沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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1話 なり損ない

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 世界が夜と季節を忘れ、栄華を振るった人類のほとんどを排除したあの日。
 なり損ないであるが故に生き残った自分は、物語の主人公のような成長を得ることも無く――ただ死ねないから生きているだけの、残念な存在から抜け出せないままだ。

「ようファレン、今日は随分ゆっくりだな」
「こんにちは、マヌおじさん。今日は見回りが来なかったからかな、寝坊しちゃってさ」
「ん? もしかして、まだ時計を持ってないのか? 馴染みの奴らにねだっちまえよ。陸でも使える時計は高価だが、お前さんの為なら奮発する奴はいくらでもいるだろうて」
「んー……そだね、考えておくよ」

 太陽が消えたのに空から降り注ぐ光は変わらず柔らかく、潮の匂いを運ぶそよ風が肌をくすぐる、いつもと変わらない昼下がり。
 ファレンと呼ばれた青年は、気の良い門番達と言葉を交わし街の中へと足を踏み入れた。

「時計、か……どっちかというとスパム以外の食料の方がありがたいんだけどな……」

 164センチの小柄な体躯に腰まで伸びる艶やかな黒髪、整った顔立ち――十人が十人女性と間違うような出で立ちながら、その声は不釣り合いなほどに低い。
 ファレンは海のような青を基調とした露出の多い和装をひらめかせながらそっとひとりごち、目的の宿屋へと向かう。

 時計のリズムと人間が本来持っている生活リズムが異なるだなんて、こんなことにならなければ知ることも無かっただろう。
 この仕事のためには、門番の言うとおり客に時計を強請った方がいい……それは分かっていても何となく後回しにしてしまうのは、滅びゆく「旧人類」としての役にも立たないプライド故だろうか。

「……考えても飯は食えない! さっ、仕事仕事!」

 ふと心に差す沈鬱な影を振り払うように、ファレンは頭を振って声を出し、慣れた温和な笑顔を作って気持ち宿屋に向かう足を速めた。


 ◇◇◇


 ファレンが海沿いの街に流れ着き、絶対的脅威であるはずの彼ら――新人類に住まいと食料を与えられ春を売り始めてから……もうどのくらいになるのだろうか。
 明るさも温度も何一つ変わらない世界で時の移ろいを感じるのは、存外難しいものである。

「初めて陸に来られた方は、こちらで登録を――」
「いらっしゃい! 今朝仕入れたての商品だよ、見ていっておくれ!」
「調査用装備と携帯食は……おい、水を忘れてるぞ! さっさと汲んでこい!!」

 大規模な遺跡に隣接し調査団を迎える玄関口でもあるこの街は、いつだって大勢の人で賑わっている。
 そのほとんどは働き盛りの元気な男達で――つまり、当面仕事に困ることは無さそうだ。
 お陰で食べ物にもありつけるし、貧窮した集落の連中とは違って扱いも丁寧。これほど恵まれた状況で贅沢を言えば、罰が当たるに違いない。

 ――そう、死ねないから生きているだなんて、間違っても口にしてはいけないのだ。

「そこのお兄さん、帰任かい? 陸土産にひとつどうだい?」
「ん、そうだな……俺、女房が喜びそうな陸の物っていまいちよくわかんねえんだよな……」
「これなんかいいんじゃないか? 丸くてキラキラした飾りがたくさんついてる、しかも軽いときたもんだ」

 道中、ファレンが傍らからかかる声のほうをふと見やれば、毎月恒例の土産物市が開かれていた。
 ずらりと机に並べられているのは装飾品のようだ。おおかた、近くの遺跡――旧人類のかつての住処から仕入れたものだろう。

(あれは……数珠? いや、ちっちゃい子がつけるようなヘアゴムか。綺麗で海に持ち帰れるなら、宝石でもプラスチックでも価値は変わらないって言ってたっけ……)

 店の前には何人もの男が群がり、商品を品定めしている。
 真剣な顔をして遺跡から発掘した……明らかに子供向けとおぼしき装飾品を眺めている若者は、きっと任期を終えてこの地を去る前の土産を探しているのだろう。

(……家族、か)

 どこか嬉しさを隠しきれない男の様子に、ファレンの胸がずきんと痛む。
 彼らと自分は、どれだけ似通った風貌でも「違う」種族なのだと突きつけられたようで、ファレンはそっと視線を外した。

 そう、あの顔を向けてくれた人達はとうには砂と成り果て、そして自分があの顔を作れる未来は……永遠に来ない。
 逃れられない事実を見つめて更に傷を抉ることを良しとするほど、自分は狂ってはいない筈だ、多分。

「こんにちは、ヌクアさん。遅くなってごめんなさい」
「あらーいらっしゃいファレンちゃん! 大丈夫よぉ、みんなファレンちゃんのためなら何時間だって待ってるから」

 市のあるエリアを抜け、街中でもひときわ大きな建物の扉を開ければ、受付の女性がファレンの姿を認めるなり満面の笑みで迎えてくれた。
 こざっぱりとしたショートヘアの……年の頃は四十過ぎだろうか。胸と腰だけを簡素な皮で覆った姿は、いつまで経っても見慣れる気がしない。

 いつも溌剌としていて面倒見の良い宿屋の女主人は、何度言ってもファレンのことを「ちゃん」づけでしか呼ばない。
 確かに彼女と比べれば背丈も随分低いし、どこか幼さの抜けない顔では庇護欲が出てしまうのも仕方ないのだろうが、こちとら既に二十歳なのだ、せめて「君」づけに昇格して欲しいものだ。

