第1話 Rhapsody in Insanity
どこにでもあるワンルームマンションの一室。
そこで、目覚めたばかりの獣は己の歪みを突きつけられていた。
散らかった服。開け放ったままのバスルームのドア。
サアア……と流れるシャワーの音がやたら耳に突き刺さる気がする。
喉がヒリヒリ痛んで、軋んだ髪に、全てを脱ぎ捨てた身体に染みついた、ホルマリンと死の臭いが鼻をつく。
お気に入りの香りのボディソープを泡立てて、必死に身体を擦る。
洗っても、洗っても、たった数時間だけなのに染みついてしまった臭いは取れない。
……違う、私が取りたいのはこれじゃない、こんな表面の淀みじゃ無い。
脳裏にフラッシュバックする、蝋のような皮膚を切る感触と、燃え上がる怒りと、恍惚と悦楽と――
思い出すだけで太ももを伝う、生ぬるい液体すら悍ましい。
まるで己が、人間で無くなったような気さえする。
「……なんで」
胃の中がスッカラカンになるまで吐いても、その狂気は、興奮は、頑として心の奥底に棲み着いている。
……違う、気付かなかっただけで、私はずっとこの狂気を持っていた。
いつからか分からないほど昔から、私はこの人という概念を逸脱した獣と共にいたのだ。
涙が、止まらない。
吐き気も……止まらない。
「なんで……なんでっ、私、ご遺体を切って……興奮して、気持ちよくなってるのよおおぉぉっ……!!」
塚野千花、大学2年生。
まだあどけなさの残る女性から発せられる慟哭は、シャワーの音にかき消され、誰にも届かなかった。
…………
「つ、塚野さん、よろしく」
「宜しく、といっても大体どの実習も辻君とペアだよね」
隣に座った、丸い黒縁眼鏡にもっさりした髪の同級生と挨拶を交わす。
白衣にエプロン、手袋にマスクと帽子を身につけて、興奮の中に緊張を浮かべてその時を待つのは、某大学医学部の2年生95名だ。
その目の前にある作業台に横たわるのは、ただならぬ雰囲気を纏った……大きな物を包んだ覆い。
担当教官の説明後、黙祷を捧げて袋を開けば、そこには恐らく尊い意思で捧げられたのだろう、ホルマリンに漬けられた献体が横たわっていた。
「っ、先輩から聞いてたけど……マジで臭いやべぇ……」
「むしろ目が痛いわね、ホルマリンきっつい……あ、男性なのね」
「あー、この班のご遺体は…………60代の男性だ」
「60代!?」
他の班より明らかに若いご遺体に、塚野達8班の4人に緊張が走る。
これほど若くして献体を申し出るだなんて、そしてここにいるだなんて、一体何があったのだろうと、知ることは許されない事情に思いを馳せる。
けれどもそんな思索はすぐに消え去る。
「では、取りかかって」と発せられた教官の一声により、持ち込んだ解剖学のアトラスを参考にしながら、学生達は一斉に今日の実習に取りかかるのだった。
…………
解剖学実習。
大学によりまちまちだが大抵は2年生の半期をかけて行われるこの実習は、医学生にとって今も昔も変わらないひとつの関門となっている。
これまでは教養の講義や実習が中心だった生活に、突如入り込んでくる命を嫌が応にも思い起こさせるこの実習は、ただの大学生と変わらなかった彼らにこの道に進むちょっとした覚悟と、選抜を与えるのだ。
「辻君、大丈夫?顔真っ青だけど」
「だ、だいじょぶ……やらなきゃ始まらないし、うん」
「手が震えてるわよ、後最初の切開はそこじゃないわ」
「あ、ほんとだ……塚野さんちゃんと予習してきているんだ」
「そりゃ流石にね、まさか辻君ノー勉?」
「あはは、いつものことだから」
(にしても)
頸部の解剖を確認しつつ、千花はご遺体の顔を眺める。
蝋人形のような独特のテクスチャを持つそれは、確かにいつぞやかまで人間の男性だったのだ。
何だか父によく似た顔立ちだ……その事に気付いた千花の胸に、チリリと苦い何かが走るのを必死で打ち消す。
(やめよう、今は実習に集中)
自分に言い聞かせながら「私右やるから、辻君は左お願い」と丸椅子に座り、真新しい解剖セットからメスを取り出す。
時間は限られているのだ。今日の目標となる組織までさっさと到達して、スケッチに取りかからねば。
メスを握るなんてちょっとだけ医者っぽいな、なんて思いながら、千花がご遺体の頸部にすっと皮切を入れた、その瞬間を千花は生涯忘れる事は無いだろう。
(……え)
今思えばあの時、頭の中で何かが弾けたような気がする。
まるでパズルのピースがかみ合ったような「これだ」と言わんばかりの衝撃が頭の中を……いや、全身を駆け抜けて。
(……あ、これ、楽しい……気持ちいい……)
そこから先は、記憶が曖昧だ。
「塚野さん、今日はそのくらいでスケッチに移ろうよ」と声をかけられるまで、千花はただ夢中になって皮膚を切り、脂肪織を取り除き、筋肉や血管を露出させていた。
おずおずとした辻の声に、千花ははっと正気に戻る。
「ありがとう」と声をかける千花の目は少し潤んで、顔も何だか熱い。
ふわふわとどこか気持ちよくて、興奮して、気のせいか股がぬるついていて。
(今、私は、何を)
「凄いね塚野さん、僕よりずっと綺麗に血管出してる」「へぇ、千花めちゃくちゃ器用じゃん」と褒めそやす声が、どこか遠くに聞こえる。
どうやら彼らは千花の変化には気付いていないらしい事に気付いて、少しだけ安堵した。
「何かちょっと教科書とは違うね」
「……そうね、細かい血管の走行は個人差もあるって言うし」
手は彼らに促されるままスケッチを始めて、しかしその頭は先ほどまでの興奮が忘れられない。
今自分は人を切ったのだ。
あの憎き父親の幻影を抱いて、男を切り刻んで……なのに、痛みを与え泣き叫ぶことを想像して、興奮、した……?
あまりの衝撃に、頭が理解することを拒否する。
まるで自分をどこか後ろの高いところから眺めているようだ。
(早く、早く……ここから出ないと)
周りには決して悟られぬよう、必死で表を取り繕って。
初めてのスケッチはほとんど記憶に無いけれど、取り敢えず教官の合格は貰えて。
『部長すみません、体調が良くないので今日の合奏休みます』
『分かりました。今日解剖実習初日でしょ?ゆっくり休んで』
『ありがとうございます』
きっと自分は、随分と酷い顔をしていたのだと思う。
それに、臭いだって大概だ。たった数時間で、ちゃんと着替えているのにこれほど染みつくだなんて。
道行く人に怪訝な顔をされているのは分かっていたけれども、もうそれを取り繕う余裕も無いまま、ただその場で叫び出さないようにだけ自分を押し殺し、何とか下宿先のマンションに戻った瞬間
「……洗い流さなきゃ」
千花はその場で全てを脱ぎ捨て、バスルームへと駆け込んだのだった。
…………
「はぁ、はぁっ……」
(だめ……どれだけ洗っても、泣いても、何も収まらない……!)
もやもやしたものを手放すことを諦めた千花は、ようやくバスルームから部屋に戻る。
脱ぎ捨ててあった洗濯物をかごに入れ、Tシャツとホットパンツに着替えれば、ゴワゴワが取れない長い黒髪を乾かしもせずベッドに飛び込んだ。
認めたくは無い。
けれども、あの感触を思い出すだけでゾクゾクと身体に走るのは、どう言い訳してもただの性的興奮と快感なのだ。
(こんなの、知らない)
気がつけば、千花の右手はホットパンツの中に滑り込んでいた。
自らのぬめりを肉芽にまぶし、ぬるぬると擦れば、初めて感じる強烈な刺激に思わず熱い吐息が漏れる。
(こんな、先輩と……したときとは、全然違う)
1年生の頃、3ヶ月だけ付き合った先輩との交合を思い出す。
何度もベッドを共にしたけれど、残念ながら期待していたほどの快感は無くて、そうこうしているうちに反応の鈍い千花に愛想を尽かした先輩から別れを切り出された。
千花はその容貌からかなりモテる方だったが、それ以来恋愛自体が面倒になったのもあって、今は告白されても断るようにしている。
まして、自慰なんてこれまでほとんどしたことが無かったのに……指が、止められない。
(すごい、私こんなに……濡れるんだ……)
ぐちゅり、と股間から粘ついた音がする。
自分はこんなに濡れるのか、と内心驚きつつ、左手はスマホを弄っていた。
『男 痛めつける 気持ちいい』
うす甘い快楽にぼんやりしながら、検索ボックスに打ち込んでボタンを押せば、ずらりと並ぶのは、所謂SM動画だ。
鞭で叩かれ、ヒールで頭を踏まれ、玉を締め上げられて泣き叫ぶ男の姿が再生された途端、あのメスを入れたときの……いや、それを上回る興奮が頭の中を駆け巡る。
(ああ、これだ……感触が無いのはちょっと物足りないけど、でも、これが気持ちいい……!)
