沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
HomeNovelBlogGalleryToolsProfileContact

第6話 明日

小説一覧へ

 世界は、何も変わらない。
 砂と化して崩れた人たちも、安らぎをもたらしてくれた夜やめまぐるしく変わる季節も、取り戻すことは出来ない。
 恐らく百年もしないうちに旧人類はこの星から姿を消し、深海の民であった新人類が新たなる人類として歴史を紡いでいくことだろう。

 けれど。
 彼らの世界に、かつての世界の美しさを遺せたのなら――なり損ないの人生としては、上々なのかもしれない。


 ◇◇◇


「これが、甘い……? 舐めた途端頭を殴られるような衝撃が、甘いだって!? 信じられない、陸の人たちの舌は一体どうなってるんだい!!」
「そんなにびっくりするほど甘くはないと思うんだけどなぁ……ふふっ、このねっとりした甘さが幸せぇ……」

 いつもの仕事終わり、真水を湛えた泉の傍では、賑やかな声が上がっている。
 先に水浴びを終えたリルが、住処まで待ちきれずに食べ始めてしまった今日の戦利品たる羊羹に舌鼓を打つ横で、一口味見をさせて貰ったトゥルペはあまりの甘さに頭を抱えて悶絶していた。

「ねえファレン、本当に陸の人はこんな甘い物を普通に食べていたのかい!?」
「まあ、人によりますけどこのくらい甘いお菓子はたくさんありましたよ、ってうあああトゥルペさん! あっち向いてて下さいって!!」
「あはは、ファレンはいつまで経っても慣れないよねぇ!」

 こちらに背を向けてくれているリルとは対照的に、トゥルペは甘さに顔を顰めつつも、まったくお構いなしでファレンの水浴びを眺めている。最近はファレンの慌てふためく様子を楽しむために、わざとやっているのではないかと思うほどだ。

 いや、ファレンだって頭では理解している。トゥルペが頼れる兄貴分であることも、宿屋の客達と違ってファレンをそういった視線で見たりはしないことも、長い付き合いだし今更確認する必要すら感じないくらいには。
 ……ただ理解したところで、女性の姿を取ったトゥルペのメリハリがありすぎる身体は、視覚的に大変よろしくないだけで。

「むしろトゥルペさん達は、何が甘いものなの? 甘いもの、好きじゃない?」
「んー、そもそもあんまり甘い物を楽しむって文化がないかな。ホタテやカニは極上の甘味だと思うけど、どちらかというと手土産とか贈答品って感じ。後は甘エビもなかなか……リルちゃん、涎が落ちてる」
「……全部、美味しそう……トゥルペさん、次のお花代は甘エビで!」
「はいはい、リルちゃんは相変わらず容赦が無いねえ!」

 ファレンが身を縮こまらせ手早く身体を洗う間に、リルは早速明日の対価を決めてしまったらしい。
 トゥルペもなんだかんだ言いながら、遺跡から発掘するよりはずっとお手軽な仕事なのだろう「まさか陸の人が、そんなに海の生き物を食べるとは思わなかったよ」とどこか嬉しげである。

「カニを茹でて食べたのはびっくりしたけどね。甘エビも茹でるのかい? それとも焼く?」
「あー、甘エビは刺身で頂きますね。殻とわたを取って、中身をそのまま」
「そこは一緒なんだ」

 押し花のお礼として貰ったカニを堪能した後、トゥルペは「陸の人もカニを食べる」という世紀の大発見を陸の行政府に報告したらしい。
 以来、花の対価やファレンへの貢ぎ物として海産物が正式に認められ、二人の食糧事情は劇的に変貌することとなる。
 ――もちろん、海藻はそこに含まれない。ファレンとリルも、海藻のかの字すら口にしない。
 きっと薄々彼らも、ファレン達が海藻をかつて食べていたことには気付いているのだろうが、それは決して触れてはいけない禁忌として封印されていると見た。

「お待たせ。リル、そっちは俺が持つ。帰ったら今日中に全部捌かないとな」
「うん! ……そういやファレンさんってお魚捌けるんだ、凄いねぇ」
「んな訳ないだろ。まず図書室で、魚の捌き方と保存食の作り方を調べるところからだ」

 街の入口に向かうファレンの手に握られているのは、二つのバケツ。
 片方には真水精製の副産物たる塩が、そしてもう片方にはウドゥイから貢がれた名も知らぬ魚たちがてんこ盛りである。
「ウドゥイさんは、もうちょっと加減を覚えてほしいなぁ……」と肩をすくめながらも、ファレンの瞳には光が宿り、口元には笑みを含んでいて。

「……良かったねファレン、笑えるようになって」

 街の入口で二人の背中を見送ったトゥルペは、感慨深げにひとりごちキラキラと光る水面の向こうへ音も無く消えていった。


 ◇◇◇


 ファレン達がこの街で花を売り始めてから、一年の時が過ぎた。
 なり損ないの魔法では案の定世界の運命まで変えることは能わず、けれども春を売るファレンの生活にはほんの少しの余裕をもたらしてくれたようだ。

「姫、俺っ明日の『髪愛で会』に初めて参加出来るんだけど! その、姫はどんな贈り物が欲しい……?」
「俺を想って用意してくれる物なら、何だって嬉しいですよ。ふふっ、そんなに緊張しなくても大丈夫です。あ、ただし」
「……ただし?」
「ヌクアさんから聞いてると思いますけど、俺の髪に花を挿そうとしたら永久出禁になりますから」
「ひっ! ……き、気をつけるよ……」

 いつもの昼下がり、ファレンはサロンの定位置で姫を尊ぶ厳つい男たちとの会話を楽しんでいる。
 今日は、二階を使う客はいない。二ヶ月ほど前から、床入りをするのは馴染みの客で、しかもファレンが宿屋の申し込み台帳から選んだ人だけに許されるようになったためだ。

 髪を愛でるのはいい、けれど春を売る相手は選びたい――

 ある日ファレンが意を決して口にした訴えは、案の定行政府を巻き込む大騒動となった。
 何せあのワカメ派とコンブ派までもが手を取り合って、何卒仕事を続けて欲しいとファレンの元に陳情にきたほどだ。流石のファレンもこの事態は予想外で「ぜ、善処します……」としか返せなかったという。

 結果的には「サロンの語らい以外に、皆が姫の御髪を堪能出来る機会を設ける」というヌクアの助け船もあって、正式にファレンの請願は受理されたのである。

「おっ、兄ちゃんは初参加か? いいか、あまり高価な贈り物をするのは止めておけ。姫は奥ゆかしい方でな、自分のために身を削るような貢ぎ物には心を痛めてしまう」
「ちゃんと会場に来る前に、真水で全身を清めておけよ! 畏れ多くも我らが姫君を独り占め出来る時間なのだからな! ……ところでここに、先日遺跡で発掘した姫御用達の櫛があるのだが」
「参加者限定抽選販売の抜け毛ロケット、儂は前回賜ったから抽選券が余っておるぞ?」
「……くそっ、古参の商売上手め! 手が勝手に財布を開いてしまう!!」

 親切心から……いや、新規を沼に引きずり込もうと手ぐすねを引く常連達と、海からやってきたばかりの新人類達の掛け合いを、ファレンは楽しそうに眺めている。
 その胸に去来するのは、ちょっぴり複雑な達成感だ。

(……だいぶ変な形に着地した気はするけど、ある意味思い描いた人生になっているのでは……?)

 かつて魔法使いのなり損ないとして社会からつまはじきにあった少年は、その美貌を生かし男の娘配信者として人気者になる未来を描いていた。
 それが一瞬にして砂塵と化し、紆余曲折を経た結果がこの光景である。
 集まってきたファンは筋骨隆々とした……それどころか種族さえ異なる、そして髪を海藻に例えて尊ぶ変態紳士ばかりだけれど、ファレンは確かにこの世界で最も人気のある陸の人の一人になった訳で。

「あの、本当に無理はしないで下さいね。俺、こうやって推して下さるだけで十分ありがたいと思ってますし」
「いやいや心配しなくて良いぞ、我らが天上の至宝たる姫よ! 明日はとびきりのプレゼントをお主に用意しよう、有能な万屋もいるしな!」
「それ、いつもと同じじゃないかい!? 今から頼むなら、報酬に色は付けて貰うからね!!」

 まあ、こう言うのも悪くない――

 ふと胸に湧き上がった温かさに未だ気付くこともなく、ファレンは悲鳴を上げるトゥルペを宥め、受付からのやれやれと言った視線に微笑みを返すのだった。


 ◇◇◇


 持ち時間は一人五分。贈り物片手に語らうも良し、存分に髪を愛でるも良し、ただし触れていいのは髪だけ――
 ヌクアはどこかで陸の握手会文化を学んだのか? と勘ぐりたくなるくらい「髪愛で会」はファレンやリルにとって既視感のあるイベントと化していた。

「なんと指通り滑らかな御髪よ……このするするとした感触が堪らぬな! 姫よ、一体何をすればこのような美しき髪を手に入れられるのだ?」
「特別なことはしてないですよ。地肌までしっかり洗って、皆さんから頂いたヘアオイルやヘアパックでお手入れしているだけです。あ、後はちゃんと食べることかな」
「何とそれだけでこれほどの艶を! 我らの頭に生えている物とはもはや別物、比べるのも烏滸がましい尊さであるな」

 宿屋に設えられた交流ブースで、新人類達は一人ずつたった五分の逢瀬を尊び、ファレンと語らいつつ全力で髪を満喫する。
 時間厳守、そして派閥争いは御法度との厳しいルールを定めただけあって、表面上宿屋の外まで続く行列は平和そのものだ。
 ……まあ、右も左も分からぬ新入りへの派閥勧誘があるのは、見ないことにしておこう。

「久しぶりだな、姫よ。ようやく仕事がひと段落してな、何とか今日に間に合ったよ」
「お久しぶりです、リトクワさん。……あれ、今日は髪を梳かないんですか?」

 そんな中、リトクワがいつものようにブースに現れる。
 だが、時間いっぱい髪を堪能出来るように櫛を持っている筈の右手は、見慣れないバッグを握りしめていた。
「近いうちに『申し込み』を入れるから、姫の御髪はその時に堪能させてもらうよ」と少し疲れた様子のリトクワに、珍しいこともあるものだと首を傾げていれば、彼は「今日はこれをお主に食べて貰いたくてだな」と早速目の前でケースを開く。

「以前、髪にも良いと言っておったであろう? 今朝採れたてだ」
「うわぁ……凄い大ぶりじゃないですか! え、これ俺貰って良いんですか?」
「うむ。ああ、リルと分けた方が良いぞ。後ろで凄い顔をしておるから」
「わあい、ありがとうリトクワさん!」

 目の前で開けたバッグの中には、特大サイズの牡蠣が十個詰め込まれていた。
 更にチラリと見えた瓶に、二人のテンションは一気に上がる。
 ――少し前、トゥルペがリルに「君たちが魚につけたいって話してた『しょうゆ』ってのはどういうものなの?」と聞いていたのは、きっとこのためだったのだろう。
 瓶に書かれた賞味期限は三年前。このくらいなら問題ないと判断してしまう自分が、ちょっとだけ悲しい。

「じゃ、早速火を付けて」
「こらっリル! 流石に今はダメだ。こう言うのはイベントの後で」
「ああ、むしろここで食べてくれるか? ……その様子ではヌクアから詳細は聞いておらぬな。今日は調査も兼ねて来ておるのだ。陸の人の食生活を研究するための、な」
「へっ」

(ああ、それで食べ物を焼くセットを持ってきてくれって言われたのか)

 リトクワ曰く、各地の遺跡を分析する上でも食生活の研究はかなり大事なのだという。
 更に海産物をファレン達が食べられることが発覚したお陰で、やむを得ず保護せざるを得なかった野良人の食糧調達にも役立てられそうなのだとか。
 そう言われてしまえば断りようもなく、ファレンは爛々と目を輝かせるリルと共に倉庫で見つけたカセットコンロを用意し、網を乗せてその上に立派な牡蠣を並べた。

 爆発しませんようにと内心祈りつつつまみを回せば、青い火が灯る。
 その様子に、順番を待つ参加者から「おお……っ」とどよめきが起きた。

「あの、焼くのは良いんですけど……俺達がお腹を壊さず食べられるようにするなら、十分以上かかっちゃいますよ? その上食べる時間もかかりますし……髪愛で会の時間制限に引っかかって怒られません?」
「何、その点はヌクアに許可を貰っているから案ずるでない。これはれっきとした調査であるし、その代わりに髪には触れないという取り決めも結んでいるからな! はぁ、仕事のためとはいえ何と勿体ないことよ……」
「……あはは、次の逢瀬は覚悟しておきます…………」

(やばい、ただでさえ週一だった床入りが月二回に減って延長時間が延びてるのに……こりゃ半日コース確定だな)