「お、ファレンが来たか!」
「待ってましたぜ、我らが姫君!!」

 ヌクアの大きな声が聞こえたのだろう、奥のサロンで寛いでいた荒くれ男達がどかどかと受付にやってくる。
 早速「今日は俺からな」「いや俺が一番だって昨日約束したんだ」と小競り合いを始めたお調子者達にはヌクアの容赦の無い拳骨が落とされ、それを横目にファレンは男達に囲まれてサロンの真ん中に設えられた通称「姫様特等席」へと腰を下ろした。
「ごめんね、遅くなって」とにっこり微笑めば、取り囲む男性陣から歓喜のため息と奇声が上がる。

「はあぁ……姫は今日もお美しい……」
「全くだ、噂には聞いていたがこれほどの美貌とは……思いきって陸の調査団に志願して正解だったな」
「ファレン、今度写真を撮らせてはくれないだろうか? 海で待つ仲間達に是非お主を見せてやりたくてな」
「いいですよ、対価は……あーそう言えば、さっき門番さんに時計を持った方がいいと言われたんですよね……」
「時計か! いいぞ、陸でも使えるものを今度持ってこよう!」

 ファレンを取り囲みやいやいと褒め称え、時折天を仰いだり「尊い……」と魂が抜けかけていたり。
 推しへの反応は種族を超えるのかも知れないと、ファレンは笑顔の下で物思いに耽りながら彼らの肩口にちらりと目を移す。

 群がる男達の全てが持つ、腕の付け根の辺りから首に向かって、鎖骨の上に走る肉の切れ込み。
 このエラこそが、ファレン達のような陸に住む「旧人類」と、海と陸どちらでも生きられる「新人類」を分かつ証だ。

 誰もが短髪で大事なところ以外を覆わない開けっぴろげな姿なのと、時折エラを水で湿らせる必要があること以外は、それほど見かけに差は無い。
 ……とはいえ、陸と海の文化格差が埋まる日は来ないだろうし、来なくても良いとすら思っている。
 そもそも何千年も海の底をねぐらとしてきた彼らは、陸の人類とは異なる常識で生きていて、そしてそれ故にファレンは今ここでちやほやされているのだから。

「それにしても、実に素晴らしい髪だな……まさに天上の神秘、海藻の化身と呼ばれるに相応しい……」
「あはは……ありがとうございます……」
「こら! 対価も払わずにファレンちゃんに触れちゃだめだよ、このエロじじい!!」
「ってぇ!!」

 取り巻きの一人が、うっとりとした顔で称賛を口にする。
 そうして思わず頭に伸びかけた手は、案の定ヌクアによりもの凄い勢いではたき落とされた。
 周囲からも「お前な、真水で手を清めずに触れようとしただろ!」「この罰当たりが! 姫が穢れるではないか」と散々な言われようだ。
 終わる気配の無い非難を「まあまあ」と窘めながら、ファレンはちょっとだけ寂しさを覚える。

(俺、これでも集落では可愛いって言われていたんだけどさ……いや、新人類の美的感覚がずれてるのは知ってるけど、ちょっと傷つくなぁ……)

 ――そう。
 彼らの美の対象は、あくまでもファレンの顔ではなく、黒くてコシのある髪である。
 それも単なる美とか推しとか、そう言う可愛らしいレベルでは無い。彼らの髪への感情はもはや信仰だ。
 旧人類でもここまでの髪フェチは、早々お目にかかれるものではないだろう。

「大丈夫、ファレンちゃん? 私の見てないところで、このバカ共にこっそり手を出されてない?」
「あ、だ、大丈夫です。皆さんちゃんとルールは守って下さってますから」
「なら良かった。ほらあんた達、ファレンちゃんとしっぽり過ごしたいならさっさと受付に来な! 今日はあと七人までだよ、ファレンちゃんの帰りが遅くなっちゃうからね!!」

「全く、礼儀のなってない!」とぷんぷん怒りながらもヌクアはファレンを気遣い、様子を確認する。
 彼女達新人類からすれば、これは慈善事業に近いとは言えあくまでもビジネスだ。対価を渡す以上、仕事はきっちりこなして貰わなければならないといったところか。

(……人情がありそうで、意外とドライだよな、新人類は。……ま、それが俺にはありがたいんだけど)

 やがて問題ないと判断したのだろう、ヌクアが窓際に座っていた男性に向かって「いいよ、リトクワ」と声をかけた。
 柔和な、けれどどこか興奮を浮かべた表情でこちらにやってきたのは、週に一度はファレンを買いに来る馴染みの中年男性だ。

「久しぶりに私が一番乗りだな、ファレン。いや、姫がのんびり来てくれたお陰で間に合って良かった」
「ふふっ、いつもありがとうございます、リトクワさん。……じゃ、行きましょうか」

 ヌクアから鍵を受け取り、ファレンはそっとリトクワの手を握る。
 その視線は相変わらず流れるような黒髪に注がれていて、今にも髪に顔を埋めそうな様子に(どれだけ待てないんだよ、おっさん)とファレンは思わず苦笑いを零した。

「大丈夫ですよ、そんなにがっつかなくても俺は逃げませんから」
「う、うむ……はぁ、ワカメの姫の前ではどうしても興奮が抑えられぬ」
「!! ちょっリトクワさん、部屋に入るまではワカメは禁句ですよ! またここで戦争を起こして、ヌクアさんに出禁食らいたいんですか? ほら、早く上に行きましょう!」

(ああもう、舞い上がりすぎだよおっさん!! 週一で通ってるんだからさ、そろそろ慣れようよ!!)