欲しかったのはこれだ。
男がみっともなく女に跪き、許しを請い、与えた苦痛で悶える姿こそ、自分が求める物なのだと本能が囁いてくる。
(気持ちいい、気持ちいい……!)
いつしか千花はスマホを放り出し、女性の嘲笑う声と鞭のパシンと鳴る音、野太い男の濁った悲鳴を聞きながら、左手で乳首をカリカリとひっかき、右手は指を潤みの中に差し入れてぐちゅぐちゅとかき回すことに夢中になっていた。
「ふぅっ……んっんはっ……っく…………!」
どのくらい経っただろうか、いつもよりあっさりと上り詰めた腰がガクガクと震える。
絶頂を迎えた千花の身の内に漂うのは、心地よい気だるさと満足感、そして……底知れぬ罪悪感だった。
(……私は)
(男を痛めつけて興奮する、変態なんだ)
ようやく息を整えた千花の瞳から、つぅ、と涙が一筋落ちる。
私は何もしていないのに、どうしてこんな、歪んだ性癖を……男を甚振って気持ちよくなるだなんて。
「私、医者にならなきゃいけないのに…………こんな、こんなのっ、許されないわよ……!」
深い、深い心の奥底に眠る狂気に穿たれたのは、自分が穢れ歪みきった生き物だと自ら断罪する杭だった。
…………
千花の父は、全国展開をしている美容外科チェーンの理事長だ。
一代でこの事業を築き上げた父は、当然ながら跡継ぎを求めていた。すなわち、自分の子供は何があっても医師にすると意気込んでいたのだ。
この家に男の子が生まれなかったのは幸いだったかも知れない。
野心に溢れた父のことだ、当然のように息子ただ一人を跡継ぎと定めただろうから。
だが、3人の子供は皆女の子だった。
だから父は、こう考えたのだ。
「娘全員を医師にする。そして医師と結婚させる。女医はほとんどが医師と結婚するからその点は問題ない。3人もいれば誰か一人は使い物になる医師になるだろう、そうすればこの事業も安泰だ」
……そんな父と、看護師で学歴を理由に父の親戚から冷遇されていた母が揃えば、教育虐待という環境が整ってしまうのはもう必然だったのかもしれない。
千花はこの家の長女だった。
そして、3つ離れた双子の妹たちよりは成績が良かったし、何より頭の回転が早かった。
成績のことで椅子に縛り付けられたり父から殴られる回数は、妹たちに比べれば少なかったし、だからこそ父の目をこちらに引きつけて、妹たちを守らなければならないと子供心に強く思っていた。
(私はお姉ちゃんなんだから、守らなきゃ。このクソみたいな親から、柚葉を、綾葉を……!)
確かに成績は良かったとはいえ、決して医学部に合格できるほどの器ではなかったと今でも思う。
けれど、千花は気合いと根性だけは誰にも負けない自信があった。
そして何年にも渡る猛勉強の末、千花は国立大学の医学部に首席合格する。
所謂旧六と呼ばれる名門に合格した事を喜ぶ父に、千花はこう言ってのけたのだ。
「私が医師になって病院を継ぐから、妹たちは自由にさせてあげて」と。
渋々ながらもそれを承知した父を千花は心の中で冷ややかに見つめ、しかし妹たちが泣いて喜ぶ姿に「これで良かったのだ」と言い聞かせる。
本当は医者になんてなりたくないけど、けれど本当は何をしたいかすら分からなくなってしまった自分が全てを引き受ければ、もう妹たちは殴られなくてすむのだから。
……そんな思いで始まった大学生活は、思ったより楽しかった。
実習もあるからと大学近くにマンションを借り、引っ越しを終えて両親が出て行った瞬間の開放感は忘れられない。
ずっとやりたかった部活にだって入った。
医学部には事情は様々なれど、高校まで部活よりも学業を優先してきた学生は比較的多い。
そのため全学のサークルに比べて医学部限定のサークルはずっと部活色が強く、これまで諦めてきた全てを取り戻すかのように千花も管弦楽団に入り、練習に邁進していた。
勉強は大変だけれど、それでも部活に入り同期の交友関係を疎かにしなければ問題ないと先輩が言っていた。
医学部の試験はどれもある意味協力型のチーム戦なのだという。
大学に合格した段階で、最低限の実力は保証されている。となれば後はどれだけ良い繋がりを持って良質な情報を手に入れられるかが全てで、下手に孤立すればそのままずるずると留年を繰り返すのだそうだ。
幸いにも千花は、ろくでもない家庭でいかに親を怒らせないように、そして殴られないように振る舞うかを常に考えながら育っただけあって、人の機微を読むのは上手かった。むしろ当たり前のように読んでいた。
だから千花の周りにはいつも人が集まっているし、どうやらそれなりに容姿も良い方だったらしい、正直かなりモテる方だと思う。
だから、順風満帆。
このまま勉学に、遊びに励み、医師となって、いずれは父の跡を継ぐ。それで全て丸く収まる。
……そう信じて疑わなかったのに。
「こんな性癖を持って……医者になんてなったら…………」
想像が付いてしまったのだ。
きっと自分は、患者に苦痛を与えてすら欲情してしまうと。
表にさえ出さなければ良い、内心なんて自由だ。
そう開き直れてしまえればきっと楽だったのだろう。
……けれど千花は、開き直るには若すぎて、かつ真面目な子だった。
(そんな人間が、医者になっていい訳がない)
実習をこなす度、その思いは強くなる。
けれども、ここで医師の道を諦める事なんて絶対にできない。
そんなことをすれば、妹たちがどうなってしまうか分からないのだから。
「なるしかない……ないのよ……」
折れそうな心を何とか奮い立たせながら、解剖実習の日々は続いていく。
幸いにもその手の「変態極まりない」画像や小説で欲を満たしているお陰で、実習でメスを振るったときの興奮は最小限に抑えられていた。
もちろん興奮しないわけでは無いが、そこまで気にしていたらもう、精神的に耐えられなくなってしまう。
ただでさえ、解剖実習は最初の関門……ここで医師になることを諦める学生が毎年出る程度にはハードなのだから。
だからとにかく無心で。
そして、絶対に誰にも悟られないように。
千花はただひたすら、目的のために……妹たちのために、心を殺して足掻き続けた。
けれどもそんな生活が何事もなく続くわけが無い。
…………
「ん……何か痛い……」
それは実習が始まって2ヶ月ほど経った頃だった。
眉毛の上にできた小さな水疱。
掻き毟ったのがいけなかったのか、ズキズキと痛みがする。
合奏の日だというのに、どうも集中ができない。
(思いっきり掻き毟っちゃったのかな……めちゃくちゃ痛いんだけど、これ……)
「今日はこれで解散」
「「ありがとうございましたー!」」
合奏が終わり、帰りにドラッグストアで塗り薬でも見てこようかと、片付けをしながらぼんやり考えていたら「千花、どうしたの?」と目の前に女性がしゃがみ込んだ。
「……芽衣子先輩」
色素の薄い髪と瞳は生まれつきだという、ボブカットの女性。
その儚そうな外見とは裏腹に、怒らせたときの笑顔は修羅のようだと恐れられ、OBの彼氏とは取っ組み合いの喧嘩をするという噂もある彼女……長船芽衣子(おさふね めいこ)は国試を控えた6年生であり、この管弦楽団の前コンミスだ。
既に部活は引退はしているものの、ずっと卒業試験と国家試験の勉強漬けでは参ってしまうのよね!と時々部室に現れては、千花達バイオリンパートの練習に付き合ってくれる。
千花に「あんた、バイオリン似合うわよ?最初にしてはいい音出すし。ね、うちのパートに来ない?」と仮入部の時に誘ってくれたのも芽衣子だった。
