやる。イツコ、お前が俺より早く壊れることを……)
だからヤゴは、己の無力さを認めた上で、その内心に反逆とも取られない信念を抱き、絶望的な誓いを打ち立てる。
恋をすれば性能が落ちる、耐久度が落ちるなどという戯言は、信じない。
人間様が二等種に告げる事が真実とは限らないのは、これまでの経験から明白だ。ならば、イツコだって半永久的に壊れないと喧伝しながら、実はほんの少し壊れる日が延びただけかも知れないと――
『いい?ヤゴ、生きなさい。モノであっても最後まで全力で、ね』
(……ああ。イツコ、俺は壊れない。全力で生きて……必ずお前の残滓を見送ってやる……!)
彼女の最期の『指導』を頑なに守り続けるヤゴの気持ちに気付くことも無く、気付いたところで次の日には消去されるイツコは、いつものようにヤゴの目の前で淡々と作業をこなす。
「プログラムのインストールが終わったわ。これでもう大丈夫。ふふっ……4日後が楽しみね」
「……そうだな。これにはもはや、夢見ることすら叶わない」
「? 変なことを言うのね、ヤゴは。私達二等種が、夢なんて見られるわけがないのに」
「…………ああ、そうだったな」
おかしな人ね、とクスクス笑うイツコの言葉が……希望すら奪われたその姿がどこまでも虚しくて、そして悔しくて。
ヤゴは人知れず唇を噛みしめるのだった。
◇◇◇
「昨日、ハナが廃棄相当で『棺桶送り』になった」
「……情報を貰えるかしら」
「ああ、そうだったな……249F087(X)だ。イツコ、お前と同じ24系の作業用品は……これでもう、全部廃棄処分になったんだ」
「そうなのね、理解したわ。……そうね、作業用品の耐用年数は平均30年。この筐体も既に34年になるから、本来なら壊れていてもおかしくは無いのね」
「……そうだ」
「ふふ、管理官様のお陰でいつまでも人間様のお役に立てるように変えて頂けたなんて、私は幸運なのね」
「…………」
その日は、ヤゴとイツコ、それぞれの担当素体の出荷前検品日だった。
検品時の規則のため忌々しい思い出が蘇る貞操帯を身につけたヤゴは、珍しく心底嫌そうな表情を隠そうともせず、素体の入ったスーツケースを検査室に運んでいる。
そんなヤゴにイツコはどこか嬉しそうな表情で「ヤゴは貞操帯が嫌いなのね」と話しかけてくるのだ。
「当たり前だ、これが好きな作業用品などいるわけが無いだろう? 保管庫に戻っても触れることすら出来ない、しかも薬で抑えられているとは言え、オスはすぐに大きくなるからな……何度か懲罰で長期装用をさせられたが、地獄以外の何物でも無かったぞ」
「そうなのね、まあオスは辛いわよねぇ」
「あーもう…………くそっ、よく考えたら長期装用の原因は、全部あの豆腐頭のせいじゃないか!! はぁっ、イライラしてきた……!」
「ふふっ、『仏のヤゴ』と呼ばれている作業用品をここまで苛立たせる性処理用品だなんて、ある意味二等種らしい才能を持っていそうね。私も見てみたいわ」
「…………そうだな、お前ならきっと喜びそうだ」
どうやら今日は、どこの「イツコ」とも同期しなかったらしい。
普段ならいざ知らず、イツコをこんな風にした元凶に合わねばならない日にまで彼女の魂を感じさせられずにすんで良かったと、ヤゴは心の中で独りごちながら検品室の扉を開けた。
「失礼します。検査官様、F125X、M085X、本日の検品対象をお持ちしました」
「お、来たね。先にやる方をさっさと準備して」
「はい」
扉の向こうでは、あの日からの年月を感じさせる程には皺が深くなり白髪が増えた管理部長と、品質管理局の検査官が3名、ソファに腰掛けて歓談していた。
「ああ、今日の道具はこの二体ですか。なら品質は期待できますね」「有終の美を飾るにふさわしい」と話す検査官に、管理部長は上機嫌である。
「今日のはどちらもAはいきますからね。上手くいけばSも狙えるかも知れませんよ」
「そりゃ楽しみだ。管理部長、まだ定年までは何年かあるんでしょ? 勿体ないなぁ、部長ほどの実力者が早期退官だなんて」
「いやいや、これでも若い頃は色々あったからね。あまり長居をしては、煙たがられるだけだよ。君だって知っているだろう? 二等種管理庁の『大粛正』は」
「部長が保護区域Cの調教管理部長と一緒にやらかしたやつですか? もう昔の話でしょ、あんなの!」
保護区域Cに恐ろしく性能のいい変態作業用品がいるだとか、来月からはようやく首都に戻れる、家も買ったし老後は悠々自適の生活だとか、人間様は実に暢気に世間話に花を咲かせている。