 折角の仕事の時間を、彼らの真剣な――ファレンにとっては実にどうでも良い争いで邪魔されては堪らない。
 まだまだ賛美の言葉を浴びせ足りない様子のリトクワを窘めつつ、ファレン達は慌てて二階へと階段をかけ上がるのだった。


 ◇◇◇


「いやぁ、白い布の上で乱れる髪は実に見目麗しい! 海では決して見られない光景だからな、いつもながら神々しさで天に召されそうになったよ」
「流石に腹上死は勘弁して下さいよ。あと、あんまり長引くとヌクアさんにどやされるんじゃ……」
「なに、もう三十分だけなら問題ない、な?」

 ……確かに、子供の頃から髪の美しさには自信があった。
 整った顔立ち故に幼少期から外見だけは褒めそやされることの多かったファレンだが、特に髪は同級生の女子から随分と羨ましがられていた覚えがある。

 だがいくら美しいと褒めそやされても、形容する対象が海藻なのは正直解せない……と、ファレンは毎度ながら複雑な気持ちを抱きつつ、今日も床にいる倍以上の時間を椅子に腰掛けて過ごしている。

「……俺が女ならもっと、床でも楽しませてあげられたんでしょうけど」
「なに、皆十分満足しているといつも言っておるであろう? そもそも、我々のような自由に性別を変えられる者が存在する『人類』に性の区別など、些細なことにすぎぬからな。それより」
「髪の方が大事、と」
「分かっているなら良い。今日も帰りにしっかり洗って行くのだぞ?」

 リトクワはと言えば、スッキリした様子で……しかしまだまだ足りないと言わんばかりに遺跡で拾った櫛を手にし、延々とファレンの髪を梳いている始末だ。
 どうやら彼は今日も、ヌクアが痺れを切らして部屋に怒鳴り込みに来るギリギリを狙う魂胆らしい。

(……まあ、リトクワさんは櫛を通すだけだから、俺にとっちゃ上客だけどな。中にはとんでもない愛で方をする御仁もいるし……)

 時間超過の常習犯である分対価ははずんでくれるし、身体の負担も少なくては助かるのは事実だから、ファレンとしてもあまり強く言う気は無い。
 正直、全ての客がこのパターンだと助かるんだけどなと思いつつ身を任せていれば「それにしても」とため息を漏らす音が後ろから聞こえる。

「これほど美しい髪を、コンブに例えるなど全く許し難い……いや、コンブとて神聖なる天上の海藻なのは分かるが、姫の髪はこう……なんか違うであろう!? 全くコンブ派の奴らは、高貴なる姫の御髪を何も分かっておらん!」
「もう、『第四次ファレンの呼称大戦』はワカメ派の勝利で決着したんだから、いいじゃないですか。だめですよ? 間違ってもコンブ派と街中で乱闘しちゃ。俺、優しいリトクワさんが好きだなぁ」
「むう、ファレンがそういうなら仕方ないが……ちょっと失礼」

 興奮してエラが乾いてしまったのだろう、リトクワは髪を梳く手を止めるとベッドの脇に置かれた器から海水を掬い、肩口にぺたぺたと塗りつけた。

 新人類――エラ呼吸と肺呼吸の両方の機能を備え深海を拠点とする、所謂水陸両用の人類である彼らにとって、海藻とは空(まあ、深海から見れば水面近くは空なのだろう)を揺蕩う神秘の羽衣なのだという。
 お陰でファレンの客達は、いつも事を終えればさらさらの髪を愛でながら海藻への熱い想いを語るものばかりだ。
「大人になったら行ける」場所への憧れは、ファレンとて分からなくは無い。自分もかつてそんな憧憬を抱いていたっけなと……少しだけ虚しさを覚えるけれど。

 ただ、それにしてもファレンの周りにやってくる男達は、少々憧れを抉らせすぎていると思う。
 大体ワカメもコンブも海の中で揺れてることに変わりは無いじゃないか、何なら美味いし……というのがファレンの本音だが、それを口にすることは無い。
 かつての平和な世界で旧人類のオタクと称されていた連中も、些細なことで地雷を踏まれては鬼の首を取ったように相手を炎上させていたのだ。
 まして、彼ら新人類の常識は自分達とは違う。下手なことを言えば、ファレンの命などすぐに消し飛ぶに違いない。

(……そう、死にたいなら言っちゃえばいいのにさ)

 結局、いつまで経っても自分は中途半端な「なり損ない」のままだ。
 こんな男とも女とも分からぬ姿で、生きる気力も無いのに彼らとひとときを共にし、生きる糧を得ているだなんて――

「……ファレン」
「あ、ごめん。……大丈夫、何でも無いから」

 ふと手を止めたリトクワの気遣う声に、ファレンはいつもの笑顔で「気にしないで」と微笑んだ。
 何を願い、また思い煩ったところで、未来は変わらない――そんな諦めを隠しきれないまま。


 ◇◇◇


「ファレンは、海から陸が上がる前には何をしていた? 確か、まだ子供であったのだろう?」
「あー……男の娘になろうとしてましたね」
「おとこの、こ……?」
「なんて説明したら良いかな、ある意味今と変わらないっちゃ変わらないんですけど……俺、魔法はさっぱりだから高校に進学なんて出来なかったし。折角だからこの顔を活かして、男の娘になってSNSとか配信とか使って稼ごうと準備してたんです」
「むむ……旧人類の仕事は実に珍妙なものだな……」

 リトクワが長々とファレンを独占しても多少黙認されているのは、決して彼がお得意様だからだけではない。
 陸で働く新人類の大半は、水底の国から派遣されてきた様々な分野の専門家集団である。
 その中でも彼は遺跡と呼ばれる旧人類の街では無く、旧人類の生態調査をするために陸へとやってきたのだそうだ。

 言葉が通じるだけで無く、自分達を見てもパニックになったり襲いかかったりしてこない旧人類は非常に貴重なのだと、漸く髪を梳き終えた彼はバッグから小さな機械を取り出す。
 石と貝殻と、ファレンの知らない謎の物質で作られたボイスレコーダをテーブルに置くと「気持ちの良いものでは無いだろうが」と前置きして、リトクワはあの日のことを――ファレン達の世界に突如発生した所謂「終末」の話をして欲しいと切り出した。

 一瞬、リトクワのされるがままに寛いでいたファレンの動きが止まる。
 ややあって彼は床に視線を落とし、抑揚のない声で「……初めてですね、あの日のことを話すのは」と零した。