5歳の頃からバイオリンを習っていたという芽衣子の音は柔らかいのにどこかパワフルで、ああ、自分もいつかこんな音が出したいと感動したのを覚えている。
とにかく綺麗で、実力もあって、そして情に厚く世話好きな……千花にとっては憧れの先輩なのだ。
「解剖実習はどう?大変でしょ。内容もだけど、髪や肌も荒れるしきっついわよね」
「そうなんですよ。もう何使っても髪がゴワゴワで……いてて」
「眉毛痛いの?……って、あれ、これヘルペスじゃない」
「へっ」
和やかに話していた芽衣子の目が、途端に真剣になる。
「この時間だし、もう明日になるけど皮膚科にすぐかかりなさい」と指示され、千花はぽかんと芽衣子を見上げた。
「えっと、何か悪いもの、ですか?」
「ああ、2年生だとまだ分からないよね。それ、帯状疱疹。水疱瘡のウイルスが三叉神経……解剖やってるなら後で調べておきなさいね……に潜んでいて、免疫力が落ちると出てくるやつなのよ」
「免疫力……」
「相当疲れてるんじゃない?ちょっとやそっとの疲れじゃ出ないのよ、それ。自分で気付いてないかもしれないけど、今日の音もなんだか濁ってたしね」
その場所に出ているのは失明の危険もあるから、絶対に明日皮膚科にかかるのよ!と何度も念押しして芽衣子は部室を去って行った。
こういうとき、医学部というのは強いのだなとつくづく思う。
「え、千花ちゃんヘルペスだって?」
「ちょっと見せて、本物見てみたい!」
……その代わり、おもちゃにされることも多々あるのだけれど。
(疲れ、かぁ……)
先輩達に代わる代わる見られながら、千花はぼんやりと思いを巡らせる。
原因なんて分かりきっている。このままならない性癖のせいだ。
毎日、授業に実習にと忙しい日々を送り、家に帰ればまるで中毒患者のように倒錯したイラストや小説を漁っては日が変わるまで自慰に耽る日々を送っていれば、そりゃ免疫力だって落ちるに違いない。
(仕方ない、明日は午前の講義を休んで病院だな)
ようやく好奇心の塊と化した彼らから解放された千花は、ネットで近所の皮膚科を探すのだった。
…………
「あ、千花じゃない。今実習の帰り?」
「芽衣子先輩。この間はありがとうございました、やっぱりヘルペスでした」
「そう、ちゃんと皮膚科行ったのね。えらいえらい」
それから2週間後。
実習を終えて駅へと向かう道すがら、千花は後ろから声をかけられた。
振り返ればそこに立っていたのは、芽衣子と穏やかそうな青年だ。
前に顔は見たことがある。確か、演奏会の時にビオラのエキストラで来ていたOBだったはず。
二人の左手の薬指に光るおそろいの指輪に(ああ、そういう仲か)と千花は悟った。
「千花、折角だし晩ご飯一緒に食べに行かない?」
「え、あ、でも……」
「ん?ああ、大丈夫よ、拓海君なら。ね?」
「えええ」
拓海と呼ばれた青年……中河内拓海(なかごうち たくみ)は、婚約者の強引な提案に「芽衣子、僕ら久々のデートだったんじゃなかったっけ」と額に手をやっていた。
「……いつもながら突然だね…………まぁいいや、千花さんだっけ?2年生?じゃあ実習で疲れてるでしょ。美味しい物でも食べて元気だしなよ、奢るから」
「え、そんな悪いですって」
「いいのいいの!後輩は奢られてなんぼよ!!その代わり、千花も後輩には奢ってあげなさいね」
「っ、はい」
強引に話を進める芽衣子に引きずられるようにして、千花は彼らと共に駅近くの繁華街へと向かう。
その道すがら、前を歩く二人がひそひそと話していたことを、彼女は知らない。
(ね、ちょっと危なそうじゃない?このままだと退学しちゃいそうな気配が)
(確かにね。でも解剖実習でメンタルを病むなら、むしろ今のうちに進路変更した方が本人のためだと……いてててて芽衣子痛いって)
(あの子はそういう子じゃないわよ!だからちょっと相談に乗ってあげましょ?拓海君、もう医者なんだし)
(初期研修終わったばかりの僕に、そんな高度なことを求めないでくれないかな!)
小さい頃から音に触れてきた芽衣子にとって、演奏はその人の情報が詰まった宝箱のような物だ。
それまでは希望に溢れキラキラとした音を奏でていた千花の音が曇ったのは、あの解剖実習が始まってからのこと。
けれども、よくある実習自体に耐えられなくて精神を病む子達とは、明らかに違う感じがするのだ。
だからあれからずっと気になっていて。
今日会ったのも何かの縁だ、ここは相談に乗ってあげねばと芽衣子は内心息巻いていた。
(可愛い後輩の面倒は、しっかり見てあげないとね!)
(とかいいながら、芽衣子が国試勉強に飽きて飲みたいだけじゃ……だから痛いってば……)
(拓海君は大人しく付いてくれば良いのよ!)
(ひどい)
「さ、入りましょ。千花、遠慮せずにガンガン飲みなさい!」
「……え、ええと……いいのかな……」
二人に連れられて入った店は、創作居酒屋だった。
千花がどうしたものかと悩んでいると「千花さん、お酒もしかして苦手?」と拓海が助け船を出してくれる。
「あ、はい。あんまり……ビールとか、苦いし……」
「そっか、じゃあ飲みやすいやつにしよう。炭酸系は?牛乳大丈夫?」
「炭酸は苦手です。牛乳は問題ないかな」
「分かった、じゃあベイリーズミルクを」
「私焼酎が良いなぁ……黒糖あるんだ、これにしよう!」
「めっ、芽衣子ぉ……!?その、国試の勉強……」
「そんなもの、明日の私が何とかするわ!ね、千花、今日はパーッと飲みましょ!」
「……つ、強い……芽衣子先輩、そういうキャラだったんだ……」
あちゃぁ、という表情で拓海が頭を抱えている。
どうやら芽衣子は相当な酒好きらしい。しかもワクなんだと拓海がこっそり教えてくれた。ザルを超えたワクって、どれだけ酒に強いのだろうか。
しかし、全く卒業試験が終わった途端にこれだよ、と言いながら拓海が頼んだのもウイスキーだから、きっと二人の相性はとても良いのだろう。
まるでミルクティーのような飲み物が、目の前に置かれる。
乾杯をしておずおずと口に含めば、ふわりと香るバニラとクリームのコク、そして甘さが口の中に広がって、千花の口から思わず「美味しい……」と言葉が漏れた。
「これなら飲めそう?」
「はい!こんな美味しいお酒もあるんだ……」
「それが好きなら、カルーアもきっと気に入るわよ」
美味しい料理と酒に舌鼓を打ちながら、3人はたわいもない話をする。
まだ専門が始まったばかりの千花にとって、既に医師として働く拓海や国試を控えた芽衣子の話は非常に興味深いものばかりだった。
二人は芽衣子が管弦楽団に入ってすぐから付き合っているそうだ。芽衣子に言い寄られて付き合い始めたという拓海は「見た目詐欺とはこういうことだと痛感したよ」と言いつつも随分デレデレした様子である。
実はこの春に婚約していて、芽衣子が卒業すれば結婚する予定らしい。
「うちは音楽家一家だし、拓海君のところもお父さんは経営コンサルタントだから、全く医療とは関係ないのよね」
「へぇ、先輩達はどうして医師になろうと思ったんですか?」
「私は音楽と違うことをやってみたかっただけかな。弟と違って音楽で生きていけるほどのセンスはなかったし、成績は良かったから進路相談で勧められて、ね」
「僕もだね。元々人の身体に興味はあったけど、何となく選んだクチ。でも、今は大変だけどやりがいがある仕事だと思っているよ」
その動機に千花は少しだけ安堵する。
純粋に人のためになりたくてこの道を選ぶものばかりではない、そんな仲間意識がアルコールと相まって、千花の心を少しだけほぐしてくれる。