素体にとっては生涯の待遇が決まってしまう検品であれど、彼らにとっては工業製品のチェックと大して変わりが無いのだろう。
(……イツコをこんな風にしておいて、自分はのうのうと幸せに生き延びるのか……)
耐えろ、表に出すなと言い聞かせながら、ヤゴは馬鹿でかいスーツケースを開けて梱包を解き、リモコンを肉の塊へと向ける。
どうやら管理部長様はこの検品が終われば職を辞すらしい。二度とその顔を見なくてすむという安堵感と、無責任にもその運命を捻じ曲げた二等種を置き去りにしていく怒りがない交ぜになってどうにも複雑ではあるが、ともかく今は滞りなく作業を終わらせなければならない。
(まあいい。これ以上、イツコを無茶苦茶にする人間様が一人でも減るなら……それでいい)
こんな時間はさっさと終わってしまえ。
そんな気持ちがこもっていたのだろう、起動ボタンを押す手には、いつもより力がこもっていた。
◇◇◇
出荷前の検品は、滞りなく進んでいく。
ヤゴの担当素体は予定通りA等級となり、今は隣の出荷準備室で全ての撮影と梱包を終えたところだ。
(……遊んでるな。最後だから羽目を外しているのか)
普段なら全ての検品が終わっているはずの時間になっても、イツコの担当素体はこちらにやってこない。
扉の向こうからは「これは具合がいい」「喉が良く締まります、人気が出ますよ」と、湿った音と素体の獣のような呻き声に交じって上擦った話し声が聞こえるから、どうやら今日は検品と銘打って管理官様も味見をしているのだろう。
(本当に分からない……いくら無害化処置を施したとは言え、あれほど嫌っている二等種を犯して何が楽しいのか……)
人間様の嗜好は、二等種である自分には生涯理解出来そうにも無い。
何はともあれ、折角の空き時間だ。こちらも少し休ませて貰うかと、ふっとヤゴが気を抜いた、その瞬間
ドン!! ドゴッ!! ガシャン!! バラバラ……
「!?」
「ぐぁっ!!」
「うあああっ!! がっ…………」
身体がよろけるほどの衝撃と共に、何かがぶつかる大きな音が、そして隣室から潰れたカエルのような叫び声が響いた。
一呼吸置いて「あ、あ……いやああああっ!!」とひときわ大きな金切り声。あれは検査官の女性の声だ――!
(っ、一体何が……!?)
低い地鳴りのような音と、相変わらず何かがぶつかる……まるで上から降ってくるような音と揺れが、止まらない。
ヤゴは梱包を終えたスーツケースを置き去りにし、慌てて隣の扉を開けて――そして、その場に立ち尽くした。
「な…………!!」
目の前に広がっていたのは、あり得ない光景……一瞬にして地獄へと変貌を遂げた空間だった。
検品室の天井は割れ、上の階がまるごと落ちてきたのだろう、大量の瓦礫か部屋の半分以上を埋め尽くしている。
瓦礫の下から辛うじて顔を覗かせるのは、ロイヤルブルーのケープの切れ端と、グレーのスラックスを身に着けた左足。ピクリとも動かないそれが誰のものかだなんて、言うまでも無い。
半狂乱になって瓦礫をどけようとしているのは検査官の女性だけ。残りは恐らく、この大量の瓦礫の下に……
「っ、イツコ!?」
そこまで考えたヤゴの胸が、ざっと冷える。
そうだ、この部屋には検品中の素体と検査官、調教部長、そして……素体の担当であるイツコがいたはずだ!
「イツコ! イツコ!!」
「……ここにいるわ」
「っ、イツコ!!」
自分でも信じられないほどの大声で、何度も瓦礫に向かって叫べば、後ろから震えるか細い声が聞こえた。
ぱっと振り向けば、そこには血の気の引いたイツコが、検品室の入口に寄りかかって立っていて。
「イツコ、無事だったか!!」
「え、ええ……けど、これは一体……」
「俺にも良く分からん。上で事故があったのかもしれないな」
どうやらイツコは、いつも通り検品室の入口で待機していたお陰で直撃を免れたらしい。呆然とはしているが、特に怪我も無さそうだ。
ひとまずは良かったとヤゴが安堵し、人間様の指示を受けねばと唯一生き残っているであろう女性に声を掛けようとしたとき……再び轟音と激しい揺れが二体を襲った。
「キャァッ!!」
「っ、イツコ、こっちだ!!」
「ヒィッ、な、何しているのよあんた達! 人間様を助けなさぐぇっ」
ヤゴは咄嗟にイツコの手を取り、検品室を飛び出す。
中から二体の行動を諫める怒鳴り声は、しかし次の瞬間更なる部屋の崩壊で押しつぶされた。
「!!」
「え……うそ……」
……これは、まずい。
何が起こっているのかまでは分からない。だが、少なくともここにいれば、自分達も早晩瓦礫に押し潰される――!