 どうやら、正式な調査とはいえ普段の仕事に支障を――なにせ見物人があまりの尊さに肺呼吸を忘れて倒れたことだってあるのだ――来すのはまずいというヌクアの判断で、ある程度ファレンに慣れたものが集うこの場を利用することになったのだろう。
 とはいえ、あんまり時間をかけるとヌクアさんの雷が落ちかねない。
 内心ひやひやしつつ、ファレンがリトクワから焼き加減やその他の調理法についてのヒアリングを受けているうちに、なんとも言えない香ばしい香りが部屋に立ちこめてくる。

 新人類にとって不快な匂いではないのかと心配したが、どうやら彼らは海の中にいるときほど嗅覚が効かないらしい。
「これから陸にいる時間が長くなれば、そのうち感じられるように進化するのかもな」というリトクワの言葉に少しだけ切なさを感じつつも、まずは目の前のごちそうだとファレンはリルが開けた殻の中にそっと醤油を垂らした。

 ……ああ、この香りはきっと、彼らが感じ取れるようになってもこれほどの感動を覚えることは無いのだろう。

「あはぁ、いただきますっ……!」
「んっ……はふっ、熱ちちっ……うわ、ぷりっぷりだ!」

 冷ます間も惜しいとかぶりつけば、濃厚な牡蠣の旨みが口いっぱいに広がる。
 弾力のある身からじゅわりと出てくる熱い汁に慌てて口を冷やし、心ゆくまで噛みしめて――それからはもう、二人とも無言だ。
 時折はらりと髪が落ちてきて、こんなことなら髪は結んでおくんだったと思いつつもとても手が止められず、ファレンは髪をかき上げ終末前にも経験したことのなかった贅沢に舌鼓を打つ。

「はあ……っ、めちゃくちゃ美味かった……!! ありがとうございますリトクワさん、こんなに美味しい牡蠣を頂いて……あれ、リトクワさん……?」
「…………良い」
「……はい?」
「聖なる御髪をかき上げ揺らしながら、額に汗を流し、頬を染めて我らと同じ食物を口にする姫……これはまた新しい扉が開いた音が」
「しなくて良いですから!!」

(だめだこれ、絶対碌なことにならないやつだ!)

 全く、美しい黒髪が絡めば何でも性癖へと変貌してしまうと言うのか。
 行列のざわめきから「おい、姫様は牡蠣を好まれるようだぞ」「あれは何だ? 溶岩調理器のようなものか、それならばすぐに調達を」と不穏な言葉を聞き取ったファレンは、また彼らの性癖を歪めてしまったのか……と乾いた笑いを溢し、片付けを始めるのだった。

 なお、ファレンの嫌な予感は当然のごとく的中する。
 この日以来、宿屋には毎日誰かが溶岩を封じた蓄熱調理器を持ち込み、ファレンが熱々の海産物を頬張る様を眺める時間が設けられることになったという。


 ◇◇◇


「お疲れ様ファレンちゃん! はい、今日の報酬ね。……相変わらずスパム缶だけど、本当に構わないのかい?」
「ありがとうございます、ヌクアさん。ええ、今のところは品質的にも十分食べられそうですし、何よりリルが喜びますから」
「えへへ……お魚も美味しいけどやっぱりお肉のほうがこう、筋肉に効く! って感じがするんだよねぇ」
「あら、それは聞き捨てならないわねぇ……海にも良質な筋肉を作る食材はたくさんあるのよ? 陸の人も案外海産物を食べられるみたいだし、今度持ってきてあげるわ」
「わあい、ありがとうヌクアさん!!」

 今日も髪愛で会は大盛況だった。
 入れ替わり立ち替わりやってくるお客と、ほぼ休み無しに応対するのはそれなりに疲れる。だが、月に一度行われるこのイベントのお陰で床を共にする客を選べるなら決して悪い話ではないと、ファレンはいつものようにヌクアから対価を受け取る。

 正直なところ対価はスパム以外の方がありがたいが、この食べ飽きた肉の塊だってあと何年食べられるか分からないのだ。
 それなら……特にリルは、二度と食べられなくなっても何の未練も無くなるまで食べ続けた方が、あっさり諦めがつくかもしれない。

「……ところでヌクアよ……我らはいつまでこうしていれば……」
「あたしがいいって言うまでだよ! 全く、毎度毎度あんたたちはどうして騒ぎを起こすんだい、この変態どもが!!」
「ぐぬぅ……悪かったと思ってるぞ、悪かったとは……」
「先月も同じ事を言ってたじゃないかい! いいね、あんた達は明日から一週間、出入り禁止だよ!!」
「い、一週間もだと!? ヌクア、それはあまりにも罰が重すぎやしないか!!」

 笑顔で愛想良くリルと筋肉談義をするヌクアの隣には、厳ついおっさん達が十人ほど、しょんぼりした顔で床に正座していた。
 髪愛で会の会場である宿屋では、ヌクアが目を光らせているのもあって皆礼儀正しく振る舞うのだが、宿屋の外まで続く行列までは監視の目が届かないのが現状で。
 たっぷりファレンの御髪を堪能した新入り達が、夢見心地で宿から出てきたところで熱心に勧誘する各派閥の構成員達が小競り合い……ではすまない取っ組み合いを始めてしまうのは、その後のヌクアの雷を含めて今や恒例行事と化している気がする。

(常識も、文化も、何もかもが違う……へんてこだけど、まあいい人達ではあるんだよな)

「そんな殺生な!」「姫の御髪を拝めないなんて、泡になってしまう」と悲鳴を上げ、慈悲を求めて土下座する男達と仁王立ちのヌクア、そしてそれをすっかり楽しんでいるギャラリー達。
 いつもと変わらない賑やかな光景に、ファレンはそっと独りごちる。

「人類」という概念は、既に書き換えられた。
 いや、正確には本来の持ち主であった彼ら新人類の元に戻ってきた、と言うべきだろうか。
 ともかく、自分達旧人類は今やこの世界の主人公ではなく、築き上げてきた物のほぼ全ては砂と化し、いつしか歴史と記録の中に埋没するだけの種族となることが確定したわけだ。

 それでも、ファレンの心は不思議と――そう、一年前までなら考えられなかった程に穏やかだ。

『きっと僕らは、君たちが教えてくれたたくさんの春の名残を、後世に伝えていくんだよ』

 あの日のトゥルペの言葉が、そして目の前でひとつの「春」を巡って盛り上がる彼らの姿が。
 何を成すことも出来ないはずだった「旧人類」の「なり損ない」の命に、意味を与えてくれたから、ようやく自分はこの現実と本当の意味で向き合えたのかもしれない――

「……ま、残念な性癖まで繋いじゃったのは……俺がいなくなったら新人類の技術で何とかして貰うってことで」
「どうしたの、ファレンさん?」
「いや、何でも無い。さ、後はヌクアさんに任せて帰ろうか」
「はっ!! 姫、も、もうちょっとだけその麗しき御髪を眺めさせて」
「あんた達、説教の合間にその態度とは、全っ然反省してやしないね!! 出入り禁止は十日に延長だよ!!」
「「そんなあぁ!!」」

 むさ苦しい悲鳴に背を向け、二人は宿屋を後にする。
 ……ファレンの内側でずっと鳴り続けていた砂の音が、そして心が崩れ降り積もった砂が、ふっと消えた気がした。


 ◇◇◇


 ファレンが今日もよく手入れされた髪を靡かせ、取り巻きの客達を魅了しているサロンの片隅。
 今やリルの定位置となったテーブルの周りには、かつての教室さながらに椅子が並べられ、屈強な男達が真剣にメモを取り話に聞き入っていた。

「……だから、毎日お水は替えて花瓶も良く洗ってね。で、お水の減りが少なくなってきたら、こうやって」
「なっ……切ってしまうのか!」
「うん。お水の中で斜めに茎をちょっとだけ切るの。そしたら、お花がお水を吸い上げやすくなって、長持ちするんだよね」
「なるほど……ちなみにリルよ、その水はどんな水でもよいのか? 浅瀬の水より深海の水の方が花は喜ぶか?」
「あのね、お花は海の水が苦手なんだよ。だから、必ず丘の上にある泉の真水を使ってね!」

 テーブルの上には、住処の教室から運び込んだ水槽が置かれている。
 光を浴びてキラキラと輝く水の中に手を突っ込み、リルは飾ってある花をお手本に水切りの仕方を教えていた。

 きっかけは、花を競り落とした客の訴えだった。
 十日位は持つと言われた花がたった一晩でしおれてしまった、何がいけなかったのかとがっくり肩を落とした男によくよく話を聞けば、海水を花瓶に注いでいたことが発覚したのだ。

『……むしろ今まで、良くみんな説明もなかったのに真水を使っていたな……』
『なに、お前さん達の使う水の方が肌に合うのではないかと思ってな、ファレンの水浴び後の水をそっと』
『おじさん、それは変態っていうんだよ!』
『……うん、俺は何も聞かなかったことにします!!』

 ……と言うわけで、正しい花の扱い方を知りたいという要望が新人類から上がり。
 とんとん拍子に話は進んで、ファレンよりは花に詳しいリルがヌクアとトゥルペのサポートを受けつつ、彼らに講義をすることとなったのである。

「あたしが教えるなんて、ますますおじさん達が混乱しちゃうんじゃ」と当初は随分不安を抱えていたリルであったが、一度教鞭を取らせてみればこれがまた分かりやすいと大好評で。
 ファレンからすれば「雑すぎて心配になる」レベルではあるが、どうやら適度な大雑把さは新人類の気質と上手くかみ合ったようである。
 最初はたった三人の観客相手に始まった講義も、今ではサロンの一角を占め立ち見客が出るくらいには人気を博している。

「しかしリルも随分博識なんだな。最近じゃ花のことだけでなく、終末前の世界の話もしてくれるし」
「リトクワが喜んでいたな、生きた情報ほど役に立つものはないって。姫もこれで一安心だろう?」
「そうですね、お陰様でリルも何とかこの街でやっていけそうですから」

 ファレンが語らう席の後ろから、わっと歓声が沸く。
 これはきっと、リルのお絵かきタイムが始まったからだろう。相変わらず謎の直線と曲線で構成された彼女の説明画は、解読という新たな娯楽を新人類に提供してしまったようだ。

(……絵はともかく、毎日煙噴きながら頑張ってるもんな)

 ファレンは語ることなく、ただ微笑む。
 毎日の講義で受けた質問は全てノートにメモを取り、帰ってから図書室に突撃して「ファレンさん、これ全然わかんない!」と泣きながら調べているリルの努力をひけらかすことを、きっと彼女は好まないから。

『難しいことは教えられないけど、間違ったことは教えたくないんだよね! ……特にお花のことと、あたしたちの世界のことは』

 いつだったかリルが、ポツリと呟いた言葉は、ファレンの中に深く刻み込まれている。
 いつも前を向いて突っ走っている彼女も、旧人類としての矜持まで手放したわけではないのだろう。

「リル、夜ってのは、深海とどっちがより暗いんだ?」
「うーん、あたし深海に行ったことがないからわかんないや……でも、陸の人は深海に行くと身体がぺっちゃんこになるからなぁ」
「じゃあ、リルのために深海探索用のガラス箱を作るか! そしたら確かめて貰えるな!」
「本当? やったあ、楽しみにしてる!」

 リルの笑顔に、観客達が俄に活気づく。
 十分な酸素もないと海の底に行くのは無理だぞとファレンは心の中で突っ込みを入れ、けれど折角盛り上がっているところに現実的な茶々は無粋かと言葉を飲み込み、目の前の常連客達との語らいに戻るのだった。

「いやぁ、いつ来ても大賑わいだねぇヌクア……って、これは? いつもの花とは違うけれど」
「お陰様でね。ああ、それはリルちゃんが作った特別な『花』だよ。売り物じゃないからね、あと壊れやすいから触れるんじゃないよ!」

 そんな二人を見守りながらヌクアが客をあしらう受付のカウンターには、ピンクのスイートピーが七輪、白磁の器に生けられアクリルドームの中で可憐な姿を披露していた。


 ◇◇◇


 ファレンとリルにとって、花はどれだって大切なものだ。
 そこに、飯の種になるからと言う身も蓋もない理由が混じっていることは否定しない。ただ彼らにとっての花は、何も無ければ旧人類の絶滅と共に地上のみならず記憶からも消え失せていたであろう、二人が生きた世界の欠片でもあるから。

 その中でも、初めて二人で作ったピンクのスイートピーは特別な存在である。
 あの小さな蕾が開いた瞬間は、今も目の奥に焼き付いている。まるで過ぎ去った世界を忘れないでと語りかけるような佇まいは、生涯忘れようにも忘れることはできないだろう。
 実際、二人が手元に残す為に作る花の五回に一回は、あの日を思い起こさせる美しい桃色を無意識に選んでしまう程なのだから。

 そんなある日。
 幾度目かの遺跡探索で、リルはかつての自宅からとある遺物を持ち出して来る。

「……ファレンさんごめん、今日の戦利品はこれにしてもいいかな?」
「俺は別に構わない。……食べ物、ではなさそうだな」
「うん、お花屋さんには必要かなって」

 リルが手にしていたのは、祖母の家でかつて見たような懐かしいクッキーの缶と、これまたいかにも手作りらしいパッチワークのトートバッグだ。
 ぱかりとリルが蓋を開ければ、そこには様々な薬液やピンセット、グルーガンなど、とても花に使うとは思えない道具がぎっしりと詰まっていた。
 一体何を作るんだ? と戸惑いを覚えるファレンとトゥルペに、リルは「これがあれば、お花をもっと……押し花より長持ちさせられるんだよ!」と自信満々に胸を張る。

「押し花より長持ち……そんな方法があるのかい!?」
「うん、これがあればプリザーブドフラワーが作れるから!」
「「ぷりざあぶど……ふらわあ……?」」
「えっ、トゥルペさんはともかく、ファレンさんも知らない!?」

 ――それから一時間後。
 夕食を終えたファレンと一緒についてきたトゥルペの前で、リルはスパムを囓りつつ先ほど魔法で育てた白いスイートピーを加工していた。

「あれ、茎を切っちゃうのかい?」
「この方法で遺せるのは花だけなの。茎はあとでワイヤーと緑のテープを使って再現するんだ」
「こっちの液は……脱色液? 白い花をわざわざ脱色するのか」
「お花の水分をこの液体に置き換えるの。その時に色も抜けるんだけど、白いほうが浸けてる時間を短く出来る、って昔お母さんが言ってた」
「……そっか」

 複雑な作業工程を、リルは時々懐かしさと寂しさを顔に滲ませながら蕩々と語る。
 相変わらず花を扱う手は、繊細そのものだ。……これはきっと母親仕込みなのだろうなと、ファレンの胸がきゅっと締め付けられる。

 リルの家には、あちこちに親子で作った作品が飾られているのだという。
 庭の花を色鮮やかなインクで染め上げて作る作品は、押し花と違ってまさに生きた花の質感をそのままに保つことが出来る上、水替えなどの手間も必要としない。
 この方法なら五年以上美しさを保てるというリルに「じゃあ何で前回は押し花だったんだい?」とトゥルペが首を傾げれば、リルは「ちょっと問題があって……」と目の前に並べたボトルを指した。

「押し花は、この学校にあるもので当分作れるんだよね。でも、プリザーブドフラワーは花から色を抜く液と、色を付ける液、この二つが無いと作れないの」
「あーなるほど……さっき遺跡から持ってきた薬剤だけじゃ足りない?」
「多分あたしが作ろうとしている作品は作れるよ。でも、それ以上は難しいかな」
「ふうん、じゃあ道具を記録にとってもいいかな?」
「いいけど……あっ、もしかしてトゥルペさんが探してくれるの?」

 ビーカーの中で揺蕩う白い花をロッカーの中にしまいこむリルが、ちょっぴり期待を滲ませて訊ねれば、トゥルペはいたずらっぽく微笑み「僕じゃないよ、多分」と楽しそうに答えるのだった。

「……きっとね、僕だけじゃないよ。これを欲しがるのは、ね」


 ◇◇◇


 一日にひとつ、白いスイートピーを作っては手間暇をかけて加工する……それを七度繰り返し、出来上がった花をさらに飾り付けること、数日。
 こうして完成したリルの作品――ファレン達にとって終末世界に舞い降りた初めての「春」を再現した花束は、トゥルペの提案により宿屋の受付に飾られることとなった。
 案の定「枯れない花」の噂は瞬く間に街中に広がり、一目その姿を拝もうと駆けつけた見物人で受付は毎日大賑わいである。

「……にしたって、まさか深海の行政府から正式な視察が来るだなんてね。まったく、陸でも海でも男共はすぐ遊びに耽るんだから!」

 漸く最後のお客が帰った宿屋で、ヌクアは後片付けをしながら独りごちる。
 前回、深海からの役人が視察名目で見物ツアーにやってきたのは、確か三年ほど前。あの時はこの街で春を売り始めたばかりのファレンを取り囲み、輝く黒髪を丸一日じっくり堪能して帰ったのだった。
 きっと今回も、彼らの目的はただの物見遊山、つまり職権濫用だろう。その分こちらの要求も呑ませるつもりとは言え、実に頭が痛い。

「ファレンちゃんはともかく、リルちゃんよね……あの子の筋肉はちょっと目を惹いちゃうから、しっかり牽制しておかないと……おっと」

 今日の帳簿を入力するヌクアの左手が、机に無造作に置かれた携帯端末に触れる。
 淡く光る端末に表示されているのは、この街にやってきた調査隊が書き上げた研究論文だ。
 中身はまあ、研究者らしく堅苦しい言葉と専門用語が踊る代物だが、端的に纏めれば

「既に絶滅したはずの、陸の花を蘇らせる陸の人がいる。天上の至宝たる海藻にも匹敵する美しさを誇る花は是非とも後世に残すべきだ、だから研究費用を寄越せ」

 という、賛美と下心の塊に過ぎない。
 ヌクアはこれを書き上げた人物の顔を思い出し、思わずぷっと吹き出した。

「全く……まさかリルちゃんを一番排除したがっていたあんたが、一番の味方になるだなんてね」

 万が一があってはならないと随分な熱の入れようであったが、きっとここまでしなくても深海の行政府は動くに違いない……ヌクアはアクリルドームの中でそっと咲くスイートピーを眺め確信する。
 ――研究論文の題名は「陸生ヒト型生物の文化継承技術に関する一考」
 そこには筆頭著者として「リトクワ・オ・リム」の名が記されていたのだった。

 後日、ヌクアの目論見通りピンク色のスイートピーにすっかり惚れ込んだ役人達は、リトクワの論文を基に「枯れない花を作るための薬剤」そして「陸の花を深海に持ち帰り、長持ちさせるケースの素材」についての研究を開始したという。
 ――完成までに、どれだけの時間がかかるかは分からない。もしかすれば、二人が生きている間には間に合わないかも知れない。
 それでもファレン達の知らないところで、二人がこの街に伝えた旧人類の「春」は、静かに……だが確実に、深海の世界へと広まり始めたのである。


 ◇◇◇


 週に一度、昼から街外れの遺跡に向かう日は、いつもより多くのお客が宿屋に詰めかける。
 窓から光が差し込むサロンの中、いつもはファレンが座る姫様特等席には、少しだけ緊張の色を浮かべたリルが腰掛けていた。

 白いテーブルクロスがかけられたテーブルの真ん中に鎮座するのは、線を引くように置かれたおたま。
 ここから先に、男は決して入ってはいけない――それが二人の「姫」により紡がれる魔法を見学する条件だ。

「我らが姫君達、今日はこの花で頼む」
「どれどれ……ポピーですね、かしこまりました」

 今週の権利を見事勝ち取った客が、宿屋に持ち込んだ図鑑の一ページを開く。
 ファレンは内容を確認すると、手のひらを合わせすっと目を細くした。

「小さき命の粒よ……今、ここに顕現せよ!」

 ポゥ……

 合わさった手のひらが、淡い光に包まれる。
「おお……!」と群衆の中からどよめきが上がったのは、残念ながら魔法の光のせいでは無い。
 ファレンもここで指摘されるまで知らなかったのだが、どうやら魔法発動時にファレンの艶やかな黒髪は、まるで海に揺蕩う海藻のようにふわりと揺らめくのだそうだ。

(……ま、俺は前座に過ぎないんだけどさ)

 今日の主役は、あくまでもリルである。
 ファレンは手の中に現れた焦げ茶色の種を確認すると「落ち着いてやれよ」とリルの手のひらに落とす。
 こくりと頷いたリルは種をテーブルに置き、そっと両の手のひらを添えた。

 そうして、深呼吸をひとつ、ふたつ。
 何度経験しても、衆目で魔法を使う事への緊張は取れないのだろう。
 ゴクリと喉を鳴らし、少しだけ震える声で「……いきます」と呟くと、リルはすぅと息を吸い込んだ。

「小さき命よ、その輝きを黄金色に解き放て……!!」
「……!!」

 ブワッ――!!

 途端、リルの瞳がすみれ色に輝き、彼女を取り囲むように魔力の渦が迸る。
 魔力の籠もった黄金の風は、どうやら新人類達にも感じられるらしい。普段の筋肉とタンパク質をこよなく愛する食いしん坊画伯からは想像もつかない神々しさに、思わずあちらこちらからため息が漏れる。

「ん? なんだ、あれは……!?」
「芽だ! 前にリルが話してくれたぞ、種から出てくる花の赤子だとな!!」

 やがて、床に落とせば永遠に見つからなさそうな粒から、にょっきりみずみずしい緑色の芽が顔を出す。
 煌めく魔力の奔流を一心に注がれた芽は、客達が固唾を呑んで見守る中、驚異的な速さで葉を茂らせ、茎を伸ばし、堅い蕾を付け、そして

「いいよいいよぉ、ほうら、可愛いお花をみんなに見せてね!」

 リルの掛け声に呼応するかのように、光に包まれふわりと黄金色の花びらを世界に解き放つ――

「…………っ……!!」
「………………なん、と……」

 サロンを満たした眩い光が消え去った後。
 白いテーブルクロスに横たわる鮮やかな色彩に、群衆はしんと静まりかえる。
 普段、色とりどりに咲き誇った花を見るだけでもあまりの美しさに静まり返っていた彼らなのだ。ごま粒のような小さな種がものの数十秒で見事な変身を遂げたともなれば、リルの魔法の派手さも相まって言葉を失うのも無理はないだろう。

「では、花はこのテーブルに飾っておきますので、ゆっくりとご鑑賞下さい」
「あ、ああ……」

 用意してあったフラスコにポピーを挿し、ファレンはテーブルの中心に花を飾る。
 傍にはヌクアとトゥルペが駆けつけ「お腹……すいたあ……」と椅子から崩れ落ちたリルを隅のテーブルまで移動させていた。
 今日は緊張故だろうか、いつもより魔力量が多かった。きっとスパム一缶だけでは足りないだろうと、ファレンはテーブルのおたまを手に取り、スパムと共にバッグに用意してあった乾パンを添えてヌクアに渡す。

「リル、しっかり食って元気になっておけよ。じゃないと昼から遺跡に行けないぞ」
「らいじょぶぅ……ヌクアさんが、あーんしてくれるから……」
「いやいや、それは甘えすぎだろ!」

 全くもう……と頭を振りながらファレンが定位置に腰掛ければ、漸く開花の瞬間を見た衝撃も和らいだのだろう、どっと客がテーブルに押し寄せてきた。
 興奮気味に言葉に出来ない感動を何とか表現しようとする彼らの話に耳を傾け「……はっ、この美しさを姫の髪と掛け合わせれば」と物騒な車輪の再発明を企む御仁には、当然のように笑顔で警告を発する。

 鮮やかな黄色が目に眩しいポピーは、今日の生け花達と共に昼からは主を欠いた席を彩り、二人が遺跡から帰る頃には他の花と一桁違う金額で競り落とされることだろう。
 あまりの興奮からつい大声を上げてしまった男の言葉は、その場にいる全ての観客の心の内を代弁していた。

「なんと、ありがたい……『ワカメの姫』と『陸花の姫』が手を取り合って織りなした奇跡を、目の当たりに出来るとは……!」


 ◇◇◇


 陸花の姫。
 それは、いつだったかリルの講義を受けた男達が彼女に名付けた敬称である。

 花そのものや花を咲かせる魔法の美しさもさることながら、新人類に負けないくらい引き締まった筋肉をもつリルの見た目は、どうやらファレンとは別の意味で彼らの琴線に触れたらしい。
 かくして、ファレンと同じく姫の立ち位置を見事射止めたリルは、最近では花や陸の世界の話のみならず、筋肉談義で男達と盛り上がることが増えたそうだ。

 まだまだおたまの境界線は必要だが、きっと遠くない未来、これがただの護身具となる日が来ることをファレンは密かに確信している。

(そう、めでたしめでたし、なんだよな……はぁ……)

 これでもう、リルが新人類達から「排除」されることは万に一つもない。彼女は完全に、新人類の保護下に入ったのだから。
 確たる地位を築き上げ安全を手に入れたこと自体は、実に喜ばしい。食糧事情だって見違えるほど良くなったし、普通に考えれば万々歳の筈なのだ。

 ……ただ一つ、ファレンの複雑な心境を除いては。

「ん? どうした姫、浮かない顔だな。何か心配事でもあるのか?」
「心配事、って程じゃないんですけど。その、リルの方が……陸花の姫って綺麗な響きで、ちょっと羨ましいかな、って……」
「いやいや! 姫よ、天上の神秘たるワカメの二つ名は、姫の御髪を讃える最上級の褒め言葉ではないか!」
「あーうん、皆さんから見て綺麗な呼び名なのは分かっているんですけどね……」

 曖昧な笑みを浮かべるファレンの何とも言えない気持ちは、残念ながら彼らに理解出来る日は永遠に来なさそうだ。
「姫様を決して軽んじているわけではないぞ!」「そうだそうだ、どちらの姫も美しいことに変わりは無い」と、取り巻き達は必死にファレンを慮ってくれる。
 これ以上気を遣わせるのも悪いなと、ファレンは「大丈夫です、ごめんなさい変なことを言っちゃって」とこの場を収めようとした。

 ……だが、ファレンの不用意なぼやきを聞き逃さない変態紳士が、ここに一人。

「うむ、ならばファレンよ、これを機にコンブの姫と呼び名を変えてみるのも良いのでは無いか?」
「…………!!」

 まるでこのタイミングを狙っていたかのように、ウドゥイは満面の笑みで……善意の提案の皮を被った超弩級の核爆弾を炸裂させたのである。
 一瞬にして静まりかえった……否、凍り付いたサロンの雰囲気に、ファレンはさっと顔色を変え(これはまずい!)と後ろを振り向きヌクアの助けを求めようとする。
 けれど、ああ、時は既に遅く。

「なっ……ウドゥイお主、どさくさに紛れて何を提案するのだ、この不埒者が!! 第一、姫の御髪はどう見てもワカメの如き尊さあろう!!」
「何をいう、この艶といい豊かさといい、コンブ以外あり得ないだろうが!」
「……ほう、貴様はまだ姫の本当の美しさを分かっていないと見える。ならば……表に出よ! ワカメ派の同士達よ、今度こそコンブ派を完膚なきまでに論破するのだ!!」
「面白い、今度こそ我らコンブ派の主張を通して見せようではないか! 警備隊には連絡した、すぐに舞台を作らせるから震えて待っておれ!!」

 厳つい男達の怒号が、宿屋に飛び交う。
 乱暴に扉を開けドカドカと外に向かった男達の剣幕に震えるリルを宥めながら、トゥルペは「あちゃぁ」と額に手を当て天を仰ぐのだった。

「はぁ……ファレン、今のは失言だったね。まさか君が『第五次ファレンの呼称大戦』の引き金を引いてしまうとは」
「す、すみませんでした……」


 ◇◇◇


「全くあんた達は!! どこまでファレンちゃんを困らせれば気が済むんだい!! ほら、リルちゃんまでこんなに怯えちゃって……たかが呼び名一つで、みっともない!!」
「いててて……いやいや軍曹、じゃなかったヌクアさん、これは男にとっては筋肉よりも大事なロマンの話でして」
「ほう……そのロマンというのは、姫達の笑顔より優先されるというのかね?」
「……げっ、サマラウト長官!? なんでこんなところに!!」

 その後。
 宿屋の目の前では、急ごしらえのステージに上がった双方の派閥の変態紳士達が屈強な筋肉をこれ見よがしに見せつけつつ「如何にファレンの髪がワカメ(コンブ)と呼ぶに相応しいか」を蕩々と語るという、ファレンにとっては地獄のような光景が繰り広げられることとなる。

「……ファレンさん、あの、戦争って……これ?」
「ほら、野生生物で時々いるだろ? 雄同士の縄張り争いをするときにポーズを取って威嚇するやつ。……新人類の戦争ってのは、ああやってタイマンで威嚇するのが作法なんだと」
「ボディビル大会を開きながらファレンさんを褒め称え続けるって、斬新な戦争だね……まあでもこれなら平和だし、気が済むまでやってくれても」
「一ヶ月間これを聞かされても、リルは平気な顔をしてこの街に通えるのか?」
「ごめんなさい絶対無理、恥ずかしくて死んじゃう」

 死んだ魚のような目をして虚ろにステージを眺めるファレンの精神は、とうの昔に羞恥で限界突破済みだ。誰か目の前に大きな穴を掘って欲しい。
 しかし残念ながら、こうなった彼らを止める手段をファレンは持ち合わせていない。その上、今回の原因の一端は自分にもあるから、余計に何も言えやしないわけで。

(俺、またこれに耐えながら仕事をするのかよ……)とがっくり膝をついたファレンであったが、これ以上の茶番はこりごりだと腹に据えかねていたのは彼だけではなかったようだ。
 皆が熱狂的にそれぞれの派閥を応援する中、気がつけばステージは明らかにその筋のプロと思われる厳つい男達に取り囲まれ、乱入したヌクアの渾身の拳骨と説教により、今回の戦争はわずか二時間で終結を迎えたのである。

「し、しかし……これでは姫の呼び名が決まらぬままではないか」
「何を言っている! 決着がつかなかったのだから、これまで通りワカメの姫で問題ないであろう?」
「はぁ? 負けたわけでもないのに呼称を譲れというのか、貴様!」
「……あんた達、そんなにうちを永久出禁になりたいのかい?」
「ひぃっ……す、すみませんでした……!!」

 ヌクアの一言でがっくり崩れ落ちる両派閥の男達を背に、ステージに上がったのはサマラウトだ。
 いつぞやか宿屋でファレンの髪に埋もれていた変態と同一人物とは思えないほど、堂々たる出で立ちの行政長官は「これは、深海の行政府も了承済みの事項である」と前置きした後、もったいぶった様子で口を開いた。

「度重なるファレンの呼称大戦については、これ以上争いを静観することは出来ないと行政府は判断した。よって、今後はファレンの尊称を公式に『海藻の姫』と定める!!」
「…………へっ」
「繰り返すが、これは陸の特別行政府のみならず深海の行政府による了承を得た決定事項である。一切の異議は認められない! ……ワカメであれコンブであれ、海の至宝たる海藻であることに変わりは無かろう? であれば、海藻の姫と呼ぶことに何の問題がある? むしろ、それぞれの主張を全て含んだ尊き呼び名ではないか!」
「……!!」
「いやいや、どうしてそうなった!?」

 サマラウトによる布告に、聴衆のざわめきは止まらない。ついでにファレンの突っ込みも止まらない。
 だが、いつしかそのざわめきは「まあ悪くないんじゃないか」「陸花の姫との釣り合いもよさそうだしな」と受容の囁きとなり、行政府の英断を讃える歓声へと変化していった。

「はあぁ……結局海藻からは離れられないままじゃんか……」
「でも、これで戦争が起こらなくなったよ、ファレンさん!」
「それはそうだけどさ……やっぱり解せないんだよなあ……」