「千花は?」と尋ねられて実家を継ぐためだと答えれば「そっか、それは大変だね」と不意にかけられた拓海の言葉に、思わず泣きそうになる。
そうなのだ、敷かれたレールの上を歩かざるを得ない生き方は、選択という苦痛を取り除く代わりに別の苦しさを背負わされる。
それを分かってくれた気がして、ついポロリと千花の口から本音が漏れる。
「けど……私、医者に向いてないと思うんです。ううん、なっちゃいけないって……でも、医者にならなきゃ妹たちが……」
(……拓海君)
(分かってる)
顔を覗かせた千花の本心に、二人は目配せをする。
こういうときは拓海の出番だ。この穏やかな青年は、不思議と人の心を和ませる才能があると芽衣子は思っているから。
優しく微笑みながら、拓海は千花の目をまっすぐに見て話しかける。
「……千花さん、僕らでよければ話を聞くくらいはできるよ」
「そうよ、解決はできなくても話せばちょっとは楽になるんじゃない?」
「拓海先生……芽衣子先輩……」
いつもの千花なら「大丈夫です」とにっこり笑ってお茶を濁しただろう。
付け入られる弱みなんて、絶対に見せてはいけない。あの家庭で育った千花にとっては当たり前の事だったから。
けれど、憧れの先輩の優しさと美味しいお酒でふわふわした頭は、その防御機構を放棄する。
何よりもう、一人で抱えておくには限界で……心が悲鳴を上げていたから。
(もういい、もう……嫌われてもいい、楽になりたい……)
おずおずと、千花が口を開く。
「その……あんまり聞いて楽しい話じゃないんですけど」
そう前置きして、千花はこれまでの生い立ちを……そして解剖実習で開花してしまった歪んだ性癖を赤裸々に二人に語るのだった。
…………
30分後、千花は号泣していた。
「千花さん、良くこれまで頑張って生きてきたね」
遮ることなく千花の独白を静かに聞き続け、拓海の口から発せられた心からのねぎらいの言葉に、千花の中の何かが決壊したのだろう。
泣きじゃくる千花に芽衣子がそっとハンカチを差し出した。
「ぐすっ、ぐすっ……すみません……」
「良いのよ、謝らなくて。泣きたいときはパーッと泣いちゃいなさい!」
「ぐすっ……うええぇん……」
再び泣き出した千花を前に、二人は必死で動揺を隠していた。
思い詰めた様子とそれを必死に隠そうと振る舞う姿から、恐らくそれなりに重いものを抱えているとは思っていたけれど、千花の苦悩は二人の想像を遙かに上回っていたのだ。
いや、教育虐待だけならきっとそこまでは思わなかった。
医学部に来るような学生には時々見られることだし、そこまで行かなくてもここに来るまでの課程で、そして6年間の大学生活で精神を病む学生は存外いるものだから。
けれども、ハキハキと明るくそれでいて気遣いのできる彼女の心の奥に、そんな歪みがあるだなんて。
(……歪まされたんだろうね)
拓海は心の中で千花に同情する。
幼い頃から受け続けてきた暴力が、父親という圧倒的強者への恐怖と呪いのような怒りが、この気丈な女性の内を歪めて育ててしまったのだろうと彼は推測していた。
どちらにしても、これは自分達に手に負える問題ではない。
できることならば専門家によるカウンセリングを受けた方が良い。
ただ、きっと正気に戻った千花はそれを拒否するだろう。万が一にも父にバレれば大変なことになる、と。
そうして割り切ることもできず、けれど医師になることを諦めることもできず、それが故に弱みをひた隠しにして……
(このままでは、千花は壊れてしまう)
それが、二人の出した結論、自分達の無力さを突きつけられる事実だった。
「すみません……折角の飲み会なのに」
「そんなこと気にしなくて良いのよ!ちょっとはスッキリした?」
「はい、もう大丈夫です。ありがとうございます」
深々と頭を下げる千花の姿は、どう見ても大丈夫ではない。
何とか……何とかしてこの子を助けてあげたい。
そう思った拓海の口から飛び出たのは、思わぬ言葉だった。
「……ねぇ、千花さん、もし良かったら僕の弟に会ってみないかい?」
「!!ちょっと、拓海さんそれは」
いくら何でも彼に会わせるのは劇薬が過ぎると難色を示す芽衣子を、けれども僕たちでは力になってあげられないからと拓海は窘める。
そんな二人に「あの、弟さん、って……」と泣きはらした顔で千花は恐る恐る尋ねた。
「僕の弟さ、この近くのSMバーに勤めているんだよ」
「え、えすえむ……!?」
「きっとあいつなら、千花さんの力になってくれる。いや、ならせてやる!大体あいつはいつもいつも好き勝手ばかりやってるんだから、こんな時くらいこき使ってやらないと」
「え、ええ……?」
戸惑う千花の目の前で、拓海はすぐにスマホを取りだし連絡を取る。
暫くして話が付いたのだろう「千花さん、今週の土曜日空けておいて」と有無を言わせぬ笑顔で拓海に言われれば、千花はもう「は、はい……」とただ頷くことしかできなかった。
(SMバーって……あの、動画みたいなのをするところ……?だ、大丈夫なのかな……)
さ、気を取り直して飲み直そうかと話を切り上げて、拓海は更に酒を注文する。
この拓海の機転が千花の運命を大きく変えることになるとは、このときは誰も思いもしなかったのだ。
…………
土曜日、13時。
千花は拓海と共に歓楽街の一角にある雑居ビルを訪ねていた。
「千花さん、リラックスリラックス。大丈夫、取って食われたりはしないから」
「ひ、ひゃい……」
本当は芽衣子にも来て貰えれば良かったんだけどな、と拓海はすっかり萎縮している千花を宥める。
しかしもう国試勉強も佳境なのだ、来週には模試も控えているし、大変さを知るだけに今は芽衣子には勉強に専念して貰いたい。というか頼むから専念してくれ!と懇願して何とか芽衣子を押しとどめたのである。
「うわ……ぁ……っ」
キィ、と拓海が『摩天楼』と看板が掛かったドアを開ければ、そこには千花が動画の中でしか見たことがない世界が広がっていた。
いかにも怪しい雰囲気の椅子や拘束具、これ見よがしに置かれたガスマスク、ラバースーツに鞭に蝋燭に……
つい数ヶ月前まで性癖どころか、通常の性すら縁遠い生活をしていた初心な千花には少々刺激が強すぎる代物ばかりで、既に千花は「これは来るんじゃなかった」と心の中で後悔していた。
「やっと来たか兄貴」
「おぅ待ってたぞ、なんだまたおぼこいのを連れてきたな?何?実は兄ちゃんの彼女か?」
「ち、違いますって宗近さん!大体僕、婚約してますから!」
「そうそう、兄貴には可愛い顔してぶち切れると椅子をぶん投げるおっかねぇ婚約者がいるもんなぁ?」
「お前は黙ってろ、賢太!」
ドアの開いた音に、奥にいた二人がこちらへやってくる。
一人は拓海に似た容貌の、茶髪をツーブロックに整えたいかにもチャラそうな男性。
そしてもう一人は、どう見ても堅気でなさそうなスーツを着こなし、ぶっとい指輪をジャラジャラと身につけた眼光鋭い中年の男だった。
こほん、と咳払いをして拓海が二人を紹介する。
「千花さん、こちらがこのSMバー『摩天楼』のオーナー、宗近さんだ」
「よう、宗近樹(むねちか いつき)だ。樹でいい」
「は、はいっ」
「で、こっちが俺の弟の賢太。ここの店員をしている縄師見習い」
「見習い言うな、もう吊りもやって良いって言われたんだぜ!よろしくな、千花」
「はひいぃぃ……」
(な、何か踏み込んじゃいけないところに連れてこられたんじゃないの、私!?)