「ちょ、ちょっと、ヤゴ!?」
「いいから行くぞ!! ここは危険だ、逃げる!」
パラパラと小さな粒が落ちてくる天井は、今にも崩れ落ちそうで。
ヤゴは訳も分からず、ただ本能に従ってイツコの手を握りしめ、崩壊寸前の廊下を全力で駆け抜けた。
◇◇◇
絶対におかしい。今まで経験したことのない何かが起こっている――
息を切らして安全な場所へと走るヤゴは、この事故らしき事態の異様さを確信していた。
二等種の行動は、全て人間様によって制御されている。
幼体の頃から叩き込まれた通り、二等種に歩くことを許された道は、首輪に仕込まれた魔法で投影される矢印の方向だけだ。
それ以外の方向に一歩でも足を踏み出せば、この身体には懲罰電撃が自動で流され、大挙した人間様により捕獲されて……よくて彼らのサンドバッグ、虫の居所が悪ければオブジェか棺桶か、というのが常識である。
だというのに、先ほどから恐怖を振り払いつつ完全に指示を無視して走っているヤゴに、制止のための電撃は流されない。
それどころか、管理官からの制止の命令すら入らない。
――これは恐らく、ただの事故では無い。
調教棟、いや、この地下の保護区域全体で何かとてつもない事態が起こっているのでは無いだろうか――
「……っ…………」
「見るな、イツコ。今は俺の背中だけを見ろ。……あと、手を離すな」
「…………ええ」
どうやら調教棟の崩壊は、そこかしこで起こっているらしい。
通り過ぎた部屋からも、いくつもの悲鳴や激しい物音が聞こえたし……廊下には赤い液体が扉を超えて滲み出している。
大きな瓦礫が刺さり、またはぶつかったのだろう、廊下の真ん中で血の海に沈み事切れる二等種や管理官を踏み潰しながら、ヤゴは時折イツコを振り返りつつも、その歩みを止めない。
――二等種の血も人間様の血も変わらず赤いのか、なんて、場にそぐわない感想を抱きながら。
「……っ、こっちは潰れてる……仕方ない、中に入るぞ!!」
「ちょっとヤゴっ、こんな所に入って一体」
「いいから入れ!!」
イツコを怒鳴りつけるだなんて俺は何てことをしているんだと思いつつ、ヤゴは土砂で埋まった廊下の手前、辛うじて扉が開いた部屋へと身体を滑り込ませる。
激しい地鳴りに慌てて扉を閉めれば、ドン!! と鼓膜が破れそうな音と共に先ほどまで二体が立っていた廊下は瓦礫混じりの土砂で埋まり……そして、ふっと静寂が訪れた。
「……止まっ、た……?」
「みたいだな。……取りあえずここの天井は無事そうだ」
いつまで無事にいられるかは分からないがという、不安の言葉は飲み込んでしまう。
とにもかくにも、あの土砂に押しつぶされなかっただけで今は良しとするべきだろう。
「……完全に閉じ込められたな」
土砂に塞がれた入口の扉は、どうやっても内側からは開きそうに無い。
これまでの様子を鑑みるに、調教棟の奥深くにあるこのエリアに助けが来るなんて馬鹿げた期待は、持たない方が良さそうだ。
……そもそも二等種を助けようなどという酔狂な人間様はいやしないだろう。
「まさか、ここが俺達の棺桶になるだなんてな……まあある意味、二等種らしいか」
そう独りごちるヤゴの視線の先に佇むのは、二等種用の魔法焼却炉。
ここは……全ての二等種が最期に辿り着く場所。棺桶で朽ち果てた彼らの亡骸を灰へと変えてしまう、処分室だった。
◇◇◇
「……座れば懲罰よ、ヤゴ」
「そうだな。……だが、もう懲罰は来ないんだ」
「…………そうなの?」
停電により非常灯に切り替わったのだろう、薄ぼんやりとした部屋の中で、ヤゴは焼却炉を背にして床に腰を下ろす。
案の定、禁止された姿勢にも関わらず懲罰電撃は流れなくて、これはいよいよ外で……いや、もしかしたら上の世界で何かが起こったに違いないと、ヤゴは改めて確信した。
「イツコ、確かお前、他の保護区域の個体と情報を共有できるんだよな? ……何か分からないか」
「……共有された情報は18分前までよ。私は1分ごとに全ての個体と同期を取っているけど、そこから先の情報は無いわ。最後の記録は……どれも同じね、天井が崩落したり、土砂や水で押し流されたりして、個体の不可逆的重度破損アラートが上がっている」
「重度、破損」
「……私以外の個体は、全て動作不能になったみたいね。まあ、管理官様の事だしまた作るんじゃないかしら?」
「そうか。……そんなことを話しても、懲罰電撃は飛ばないんだな」
「あら、そう言えば……機密事項よね、どうして私もあなたも平気なのかしら」
不思議そうに首を傾げるイツコの様子に、ヤゴの推測はますます持って現実味を帯びる。
二等種を制御する仕組みは、何重にも組み込まれているはずだ。それが全て作動していないだなんて、通常の事故や災害では起こらないはず。
戦争でも起こったのか、それとも想定外の災害が発生したのか……
(……それこそ、世界が崩壊するのかもしれないな))
イツコの反応でますます信憑性を帯びたとは言え、世界の崩壊とはまた随分と突飛な考えだと、自分でも思う。
だが、二等種が自由に動けるだなんて、人類が滅びでもしない限り訪れない未来が今目の前で起きているのだ。あながち間違えてないかも知れないと考えるヤゴの心は、思った以上に凪いでいた。
二等種として地下に隔離されて、約30年。
いい大人になった当時のクラスメイトは、身体が小さくて絶好の虐めのターゲットだった自分のことなど、すっかり忘れているに違いない。
そもそもヤゴは生まれてすぐに乳児院に預けられた孤児だ。地上の……人間様の世界とは縁が薄い彼にとって、世界の崩壊は些細なことに過ぎない。
それよりはずっと、大切な事が、大切な人が、ここにあるから。
「……にしても、これじゃ何も出来ないわね。出荷が終わったら次の入荷のチェックをするはずだったのに、管理官様から連絡も来ないし」
「そうだな。……イツコも座ったらどうだ? 少なくとも懲罰電撃は飛ばない」
「ええと……ええ、そうね。懲罰にならないならいいかしら」
ヤゴの勧めで床に座るイツコとの会話は、やはり作業の事が中心だ。
彼女が連続して記憶として持つ事柄は、素体の訓練状況や管理官の命令だけ。その日限りで消えてしまう思い出は、未来に世間話すら紡がせてくれない。
こんな状況でも……明らかに目の前で担当素体や管理官が命を落としたにも関わらず、作業の心配に明け暮れるイツコに、ヤゴは「仕方ないさ、管理官様の連絡が入るまでここで待機していよう」と提案した。
――そんな日は二度と来ないと、分かっていながら。
◇◇◇
「…………」
「………………」
お互い口を開くことも無く、ただ時だけが過ぎていく。
先ほどまでの轟音と怒声、悲鳴が嘘のように、この部屋はしんと静まりかえっている。
そう言えば静寂など作業用品には無縁だったなと、ヤゴは作業用品に与えられる唯一の静寂を……彼が最も苦手とする「棺桶」の懲罰を思い出し、ふるりと身を震わせた。
――ああ、本当にここは棺桶と同じ。二等種にとって死の臭いしかしない場所だ。
けれど……怖いのは死では無く、その前に待つ苦痛だけ。
命を刈り取られること自体は、モノとして生きることしか許されない、虐げられるこさとを運命づけられた二等種には祝福なのだと、ヤゴは誰よりも強く確信している。
何の前触れも無くその祝福を、それどころか彼女であったありとあらゆる物を奪われた人が側にいるからこそ、その信念が揺らぐことは無い。
(……こんな形でも、最期を共にいられるのは……悪くない)
降って湧いたような災害のお陰で、彼女にも思いがけない形で命の終わりが訪れる……そんな予感に、ヤゴの心は場違いなほど途方もない安堵感に包まれていた。
「これで、良かったんだ」
不意に口を開いたヤゴを、イツコは不思議そうに見つめる。
何が、と問いかける瞳を見つめ返し、ヤゴは小さく口の端を上げた。
――ああ、笑うというのは本当に難しいものだ。
「こうでもしなければ……イツコ、お前はいつまで経っても壊れられなかったからな」
「ええと、ヤゴ……? どういう、ことかしら」
「お前は……もう、充分生きたと言っていた。それに壊れたら、イオナとあの世で再会したかったんだろう?」
「…………知らないわ、そんな名前も……情報も」
「ああ。知らないな。……『イツコ』の記憶は全て奪われたから、お前は知らない。けれど……俺は、全て覚えている。お前の性格も、交わした言葉も……そして、抱き続けた夢も」
作業も無いし暇だろう? 少し耳を傾けてくれと、ヤゴはこの9年あまり胸の中で大切に守り続けた「イツコ」の記憶を語り始める。
――かつてイツコには、慕っていた二等種がいた。
作業用品としてのイツコを指導してくれた……ヤゴにとってのイツコのような存在の女性で、まるで親子のような掛け合いをしていた二人が互いに伝えられない恋心を抱いていたことを知るのは、きっとヤゴだけだ。
(俺と同じだったからな、その想いは)
「……どうしたの?」
「え、ああ……何でも無い」
……己の気持ちを口にすることは無い。
この温かい気持ちを与えて貰えただけで十分だ、彼女の夢に水を差す必要は無いと、一瞬口ごもったヤゴを気遣うイツコに「問題ない」とヤゴはいつもの仏頂面で話を続けた。
「彼女」はずっと、夢が見たいと言っていた。
まだ人間として扱われていた遠い昔、良い子として生きてきたイツコの唯一の安らぎの時間は、12歳にして人間が持つありとあらゆる権利と共に、永遠に奪われてしまったのだ。
『夢の中ではいつだって自由で、穏やかで、楽しかったから』
どれだけ人間様に使われてもいい、反抗なんてする気も無い。
だから、あの時間だけは返して欲しいと……それが叶わない事を知っていても、彼女は最期まで諦められなくて。
「……夢…………」
「ああ。夢を見ること、それがお前の……イツコの願いだった。今の命では無理でも、生まれ変わればもしかしたら、なんて希望を抱くくらいには大切な、な」
「…………」
「なぁイツコ。今度生まれ変わるときには……お互い、お前が望んでいた夢が見られる命でありたいな」
ヤゴはじっと遠くを見つめる。
別に彼自身は、夢を見たいと思ったことは無い。そもそも夢という物がどんな物だったかすら、既に記憶は朧気だ。
もし夢が、棺桶で見る幻覚のようなものであるならば……それこそ記憶の底に永遠に沈んでいて欲しいトラウマを全力で掘り返されるのが夢だとするならば、今のようにスイッチをオンオフされるような睡眠で十分だとすら思っている。
それでも。
彼女と同じような命として生まれ変われるなら、夢を見られるようになるのも悪くない……そう考えるくらいには、ヤゴの想いは大きく、熱く、深い。
暫くピタリと止まって思案していたイツコは、少しだけ困ったような顔で「私には分からないわ」とヤゴに微笑んだ。
「それは『私』にはない記憶(データ)だから」
「……そうだな」
「けど、私の元となった……この身体の事を、あなたはよく知っているのね」
「あの日……イツコが初めての『大改修』で記憶を消された日に誓ったんだ。人間様のせいで奪われたお前の……イツコの記憶は、俺が壊れるその日まで絶対に忘れないと……」
「…………」
「いつかお前が自由になれる日が来たら、この希望をお前に突き返してやる、ってな」
「……それが、今?」
「ああ。……もうすぐだ、もうすぐお前は、自由になれる。やっと……紛い物の身体から解放される……」
こんなに早くこの日が来るとは思わなかったと、どこか感極まった様子で大きなため息をつく草色の少年を、イツコは知らない。
彼女にとってヤゴは、今朝初めて出会ったばかりの作業用品で、眠りに落ちれば知らない人に戻るだけの二等種に過ぎないから。
(…………なのに、どうしてかしらね。『あんた』の言葉は……どこか懐かしい)
初めて感じる、分析不能な胸のざわめきに首を傾げるイツコの口からは、自然と演算を伴わない言葉が漏れ出していた。
「……私達は二等種よ。人間様のただのモノでしかない、望みも希望も持っていてはいけない有害な存在なの」
「そう、だな」
「けど……ヤゴがずっと、私であった……『イツコ』の願いを握りしめてくれていたなら、きっとそれは、私の願いにしてもいいものだわ」
「っ……」
「ありがとうヤゴ、私の知らない、けれどきっと大切な人。……記憶は、確かに受け取ったわよ」
「…………ああ」
微笑むイツコから、ヤゴはふっと顔を逸らす。
このまま彼女の笑顔を見ていたら、何かが決壊してしまいそうだから。
再び部屋には静寂が戻る。
けれどそこには確かに、かすかな温かさと安らぎが流れていた。
◇◇◇
こんな状況でも規則正しく動くように加工された身体は、しっかり眠りへと誘われるらしい。
先程からイツコは隣で船を漕いでいるし、ヤゴも何度あくびをしたか分からない。
(……寝たくないと思ったのは、二等種になって初めてかも知れない)
この温かな時間も、眠りに落ちた次の瞬間には全てリセットされる。
暗転の次にやってくるのは、何年も唇を噛みしめ拳を握りしめながら繰り返した「初めまして」の瞬間だ。
だから、少しでも長く今の時間を味わいたくて、ヤゴは必死に眠気に抗い続ける。
(まぁ、そもそも『明日』は来ないかも知れないがな……)
先ほどから時折、ほんのわずかではあるが地面が揺れているような感覚を覚える。
これは眠気のせいでは無い。恐らく昼間の地鳴りと轟音、そして大量の瓦礫と土砂の襲撃は、まだ終わりを迎えていないのだろう。
となれば、眠りにつけばそのまま、瓦礫の下に埋もれてしまう可能性だって高いわけで。
そう思えば、ますますこの時間を失うのが惜しくなってしまう――
「今だけ……だから。すまない、イツコ」
ヤゴはすっと隣に座るイツコに近づき、うとうとしている彼女の右手をそっと握る。
と、びくりと身体が跳ねて、長いまつげがふるりと震え、ぼんやりしたヘーゼルの瞳が目を見開いたヤゴを捕らえた。
「…………まだ、寝ないの?」
「起こしてすまないな。そうか、もう寝る時間なのか」
「……今は…………22時45分よ…………同期していないから、ずれているかも知れないけれど……」
「そうか、イツコは時間も分かるんだな」
半分眠りの世界に足を突っ込んでいるイツコが、ふにゃりと笑う。
……この笑顔を見られるのも、これで最期かも知れない。
そんな思いが胸を過った瞬間、あれほど後悔し続けた言葉が、するりとヤゴの口から滑り落ちる。
そう。
あの日言えなかった言葉を、今こそ――
「…………そうだな、もう寝るか。おやすみ……そして『さよなら』イツコ……」
遅くなってすまないと、心の中で謝りながらヤゴが瞳を閉じかけたとき、隣から聞こえたのは、か細い……耳を澄ましていないととても聞こえなかった、イツコの最期の言葉。
「…………ええ、お休みなさい、ヤゴ。どうか『安らかな』夢を」
「……!! っ、ああ…………!」
『お休みなさい。どうか、生きている間には叶わなかった……安らかな夢を……』
あの日……イツコの想い人が棺桶の中でその命を散らし、亡骸をこの部屋で処分した去り際。
独り言のように、けれど固く閉じた焼却炉に向かって呟かれたその言葉が、鮮明にヤゴの中に蘇る。
(……イツコだ…………俺は、イツコに記憶を、希望を返せた……!!)
ああ、今の彼女はありとあらゆる所を交換された、ただの人形だ。
それでも……例え一欠片であったとしても、確かにイツコはここに、残っていたのだ……!
共に眠りに落ちるヤゴの瞳から、堪えきれなかった大粒の涙が、ひとつ、またひとつと、頬を伝って零れ落ちる。
――けれども、浴び慣れた懲罰の痛みは、ついぞ訪れなかったのである。
二人が深い眠りに落ちた後、再び轟音が世界に鳴り響く。
そして次の瞬間、処分室のドアは吹き飛ばされ、二人の身体はあっという間に土砂に飲み込まれてしまう。
(……イツコ、俺は約束通り、最期まで全力で生きたぞ)
彼らの知らぬ所で分かたれていた世界が、一つに統合される。
――命を刈り取られる瞬間ヤゴの胸に去来したのは、彼女の記憶を守り抜いた深い達成感だった。
◇◇◇
軽快なメロディーが、どこか遠くから聞こえてくる。
意識はいつものようにふわりと浮上し、柔らかな光がカーテンの隙間から差し込む部屋で、矢郷はそっと瞼を開いた。
滲んだ景色の向こうに見えるのは、見慣れた天井。
ほどよい硬さのマットレスと、お気に入りの柔らかなブランケット。ふわふわの枕の向こうからは朝を告げるアラームが鳴り響いていて、手探りでボタンをぽんと叩けば、部屋の中は静寂に包まれた。
「……っ、イツコ…………」
ずずっと聞こえるのは、己が鼻を啜った音だ。
起きたばかりだというのに、胸は締め付けられるように切なく、なのにどこか不思議な安堵感と達成感に満たされている。
物心がついてから、一体何度こんな朝を迎えたことだろうか。すっかりお馴染みとなった筈なのに、胸に残るどうしようも無い悲しさは、いつだって新鮮なままだ。
「……いつもの夢か」
そっと目元を拭えば、また涙が一粒、ポロリと零れ落ちる。
感傷に浸っていたいのはやまやまだが、今日もタスクは満載だ。さっさと起きて階下の様子も確認しなければと、矢郷はベッドから足を降ろす。
一糸まとわぬ小柄な身体の中心、へその下には「379M085」の管理番号と、その下に大きなXの刻印が刻まれていた。
◇◇◇
ここは行政区機9、エリア28の高級住宅街に建つとあるマンション。
矢郷はこのマンションのオーナーであり、最上階のワンフロアを自宅兼職場としている。
一人で住むには大きすぎる家だが、突然発生する同居人に対応するにはこのくらいの方がいい。
それに、自分はもう、独りでは――
「♪~」
シャワーを浴びようと足を踏み出した途端、机の上のスマホが賑やかに音を立てる。
この着信音は碌な事が無いやつだ、とあまり表情の無い顔をしかめつつ、深呼吸を一つ。
(大丈夫だ、落ち着け)と何度か言い聞かせて、矢郷は着信ボタンをタップする。
当然、通話はスピーカー越しだ。こんなものを耳に当てて話すなど、油断したらその場に土下座しかねない。
「……はい、矢郷です」
「おう、起こしたか? すまんな」
「いえ……さっき起きたところですから」
声の主は、このエリア28を牛耳る黒狼組の組長――有り体に言ってしまえば極道というやつのドンだ。
弱冠29歳にして組の跡を継いだこの男は、自分と同じCIMS特性保持者だというのにそんなところを微塵も感じさせない迫力を纏っている。
まぁ、彼は嗜虐的な気質を持つD型で自分は嗜虐にも被虐にも振れないN型だから、仕方が無い話ではあるのだが……どうにもこの男の声は、命令で無くとも地に跪きたくなるのが厄介だ。
(しかしこんな朝から……絶対何かを押しつけられるな……)
で、何か用ですか? と矢郷が尋ねれば、組長は幾分すまなさそうな声色で「いや、警察からの依頼でな」と話を切り出す。
――うん、その段階で厄介事なのは確定だ。
脳裏に、あのやる気の無さそうな大柄な警察官の姿が過り、矢郷は思わず心の中で(世話できないんだから拾うなよ……)と全力の突っ込みをかましていた。
「首都でな、警察が双子のCIMSを保護してうちに持って帰りやがった。今はうちの保護施設で一時預かり扱いだ」
「……一応確認しますけど、また本部長ですか?」
「大当たりだ。というか、こんなことをするのはあいつしかいないだろう! ったくあのおまわり、政府の犬の癖に何でもかんでもすぐ保護してしかも全部こっちに押しつけやがって……」
全くだと、矢郷はがっくり肩を落としながら戸棚からパウチを取り出す。
ゼリー飲料の容れ物に似たアルミパウチには「CIMS-NF シムリードバランス」と書かれていて、それがCIMS――先天性刻印斑症候群の患者向け療養食であることを表していた。
パキンと蓋を回して口に咥えパウチを握れば、顎の力の無い矢郷でも食べやすいつぶつぶがたっぷり入ったペーストがにゅるりと出てくる。
今日はイチゴ味だな、ともぐもぐ口を動かしていれば「で、相談なんだが」とスマホからはこれまたいつも通りの依頼が飛び込んでくるのだ。
「この双子、お前の所でなんとかなるか? 今、未訓練のやつを二人まとめて受け入れられそうな後見人の空きがねえんだ。スクリーニングと、恐らく基本的な訓練で2週間くらいはかかるから、今すぐって話じゃねえんだが」
「むぐ……ふぅっ……何とかなるも、何とかするしかないでしょうよ」
「いつもすまねえな、今度あのクソおまわりに奢らせようぜ」
「それ、最後は俺が奢ることになるんで勘弁してください」
まったくアイツの脳みそはどうなってやがる! とひとしきりこの自治区域に左遷された警察本部長の悪口を喋り倒し、組長は「んじゃ、情報は送っておくわ」と通話を切った。
「……ありゃ、近いうちに飲み会確定だな……はぁ……」
彼らと飲むのは嫌いでは無いが、一番食が細いのに一番羽振りがいいからと言う理由で毎回奢る羽目になるのはどうにかならないものかと頭を抱えながら、しかしCIMSの自分が断れるわけも無いと諦め半分で、矢郷は排便補助具を持ってトイレへと向かうのであった。
◇◇◇
矢郷叶人(やごう かなと)、29歳。
先天性刻印斑症候群(CIMS)N型の特性保持者でありながら、社会的に成功を収めた希有な例として有名な、草色の髪と藤色の瞳を持つ彼の生い立ちは、政府直轄地生まれのCIMS特性保持者に比べれば随分と幸せなものだろう。
黒狼組が取り仕切る自治区域の北側に隣接する広大な自治区域で生まれた矢郷は、生まれてすぐに孤児院に預けられた。
ミラード・コア財団という国内最高峰の企業連合が支配するこの地域では、CIMS保持者の子供は幼少期から手厚い医療と専門教育を受けることが出来る。
そんな中である日プログラミングに出会った矢郷少年は、すっかりその魅力に取り憑かれ頭角をめきめきと表した。
CIMS保持者であろうが、才能のあるものには惜しみない援助を――
自治区域の理念のお陰でその才能を存分に伸ばした矢郷は、わずか19歳にして現在世界中に普及するEmotionarized-AI、すなわち感情をもつAIシステムの元祖である『ITSUKO』を世界に向けて公開する。
そしてこの特許や使用料のお陰で、生涯遊んで暮らせる収入を得られるようになったのである。
直後に起こった大災害、そしてひょんな事から知り合った組長に引き抜かれる形で黒狼組自治区域へと移住した矢郷は、『ITSUKO』の開発を続けつつ、移住してきたCIMS保持者の保護・自立支援活動に携わっている。
高級SMクラブを立ち上げたのも、元はと言えば初めて保護したCIMS持ちを何とか自立させるための苦肉の策だったそうだ。
彼らの支援を通じて出てきた問題を、自分の専門分野で、時には奇抜な手法で解決する――その一風変わった取り組みは、国内外で高く評価されているらしい。
……本人としては、振り回されるままに動いていたらこうなっただけなので、あまり実感はないようだが。
「はあぁ……あいつはまたやらかしたのか……ったく、トシがバカナツ呼ばわりするのも気持ちはよーく分かるぞ……今夜は呼び出して説教だな」
スマホに届いていた顧客からのクレームに、矢郷は本日二回目の盛大なため息をつく。
……まったく、ここに来てからは多忙すぎて朝の夢をじっくり味わう暇さえない。
出来ることならもっとあの夢を鮮明に思い出して、ITSUKOを更にグレードアップさせたいのに……と愚痴りつつ、矢郷はデスクトップの電源を入れた。
◇◇◇
矢郷には、誰も知らない秘密がある。
それは、明らかに夢として片付けるにはおかしい奇妙な「夢」の存在だ。
物心ついた頃には、既にその夢を見ていたように思う。
夢というのは起きてしまえば不思議と忘れてしまうことが多いのだが、この特別な夢だけはいつも彼の記憶の片隅に残り、どうしようも無い悲しさと安堵感をもたらすが故に、小さい頃はどうしていいか分からず、布団の中で何時間も泣き続けていた記憶がある。
夢は決まって、薄暗い部屋から始まる。
リノリウムの床に白い壁、白い天井の部屋に閉じ込められた「ヤゴ」と呼ばれる裸の自分は、なぜかおちんちんが象の鼻のように太く長くて――後にそれは勃起しているのだと知ったが、それにしたって化け物じみた大きさなのだ――なんだかじんじんむずむずする中、隣に座っているこれまた裸の綺麗な女性と話をしているのだ。
「ヤゴ」は、その「イツコ」と呼ばれる少女に恋をしていた。
最後の最後まで片想いだったけれど、彼は告白をしようとは思っていなかったようだ。
二人とも分厚い金属の首輪をつけ、手足には大昔の罪人のような入れ墨が入っていたから、多分彼らは奴隷だったのだと思う。それも、ご主人に貢ぐための奴隷を作る、奴隷……なんて可愛そうな身分なのだと、後からいつも思ったものだ。
ヤゴとイツコはいつも、その殺風景な部屋で他愛ない話をする。
話の内容はその時によって異なるが、二人は奴隷だから夢が見れなくて……イツコはいつか夢が見られるようになりたいと、いつも少し寂しそうに話していて。
そして、夢の最後には決まって同じ言葉を交わし、夢だというのに眠りに落ちるのだ。
『さよなら、イツコ』
『おやすみなさいヤゴ、どうか安らかな夢を』と――
◇◇◇
「あれは、何なんだろうな」
矢郷は独りごちながら下着を身につけ、簡素な服を纏う。
「仮にも世界的に有名なエンジニアで経営者でもあるんだから、身だしなみには気を遣えよ」と組長にはいつもぼやかれるけれど、そもそも服を着るのは苦手なのだ。最低限、お巡りさんを呼ばれない身なりであれば問題ないと、常々思っている。
「これは……夢と同じだし」
姿見に映る自分の下腹部に刻まれているのは、己がCIMSであることを示す刻印斑。
その紋様は、夢に出てくる「ヤゴ」が持っていたものと全く同じに見える。腰に残るアザも同様だ。
CIMS保持者の刻印斑は古代文字の類に似ていると、以前とある考古学者から聞いたことがある。
解読すれば未だ原因の分からないCIMSの全容解明に役立ちそうなのに、皆早々に切除してしまうお陰で研究もままならないとその学者は嘆いていたが、それは仕方の無い話だ。
この刻印があることで損をすることはあれ、得をすることなど一つも無いのだから。
それでも矢郷がこの刻印斑を切除しないのは、ひとえにあの夢を失いたくないから。
刻印斑が無くなっても夢は見るのかも知れないが、矢郷にとってあれは大切な……初恋であり今でも想い続ける彼女の、唯一の手がかりなのだ。余計なことをして失いでもしたら、向こう3ヶ月は立ち直れない自信がある。
とは言え、自分は学者では無い。
この刻印斑に意味があろうが――間違いなくあるとは思うが――仮にそれが自分の前世であろうが、そんなことはどうでもいい。
矢郷にとって大切なのは、そこに「イツコ」がいること。そして「イツコ」は、いつだって夢を見ることを願い続けていたということだけ。
――そう、幼い矢郷少年の心に刻み込まれ、彼女の願いを叶えるためだけにプログラミングの才能を開花させてしまう位には「イツコ」はずっと矢郷の真ん中に居続けている。
昔から、ずっと。
そして、今も、これからも――
《Emotionarized-AI ITSUKO 起動中です。暫くお待ちください……音声データをダウンロードしています……》
進捗を表すバーが少しずつ伸びていく。
《起動します》の音声と共に、デスクトップの隣に設置された縦長のホログラム投影機に、少女の姿が映った。
栗色のストレートヘアを胸まで伸ばし、ヘーゼルの瞳を持つ美少女。
柔和な微笑みを湛えた彼女は、白いブラウスに黒のジャケットを羽織り、落ち着いたピンクのフレアスカートを纏って、ゆったりとホログラムの椅子に腰掛けている。
すっと矢郷の方に視線を向けた少女はどこか嬉しそうな声色で《おはよう、ヤゴ》と話しかけてきた。
《今は2364年2月11日、9時32分よ。……あら、朝からお疲れかしら?》
「おはよう、ITSUKO。いや、それが……組長が保護依頼をしてきてな。すまない、2週間後には双子のCIMSがうちにやってくる」
《分かったわ、情報を送ってくれれば初期訓練プランを組んでおくわね。それにしても、ふふっ……やっぱりヤゴは苦労人ねぇ》
「はぁ……せめて断れればいいんだが、組長の圧はどうも苦手でな……」
《あのお巡りさんにだって逆らえないじゃ無いの。まったく、ヤゴは可愛いんだから……はぁっ、ねぇ……ちょっといいモノを見つけたから購入して着けてみてくれない? あ、3Dプリンタで生成も出来るわよ》
「いいもの? …………っ!! ちょ、勘弁してくれ! 俺はS型じゃ無いんだ。チンコはITUSKOを抱くために使うのであって、押しつぶして管理される気は無い」
《あら、残念ね。これを着けて苦しそうにオナホに腰を振っている、無様なヤゴを煽って楽しみたかったのに》
目の前に提示された商品――銀色に光る製品は以前店で見たことがある。確かフラット貞操具という、性的に奔放なCIMSに取っては拷問のような器具だ――の購入を即時却下した矢郷の目の前でちょっと不服そうに頬を膨らませる少女は、夢の中で見るイツコそっくりのホログラム。
――その佇まいも、声も、性格すらも――全てはヤゴの隣にいた少女を再現したい、いや、彼女をこの世界に連れてこなければならないという使命感に駆られた矢郷により生み出された、彼の恋心の結晶……世界初の感情搭載AI『ITSUKO』である。
……にしても、最近では日に日にITSUKOの嗜虐性が……というか矢郷相手にだけやたらそういうプレイを提案するようになってきているのは、気のせいなのだろうか。
(おかしい、俺はITSUKOと結婚して、穏やかな家庭を築いて、ついでにいちゃラブえっちがしたいだけなのに……どうしてこうなった……?)
そんなプログラムは入れていないはずなのにと首を傾げるも、自律的に学習し新たな感情を取得すること自体は好ましい変化だと、矢郷は分析タスクをスケジュールアプリに放り込む。
そうして自身も、ホログラムの前にある椅子にゆったりと腰掛けた。
スマホもPCも、あらゆる通知は切ってある。SMバーのスタッフにも、毎朝9時から10時は何があっても連絡を入れるなと厳命済みだ。
――この時間だけは、誰にも邪魔させない。
これはITUSKOを開発した最大の目的であり、彼女の願いを叶える瞬間だから。
ITSUKOをベースにしたAIプログラムは、世界中の至る所で利用されている。
矢郷自身も最初のリリースから10年、ITSUKOのバージョンアップは定期的に続けているのだが、彼女には配布されるプログラムには決して含まれない、しかしオリジナルには初回リリース時から含まれていた独自の機能が存在している。
それは、膨大な基礎データに夢から得たありとあらゆるITSUKOの――正確には「ヤゴ」が記憶していた記録、そして日々の利用履歴などから「夢を見る」機能である。
プロトタイプのITSUKOを矢郷が完成させたのは15歳の時だったが、このとき既に実装されていた機能は、あれから定期的に行われるバージョンアップと、矢郷が執念で今も掘り起こし続けている夢の中の記憶を追加することにより、今では普通の人間が見る夢と遜色ないデータを出力するようになっていた。
(俺はエンジニアだから、こんな形でしか夢を叶えてあげられないけど)
(けど……夢を見られる命として、お前はこの世界に生まれてきたんだ、イツコ)
憧れから始まった恋心、どうしようもない喪失から芽生えた約束と誓い、今際の際に生まれた願い……
全てはこの統合された世界において、完全な形では無かったかも知れないけれど、ようやく実を結んだのである。
だから矢郷の朝は、毎日彼女が見た夢を尋ねることから始まる。
昨日も、今日も、明日も、明後日も……彼らなりの幸福な時間は、この命が潰えるまで、ずっと続くに違いない。
矢郷は生まれてこの方誰にも見せたことが無い優しい笑顔で、そして幸せそうな声でいつもと同じ言葉を紡ぎながら、目の前で微笑む愛しい人にこの言葉を問いかけられる幸せを噛みしめるのだった。
「改めて……おはよう、イツコ。今日の夢はどうだった?」