 ――うっすらと笑みを浮かべたままのかんばせからは、彼の本音は窺い知れない。

「……我々人類に慣れないうちに、無理矢理聞き出す話ではないからな。ああいや、辛いなら無理にとは言わないが」
「いえ、大丈夫です。そうだな、あの日は……自分の部屋にいて。で、いつもなら晩ご飯が出来たら下から母が呼ぶのに、その日はいつまで経っても呼ばれないなって……下に降りていったら、もう、みんな」

 砂になってたんです――
 そう噛みしめるように口にしたファレンの声は、酷く掠れていた。


 ◇◇◇


 この星は、何千年にも渡り魔法文明を極めた人類によって統治される平和な世界、の筈だった。
 歴史上、国同士の諍いは時々起こっていたけれど、ファレンの住む国は平和そのもので裕福な国だったから、余計にそう思うのかも知れない。

 確かに全人口の一割にも満たない、魔法の素養が著しく低い者――通称「人間のなり損ない」に関しては、義務教育後の進学や一般企業への就職、その他ありとあらゆる選択肢が奪われてはいたけれど、それでも食うに困るようなことは無くて。
 自由な生活を謳歌する人々の片隅で時折己の生まれを呪いつつも、なんだかんだ好きに暮らしていたと思う。

 それが……一体何がきっかけだったのかは、今でも分からない。
 一部の地域で発生した戦火が飛び火して爆撃が起きたとか、地震や洪水といった災害に襲われたとか、物語にありがちな分かりやすい兆候は何一つなく。
 ただある日突然、人間だけが砂のようにさらさらと……静かに崩れてしまったのだ。

「慌てて外に出たら、服が埋もれた砂の山が、あちこちにあって……散歩中だったのかな、リードが繋がった犬がその傍で吠えてたっけ」
「砂になったのは、陸の人間だけ?」
「そうです。俺も人間以外が砂になっているのは見ていないし、集落にいた人たちも同じ事を言っていました。……魔法の素養が高かった人から順に、半日くらいかけてどんどん砂に変わっていったって」

 異変に気付いて悲鳴を上げる暇も無く、一瞬にして崩れてしまう身体。
 死を悼むよりも先に、次は己かと恐怖に陥り自室に籠もって震えていた長い夜を……そしてベランダから呆然と眺めた最後の朝日を、ファレンは生涯忘れることは無いだろう。

 結果としてこの奇妙な現象は、人類の九割をこの世界から消滅させてしまう。
 不思議なことに、社会のお荷物と疎まれていたファレン達のような存在だけが、砂化を免れたのだった。

「あちこちから車がぶつかる音が聞こえて、火の手が上がって、でも消防車が来ることも無くて……ただ、火事は雨ですぐに鎮火したんです」
「雨……空から降る水のことだったな」
「ええ。俺が知る限りこの世界で最後に降った雨は、バケツをひっくり返したような激しさでしたね」

 当然、全世界の社会機能は一瞬にして麻痺してしまう。
 生き残った人々は大混乱に陥ったものの、やがてそれぞれの地域で寄り集まり、空っぽになった店から食料を拝借することで何とか生き延びていた。

 しかし、それから数日が経ったある日、漸く冷静さを取り戻してきた誰かがふと気付いたのだ。

「あの日以来、この世界には夜が来ていない」と――

「前は太陽っていう光の塊みたいなのが空に浮かんでいたんです、これが上ったり沈んだりすることで、昼と夜ができていて……だから俺にとってはちょっと不気味なんですよ、太陽も無いのにずっと光が無くならない世界ってのは」
「ふむ、私は海の土地が陸に上がるまで海から出たことは無かったから想像がつかないが……ずっと明るい方が過ごしやすくはないのか?」
「なんというか、調子が狂うんですよね。明るいと眠れない人もいたし……集落じゃ廃墟の窓を遮光カーテンで覆ったり、部屋の中でテントを使ったりして何とか暗闇を作ってたっけな」

 当時、ファレンは夜が無くなったことをそこまで深刻には考えていなかった。
 もぬけの殻となった店や家から食料を手に入れるにしても明るい方が便利だし、闇に紛れて良からぬ事を企む事も難しいから、むしろこの危機的状況では歓迎すべきとすら思っていたのだ。

 それが大きな間違いであったこと……どころでなく、自分達の滅亡を決定づけた事に気付いたのは、もう少し経ってからのこと。

 終末が訪れたのは、春だった。
 静かな世界に降り注ぐ桜吹雪は言葉に出来ないほど美しく、今でもありありと脳裏に思い描けるほどだから……この記憶は間違いでは無い。
 だが、それから明らかに月日が経っているのに、一向に夏が訪れない。雨だって一滴も降らない。

 季節と、夜が、この世界から失われた――
 その事実に人類が気付いたとき、ファレンは大人達の言う「終末」を漸く現実として捉えられた気がしたのだった。
 さらに、当たり前のように享受していた環境の消失は、旧人類にとって致命的な事態を引き起こしてしまう。

「植物が育たないんですよ。種をまいても芽が出ない、木は花を咲かせない、実もつけない……俺達人類は、食べ物を作る力を失ったんだと、集落の長が嘆いていたのを覚えています」
「……そうか、陸のものと海のものは食料から異なるんだったな」

 いくら生き延びたとは言え、この状況に対処出来るような魔法を持つ者は既に存在しない。
 否、いくら強大な魔法を使える者であったとて、世界の法則自体が壊れた状況で人類を救うなど不可能であったろう。

 ――それから五年。
 未曾有の現象に立ち向かうには、たった一割の「なり損ない」達ではあまりにも非力だった。
 陸上のありとあらゆる動植物は枯れ果て、死に絶え、または人間により全て食料や燃料として使い尽くされてしまう。

 海に活路を見出そうにも、船を作ることすら出来ない。
 まして、海はいつのころからか人の形をした化け物――新人類の縄張りとなっていて、湾岸地域へと侵攻してきた彼らに見つかったがために、集落ごと殲滅される事例も後を絶たなかった。

 かくして不幸にも終末で生き残らされた人類は徒党を組み、今も各地の廃墟を転々としつつ缶詰や備蓄を漁ることで何とかその日を生き延びている始末である。


 ◇◇◇


「ここに来る前は、ファレンも集落とやらに?」
「ええ、山奥の集落にいました。……お陰で『海の禁忌』に触れることも無く殲滅は免れましたけど、飢え死にしないだけで精一杯でしたよ」
「……そうか、お主は運が良かったのだな」
「そう、ですね……うん、そうだと思います」

 旧人類の俺に、皆さん良くしてくれますしありがたいですと、ファレンは微笑みを浮かべる。

 ……その言葉自体に、偽りは無い。
 集落では「見つかれば命は無い」「女は死ぬまで慰み者にされる」と伝えられ恐れられていた筈の新人類は、こちらに害意が無いと分かれば案外穏やかで親しみやすく。
 確かに荒くれ者は多いし、陸とは常識の種類が異なるから戸惑うこともあるけれど、基本的には皆おおらかで気の良い人たちばかりだ。

 終末の前は「なり損ない」として社会から疎まれ、終末後は生きるのに精一杯で荒みきった旧人類の中で散々な目に遭ってきたファレンからすれば、余程今の方が生きやすく感じる。
 少なくともこの街には、意味も無く旧人類の命を奪ったり、奴隷として使うような新人類は存在しない。
 彼ら曰く「俺らは陸の人間みたいな獣じゃない」だそうで、彼らの生活やルールを犯さない限り旧人類には手を出さないと公的に取り決められているらしい。

(そもそも俺ら、同種族とは思われてないもんな……見た目は同じでも話の通じない獣相手じゃ、色恋沙汰も起こりようが無いか。ま、その方がこちらも割り切れていいけどさ)

 これほどファレン(の髪)を褒めそやし、尊いと推し活に励んでいる彼らだが、かつての世界のように推しに恋愛感情を抱く者は一人たりとも存在しない。
 何となくだが、自分達に良く懐く地域猫を愛でているような感覚では無いかと、ファレンは薄々感じている。

「さて、そろそろ出るか。……ああそうだ、今日は姫に贈り物があってな。水浴びの時にトゥルペから受け取るといい」
「今日も、ですよね? 俺は嬉しいですけど、無理はしちゃダメですよ?」
「なあに心配するでない。それほど高価な物ではないし、何より天上の至宝と呼ばれる姫とこうやって逢瀬を重ねるのは、何物にも代えがたい貴重な癒やしのひとときだからな!」

 新人類達は、ファレンからするとびっくりするほど腹に一物持たない素直な者ばかりだ。だからこれは彼の本心に違いない。
 故にファレンも「楽しんでくれて何よりです」と心からの感謝を口にして、リトクワを笑顔で見送る。

 そう、いい人達だと思っている。感謝もしている。
 同じ人類とは見做されずとも、大切にして貰って、仕事をすれば十分な対価も得られて……不満なんて精々、美しさを海藻で例えられ複雑な気持ちになる程度だというのに。

 さら……

(……ああ、まただ)

 今日も一つ、心のどこかが砂のように――そう、あの日目の前で見た見知らぬ誰かの最期のように、崩れ落ちる音がした。


 ◇◇◇


「お疲れ様、ファレンちゃん。はい、今日の分ね。そうそう、トゥルペが泉で待ってるから声をかけてって」
「ありがとうございます、ヌクアさん。そういやリトクワさんが、何か依頼してたっていってたっけ。にしてもトゥルペさんは、ここのお客にこき使われすぎてません……?」
「あはは、あの子は優秀な万屋だからね。若いとは言え、あんなに毎日何回も海と陸を往復出来るのは、私達人間でも珍しいのよ。その分たんまり稼いでいるから、ファレンちゃんが心配しなくても大丈夫よ!」

 仕事を終えた街の人たちが食事と睡眠のため海へと帰る頃、最後の客を見送ったファレンはヌクアから袋を受け取り宿を後にする。
 道すがら袋の中を覗けば、中には見飽きたラベルの缶詰が三つと、塩の塊がひとかけら。いつもと代わり映えの無い仕事の対価であり……文字通りファレンの命綱だ。

「はぁ、今日もスパムか……随分前に貰ったコーン缶はレア物だったんだな、もっと味わって食べりゃよかった……」

 甘かったよな、あれ……と記憶にある貴重な味を引っ張り出しながら、ファレンは新人類には分からない言葉で呟く。
 意味の分からない言葉は誤解や疑念を招きかねないから、街の中では必ず新人類の言葉を使うようにしているが、既に通りの人通りも少ないからこのくらいは許されるだろう。

 恐らく、この街の近くにはかつてスパムを作っていた工場か倉庫があるのだと思う。
「旧人類の食料はよく分からないけど、これならいくらでも手に入るから」と安易に選ばれる対価は、確かに貴重なタンパク源で彼らが望む美しい髪を維持するのにも有用なのだが……いや、それをうっかり彼らの前で口にしたのが全ての元凶かも知れない。
 まさに口は災いの元だと後悔するも、既に時遅し。今やスパムはファレンへの対価のみならず、美しい髪への貢ぎ物としてもすっかり定着してしまっている。

「やあファレン、お仕事お疲れ様」
「あ、トゥルペさん。お疲れ様です」

 宿屋から徒歩五分、小高い丘の上にある石造りの泉に辿り着けば、見慣れた顔の青年がひらひらと手を振って出迎えてくれた。
 新人類らしいこざっぱりとした髪に、深海を思わせる深い藍色の……瞳孔の無い瞳はまるで磨かれた宝石のようで、いつ見ても吸い込まれそうな不思議な気分になる。

「俺の髪より、トゥルペさん達の目の方がずっと綺麗だと思うんだけどな」
「ははっ、褒められるのは嬉しいけどお客の前で言っちゃだめだよ、それ。君の髪が如何に神々しいかを語り出して、一日が終わっちゃうから」
「違いないっすね」

 世間話を交わしながら、ファレンはするりと着物を脱ぎ捨てる。
 いつだったか客の一人から与えられた花浅葱の着物は、恐らく女物のコスプレ衣装だと思われるのだが、宿屋に集まる男達には恐ろしく人気があるお陰ですっかり仕事着として定着してしまっていた。

 仕事の後は、この泉で衣類と身体を洗うのが常だ。
 持ち込んだ普段着と共にじゃぶじゃぶと手慣れた手つきで洗濯をするファレンを、トゥルペは興味深そうに眺めている。

「陸の人は面倒だね、布を纏わなければいけないし、しかも洗う必要もあるだなんて」
「……まぁ、今の世界ならパンツ一丁でも問題はないんですけど、どことなく気恥ずかしいんですよね」
「そういうものかねぇ。僕らは大事なところ以外裸なのが普通だから、どうにもまどろっこしく感じるけど」
「でしょうね……そういや服を脱がすのが滾るとか言って、妙な性癖を開花させちゃったお客が」
「それ、海に帰ってから困るやつじゃん」

 しっかり水気を切って、洗った衣類は持ち込んだ籠の中へ。
 そのまま身体を洗おうとしたファレンに「そうだ、これ」とトゥルペが筒を取り出す。

「リトクワさんに頼まれてたんだ。深海の泥から塩を抜いて、匂いの無い脂を混ぜてファレンに渡して欲しいって」
「あー前に話したやつだ、リトクワさん覚えてくれてたんだ……うわ、もしかして塩抜きもしてくれたの!? ごめんね、手間をかけちゃって」
「いいのいいの、僕がやった事なんて泥を取ってきて機械のボタンを押しただけなんだからさ」

 筒を受け取ったファレンは、筒を開けて中の泥を確認する。
 不思議な匂いのする泥には脂が混ぜてあり、水を加えれば手の中でとろりとした感触になった。
 試しに舐めてみたが、塩の味は全くしない。
 きっとこの泉に注がれる大量の水のように、彼らの高度な技術であっさりと塩を抜いてしまったのだろう。

 ――授業の記憶が確かならば、かつて旧人類も同じ技術を持ち、その便利さを当たり前に享受していた筈だ。
 失って初めて自分達の築き上げた叡智を思い知らされるだなんて、何とも滑稽な話では無いか。

「うん、これなら使えそう。ホントありがとうトゥルペさん」
「いえいえ。だけどこんな物、何に使うんだい……って、髪に塗ったら汚れちゃうじゃん! 僕、リトクワさんにどやされるのは勘弁なんだけど!?」

 いきなり濡らした髪にたっぷりと泥を塗りつけ始めたものだから、トゥルペはびっくり仰天である。
「早く洗い流して!」とおろおろする彼にファレンはこれでいいのだと、かつての世界に存在した髪のケア方法を教授しつつ残った泥を使い古した手ぬぐいにつけた。
 気のせいだろうか、水で洗うより汚れが落ちるように思うし、何より泥と一緒に全てが洗い流されるようで、実に気分が良い。

「……で、洗い流せば頭はスッキリ、髪も……おお、指通りが良くなった」
「へぇ……確かにさっきより艶が増した気がするよ。陸の人ってのは面白いことを考えるんだね」
「いやぁ、俺も聞きかじった知識だったから効果は半信半疑だったんだけど……髪を美しくするためなら何だって試してみるべきだって、リトクワさんが」
「あはは、彼らならそう言うよね!」

 身なりを整えたファレンは、世間話をしながらトゥルペと共に街の入口へと向かう。
 一日の終わりだというのに街は真っ昼間のように明るく、そよ風は変わらず潮の匂いを纏っていて、風情もなにもあったものではない。
 先日まで道の脇に積まれていた大量の塩の山は、きっと腕に覚えのある誰かが加工したのだろう、街を飾る精緻な彫像に変身していた。

(うわぁ、なんてもったいない……いや、海には腐るほどあるけどさ!)

 山奥に住む旧人類達が喉から出るほど欲しがる塩が、ここでは一人の男娼のために作られた真水の残りかすとして飾られている。
 あまりにも見えている世界が違いすぎて、時折目眩を覚えるほどだ。

「じゃあね、ファレン。また明日」
「うん、お疲れ様」

 門の近くにある岩場から、トゥルペはひらりと身を翻し、水しぶきすら立てずにするりと青い水底へ消えていく。
 新人類は確かに陸でも行動出来るけれど、食事と睡眠だけは近場の海へ帰るのが一般的らしい。

「……早く帰って干さないと、朝までに乾かないよな」

 気の良い兄貴分を見送ったファレンは、くるりと踵を返す。
 今日はいつもより帰るのが遅い時間の筈だ。早めに寝ないとまた寝坊して、ヌクアさん達に迷惑をかけかねない。

(『朝』なんて、この世界には永遠に来ないのに)

 その事実に抗うかのように敢えて言葉を音にした後、くぅと音を立てる腹をさすりつつファレンは家路を急いだ。


 ◇◇◇


 この街で保護された時、住処として紹介されたのは街から歩いて十分くらいの所にぽつんと立つ建物だった。
 旧人類の集落はこの辺には無いし、警備も巡回しているから安全だと半ば押しつけられるように与えられた、かつては小中学校だったと思われる……独りで住むには贅沢すぎる廃墟の中で、ファレンは寝泊まりをしている。

 木造の建物は、早々に地上から消えた。
 と言っても、朽ち果てたのでは無い。中身を隅々まで頂いた後、貴重な燃料として旧人類達が解体してしまったからだ。
 鉄筋コンクリートには流石に手をつけなかったようだが、それでも以前旧人類が捜索したであろう痕跡は、あちらこちらに残っている。

「にしても、何で図書室や保健室に手をつけなかったんだろうな……めちゃくちゃ燃えそうなものが詰まってるのに」

 椅子と机が消え去った教室で、ファレンは手早く着物を干した後ぺたりと床に座り、袋から缶詰を取り出す。
 手には調理実習室から拝借したフォーク。今日はプルタブを開けて出てきた塊にそのままかぶりつく事にしたようだ。

「……味気ないな」

 空腹は最大の調味料だなんて言うが、こうもほぼ毎日、年単位でスパム三昧の生活を送っていれば調味料の効果も薄くなるに決まっている。
 ファレンは文句を言いながらも、肉の塊をあっという間に食べ尽くしてしまう。

「焼きゃもうちょい美味いんだけどな……火を使うのはなるべく避けたいし、仕方ないか」

 ボトルを開け、泉で汲んできた水を一気に胃に流し込み、腹を膨らませて。
 眠気がくるまでぼんやりするだけのファレンの視界に映るのは、教室の後ろにあるロッカーだ。

 ここに来た頃にあちこちに残されていた砂は、時間をかけてかき集め校庭だったとおぼしきところに埋めてしまった。
 砂は侵入した旧人類の靴底についていたものかもしれない。けれど、もしかしたら――そう思うと、ただ外に掃き出すだけにはできなかったのだ。

 教室に散らばっていた制服は、何となく燃料には出来なくて……全部、ロッカーの中にしまい込んである。
 荒らされることの無かった保健室のシーツも、図書室の本達も――いや、図書室はむしろ暇つぶしに手に取った小説の世界があまりにも眩しくて、ついでに出てくるご飯が魅力的すぎてとてつもない虚無感に襲われたから、近寄りたくないというのが本音だが――ここに来たときと変わらないままだ。

「こう言うところが甘いんだって、良く言われてたっけな……」

 変な感傷や矜持は捨てるべきだ、そうしなければ生き残れない。
 集落の大人達が口酸っぱく言っていた言葉が、ファレンの胸の中に嫌な響きを残す。

 生き残った旧人類達は、ほぼ全員が「なり損ない」を見下し排除してきた彼らへの怒りと無力感、途方もない劣等感を抱いていた。
 だから余計にだろうか。彼らは砂と消えた世界の残した遺産を食い潰すのみならず、残された砂の山を執拗に踏み潰し、床に落ちた衣類を切り裂き――口にもしたくない用途に使うのを目にしたことだってある。

 彼らを生き汚いと断罪するには、壊れた世界はあまりにも旧人類に辛辣で。
 それでも割り切って良心を捨て去る事が出来なかったのは、きっと自分が若くて、向こう見ずで、確かに彼らの言う通り甘かったせいだ。

「……その結果がこれだもんな……俺も結局は同じ旧人類ってことか」

 集落での日々は、今思い出しても反吐が出る。
 それでも身体で強者に阿って生きている今の自分に、あの集落の大人を断罪する資格は無い――

「あーもう、だめだ! あんなことを聞かされたから余計に……うん寝よう、そして全部一旦忘れよう!!」

 沈まぬ陽の光に、己の醜さを暴かれている様な気がして。
 ファレンは眩い世界から逃れるように、そっと教室を後にした。


 ◇◇◇


 この建物をかつて探索した旧人類達が放送室には全く手をつけなかったことに、ファレンはいたく感謝している。
 なにせカーペットの敷かれた床に保健室から拝借した布団と枕を置いて扉を閉めれば、そこには世界が忘れた夜が現れるから。

 いつもなら招かれざる客の襲来に備えて少しだけ開けておく分厚い扉だが、今日は一筋の光すら寝床に入れたくないとファレンは重い扉を閉め切った。
 途端、静寂がキィンと金属質な音を耳に叩き付ける。

「……漫画なら、俺らの方が侵略者のヴィランってことだよな」

 布団にごろんと転がったファレンの口から、思わず漏れた言葉。
 しんと静まった暗闇の中、熱心に髪を梳くリトクワに終末の日を語った後に聞かされた話が脳裏を過る。

「まだ、正式に認められた説ではないのだがね」と前置きをした上で彼が語ったのは、深海の世界に広がる伝承だ。
 一万年近くにわたり口伝と文字によって伝えられてきた、膨大な数のおとぎ話は内容も量もさまざまだが、そこにはある共通点があるという。

「……夜と、季節が無い……?」
「うむ。伝承の中には陸地の話も相当数混じっているのだがな。ある時期までの物語には、夜や暗闇、季節を表す単語が全く登場しない。……そして、そのような概念が物語に登場するようになった時代以降は陸地に関する話が無くなってしまう」
「たまたま残っていた物がそうだった……というわけじゃなくて?」
「口伝も書物も、更に石版に刻まれた絵も全く同様の傾向があったのだ。以前は気にもかけていなかったのだが、陸に赴任して以来何となく引っかかりを感じてな……」

 もしかしたら、現在の陸地の環境は古代と同じなのでは無いか?
 ――そう仮説を立てたリトクワは数ヶ月前、調査団にとある依頼をする。

 その結果は、彼の推測を裏付けるに十分なものだったようだ。

「世界各地の遺跡から、この星の環境を操作する大規模なシステムに関する文献が見つかったのだ」
「環境を、操作……?」
「その様子だと、姫は知らなかったのだな。……この星は自然発光する霧のようなものに覆われていて、最初から夜など存在しなかった。そしてこの星に夜と巡る季節を人工的に作ったのは、お主達陸の人だった……そう私は考えている」
「な……っ!」

 唖然とするファレンに、櫛を持つ手を止めることも無くリトクワは更なる仮説を畳みかける。
 曰く、旧人類は元々この星から発生した生命体では無いのかも知れない。
 かつては海のみならず陸地も、今は新人類と呼ばれている彼らの住まうところだった。
 だがある時、この星の外から未知の生命体がやってきて、彼らが魔法と呼ぶ強大な力によって陸地を制圧し自分達の住みやすいように環境を操作してしまう。
 その結果、新人類達は彼らの手の届かない深い海の底へと住まいを移し、ひっそりと暮らすようになった――

「我々人間は、大人になれば陸に上がって生きていくこともできる身体を持っている。実際に陸で暮らすことなど生涯無いのに、だ。だが……もし、この機能が古い時代の名残だとしたら」
「…………辻褄が、合ってしまいますね」
「だろう? ……ああすまない、そんな顔をさせたかったわけではないのだ。姫が気に病む話では無いのだぞ」

 ……結局あの時は、ファレンの異変をめざとく見抜いたリトクワが話を切り上げてしまった。
 恐らくは事実と認定されるであろう仮説だが、それにしても数千年以上前の話だ。今更海に追いやられたことを恨む者などおらぬよと彼は慰めてくれたけれど、それからファレンの胸には小さな棘が刺さったままだ。

「悪役の気持ちが分かる日が来るなんて……あんまり来て欲しくなかったなぁ……」

 どうにも落とし所のつかない気持ちを吐露するような自嘲が、口をつく。
 自分達が正義で、世界の被害者だと言い張る資格があるだなんて……とてもじゃないがファレンには言えないから。
 自分達が滅亡という道を辿るのは、この星にとってはむしろ喜ぶべき事なのかも知れないとすら思ってしまうのだ。

 先日、終末からたった五年で旧人類の人口は半分以下に減ったと、別の客から聞かされた。
 しかもその理由は、飢えや病気だけではない。まして、新人類達に危害を加える集落を彼らが「駆除」したせいでも無い。

 最も大きな理由は、自滅――すなわち、旧人類同士の争いによるものだという。

『なあ姫、どうして陸の人は同じ人同士で殺し合いをするのだ? 食べきれないほどの食料を奪い、飢えに苦しみ頼ってきた同胞に分け与えないどころか切って捨てるなど、我々には信じられないのだが……』

(……分からない。こんな極限状態になれば、誰だってそうなる……んじゃ、ないのか……?)

 それは、この仕事を始めたばかりの頃に幾度も投げられた、彼らからすれば何気ない問いかけ。
 すぅと意識が闇に溶ける瞬間、いつものように頭の中で再生された誰かの言葉に、ファレンは今も答えを返せないままである。


 ◇◇◇


 ぱちり

「…………めちゃくちゃ寝た気がするな……これ、また遅刻なんじゃ……」

 真っ暗な部屋の中で身体を起こしたファレンは、大きく伸びをする。
 昨日の煩悶が嘘のように頭はすっきり冴えていて、なにより身体が軽い。これは間違いなく、日頃の溜まった疲れを久々の完全な闇で解消してしまったパターンだ。

「はぁ、急がなきゃ……今朝もスパムの丸かじりだな、こりゃ」

 ため息を一つついて、ドアノブに手をかける。
 あの門番が言っていたとおり、時計は早めに手に入れた方が良さそうだ。それも、大音量で鳴る目覚まし機能付きのものが必要だと思案しながら扉を開けた瞬間、ぞわりとファレンのうなじが総毛立った。

「……!!」

 目の前には、何も無い。寝る前と変わらない風景が広がっている。
 だが、廃墟暮らしですっかり研ぎ澄まされたファレンの勘は、階下に明らかな人の気配を嗅ぎ取った。

(慌てるな、今までにもあったことだ……慎重に……)

 身体を強張らせ、息を詰めてなるべく音を立てないように放送室を後にする。
 緊張にゴクリと喉を鳴らしつつ教室からスパムを回収し、慌てて囓りながら彼が向かったのは三階にある調理実習室だ。

「……久しぶりだな、侵入者は……最近は見回りの人が全部追い払ってくれていたもんなぁ……」

 まったく運が悪いと独りごちつつ、シンク下の収納から取り出すのは大きな鍋の蓋と出刃包丁。
 ファレンに武術の心得など何一つ無いが、侵入者だって大体似たようなものだ。むしろこれほど新人類の街に近い建物にわざわざ近づくのは、集落を追われて困窮したはぐれ者と相場が決まっている。
 それにしても、タンパク質の力は偉大だ。例えスパム三昧でも、まともな飯にありついていない侵入者を制圧出来るくらいの体力は維持出来るのだから。

「…………一人、だな。これなら何とかなる……なってほしいな……」

 一階へと降りる階段の踊り場で、ファレンはそっと耳を澄ます。
 流石の彼でも、複数人を相手するのは分が悪すぎる。
 一応熱心な客から渡された救難信号用のデバイスは肌身離さず持っているけど、出来ることならこんな物には頼りたくない。

 ファレンは旧人類とは言え、新人類の管理下にあるようなものだ。それも彼らが信奉して止まない海藻をその身に宿した貴重な個体ときた。
 つまり彼らの助けを借りれば、侵入者達の命は確実に刈り取られる。
 ……こちらとしては包丁と新人類の存在をちらつかせ、余ったスパム缶一つで手を打って、できる限り穏便にお帰り頂きたいところだ。

 こつ……こつ……

 小さな足音が、こちらに近づいてくる。
 ファレンの背中にじっとりとした汗が浮かび上がった。

 いくら腹ぺこのはぐれ者であれ、相手が武器を持っていたなら一瞬の油断が命取りになる。
 十分に距離を引きつけて、間合いに入ったと確信したその瞬間、ファレンは一気に足音の方へと飛び出す。

 だが

「……へっ」

 どさり……

 その瞬間、ファレンの目に飛び込んできたのは

「…………!!」

 今まさに糸の切れた人形のようにゆっくりと廊下に倒れ込む、セーラー服に身を包んだ少女の姿だった。

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