怯える千花に「で、兄貴から話は聞いたけど」とずいっと賢太が近寄る。
すかさず「お前は距離が近い!千花さんが怯えているだろうが!!」と拓海から見事なげんこつが頭に落とされた。
「いってぇぇ……いきなり殴るこたねぇだろ!」
「お前はいつも距離感がバグってるんだ!!ごめんね千花さん、こいつ悪い奴じゃないんだけど、色々ぶっ飛んでるから」
「けっ、何だよ自分はいかにも普通の世界で生きてますって顔しやがって」
「それは事実だろうが」
まぁいいや、と賢太は改めて千花を見る。
ビクッとした千花に「ふぅん」と興味深げな視線をぶつけると「で、千花はドSなんだって?」と単刀直入に切り出した。
「えっ、へっ、そそそその」
「あー言い方が悪かったか?男を嬲る動画が好きなんだろう?……いや、泣かなくていいって……あと兄貴はその手を下ろしてくれよぉ」
「お前な、聞き方ってもんがあるだろうが!」
「そんな遠回しに言ったところで事実は変わんねぇよ。な、千花。別に俺らはお前の性癖をどうこう言ったりしねぇよ。……俺らだって、同類だから」
「同類」
「賢太はな、緊縛好きなんだよ」と拓海が経緯を説明する。
高校時代にとあるサイトから緊縛の魅力に魅せられた賢太は、親の反対を押し切り高校卒業後そのサイトの縄師の店に突撃して「弟子にして下さい」と直談判する。
半年ほど続いたその熱意に根負けした縄師は、「せめてこの業界のイロハくらい学んでこい」と行きつけのSMバーで働くことを条件に賢太の弟子入りを認めたのだそうだ。
それから7年、今では若手縄師としてショーを任されることも増えた。
特に嗜虐の趣味があるわけでもないが、Mのお客の扱いにも随分慣れて、今はいずれ自分の店を持ちたいと資金を貯めているらしい。
「……縛るのが、好きなんですか」
「おう。言葉じゃ説明しにくい感覚だけどな、美しくて滾るんだよ」
「興奮する……?」
「もちろん。別に悪いことじゃねぇだろ?俺は同意の上で人を縛るし、縛った相手だって楽しんでいる。誰も悲しむ人はいねぇ」
「…………同意の、上……」
同意の上であんなことをする世界がある。
動画や物語では見ていた話が、実際に存在することに千花はどこか戸惑いを浮かべていた。
そんな千花のところに「それでだ」と賢太が持ってきたのは、先が何本にも別れている鞭だった。
これは見たことがある。確かバラ鞭というやつで、音の割に痛みは少ない代物だ。
「これ、振り方教えてやるから振ってみな」
「え」
「別に興奮したって良いぞ?俺も、店長も、兄貴だってそれを笑ったりしねぇ、だろ?」
「そりゃな。お前のお陰で慣らされたし、まったく……千花さん、折角だからやってみたらどうだい?」
「でも……」
(いいのだろうか)
初めて持つ鞭はずっしりと重い。
これを誰かに振るうだなんて、考えただけで興奮して……胎が疼いてくる。
(こんな、いけないことをして……でも……)
これを振ってしまえば、もう引き返せなくなるような予感がある。
けれども悩める千花のために、忙しい身でありながらわざわざここに連れてきてくれた拓海の好意を無碍にするのも忍びない。
(……やってみよう、正直興味はあるんだし)
「お願いします、賢太さん」
「おう、じゃああっちでやるか」
覚悟を決めた千花は立ち上がり、賢太に誘われるがままステージの方に向かった。
…………
「そう、鞭先は左手で軽く支えるように持って……腕の重さで振り下ろす」
「はい」
まだ開店準備中の店内に、鞭の音が鳴り響く。
椅子の背を相手に賢太の指導に従って鞭を振る千花を、樹は真剣な眼差しで眺めていた。
「……兄ちゃん、筋の良いのを連れてきたな」
「そ、そうですか……?」
「おう。初めてとは思えないわ、賢太のアドバイスを一発でモノにしやがる。相当器用な子だなありゃ」
「そうなんですね……これで彼女が少しでも楽になればいいんですけど」
千花の事を賢太に相談したとき、賢太の口から一番に出たのは「店に連れてこい」だった。
いくら何でもそれは刺激が強すぎるのではと懸念する拓海に、賢太はそれでもだと反論する。
「……この世界に嵌まる奴には、時々そういったトラウマを持った奴もいるんだよ。兄貴だって医者なんだから知っているだろう?」
「それは、もちろんだが……」
「そう言うのはえらーいお医者様が診たところで何にも変わんねぇのよ。ましてその千花って子、相当ハードな嗜好持ちじゃんか。それだけの歪みを抱えて生きるなら、うちでの体験は無駄にならねぇと思うぜ」
その場にいた樹からも「安全な場所で発散させてやった方がいい」と言われた結果、拓海は「店が開いてない時間に」という条件でここに千花を連れてきたのだ。
一度花開いた性癖を無かったことにはできない。それは、賢太を見てきたからよく分かる。
それでも、表向きは善良な医師を演じなければならない事を定められている彼女が、せめて少しでも生きやすくなれば……
拓海は、そして芽衣子も心の底からそう思っていて、だからこそ自分達よりはこの世界に詳しいであろう賢太の提案を飲んだのだ。
「良さそうだな」
暫くステージの上を眺めていた樹だが、ぽつりと呟きすっと立ち上がったかと思うと、おもむろにズボンを脱ぎ始めた。
拓海はギョッとした目で「宗近さん!?」と思わず声を上げた。
「樹でいいっての」
「あ、はい。じゃなくてあの、何を…」
「何って、やっぱ打つなら人間がいいだろ?特に千花は男を嬲って興奮するタイプだ、椅子じゃ何の足しにもならない」
「だからって、その……」
ズボンの下から出てきたまさかのジョックストラップに拓海が顔を赤らめる。
「おいおい、惚れるなよ?」と冗談めかして樹が揶揄えば「だから婚約者がいますって!」とムキになる様子は兄弟そっくりだなと思いながら、樹はステージに声をかけた。
「よーし、じゃあ千花、俺を打て」
「え……ええええっ!!?あわわわわ……」
ジャケットを脱ぎ、下は卑猥な黒いパンツ一枚で寄ってくる強面に、千花は頭が真っ白になる。
こんな恐ろしげな容貌の男性を打つだなんて、明日の私は東京湾に沈められているんじゃなかろうか。
「で、でもっ、そんな人を打つなんて」
「問題ない。俺は打たれたい、千花は打ちたい。な?合意だ」
「それは……え、打たれたいって」
練習台に使っていた椅子の背もたれを握り、歳の割にはプリッとした硬い尻を千花の方に突き出しながら、樹はニヤリと笑った。
「俺は、女王様に虐められたいドMなんだよ」
…………
初めての鞭は、本当に重かった。
けれども振り下ろす度に、心のどこかが小さな満足感と、そしてそれを凌駕する期待を覚えていることに、千花は気付く。
(鞭を振るのって、楽しい)
……楽しいけれど、物足りない。
(椅子は、叫んでくれないもの)
そう。
自分が求めているのは、ただの鞭ではない。
それを受けて泣いてくれる奴隷なのだと、嫌でも思い知らされる。
(ほんっと、変態……)
心の中で吐き捨てるように呟く。
こんな穢れた感情を持つだなんて、それだけで自分が許せなくて。
何でこんなものに目覚めてしまったのだろうという苦い想いが、ぐるぐると頭の中を回って離れない。
そう、離れなくてただでさえ混乱しているのに、突如樹から声をかけられ、今千花の目の前には逞しい尻が突きつけられている。
(ええええ!?あの、お尻!!?てか今樹さん、Mって言った……!?)
人を外見で判断するのはよろしくない。
よろしくないと分かってはいるが、まさかこんなヤクザまがいの厳ついおっさんが尻を突き出して鞭が欲しいと強請るドMだなんて、ギャップにも程がある。
「……あ、あの、でも……」
突然のことに戸惑う千花に「ほら、景気よくパーンとくれよ?」と樹は堂々としたものだ。
「でも……そんな、人にこんなことを」
「いいっての、ほら見てみろよ?千花、お前に打たれるって想像しただけで俺勃ってるんだぞ?」
「ひっ」
「いや店長、それはいくら何でも若い女性に刺激が強すぎ」
樹の言うとおり、その股座はしっかりと反応していて、本当にこれで反応する人がいるのだという現実に千花はくらりと目眩を覚える。
(合意……打って、いい……けど…………)
この尻を打てば、この厳つい男は一体どんな悲鳴を上げるのだろう。
それはどれだけ甘美で……私を気持ちよくしてくれるだろうか。
チラリとよぎった嗜虐者の欲望に、樹は敏感だ。
ほら、もっと燃やせと言わんばかりに、樹は千花を一喝した。
「俺が打って欲しいって言ってるんだ、遠慮せず打て!」
「!!」
(あ、ああ……!)
その大声を聞いた瞬間、脳裏によぎるのは父の顔。
たかが成績ひとつで、外から見えないところを執拗に殴り続けた、あの憎たらしい悪魔の――
一気に頭に血が上って、視野が狭くなって、ごうごうと耳元で音がして。
(許せない、殺してやる、殺して、やる……!!)
幻想の父に向かって、手にしていた鞭を振り上げ、渾身の一撃を打ち下ろす。
途端に「うおぉっ……!!」と野太い悲鳴が目の前から上がり、千花はハッと正気に戻った。
「あ、すっ、すみませ…………ん……!?」
やってしまったと慌てて謝ろうとして、千花は言葉をなくす。
そこには、たった一撃で目を潤ませ、顔を上気させた……さっきまでの威厳はどこにも見当たらない、情けない男の姿。
(……私が、やった)
その顔を見た瞬間、自分の中にはっきりと欲情と興奮を感じて。
「……ははっ……!」
「うっ!!」
「あははっ……あははは……っ……!」
「うぐうぅっ……!」
賢太に習ったとおり、千花は樹の尻に鞭を何度も何度も振り降ろす。
その度に出る悲鳴が、ビクッとする身体が、涙と色を含んだ声が……全てが千花の血を沸き立たせる。
(楽しい)
ふと思いついて、あの動画のようにすいっと鞭の先で尻を撫でれば「んひいぃぃ……!」と途端に上がるのは甘い、媚びたような男の嬌声。
(人を鞭打つのは、楽しい)
「ねぇ、樹さん……もっと、泣けるわよねぇ?」
「っ、はいっ!この淫乱マゾブタのケツをもっとぶって下さい!」
「いい子。……ほうら、無様に泣いて楽しませなさい!!」
「ひぎゃぁっ!」
(私の鞭で泣いて貰えるのが、嬉しい)
太ももに、新たな痕が散る。
それでもけなげに尻を突き出すこの惨めな男が……どこまでも可愛くて、堪らない。
いつしか樹は敬語で千花に従い、千花は言葉で樹を嬲っていた。
(こんなに、人を嬲るのは気持ちが良かったんだ)
楽しい、もっと、もっと……
もう、頭の中はそれしか考えられない。
(もっと、聞かせて。もっと叫んで……あんたはまだ、泣けるでしょう?)
万感の想いを込めて振り上げられた千花の鞭が、またひとつ樹の尻を襲った。
…………
プレイに没頭する千花を、賢太は隣で、拓海はソファ席から眺めていた。
その恍惚とした表情は、そういう趣向はないはずの二人すら見惚れるほど妖艶で、美しくて。
(そうか、これが本当の千花さんか)
昔、賢太の性癖を聞いたときには思わず持っていたコップを床に落とす程動揺したのに、今の千花を見ても拒絶反応がない自分に、拓海は少し驚きを覚えていた。
それは、駆け出しとは言え医師という立場に立ったお陰なのか、それとも……この奔放な弟に慣らされたせいなのか分からない。
けれど、少なくとも彼女の嗜虐を丸出しにしたプレイに何の嫌悪感も抱かなかったことに、拓海は心から安堵していた。
これなら、今まで通り付き合える、と。
一方で賢太は(縛ってみてえな)と全く違う目で千花を見ていた。
きっと全力で拒否されるだろうけど、これほど現実に、記憶に雁字搦めにされ、さらにM性の欠片も見当たらないような女性に縄をかけて、縛って、吊って……その秘められた物を解放すればどれだけ美しい物が見れるだろうか。
いつかこんな女性に縛られたいと言われるようになってやる、そうひっそり決意しながら、そして醜い悲鳴を上げながらも幸せそうな店長に(あーあーもう楽しそうにしちゃって……)と苦笑しながら、賢太は側で千花が暴走しないよう、その挙動を見つめ続けていた。
……そうして一体、どのくらいの時間が経ったのだろう。
奥底に小さな罪悪感の棘を刺しながらも、千花は嗜虐の快楽に酔いしれ、結局体力が尽きるまで樹を責め続けたのだ。
「はぁっ、はぁっ……終わりよ、マゾブタ」
「あは……はぁぁ……あ、ありがとうございます、女王様……」
終わりの宣言に、樹がその場に這いつくばる。
何を、と千花が一瞬怯めば、樹は千花の爪先に当然のように口付けを落として。
――ああ、男を支配するのは、最高に気持ちが良いじゃないか……!
とどめとばかりに、千花の頭に麻薬のような快楽を植え付けたのだった。
…………
「ふぅ……いやぁ最高だったよ千花、初めてとは思えない煽りっぷりだったな」
「あ、ありがとう……ございます……?」
下着を着替えてきた樹と、千花は改めて相対する。
その風貌は初めて会ったときと同じくヤクザを思わせる厳つさで、さっきまでこの人を鞭で泣かせていただなんて、その目の端が赤くなっていなければとても信じられなかっただろう。
何だかいきなりスイッチが入ったみたいだったなと賢太に尋ねられ、樹の大声で父の姿がフラッシュバックしたと話せば「そりゃちょっとスイッチとしては使えねぇな」とウイスキー片手に賢太が分析する。
というか、まだ真っ昼間なのにもう飲んでいるのか。そもそもこの人達、これから仕事じゃなかったのか。
しかしこの素質は欲しい、実に欲しいとこちらも酒を飲みながら樹はうんうんと頷く。
そして千花に向かって「なぁ、千花、うちで働かないか?」と提案してきた。
「は、働く……?」
「おう。お前さん、見た目も良いしプレイも初めてとは思えない巧さだったしな。Mの気持ちに寄り添って、その欲望を引き出せるスキルを最初から持っているだなんて、まさに女王様にふさわしい」
「兄貴は時々体験させれば良いと思って連れてきたんだろうけどな。……マジでもったいねえよ、そんな素晴らしい性癖とスキルが一致しているんだしさ、医者になるよりよっぽど向いてるんじゃね?」
「賢太、お前千花さんの事情を知っててそれを言うか……?」
「おい待て兄貴、ショットグラスは投げるな備品だってば!」
全く兄貴は普段は穏やかなのに、切れた途端にこれだもんなぁと嘆息する賢太に拓海は「誰のせいだ誰の」と突っ込む。
どうも拓海はこの奔放な弟のお陰で、色々と苦労を被ってきているらしい。長子というのは大変だよな……と千花は心の中で彼に自分を重ねて同情した。
にしても、ここで女王様として働くという選択肢は実に魅力的に感じる。
安全な環境でかつ相手に望まれて合意の下振るう鞭の、煽る言葉の心地よさを知った今、断る理由など正直無いように思うのだ。
絶対に誰にもバレないようにする必要はあるけれど、この界隈はことプライバシーに関しては口が堅いらしい。互いに何かしら歪みを持つ同士なのだからそれも当然と言えば当然か。
「いいんでしょうか」と隣の拓海を見れば、彼は苦虫をかみつぶしたような表情で、しかしそれがベターなんだろうなと一生懸命自分を納得させていた。
「5年になれば臨床実習も始まるからバイトを続けるのは難しくなるだろうけど、それまでなら大丈夫じゃないかな。もちろん、学業に支障が無い範囲でね」
「あ、はい。大丈夫です、私気合いと根性だけは自信がありますから!」
「そうだった、千花さん割と頭の中は体育会系なんだって芽衣子が言っていたっけ……」
なら決まりだな、ついでに今から採寸をしてしまおう!と樹が出勤してきたスタッフに声をかけ、千花は部屋の奥に連れて行かれてしまった。
「……これで、良かったんだよ、な?」
「いいんじゃねぇの?兄貴は真面目に考えすぎだっての」
「お前が考えなさ過ぎなだけだ」
憮然とする拓海の肩を「まぁ任せとけって」と賢太はポンポンと叩いた。
「兄貴はこれから結婚だって控えてるんだしさ。情に厚いのはいいけど、あんまりのめり込んでたら芽衣子さんにどやされっぞ」
「う、それは確かにまずい……頼むぞ、俺たちの後輩なんだから」
「へいへい」
(とは言ったものの)
賢太はウイスキーをあおりながら、千花が消えていった店の奥を見つめる。
(……ありゃ、ちょっと根が深そうだな)
ここに努めて7年、賢太はスタッフとして沢山の歪んだ性癖を持つ人に出会ってきた。
お客はもちろん、スタッフもそういう性癖を持つ人が大半であったが、その中でも千花の才能はずば抜けている。
かなり嗜虐への執着も強いし、それでいて相手をちゃんと見れる子だ、あれは鍛えれば立派な女王様になるだろう。
けれどその一方で、あれほど自覚がありながら自分の性癖を忌避している女性も珍しい。
割と女性は、羞恥心や常識と言った殻をひとつ破ってやれば、開き直って性癖を受け入れる傾向があるのに、彼女は初めてのプレイであれほど……そう、端で見ていて分かるほどに興奮し、それを自分でも自覚しているにも関わらず、同時にずっとそんな自分を責め続けているように見えて。
「……自分に向いた偏見は、払拭が大変そうだ」
「ん?何か言ったか」
「いいや、何にも」
何にせよ、千花とは長い付き合いになりそうだ。
そんな予感を抱きながら、賢太は奥の事務所から恥ずかしそうに出てきた千花を眺めるのだった。
…………
それから、1ヶ月が経った。
解剖実習も中盤に入り、より深いところを切り刻んで……この表現はどうかと思うが、所詮学生の技術ではまさにそんな感じなのだ……スケッチを繰り返す。
「塚野さん、最近調子よさそうだよね」
「そうかな」
「うん、一時期ヘルペス?できてたじゃん。あの頃の千花なんだかしんどそうだったけど、今は絶好調って感じ」
「あーうん、そうかも」
すでに他の班で一人、学校に来なくなってしまった学生が出ていたから余計に気がかりだったのだろう、班の仲間は本当に良かったと喜んでくれる。
「そういやバイト始めたんだって?何のバイト?」
「ああ、管弦のOBがね、身内のやってるバーの手伝いが欲しいって言ってたから」
「へぇ!バーテンダー?凄い、千花かっこいい!」
「いや、そんな大した物じゃないってば」
医学部は意外と世間が狭い。
噂はあっという間に広がるから、バイトについて聞かれたら自分の身内のバーを手伝っていると言えば良いと拓海から進言を受けていた。
「少なくとも嘘はついていないからね」とにっこり笑う拓海は、流石この独特な世界にどっぷり浸かっているだけのことはあるなと感心したものだ。
(まぁ、バーでバイトしているって聞いて女王様を思い浮かべる人はいないわよね……)
実習を終えれば、一度シャワーで全身を洗ってバイト先に向かう。
どれだけ洗っても身体に染みついた臭いは取りきれないけれど、仕事中は化粧も濃いし香水もしっかり付けるから、案外バレないものだなとちょっとホッとしている。
「にしても……これだけは慣れないなぁ」
「そう?千花めちゃくちゃ似合ってるわよ。着たら目つきも変わるし」
「うっそ、そんなに!?」
胸元の開いたエナメルラバーのボンデージスーツに、肘上まである手袋とサイハイブーツを身につける。
こんなにヒールの高いブーツを履くのは生まれて初めてで、慣れないうちは店の中でこけては常連さんに「CHIKA様頑張れよ!」と励まされたものだ。
化粧をしてシトラス系の香水を付ける。
この店に女王様で入っている子はムスクのような蠱惑的な香りを好む子が多いけれど、千花はどうもあの香りが男に媚びるように感じて苦手だった。
そうしていつも束ねたままの黒髪を下ろし整えれば、不思議と背筋が伸びて、ちょっとだけ気が大きくなる。
「はぁ、ホントかっこいい千花……私も『CHIKA様』に責められてみたいわぁ」
「ふふっ、ありがと。メスブタは範囲外だから、しっかりお客様に遊んで貰いなさいな」
「はぁい……さ、行こっか」
カツカツとヒールを鳴らしフロアへ出れば、ホールリーダーの賢太が目配せしてくる。
(調子よさそうだな)
(ええ、今日もがっつり泣かせてくるわよ)
――そう、ここでは塚野千花ではない、女王様のCHIKAだから。
ニヤリと不敵に笑い、千花は早速指名の入ったテーブルへと向かうのだった。
…………
1年も経たないうちに、千花はすっかり『摩天楼』の看板女王様の一角を担っていた。
世の中大抵のことは気合いと根性で切り抜けられると信じて疑わない彼女は、非常な努力家でもあった。
自分用の鞭各種を早々に購入し、暇さえあればバックヤードで、そして自宅でも筋肉痛になるほど練習を積んでいる。
更に備品の拘束具の手入れをしながら使い方を学んだり、先輩女王様に接客を教わったりと、ただのバイトとは思えない程の情熱を注ぎ込んでいた。
全てがこれまでに無い経験で、新しいことを……しかも自分の性癖を満たせる知識とスキルを身につけていくのが楽しくて堪らなくて、いつもあっという間にバイトの時間が過ぎてしまう。
接客は初めてだったが、男性の相手、特にM男の相手はとてもシンプルだった。
あの理不尽な理由で殴ってくる父親に比べれば、よっぽど対策を立てやすい。
世間話をしながら、何が「響く」のかをじっくり探って……それとなく誘導してあげれば、彼ら曰く、自身も気付いていない奥底の欲望をかき立てられるのだそうだ。
「CHIKA様のお陰で、ずっとモヤモヤしていた気持ちがスッキリしました!」
「そう。今日はいい顔してるじゃない。マゾブタは脳天気にブヒブヒ鳴いているのがお似合いよ、良かったわね」
「CHIKA様、来週もいらしてますか……?次は首輪と全頭マスクで店内を引き回して欲しいなって」
「いいわよ。たっぷり可愛がってあげるから、奴隷らしく仕事を頑張ってきなさいな」
千花は週3日、1日5時間この店専属で働いている。
彼女の出した条件はただひとつ――ショーや接客の相手は、全て男性であること、だ。
一度女性を相手にしてみたこともあるのだが、どうやら父親への恨みがきっかけとなった千花の嗜虐は、男性相手でないと本領を発揮できないらしい。
「本日はCHIKA女王様による鞭打ちショーです!ショーの後でCHIKA様の鞭を頂きたい方は、お近くのスタッフにお申し付け下さい」
真っ赤なスポットライトを浴びながら、スタッフのM男君に鞭を浴びせるショーは、千花にとって一番お気に入りの時間だった。
何たって向こうもプロだ、千花を喜ばせるポイントをしっかり見つけて、鞭の雨に泣いてくれる。
「ほら、お前は玉を打たれるのが好きなのよねぇ?」
「はっ、はひっ!CHIKA様、CHIKA様の鞭をこのマゾ犬奴隷の金玉に下さいいぃっ!」
「いいわよ、お客様にしっかり無様な姿を見て貰いなさいっ!!」
(これも、ひとつのコミュニケーションなんだ)
目の前で急所への打撃に悶絶する奴隷の頭を踏みつけながら、千花はうっとりとする。
(性癖も、結局人と触れ合うひとつの形に過ぎない)
ちょっと過激で、ひとつ間違えれば怪我をしかねない危ない形だけれど、やっていることは人と人との交流に他ならない。
その本質を早々に見抜いたからか、千花の中に歪んだ性癖を持つお客に対する偏見は微塵も感じられなかった。
……ただ、自分に対してだけは、ずっと例外だったのだけど。
ともかくどれだけ興奮しても、それを隠す必要なんて無い。
誰もが何かしらの歪みを抱え、それを互いに受け入れられる包容力を持ったこの店は、今や千花の生活にとって無くてはならない存在になっていた。
…………
「お邪魔します……凄い、新婚で家を建てちゃうだなんて」
「両方の両親がノリノリでね。賃貸に払うくらいならもうポーンと建てちゃいなさいって、援助してくれたから」
「ポーンとって……先輩達のお家、めちゃくちゃ太かったんですね……」
「やあねぇ、千花のところ程じゃないわよ」
芽衣子達とは卒業してからもこまめに連絡を取り合っていた。
自分達が紹介した手前、やはり後輩のことは気に掛かるのだろう。この頃には何かにつけては忙しい合間を縫って千花を食事に誘い、互いに近況を報告する仲になっていた。
卒業後すぐに籍を入れた二人は、同じ大学病院に勤めている。
芽衣子は2年目の初期研修医として、拓海は産婦人科の後期研修医として働く身だ。
ありがたいことに拓海の医局の配慮もあって、今のところ別居婚にはならずにすんでいるのだという。
「にしても随分表情が明るくなったわね。どう?バイトは楽しい?」
「はい!その、正直ずっと続けたいくらいに」
「それなら良かった。賢太に振り回されていないかだけが心配でね」
リビングでお茶を頂きながら話は将来の進路になる。
芽衣子は泌尿器科に進むつもりらしい。女性でウロを選ぶのは珍しいですねと千花が尋ねれば「打算もあるからね」と芽衣子はニヤリとする。
「どうせなら将来は開業したいのよね。ほら、ウロとギネなら不妊治療系のクリニックを開けそうだし」
「ああなるほど……そっか、そういうことも考えて専門を選ぶんだ……」
「純粋に興味がある分野を選ぶ人も多いけどね。千花はどうするの?まぁ、4年生になったばかりじゃまだ考えてないか」
「私は……形成外科一択ですから」
「あ」
そうだった。
千花はいずれ、父の経営する病院を継がなければならない。
美容外科なら別に初期研修が終わってすぐに父の病院に就職しても問題は無いのだが、父曰く「実力の無いものが上に立っても上手くいかん」と最低でも形成外科の専門医を取ることを命じられているのだ。
だから、私に選択権はないんですと笑う千花の瞳は、少し不安に揺れていた。
「……千花、大丈夫なの?形成は」
「外科系、ですよね……でも、大丈夫です。この2年で随分変態性癖にも慣れましたし」
「そう……」
それが強がりであることは、3人とも分かっている。
今はバイトでその性癖を満たしているから、一般の人にそれが向かないだけ。
いずれバイトを止めて医業に専念したときに、どうなるかなんて分からない。
まして千花の歪みは、あの賢太をして「あんなにハード嗜好の性癖を持っているのは珍しい」と言われるくらい嗜虐傾向が強いのだそうだ。
「千花は完全に振り切ってるからな、男の快楽なんてどうでも良い、苦悶の姿だけが悦びだって。今は店で見守ってる俺らや上手く受け止めてくれるM男のお陰で上手くいっているけど、あれが暴走したらと思うと確かに怖いよなぁ……いつかいいパートナーが見つかるといいんだが」
(そう、パートナーがいればきっと楽になれるだろうけど)
この性癖では、パートナーを探すのだって一苦労だろう。
けれど、こればかりはその世界に縁もゆかりもない自分達では何の助けにもなってやれない。
せめてそれまでに、何かしらの発散手段は見つけておいた方がいいんじゃないかなと、二人は千花にそれとなくアドバイスするのが精一杯だった。
「……拓海君、形成はまずくない?」
千花が帰った後、芽衣子はスコッチを出してきた拓海に問いかける。
こんな時間から飲むだなんて、きっと拓海も同じ事を思っているのだろうと、芽衣子も早めの晩酌に付き合うことにした。
「千花の『目覚め』って、解剖実習のメスでしょ?よりによって形成だなんて」
「僕もまずいと思う。形成なんて毎日日帰り手術をやってなかったっけ?メスを握る機会は、産婦人科や泌尿器科どころの騒ぎじゃないよね」
千花は手先が器用だし、度胸も根性もある。脳筋なところもあるし、外科系には向いていると二人も思う。
けれど、一番最初の……一番強烈な瞬間を、恐らく彼女はこれから何度も追体験する事になるだろう。
その時万が一、患者に対して邪な気持ちを抱いてしまえば……表向きは取り繕えたとしても千花のことだ、下手をすれば深刻に捉えて自分を責め続け、最後には精神を病むことになるだろう。
(願わくば、そんな日は来ないで欲しいものだ)
(せめて壊れないように見ていてあげないと……)
どうか、彼女が無事に医師となり、性癖に振り回されず平穏無事に過ごせますようにと、二人はしんみりしながら酒を注ぐのだった。
…………
解剖実習を終えた後も、学生同士で身体を使う実習はいくつもある。
そんな中で多少の興奮はしてもいつも通り振る舞えるのは、間違いなくバイトで発散しているお陰だろう。
「千花、今日もバイト?そんなに根を詰めて……身体大丈夫なの?」
「平気平気!まかないも貰ってるし!私自炊できないからさ」
「あーそうだった、千花のご飯はダークマターだって噂だもんね……てか来週試験だけど」
「試験対策のプリント、200枚くらいでしょ?一晩徹夜したら何とかなるわよ」
「ひぇ、相変わらず塚野さんは力業が過ぎるな……」
臨床の講義に入って更に忙しさが増しても、試験前すらも千花はシフトを一切減らさなかった。
これがあるからこそ、今の自分はただの学生として振る舞えるのだと分かっていたから。
ただひとつだけ、その充実した学生生活でも決してやらないと決めていることがあった。
「……塚野先輩、その、俺と付き合って下さい!」
「うん、気持ちは嬉しいけどごめんね、私今は恋人を作るつもり無いから」
「そ、そっか……」
それは、恋人を作ること。
特に良いなと思う人もいないし、万が一付き合って肉体関係を持てば、きっと自分は普通の関係に物足りなさを感じてしまう。
それで相手が不満に思って別れるだけならいい。最悪なのは自分の欲望が暴走して、相手をこの歪みに巻き込んでしまうことだ。
『CHIKA様がいなければ、俺ドMになんてなってなかったっすよ』
いつだったか友人に連れられてやってきたというノーマルの青年が放った言葉は、今も千花の心に深く突き刺さっている。
(一人の人生を歪めてしまったんだ、こんな小娘が)
千花は余りにも女王様として優秀すぎたのだ。
彼女はただ座って相手の話を聞いているだけなのに、自然とそういう深い欲望を、本音をお客が吐露し始める。
そうすれば楽しませるのが女王様の役目だ、簡単な拘束や蝋燭、鞭などでちょっとした火遊びを教えてあげれば、男達はあっという間に性癖を歪ませ、千花に惚れ込んでしまう。
(ここにいるのは、将来患者さんを診る人たちなんだ、だから絶対に巻き込んじゃいけない)
自ら店に来たお客はもう仕方が無い、それが千花の仕事でもあるのだから。
だからせめてプライベートでは絶対に人を歪ませたくないと千花は固く心に決めていた。
そうなれば彼女はただ一人、立つしかない。
その内面に抱えた傷も、歪みも、そこから来る苦しみも、たった一人で抱え込み、寄り添われることすら拒否する。
……だから、誰も知らない。
塚野千花という女性は、明るくてちょっと気が強いけど気配りのできる女性で、成績も良くて部活にバイトにとバイタリティ溢れる才女だと、誰もが信じている。
(でも、私は一人じゃないから)
自分には、芽衣子先輩と拓海先生がいる。
店長や賢太さんのような仲間もいる。
だから大丈夫だと、千花はいつも自分に言い聞かせるのだ。
……そして千花は気づかない。
彼らはあくまでも、千花が壊れないためのストッパーとして彼女の中に少しだけ踏み込むことを許されただけの存在で、その内面を受け止め共に立ってくれる人ではない事に。
気付かないが故に、彼女はこれから長い年月にわたり、自覚できない孤独感を背負い続けることになる。
…………
あれから約2年半。
学業に部活にバイトにと精を出していた千花だったが、とうとうこの日がやってきてしまう。
「店長、私春から5年生なので……これ以上バイトを続けるのは難しくて」
「そういやそういう話だったな」
春からは1年間の臨床実習が始まる。
4年の終わりに受け取った実習用の名札と真新しい聴診器を手に、白衣を纏って患者さんと実際に接するのだ。
年が明ければ国試に向けた勉強会だって本格的に始まると聞いている。
芽衣子から「部活引退後は1日17時間勉強がデフォルトだから」となかなか恐ろしい体験談を聞かされているだけに、流石に続けられないと後ろ髪を引かれる思いでバイトを止めたい旨を申し出れば、樹は「うちとしては痛手だけど仕方ないな」とあっさりしたものだった。
「この店のお陰で、随分気持ちも楽になりました。私だけじゃないんだって思えたし……」
「そうか、それなら良かった」
本当にありがとうございましたと深々と頭を下げて感謝を告げる千花を、樹と賢太は内心複雑な思いで見つめていた。
(そう、仲間がいることを知って、千花の表情には確かに余裕が出た)
自分だけが歪みを抱えているのではない、歪んでいることは確かにマイナーではあるけれど、世界の全てから後ろ指を指されるようなものではないと実感できたことは、きっとこれからの千花の人生で何らかの助けになるだろう。
特に彼女は医師だ、様々な内面を持つ患者と接する時に、こういう世界に足を踏み入れた経験と、何より女王様として見せつけた「聞く力」は千花にとって心強い味方となるはずだ。
(けどな千花、お前まだ……自分の性癖は許せていないだろう?)
それでも、最後まで千花は自分自身の性癖を受け入れられなかった。
ほとんどの客やスタッフは気付かなかったが、初めての鞭を受けた樹には、そしてそれを見ていた賢太にはよく分かる。
あれ以来、千花は一度たりとも全力でプレイをしていない、否、本人は全力だと思っていても無意識の罪悪感がブレーキをかけ続けている。
どうしてあそこまで自分を受け入れることを拒み続けるのか、彼らには分からない。
ただ、彼女が選んだ道……妹たちのために自由な人生を捨てた諦念の道と無関係では無いのだろうなと、ぼんやり察するのが精一杯だ。
「千花、しんどくなったらいつでもプレイしに来い。俺で良ければいつでも相手してやるから」
「店長、自分の安売りは良くないですよ。でも……ありがとうございます」
(辛くても受け入れねぇと、ずっと苦しむだけだぞ、千花)
これから千花は多忙になる。そうでなくても医師ともなればこんないかがわしいところにそうそう出入りはできない。
ましてスタッフとしてだなんてとんでもない、下手をすれば彼女の『計画』はおじゃんになってしまうだろう。
樹もそれが分かっているから、せめてこちらは拒まないと千花に伝えるのが精一杯だった。
…………
店を後にする千花の背中を眺めながら「大丈夫っすかね」と賢太が呟く。
「さぁな」と樹も隣でタバコに火を付けながらぼそりと答えた。
「……ま、俺たちにできるのはここまでだろうな。後は千花が自分で何とかするしかない」
「そっすね」
うちの大事な稼ぎ頭が抜けるんだ、俺たちも気合い入れないとなと即座に頭を切り替えて奮起するあたりは、やはり樹は経営者なのだろう。
自分も近いうちには独立するつもりだ、こういうところはしっかり見習わないとなと思いつつも、賢太の頭からは千花のことが離れない。
(やっぱ、俺は放っておけねぇな)
そう思ってしまうのは、情に厚すぎる拓海と同じ血が流れているせいだろうなと、賢太は心の中で苦笑いする。
(……助けてやりてぇ)
今はどうすれば良いか分からないけど、自分に何かできることがあれば。
そう心の中に想いを秘め、賢太はいつものように店を開ける準備を始めたのだった。
……その思いは決して無駄にはならない。
これから千花が本当の意味で受け入れられる日まで、賢太は陰に日向に千花を支え続ける事になるのである。