沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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2話 ガサガサとぬるぬると

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『慧よ、これは何じゃ?』
「ん?ただの食パンとコーヒーだぞ。……感覚を共有してるなら、俺が食べれば味も分かるんだよな?」
『なんと、これが食べ物じゃと!?昨日食べておったあのふあふあも珍妙じゃったが、今日はぺらぺらと黒い汁とは……むむ、早う食うてみよ!!』
「へいへい」

 今日も朝から皇女様は喧しい。
 確かに昨夜の約束通り、夜が明ければちゃんと身体の支配権は慧に返してくれたが、あの後散々人の身体で遊ばれたお陰でこちらは朝から満身創痍である。

 とはいえ、どうやらこの身体は慧よりアイナの魂を優先するようだ。
 18年も苦楽を共にしてきた筈なのに、やはり専用に作られた身体は違うのかとちょっと悲しい。
 せめてアイナの機嫌を損ねて昼間から身体を支配されないよう気をつけなければと肝に銘じつつ、慧はジャムを塗ったトーストにかぶりついた。

「どうだ?といっても、その辺のスーパーで売ってる食パンとイチゴジャムだけど」
『……お主、こんながっさがさでぱっさぱさのものしか食べられぬのか?このジャムというやつはなかなかいけるが……何とも貧しいものじゃ、もっと周りに恵んでもらわぬか』
「あのなぁ、俺はお前みたいなご立派な身分じゃないの!ほれ、こっちはコーヒーな」
『!!!んぎゃあぁぁぁぁ!!なんじゃこれ、熱くて苦いぞ!!しっ、舌がああぁぁ……!!慧、お主毒まで飲まねばならぬほど困窮しておるのか!!?』
「れっきとした人類に人気の飲み物だっての。砂糖もミルクも入ってるのに、お子様舌かよ」

 あまりにも新鮮な反応にぷっと噴き出しつつ、よっこいしょとかけ声をかけて立ち上がれば、足がぷるぷると震えている。
 どうやらあのスライムによる耳のお手入れで、想像以上に身体に力が入っていたらしい。アイナの言うとおり、普段の運動不足が祟って見事なまでの筋肉痛である。

 ちなみに、あの後風呂場で鏡を見ながら『これが異世界人の身体……!』とすっかり興奮しきったアイナが無茶苦茶な動きをしまくったのも、この痛みの一因に違いない。
 狭い風呂場で関節の可動域の限界に挑戦し、『お主まさか尻尾を切り落としたのか?』としょんぼりしつつ執拗に尻のきわどいところを撫でられ続け、『たまたまがびよんびよんに伸びておるぞ!これはどこまで伸びるのじゃ?』と全力で引っ張られ……

 分かっている、自分だって異世界に転生したら、あらゆるものに遭遇するたび物珍しさにはしゃいでしまう自信はある。
 だがそういうのは家主の居ない身体でやるべきだと、慧はちょっとヒリヒリする股間を刺激しないよう、慎重に動きつつ心の中でツッコミを入れていた。

 ……絶対聞こえているくせに、こんな時は反応しないんだよな、まったく。

『のう、慧……今日はもうちょっとましなご飯を手に入れに行かぬか……?この身体がこれで生きていけるのは分かっておるが、妾の心が枯れ果てて死んでしまいそうじゃ……』
「お前なぁ、俺これから入学式なの!って分かんないか。ええと、人生でも超大事な用事があるんだってば!!……まぁ、その後でよけりゃスーパーでお前の食べられそうなものでも探すか?」
『ふむ、スーパーとやらがこの世界の採取場なのじゃな!よく分からんが楽しみにしておるぞ!あんなパッサパサの実や苦い汁はもうこりごりじゃ……』

 どうやら皇女様は相当な美食家?偏食家?らしい。
 げんなりした様子のアイナに苦笑しつつも、慧は「とにかく支度するからな」とクローゼットからスーツを取り出す。
 この日のために両親が購入してくれた一張羅だが、初めて袖を通す服はどうにも着慣れていなくて着心地が悪い。

「……似合ってねぇ…………」

 鏡に映る姿は、どうみても大学生とは思えない。
 むしろ七五三だと揶揄されても文句は言えなさそうだ。この童顔、どうにかならないものかと心の中で呟けば『なんともガサガサで妙ちくりんな服じゃのう……』とアイナもどこか居心地が悪そうである。

「ま、今日初めて着る服だしな。普段はもっと楽なのを着てるんだけど、今日は特別だから」
『ふむ。にしてもこれはちょっと……服よ、もうちょっとキュッと締まらぬのか?』
「いやいや服に文句を言ってもどうしようも無いって。ほら、もう出かけるから外ではむやみやたらと話しかけるなよ?」
『ぬぅ……スーパーとやらに着いたら喋るからの!』

 タイミング良く玄関のチャイムが鳴る。
 車で迎えに来た母校の先輩と積もる話を交わしながら、慧は入学式へと向かうのだった。


 …………


「にしても、見事に女の子がいないっすね……」
「諦めろ、ここは機械工学科だぞ?それでも3人、しかも結構可愛い子達がいるだなんていいじゃないか!2年なんて1人しか居ないんだからな!」
「あはは、まぁどっちにしても俺には縁がなさそうっすけどね……」

 入学式とオリエンテーションを終えた慧は、そのまま先輩である峰島の運転する車で近くのスーパーに送って貰っていた。
 郊外と言えば聞こえがいいが、車が無ければ生活に不便するこの地域では、免許を取るまでは先輩達がこうやって送り迎えをしてくれることも珍しくない。
「俺たちもそうだったからな」と峰島は相変わらず毒っ気ゼロの爽やかな笑顔で慧を送り届けてくれる。

「で、先輩は彼女できたんすか?」
「できるわけ無いだろ、バイト先でも全然だし。それに俺は二次元に生きてるからな!」
「先輩、そんなに顔もスタイルも頭もいいのに……性癖だけがもったいなさ過ぎる」
「いいじゃんか。一度きりの人生なんだ、俺の好きに命を賭けたって」
「命まで賭けてどうするんすか……」

 峰島新太(みねしま あらた)、19歳。
 慧の高校の先輩であり、慧を百合沼に引きずり込んだ張本人だ。
 黙っていれば非常にモテるのに、口を開けばこの調子で、「最近はふたなりやにょた百合も悪くないと思い始めたんだよな」と更なる性癖の開拓に余念が無い残念な男である。
 こんな性癖を平然と公表できるその度胸は、一体どこから来ているのか。やはり顔がいいと多少の難は許されるのかもしれない。

「ほら、着いたぞ。すまんな、バイトがあるから帰りは送れないけど」
「ありがとうございます。大丈夫っす、ここなら家の近くまでバスも出てますし」

 スーパーの駐車場で峰島に礼を告げて、慧は車から降りる。
 外は春霞でぼんやりとした空だ。今日は暖かいなとジャケットを脱げば『……眩しいのう……』と頭の中でぼやく声が聞こえた。

「ああ、車から降りたばかりだし、目が慣れるまでは仕方ないって」
『そうではない。……なんと薄い空なのじゃ、これで空気がちゃんとあるのが不思議でならぬ』
「……薄い、空?」
『それになんじゃ、あのばかでかい明るい星は?目が潰れてしまいそうじゃ』
「太陽か?そりゃ太陽なんだから眩しいだろ」
『タイヨウ……?』

 カートにかごを乗せ、「取り敢えず一通り見るか」と店内を回りつつ慧はこの世界のことをアイナに説明する。
 といっても、当たり前と思って享受していることを当たり前で無い人に話すのは、存外難しいものだ。これは帰ったら、ネットの検索方法でも教えて調べて貰った方が早いかも知れない。

「……というわけで、太陽がこの地球を照らしていて、地球はその周りを自転しながら回っているから昼と夜があるんだよ。サイファにだって昼と夜はあるんだろう?」
『あるのう。空の向こうにある天蓋が光れば昼、光らなければ夜じゃ。と言っても星の明かりがあるから夜でも真っ暗にはならぬがな』
「で、空の色も違うのか?大体異世界ものの物語でも空の色はどこも一緒だけど、やっぱ本物は違うんだな」
『そうじゃな、妾たちの世界の……サイファの空は昼でも深い藍色じゃ。実に美しいものじゃぞ』
「……藍色…………?」

(…………もしかして、あの夢は)

 深い深い、黒に近い藍色の空に浮かぶ、満天の星空。
 どう見ても真夜中にしか見えない空模様なのに、草原は明るく自分の立つ影が地面に落ちている夢の中の世界は、奇妙ではあるが確かに美しかった。

 退屈な入学式の間、アイナは彼女の世界……サイファのことを語ってくれた。
 それは拙い慧の説明とは打って変わって実に詳細で、しかも異世界の自分にとっても非常に分かりやすくて、つまらない祝辞を聞き続ける苦痛と退屈を紛らわすにはもってこいだった。
 恐らくこの皇女様は聡明なのだろう。変態だけど。

 ――そこは、天蓋と呼ばれる半球状のドームに覆われた世界だそうだ。
 地球人の常識からすれば随分荒唐無稽な、科学も何もあったものでは無い概念だ。
 しかし誰もが魔法を使って世界の形を直に見られるのが常識だというのなら、それは妄想では無く事実なのだろう。
『お主らは自ら見て無いものを信じておるのか……』と言われてしまっては、もはや返す言葉もない。

 話を元に戻そう。
 アイナ曰く世界を形作るドームの中にあるのは、世界をの大半を満たす湖と、その中に浮かぶ果てしない草原を持つ大陸。
 石で覆われた地面も無く、移動は魔法で転移できるお陰で車やそれに類する交通手段も無く、建物と言ってもシンプルな石造りの家が点在する程度。
 あの時は気付かなかったが、夢の風景と彼女の話は非常に似通っている。

 気候は世界中どこでも温暖……いわゆる常春で、災害も無く何より魔法で雨風は簡単にしのげるから、わざわざ家を持たない者も多いらしい。
「トイレはどうするんだ?」と下世話な質問をすれば『排泄など魔法でちょいと転移すれば終わりじゃよ、もちろんそういう……排泄を楽しむプレイがあるのは知っておるが』とぶっ飛んだ答えが返ってきて、式典の最中なのに思わず「ずるくね!?」と声が出てしまったほどである。

 そんな世界に住む彼らの社会は、家族よりは大きく集落よりは小さい「共同体」という概念を軸にした母系社会である。
 生涯母親の共同体の元で暮らす男性と異なり、皇族以外の女性は成人するとほとんどのものが気の合う仲間と共同体を作り、そこに通ってくる他の共同体の男性とまぐわって子を産み、育てている。
 だから子供達は、母親は知っていても父親は誰か分からないのが普通だそうだ。

 何もかもが地球とは違い、この世界の異世界系物語に出てくる設定のように地球人に合わせたご都合主義も無い。
 まさに異世界とはこういうものを指すのだろう。

「……あのさ、俺小さい頃から見ている夢があるんだけど」

『これが地球の採取場か!お主らは土や木から食べ物を採取せぬのじゃな!』と変なところで感心しつつ、そっと手の支配権を奪ってかごにどんどんと果物と小松菜とキャベツを詰め込んでいくアイナを窘めつつ、慧は半ば確信を持ってあの夢の話をする。
 と言っても、流石に最後のシーンは話せない。あんな恥ずかしい話、とてもじゃないけどできるものか。

「……という夢なんだけど、もしかして」
『もしかしなくても妾たちの世界じゃの……うむ、慧からすれば夜なのに明るく見えるというのも納得じゃ、こんな薄い空で過ごしていれば、サイファの空はさぞ暗かろう』
「ま、そうだな。でも何で俺がそんな夢を」
『それは恐らくこの身体の記憶じゃな』

 アイナの説明によると、慧が見る夢はこの身体が持つものだという。
 正確にはアイナのために作られたこの器の成分である、1割のサイファの物質が持つ情報だそうだ。
 それゆえ特定の場所では無いが、アイナの世界ではどこにでもあるありふれた風景らしい。

『良い世界じゃろ?』と胸を張るアイナに「んーまあ、そうなのかもな」と相槌を打ちつつ慧はカートに山盛りになった小松菜を見てギョッと眉を顰める。
 よりによって慧の大嫌いな葉野菜をしこたま買うとか、何がそんなに気に入ったのだか。
 そもそも慧が嫌いな食べ物だと身体が拒否反応を示さないのだろうかと、ちょっと心配になる。

「……アイナ、小松菜を買い占めるのは禁止な」
『なぜじゃ?折角こんなにあるのじゃから、しっかり拾って保存しておけば良いでは無いか』
「あのな、これタダじゃ無いからな!!それに俺、緑の野菜は苦手なんだよ」
『……タダとは、なんじゃ?』
「はい?」

 きょとんとしたアイナの声に、慧は思わず「うっそだろ」と開いた口がふさがらない。

(おいおい、まさかアイナの世界はお金の概念すら無いのかよ!物々交換の世界!?どんだけ原始的なんだ!!?)

 レジでの支払いとカードに目を丸くし『これが……カヘイというやつか!うむ、異世界の知識で見たことはあるが、本当にこんな板で食べ物を得るとはのう……』と興味津々なアイナに、慧はバス停で次のバスを待ちながらお金について説明する。
 そしてこの世界では、お金があれば大抵のものは手に入るのだと言うことも。

 食べ物だけでは無い、モノも、知識も、権力さえ手に入るという話にアイナは『なんという世界なのじゃ……』と愕然とした様子だった。
 少なくとも羨ましいとは全く思っていなさそうだ。
 とりわけ知識を買うというのは俄に信じられなかったようで『ちょっと手を使うぞ』と言うが否や左の掌を空にかざし、暫くじっとしていたかと思えば『……本当じゃ』とどこか寂しそうな声が頭に響いた。

 ……ああ、きっと彼女は今、項垂れている。

『ここの世界には……知識が満ちておらぬ。こんな世界でお主達は生きておるのか』
「いや、俺たちからすればそれが当たり前だからな。知識は学校とか誰かから教えて貰ったり、お前の好きな本とか、後で教えてやるけどネットとかで手に入れる物だから」
『そうか、そうじゃな……うむ、それがこの世界の選択なら妾が何かを言うのはおかしな話じゃ。ただ』
「ただ?」
『…………本当に知識が世界の、皆のものではないとは……それに世界に知識が満ちていないことがこんなにも不安だとは思いもせんかった。異世界とはよく言ったものじゃな……』
「……アイナ…………」

 知識に自由に触れられないなんて初めての経験なのじゃと、アイナは複雑な気持ちを吐露する。
 彼女たちサイファの人たちにとって、知識とは全ての人が自由にアクセスできるもの、もはや空気に等しい概念で、子供の頃に世界から知識を得る方法こそ学ぶものの、所謂地球的な知識を得るための教育というものは存在しないのだそうだ。

 新しい知識は直ぐに世界に還元され、それを享受するのが当たり前の世界。
 知識だけでは無い、食料や日用品から魔法まで全てのものを当たり前のように与え合い、分かち合い、そこに貨幣というものは存在せず、当然金にまつわる全ての物事が彼らの世界には発生しない。
 いわゆる取引すら珍しいのだそうだ。だって、いつも欲しい人が居れば誰かが必ず与えようとするのだから。

 好きだからする、たくさんあるから分ける。
 足りないものは誰かが必ず分けてくれる。
 ……それはまだ年若い慧ですらただの理想論と鼻で笑いたくなるような、けれどもほんのちょっとだけ羨ましい世界。

(文明的には原始的、けれど魔法は発達していて、精神的には割と平和で……性癖は歪んでいる。めちゃくちゃな世界観だな)

 こんな世界設定じゃ、異世界転生ものを書いたところで売れやしなさそうだ。
 本物の異世界を目の当たりにし、慧は思わぬところで自分の想像力の低さを見せつけられた気がしていた。

 そして慧がサイファに抱く感想は、慧の……地球人の視点でしか無いことも。

 アイナが言ったとおり、自分達の常識と違っていようがそれは確かに知的生命体の営みがある世界なのだ。
 異世界の人間がとやかく言う話ではないし、まして嘲るものでは無かったな……と慧は最初にサイファの性癖事情にドン引きした自分を顧みてちょっとだけ反省したのだった。

「……俺も、ちょっとだけ行ってみたいな、アイナの世界に」
『そうじゃな、お主はきっと可愛らしい男の娘に仕上がるじゃろうし、向こうでも大人気になるはずじゃ!』
「いやいやそういう意味なら断固拒否するぞ!!」
『むぅ、そう頑なにならずとも良いでは無いか……妾が目を付けるほどの逸材なのじゃぞ、お主は。もっと胸を張っても良かろう?』
「それが通用するのはそっちの世界だけだからな!!」

『酷いのう……』とむくれている変態皇女様が当たり前のようにこの身体が使えると思ったのも、一方で当たり前のように慧に情報を与え耳のお手入れをし、それでいて全く見返りを期待しないのも、彼女たちの世界では常識でしか無い。

 そんな性癖方面以外は実に純朴な異世界人にとって、きっとこの世界はあまりにも世知辛いに違いない。

(……早く、元の世界に帰れるといいな)

 心の中でそっと呟いた言葉に『うむ、そうじゃな』と返すアイナの声は、心なしかいつもより柔らかかった。


 …………


「そういやさ、アイナはそもそもどんな姿をしているんだ?耳が上に付いているのは分かったけど」
『ふむ、夢にはクロリクの姿は出てこぬのか?』
「知的生命体どころか、動物すら出てこないぞ。子供の声?みたいなのは聞こえるけど……」

 スーパーで購入したのは、大量の果物と小松菜、そしてキャベツ。
『少々味は薄いのう』と言いつつ果物を口に放り込み、キャベツの葉をむしってそのまま食べようとするアイナに「頼むから!せめてサラダにしてくれ!!」と必死で懇願して、なんとか今夜のご飯は山盛りの千切りキャベツとイチゴになった。
 俺は草食動物じゃないんだけどなと愚痴りつつも、嬉しそうに食べる女の子は嫌いじゃ無いから、ついつい許してしまう自分がちょっと情けない。

 にしても、まさかアイナの世界に調理の概念が存在しないとは思わなかった。
 基本的には採取した果物や木の実、野草を洗ってそのまま食べるか、硬いものは魔法で柔らかくして食べるという食材もびっくりな野性っぷりに「流石にもうちょっと文明開化した方がいいんじゃないか!?」と慧も開いた口がふさがらない。
 これはまず料理を教えなければと慌ててスーパーの片隅で売っていた料理本を買ってやれば、満腹になったアイナは実に珍しそうにたくさんの写真を眺めている。

『ほう……湯を火で作って草を茹でる……茹でた汁も飲む…………斬新じゃ、実に斬新じゃの!!』
「そりゃどうも。ちなみにここでも作れるから。いや、むしろ作ってくれ、せめて野菜に火は通してくれ」

 それで、とアイナの姿のことを尋ねれば『そうじゃな、別に隠す必要はあるまい』と彼女も乗り気のようだ。

『このようなホンまで与えて貰ったのじゃ、姿を望むなら見せてやらねばのう』
「そりゃどうも。って魔法でも使って見せてくれるのか?」
『いや、同じ身体の中におるのじゃし、妾の魂の情報を共有すれば見せられるじゃろう。そもそも魔法はかなり制限されておるでな』
「制限?」
『うむ。まぁそれは後でじゃな、ほれまずは見せるぞ』
「えっちょっ唐突すぎっ」

 相変わらずアイナは気前はいいが、話が性急で強引だ。
 共有ってどうすんのさ?と慌てて尋ねた慧は、しかし次の瞬間完全に言葉を失う。


 ずんっ……!!


「…………!!?」

 頭が、いや脳みそが一気に蒸発したかと思った。
 あり得ない表現だが、そう表現しなければならないほど異様で、経験したことも無い衝撃に慧の頭が、そして間髪入れず全身が襲われる。

「――!!――――――!!!」

 少しでも紛らわそうと上げる叫び声は、音にすらならず。
 全身はあのお手入れスライムどころでは無い、勝手に硬直しビクビクと跳ね、見開いたままの目は涙で潤み、閉じられない口からは涎が顎を伝う。

(なんだこれ!?わかんない、わかんないけどヤバいっっ!!)

 白い波。そう、これは何かが溢れて押し寄せる、白い濁流だ。
 何度も押し寄せ、きりもみにされ、手が、足が、身体がその存在を失っていく。

(おれ、ぜんぶ、こわれる……なくなるのに……)



 きもちいい あれに にてる



 ……慧は知らない。
 それが所謂メスイキと呼ばれる、男でありながら女の絶頂を味わえる現象に近いものだと言う知識を。

 知らないけれども、頭は記憶を拾い出す。
 この感覚はいつも見る夢の最後に近くて……けれどもっと鮮烈で、過激で……きっと、気持ちがいいと称されるものだ。

『む?慧?大丈夫か?』

 これが大丈夫に見えると思うか!?と突っ込みたくても、全身を襲う情報の津波に思考がバラバラに砕かれてしまう。
 それは濃厚な魂の情報、地球人には過ぎた大量の知識の奔流だ。

『……もしや、この世界の魂は情報の許容量が少ないのか?いかん、これは……っ!!』

(きもちいい……ずっと、きもちいい…………)

 頭の中が真っ白になるこの感覚は、極上の快楽。
 慧の身体は、その意味すら知らずに快楽を覚え、無意識のうちに深く心に刻みつけてしまう。
 ……そう、二度と忘れられない、甘美な記憶として。

『慧、今助けるからな、気を保つのじゃ!!』

 珍しく焦った声で何か知らない言葉を発し始めるアイナを頭の隅に捉えつつ、白い世界は一気に暗転した。


 …………


『……ほんっとーにすまなかった……!妾の落ち度じゃ……!!』
「え、いや、そんなそこまで全力で謝らなくても」
『何を言うておる!下手をすればお主の魂が爆発四散しておったのじゃぞ!』
「げ、そんなにやばかったのかよ!!?」

 30分後。
 ようやく正気を取り戻した慧の頭の中では、アイナが平謝りだった。
 きっと身体があったら、床にめり込むくらいの勢いで土下座をしているだろう、そんな調子で謝罪を口にされてしまっては怒る気にもなれない。

 アイナ曰く、地球人の魂はアイナ達クロリクの魂ほどたくさんの情報を詰め込めないらしい。
 この世界で知り得る情報が制限されているのも恐らくそのせいだろうと推察しつつも、どうやら慧を壊しかけたことが相当ショックだったようで、アイナは見るからに(いや見えないが)しょぼくれていた。

(まぁ、そもそも親切心でしようとしたことだしな……死ななかったからよし)

 異世界との異文化交流というのは難しいものだな、とあまり役に立たない知見を得てしまった慧は「なら、描いてみろよ」とノートとペンを差し出す。

『……描く?』
「おう。アイナたちの姿。ざっくりでも分かればこっちで似たような絵とかあるかもしれないし」
『…………描くとは、どうやってするのじゃ?』
「そこからかよ!!」

 知識を保管する必要が無ければ、記すこともないということか。本当に異文化交流は難しすぎる。
『ホンなのに情報が無いのう……』としげしげとノートを見つめるアイナにペンの持ち方を教え、悪戦苦闘すること十数分。
 出来上がったのは

「…………いや、うん、人生初めてならこうなるか」
『お主なんでそんな真っ直ぐに書けるのじゃ?こやつ、ずっとうねうねしか動かぬのじゃが!!』

 みみずがのたくったような拙い線で描かれた、謎の物体だった。
 がたがたの凹の字のような形に生物を見いだすのは、少々難易度が高そうだ。

『……これで分かるか?』
「俺は残念ながら魔法使いでも超能力者でも無いからな、無理」
『むうぅぅ……』

 こりゃだめだ、と慧は「アイナ、ちょっと身体使わせて」とPCの電源を入れる。

『……慧?』
「話を聞くに獣人っぽいしさ。ゲームのキャラとか見てたら、近いのが出てくるんじゃ無いかと思って」
『ほう!遠見の術、でもないのかこれは!物語の世界……なるほど、お主らはこうやって誰かの世界を共有するのじゃな』