 どうにも複雑な気分が拭えないファレンは、ステージの真ん前で……今度は誰にも気付かれないよう、旧人類の言葉を使ってこっそり本音を吐露するのだった。

 一方その頃。

「……ふぅ、これでよいかね? ヌクア軍曹」
「その呼び方は止めろって言ってるだろ、サマラウト。……まあ、上出来じゃないかね。やっとファレンちゃんも心から笑えるようになったんだ、これ以上あの子の顔を曇らせるのは忍びないからねえ」
「全くだ。姫君にはいつもご機嫌でいて貰わねば、髪の艶も褪せてしまうからな!」
「あんたはブレなさすぎだよ、まったく!」

 ……ファレンをこの街で保護するために尽力した立役者二人が、壇上でそっと交わした会話を、ファレン達が知ることは無い。
 漸く騒ぎが収まり、何食わぬ顔をして二人の元にやってきたサマラウトに、ファレンは深々と頭を下げ感謝を述べるのであった。

「本当にありがとうございます、サマラウトさん。助かりました……」
「なに、貴殿が気を病む必要はない。これからも困ったことがあればいつでも頼るが良い、そのための権力であるからな。……まあその、本当はモズクの姫と呼ばせて頂きたいところではあるのだが、公人として私情を挟むのはよろしくなかろう?」
「……サマラウトさんって、モズク派だったんだ……」
「うあああダメですって、そんなことをこんな場所で喋っちゃ! 第六次大戦が始まっちゃう!!」


 ◇◇◇


「♪~……♫~~」

 静かな教室の中に響くのは、ページをめくる音と小さな鼻歌。
 夕食を終えた二人は、明日宿屋に持っていく花をのんびりと選んでいた。

「久しぶりにダリアとか……あ、デルフィニウムもいいなあ……」

 独り言を呟きながら花を吟味するリルの目は、真剣そのものだ。
 当初は新人類の好みそうな見た目や色を重視して選んでいた花作りも、最近では敢えて傾向を外してみたり、はたまたリルの好みだけで決めることが増えた。
 これが案外彼らには「こういう美しさもあるのか」「新鮮な感覚だ」と好評だから、リルの勘も捨てた物では無い。

「お花はみんな綺麗だしね! いろんな綺麗を知ってもらいたいなって」とは、リルの談である。

(……いいもんだな、喜ばれるのは。それに)

 図鑑を捲る手が、ふと止まる。
 ファレンの視界に入ったのはソメイヨシノのページだ。
 桜の中でも種から作ることが出来ない品種であるが故に、二度とこの世界で見ることが出来ない花吹雪――全てが終わり、そして始まったあの日のことが、昨日のように思い出される。

 終末から、六年余りの時が流れ。
 美しい黒髪を持つが故に新人類達相手に春を売ることとなった青年は、確かに彼らから喜ばれ……どころか姫ともてはやされ、それはそれは尊ばれていた。
 けれど、そこにファレンを「人」とみなす者は誰もいなくて。
 交わりの後に残されるのは……砂のように崩れ続ける心と、食べ飽きたスパムだけ。

 保護されて衣食住を与えられる暮らしは、終末というこの世界の中では明らかに恵まれていた。それは、ファレン自身が一番よく理解している。
 それでも、あの頃の自分はただ求められるがままに髪と身体を差し出し、笑うだけしかできなくて。
 結果心は少しずつ砂のように崩れ、捨てきれない旧人類としての矜持だけで何とか――誰も認めてくれなくても――人としての形を保っていたに過ぎなかった。

 けれど。
 自らの意志で選ぶ気高さと、美しき花が作り出すこの「春」は、何も欠けない――

「ふふっ」

 ふと、笑い声が聞こえる。
 おたまの向こうを見れば、そこには見慣れた少女が何だか随分嬉しそうな顔で微笑んでいて。

「……どうした、リル」
「ファレンさん、何だか楽しそう」
「…………そうか?」
「うん、だって鼻歌なんて初めて聞いたもん!」
「え……」

 リルの言葉に、ファレンは目を見開く。
 そうしてようやく気付くのだ。

 先ほどまで聞こえていた楽しそうな鼻歌は、自分から発せられていた事に。
 そう、いつの間にか自分は、明日が来ることをこれほどまでに楽しみにしていたのだと――

「そうか、俺は……こんなに明日を楽しめるようになっていたんだな、リル」
「……ふふっ、良かったねぇファレンさん。これでもう長生き確定だね!」
「そりゃまた、随分な論理の飛躍だな」

 教室の中に、二人の朗らかな笑い声が響く。
 終末を迎えてこの教室に溢れていたはずの無邪気な歓声が消えて以来、ようやく戻ってきた笑顔は、きっと夜を知らぬ空よりも輝いていた。


 ◇◇◇


 さあ。
 今日も、変わらない朝がやって来る。

「ファレンさん……その、これはちょっとばかし火加減が強かったかなーって……」
「……これはちょっととは言わない。責任とって全部食えよ」
「ううぅ、なんでファレンさんはそんなに綺麗に焼けるのぉ……?」

 先日客から贈られた蓄熱調理器は、存外扱いが難しいらしい。
 早々に使いこなせるようになったファレンとは対照的に、リルは相変わらず溶岩を噴出させては表面が炭化したスパムステーキを量産している。

 じゃりじゃりと音を立てながら焦げ焦げスパムを頬張り、ハマグリの潮汁で味を誤魔化すリルの表情は、それでもどこか明るい。

「今日のお花はさ、きっと触れてびっくりすると思うんだよねぇ。ひらひらじゃなくてふわふわしてるし」
「そーっと触るように教えておけよ、じゃないと勢い余って潰す輩が出かねない」

 楽しんでくれると良いねぇ! とビーカーに生けたケイトウの花に話しかけるリルを、ファレンもまた微笑ましく眺める。
 ああ、今日もエラを持つ彼らはきっと新しい春に驚き、見慣れた春を尊ぶのだろう……それを想像するだけで、胸の中に小さな蕾が花開くかのようだ。

「さ、そろそろ行くぞ」
「うん! ……ねえファレンさん、生きていれば良いことあったでしょ?」
「はいはい、リルの言うとおりだったな」
「んもう、何だか扱いが軽くない!?」

 軽口を交わしながら、二人は足取り軽く教室を後にする。
 教室の片隅では、フラスコに生けられた赤いストックが彼らの背中を優しく見守っていた。


 ◇◇◇


 海の底から陸へと姿を現したその街には、誰もが尊ぶ美しき黒髪を持つ青年と「人類」のような恵まれた体躯を持つ少女が、今日も花を売りにやってくる。
 彼らの知らない、かつて陸地で栄華を誇った世界の欠片を目にした人々は、いつしか敬意を込めて彼らをこう呼ぶようになったという。

「失われた世界を垣間見せる、春売りのひと」と――


 ――春売りのひと 完

© 2026 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence