第2話 出会い
「……どっちだ……死んだふりか…………?」
ばたん、といい音を立ててその場に崩れ落ちた少女から慌てて距離を取り、ファレンはそっと様子を窺う。
行き倒れのふりをして襲ってくるやつは、珍しくも無い。背を向けた瞬間に切りつけられた苦い思い出もある。
そう、あの時は髪が10センチほど切れてしまって、そのまま街に行ったら真顔になった新人類達が無言で何か指示を出し、すぐさま襲撃者はおろか服装から縁のある集落まで調べ上げて、一網打尽にしてしまったっけ。
――大切にして貰っているがゆえの行動とはいえ、あんな後味の悪い顛末はもうこりごりだ。
「…………こりゃ、本物の行き倒れだな」
ファレンは包丁を前に構えたまま、じりじりと近づいていく。
首元に包丁を突きつけ「動くな」と低い声で命じても、少女はピクリとも身体を動かさない。良く見ればスカートから伸びる足は痩せ細り、そっとかき上げた髪の間から覗く顔は真っ白で、唇はカサカサに乾ききっていた。
耳を近づければ、辛うじて呼吸音が聞こえる。どうやらまだ息はあるようだが……この様子では時間の問題だろう。
「この制服……県下トップの女子校じゃなかったっけ。にしても、何で男物のネクタイなんて結んでいるんだ……?」
終末を超えた世界に、かつての世界を思い起こさせるセーラー服を身につけた少女。
あまりのミスマッチさに、ファレンは首を傾げ……思い至った考えに思わず苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
集落の旧人類達は探索や他の集落の襲撃に備え、簡素で動きやすい服を身につけているのが常だ。なのに、わざわざ半袖の制服に膝上のスカートを身に付けるだなんて、あまりにも不自然な訳で。
「……相変わらず、下衆ばっかりだな」
だからもしかしたら、彼女は制服を好む男達により無理矢理このような格好をさせられたのかも知れない。
――そして、わざわざそんなことをする理由は一つしか無いだろう。集落での女の扱いは、どこも似たり寄ったりなのだから。
「しかし、早く街に行かなきゃいけないんだけどな……二日連続でお客を待たせるのも悪いしさ……」
倒れ込んだまま動かない少女を見下ろし、これからどうしたものかとファレンは思案する。
これまでだって、無謀にも新人類の街に近いこの廃墟へ食料を求めてやってきた末、敷地内で力尽きた者は何人もいた。
ファレンはその度にコツコツ貯めておいた食料を分け与え、幸運にも一命を取り留めた人間には、この辺りは危険だから動けるようになったらさっさと出て行くようにと、忠告を繰り返してきたのだ。
『危険? そんなこと言って、食料をたんまり隠し持っているんだろう? ちょっとくらい分けてくれたっていいだろうが!』
『へへっ、良く見りゃお前、可愛いじゃねえか……この際男でも問題ねえ。なあ、一人でいいもん食って贅沢しているんだから、俺にも良い思いをさせてくれよ、な?』
けれど体力を取り戻した途端、彼らは一様にファレンを脅し、食料のみならず身体まで要求してくる有様で。
結果、なかなか街に現れないファレンを心配した見回りの兵により、何度命を助けられたことか。
(ここで助けても、また俺を襲って……見回りに駆除されるだけだ。それならこのまま死なせてやった方が、怖い思いをしなくていいかもしれない)
旧人類にとって最大の武器である魔法すらまともに使えない自分達にとって、今の世界はもはや罰ゲームのようなものだ。
常に飢えと病の危険に晒され、今日を生きたところで明日に何の希望も見出せない。
まして若い女性ともなれば、別の危険とも隣り合わせであろう事は……ファレン自身の経験から痛いほどよく分かっている。
だから。
彼女が変な希望を持って、駆逐されるべき襲撃者へと堕ちないためにも放置するのが一番だ。
きっと仕事を終えて帰ってくる頃には、息絶えていることだろう。そうしたら……いつものように、校庭の片隅へ運び丁重に葬ってやればいい。
「……くそっ、それが正しいって、分かってるのにさぁ!」
そう、頭では理解しているというのに。
こんな状況でも最善の選択肢を採れないだなんて、本当に自分の中途半端さが嫌になる――
その場に包丁と鍋の蓋を放り出したファレンは「ああもう!」と己に毒付きながら瀕死の少女を担ぎ上げて、近くの教室の中へと運び込む。
持ち上げた身体は思ったよりも大柄で、なのにびっくりするほど軽い。
この少女に何があったのかは分からない。けれども、このご時世に女一人でこのようなところに現れるだなんて――女性の行き倒れがここにやってきたのは初めてだったのだ――よほどの事情があったのだろう。
『なあ姫、どうして陸の人は同じ人同士で殺し合いをするのだ?』
『頼ってきた同胞を切って捨てるなど、我々には信じられないのだが』
彼女を運ぶファレンの脳裏を掠めるのは、ずっと胸の奥で燻り続ける新人類からの問いかけで。
呼応するように胸に湧き上がるのは……頭では理解していても押さえがたい、甘っちょろい衝動だ。
(俺は旧人類だ。しかも、まともな魔法も使えないへっぽこ野郎で、身体を対価に生き延びている惨めな男だ。けれど)
(旧人類だからって、あいつらみたいな醜い獣にならなきゃいけない道理はない……!)
半ば投げ出すように床に身体を横たえても指先一つ動かさない彼女を一瞥すると、ファレンは覚悟を決めた顔で保健室へと走っていった。
◇◇◇
「んー……もうちょい塩……でも、濃すぎると吐くしなあ……」
保健室から布団を運び込み、ネクタイを外した少女を寝かせたファレンは、スパムを切り刻み缶の中に水を注いでいた。
行き倒れの人間に、固形物を食べさせることは難しい。食べたところで吐き戻すのが常だから、最初はスープを飲ませるのが基本だ。
これも飲めなければ薄い塩水を飲ませるが、そこまで衰弱していた者が回復した事は一度も無い。
試しに味見をしてみたが……正直言って、恐ろしくまずい。
病人用だし、塩はスパムから出るものだけだから薄味なのは仕方が無いのだが、それにしても虚しさが胸いっぱいに広がる残念な味だ。これなら塩水だけの方がまだマシな気がする。
「醤油とか味噌とか……ちょっとでもあれば助かるんだけど。まあそんなものは、とうの昔に掘り尽くされてるよなぁ、集落でも真っ先に取って来いって言われてたし」
小皿に残っていた刺身醤油すら分けて欲しくなる未来が来るんだぞ? と過去の自分に向かって脈絡無く突っ込みつつ、ファレンは床に三脚台を置き、その上に金網を乗せた。
手に持っているのはスパムと水の混合物を移し替えたビーカー、そしてアルコールランプである。
「学校って意外と何でもあるよな……にしても、職員室に何であんなにライターがあったんだ……?」
火を使うのは、随分久しぶりだ。
理科室にはまだまだアルコールが残っているけれど、調子に乗って煮炊きをすればたちまち無くなってしまうだろうから、よほどのことが無い限りファレンがスパムに火を通すことは無い。
とはいえ、今回はその「よほどのこと」だ。温めればそれなりに肉のいい匂いはするし、これまでの経験上スープを飲んでくれる可能性も高くなるから。
ファレンは手際よくランプに火をつけ、今のうちにと干してあった仕事着に手を伸ばした。
花浅葱の一張羅は和服をモチーフにして作られたと思われるが、いかんせん露出が多い。そして胸元が緩い。
間違いなくこれは、たわわなものを持つ女性が着て美しくなるように作られている衣装だ。
「……頼むから、助かったら大人しく出て行ってくれよ……出て行ったところで、生き延びられる保証は無いけどさ」
着物を羽織り、帯を締めると少しだけ気が引き締まる。
徐々に冷静さを取り戻したファレンは、スパムスープのビーカーと布団の上で死んだように眠る少女を交互に見ながら、毎度のごとく「またやってしまった……」と頭を抱えていた。
今日は、間違いなく街に行くのが遅くなる。
理由を問われれば、彼女のことを話さざるを得ないだろう。そうすればきっと、彼らは「またか」とため息をつくのだ。
――ファレンにだって気持ちは分かる。困窮していた猫に餌をやっていたら、そいつが寄ってきた野良猫の面倒を見始めただなんて……呆れ果てて、まずお前が自立しろ? と文句の一つも言いたくなるだろうから。
しかし、猫に例えればもっともだと自分でも頷くのに、いざ自分が猫の立場になれば出来なくなるのは、実に不思議である。
「ヌクアさんに頼んで、少しお客を多めに取らなきゃ……っと、匂いだけは美味そうだな」
火を止めると、ファレンは少女を抱えて上半身を少し起こす。
そうしてポコポコと泡を立て始めたビーカーからスープを掬い、少しだけ冷ましたほんのり色のついた水分を、半開きの口からそっと流し込んだ。
「……飲み込んでくれよ……?」
「………………」
そのまま見守ること十数秒。
ゆっくりと、だが確実に少女の喉が上下する。
虚ろな瞳は焦点が合わず、飲みきれなかったスープが口の端を伝っていて「女性の口は小さいんだな……」とファレンは手ぬぐいでそっと顔を拭った。
その顔には、明らかな安堵が浮かんでいる。
スープが飲めたなら、彼女は大丈夫。時間はかかるかも知れないが、きっと動けるところまで回復出来るだろう。
「なぁ……死に場所を求めていたなら、許せよ」
ファレンは少女に話しかけつつ、せっせと口元にスプーンを運ぶ。
相変わらず目はファレンを捉えていない。恐らく彼女は、口の中に流し込まれた物を機械的に嚥下しているだけだ。
身体はあっさりと心を裏切ることを、ファレンはよく知っている。だから、この行動だけで彼女が生を望んでいるとは判断しない。
……それでも、この子が生きたいと願う可能性がある限り――見殺しにはできない。
「自分の生き死にくらい、自分で決めたいだろう? ……だからさっさと元気になれよ」
気がつけば、ビーカーの中にはみじん切りのスパムだけが残っていて。
ファレンは貰った塩と共に残り物をかきこみ「まずっ」と顔を顰めて部屋を出た。
◇◇◇
あたたかい
何かが、舌に触れる。
水にしてはちょっとしょっぱくて、しょっぱい以外の懐かしい味がして……なにより温かくて。
喉を鳴らせば、胸の奥に忘れかけていたぬくもりがじわりと広がっていく。
(……おいしい…………)
ぼやけた視界の中で、誰かが動いている。
美しい黒髪をかきあげ、何かを唇に当てる人は、かつて幾度となく祭りで見かけた憧れの衣装を身に纏っているようだ。
(海神様の……天女、様……綺麗な人…………)
その光景に、彼女は己の死を確信する。
ああ、きっと自分はこれから天女の胸に抱かれ、海神様の御許へと連れて行かれるのだろう――
(お母さん、お父さん……やっぱり一人じゃだめだったよ……種、見つからなかったの……)
冷たかった指先に、注がれた温もりが染み渡る。
どうかあの世にはこの世界が無くした季節も、美味しいご飯もたくさんありますようにと祈りながら、彼女の意識は光の中へと溶けていった。
◇◇◇
「ファレンよ、今日は何かあったのでは無いか?」
「ぎっくぅ……できれば何も気付かなかったことに……」
「そうだな、お前さんがその優美な御髪をコンブのようだと皆の前で宣言してくれれば、考えなくも無いが」
「お断りします。それ、第五次大戦の引き金を俺が引くことになりますから!」
随分遅刻してしまったと焦っていたが、実際にはいつもと変わりの無い時間だったらしい。
客を待たせずに済んだと安堵したファレンは、早速ヌクアに「今日は遅くまで働きたいから」と頼んで、予約を増やしてもらっていた。
ただ、彼女には昨日の分を取り戻すためだと伝えればすんなり納得してくれたけれど、流石に常連客の目までは誤魔化せなかったようだ。
「全く、ワカメ派はどうしてああまで意固地になるのやら! 姫の髪はどこからどう見てもコンブであろう!? はぁ、ワシの身体がもう少し小さければ、その御髪で全身をぎゅっと包んで貰えたのに」
「ええと、ウドゥイさんそれは……良いものなんですか?」
「良いに決まっておろう! 天上の至宝に包まれるのだぞ!? 良いな姫よ、二度と美しい御髪を野良人共に切られるでないぞ! お前さんの長き髪に巻かれるまでは、死んでも死にきれぬからな!」
「あ、あはは、善処します……」
(俺、もしかして……新人類に新たな扉を開かせる危険人物になってないか?)
引き攣り笑いを浮かべながら、ファレンはベッドサイドに腰掛ける精悍な男を見上げる。
さっきからファレンの髪を手首に巻いてはうっとりしている困った御仁は、コンブ派の急先鋒であるウドゥイ大佐だ。
年齢を感じさせない筋肉と厳つい風貌をもつ歴戦の猛者は、この街一帯の治安を守る警備隊のお偉いさんだという。
それにしても、以前街中で見かけたときの彼は、高潔な軍人そのものだったというのに。
「今日は一段と滑らかだな」とだらしない顔で肌を滑る髪を楽しんでいる姿を見たら、部下がひっくり返ってしまうのでは無いだろうか。
「それで? いつもの倍近い客を取っているとヌクアから聞いたが。……本当の理由は?」
「ぐっ……そのまま俺の髪を堪能していてほしかったなぁ……」
髪を弄ぶ手を止めることは無く、鼻の下を伸ばしたままだというのに、ファレンに問いかける口調はどこか鋭さを帯びている。
これは誤魔化しきれないとファレンは早々に観念して「実は……」と今朝の出来事をかいつまんで報告した。
案の定、ウドゥイは「また野良人を手懐けてるのか!」と大声を上げ、説教の体勢に入っている。彼の話は長いから、それだけは勘弁して欲しい。
「い、いやでも今回は女性ですから! 流石に襲われることは」
「とか何とか言って、年端もいかぬ少年を介抱した挙げ句、あわや殺されかけたのは誰であった!?」
「あれはその、年の割に俺より体格が良かったせいで……ほら、少なくとも女性ならそう言う意味で俺を襲うことはないですから!」
「何を言っている? 輝く御髪を持つ姫に触れたいと思うものに、性別は関係ないであろう!」
「あっだめだ、これ地雷だった」
まったく、信奉者の地雷はどこに埋まっているやら、皆目見当がつかない。
結果としてファレンはベッドの上に正座させられたまま、それでも髪を愛でる事をやめないウドゥイによりこんこんと説教される羽目になったのである。
◇◇◇
――それから一時間後。
説教にヒートアップしたのか、それともいつも通り髪の滑らかさに昂ぶったのか……ともかく勢いでそのまま床を共にしたウドゥイは、さっきとは打って変わって落ち着いた様子で「まあ、姫がそこまで言うのなら」と渋々納得してくれたようだ。
「見回りは増やすが、くれぐれも気を抜くなよ?」
「お心遣い感謝します。……にしても、女一人でこんなところを放浪するなんて珍しい気がするんですよね」
「ああ……もしかしたら、先日『駆除』した東の集落から逃げてきたのかもしれんな。いや、あれは酷い集落だった」
傍らに置かれた手ぬぐいで身体を清めるファレンの前に腰掛け、思い出すのも穢らわしいと言った様子で、ウドゥイはとある集落の名前を口にする。
目の前で揺れる髪に触れることも無く「まったく、罰当たりにも程がある!」と顔を赤くして憤慨している理由には、何となく心当たりがあった。
(ああ……新人類の禁忌に触れたな、そいつら)
ウドゥイ曰く、その集落がここから50キロほど東の辺鄙な地域に移動してきたのは、半年ほど前だったという。
恐らくは他の旧人類と同様、内陸から新たな食料を求めて沿岸へと移動してきたのだろう。
百人超の集団は当然ながら新人類の監視対象となっていたが、取り決め通り彼らから積極的に行動を起こす事は無かったそうだ。
だが、二ヶ月ほど前。
困窮した集落の男達は、新人類最大の禁忌に触れ……すぐさま最も近くにあるこの街の警備隊により殲滅されたのである。
「姫よ、こいつらはな! 海藻を……それもよりによってあの美しいコンブを、手当たり次第にむしっていたのだ! それだけでも業腹だというのに、やつらは無残な姿に変わり果てた天上の羽衣をどうしたと思う?」
「あー……何となく想像がついたんですけど……釜ゆで?」
「その通りだ! 我らが神秘を無慈悲にも切り刻んで、貝や小魚と共に湯の中に放り込みぐつぐつと煮込んだ挙げ句、一つ残らず食べ尽くしたのだぞ!! いや、あの時のワシは実に忍耐強かった。上層部からの駆除申請許可が下りるまで、一切手を出さなかったのだからな!」
(うん、昆布はいい出汁が出るからな……言えないけど……)
新人類達にとって海藻は、天に揺らめく至宝、信仰めいた憧憬の眼差しを注がれる海の植物である。
彼らの間ですら、うっかり傷つけようものなら故意で無くとも罪に問われるというのも、何となく理解はできる。
だというのに……旧人類達は傍若無人にも手当たり次第取り尽くし、食料や燃料として消費してしまうのだ。
――特大の地雷を全力で踏み抜いた結果は、火を見るより明らかで。
誰かが発見次第国へと駆除申請が出され、数分で許可が下りるや否や過剰な戦力を全力投入して集落毎更地にしてしまうのがいつもの流れである。
「あれほど何度も駆除しているというのに、やつらは性懲りも無くワシらの神聖なる海藻に手を出し続ける。ファレンよ、本当にあれはお前さんと同じ人なのか? 人の皮を被った獣では無いのか?」
「残念ながら、同じ種族なんですよねぇ……」
だが、何度も駆除という形で新人類が警告を発しているにも関わらず、この禁忌が旧人類に伝わることは無い。
理由は至極単純だ。禁忌に触れた旧人類はその理由すら知らされず、運良く気付いたところで……次の瞬間には物言わぬ屍と化しているのだから。
こうしている今も、どこかで何も知らない旧人類が食料を求めて海へと近づいている筈だ。
新人類達も旧人類の群れについては把握すれど干渉はしない方針だから、浅瀬で貝を拾ったり魚を捕まえる分にはそこまで目くじらを立てない。
……どうか、飢えで狂気に寄った彼らがうっかり海藻に手を出さないことを、ファレンはただ祈るばかりである。
◇◇◇
「……一ミリも動いてないだろう、お前」
スパム缶を四つに少々の塩、そして持参したボトル二つに加えポリタンク二つに汲んできた真水をかかえて住処に戻ったファレンを待っていたのは、出がけに掛けた布団の皺すら変わっていない少女の姿だった。
まさか息絶えてしまったのかとファレンが慌てて駆け寄れば、かすかに胸の辺りは上下していて、ほっと胸をなで下ろす。
とは言え、まだまだ容態が不安定なことに変わりは無さそうだ。
「これ、塩を入れたら二杯目のスープがとれないかな……」
教室の隅に置いてあった実験器具達を取りだし、朝のようにビーカーでスパム入りの水を温めながら、ファレンもまたその場に腰掛けてスパムを囓る。
その間も少女は微動だにしない。ただ規則正しく上下する胸が、辛うじて命の存在を知らせているようだ。
ぐぅ……
ビーカーから湯気が立ち始めた頃、小さな音が静かな部屋に響く。
ファレンが何事かと肩を跳ねさせ慌てて立ち上がり辺りを見回すも、特におかしな気配は無い。
ぐぅ……
「んん……?」
再び聞こえた低音は、どうやら少女の方から発せられているらしい。
どこか調子が悪くて呻いているのかも知れない、そう思って側に近づいたその時、今度ははっきりといい音が……布団の中から鳴り響いた。
「ぐうぅ~」
「…………腹の音かよ!」
思わず少女に向かって突っ込んだファレンは、がっくり肩を落としつつも彼女の身体を起こす。
そうして、まるでスープをせっつくかのようにぐぅぐぅと鳴り続ける胃に「お前、本当は起きてるんじゃないのか?」と突っ込みながら、小さめのスプーンを唇にあてた。
……残念ながら貪欲な胃とは対照的に、まだまだ意識ははっきりしないらしい。
とはいえ、口の中に入れば飲み込んでいるだけ上等だ。なにより腹がこれだけ主張出来るのだから、状況はそれほど悪くないとファレンは判断する。
「おーお-、いっぱい食べたな。明日は水も少し飲んでみるか? 集落で蒸留した水とは違う、塩気ゼロの水だぞ」
結局彼女は、二杯目のスープもペロリと飲み干してしまった。
心なしか頬には赤みが差し、唇のかさつきも朝よりはましな気がする。
自力でスープを啜れるようになったら早めに固形物を食べさせたいなと、食器を洗いながら思案するファレンの動きが、ふと止まった。
視線の先にあるのは、布団からはみ出た少女の足。
踵の後ろ、ちょうどアキレス腱のある辺りには、注意深く見なければ分からないほど薄いけれども明らかに傷跡が残っている。
「……やはり、東の集落から逃げ延びてきたんだな。にしても……傷が綺麗だな。誰かが回復魔法でもかけたのか?」
腱を繋ぎ、長距離を歩けるほど回復させられる人間が終末を生き延びていたとは。
きっと集落ではこき使われ……いや重宝されていたのだろうなと、ファレンの胸がずきりと痛んだ。
◇◇◇
ウドゥイ達が殲滅した東の集落は、津波用の避難ビルを拠点としていたという。
確かにこの沿岸には万が一に備えた建物が点在していて、災害物資もそれなりに手に入る上見張りにも使いやすいから、新人類との遭遇リスクさえ目を瞑れば悪くない選択肢ではある。
――残念ながら彼らは、自らの行いにより最悪の形で新人類を招いてしまった訳だが。
「取りあえず拠点の建物を潰してだな。湧き出てきた野良人を片っ端から駆除していくのだ。陸の人は弱いからな、ほぼ無抵抗……どころか男共は我先にと建物から逃げ出してきたな」
「……女性はいなかったんですか」
「いや、いた。……だがな、逃げられなかったんだよ、女は」
散り散りになった集落の男共をもれなく殲滅した後、生き残りの駆除のためにウドゥイ率いる警備隊は建物の中を捜索する。
そして……潰れた建物の上層で息絶え、または震えている女達を見つけたのだ。
「女達は皆、両足首の腱を切られていた。あれでは逃げることはおろか、階段すら下りられまい」
「……腹の大きな者は」
「三分の一くらいだったか。中には気が狂っているものもいた。ワシらの姿を見るなり、情けを下さいと笑って縋ってきてな」
「…………」
飢えや病で、動ける者はどんどん減っていく。
食料を探す働き手を増やさなければ、未来は無い――
旧人類達の集落が辿る末路は、どこも同じだ。先の見えない極限状態を打開するために、理性的に考えれば明らかに破綻した、狂気の判断を下してしまう。
その犠牲となるのは……いつだって、弱い者だ。
自分達だってかつては虐げられる弱き者であったのに……否、だからこそ更なる弱者を作らなければならないという強迫観念に駆られるのかも知れない。
「……女達も、駆除したんですよね」
「生かしておけばまた新たな集団に取り込まれ、勢力を増して襲ってくるかもしれんからな。実際、足が不自由にもかかわらずこちらに向かってきた者も多かった」
「…………」
「……とは言え、危険の無い者まで駆除する必要は無いと、今回は判断した。人類と野良人との区別も付かぬほど壊れた者を手にかけるのは、いくら野良人とはいえ流石に気が引けてな。結局、保護団体がここからそう遠くない建物に集めて、食料援助を行うことになったのだ」
新人類が頻繁に出入りしている建物に近づく旧人類は、まずいないだろう。
いたところで、そんな連中は駆除してしまえば良いだけのこと。
……どちらにしても心が壊れ弱っている個体だ、そう長くは生きられまいと考えたらしい。
「この五年でこれまでいくつもの群れを駆除してきたが、あれは三本の指に入る悲惨さだったな。……姫も元は野良人の集落から逃げてきたのだろう? これほどの美貌を持ちながら、良く生き残れたな」
「ああ……こんな見た目ですけど俺、男ですし。子を成せない身体の分、有利だっただけですよ」
「そうか。……なんとも陸の世界は厳しいものよ」
淡々と語るウドゥイの目には、きっと彼女達は弱った獣としか映っていない――
その事実が、余計にファレンの胸をぎりりと締め付けた。
◇◇◇
少女がここで力尽きてから、数日が経った。
ファレンが思っていた以上に彼女の回復はめざましく、まだ意識こそ戻らないものの唇にスプーンが触れれば自ら食べ物を咀嚼するようになっていた。
調子が良いときは、布団を蹴飛ばしていることもあるほどだ。きっと近いうちに会話も出来るようになるだろう。
それ自体は喜ばしいことである。
ただ……誤算だったのは、その消費量であって。
「毎日、スパム三缶……なあ、俺普段スパム二缶で生きてたんだぞ? 回復に必要だからというのは分かるけどな、いくら何でも食い過ぎじゃないか……?」
どこか満足げな笑みを浮かべながらも反応の無い少女に向かって、ファレンはげんなりした様子で愚痴を零す。
仕事の量を増やすと言っても、ファレンの身体は一つしか無い。当然限界はあるわけで、毎日安定して手に入れられるのは四缶が限界だ。
そもそも当初は気がつかなかったが、この少女、どうみてもファレンより大柄である。
代わり映えの無いスパムに飽きてすっかり小食となった自分と、食事量を比べる方がおかしいのかもしれないが……それにしたって文句の十や二十は零しても罰は当たらないだろう。
「流石に……一日一缶じゃ足りないな……仕方ない。多少は足しになるか、歯ごたえだけはあるし」
どうにも物足りない腹に向かってブツブツ呟きながら、ファレンはそっと手を合わせる。
そうして目を細め、深呼吸をして集中すること数十秒。
「小さき命の粒よ……今ここに、顕現せよ……!」
小さな声で、しかし明瞭に発せられたファレンの詠唱に呼応するように、手がふわりと白く光る。
空の光すら霞む眩い灯りは、カッと教室を照らした次の瞬間、合わさった手の中へと吸い込まれていった。
「ふぅ……上手くいったな……」
光が収まるのを待って、ファレンはそっと手を開く。
手のひらの上には、先ほどまで無かったはずのひまわりの種が五つ、ちょこんと鎮座していた。
◇◇◇
旧人類は皆、魔法使いだった。
生まれ持った魔法に加え、教育により新たな魔法を覚えて生活に役立てるのが当たり前の世界が、少なくとも二千年以上続いていると習った覚えがある。
もちろんその素質には個人差があり、強大な魔法をいくつも習得出来る者もいれば、最低限の簡単な魔法しか習得出来ない者もいる。
ただどちらにしても、先天的な魔法と後天的な魔法、その二つを使いこなすのが旧人類だったのだ。
――あの日、砂と化してしまった者達は、という意味ではあるが。
「んー……やっぱり炒った方が美味いよな……でも火はなるべく使いたくないし……」
ぽりぽりと音を立ててひまわりの種をかみ砕き、水で流し込みながらファレンは大きなため息をつく。
魔法を使うときはいつもそうだ。別にこの魔法は体力を持って行かれるわけでもないのに、散々浴びた同情と侮蔑の混じった視線が今も突き刺さるようで、どうにも気分が沈んでしまう。
「全く魔法が使えない連中に比べればまし……とも言えないのがなぁ……役立たずにも程がある……」
自虐的な笑みを浮かべ、ファレンはまた一つひまわりの種を口に放り込んだ。
旧人類の中には、魔法の素養が非常に低いため後天的に魔法を習得出来ない者が存在した。
人口の一割にも満たない人数だが、彼らは基本的に生まれながらの魔法を持たず、また運良く持っていたとしても実運用に耐えるレベルでは無いのが特徴だ。
例えばファレンの魔法は「種を作り出す」というものだが、一日に五粒しか作れないという非常に厳しい制約がある。
高度に魔法が発達した社会に於いて、たった五粒の種を必要とする場所などあるはずもなく……当然のようにファレンはなり損ないの烙印を押されたのである。
そして、旧人類達が食料を血眼になって探し奪い合う、この終末という世界に至ってさえ、彼の人生は一発逆転を成し遂げられない。
夜と季節を失ったこの世界は、陸に植物の存在を許さない――種を作ったところで、芽を出すことが無いのだから。
「……ま、ちょっとは腹の虫も紛れたってことで……よい、しょっと……!」
小さな実りを腹の中に収めたファレンは、目の前でこんこんと眠り続ける少女を抱き上げる。
そしてふらついた足取りで慎重に二階への階段を上っていった。
これほど衰弱しているなら、本当は動かさない方が良いのかも知れない。
だが、弱っているからこそ眠る時間は「夜」であった方がいい気がするから。
「……おかあさん…………」
「…………」
耳元で囁く声が、ファレンの鼓膜を震わせる。
スパムを食べるようになった頃からだったか、彼女は時折譫言のように母を呼び、そっと涙を流すことが増えた。
「泣いたら折角飲んだ水が出ちまうぞ? ……明日はたっぷり水を飲ませないとな」
「…………」
布団の上に寝かせた少女の頭をポンポンと撫で、ファレンもまた隣に敷いた布団に寝転がる。
すすり泣く声は、子守歌にするには……あまりにも胸が軋んでしょうがない。
(せめて回復の魔法でも……いや、沈静の魔法だけでも使えりゃ、良かったのにな)
心の中でひとりごち、ファレンは瞼を閉じる。
暗闇の空間に身を任せれば、疲れ切った身体はあっという間に彼を夢の中へと誘っていった。
――どこまでも役立たずな自分の存在に、深い落胆を残したままで。
◇◇◇
そこは、かつては底が見渡せるほど透き通った川を抱く、静かな山間の集落だった。
まだ深海からの訪問者が陸に現れる前、一人ぼっちになった少年は記憶だけを頼りに海を渡り、何日もかけて母の故郷であったこの集落へと辿り着いたのである。
集落には、わずか五十人ほどの生き残りが近隣から集まり身を寄せ合っていた。
お菓子やカップ麺を詰めた鞄一つではるばるやってきた少年を、彼らは温かく迎え入れる。
辿り着いた日に振る舞われた鮎の塩焼きの味は、きっと一生忘れることが無いだろう。
「坊主、名前と歳は?」
「あ、えと……立華蓮(たちばな れん)……歳は十五です」
「蓮くんか。十五にしちゃ随分ちっこいな! 俺はここのまとめ役をしているタイラーだ、よろしくな」
「た、タイラー、さん……?」
「おう! 名字が平良だから、タイラーな」
奇妙な呼び名に目を白黒させる蓮に、タイラーはニックネームをつけることを提唱する。
この状況がいつまで続くかも分からないが、長期戦になることは間違いない。だから少しでも、方々から寄せ集まった者同士の親睦を深めるために愛称で呼び合うことにしたという説明に、少年は「なら」ととある名前を口にした。
「じゃあ、俺のことは……ファレンって呼んで下さい」
「わかった。……お前さんに似合いの、綺麗な愛称だな」
――それは、彼がほんの半月前まで抱いていた、夢の名残。
進学の道を閉ざされた少年が、この世界で生き抜くために使おうと思っていた活動名である。
こうして始まった終末の暮らしは、案外快適だった。
元々人口の少ない地域だったから使える建物も少ないとは言え、周囲は山に囲まれ山菜やキノコ、木の実も取り放題。
更に澄んだ川にはカニや川魚が生息していたし、飲み水の井戸もあちらこちらに点在していたお陰で、彼らは建物に残された物資を節約しながら皆で助け合い生き延びていた。
けれど、そんな穏やかな時間は……長くは続かない。
いつまで経っても訪れない夜、一向に気配すら感じない夏。
あれほど豊かだった森は急速に痩せ細り、枯れ果て、それに合わせるかのように川も干上がってしまった。
徐々に生活は苦しくなり、それでも他の地域よりは井戸水がある分恵まれていた集落は、度々他の集落からの襲撃に遭うこととなる。
「人が足りない。食料を探すにも、集落を守るにも、もっと人を増やさなければ……!」
集落では、女は片っ端から子を産む事に専念させられた。
小柄で体力も無かったファレンは、年配の女性に混じって子を育てる役目を与えられる。
「ファレン、女のところに行かねえの? 若いんだからガンガン使っちゃっていいんだぜ?」
「んー……俺はいいや、他に使いたい人がいっぱいいるでしょ?」
「そうか? 捕虜の女もいるし、まあ遠慮はするなよ!」
ずっと、腹はペコペコだった。
いつしかこの集落も食料と女を求めて、積極的によその集落を襲撃するようになっていたけれど、その事に違和感すら抱けなかった。
上手く行けば数日は何かが食べられる――あの頃の自分は、新人類から見れば獣と呼ぶに相応しかっただろう。
だがそんなある日、ファレンの集落は大規模な襲撃を受ける。
二百人規模の一大勢力になすすべも無く降伏した集落では、大人たちがもうおしまいだと打ちひしがれていたのを、良く覚えている。
きっとわずかに残った食料も、井戸も、奪われる。若い女は用途があるから連れ去られるだろう。
そして残された自分達は、この明るい世界で朽ち果てていくしか無い――
悲嘆に暮れた集落で、しかし襲撃者の大将は意外なことを口にしたのだ。
「へぇ、綺麗な顔だな……そうだな、そいつを慰み者として差し出すなら、うちの配下に入れてやっても良いぜ」
「へっ? ファレンを、ですか……? その、こいつは男ですよ?」
「はぁ!? 嘘だろ、この面で男ぉ!?」
「まじかよ……いや、むしろその方がいいな。男なら孕んで遊べなくなることも無いし、女より丈夫だから長持ちしそうだ。どうだ、悪くない取引だろう? お前らはこのままここで暮らせる。よそに食料を奪いにいくにしたって、人数は多い方がいい。違うか?」
「…………!!」
男の提案に、一瞬にしてその場の空気が変わる。
変化を敏感に察したファレンの背中には、つぅと冷や汗が伝う。
頭の中を駆け巡るのは、集落で散々見て見ぬふりをしてきた女達の扱い。このままでは自分も同じ目に……いや、もっと酷い目に遭うかも知れない……!
それでも、きっと集落の人たちは庇ってくれるだなんて、甘い考えは――
「ああ、どうせガキの面倒しか見られない、なよっちくて種付けすらしない役立たずだったんだ。これ一つで片がつくなら安い」
「!! ……タイラー、さん……そんな、どうして……!?」
まとめ役の彼の一言と、ザッと集まったどこか下卑た視線により、ことごとく打ち砕かれた。
◇◇◇
「……っ!!」
がばりと身体を起こせば、目の前にはこの世界から失われたはずの暗闇が広がっていた。
ファレンは一瞬混乱を覚え、しかしすぐさま自分が放送室で眠りについたことを思い出す。
「はっ、はっ……くそっ……何で今更、あの夢を……!」
喉はひりついて、心臓の早鐘は止まる気配が無い。
ファレンは覚束ない足取りで階下に降りると、ポリタンクからビーカーに注いだ水を一気に飲み干した。
その顔色は真っ青で、未だ身体の震えは止まらない。
「大丈夫、大丈夫だ……今の俺は安全だ……」
何度も、何度も。
震える声で呟くファレンの手には、ビーカーとスパム缶がまるで命綱のように握りしめられていた。
――ファレンにとっては終末を凌駕するほど、最悪の日。
すぐさまその場から逃げ出したファレンは、うっかり足を滑らせて谷底へと転がり落ちてしまう。
追っ手は谷に下りてこなかった。かなりの高さがあったから死んだと判断したのだろう。
だが、幸いにもファレンは生きていた。
どのくらい気を失っていたのかは分からない。とにかく目を覚ました彼は、元は川であった砂の道を海に向かってひたすら進み始める。
途中で手つかずの廃墟から食料と水を補給しながら歩くこと一月、彼は意図せず新人類の街に迷い込み……そこで息絶えかけていたところを保護されたのである。
「…………はぁ……」
やがて少しずつ、肩の力が抜けていく。
からん、と床に転がるスパム缶の音が、あれは夢だと証してくれるようで、実に耳に心地よい。
「……仕事、行くか」
ぐっしょりと汗に濡れた身体では仕事着を着る気にもなれず、ファレンは袋に服を詰めて立ち上がる。
時間は分からないが、とても二度寝は出来そうに無い。きっと早めに街に着くだろうから今日は仕事の前に水浴びをさせて貰おうと、ファレンは玄関へと向かうのだった。
◇◇◇
それから二週間後。
いつものように仕事を終えたファレンは、両手に荷物を持ちだるい身体を引きずりながら、帰路を急ぐ。
流石に毎日スパム缶一つで遅くまで客を取るのは身体に堪えるが、今日はちょっとだけご機嫌だ。
「ふふっ、今は七時十二分……はぁ、これでやっと人間のリズムを取り戻せる! やっぱり良いなあ、時間が分かるって。こんなことなら変な意地を張らずに、さっさと強請っておくんだった……!」
ファレンの左手首には、美しい螺鈿の装飾が施された腕輪が嵌まっていた。
これは水陸両用の腕時計だ。どうやら深海でも一日の時間は24時間らしく、発光する長針と短針が久しぶりに正しい時を教えてくれる。
強いて言うなら、目覚まし機能が音ではなく「最新版デンキウナギ式ビリビリタイプ」なのが少々不穏ではあるが、そこまで贅沢は言っていられない。
あの酷い夢を見た日、ファレンが街に着いたのは随分早い時間だったらしい。
まだ街に人影はほとんど無く、宿屋も開いてないからとぼんやり泉で佇んでいたら、門番から連絡を受けたのであろうヌクアと常連客達が血相を変え、びしょ濡れで駆けつけてきて。
「……なるほど、泉に腰掛けた濡れ髪の姫……これは寝起きに効く……はぅっ」
「ちょっと、あんた達が倒れてどうするんだい!! このエロじじい達が!!」
――尊さに崩れ落ちた彼らを一喝したヌクアから「ファレンちゃんは、いい加減に時計を持ちなさい!!」と二時間にわたり説教を食らう事になったのである。
まあ、お陰で客の一人が手配していた受注生産の時計(半年待ち)はたった二週間で手元に届いたのだから、これも怪我の功名と言うことにしておこう。
「にしても……流石にそろそろ体力の限界、かな……備蓄のスパムに手をつけるべきか……」
どうにも力の入らない身体を引きずりながら、ファレンはひとりごちる。
普段の仕事で貰っていた対価は、日にスパム三個。最近のファレンが食べるのは一日二個となっていて、残った缶は今後のためにとコツコツ貯めているのだ。
しかし、どれだけ味に飽きているとは言え地道に貯めた物を取り崩すとなると、なんとなくもったいなさを感じてしまうのは何故なのだろうか。
「まあ背に腹は代えられないか……はぁ、そろそろ目が覚めてくれないかなぁ……」
疲弊した頭に浮かぶのは、今も教室ですやすやと眠る少女の姿だ。
高カロリーなタンパク質をたんまり食っちゃ寝したお陰だろうか、ここに来た頃に比べれば随分と肉もついてきて、その寝顔は実に幸せそうである。
そろそろ無理矢理起こしてみるのもありだろうかと思案しつつ、ファレンは今日も校門をくぐる。
――この後すぐ、待ちに待った瞬間が訪れるとは思いもせず。
◇◇◇
「あ、あのっ!! 助けて下さって、ありがとうございます、天女様!!」
「…………!?」
教室の扉を開けた瞬間、耳をつんざくような大声にファレンはぴしりと固まる。
一体何事かと部屋の中に視線を移せば、出がけまですやすやと寝ていたはずの少女が布団の上に座っていた。
「すっすみません、あたし、すっかり死んだと思ってまして!! 気持ちよく寝たまま口を開けたら天女様が美味しいお肉を運んでくれるだなんて、天国って素晴らしいなぁって……まさかまだ生きてたなんて思わなかったんです! その……ごめんなさい、ずっとぐうたらしてて!」
「うっそだろ、このまま意識が戻らないかもって心配してたのに!!」
「!!」
相変わらずの大声で明かされる真実に、ファレンはくらりと目眩を覚える。
どうやら話によると、彼女はかなり早い段階で意識を取り戻していたらしい。だが本人は久々に口にした肉の味に「これはあの世に違いない」と思い込み、そのまま与えられるだけの怠惰な日々を堪能していたようだ。
(くそう、心労の積もった俺の三週間あまりを返してくれ!)
あまりの衝撃にへなへなとその場に崩れ落ちたファレンは、思わず本音を叫ぶ。
そうして「ま、まあ、元気になったのなら良かった」と続けようとした……その時、目の前の異変に気付いて怪訝な顔をした。
「……おい、どうした……?」
「…………あ…………お……お、男…………ひぃっ!」
「……!」
ファレンの声を聞いた途端、少女の顔色がさっと変わる。
遠目で見ても分かるほどガタガタと震え始めた少女は「ごめんなさい、ゆるして」と呟きながら必死に手足を動かし後ずさった。
――その足首に残された、薄い傷跡。
ああ、既に被害に遭った後なのかと、ファレンはぐっと唇を噛みしめる。
だがこのままでは埒があかない。何とか彼女を落ち着かせなければと、なるべく穏やかな声で話しかけようとした、その瞬間。
「ぐううぅ~」
「………………へっ」
……この三週間、聞き慣れた欲望の轟音が、部屋に鳴り響いた。
◇◇◇
「ほら、食べろ。話はその腹が落ち着いてからだ」
「はひっ……あわわ……」
「……心配しなくても、俺は近づかない。その『線』よりそっちには行かないから。……腹、減ってるんだろ? ここ数日で一番のいい音だったしな」
「ううぅ……ごめんなさいぃ……」
未だ怯えの色が消えない少女を前に、ファレンはどかっと入口近くの床に座り込み、スパム缶を開ける。
窓際の壁に張り付いた彼女の前には、調理実習室から持ってきたトレイ。その上にはスパム缶が一つと真水の入った水筒、そしてフォークが載せられていた。
わずか七メートルの間に無造作に置かれたおたまは、ファレンの設定した彼女を守る境界線だ。
「……別に変なものは入ってない。スパムはお前が散々貪っていたあの世の肉だし、水筒の中身はただの水だ」
「ただの、水……?」
「飲んでみりゃ分かる」
こちらを警戒したまま微動だにしなかった少女であるが、ファレンがもりもり食べる姿に耐えられなくなったのだろう。おずおずと水筒の蓋を開け、匂いを嗅いでそっと口をつける。
すると驚いたように目を丸くし、こくり、と喉を鳴らした。
「……お水、美味しい……しょっぱくない……!」
「本物の真水だからな。その様子だと、真水を飲むのは久しぶりか?」
「はい……井戸も海の水が混じってたから……」
水ってこんなに甘かったんですねと感慨深げにちびちび飲む様子を見るに、彼女の集落は真水を得るのに相当苦労していたのだろう。
緊張が緩み、漸くスパムにも手をつけ始めた少女にファレンは「別に敬語じゃなくていいから」と素っ気なく返す。
「はい……えっと、天女様……あれ、でも男なら……天男様……?」
「いや俺、お前と同じただの旧人類だから。ファレンでいい」
「もぐもぐ……あ、あたしは清遠瑠璃(きよとう るり)です。リルって呼ばれてました。歳は……多分、大人?」
「……ああ、日付が分からないのか。リル、終末が起こったときはいくつだった?」
「十三です。中学一年生の終わりでした」
「なら、今十八だな。確かに大人だわ。俺二十歳だし、そんな畏まらなくていいって」
「はいっ、じゃない、うん……」
あっという間にスパム缶を食べきったリルは、名残惜しそうに何度も水筒を傾けている。
よほど水が美味しかったのだろう、こちらをチラリと窺う顔には「もうちょっと欲しいなぁ」と文字が浮き出ているかのようだ。
「後で水筒に汲んでくる」と言えば、実に嬉しそうに相貌を崩した。
「ファレンさんは、ここに一人で住んでるの?」
「ああ。流れ着いて二年くらいかな……たまにお前みたいな行き倒れは来るけど、基本一人だ」
「そうなんだ。凄いね、一人でこんな美味しいお肉まで見つけちゃうなんて」
「……まあ、なんとか、な」
言葉を濁すファレンを、リルは不思議そうに見つめている。
ファレンは誤魔化すような咳払いをし「それでお前は?」と訊ね返した。
「こんなところまで一人で来るなんて、よほどの事情があるのだろう? ……どこかの集落から逃げてきたか」
「……ううん、逃げたんじゃ無い。……追い出されたの、お母さんと二人」
「!」
すっと、教室の気温が下がる。
沈黙は続きを促す合図と受け取ったのだろう、リルは俯いたまま、ぽつぽつとこれまでのことを語り始めた。
◇◇◇
終末で父親を亡くしたリルは、母親と共にとある集落に身を寄せる。
彼女の口から出てくる集落の様子は、まさに以前ウドゥイに聞かされたのと変わらず、だが彼女は幸運にも最悪の事態を逃れていたのだという。
「お母さんが、集落の一番えらい人と仲が良くて。私、デカいし体力もあったから食料調達隊に入れられていたの」
「そうか」
「でも、あの日……その人の息子と結婚しろって言われて、足首を切られて……そしたら、お母さんが鉈で……」
どうやら彼女の母親は、娘を助けるために有力者の息子に嫁がせようとしたらしい。
権力の側にいれば酷い扱いを受けることは無いと踏んでの行為だろうが、案の定男はあっさりリルの足を奪い、数多の女達と同じように扱おうとする。
怒り狂った母親はその場で有力者親子を手にかけ、リルの足を魔法で回復させたのだ。
「……それで、追放されたと」
「うん。対抗勢力の人が長になれたから、命だけは取らないけど出て行けって」
そうして母子は、当ての無い放浪を強いられる。
だが、集落を離れて暫くして……母は息を引き取ったという。
「お母さん、私の足を治しちゃったから」と涙ぐむリルに、ファレンは声を詰まらせた。
――この時代に生き残っている旧人類は、なり損ないだけ。
恐らく母親は、生まれつき回復魔法が使えたのだろう。
だが、素養の無い者が使える魔法は決して役に立たない……推測でしか無いが、彼女の回復魔法は使うことで己の命を削るものであったのかもしれない。
そこから約二ヶ月、彼女は海沿いの街を――新人類遭遇の危険性がある地域を敢えて選んで放浪しながら、何とかここまで生き延びてきたのだそうだ。
「お前、なかなか無謀だな」とファレンが呆れれば「だって、危ないところなら……男に会わなくて済むかなって」とリルは俯いたまま口を尖らせている。
(ああ、お前は生きたかった方か)
そんな様子に、ファレンは安堵と……少しだけ羨ましさを感じていた。
これほどの目に遭っていながらも生を選ぶ逞しさは、こんな昼しか無い世界でもちょっと眩しくて、真っ直ぐ目を見られそうにない。
「で、倒れたら天女様がお迎えに来てくれたと」
内心を誤魔化すように話を促せば「だってぇ……」とリルは部屋に干してあった仕事着を見上げた。
「これ、天女様の衣装だし」
「……へっ?」
「小さい頃から毎年見ていたから、間違いないよ。海神様の神社で奉納するの、夏祭りの時に天女様の衣装を着て……凄く綺麗な舞なんだ」
「…………そうか、つまりリルはこの辺りの出身なんだな」
目をぱちくりさせるリルに、ファレンは手短に説明する。
この衣装は新人類から貰ったもの。そして彼らはこの着物を、新人類の街に隣接するとある遺跡群で発掘してきたことを。
思いもかけない事実に、リルは声も無く固まり……やがて絞り出すように「そっかぁ」とため息を零す。
「私の街……もう、私達のものじゃ無くなっちゃったんだ……」
「リル……」
「そっか、でも、残ってはいるんだ……」
体育座りで俯いてしまった彼女の表情は窺い知れない。
ただ肩をふるわせ時折しゃくり上げるリルに、ファレンは「……水、汲んでくる」と言い残して、そっと教室を後にした。
◇◇◇
「あのね、ファレンさん……ありがとう、助けてくれて」
暫く時間を潰して教室に戻れば、リルは壁に凭れたままうとうとと船を漕いでいた。
おたまの境界ギリギリから「二階に放送室がある、そこなら暗いから寝やすいぞ」と声をかけるも、この調子では上まで上がれなさそうだ。
一応先ほどまで彼女が寝ていた布団はあるし、問題ないかとファレンはそっと枕元に水筒を置く。
「……本当に、ありがとうなのか?」
のそのそと布団に近づき水筒に口をつけるリルから少し距離を取り、ファレンは静かに訊ねる。
どうして? と首を傾げるリルは、もう半分夢の中にいるようだ。これ以上話しても無駄かも知れないと思いつつも、ファレンは「だってさ」と話を続ける。
「俺ら旧人類はさ、もう絶滅が確定してるじゃんか」
「……うん」
「どれだけ頑張って生きたところで、何も成せない、残せない。いやまあ、終末が来なくたってなり損ないの俺達じゃ何も残せないのは同じだっただろうけどさ……そんな夢も希望も無い世界で生き残ったって、不幸なだけじゃないかって俺は思うんだよ」
本当に、ここで朽ち果てなくて良かったのか? ――そんな想いを言外に乗せてファレンは言葉を紡ぐ。
布団の中でぼんやりと話を聞いていたリルは、暫く「うーん」と唸っていたかと思うと、急にガバッと起き上がった。
「おわっ! ちょ、いきなり起きるなよ」
「あのねファレンさん、あたし、あんまり頭良くないの。学校の成績だって下から五本の指に入っていたし、体育は得意だけどそれ以外はさっぱりで」
「お、おう、つまり体育と給食が楽しみだったクチだな」
「えへへ……だから、難しいことはわからないの。でも生きてたら、何か一つくらい……いいこと、あるんじゃないかなって。ほら、死んじゃったらいいことも起きなくなっちゃう」
「……さっきまで、あの世でスパム食べさせられていた人間の言うことかよ」
「むぅ、あんな美味しいお肉を食べたら、死んだって思っちゃうよぉ」
明日も食べられるかなぁと、布団に寝直してくふくふ笑うリルの目が、とろんと落ちていく。
「その脳みそ、筋肉で出来ているのか? それともスパムを詰めているのか?」と突っ込んでも、すやすや寝息を立て始めた彼女からの返事は期待出来無さそうだ。
(……変な奴だな、お前。この状況で食料以外のいいことを期待するだなんて)
ここに棲み着いてから、何人もの行き倒れを介抱してきた。
いろんな奴がいたけれど、それでもここまではっきりまっとうな「生きたい」を口にした者はいなかったように記憶している。
――彼女が眩しく見えるのは、きっと食い意地のせいだけじゃない。
「……いい夢が見られると良いな、スパム食べ放題とか。俺はごめんだけど、な!」
本格的に眠りに落ちたリルに背を向け、ファレンは教室を後にする。
まったく理解不能だと首を振りながらも、その口元は少しだけ緩んでいた。