 さっきまでしょげ込んでいたのに、もうすっかり上機嫌だ。
 この皇女様は随分と単純にできているらしい。こういうところは可愛いよなと思わなくも無い。

 慧がハマっているオンラインゲームにログインし、キャラを操作してなるべくプレイヤーの多そうなところに移動する。
 そうして「これは?」『顔に毛は生えておらぬぞ』「こっちは」『耳は長いが横には無いのう』と暫く繰り返していると、アイナが不意に『これが近いかのう』ととあるキャラを指さした。

「どれどれ……ええと、バニーガール?」
『うむ、もっと耳はふっかふかじゃがの!』
「そこは強調するところなんだ」

 そこに映っていたのは、きわどいボディスーツに網タイツ、ハイヒールに身を包んだバニーガールのキャラだった。
『耳はのう、妾たちクロリクにとって美しさの象徴じゃ!!ふわふわでふかふか、長くてピンと立っているのもよし、へにょりと垂れているのもまた趣が』といきなり始まった耳談義に文字通り耳を傾けつつ、慧は以前峰島が話していた事をふと思い出す。

『姫里、知ってるか?ウサギってのは万年発情期なんだ。野生だと一応定期的な発情期があるけど、飼いウサギになった途端いつでもどこでも発情するようになるんだってさ。……野生でイキってたメスガキうさ耳っこが、おうちに監禁されちゃった途端ずっとえっちになっちゃうなんて、最高のシチュエーションだと思わないか?』
『峰島先輩、目つきがヤバいんで一度水被ってきた方がいいっすよ』

「……なるほど、ウサギ……万年発情期……」
『慧、お主今碌でもないことを考えておるな?人を変質者みたいに言いおってからに』
「ぐっ、この思考筒抜けほんっと立場弱すぎ……」
『それは素直に諦めるのじゃ。それに妾とて、年中盛っているわけではないぞ?普段は男の娘を楽しく愛でているだけで、繁殖は数ヶ月に一度じゃし』
「愛でているのも発情と変わらないんじゃねーの?一体どうやって……いや、いい。聞かなかったことにしてくれ」

 全く、こっちの常識までぶっ壊れてしまいそうだと呟きながらゲームからログアウトして。
 何か大切なことを忘れている気がするんだけどなぁ、と思いつつもアイナに身体を返した途端、その場で服を脱ぎ始めるアイナに「だからすぐ脱ぐなよ!!」と慧は今日も全力で叫ぶ羽目になるのである。

 この皇女様、実は皇女じゃ無くて痴女なんじゃないのか。
 そのうちこのまま外に出かけてお巡りさん案件にでもなったら……あり得ない話では無いだけに、慧は危機感を覚える。

(だめだこれ、早めに教えておかないと大変なことになる……!)

「あ、喋る権利は俺のままだ、じゃなくって!!お前まさか裸族なのか!?地球じゃ家の中でも服は着るものだからな!」
『失敬な、妾もちゃんと服くらい着ておるわい!』
「あ、そうなんだ」

 とりあえずクロリクは裸族では無いらしい。確かに服という概念は持っていたなと慧は朝のやりとりを思い出す。

『じゃが、この服は好かぬ!!どうもぶかぶかじゃし、ガサガサじゃし、しかも言うことを聞かぬのじゃぞ!!』
「いやいやいや、言うことを聞く服があってたまるか!」
『は?』
「へっ?」

 ……言うことを聞く服が、あるのか!?


 …………


 そこから小一時間。
 どうしても嫌だとだだをこねるアイナに根負けして、慧は素っ裸でベッドに寝転がったまま、スマホの使い方を教えアイナに地球の服の概念を調べさせていた。

『……なんと…………この世界の服は死んでおるのか……』
「地味に嫌な表現だな、それ」

 アイナが言うには、服というのは持ち主が最も快適になるように自動的に調節してくれるものらしい。
 特に近年では異世界からの概念の流入により、更に快適さを増した服が人気を博しているそうだ。つまり、サイファ以外にもそんな「生きた」服がある世界があるということか。

「そんなに良いものなのか?」と慧が尋ねれば『それはもう、あれほど異世界の智慧が素晴らしいと思ったことは無いぞ!』とアイナは興奮気味に語り始める。

『その服の概念をもたらした異世界は、それはそれは素晴らしい世界らしくての。フリデール皇国設立の端緒となった男の娘の概念や男の娘製作のノウハウ、妾たちクロリクでは想像も付かぬ道具の概念、珍妙な責め具に玩具……ありとあらゆる情報が妾たちの常識を塗り替えているのじゃ。当然妾の国だけではない、あの世界の情報を崇め奉っていない国など存在せぬ!』
「アイナにそこまで言わせるとか、どんだけ変態揃いの世界なんだよそれ」
『ぬぅ、失敬じゃのう……慧は頭が固すぎじゃ、そんなかちんこちんじゃから耳も直ぐに固くなるのじゃぞ?』

 また耳のお手入れをするか?と尋ねるアイナに「勘弁して」と慧は必死で懇願する。
 冗談じゃ無い、あんなものを毎日されていたら本当に身体がおかしくなってしまう。いや、確かに気持ちは良かったが……だめだ、あれはめちゃくちゃ危険な予感がする。

 駄目かのう、とアイナは少し残念そうだ。
 例え借宿の小さく固い耳でも、やはり耳にはこだわりが強いのかと思ったのだが、どうもこの変態皇女様は家主に何かを与えたくて仕方が無いようだ。
 曰く「こんなにこの世界のものを見せて貰っておるのじゃ、それにホンもあるしの!」と情報提供に関しては随分恩義を感じてくれているらしい。

(まぁ、そういうことなら無碍にするのも悪いかな……)

 異世界人の素朴な優しさを受け取るのも悪くない、折角だし貰えるものは貰っておこうだなんて下心を見せたのが、今思えばいけなかった。
 そう、慧はすっかり忘れていたのだ。この皇女様の世界の根本を。

「じゃあさ、アイナの世界の服を見せてよ」
『服か?』
「そ。生きてる服なんてちょっと気になるし、そんなに着心地が良いって言うなら着てみたいなって」
『ふむ、そうじゃの!そろそろ魔法も使えるじゃろうし、今日はとっておきの服を披露してやろう!』
「ん?そろそろ?」

 とん、と裸のままアイナは勢いよくベッドから降りる。
 そうして昨日のように掌を――今回は両手だが――上に向ければ、昨日よりは二回りくらい大きい魔法陣がふわりと空中に描かれた。
 その魔法陣は柔らかく白い光を放っているが、良く見ると光には夢で見た空のような藍色がマーブル模様のように混ざっている。

『この感じじゃと、大きさの制限はなさそうじゃな』

 うんうんと頷きながら準備をするアイナによると、この世界で彼女が使える魔法にはかなり厳しい制限がかかっているのだという。

 使える魔法は、元の世界からの召喚のみ。といっても生き物は召喚できない。
 一度魔法を使えば次に使えるのは24時間後で、かつ次の召喚を行うと先に召喚したものは消えてしまう。

「ふぅん、つまりキャスト数秒リキャ24時間のレンタル魔法ってとこか」
『お主の言葉が謎言語に聞こえる気がするが、まぁきっと合っておるのじゃろ』

 これは妾の召喚した概念で作られた、世界的にも大人気の普段着じゃ、きっと気に入ると思うぞ?
 にっこり笑った次の瞬間、ぱあぁと部屋全体が明るくなってアイナの手の中に「それ」は現れた。


 現れた、のだが。


「…………くっそ、ある意味期待通りの変態っぷりじゃないか!!」
『ぬ、そうか?妾たちにとっては至って普通の服じゃぞ?』
「ありえねぇっっ!これのどこが!!普通っていうんだよ!!!」

 召喚されたものを見た慧の絶叫は、きっと階下までがっつり響いている。

 真っ青になった慧の腕に抱かれていたのは、真っ黒で光沢のある外見と、その内側にびっしりとぬめるピンクの突起が生えてうねうねと蠢いている……その、つまり、いわゆる触手服と呼ばれる代物だった。


 …………


「大体生き物は出せないんじゃ無かったのかよ!?」
『何を言っておる、これは服じゃぞ?……ああなるほど、お主らにはこれが生きているように見えるのじゃな。魔法生物は魂を持っておらぬから、妾たちにとっては生き物ではないのじゃよ』
「そんな無茶苦茶な理屈があるかよ!うへぇ、めっちゃうにょうにょしてる……」
『そう嫌そうな顔をするな。服がしょんぼりしておるではないか』
「えええ、感情まであるとかどんな仕組みなんだよ、それ」

 アイナは改めてその『服』とやらを床に並べて慧に説明する。
 大きなボディスーツのようなパーツと、4つの細長いパーツ……こちらはどうやら手袋と靴下?らしい。
 どれもかなりゆったりと作られていて、慧には少々大きすぎる気がするが『着れば自動的に身体にフィットするのじゃ』と言っていたからあまり問題は無いのだろう。フリーサイズなのにオーダーメイド状態になるのは素直に凄いと感心する。
 ……いや、もうそんなところで感心でもしていないと、正気を保てそうな気がしない。

 表面は真っ黒でつるりとした光沢がある。
『ほれ、触れてみよ』と手を自由にされてしまい、仕方なくおずおずと触れてみれば、思った以上に温かくすべすべしていて意外と触り心地が良い。
 しかも触られている『服』も嬉しいのか、内側の触手の動きが激しくなっている気がする。ほんとヤバい。

(こういうの、どこかのエロ漫画で見たことがあるぞ……一度着たら最後、アヘ顔晒してメス堕ちするまで責め抜かれるってやつ……)

 そうだった、この変態皇女様は自分を立派な男の娘にすると言っていたではないか。昨日から散々振り回されすぎて、すっかり頭から抜け落ちていた。
 なるほどこれを皮切りにメス堕ちさせられるということか、何てことを頼んでしまったのだと頭を抱えても後の祭りである。


 ……ぞくり、とどこかで小さな歓喜が生じているけれど、慧はそれに気づけない。


 ともかく、この状況は非常にまずい。姫里慧、生涯最大のピンチである。
 できたらこれを着るのは回避させていただきたいと祈りつつ、しかしまず無理だろうなと半分諦めながらも慧はアイナに一縷の望みをかけて尋ねた。

「あのさ、まさかこれを俺が着るの?どう見てもこれ、ラバースーツと触手服を合わせたヤバい代物にしか見えないんだけど」
『なぁに一度着れば病みつきになる快適さじゃ、案ずるでない……というか、お主がさっきから言っているショクシュフクというのは何なのじゃ』
「え、ああそっか。この国のエロ漫画で時々出てくる設定なんだけどさ……」

 そうですよねぇ着ないという選択肢はないですよねぇとがっくりしつつも、慧はスマホで触手服の画像を検索し、アイナに「ほら」と見せた。
 ……冷静になれば、年上のお姉様にとんでもないエロ画像を見せつけているわけで。何やっているんだ俺、とちょっと虚しくなる。

 と、その画像を一目見たアイナがいきなり目を輝かせ、食い入るように画面に張り付いてしまった。

「……アイナ?」
『…………これじゃ、まさにこの情報じゃ……!!』
「へっ」
『慧よ、この情報は妾がサイファに呼び寄せたものに瓜二つじゃ。そうじゃった覚えておるぞ!確かにあれはホンのような形をしておって、めくればこのような絵が大量に描かれておった!!』
「マジかよ」

 ……いやいやいや、書籍文化を持つ異世界だなんて掃いて捨てるほどあるだろう。
 そうは思いつつも、慧は床に置かれた触手服を見つめる。

 表向きはただの服に見せかけつつも、内側はいかにも扇情的な媚肉を思わせるピンク色の触手で覆われている。
 あの装着者を腰砕けにしてしまいそうなうぞうぞとした蠢き方といい、媚薬ですかと言わんばかりの粘液を吐き出しているところといい、その様子はどう見てもその手の界隈でありふれた代物だ。
 こういう趣味の方に見せれば、きっと喜んでいそいそと身につけるのだろう。残念ながら慧にその趣味は無いが。

(…………見れば見るほど、漫画に出てきそうなデザインなんだよな……)

 ゴクリと唾を飲み込みつつ、慧はおずおずと興奮しきっているアイナに話しかける。

「……あのさ、今俺とんでもない推論に至ったんだけど、できたら全力で否定して欲しいなって」
『うむ、間違いない。妾が召喚したのはまさにこれじゃよ!適度な締め付けとぬめぬめした感触が自律的に全身を這い回って気持ちよくする服の概念……慧、お主の推測通りじゃ。サイファの発展に最も貢献した異世界は、この世界じゃったのじゃよ!!』
「うあああやっぱりいぃぃ!しかも多分それ、ほぼ全部この国のものに違いねぇっ!!」

 つまり。
 アイナ達の世界が、いやきっと元々変態揃いではあったんだろうけど、その性癖を存分に堪能できる方向に発展してしまったのは、性的な嗜好が多種多様でゆるゆるなこの国のせいということで。

(なんなんだよ、このもの凄い特大ブーメラン!!しかもノーマルな俺のところに飛んでくるとか、とばっちりも甚だしいじゃんかよ!!)

 スマホを持ったまま『あれほど恋焦がれた世界に来れるとは……』と感激に打ち震えるアイナとは対照的に、慧は「許さねぇぞこの国の変態どもおぉぉ!!」と叫びつつがっくり膝から崩れ落ちるのだった。


 …………


「で、やっぱ着ると」
『当たり前じゃろう、お主の服も着たのじゃ、妾の服も体験させてやらねばならんじゃろ?』
「ううぅ……これで俺、メス堕ちさせられるんだ……薄い本みたいにっ……!」
『……何を言っておるのじゃ?お主を男の娘に仕上げるのはまだまだ先の話じゃよ?』
「えっ」

 覚悟も決まらぬまま身体を洗われ、湯船にチャポンと浸かりながら返された言葉に、慧はポカンとする。
 その身体の支配権はアイナが握っていて、どうやら湯の中で伸びきった陰嚢が相当珍しいのだろう『伸ばせば空も飛べそうじゃの』などと言いながらさっきからびよんびよんと引っ張られている。
 お願いだ、俺は狸じゃ無いんだから無茶をしてくれるな。

 というかクロリクの男の陰嚢は伸びないのかと尋ねれば『男のたまたまはこう、まるっともにゅっとした形のままじゃよ?こんな変幻自在のたまたまなど初めて見たわ』と実に楽しそうである。なんとも複雑な気分だ。

『お主を男の娘にするなど、そうじゃのう……まあ一月もあれば十分じゃろうて。お主随分敏感そうじゃし、素質もあるしな』
「全然嬉しくない……」
『褒めておるのじゃぞ?なぁに、まだまだ時間はあるのじゃ。お互いのことをゆっくり知ってからでも遅くはないじゃろう』
「……まあ、そういうことに、って俺が男の娘に堕とされるのは確定なんだな……」
『当たり前じゃ、何たってお主は……いや、今はまだ良い』
「なんだよ、引っかかる物言いだな」

 というか、まさか本当にただの善意だけで触手服を召喚したとは。
 最初から邪な考え全開だった自分がちょっと恥ずかしい。全く何を期待していたのだか。

(……期待?…………いやいや、それはないって……)

 ふと生じた思考を振り払い、慧は「ほら、もう終わり!てか伸びたまま戻らなくなったらマジで泣くからほどほどにしろよ!」と湯船から上がるようアイナに声をかけた。


 …………


 部屋に戻れば、床に広げられていたはずの服はいつの間にか綺麗に畳まれていた。
 どうやら待機モードに入ると勝手に畳まれるらしい。そのうねうねしている中身さえ無ければ、是非地球にも導入していただきたい機能である。

『さてと、着るかのう』
「うひぃ……な、なぁ、やっぱちょっと怖いんだけど」
『つべこべ言うでない、そのそもこの世界のガサガサの服は妾には無理なのじゃ!あんな身につけるだけで頭がいーっとなる服、良くお主らは身につけられるのう……』
「酷い言われようだな……うひぃ、いま何か舌なめずりしたぞこの服!?」
『触手など全部が舌みたいなものじゃ、気にするでない』
「余計に気になるから!!」

 抗ったところで、今の慧に身体の支配権はない。
 いやでも、彼らが日常に着ている服である以上、常識的に考えればそこまで刺激は強くないはずだ。腰砕けになっていては日常はおろか歩くのもままならないだろうし、と無駄な言い訳を繰り返しつつ、慧はアイナがボディスーツに足を通すのを引き攣りながらただ眺めていた。

(といっても、怖いものは怖いんだよっ……!!)

 嫌な汗が背中を流れる。
 自分の身体なのに指一本思いのままにならず勝手に奈落に突き落とされていく無力感に、頭のどこかがじんと痺れている。

(ひっ、入る、足が通っちゃう……)

 ぬちゅ、と柔らかくぬるついた感触が足にまとわりついた瞬間、全身にざあっと鳥肌が立って「ひいぃぃぃぃ!!」と慧は思わず情けない叫び声を上げていた。

「うわぁぁぬるぬるしてるぅ!!食われる、食われちゃううぅぅ!!」
『失敬な、服が生き物を食べるわけが無かろう』
「分かっていたって食われてる気分なんだって!!ううぅっ、ぞわぞわする……」

 十分に余裕があるからか、着ること自体はたやすい。
 
『よいしょ、っと……』
「うひいぃぃぃ!!」

 両足を通して一気にずるりと引き上げられれば、表向きは胸元から股間までを黒い布(?)が包み込んだ。
 パッとみた感じだと、生暖かく滑った触手に包み込まれているとはとても思えない。
 割とゆったりとした着心地で、肩のストラップも無いからずれていきそうなのに、どうやら触手がしっかり身体に吸い付いているらしい。

「……んっ…………ぬるぬる……ぞわぞわする……」
『気持ちがいいじゃろ?全部身につけたらぴったりフィットするからもっと良くなるからのう』
「もうこれだけで限界なんだけど……」

 慧の泣き言を軽くスルーし、アイナは続けて細長い靴下のようなパーツに足を突っ込んでいく。

 ずちゅ……

 何とも粘ついた卑猥な音を立てて、爪先が蠢く泥濘の中に飲まれていく。
 我先にと言わんばかりに絡みつく触手が、足の指の股に挟まり、ずるりと引っ張られ、そのまま足の甲を、裏を撫でて足首に纏わりつく。
 足の裏は確かにくすぐったいはずなのに、同時にあちこちに叩き込まれるゾワゾワのおかげで、もはや何が気持ちよくて何が不快なのか、訳がわからない。

 ……これ、足じゃなくてちんこを突っ込んだら暴発しそうだな、なんて慧は現実逃避気味にポツリと思う。
 さっきボディスーツを装着した時は締め付けも緩かったからなのか、そもそも触手のインパクトが凄すぎたせいなのか、股間の気持ちよさを味わう余裕なんてとても無かった。
 ちょっとだけ損したかなとふと頭によぎるけど、それもすぐに足から叩き込まれる感覚に流されていって。

(ひっ、ヌルヌルが包み込むっ、うああああ膝裏舐めるなあぁっ!!鳥肌が止まんないいぃぃっ……!!)

 爪先から太ももの付け根近くまで、ヌメヌメと温かい触手に包み込まれ、うぞうぞと動く感触はどうにも居心地が悪い。
 とはいえ身につけて暫くすると体温に馴染むからだろうか、最初ほどのぞわぞわした気持ち悪さは無くなっていく。
 
『ほれ、手も嵌めるぞ』
「っちょっ待って心の準備がうっひゃあああああっ!!」

(やばいやばいやばい!!足どころの騒ぎじゃねえええ!!)

 過敏なところをずるりと触られる感覚に手を振り払いたくても、身体の支配権はアイナにあるからか、動かすことはおろかびくんと身体を痙攣させることすらできない。

『これでよし、と』

 手袋は、腋の近くまでをすっぽりと覆ってしまう。
 見た目は薄い手袋なのに、明らかに指の一本一本が、そして指の股がぬるぬるした物体に覆われているのがわかる。
 
 じっとしていても微妙に蠢いているのだろう、ずっと指の腹を、側面を、股を優しく摩られているようで、何とも身の置き所がない。
 
 デコルテは露出したままだが、それ以外の部分はほぼ全てが触手の中に飲み込まれた状態で、足の裏まで触手に覆われているお陰で何だか地に足が付かない感じがする。

「うひぃ……これ、ぬちょぬちょして歩きにくくないのか?」
『心配ない、じきに身体に馴染むからのう。ほら、締まってきた』
「あ、ほんとだ」

 アイナの言ったとおり、全てのパーツを身につけた途端だぶついていた部分がキュッと締まってくる。
 慧の身体のラインに沿うように、皺の一つすら許さないと言わんばかりにぴっちりと……いや、むしろこれは締めすぎでは無いのか……?

(え、待って、まだ締まるっ……ひっ、絞め殺される……!!?)

 じわじわと、高まる圧力。
 途端にわき上がる不安に、慧の心臓がどくんと早鐘を打つ。

「あ、アイナ、これっんううぅぅ!?」
『ふぅ、やはり服はこのくらいギッチギチに締め付けられるくらいが丁度良いのう!』
「うっそ、だろおぉっ……はぁっ……!」
『一番いい締め加減で止まるからの、身体の力を抜いて委ねておくのじゃ』
「無茶をっ……言う……なぁ……っ!」

 覆われている部分はもはや触手と一体化してしまうのでは無いかと思えるくらい、ぎっちり圧力をかけてくる。
 血流を阻害しない限界まで、全てが淫靡な檻の中に詰め込まれ、閉じ込められ、泥濘の中に漬け込まれているのにギチギチというどこか矛盾した感触に、脳が混乱を訴えている。

 息が、上がる。
 胸郭と腹部の締め付けが思った以上にキツくて、空気が少しだけ足りないような状態がずっと続く。
 頭がぼんやりとして、けれども動けないほどでは無い絶妙な感じ。

(あれ……何か、ちょっと視線が高い……?)

 混乱を極めた頭で、慧はぼんやりといつもと違う景色に気付く。
 その違和感の正体は直ぐに判明した。

「あ……足……なに、これ……」
『うむ、つま先立ちになって踵に支えの棒が付くのじゃ。これが良いと情報にあっての、どう言う意味があるのかは妾にも分からなかったが、まあ様式美というものじゃよ』
「触手でハイヒールを再現するとか……んっ……これ、まじできっつい……」

 思った以上にきっちりと足首は固定されているから捻ることはなさそうだが、必死で爪先に力を入れないとすぐに転んでしまいそうだ。
 まさかヒールなんて履く(これは履いているというのか)日が来るなんて思いもしなかったけど、この視線の高さはちょっと楽しい。世間の男性というのはこんな景色を見ているのか。

『ほれ、見てみよ』とアイナが振り返れば、ガラスに映るのはボディスーツに身を包みピンヒールを履いた自分の姿。
 妙にウエストが括れていて、何だか艶かしさすら感じるのは気のせいだろうか。

 ……それにこう、どうにもシルエットに違和感がある気がする。特に股間のあたり。
 見慣れた膨らみが無い気がするけど、そこまで押し潰されている感じもないし錯覚だろうか。
 アイナに頼んで確かめてみたい気持ちはあれど、こんな普通(?)そうに見せかけた服の中にあんなぬるぬるうぞうぞがあると思うと、ちょっと腕を動かすのすら怖かったりする。
 
 だというのに、皇女様は本当に容赦がない。

『どうじゃ?なかなか心地よい締め付けじゃろ?ああ、心配せずとも関節はちゃんと曲がるから、動作に問題は無いはずじゃ。ほれ、動いてみるぞ』
「心地よいってなんだっけな……ちょっと、息が苦しくて……んああぁぁぁ!!?」

 ほら、動けるじゃろ?とアイナが前屈をした瞬間。
 まるでそれに連動するかのように、内側の触手が一気にずるりと全身を舐め上げる。

(やば、これまさか、動く度に……!?)

 慧の嫌な予感は的中する。
 アイナがその場で動きを確かめる度、それに合わせて触手が蠢く。
 背中や腰、指先の一本一本まで……そしてハイカットできわどい股間の布(?)に無理矢理押し込められた敏感な場所も余すこと無く、ぬるぬると無数の触手が擦りあげていく。

(何でっ……うそだろ、そんなとこ気持ちいいだなんて……!)

 あんな悍ましいうねうねした物体に包まれて嬲られているだなんて、気持ち悪くて仕方が無い、筈なのに。
 この『服』はまるで慧のいいところを探し当てようとばかりに全身をまさぐり、反応の良い場所を股間と共に舐め、しゃぶり、吸い付き、ありとあらゆる刺激を与えていく。

『ふぅ、やっぱり服はこうでなくてはのう……気持ちいいじゃろう?ちゃあんと持ち主のいいところを探し出してずーっと気持ちよくしてくれるんじゃ』
「はっ……お前、なっ……やっぱりエロ漫画みたいに堕とす気、んううぅぅっ……満々じゃ、ないか…………っ!!」
『……というより、何でお主はそんなに快楽を感じておるのじゃ。確かに気持ちはいいが、腰砕けになるほどではあるまい?』
「うああぁっ、歩くなあ!!ちんこが溶けりゅううぅ!!」

 部屋の中をアイナが歩き回る。
 足を一歩踏み出す度に、竿から、玉から、何故か会陰や後ろの方まで全てを舐め尽くされるような快感に襲われる。
 アイナが無理矢理身体を動かしていなければ、とてもじゃないがその場に蹲って動けなくなっていただろう。

(やばい、やばい、気持ちいい……!!)

 このままではまずい、服に逝かされてしまう。流石にそんな無様な醜態は晒せまい。

「も、十分堪能したから、脱いで」と口を開きかけるも、それは『さて寝るかのう!!』と勢いよくベッドに飛び込んだアイナの行動により、目の前に星が散るほどの快楽とともに言葉が霧散する。

「か……はっ…………!」
『本当にぐずぐずじゃの。お主、良くこんなに快楽に弱い身体でここまで無事に生きて来れたものじゃ……ああ、もう聞こえておらぬか』

 まあ折角の異文化体験じゃ、妾も随分楽しませてもらったでの。
 これは礼じゃ、ゆっくり堪能するが良い。

 ――そんな慧にとって死刑宣告にも等しい言葉は、幸か不幸か快楽に溺れきった慧の耳には届かなかった。
 そして、とんでもない間違いが起きていたことを慧が知るのは、数日後の話である。

『……あ』

 心地よさに身を任せて眠りにつこうとしたアイナは、ふと気付く。

『…………これ、女性用じゃったのう……』

 そう。
 この身体が身につけているのは、ハイカットのボディスーツに長手袋とサイハイブーツを模した、女性用の普段着である。
 本来男性用の普段着は、丈の短い長袖のシャツにローライズのタイツを合わせるのだ。……もちろん、ギチギチの締め付けと中にびっしりと触手が蠢いているのは変わらないが。

 女性と男性では快楽への許容量が大きく異なる。
 真偽の程は不明ではあるが、女性の絶頂を味わえば男性は命を落とすこともあると、まことしやかに囁かれるほどである。

 だから、この服も当然男性用と女性用では快楽の強度が全く異なっている。
 とはいえあくまでも異なるのは最大強度であり、この服はどんな装着者であろうがその人が最も心地よく日常を過ごせるレベルに調整してくれるはずなのに。

『……むしろ妾の感覚に合わせてしまうのか?それは…………ちとまずかったかのう……』

 そうだった、とアイナは思い出す。
 この身体は元々アイナに合わせた器だ。魂が二つ入っているという異常事態に服はどうやらより器に適した魂を持つアイナを基準と定めたのだろう。
 ……実に興味深い知見が得られた、と内心喜んでいるのは内緒だ。

 ふあぁ、とあくびをしつつアイナはその身の内で快楽に悶え続ける慧の魂を眺める。
 いきなりぶち込まれた快楽に少々震えてはいるが、少なくとも命に問題はなさそうだ。

(まぁ、情報共有と違って魂が快楽で爆発することは無いじゃろ……うむ、そもそも気持ちがいいのは良いことじゃしな!慧もきっとこの服の良さを堪能しておるはずじゃ!!)

 そうしてとても楽天的な、慧にとってはあまりにも残酷な判断を下し、心地よい眠りにつくのだった。


 …………


(助けて)

 全身が、ヌメヌメとした触手に覆われている。
 助けを呼ぼうとするのに声が出ないのは、喉の奥まで埋め込まれた太い触手のせいだ。
 食道まで貫かれた触手の先からはとぷとぷと粘液が注がれていて、粘膜に触れた瞬間カッと焼けるような感覚を覚える。

 逃げようともがこうにも、全身を覆い尽くされた身体は指一本動かすこともままならない。
 恐怖に見開いた目の前には、どろりした粘液を滴らせた太い触手が一本掲げられている。
 ――まるで、これからこれをお前の中に入れるのだと言わんばかりに。

「んむうぅぅぅぅ!!んうううううっっ!!」

 やめて、それだけは、やめて。
 必死の願いが届くことは無く、誰にも触れられたことの無い後孔に、そして鈴口に、ぬちゅり、と音を立てて触手が潜り込んでいく。
 あり得ない太さなのに、痛みはない。それどころか頭の中が真っ白になって、ふわふわして、気持ちがいい……

(いやだ、触手に犯されるなんて……こんなので気持ちがいいだなんて……誰か、助けて…………!)

 ずちゅ、にちゅ、ずちゅっ……

 繰り返される抽送、聞くに堪えない粘液質な音、その度に快楽でチカチカする視界。
 理性は融かされ、思考は散らされ、やがて心は……雄であったことを忘れてしまって。

(ああ、俺、堕ちちゃった……もう戻れない……)

 一筋の涙が頬を伝いこぼれ落ちたその時


 ピピッ、ピピッ、ピピピッ…………


「…………はっ!!」

 カッと目を見開いたその先にあるのは、白い天井。
 そして鳴り続ける目覚ましの音に、あれは夢だったのかと慧は心の底から安堵する。

(……何て夢だ、俺はあんな趣味は無いってのに……)

 それもこれも変態皇女様のせいだ。あんなものを着せたりするから。

(あんな、もの……?)

 あんなものって、何だったっけ……

 まだ寝ぼけた頭で、ともかくこの喧しい目覚まし時計を止めねばと身体を捻り右手を上に上げた瞬間


 ずるり


「んうぅぅぅっ……!!」

 途端に全身にぬめった刺激が施され、慧は手を上げたままその場に突っ伏してしまった。
 どうやら今の動きがトリガーになったのだろう、黒くテカテカしたもので覆われたその下で、一斉に触手達が動きを強めていく。

(そうだった……!昨日、俺はアイナにこれを着せられて……)

 ようやく震える手で目覚ましを止めた慧は、昨日の出来事を思い出す。
 地球原案、サイファ製作の特製触手服を『普段着じゃぞ』と言われて着せられたら、これで日常を過ごすだなんてとんでもない、まさに原案通りの効能を示す見事な責め具っぷりに早々に気絶してしまったのだった。

 その結果があの最悪な夢だ。マジでもう男には戻れないかと恐怖した。

(はっ、そう言えば俺の尻は!?)

 夢を思い出し、途端に恐ろしくなって慧は慌てて尻に触れる。
 と言ってもそこもきっちりと触手に覆われているお陰で、触れた感覚はよく分からない。
 ただ、少なくとも尻に何かが挟まっている or いたような感覚はなさそうで(俺の貞操は守られている……!)と一気に安堵で力が抜けた。

(あ……っ、だめ、力抜けたら余計に……なんかもう、どこぬるぬるされても気持ちいい……っ!!)

「はぁっ、はぁっ……んあぁぁ……」
『んん?一晩ですっかり出来上がっておるのう……なるほどお主の言っていたウスイホンとやらをスマホで調べてみたのじゃが、確かにお主ほど敏感であれば全身の開発ができそうじゃ。まさか、服如きで開発されるほどこの世界の人間が敏感じゃとは……この世界から貴重な概念が産まれるのも当然じゃ、いやはやなんとも素晴らしいのう!』
「感心してる場合じゃ、ないんだけど、なっ……!なぁアイナ、これ、脱がせてぇ……!!」
『もう脱ぐのか?それは名残惜しいんじゃが……』
「も、充分味わった、からぁ……!!」

(ぞわぞわ止まんない……腰、勝手に動いてしまうっ……)

 夢の世界から完全に冷めても身体はずっと火照ったままで、どこかふわふわ地に足が付かない感じがする。
 それもそうだろう、この触手服はどうやら疲れ知らずもいいところらしく、アイナが言うには慧の身体は一晩中全身をぴっちり締め付けられたまま、ぐっちゃぐちゃに嬲られ続けたのだから。
 ……そりゃあんな夢も見るはずだ。ああもう、二度と思い出したくも無い。

 それにこの微妙に朝から気怠い感覚から察するに、きっと何度か射精もしてしまっているだろう。そもそも内側は触手のお陰で最初からヌルヌルだし、どうやら水分が外に染み出ることもなさそうだから確かめようも無いのだが。

(死ぬ……こんなの続けてたら、俺ぜったい干からびて死んじゃう……)

「いくら何でも酷い」と慧が嘆けば『そう言われてもこういうものじゃしのう……』とアイナも戸惑いを隠せない様子である。

 鏡に映った慧の姿は、確かに艶々としている。こんな状態なのに身体はちゃんと休めているのが不思議すぎる。恐るべし魔法の力。
 とはいえ見た目は慧の魂の影響か、頬は色づき目は潤んでいて、閉じきらない口と相まって随分と艶っぽく、慧ですらちょっとドキッとしてしまうほどだ。
 さっさと脱いで冷たいシャワーでも浴びて頭を冷まさないと、とても大学には行けなさそうだと内心困り果てている。

 しかしそんな慧の焦りも、アイナからすればどこ吹く風だ。
 無理もない、アイナの感覚ではこの快感は日常であり、むしろ彼女の言う「ガサガサの服」を来ているよりずっと快適なのだから。

『妾は特に問題なく寝られたし、むしろいい感じに心地よいがの。ほれ、集中すれば気にもならぬじゃろ?』
「なる、わっ……くうぅ、だめっきもちいいっ、また出るっ……」
『……あんまり出しておると服が離れてくれぬぞ?こやつらにとって体液は貴重なエネルギー源じゃし……いやもう遅かったのう、こやつすっかりこの身体を気に入っておる……』
「え」
『普通は男と言えどこの程度で射精などせぬのじゃよ。まぁ濡れるくらいはあるがの……第一、日がな一日男がおっ勃てて子種をまき散らしておっては、気になって困るじゃろ、女子たちが』

 ……そこで困るのは男性自身じゃ無いのが謎だ、と突っ込みたいところだが、それどころではない。

「お、遅かったって……どういう、ことっ……?」

 どうにもまとまらない思考をかき集めて、慧は必死で尋ねる。
 快楽でバカになっている頭でも何となく分かる。きっとこれは悪いニュースしか出てこない。

 案の定、アイナはどことなく申し訳なさを滲ませつつ『そやつ、当分離れぬぞ』と慧に告げた。

「……離れない……?」
『その服はな、装着者の体液をエネルギー源に動く魔法生物じゃ。通常は24時間もすれば満足して勝手に離れてくれるのじゃが』

(いや、勝手に離れるのはまずくないのか!?いきなり全裸だろ!!?)

『精液はのう、体液の中でも特別エネルギーが高くて……まぁ、体液をエネルギー源とする服にとってはごちそうなのじゃよ。そんなものをいくらでも出してくれるのであれば、ずっとひっついて食べたくなるのは道理じゃろ』
「そんな道理、聞きたくなかった……」

 慧はその場にがっくりと崩れ落ち、涙目で時折悩ましい吐息を漏らしながらも「なんとかしてくれよぉ!」と嘆く。
 その間も触手服は美味しいエネルギーを欲しているようで、心なしかその動きも大胆になっているような気がする。

「はぁっ、んっ、んひいぃぃっそこだめぇぇっ……!!お前な、こんなんじゃ大学に行けないじゃんか!」
『むぅ……すまぬ、とりあえずは服によーく言って聞かせておくでの、妙案が思いつくまで……頑張るのじゃ』
「うえぇ、頼むからさっさと思いついて……」

 ふと時計を見れば、もう8時だ。そろそろ準備をしないと迎えが来てしまう。
 慌てて慧は着替えを取り出そうと立ち上がり……うっかり勢いよく立ち上がったせいでまた全身をずるずると舐め回されて「もうやだぁぁ!」とへたり込んでしまうのだった。


 …………


「どうした姫里、顔が赤いぞ?体調が悪いのか」
「あ、だいじょぶ、です……ちょっと風邪を引いたみたいで……」
「そうか、無理はするなよ。一人暮らしも慣れないうちは大変だろうし、多少は助けてやれるからさ」
「ありがとうございます、峰島先輩……んふぅ……」
「おいおい、本当に大丈夫か?目が潤んでるぞ??」

 シートから伝わってくる、わずかな振動。
 普段は気にもかけないような刺激すら、一晩かけて全身が敏感になった身体には甘い劇薬となってじわじわと染みこんでいく。

(やべぇ……締め付けと、うねうねと、車の振動のコンボはマジでやべぇ……!)
『このクルマというやつはなかなか気持ちいいのう……んふぅ、妾まで蕩けてしまいそうじゃ……』
(ちょおおぉぉ皇女様楽しんでないで、さっさと妙案を思いついてくれって!!)

 行きの車では先輩に、講義棟に入れば同級生達に「大丈夫か?」と心配されつつ、慧はなんとか講義室の隅に隠れるように陣取る。
 幸い触手服は表向きは厚手のインナーと大して変わらず、長袖のシャツとパンツでいい感じに隠すことができた。
 手はどうしようもないので黒い手袋とでも思って貰うことにして、足は触手に靴を見せてその形に変形させている。何故かつま先立ちの状態は譲ってくれず、シークレットブーツでも履いているような見た目ではあるが。

(ううう、誰も指摘しないから余計に辛い……)

 明らかに、周囲には昨日に比べて背が伸びていることに気付かれている。
 しかしコンプレックスだと推察される背の低さを笑うのは躊躇われるのだろう、そっと生暖かい眼差しで見守られているのが、とてつもなくいたたまれない。

(くそっ、とにかく!集中すれば大丈夫ってアイナも言ってたし……家に帰るまで何とか乗り切らないと……!)

 気のせいか朝よりは少し大人しくなった(かもしれない)触手にほっと胸を撫で下ろしつつ、慧は講義を聴きノートをとり続ける。
 ときおり不意打ちのように股間を撫でられ思わず口を押さえることこそあったものの、確かに講義に集中していれば多少はマシだ。

 講義室には講師の声と、板書を取るペンやキーボードの音、不精者がスマホで板書を撮影する音だけが響いている。
 意外と私語をする者は少なく、それだけに迂闊に声など出したら悪目立ちしてしまう。

(けど、この程度の触手服で良かったよ……アイナが見たのはまだライトな触手ものだったんだな)
『慧?どういうことじゃ、もしかしてもっと素敵なショクシュフクの概念がこの世界には』
(アイナ今は講義中、話しかけるの禁止)
『ぬうぅ、折角の魅力的な話だというのに……』

 散々慧の身体を堪能し尽くしている触手服だが、どうやら比較的お上品な(?)お手本を再現しているようで、慧の穴は全て無事である。
 そう、最初に慧が危惧していた、それこそ昨夜の夢のような「お尻の穴もちんこの穴も犯されてメスになりゅううぅ♡」みたいな大惨事は起こっていない。
 ……いやまあ、そこまでやられなくても全身くまなく締め付けられ愛撫されるのは大惨事の部類だとは思うが、この際そこは追求しないでおこう。

 何にせよ、アイナの説得はちゃんと通じたようだ。
 皇女様は強引だけど悪い奴では無いんだよなと、今回はアイナの活躍に感謝する。

 その一方で。

(……ふぅ、次回召喚するときはちゃんと男物の服にせねば……妾には少々物足りぬが、ここまで服に好かれるとなると、慧の身が持たぬからのう)

 アイナも、よもやここまで慧が快楽に弱いとは思っていなかったのだろう。流石にこのうっかりはまずかったと反省していた。
 元の世界でならこういう事故が起きても魔法を用いて強引に服を脱ぐことはできるのだが、いかんせんサイファの成分が1割しか無いほぼ地球人の身体では、魔力の量も桁違いに少なくて服と話すのが精一杯である。

 だが、せっかくのまともな服を着れる機会なのだ。アイナとてこれきりにする気は毛頭無い。
 流石に毎日とはいかぬだろうが、せめて日替わりでまともな服を着させて貰いたいものだ。

 なに、次回はちゃんと男物の普段着にするから、ここまで慧が大変な目に遭うことはなかろう。
 アイナが物足りないのはこの際仕方がない。あのガサガサ服を着ずに済むならそれで充分だ。

 地球の服を着たまま過ごしていては向こうに戻る前に頭がおかしくなってしまいそうだと、アイナは慧が羽織っているシャツを眺めては『何故この様な拷問じみた服を着るのじゃ……』と独りごちていた。

(まあ何はともあれ、服が説得に応じてくれて良かったわい……しかしこうグルメになってしまうと、この服は今後の使いどころに困るのう……そうじゃ、次の祭りの時にエヴァンデルの皇太子に贈呈すればよいではないか!あやつ、この間会った時にただの服では最近満足できぬとぼやいておったし、ここまで貪欲になった服ならさぞ喜ぶに違いない!)

 これでも皇女である。表向き政治への発言権は無くとも、将来に向けて他国との繋がりを持っておくのはもはや責務だ。
 慧が聞いたらひっくり返るようなえげつない国際交流を思いついたアイナは、それはそれとしてこの事態をなんとかせねばと、さっきから腰の動きが止まらない慧の様子に嘆息した。


 …………


 確かに、触手服はきちんとアイナの言いつけを守っていた。

 いくら服の下とは言え、人前で達してしまうだなんて人間として何かが終わってしまう気がする。
 だから、アイナの判断は間違えていない。

 ただ間違えていないからと言って、楽になるとは限らない訳で。

「ふーっ……ふーっ…………」

 一歩、足を踏み出す。
 つま先立ちを強いられたふくらはぎはピンと張り詰めているのに、そこを締め付けながらもずるぅりとゆったりした動きで這い回る触手の刺激に、気を抜けばかくんと力が抜けてしまいそうだ。

「……っ、んふうぅぅぅ…………!」

 鉛のように重い身体を前に運ぶ。
 一体どう言う仕組みなのか、どう考えてもガチガチに滾っていそうな膨らみは表からは見ることができない。
 だが、先端を包み込み柔らかなブラシのような触手でなで回され、カリ首を少し強く舐めるように動き、さらに根本からこちゅこちゅと扱き上げられ……巧みな愛撫に思わず悩ましい声が漏れる。

 双球は温かい泥濘の中で転がされ、その後ろの何も無いところは執拗にぐいぐいと押され。
 後ろの穴は確かに中にこそ入ってこないが、延々とその皺の一本一本まで舐め尽くすかのように蠢いている。

「はぁっ……だめ、もう……うあぁ…………っ!!」

 けれども、玉がキュッとなって、解放の兆しが見えた途端、その動きはピタリと止んでしまう。

「はっはっはっ……はぁっ……ううぅぅ…………」

 最初のうちはその動きに安堵していた。
 何とか大学で醜態を晒す事だけは回避できたと。

 けれども慧の身体が落ち着けば、すぐに肌の上を蠢き舐め尽くす動きが再開する。
 そうしてまた快楽の坩堝に叩き落とされ、もみくちゃにされ、昂ぶらされ……ゴールが見えた途端に放り出されるのを、一体朝から何度繰り返しただろう。

(辛い)

 アイナの『やめてくれえぇぇ顔までガサガサじゃとおおおお!!?』という叫びを無視してマスクを着けて来て正解だった。
 きっと今の自分はぐちゃぐちゃでドロドロの酷い顔をしているに違いないから。

(こんなの、辛すぎる)

 壁に寄りかかって休みながら、這々の体で人影の少ないトイレへと駆け込む。
 身体の締め付けにマスクを追加したせいか、頭に酸素が回ってなくてぼんやりして、余計に理性が働かない。

(もう、出したい)

 パンツを下ろせば、そこに広がるのはレオタードのような股間。
 慧の感覚的にはどう考えてもガチガチにそそり立っているはずのそこは、まるで何も無かったかのようにつるりと平坦になっている。

(早く……早く、楽になりたい)

 股の隙間から息子さんを取りだし思いっきり扱こうと、慧は焦りに震える手で服の間に手を入れようとして……「うそ、だろ……っ!」と愕然とした様子で呟いた。

 手が、入らないのだ。いや、そもそもつまむことすらできない。
 どれだけ捲ろうとしても、触手服はまるで皮膚と一体化したかのようにぴったりとくっついて離れない。

「くそっ、離れろよっ……んあああっ!!うああぁっ……やめ、なんでえぇ……」

 それどころか、まるで慧を阻止するかのように触手が一斉に動き出す。
 ずるずると指先をしゃぶるように、手首を、肘の内側を這い回る触手のお陰で、手に力が入らない。

「ひぐっ……やだ……さわりたい、出したいっ……!」

 それならば。

 もはや射精のことしか考えられなくなった慧は、その股間に手を伸ばす。
 服の上からでもいい、とにかく扱いて出してスッキリしたい。
 見た目は平坦でもこの奥には間違いなく元気な息子さんが居るはずなのだ、全力で刺激をすれば……!

「……?」

 必死で股間に手を押しつけ、目当てのものがあるであろう場所を揉みしだき、押しつけてぐっと擦りつける。
 ……なのに、何も感じない。

 確かにそこに脈打つものがあるはずなのに、その存在を掌は関知せず、確かに掌は圧迫と振動を与えているのにその刺激は服の下に一部たりとも響かない。

「う……そ…………っ……!」

 さぁっ、と頭から血の気が引く音が聞こえた。
 まさか、この服を脱ぐまでは……身体に触れることすらできない……?

『……当たり前じゃろう』

 慧の様子を静かに見守っていたアイナが、ようやく口を開く。
 けれどその言葉は、今の慧にとってはどう考えても死刑宣告に等しいものだった。

「当たり前……?」
『服は外の刺激から身を守るものじゃ。お主らとて服を着る目的は似たようなものじゃろう?』
「それは、まあそうとも言える、かな……」
『その服はお主の着ているガサガサの服と大して厚みは変わらぬが、火も水も雷も刃も通さぬ。特に男の股間は急所じゃからな、大切な子種を守るために何が何でも刺激が伝わらぬように保護されておるのじゃよ』
「……!!」
『それに、言ったであろう?その服はお主を気に入っておって離れぬと』
「そ……それじゃ、俺はこのまま……」

 まさか、触れることすら許されないだなんて思いもしなかった。
 ああ、異文化とはこれほどまでに理解の及ばぬものなのか!

『仕方がなかろう。触手に許可を与えれば、そいつはこの場で際限なくお主を搾り取るじゃろう。それでも妾は問題ないが、お主は……達しながら外を歩くのは辛いのじゃろう?』
「じゃ、せめてこの動きを止めて、締め付けを緩めてっ……!」
『無理じゃ。ある程度は言い聞かせることも可能じゃが、装着者が気持ちよくなるよう動き締め付けるのはそやつの本能じゃから、止めようが無いのじゃよ。……方法が見つかるまではどうしようもないのう。すまぬが耐えてくれ』
「そんなっ…………!!」

 つまり、アイナが妙案を思いつくまで、この身体は永遠に射精を許されず、けれども延々と昂ぶらされ続けられるということで。

「うわあぁぁぁぁ…………っっ!!」

 個室の床にへたり込み慟哭する慧の瞳から、大粒の涙が溢れる。
 その顔には無力感に打ちひしがれる絶望がはっきりと浮かんでいた。

 これは、無慈悲な牢獄だ。
 どこまでも自由に動けるのに、何一つ自由にならない囚われた身体は休むこと無く注ぎ込まれる熱に炙られ続ける。

(こんなの、酷い……助けて……お願い、助けてっ……!!)

 わあわあと泣きじゃくる慧を、アイナはその内からじっと見つめる。
 もちろんアイナも同じ身体に入っているのだ、逝けないもどかしさは共有しているがそれでも絶望を感じるほど苦しいわけでは無い。むしろこのくらいで丁度いい。

 地球人の魂がここまで快楽に弱いことを知らなかったとはいえ、元はと言えば自分のうっかりも一因なのだ。流石に申し訳なさは感じていたし、この埋め合わせは必ずせねば!と密かに心に誓っている。

 ……ただ、内に居るからこそ見えるものもあって。

(…………慧、お主は……やはり、良い素質を持っておるのう……)

 それはまだまだかすかな輝きで、こと性癖に関してはやたら頑なな慧には到底受け入れられないもの。
 けれど、アイナにとっては実に好ましく、サイファの常識に照らし合わせれば実に有能、才知に溢れていて……そして、この身体と合わせてこの上なく羨ましいもので。

(恐れることは無いぞ、慧。この身体を間借りする恩は全力で返すからのう!)

 今は絶望に打ちひしがれる慧を助け出しねぎらうことが優先だと策を練りつつも、アイナはそんな慧に、そして慧の持つ輝きに愛おしさを感じていたのだった。


 …………


「……ううっ…………もう、今日は家に帰る……」
『その方がよいじゃろうな』

 ひとしきり泣いて、すっきりして。
 身体は相変わらずグズグズですっきりのすの字も無いが、何とか顔を洗って新しいマスクを着ければ見れる姿にはなった。
 今日の残りの講義は夕方に一つだけだ、流石に休もうと峰島に連絡を入れる。

『峰島先輩すみません、体調悪いんでやっぱ帰ります』
『わかった、送っていってやるからどこかで休んでろ、次の講義が終わったらそっち行くから』
『ありがとうございます』

 即座に返ってきた峰島の申し出を、慧はありがたく受けることにする。友人のつてで別の先輩に頼むのもありだが、この状態を見知らぬ先輩に見せるのは流石に気が引ける。

 これでひとまずはOK、とちょっと気が抜けたせいだろうか。不意に催した慧はそのまま小便器の前に立って……もう一つの重大な事実に気付いた。

「……あのさ、アイナ」
『どうしたのじゃ?』
「これ、どうやってトイレすればいいんだ?」
『………………あ』

 あ、じゃないぞこのやろう。
 その感じは完全に忘れていたってやつだな!と全力で突っ込みつつ、慧はアイナの言い訳を待つ。

『その、慧、妾たちは排泄を魔法で済ますのじゃ』
「おう、それは昨日聞いたな」
『妾たちの世界で物理的に排泄をする者など……なんじゃったかな、ラトゥリ国の大使が熱弁しておった……そうそう、カンチョウ?とかオシガマ?とかいう概念を楽しむ者くらいじゃ。じゃからその』
「…………服を着た状態でトイレに行くことなど想定していないと」
『うう……すまぬ……まさかこのような建物や仕組みを作って排泄をしなければならない世界があるとは、思いもせんかったのじゃよ』
「サイファの魔法師様は、もうちょっと異世界の常識も召喚した方がいいと思うぞ?性癖一辺倒じゃ無くて、な!」

 だめだ、出せないと思ったら急に尿意が高まってきた。
 よく考えたら昨日の夜にこの服を着せられてからそろそろ16時間、良くこれまでトイレに行きたいと思わなかったものだ。
 しかも一度気がついてしまったら、もう尿意で頭の中がいっぱいになってしまう……こともないか、半分くらいはちんこ触りたくて仕方が無いし。まあどっちにしても下半身から意識が離れてない事に変わりはない。

「やべぇって、これ、冗談抜きに漏らしそう……!」
『……ふむ、漏らしても大丈夫じゃぞ?その服はあらゆる体液を好むから、小水だろうが美味しく頂いてくれるじゃろ』
「どれだけ変態な魔法生物を作ってるんだお前らは!!って待てよ、ここで俺が漏らして……その、飲まれれば」
『…………新たな体液に狂喜乱舞して、ますます離れなくなるのではないかのう……』
「だめじゃん!!」

 絶体絶命とはまさにこういうときに使う言葉だ、こんちくしょうめ。

 とにかくここで蹲っていてもどうしようもないと、慧はガクガクする足を叱咤しながら何とか立ち上がり、スマホの画面を見た。
 今は11時。峰島が書いていた次の授業は確か12時半までだ。
 つまり後1時間半、と家に着くまでの15分を耐え抜けばいい。

 その後?生理現象をコントロールなんてどう考えたって無理だろう。この聡明な皇女様がそれまでに解決策を思いつかない限り、全てを諦めて決壊する以外に道は無い。

「はぁっはぁっはぁっ……」
『しっかりするのじゃ慧。何ならもうここで漏らしてしまえ、別に誰にもバレぬ』
「そういう……もんだい、じゃ、ないんだよっ……!ぐぅっ、もう訳分かんねぇ……」

 講義棟のロビーにようやくたどり着き、ソファに崩れ落ちるように背を持たせる。
 座ったときの刺激で思わずちょっとちびってしまったが、必死で筋肉に力を入れてそれ以上の決壊は防ぎきった。

「……後……いちじ、かん……!」

 ここで触手服を脱がす方法が分かったとしても、家に帰るまではどうしようもない。
 とはいえ少しでも早く光明を得たくて、慧はだらだらと脂汗を流しながらアイナに「なぁっ、何か思いついたかよ……っくうぅぅ……!」と尋ねるも、反応は芳しくない。

『こちらの説得ではどうしようも無い……魔法が使えぬ以上、力尽くで剥がすことは無理じゃ、しかしこちらの思念コントロール自体はできるのじゃから、もっと妾が切羽詰まれば非常停止機能が……妾が切羽詰まる前に慧が壊れるな……』
「物騒なやり方は禁止!」
『分かっておる!となれば……』

 うんうんと考え込んでいるアイナに縋るような気持ちで、慧は襲いかかる波をひたすら耐え忍ぶ。
 が、それにも限界というものはある。

(出したい……お腹もうパンパンで痛い……っ)

 射精欲を大幅に上回る排尿衝動で頭が塗りつぶされる。
 もはやこの場から立つことすら厳しいのでは無いか、そんな思いが頭をよぎったとき「お、姫里じゃんか」と向こうから人影がやってきた。

「……あ、貴島と伊佐木。あと……」
「大丈夫?姫里君。あ、私織本、こっちは白藤ちゃん。で」
「米重だ。……大丈夫なのか、随分と辛そうだ」
「あ、うん、ごめん心配かけて……先輩に送ってもらえるから、それまで休んでる」

 心配そうに慧を見つめるのは、同じ学部の同級生だ。
 入学式で意気投合した貴島に、ゲーム仲間でまさか志望校が一緒とは思いもしなかった伊佐木。そしてうちの学部の貴重な女性陣、織本・白藤・米重トリオ。
「何か冷たいものでも飲む?」と自販機に行こうとした白藤の申し出は「大丈夫、その、飲むのも辛いんだ」と丁重にお断りした。流石にここに水分の追加はまずすぎる。

「そっかー無理すんなよ?あ、今日の固定はパスするよな?」
「姫里、横になっていた方がいいんじゃないか?」
「う、うん……だいじょぶ、だから……っ!?」

 次の講義まで時間があるのだろう、できたら去って欲しいなと思いつつも彼らの親切を無碍にもできず何とか応えていたというのに。

「……姫里?」
「っ、いや、うん、なんでもない……っ」
「いやお前、何でも無いって顔じゃねえって!保健管理センターで休んでいた方がいいんじゃね?」
「そ、そこまでいくのも、しんどいから……」

 突然動きの止まった姫里を訝しがる彼らに、慧は必死で大丈夫だと取り繕う。

(うっそだろ、何しやがるんだこのクソ触手服ううぅぅ!!)

 さっきまでひたすら熱を送り込み続けていた筈の触手服は、何を思ったのかぐっ、ぐっと下腹部を押すような動きを始めていた。
 そこにあるのは……チャプチャプと水音がしそうな程の尿を溜め込みぱんぱんに拡がりきった、膀胱というやつで。

(ちょ、アイナっ、頼むこれ止めてっ漏れちゃうっ!!)
『これは予想外じゃ……恐らく先ほどちょっとだけ漏らしたので味を占めたな?むぅ、説得はするがアテにするでないぞ!』

 アイナが謎の言葉で必死に説得を試みているのが分かる。
 こういうとこなんだよな、と慧は突然の暴挙に目を白黒させながら、半ば現実逃避気味にアイナのことを思う。

 この皇女様は、確かに変態で、ぶっ飛んでいて、人を強引に振り回す。
 けれどその全てはの根源は善意で、少なくとも慧を虐めて楽しむとかそういった地球人が思いつきそうな感情は見当たらない。

 ……だから、振り回されているのにどうにも憎みきれない。
 振り回されすぎて、今まさに洒落にならない大ピンチだけど!!

 そうこうしているうちにも、決壊の時は迫ってくる。
 息が上がって、目が潤んで、出すまいと必死で力を入れている骨盤低筋が疲弊して。

 そして

「だめだ姫里、ほら俺がおぶってやるから、ホケカンで寝るぞ」
「えっちょっ貴島まっ……!!」

 ぐいと腕を引かれ立ち上がったその瞬間。
 触手服の押し込みと、更に鈴口への刺激が重なって。

(ひっ…………でる…………っ!!)


 しょわわわわぁぁぁ……


(でてる、でてるっ…………やだ、止まれ、止まれよおぉぉっ!!みんな、見てるのにぃ!!)
『落ち着け慧、大丈夫じゃ!漏らしておるのは誰にも見えぬ、気付かれぬ!!』
(いやだぁぁぁぁっ、人前で、こんな、こんなっ…………!!)

 5人がこちらを見つめているタイミングで、慧の先端から溜めに溜め込んだ水分が勢いよく放出される。
 下腹部に生ぬるい感触が広がって、けれどそれは股を伝うこと無くすぐさま触手の体内(?)に吸収されているようだ。
 しかももっと出せと言わんばかりに、下腹部はギチギチに圧迫され、更に待ちきれないと言わんばかりにその先端に無理矢理触手を押し込んでは口を広げ、一気に吸い上げられる。

 ……こんな形で「穴に触手を挿入する」などという正統進化は遂げて欲しくなかった。

(ひぃやあぁぁぁ……っ!!吸うなああぁぁ!!!)

 だから、音も、臭いも、水たまりもなにも無い。
 絶対に誰にも気付かれていないはずなのに、その視線が、まるで今この場でお漏らしをしているのをずっと凝視されているようにすら思えて。

(こんなの……こんなの、やだあぁぁぁ!!)

 心の中で絶叫すれば、思わず大粒の涙が零れる。
 それをこの気のいい青年達は体調不良のせいだと思ったのだろう、慌てて「ほら姫里掴まれ」「泣くほど辛いのに我慢はだめだよぉ!」と慧を宥めつつ担ぎ上げて保健管理センターまで運び込まれてしまうのだった。


 …………


「本当に病院に寄らなくて大丈夫か?講義には間に合うから、連れて行くくらいは」
「大丈夫です……ホケカンの先生も、新生活の疲れだろうって言ってたし……」

 心配する峰島をどうにか説得し、ようやく慧は家へとたどり着く。
 丁度保健管理センターにたどり着いたところで峰島と鉢合わせ、先生は先生で何か思うところがあったのか「家でゆっくり寝てなさいな」と診察をすることも無く解放されて今に至るのだ。

「ううっ……ひぐっ…………んはぁぁ……っ」
『すまぬ、慧……』
「ひぐっ、ひぐっ……あやまる、暇があるならっ、早く助けてぇ……」
『も、もちろんじゃ!!もう少し辛抱しておれ!!』

 激しい尿意からは解放されたものの、燻る熱が引いたわけでは無い。
 くわえて同級生達に、それもよりによって女性陣にお漏らしの醜態を(彼らに見えてないとはいえ)見られてしまったショックはとても大きかったようで、慧は自宅に帰るなりベッドに潜り込んで沈鬱な表情で泣きじゃくりながら、触手のもたらす快楽に翻弄されていた。

『……だめじゃ、こちらのコントロールが全く効かぬ……!』

 どこか悔しそうなアイナの声が、頭に響く。

『まさか、ここまで触手服が精液に強い依存性をもたらすとは……どうする?一か八かで妾が動けなくレベルまで気持ちよくさせてみるか?しかし……慧に何かあってはいかん……』
「なにか……ぱーっと、まほうで……んあぁぁっ、やめないで、いかせてぇぇ……!!」
『魔法は制限がかかっておるから、どうしようも無いのじゃ……』

 そうこうしている間にも、触手服は慧の肌をまさぐり、扱き立て、何度も、何度も頂きに手を掛けかけては突き落とすのを繰り返している。

 もはやそれは快楽では無い。
 上り詰める気持ちよさは恐怖となり、いつその手を離されるかと不安に苛まれ、けれど期待を手放せず、それ故に絶望する。

 そう、これはただの拷問。
 こんなものを喜ぶ人間はよほどの変態くらいしかいない。

 ……いない、筈だ。

『魔法の制限が厄介すぎるのう……せめて同時に何かを召喚できれば対応もできるのじゃが……いやまて、同時……?』

 と、ブツブツと呟いていたアイナが唐突に言葉を切る。
 そうして暫く考えた後『……何故、こんな簡単なことに気付かなかったのじゃ……』と呆然とした様子でぽつりと言葉を漏らした。

「っ……あい、な……?」
『慧、見つかったぞ!!その服を脱ぐ方法が!!』
「…………ほん、とに……?」
『ああ、これなら確実じゃ』

 ようやく解決の糸口を見いだしたアイナは、自信満々に『召喚をすれば良いのじゃ』と説明する。

「召喚……」
『うむ。妾の召喚魔法はこの世界により大きく制限されていることは話したじゃろう?』
「……確か、キャスト数秒、リキャ24時間のレンタル魔法……」
『その呪文はともかくとしてじゃの。今の妾では、この世界に二つの物を同時に召喚することはできぬ。つまり』
「……!!何かを召喚すれば、服が消える……!?」

(やった……)

 絶望の底に叩き落とされていた慧の目に、光が灯る。

(やっと、解放される……!!)

 本当だ、何でこんな単純に話に気がつかなかったのか。

 これでようやくこのグズグズな状態ともおさらばだ、さっさとアイナに何かを召喚して貰って……
 とそこで、慧はあることに気がついた。


 この服を着た時、外は明るかったか?


「あのさ、アイナ」
『うむ……多分同じことを思うておるの……』
「その、確かリキャストは24時間で」
『今は16時。昨日この服を召喚したのは19時じゃったから』

(そんな、もう解放されると思ったのに……!!)

 一度緩んだ心は、そう簡単には緊張を取り戻せない。
 ……まして絶望を跳ね返すだけの硬さを持ち得ない。


『慧、あと3時間、何とか頑張るのじゃ』
「いやだあぁぁぁぁっ!!」


 このどこもかしこも敏感になってヒクつきが止まらない身体に、更に快楽を詰め込んで蓋をしようなど、狂気の沙汰ではない。
 大体こんなに苦しんでいる慧とは対照的に、アイナはずっと涼しい顔のままだ。そりゃ、男女差もあるし種族さもあるのは分かっちゃ居るけど、なんか、ずるい。

『そう言われてものう……ともかく、妾は召喚ができるようになった段階ですぐに魔法を使う。お主はそれで晴れて解放じゃ』
「納得いかない……けど……ううぅ、絶対!すぐに!何とかしてくれよぉ!!」
『任せておけ、妾はこう見えても腕は確かじゃぞ。……ああ、そうじゃ』


『そのままではしんどかろう?妾は3時間くらいなんともないが、お主はもう限界じゃろうて』


「へっ」

 突如放たれた、慧を慮る言葉に……今までの経験が警鐘を鳴らす。
 間違いない、アイナは今善意100%で何かいいことを思いついたのだ。

 変態の世界からやってきた異世界人の善意が何を引き起こすかなんて、今まさにこの瞬間味わっているじゃないか!!

「あ、えとアイナ、俺は大丈夫だから準備に専念をっ」
『案ずるでない。もう服を脱げることが分かったのなら、こやつに精を搾り取らぬよう諫めておく必要も無かろう』
「え」
『ずっと出せぬのは辛かったじゃろう。ここならいくら叫んでも大丈夫じゃ、思い切り解放を堪能するが良い』
「まっ」

 待って。
 その思考は、ついぞ言葉にならなかった。

「んあああああっ!!」

 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、全身の触手が一気に動き始める。
 見た目は何も変わらない、つるりとした表面のままなのに、その中では無数の触手が胸や股間のみならず、足の指の間までをみっしりと埋め尽くし、ぬちょぬちょと粘ついた感触で蠢く。
 更にこれまで散々嬲って記憶した慧の身体の敏感なところを重点的に擦り、よほどお気に召したのだろう、固く猛ったその鈴口にも手を突っ込んで、早く出せと言わんばかりにボコボコした触手がゆっくりと抜き差しを繰り返し、尿道を中から刺激する。

「うぎ…………っ!!……あ、やめ、逝ってるっ、逝ってるからちんこ擦るなあぁぁっ……!!はぁっはぁっ……いやだぁ、中突っ込んで吸うなよぉ……ひっ、だめっ今先っぽはだめ、やめ、おねがいっ漏れるまた漏れちゃううぅっ!!」
『んうぅっ……はぁっ、これが男の潮吹きというやつか……いやはや、妾も流石にここまでやられると腰が砕けるのう!どれ、まだ時間もあるし妾も堪能させてもらうかの』
「ちょ、アイナっ楽しんでないで早く助けてえぇぇぇっ!!」

 この身体の持ち主の(いや、持ち主は俺だと声を大にして言いたい)許可が得たと解釈したのだろう、触手の動きはますます激しくなる。
 もはやペニスからは何が出ているのか分からない。敏感な亀頭を擦られ、あり得ない場所をゴリゴリと刺激され、声にならない声を上げて許しを乞い、ベッドが軋むほど身体を跳ねさせてただ与えられる刺激を甘受する。

(早く、お願い、時間過ぎてえぇ……)

 必死の祈りの虚しく、こういうときに限って時間とはゆるりと過ぎるものだ。
 あまりにも暴力的な快楽から逃げようとしてベッドから落ちかければ『いかんな慧、身体はこっちで保つゆえ、お主は快楽に溺れておれ』とアイナから身体の支配権まで取り上げられて、いよいよ逃げ場が無くなってしまう。
 危険なのは分かったけど、そこは取り上げないで欲しかった。


 もう どこにも にげられない


 涙が頬を伝う。
 焦点の合わぬ瞳が、歪んだ世界を映し出す。

(くるしい……)

(けど)

(…………きもちいい……?)

 分からない。
 何故この状況が気持ちいいなどと思ってしまったのか。

 分からないけど、もう、これ以上何も考えられない。


(いいや、もう)

 ここなら誰も見ていない。
 誰かに見られながらお漏らしをするより、ずっと気は楽じゃないか。

 そう心の隅で囁く声に(そうだよな)と頷き、慧は全ての理性を手放した。


 …………


「ふぅ……時間じゃの……」

 19時。
 先ほどまで快楽に揺蕩っていたアイナは、パッと目を見開き身体を起こす。
 まだどこかぼんやりはしているが、いい感じにもどかしさも溜まっていて実に気分が良い。

 窓の外を見れば、既にタイヨウとやらは昼の役目を終えたのだろう、群青色の空が目に飛び込んできた。

「まだ薄いが……うむ、やはり暗い空は落ち着くのう」

 よっこいしょ、と声をかけて床に立ち上がる。
 120年連れ添ってきた身体よりも少しだけ低い視線に、自分が異世界にいることを思い知らされつつ「これは何かねぎらえるものが良いのう……」とアイナは掌を上に向けた。

 と、ぽぅ……と淡い光が空中に魔法陣を描く。

「…………ふむ、性に関係の無い安らぎ……なかなか難問じゃ……」

 しばし物思いに耽ると、アイナは空中に漂う魔法陣を見つめる。
 すると魔法陣からの光がぶわっと部屋に拡がり、久しぶりに外気に触れた掌には小さな小箱が載っていた。

 一糸まとわぬその肌には汗一つ流れていない。
 触手服は装着者の体液を一つ残らず食べ尽くす。その際皮膚の汚れも一緒に食べてしまうため、アイナ達サイファの住人は滅多に湯浴みをしない。精々湖で遊びがてら水浴びをする程度である。
 湯浴みをするのは、それこそ特殊なプレイでドロドロに汚れたときぐらいなのだ。

 確か慧はパジャマというものを着ていたはず、と一度は袖を通そうとしたが、やはりこのガサガサはどうしても耐えられない。
 すまぬ、とすっかり気を失ったままの慧の魂に謝りつつ、アイナはその小箱を開けて枕元に置き、自分もごろりとベッドに横になった。

 小箱からは、音が聞こえる。
 ……それは懐かしい故郷の草原の音。

 草が風にそよぐ音。共同体の子供達が遊ぶ無邪気な笑い声。
 簡素な石の家から上る煙は、きっと誰かが魔法薬を作っているのだろう、風に混じってスッとするハーブの香りがする。

 皇族であれど、草原に住むことに変わりは無い。

 男達は石の家を建てて魔法で補強し、子供達が遊び疲れるまで共に遊び倒す。
 女達は小さき子供の面倒を見つつ、森へ今日の食料を採りに行く。
 おしゃべりに興じながら木に登って果実をもぎ、地面に落ちた木の実を拾い。
 終われば男衆が子供達とはしゃぐ声を聞きながら、ふかふかの草原でまどろむのだ。

 この道具は、夢に故郷を持ち込むもの。
 ごく稀に異世界からの招聘に応じて(そのまま向かうことはサイファでは禁じられているため)独り転生する魂の安らぎのために、魂と共に異世界に送られる魔道具だ。

「非常時じゃったから仕方が無いとはいえ……妾にも持たせて欲しかったのう……」

 ぽつり、と呟くその声は、少しだけ寂しい色を帯びている。

「……まぁよい。空気を感じたければ、こうやって召喚すればよいのじゃからな」

 先に夢の世界にいる慧は、今頃いつもよりも克明な夢に何を思っているだろうか。
 相変わらず何も無くて退屈な世界だと嘆息しているだろうか。
 ……確かに、この喧噪に溢れた世界に生きる者にとっては何も無いに等しい世界だ
、魅力など感じぬだろう。唯一張り合えるとするなら、その性癖くらいかもしれない。

 それでも、今日のような心のざわめきに振り回された夜には、きっと退屈な静寂も心の慰めになるはず。

「……お主ら地球の者がこういうのを喜ぶのかはわからんが……ゆっくり眠れ、慧」

 さて、妾もひとときの安らぎに浸るとしよう。
 アイナはそっと瞳を閉じ、慧の待つ夢の世界へと旅立っていくのだった。

© 2025 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence