沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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6話 Sinfonia for Blessing

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 今だってこの性癖には、どこまでも歪みきった異質な嗜虐の獣には、嫌悪しか感じない。
 けれど、そんな歪みさえ好きだと言ってくれたあなた一人に捧げるなら。それで笑う私すら美しいと、受け入れてくれるなら。

 ――私はきっと、この度し難い衝動とともに生きていけるわ。


 …………


 新緑が目に鮮やかな初夏のある日、千花はハルを連れて結婚の報告のために数年ぶりに実家を訪れていた。
 数ヶ月ぶりに袖を通したシャツとスラックスの感触に、そして千花と並んで外を歩くことに、ハルはどうにも居心地の悪さを感じてしまう。

 でも、それがちょっと嬉しかったりもする。
 それだけ自分は、身も心も千花の奴隷となっているのだと自覚できるから。

「いい、ハル?今日は『千花さん』よ!間違えてもご主人様って呼んじゃだめだからね!!」
「が、頑張ります……あああもう緊張してお腹痛くなってきた……」
「大丈夫、あの人達外面はいいから普通にしていればいけるわよ。第一アラフォーの女と結婚してくれる若い男性だなんて、断る理由も無いでしょ!」
「そうだと良いんですけど……」

 流石に無職ではまずいだろうということで、ハルは賢太の計らいにより、書類上は以前の職場を退職し賢太の店の正式なスタッフとして働いていることになっている。
 賢太曰く「まぁほら、千花のパフォーマンスを上げる備品としての働きはしてくれているから、あながち間違いじゃないだろ?」だそうだ。

(いくらなんでも、これは反対される未来しか見えんのやけどな……)

 「賢太さんだって医師じゃないのは途中でバレたけど大丈夫だったし」と千花は言うが、そりゃ兄夫婦が医師で本人は飲食店の経営者なら文句は出ないよなあとハルは独りごちつつ、千花の実家へと向かったのだった。

 果たしてハルの予感は的中する。
 案の定、長年(偽装)恋人だった賢太ではなく、賢太の店で働く(備品だが)ハルと結婚を決めたという話に両親は難色を示した。

 賢太は経営者だと聞いていたが、彼はただのスタッフに過ぎない。
 容姿も平凡だしどこか田舎くささが抜けない青年となれば、これから事業を継いで広告塔として露出もしていくでろう千花の相手には少々心許なさを感じていたのだろう。

 だがたった数時間の顔合わせで、ハルは密かに計画していた作戦により、見事両親の心を射止める。
 そう、千花としてはトラウマを抉られる、しかし非常にシンプルな方法で。

「ほう、これが本場の讃岐うどん……!」
「ホント、美味しいわ!晴臣さんは料理も出来るのねぇ」
「はい、一人暮らしも長かったので家事は一通りできますし、結婚したら僕が主夫として家を切り盛りして、千花さんには事業に専念して貰おうと思うんです。……その、美味しいご飯は大事かな、って」
「!!それは、うん、それは非常に大事だな!そうか、つまり君も千花の……それは随分と苦労したんだな……」

 折角だからと持参したうどんを茹でて振る舞い、さらに千花の料理を食べたことを匂わせた途端、すっかり「ダークマター被害者同盟」と化してしまった両親は「あれを知って千花と結婚してくれるだなんて人は、この先二度と現れない」とばかりに結婚を快諾したのだった。

(良かったぁ……きっとメシマズから攻略すればいけるとは思とったけど、こんなに上手いことハマるなんて……!)

 これで最大の難関はクリアした。
 朝から緊張しっぱなしだったハルとしては、早く千花の家で奴隷に戻って一息つきたい。

 つきたいところなのだが。

「………………」
「……………………」

(……あかん…………ご主人様、めっちゃ機嫌悪いやん……)

 残念ながら帰りの車内は、実に気まずかった。
 無言で運転する千花の表情は明らかに苛立ちを憶えている。
 どうやら千花は、思った以上にメシマズであることを気にしていたらしい。

「……あ、あの、ご主人様……?」
「…………分かってるわよ!ハル、あんたの作戦は完璧だった。結婚を許してくれたんだからこれで万事OKだってのもね。……けどね、分かってたってやっぱりイライラはするのよっ!」
「ううぅ、ごめんなさい……」

 恐る恐ると話しかければ、この有様だ。

 そもそもメシマズは、千花曰く度重なる虐待により「食べられればそれでいい」と追い込まれた経験が作り出したものだそうだから、確かに怒りたくなる気持ちは分かる。
 だが千花の生成物は、正直そんな同情すら吹き飛ばすレベルなのだと、そろそろ自覚して頂きたい。

(今晩の餌は大変なことになりそうやな……僕生きて明日を迎えられるんやろか……)

 ハルはせめて死なないレベルの餌が出てくることを祈りつつ「そう言えば」と気がかりだった話を持ちかけた。

「ご主人様、僕らの関係は……大丈夫なんでしょうか」
「……そうね」

 真っ直ぐ前を向いたまま、千花は「隠し通すしか無いわね」ときっぱり話す。

「ハルもうちの父がSNSやメディアに露出しているのは知っているでしょ?病院を継げば、私も同じ事になる。別に芸能人じゃ無いけど、ああなるとプライベートなんて無いに等しいからね」
「…………嫌じゃ、ないんですか」
「嫌よ、けどこればかりは仕方ないわ。まぁ、ハルはもう二度と家から出すつもりは無いし家に誰かを招くつもりも無いから、それこそ盗聴器でも仕掛けられない限りは大丈夫だとは思うけど」

 あの両親だ、どう考えたってこんな関係がバレれば全力で反対するに決まっている。
 最初から理解なんて求める筈が無い。そもそも、彼らは子供の頃から千花の本当の気持ちなんて理解してくれたことが無かったのだから。

 だから、言わない。
 何が何でも隠し通して、バレたところで彼らが簡単に関与できない状況を作り出す。

「一度結婚しちゃえば、離婚なんてそう簡単にさせられないしね。だからこのまま隠し通して、婚姻届を出してしまうわよ」
「……分かりました」

 結婚式に興味は無いが、父の体裁を保つためには開かざるを得ない。
 まあ費用は父が出すのだから、そのくらいは思惑に乗ってあげる予定だ。

 その代わり、先に入籍することだけは承諾させた。
 だから、千花の遅めの夏休みを利用してハルの両親に報告次第、二人は書類上正式な夫婦となる。
 法的に結婚してしまえば、例えバレようが体裁を気にする両親のことだ、娘がバツイチになるよりはその関係を黙認することを選ぶだろう、それが千花の作戦だった。

 その時まで本当にこの関係を隠し通せるのか、不安は尽きない。
 けれどもこうやって話が進めば、じわじわと千花の家族になれる喜びが湧き上がってくる。

(これで僕は、名実共にご主人様のためだけの奴隷になれるんだ……)

 そんな感慨に耽るハルに「あ、言ってなかったけど」と千花はようやく怒りが収まったのだろう、いつもの笑顔を見せた。

「来週、教授のところに挨拶に行くから」
「へっ……ほげえぇぇぇぇ!!?なななんで職場にまでえぇぇ!?」
「そういうもんなのよ、医者の世界って。心配しなくても教授は医者にしては人格者だから、取って食われりゃしないわ」
「そそそうは言っても……あわわわわ……!」

 オロオロするハルを横目でチラリと見つつ、千花は心の中でにんまりする。

(……もう少しだ、もう少しでこの子が完全に私のモノになる。誰にも、邪魔なんてさせない……!)

 何をしてもリアクションが良くて飽きないのは相変わらずだなと思いつつ「ほら、今日は頑張ったからご褒美をあげるわ。……それを着けて帰宅までアヘってなさい」とハルの足元に置いてある紙袋から乳首用のローターを取り出させるのだった。


 …………


「塚野先生、結婚決まったんだってね」
「あ、はい。昨日瀬口先生にもご挨拶を」
「うんうん、教授も随分喜んでいたよ。退官までに決まって良かったってね」

 いつもの中央手術室。
 今日は熱傷の植皮術で、若い医師達が我先にと採皮用のパジェットダーマトームに群がっている。
 他の手術に比べれば見た目を問われない手術だし、この機会に採皮や皮膚のメッシュ加工を学ぼうと意気盛んな彼らに(ああ、自分もそうだったな……)とどこか懐かしい気持ちになりながら千花は使い方を指導していた。

(そう、気持ちいいのよね、ぺろんと皮が採れたときって)

 おぼつかない手つきでパジェットの刃を動かす医師に「ほら、しっかり押しつけて」とアドバイスする。
 ちょっと穴が開いているがまぁ合格点だろう。するすると皮を剥ぐ感触を思い出して内心ゾクゾクとした感覚を楽しんでいれば、今日の執刀医である助教授の井芹がメッシュを縫い付けつつ、結婚の話を口にした。

 途端に手術室は大騒ぎである。

「え、塚野先生結婚するんですか!おめでとうございます!」
「ありがとう。実は随分前から急かされていたんだけどね。だから来年の3月で医局を辞めるのよ」
「そんなぁ、めでたいけど俺先生に教わるのが良かったのにぃ」
「はいはい。ほらよそ見しない、手を滑らせたら手首バッサリ切れるわよ」
「あ、はい!」

 この歳まで大した役職に就くことも無く、時折関連病院には派遣されるものの大学病院勤めの方が長い医師は珍しい。
 全ては父と懇意の教授による配慮によるもので、お陰で千花は何でも頼れる医局の主として長年若手の医師に慕われていた。

 だがそれももう、あと1年足らずだ。

「それで婚約者は何科?」
「あ、医者じゃ無くて飲食店の店員なんです。色々話し合ったんですけど彼が主夫として家庭に入ってくれることに……その、私料理がちょっと……」
「ああそうだった、先生って確かダークマター製造機の二つ名が」
「ちょ、井芹先生それは内緒で!」

 ほら、先生こっちやりますから!と千花は話題を逸らしつつ植皮を手伝う。
 いつものように針を刺す度ゾクリとした快楽を覚えつつ、けれど千花の脳裏によぎる妄想は目の前の患者の醜態では無い。

(……ふふ……今日は帰ったら、鞭がいいかしら……久しぶりに玉を潰すのもいいわね……潰しながら電気でも流したら、きっと良い声で鳴いてくれる)

 千花のその嗜虐の対象は、彼女が恋を自覚して以来ハル一人だけに向かうようになった。
 手術で興奮するのは相変わらずだけれど、少なくともその獰猛な衝動が患者に向かなくなった事実は、千花に途方もない安堵感をもたらしている。

 医師になって15年近く、ようやく千花は自分が医療の現場に立つ事への後ろめたさから解放されたのだ。

(はぁ……早く、会いたい)

 今頃彼は何をしているだろうか。
 今はまだ昼間は自由にさせているけれど、結婚したら一日中苦痛と快楽の中に叩き込んで、その悶え苦しむ様子をモニターで眺めるのも悪くない。

 泣きながらもどこか幸せそうに自分を見つめる眼差しを思い出しながら、千花はさっさと仕事を終わらせるべく手を動かすのだった。


 …………


「ごめんなさい、今日はちょっと体調が優れないから納涼会パスで」
「はいはい、そんなこと言って婚約者とお楽しみじゃねーの?」
「どうしてそうなるのよ!」

 そう、全ては順調だった筈だ。

 ハルの実家への報告が秋になるから、式は来年の春と言う話になっていたし、仕事の方も役職すら無いただの医局員に引き継ぐものなど無い。
 今日もこれといって用事があるわけでは無かった。

 ただ、これまで医局のイベントには毎回欠かさず参加してきたから、最後くらいはサボるのもいいかなと、見え見えの仮病を使って納涼会を欠席することにした、それだけだ。

 そんな千花の思惑も分かっているのだろう、教授や医局長も「体調が悪いならしょうがないね!」「彼氏さんに宜しくね」とニヤニヤしつつも快諾してくれた。

(まぁ、ある意味ハルとお楽しみではあるかな)

 そんなわけで、随分久しぶりに千花は開店から『Purgatorio』に入っていた。
 ここしばらくはやたら緊急手術も多かったし、あと2週間もすれば夏休み恒例、子供達の入院手術祭りだ。その前に息抜きがしたいと思ってもバチは当たらなかろう。

「あ、CHIKA様!珍しいですねこんな時間から」
「今日はまた奴隷君凄いですね。これ、ヒトイヌですか?」
「そうよ、たまにはこんなのも良いかなって思って。ああ、触れちゃだめよ」

 いつもはカウンター席の端に置かれているハルだが、今日は珍しくステージの脇に飾られていた。
 黒のキャットスーツの上からヒトイヌの拘束具で手足を折り曲げて固定され、ラバーマスクの上からアイマスクとペニスギャグを装着された姿は、近づいてその荒い息づかいと滴る涎に気付かなければただの置物にしか見えない。

 当然のようにアナルには尻尾付きのバルーンプラグが挿入され、中から良いところを押し続けている。
「店だし露出はまずいからね」と貞操具を外されラバーの中に隠された屹立は、しかしその尿道から差し込まれ、奥に潜む敏感なところを刺激する特殊なチップに犯され続けている。
 時折震えるラバーの中は、今頃汗と体液で大変なことになっているのだろう。

 千花がハルに結婚を命令して以来、店に置かれるハルはますます『モノ』扱いされるようになっていた。
 ハルへの愛情が爆発してしまった千花は、今まで以上にハルの素肌が露出するのを嫌うようになってしまい、酷いときには箱詰めにして持ってくる始末である。
 そこまでするなら家に閉じ込めておけば良いのに、と誰かが言えば「準備が整い次第するわよ」とさらっと返されて、場が凍り付いたという。

 流石に常連客達は千花の苛烈さに徐々に慣らされていっただけあって、そんな話を聞いても「流石はCHIKA様だな」の一言で終わりである。
 ……内心「CHIKA様の奴隷にならなくて本当に良かった」と安堵している者も多いとは聞くが。

「ふふ、素敵よハル……今日もここでお利口さんにしてなさいね。ああ、もう答えるどころじゃないかしら」
「はーっ、はーっ、んぐっふぅっ……」
「流石にプロステートチップは効くわねぇ。動いちゃうとまずいから、フレームを使おっか」
「んむうぅぅ……!」

(ひぃっ、もう止まんないっ、メスイキ止まんないいぃぃ……!待ってご主人様、首も動かせないの辛いですうぅっ!!」

 訴えようにも声を出すことは禁じられているから、アイマスクに覆われた瞳から滴る涙でせめてもの主張をするしか無い。
 そうすれば千花はいつものように頭を撫でてくれて、ハルの醜態を想像してはあの素敵な笑顔を見せてくれているのだろう「はい、できあがり」とハルの耳元で楽しそうに囁くのだ。

「今日は長丁場よ、頑張りなさいな」
「ぁぉ……」

 その無様な姿、ずっと見ていてあげるから。

 カツカツとヒールの音が遠ざかっていくのを意識の隅っこで捉えながら、ハルはいつも通り自分が千花を笑顔にしていることに幸せを感じつつ、快楽と苦痛の波に飲まれるのだった。


 …………


 時計は11時を回った頃だろうか。
 週末なのもあって、今日の店内は随分賑わっている。

 珍しく常連客ばかりの店内に「折角だし、突発イベントでもやるか?」と切り出したのは賢太だ。

「お、いいですねぇ!何やります?」
「常連ばかりだし、ちょっとハード路線も楽しそうっすね」

 そうだなぁ、と少し思案した賢太が奥から取りだしてきたのは、ヒトイヌ拘束具とマズル型のマスク、そして耳の付いたハーネスだ。
「折角ステージにも完成品が飾られているんだし、ヒトイヌ体験でもどうだ?」と提案する賢太にギャラリーは大盛り上がりである。

「どうするよ、パンツ一枚履いてりゃOK?」
「いいんじゃね?もうこんな時間だし、これからご新規が来ることもねぇだろ。首輪もあるし、お散歩もよし、マゾ犬になって躾けられるのもよし」
「それ採用!俺やる!!」
「あ、ずりぃぞ!俺も次やりてぇ!」

 全く、行儀良くなさいな!といつも通り声を張り上げる千花は絶好調だ。
 我先にと名乗りを上げた常連を「ほら、ブタから犬に格上げされるなんて良かったわねぇ」と罵りながら手早く拘束を施していく。

(……ああ、やっぱり私の居場所は『ここ』だ)

 首輪に繋いだ鎖を引き「ほら、しゃんと歩きなさいな!」と尻に鞭を入れれば、嬉しそうな鳴き声に興奮が背中を駆け上る。
 テーブルの周りをすり抜け、よたよたと歩く無様さに(ハルの方がずっと素敵だわ)と内心惚気つつ、背筋を伸ばしヒールの音をカツカツと立てて、しかしイヌが付いてこれるギリギリの速さで歩くのだ。

(この世界でずっといられたら、どんなに幸せだろう)

 歪んだ性癖は嫌いでも、満たさずには生きていけない。
 もちろんこれからはハルとずっと一緒だし、千花の歪みは彼が全て受け止めてくれる。
 けれどもいくら辞めないとは言っても、実家の事業を継げばここに顔を出す頻度は激減するに違いない。

 店は変われど、学生時代から千花を支え続けてくれた、かけがえのない空間と仲間達。
 ……それを捨ててまで、憎んでいる父の意思に沿わなくてはならないのだろうか?

「嫌い」を持つことを許されたあの日以来、千花の中に芽生えた疑問への答えは未だ出ず。
 いずれ答えが出たときには、もはや立場的に動けなくなっていそうだなと自嘲し、いやそれでもとかぶりを振る。

(望みすぎは良くないわね。……私にはもう、ハルがいる。それで十分よ)

 今は、この仄暗い歪みを包み込む妖しくも優しい空間に浸っていよう。
 そう千花は心の中で呟き、ちょっとだけ切なさの混じる、けれどいつも通りの凜とした表情で「ほら、ちゃんとお座りしなさい!」と鞭を振り上げる。
 
 その瞬間

「……塚野、先生……?」

 扉の方から、聞き慣れた声が上がった。


 …………


(うっそだろ……!?)

 最初に賢太の頭によぎったのは、驚愕の一言だった。

 いや、18からこの業界に入って長年商売を続けているだけあって、医療関係者に拗れた性癖を持つものがそれなりにいることは、賢太だってよく知っている。
 けれども、千花の勤め先からはここまで車で1時間。勤め先近くにだってこの手の繁華街はあるからまず問題ないと思っていたし、実際10年以上何も無かったのに。

(何で、よりによってこのタイミングなんだよ……!)

 扉を開けて入ってきた集団の中に見慣れた顔を発見した瞬間、賢太の顔が強張る。
 まずい、千花を一旦休憩室に戻さなければ、咄嗟にそう判断するもその指示より早く声が上がって……なんてこった、集団全員が千花の関係者だなんて!

「塚野先生……!?え、何で、今日は体調が悪いって」
「へっ……い、医局長!!?え、先生達……それに、お父様!?」
「「!!」」

 千花もまた、ここでは決して呼ばれない名前にギョッとして扉の方を振り返る。
 そして……最も望んでいなかった来客に、言葉を失い立ち尽くした。

(なんで、ありえない、どうしてこんなとこに……!?)

 店の扉の前に佇むのは、呆気にとられた様子の医局の教授以下、役職付きの4人。
 そして、怒りに震える父の姿だった。

「千花、どういうことだこれは!!」
「っ…………」
「そんな破廉恥な格好をして!!すぐ帰るぞ!全く、お前という奴はちょっと目を離せばすぐこれだ!!こんなことならさっさと結婚させて家に連れ戻すんだった!」

 歳を取っても衰えることを知らない迫力のある怒鳴り声に、千花の身体がびくんと硬直する。
 その顔は紙のように白くなり、瞳は明らかに怯えの色を帯びていた。

 ……ああ、大声は嫌いだ。あの声で怒鳴られた後には必ず暴力が飛んでくる。
 怖い、怖い、逃げなきゃ、でも逃げられない……!!

「お客様、店内で大声を出すのはおやめ下さい」と窘めるスタッフをも恫喝する声が、遠くから聞こえる。
 全てが薄皮を隔てた向こうの世界に追いやられて、自分に残されるのは、またも父の暴力だけなのか。

(……嫌よ、こんなの)

 そう、嫌い、あんなやつ、大嫌い。
 ハルが教えてくれた。嫌いだって言っていいんだって……

 千花の性癖を、大嫌いな歪みを作った張本人。
 殺してやりたいくらい憎んでいるのに、その身は骨の髄まで叩き込まれた恐怖に飲み込まれ、必死で踏ん張っているのに今にも床に崩れ落ちそうだ。

「おい雰囲気悪くするなら出て行けよ!」
「そうだそうだ、オーナーさっさと警察呼んじまえ!!」
「はぁ!?私の娘がこんないかがわしいところにいるんだ、分かった以上連れ戻すのは当然だろう!」
「おっさん馬鹿なの!?いい年した大人を連れ戻すとか、頭おかしいんじゃない?」

 詳細は分からずとも、危険を察知したスタッフと常連客達が庇ってくれる。
 足元でさっきまで楽しそうに鳴いていたマゾイヌが「CHIKA様、大丈夫僕らが守るから、だからしっかりして」と言わんばかりに身体を擦り付け励ましてくれる。

 そう、ここは私にとって、私の半生を支えてくれたかけがえのない隠れ家。
 初めて父に奪われずにすんだ、私の大切なもの。

(もう、嫌なの)

 千花の中の、小さな、虐げられたかつての自分が叫ぶ。
 ずっと聞こえないふりをしてきた、嗜虐の獣の向こうにあったささやきが、四十路を目前にしてようやく千花の心に響き渡る。

 勉強のために、大好きなものは全て奪われていった。
 楽しいものは暴力と共に諦めさせられた。
 それがお前のためだと、泣きじゃくる私の本音を無理矢理押しつぶして。

(私の好きを、奪われるのは、もう嫌……!!)

 千花は今、はっきりと自覚する。
 私の生きる世界は、ここだ。
 ――そうだ、もうあんな男のために、私は私の大切なものを、もう二度と捨ててなるものか!


(……けど)


 心は勇んでも、身体が動かない、声が出ない。
 嫌だと思っているのに、心の底から反逆したいのに「躾けられた」身体は勝手にあの横暴な父に従うため、膝を折ろうとしていて。

(お願い、動いて!言葉を出させて……!)

 嫌だと主張する、勇気が欲しいとただひたすら願う。
 抗えない、分かっていても、もう諦めたくなくて。

 そしてその願いは……愛しい人に、聞き届けられる。



「んあああぁぁぁ……っ!!」
「!!」



 その時。
 確かに千花の耳に届いたのは、ペニスギャグに遮られながらも精一杯張り上げられた、ハルの叫び声。

 店内に怒号が飛び交う喧噪の中、ましてトラウマによるパニックで音すら遠くなっているのに、それでもはっきりと奴隷の声は想い人に届き、その心を揺り動かす。


(ご主人様)


 快楽に蕩けた瞳で、過ぎた快楽故の苦痛に悶える表情で、それでもそれこそが千花を幸せにするとどこか嬉しそうに受け入れるハルの呻き声が、強張った身体を、心をふんわりと包み込む。

(……私には、ハルがいる)

 狭まっていた視野の端に、ようやく千花は拘束されたまま佇むヒトイヌを確認する。
 そうだ、今の自分は一人では無い。
 自分のために身体を、心を、人生すらも捧げ、ただ一人立ち続けた自分を優しく受け入れ寄り添ってくれる、私だけの奴隷がいる。

「ちょ、ここ土足厳禁です!それに勝手にステージに上がらないで下さいっ!」
「何をしている!千花、さっさと帰るぞ!!」

 恐れていた男の手が、胸ぐらに伸ばされて

(ここで捕まれば、二度とハルには会えない)

 その胸元をぐっと握りしめたかと思った、その瞬間


 パアァン!!!


 店内に小気味よい鞭の打撃音と「うごっ」と叫ぶ醜い男の声が響いた。


 …………


「千花、千花っ、大丈夫か!?」
「CHIKA様、お怪我はありませんか!!?」

(え……)


 ――今、私は、何をした?


 呆然としたままの千花の右手に握りしめられているのは、さっきまでマゾイヌを躾けていた乗馬鞭。
 そんな千花の元に駆け寄る賢太と、常連客と……そして、少し離れたところで股間を押さえ、ステージの床に蹲って呻く父の姿。

 その光景に、千花はようやく何が起こったかを理解する。


(……私、今、父を打った)


 半ば無意識の行動だった。
 ここで連れて行かれれば、自分のために全てを捨てたハルを路頭に迷わせてしまう、そう思った瞬間、千花の腕は憎らしい男の最も弱い部分を見事に全力で打ち据えていた。

 手が、じんじんする。
 鞭で打ち据えた感触が、今も右手に残っている。

 そうして悶絶する、父の姿。
 あれほど夢に見た、決して叶わないと思っていた反逆で、あっさりと崩れ落ち無様に呻く……小さくなった、父の身体。

「……ははっ」
「…………千花?」

 思わず千花の唇から笑みがこぼれる。

(なあんだ)

 見えなかった現実が、植え付けられた恐怖のフィルターをぶち破ってようやっと露わになる。

(こいつ、こんなに小さかったんだ)

 何という、小さい男。
 これは、己の思い通りにならない子供を暴力で従えることしか出来なかった、愚かな男にすぎない。
 そして自分は……もう圧倒的な力の差に怯えて震える、子供じゃない……!

 こんな男に自分は何十年も怯えていたのかと思うと、ちょっと情けなくて、悔しくて……けれどどこか晴れ晴れとした気分で。

「っ、おい、千花!?」
「……大丈夫よ、そこで見てて。ああ、そのマゾイヌを見てあげててね」
「CHIKA様……」

 様子の変わった千花に戸惑う賢太達を背に、カツン、カツンとヒールの音を響かせて、千花は蹲る父の側に立つ。
 能面のような顔で見下ろす娘に「親に向かってその顔はなんだ」と痛みに震えながらも叫ぼうとした男はしかし、すべてを再び激痛に握りつぶされた。

「っぎゃあぁぁぁっ!!!」
「……黙りなさい、ブタが。……いえ、それじゃブタに失礼すぎるわね?このゴミクズ」
「ひぎっ……かは……」

 細いヒールでぐっと股間を踏み潰し、ぐりぐりと捻ればその度に新鮮な咆哮が上がる。
 だが、その程度ではこの積もり積もった恨みを晴らして千花の渇望を満たすには、ほど遠い。
「ふふ……折角来たんだもの、ゆっくり楽しんでいきなさいな?」
「なに、を……」

 千花を見つめる男の、精一杯の虚勢のと怯えを含んだ瞳に、千花の唇がにぃ、と弧を描く。

「あら、ここがなんなのか知らずに来たわけじゃ無いでしょ?全く、医局の飲み会の3次会は野郎だけでキャバクラと相場は決まっていたけど、まさかSMバーを選ぶような拗れた性癖気持ちが混じっていたなんてねぇ?」
「なっ、ちがっうぎゃあぁぁっ!!」
「お黙り!……違わないわよねぇ?生活圏から離れたSMバーをわざわざ選んできたんでしょう?ああ、それとも冥土の土産に火遊びでもしたくなったのかしら?お母様がこんなことを知ったら何て言うかしらねぇ……」

 母の名を出した途端に、父の顔が真っ青になる。
 千花だって長年女王様をしているわけじゃ無い。虐待により刻み込まれた楔さえ取れれば、目の前の男が『どれか』だなんて、簡単に分かってしまう。

「最高のシチュエーションじゃ無い?あれほど虐待してきた娘が、女王様としてゴミマゾにお仕置きするだなんて」
「ひっ」
「……今日のこと、訴えれるものなら訴えてごらんなさい。あんたが私たち姉妹にやってきたこと、洗いざらいSNSにぶちまけてあげるわ。ああ、もちろん今日のことをお母様にもね」

 カシャ、カシャとステージの外からいくつものシャッター音がすれば、流石の父もそれがただのブラフで無いことは理解できたのだろう、ガタガタと震え始める。

(にしても……スッキリするわけじゃ無いのね、復讐って)

 あれほど望んだ瞬間だ、大層昂ぶるかと思っていたのに心は意外と平静なままで、目の前の男にも今や嫌悪と少しの哀れみしか感じない。
 だが、念には念を。ここで下手に逃せば、この男は自分に、そしてハルに何をしでかすか分からないのだ。
 幸いここは、SMを体験しに来る場所。そう……お客様に最高の体験をご提供するのは、女王様としての務めだから。

「賢太さん」
「おう、何をやる?吊るか?鞭でも打つか?」
「そうねぇ、ひとまずボールギャグとアームバインダーね。その粗暴な口と腕はちゃんと塞いで上げなくちゃ」
「いいねぇ、折角うちに来店頂いたんだ。とっておきのおもてなしをしないとな!」

 ニヤリと口の端を上げた賢太の顔は、これまで見たことも無いような悪人面で「ちょ、オーナー顔に出しすぎです!」とギャラリーからどっと笑いが起こる。
「当たり前だ、人の店で迷惑行為をやらかしたんだからな!」と返す彼の瞳は、見るからに千花を長年縛り付けてきた男への怒りに満ちていた。

(どうなるのかしらね、これから)

 手際よく拘束具を着けられ、さらに気を利かせたスタッフのサービス(?)により足首と太ももを枷で繋いで立てなくした上でテーブル席の脚に首輪で繋がれ転がされる姿を眺めながら、千花は今更ながら今後のことを思案する。

 けれども、もう考える必要なんてないのだ。
 自分はハルと結婚し、生涯彼を飼い続ける。そこに誰かの意思が入り込む余地など1ミリもない。

 勘当されようが、二度と医師として働けなくなろうが、もう「好き」を誰にも奪わせはしない、それだけだ。

(ま、先に何とかしなきゃいけないのはこっちよねぇ……どう説明したものかしら)

 必死に呻きながら芋虫のようにもぞもぞと動く哀れな生き物を一瞥し、千花は特上の……女王様らしい笑顔で、事の成り行きを呆然と見守っていた彼らを迎えるのだった。

「さ、ご新規のお客様、こちらへどうぞ」


 …………


 早めに閉店しBGMも切った静かな店内に響くのは、空調の音とグラスの中の氷の音。
 そしてそこに時折混じる、醜い呻き声。

「オーナー、お一人に任せちゃって本当に大丈夫ですか?」
「おう、心配すんな!これでも俺は千花と付き合い長いんだしな」

 まだ心配そうな常連客やスタッフを「ここは俺が何とかするから大丈夫だ」と半ば強引に帰らせ、閉店の札をかけた『Purgatorio』で重苦しい沈黙を破ったのは、千花の同期であり今は医局長でもある福栄だった。

「えっと、塚野先生」
「……ここで先生は止めて下さい、福栄先生。女王様としての名前は『CHIKA』ですから」
「あ、うん、ごめん。それでCHIKAさん、一体いつからこんなバイトを……?」
「ええと、大学2年からね。当時は別の店だったけど……」
「ちょ、2年生から!?嘘でしょ、よく両立できたね!!?」
「流石に国試勉強の時期と研修医の頃は辞めてたわよ。それに、かなり自由な勤務形態だからね、私」

 上手くごまかす、という手もあったかも知れない。
 けれど、どちらにしても来年の春には医局を去る身だったのだ。これが原因で退局が早くなっても大した問題では無いだろうと千花は腹をくくる。

 そんな千花の覚悟を感じ取った賢太は、そっといつものベイリーズミルクを差し出した。
「あれ、CHIKAさん下戸じゃなかったんだ」と驚く福栄に「飲めるのはこれとカルーアくらいよ」と返せば、また随分らしくない酒の好みだねと突っ込まれる。

「CHIKA君は飲み会でも基本ウーロン茶しか飲まないね、そう言えば」
「ええ、炭酸が苦手で。ほら、宴会で出てくるお酒って大抵ビールですし」

 グラスの半分くらいを一気に飲めば、喉が熱くなって頭がふんわりする。
 そもそも酒に強い方では無いから、これだけ飲めば十分。大丈夫、ちゃんと話せそうだ。

「さっきの……この人とのやりとりは見たでしょう?私が女王様になったのは、それがきっかけよ」

 合間に隣でウイスキーを嗜む賢太の補足を挟みつつ、千花はこれまでのことを4人に話す。
 その苛烈な嗜虐嗜好こそおおっぴらにしなかったが、虐待が原因で目覚めた性癖に苦しみ、それを少しでも和らげるために時間を見つけてはこの店で女王様として働いていた事をとつとつと話せば、それまで静かに千花を見つめていた教授の瀬口が「そうか」と口を開いた。

「いや、全く気付かなかったね。二足のわらじは大変だったんじゃ無い?」
「そうですね、けど、もうこれが無いと……壊れてしまいそうでしたから」
「ふむ……そうだね、一概にCHIKA君だけを責めるわけにはいかんね」

 そう頷きながら、チラリと見やるのは、床に転がる父の姿。
 全く、塚野先生も酷いことをなさると嘆息し、しかし残念だけどと千花の方に向き直った。

「一応、大学病院の医師に兼業は認められていないからね。確かに一切の金銭のやりとりは無かったから法的には問題は無いけど、流石にこの店は……いや、店を貶める意図ではないけどね、倫理的な問題があるから」
「……そうですよね。すみませんでした」
「ああいや、そんなに深刻にならなくてもいいよ。心情は理解できる。……ただ、私は教授だからね。これまでおいたをした医局員を散々僻地に飛ばしてきた以上、特別扱いするわけにはいかない」

 だから、最短の日程で退局という形を取ってもらう。
 その代わり、ここで働いていることは私たちだけの秘密にするから、と彼らは互いに顔を見合わせてうなずき合った。

「……それで、いいんですか」
「もちろん。事情が事情だというのもあるけれど、君はこれまで医局に十分貢献してきてくれたし、そもそも来年の春には辞める予定だっただろう?それが家庭の都合でちょっと早まったと言えば誰も文句は言わないさ」
「第一、僕たちもこんなところに来た負い目があるからねぇ!いや、凄い世界だね。塚野先生に聞いてどんなもんかと3次会に選んだんだけどさ」
「ああ、やっぱりこの人が原因ですか……」

 彼らの事情を話してくれたのは助教授の井芹だ。
 いつも通り、納涼会の3次会は4人でキャバクラに突撃しようと近くの歓楽街を歩いていたところ、偶然千花の父と出会ったらしい。
 事情を話せば「それなら折角ですし刺激的な店に行きませんか?少し遠いですけど私、車出せますから」と誘われたのだそうだ。

「なんでもこの店には凄腕の女王様がいて、ちょっと隙を見せればあっさりMに転落させられるらしいって……ん?もしかしなくてもそれ」
「…………ええと、多分私のことです……」
「多分じゃ無くて間違いねぇな!先生方、CHIKAはここに入った当初からうちの看板女王様ですよ」
「「「えええええ」」」

 その事実に引き気味な男性陣を見て、まぁこれが普通の反応よね、と千花は寂しそうに笑う。
 分かっている、こんな歪みは世間ではとても認められるものでは無い。だからこそここには物見遊山の一見客よりも、ひとときの安らぎを求めた変態紳士達が多く集うのだ。
 特にこの店は、賢太が半ば千花のために拵えた宿り木だ。同じような悩みを持つ者がやってくるのは必然だろう。

 そんな千花の様子に気を遣ったのか、井芹が「それはそうと」と話題を変えようとする。
 ……残念ながらその話題は、むしろ沼への入口だったのだが。

「こんな遅くまで働いて、旦那さん……いやまだ彼氏か、彼は大丈夫なのかい?」
「あ、ええ。というか彼はここで働いてますから」
「ほう、そうだったの。今日は非番?」
「え、っと……」

 ここは流石に誤魔化すべきだったと思うけれど、復讐を遂げた高揚感と酒に酔った頭じゃその反応は無理だった、そう千花は後に語っている。

「その……あそこに」
「あそこ?ステージ?…………特に誰もいないけど」
「あーその、先生方、ステージの端に黒いヒトイヌ……って言ってもわからないか、黒いものがあるでしょ?あれが千花の奴隷、じゃなかった彼氏です」
「ひと、いぬ……?」
「奴隷……」
「あれ、人間だったの!!?」

 情報量が多すぎるよ!と叫びながらもすっかり酒が回っていい気分な4人は、いそいそとステージに上がっていく。
「もう!賢太さん喋りすぎ!」と叫びつつも、千花も慌てて彼らの後を追いかけた。

「ほおお、なんだかつるつるした素材だね。これは特殊な服?」
「ちょ、井芹先生私の奴隷に気安く触らないでください!それはエナメルラバーのキャットスーツです」
「尻尾まで付いてるんだ……ん?これ、尻尾は肛門に刺さって……へえぇこんなに肛門って広がるんだぁ……」
「いやああああお願い福栄君、私がやったことだけどいちいち実況中継はしないでえぇぇっ!」
「これ、ただのマスクじゃ無くて何か咥えさせてるのか。あーずっと呻いているね。これは彼、気持ちいいの?CHIKA君はこうあって楽しむのが好きなのかね」
「きっ、気持ちよすぎて辛いんだと思いますよ……ええもう!!そうですよ!男の人権を剥奪して、苦痛を与え嬲りながら完全管理するのが性癖ですよ!!これでご満足ですか、瀬口先生っ!!」
「千花落ち着け、誰もそこまで暴露しろって言ってねぇから!」

(んぅぅ……なんなんな、この地獄絵図……)

 どうやら自分は、知らない男性に取り囲まれ実験動物のように弄くられ、千花は涙声で自ら性癖を暴露し、それを賢太が必死で宥めている、らしい。
 長時間の拘束でふらふらになりながら、しかしフレームのお陰でその場にへたり込むことすら許されないハルは、その惨状を掠れかけた意識の中ぼんやり聞き取っていた。

(けんど……ご主人様はもう、自由になったんや……)

 目を覆われているから、詳しい状況までは分からない。
 けれど、恐らく千花は長年自分を苦しめてきた、父親の支配という鎖をようやく断ち切れたのだろう。

 その代償はどれほどのものになるのか、今の自分には判断が付かない。
 ただひとつだけ言えるのは、これでようやっと千花が、己の大切に思うものを大切にできるようになったという事実。

(……ご主人様、嬉しそうや)

 このラバーの向こうでは、井芹と呼ばれた男性が「これ、気持ちいいのかな?CHIKAさん、ちょっと僕にもしてみてくれない?」とこれまた酔った勢いでとんでもないことを言い出し、千花は千花でその性癖を曝け出した興奮と酒によって、がっつり理性を暴走させている。

「良いわよ、折角だからヒトイヌに加えて私の鞭も味わっていきなさいな」
「おお、格好いいねぇ!じゃあ、お願いしますよ『CHIKA様』」

 ……ああ、あれは間違いなく上司相手に女王様モードに入ってしまっている。
 最近では新規を落としても荒れることは無くなったけど、流石に上司ともなれば話は別だろう。
 うん、明日の餌は頑張って喉に送り込もう、そう密かにハルはラバーの中で覚悟を決める。

「おおぅ、痛いっ!っ、痛いとこを優しく触られると、何だか変な気持ちになるねぇ……」
「あら、井芹先生もしかして素質があるんじゃ無いですか?……マゾブタの、ねっ!」
「うおおっ!!ははっ、こりゃまた面白い、実に面白い世界だね……!」

 こうしてまた一人、有能な女王様の虜になった男性が出来上がり。
 途中で気がついた賢太により、密かにバックヤードで拘束を解かれ布団に寝かされていたハルは、案の定酒が抜けた途端に「やらかした……准教授相手に何てことを……!」とがっくり落ち込むご主人様を宥めつつ帰途につくのだった。

 ――床に転がされていた哀れな男は、朝になり話を聞いて駆けつけた樹による顔面を活かした『話し合い』により「これは自分が望んだことです、楽しい体験をありがとうございました!」と土下座して逃げ帰ったそうな。


 …………


 それから、一月が経った。

 教授達の配慮により円満に退局となった千花は、すっかり自由を謳歌していた。
 朝から晩までハルを甚振り、夕方になれば毎日のように女王様として『Purgatorio』で鞭を振るい高笑いを上げる充実した日々を送っている。

「いやぁ、連日CHIKA様がいらしてくれるなんて、僕らマゾブタたちは大歓迎ですよ!」
「それはスタッフも同じよ、お陰でCHIKAさんが指導してくれる機会も増えたし、もっとあんた達を楽しませてあげられるようになるからね」
「そりゃ頼もしい!オーナー、この店も安泰だね!」

 うん、まあ、それはそうなんだけどな……とカウンターの向こうから答える賢太は浮かない顔だ。
 何か問題が?と問えば「いや、その流石に千花にちゃんと給料を払わねえとさ……」と難しい顔をする。

「えー、そこで出し渋るんですか、オーナー?」
「違うっての!俺は払うって言ってるのに、千花が受け取らないって聞かねぇの!!」
「心配しなくても暫く食べていくくらいの蓄えはあるし、10年間は生活保障されてるようなものだし、バイトでも探せばなんとかなるわよ。知ってるでしょ?医者のバイト代、どんなに安くたって日給5万くらいは余裕なの」
「もうやだこの金銭感覚ぶっ壊れお嬢め!!そういう問題じゃねぇの、俺が納得できねぇってんだよ!」


 …………


 結局、千花は塚野家から絶縁された。
 父が母にどのように伝えたのかは知らない。だが「もうあなたとは親子ではありませんから」との短いメッセージの後、母からは着信拒否とブロックをされている。

 その後「話がある」と呼び出され千花は賢太とハルを連れて指定された店へ向かう。
 遅れてやってきた父は、個室に入るなり一通の権利書と念書を出してきた。

「……これは?」
「あの店の近くにあるタワマンの権利書だ。お前の名義で購入してある」
「はぁ?」
「それとこれは……無職になってそのまま路頭に迷われては困るからな、生活費の支払いについての覚書だ。10年間だけ、毎月振り込んでやる。当面お前と彼が二人で暮らしていくには十分な金額があるだろう」

 勘違いするな、これは手切れ金だと語気を強める父の、しかし視線はどこか怯えたようにあちこちを彷徨っている。

「あのようないかがわしい経歴を持つものを跡継ぎには据えられん。全く塚野家の面汚しが……だが、私とて鬼では無い。だからこうして情けをかけてやるのだ」
「ふぅん、そんなにお母様にバラされたくないんだ。……いいの?そんな生意気な口をきいて。今すぐお母様にあの日の写真を送りつけても良いのよ?」
「っ、そ、それだけは……!!」

 とたんに泣きそうな顔になる父に、ああ、何でこんな男にこれまで怯えていたのだろうかとあらためて情けなくなる。
 けれどそれも、あの日の反逆があったからこそ思える話だ。

「いいわ、そこまで言うなら受け取ってあげる。どうせこのお金だってお母様には内緒なんでしょ?」
「……頼む、それも手切れ金の内容に」
「はいはい、精々私を悪者扱いして粋がってればいいわ」

 話はもう終わりね、と千花達はすっと席を立つ。
 何かを言いかけてしかし口を噤んだ父に「ああ、そうだ」と千花はにっこりと……ぞっとするほど妖艶な、そして蔑むような笑みを父に向けた。

「二度と私たちと『Purgatorio』に近づかないで。あんたのようなゴミクズはこちらから願い下げよ」


 …………


「……てわけで、取り敢えず金銭的には困らないからこっちは今のままで良いわよ、もはや生きがいみたいなものだし」
「ぐぅ……絶対受け取って貰うからな……!」

 カウンターに群がり『生活保障』の内容を聞いたギャラリーは「流石有名美容外科の院長だけはある」「てかCHIKA様実家太すぎ」とざわついていた。
「でも、CHIKA様はそれでいいんですか?」と常連の一人が千花に問いかければ「まぁ心情的には色々思うところはあるわよ」と千花は苦い顔をする。

「あるけどね、これまで被ってきた被害の慰謝料だと思って受け取ることにしたの。とはいえ頼りっぱなしは癪に障るから、バイトは見つけるけどね」
「だからうちが払うって」
「賢太さんに払わせられる訳がないじゃ無いの」
「何でそうなるんだよ!!」

 ああまた押し問答が始まったぞ、と常連客が野次馬モードに入ろうとしていたその時「おうおう、今日も元気で何よりだねぇ」と一人の紳士がカウンターに腰掛ける。

「お、先生また来たんだ」
「いやぁすっかり癖になっちゃってね!ここで楽しんだ次の日は調子もいいんだよ」
「先生、うちはマッサージ店じゃねぇんですぜ」

 ニコニコと微笑みながら賢太が差し出した焼酎片手にご機嫌な変態紳士に「いいんですか、それで……」と千花は複雑な面持ちだ。

「井芹先生、こんなところに出入りしていることがバレたら、来年の教授戦に影響しません?」
「んー、影響したらしたときだねぇ。もうこの歳だし、良い機会だから民間に就職してのんびり余生を過ごすのもいいかもしれないね」

 そう、あの夜の体験ですっかり目覚めてしまった井芹は、以来何かと理由を付けてはこの店に入り浸っている。当然のごとく、あの日一緒だった3人の了承を得た上で、だ。
 ……いや、それは正確ではない。この好奇心の塊のような准教授は、例え教授が渋い顔をしたところで引くわけが無いから了承せざるを得なかっただけだと、千花は密かに思っている。

 確かに井芹本人が言う通り、千花のことが心配なのもあるだろうが、その目的の8割くらいは自分のお楽しみの為なのはバレバレだし、本人も全く隠す気がない。
「今日はパドルやるんでしょ?楽しみにしてるよ」とかつての上司に嬉しそうに言われるこの複雑な気分は、どうしたものか。
 内心複雑な想いをいだきつつも、そこはプロである。柔やかに「ええ、しっかり躾けてあげるわ」と微笑みつつ、フロアも落ち着いているのだろう千花はカウンターに腰掛けた。

「……ところで、CHIKA様にいい話を持ってきたんだけどね」
「いい話、ですか?」
「うん、これ」

 そう言うと井芹はすっと1枚の紙を千花に差し出す。
 その内容をざっと眺めた千花は「え、ちょっと先生!?」と思わず素っ頓狂な声を上げた。

「これ、先生が持ってたバイトのひとつじゃ無いですか!?しかも一番条件のいい日勤バイトだって言ってた病院!」
「そ。僕も教授戦の絡みで色々忙しくてね。信頼できる先生に引き継ぐって話を付けたんだ。だから引き継いでくれるよね?」
「えええぇぇ……」

 週2日、日勤のみ、外来と手術はあるが1日15万。
 破格の条件に千花の目が点になる。
 横から覗いた賢太や常連達も「うっそだろ」「何この額」とぽかんとしている。

 なに、こんなことしか僕らは出来ないからね、と千花を見つめる井芹の瞳は、まるで娘を見つめるかのような慈しみを湛えていた。

「こんなこと、って医者ってのは辞めた人間にまでここまで世話を焼くもんなんすか?」
「うーん、他の業界を僕は知らないからよく分からないけどね。医者ってだけで何となく先輩は後輩に世話を焼きたがるもんなんだよ。まして、10年以上同じ医局に所属していれば……医局にもよるだろうけど、うちみたいな小さな医局はもう家族みたいなもんだから」
「井芹先生……」

 それなら、お父さんのお金に頼らなくても、ここで給料を貰わなくても生きていけるだろう?
 そうにっこりする井芹に、この人には叶わないなと千花は心の中で舌を巻く。


 いつだったか、彼に吐露したことがある。
 もっと早く父にこの性癖を暴露していれば良かったという後悔の言葉を。

「絶対に理解されないと分かっていたんです。でも……分かっていたなら、これを口実にさっさと縁を切れば良かったんですよね。そうすれば、ここまで傷を引きずることも無かったかも知れない」
「うん、そうかもねぇ」
「……でも、隠し通したのは……受け入れて貰えないと思ったからだけじゃない。ここまで虐げられてきて、何の見返りも無いままだなんてあまりにも酷いじゃ無いかと……結局私は父の資産目当てに、自ら自由になる選択肢を封じたんです」
「そうだねぇ……せめてお金で償わせたい、その気持ちは分からなくも無いよ」

 卑しくて浅はかな考えでしたと俯く千花に、井芹は「でも、もう終わったことだよ」と前を向いたまま返す。

「もう先生は、おっとここじゃCHIKA様だったね、君は自由になったんだ。いたずらに過去を振り返って、自分を責め続けるのは止めなさい」
「先生……」
「やっと君は、子供時代のマイナスを精算して原点に立てたのだから……君が見るべきは未来と、その未来を共に作っていく人たちだけだよ」
「…………そう、ですね」


 きっと彼は、これからの人生に何の憂いも残さずにすむよう、わざわざこの仕事を譲ってくれたのだ。
 父の金にはどうしたって後ろめたさがつきまとうし、女王様はライフワークとして金銭以上のものをずっと受け取っていると、千花が強く感じているのを慮ってのことだろう。

「ありがとうございます。先生の後釜が私に務まるか不安ですけど」
「大丈夫、君の腕は良く分かっているからねえ」

 ぺこりと頭を下げて、千花はその紙を受け取った。
 隣では「そう言うことだから、オーナーは気に病まなくていいよ」と井芹が賢太を説得している。
 賢太も内心思うところはありそうだが、千花のためと言われてしまえは引き下がらざるを得ないようだ。

 そんな彼らを眺めながら、千花はつくづく思うのだ。
 不満を抱えつつも父の駒として歩む人生に決別し、本当の居場所を失わずに済んで本当に良かったと。

(そう、思い返せば酷い子供時代だった)
 あの頃は、どこの家も同じようなものだと思っていた。
 自分の家族がおかしいこと、それが虐待と呼ばれるものだと自覚するまでには、大学に入って芽衣子達のサポートを得てすら数年を費やした。

(けれど……今、私は優しい人たちに囲まれている)

 もちろん、負った傷の全てが癒えた訳では無い。
 父への反逆により復讐を果たしても、この歪みが真っ直ぐになるわけでも無い。

 それでも自分は、友に、仲間に、上司に恵まれた。
 そして何より……自分は生涯を共にする愛しい奴隷をこの手に掴めたのだ。

(そう、それで充分。私の人生は幸せよ)

 だから、千花は今日も鞭を振るう。
 彼女を支えてくれた賢太とこの店に関わる人たちへの、ささやかな恩返しとして。

「ところで今日の奴隷君はどうなっているんだい?」
「あ、先生、今日は玄関に飾ってあったマミーですよ!」
「なんと!あんなこともするのかい?いやぁこの世界はいろんな趣向があって、本当に飽きないねぇ!いい老後の趣味が出来たよ!!」
「……先生みたいな全方向に貪欲すぎるマゾブタもなかなか珍しいですわよ。来月マミーイベントをやりますから、是非どうぞ」
「おお、それは……ああこの日は長めの手術が入っていたね、ちょっと別の日と替えてもらおう」
「「そこまでやるんかい!!」」

 全くもう、と笑いながらも千花はいつものパドルを手に取ってステージに上がる。
 そうしてスタッフと共にかつんとヒールを鳴らし、背筋を伸ばして声を張り上げるのだった。

「さぁ、私たちに叩かれてブヒブヒ喜びたいマゾブタは、ステージにいらっしゃい!」


 …………


 サァァ……と流れるシャワーの音に混じるのは、くちゅくちゅと粘ついた粘液混じりの音と、可愛い奴隷の嘆く声。

「うあぁっ、はぁっ、んっいぐっ……」
「ふふ、ざーんねん。あはっ、そんなにおちんちんをぷるぷるさせちゃって、無様ねぇ……!」
「うああぁぁ!!出したい、せーえき、出したいぃ!!ご主人様っ、ご主人様ぁっ!!」

 後ひと擦り。
 ひと擦りあれば、記憶の中に焼き付けられた、あの尿道を駆け上がる開放感に満ちた快楽に浸れる。
 しかしそのタイミングでパッと手を離されたハルは、ガチャガチャと拘束具を鳴らして虚しく腰を振りたくりながら慟哭することしか出来ない。

 あのプロポーズの日以来「もう結婚するんだから、減る心配もないでしょ?」と千花は毎日ハルと共に風呂に入るようになった。
 ……まぁ、当然ながら貞操具を外されたハルは風呂場のフックに手足を縫い止められ、毎日千花の柔らかい身体を全身で感じつつ、元気になった息子さんを限界まで寸止めされては玉責めと氷水で無理矢理大人しくさせられることになるのだが。

 店から徒歩で10分、臨海都市に立つ高級タワーマンションの27階、そこが千花達の新居だ。
 全体的に色々広くて豪華な3LDKに、広いバルコニーまで付いたいかにもお高そうな部屋に、最初のうちこそ「あわわ……こ、こんなお屋敷に住むだなんて……!」と目を白黒させていたハルも、2-3日もすれば今までと変わらない、つまり自由に動けるのはリビングだけの生活にすっかり馴染んでいた。

 大の大人が二人で入っても余裕のあるバスルームのみならず、部屋のあちこちにはリフォームにより頑丈なフックが取り付けられている。
 室温は常に全裸で過ごすハルに合わせて調整され、新たに作られた『保管庫』という名のハルの寝室は掃除のしやすさと寝心地を考え、床暖房付きのクッションフロアが張られている。

 この家の全てが、ハルのためにある。
 その事を目の当たりにしたとき、どれだけ自分が奴隷として大切にされているかを突きつけられたハルは、その場に土下座し感激に咽び泣いたという。

「ふふ、喜んで貰えて何よりね。防音もしっかりしているから、これまで以上にいっぱいハルの泣き叫ぶ声を堪能できるわ」
「ひぃ……ありがとう、ございますぅ……ハルも嬉しいですっ……!」
「そう、良い子」

(ううぅ……ほんでも、自分のことを『ハル』って呼ぶのは慣れんなぁ……)

 くしゃりと頭を撫でる手の暖かさを感じながら、ハルは心の中で独りごちる。

 ここに越した日から、ハルは一人称を名前に変更させられた。
「だってハルは人間以下の家畜なのに、自分のことを『僕』なんて呼ぶのはおかしいじゃない?」と、まるで幼子のように自らの名前を呼ぶようにと命じられたのだ。
 うっかり『僕』なんて口にしようものなら、電撃のお仕置き付きである。本当にご主人様は容赦が無い。

 そう、毎日の洗浄も以前より嬲られる時間は大幅に伸びた。
 一応のぼせないようには気を遣ってくれているけれど、あまりの辛さに半狂乱になって雄叫びを上げるまで、許してもらえないのが日常となっている。

「ふふっ、もうシャワーが当たっただけでも出ちゃいそうねぇ……で?どうするんだっけ?」
「ひぐっ……ご主人様っ、ハルのおちんちんをちっちゃくしてくださいぃ……!」
「おねだりできていい子ね。じゃあ氷水を取ってくるわ」

 洗浄が終わり無理矢理貞操帯を戻されれば、身体を洗い終わった千花と二人で湯船に浸かる。
 千花は必ずハルを抱えるようにして座り、耳元で「気持ちいいわね、ハル」と囁きながらすっかりぷっくり腫れ上がった胸の飾りを執拗に弄るのだ。

 そう、背中には千花の豊満な胸の感触があって。
 お尻の向こうには千花の股間があって……

「うぐ、いだいっ……」
「ふふっ、最近は随分檻の中で大人しくなっていたのに、やっぱり雄の本能っていいわねぇ。ほら、ハルの大好きなおっぱいよ?なんなら顔でも埋めてみる?」
「ひいぃ……っ、ご主人様、それは反則ですぅ……ひぐっ、出したいいぃ……」

 湯船の中で腰が勝手にカクカクと震える。
 きっとこの後はまた寸止め動画を一緒に見ながらペニバンを扱かされるのだ。
 起きている限り、絶対に射精欲からは逃さないという千花の強い意志を感じて、ハルの瞳からぽたりとまた涙がこぼれ落ちる。

 けれどその光景すら……その絶望の一滴すら千花にとっては甘露であると知っているから、ハルはいくらだって涙を流せるのだ。

(そう、僕はもう、ご主人様無しには生きられん)

 夏休みに合わせる予定だったハルの実家訪問は、千花が医局を離れたことによりお盆明けに前倒しとなった。
 来週、ハルは千花と共に、実に6年ぶりに田舎へと帰省する。

 そして……それはきっと、ハルの人生における最後の里帰りとなる。

「……ご主人様……んふぅ……」
「なぁに?ああ、あんまり弄るとのぼせちゃうかしら」

 相変わらずくにくにと乳首を転がされる感覚に喘ぎながらも、ハルはあの千花の反逆の日以降、密かに心に決めていた言葉を口にした。

「ご主人様。ハルは……ご主人様との関係を全部、両親に話そうと思うんです」と――


 …………


「……本気なの?」

 耳元で囁かれ、背筋がぞわりとする。
 うっかり甘い声を上げかけたのを必死でかみ殺し「ご主人様にお許しいただけるなら」と続ければ「怖くないの?」と不安そうな声が返ってきた。

「うちはまぁ……最悪のバレ方をしたから比較は出来ないけど、それこそ勘当なんて話になったら」
「それはうん、ありえると思います。うちの両親はど田舎のパセリ農家ですし、この世界の事なんて全然知りませんから、多分反対されて受け入れて貰えないです」
「それなら、なんで」
「……それでも、ハルは何にも悪いことをしていないですから」

 だから、隠したくない。
 頭を下げて謝らなければならないような関係など、自分は築いていない。

 愛する人を幸せにしたくて、人であることを辞めた。
 涙を流さない日は無い。痛くて、苦しくて、泣き叫ばない日は無い。
 それでも自分は幸せだと、胸を張って言える。

「だから、僕は全てを話して、それで……ご主人様の奴隷になれてとても幸せなんだと、ちゃんと両親に伝えてきます」
「……そう」

(……きっと、よいご両親なんだろうな)

 普通の親なんて、千花にとってはおとぎ話の世界の話だ。
 だからハルの両親が世間一般で言う普通の家庭かどうかはよく分からない。

 ただ、これほど歪んだ関係を伝えることをハルは躊躇わない。
 そしてその歪みを持ってして堂々と幸せだと宣言できる、それだけの信頼を置ける関係を築いた彼が、ちょっと羨ましい。
 ……それは、幼い自分が心から渇望して、決して得ることの出来なかったものだから。

「……それは、殴られる準備くらいはしておいた方が良いかしらね」
「へっ、この場合殴られるのはハルじゃないですか……?」
「あのねぇ、ハルをここまで堕としたのは私なのよ。当然私が矢面に立つわよ!大丈夫、顔面骨骨折なら準緊急扱いだし、とっとと戻って井芹先生に頼み込めば手術も」
「あわわわわ!ご主人様物騒が過ぎますうぅぅ!!」

 真っ青になるハルを「心配しなくてもいいわよ、ハルが思うようにやんなさいな」と撫でつつ、千花は夜の調教の準備をする。

(にしても、ど田舎、かあ……)

 首都圏で育ち、旅行と言えば修学旅行で行った海外と医局旅行で行った近くの温泉地くらいしか知らない千花にとって、田舎というのはちょっと想像が付かない世界だ。
 ハルと最初で最後の旅行、実はちょっとだけわくわくしているのは内緒である。

「ふふ、ハルが生まれ育った場所なのよねぇ。どんな感じなのかしら……」
「あーうん、あんまり期待しない方がいいですよ、本当に何も無いですから」
「そうなの?でも何も無い贅沢ってのもあるって言うじゃ無いの」
「う、うん、まぁそうなんやけど……」

(……多分、ご主人様はほんまに田舎を知らんのやろな、これは……)

 嫌な予感はしつつも、すっかり盛り上がっている千花に水を差すのもなぁ、とハルは口を噤むことにしたのだった。


 …………


「ねぇ、ハル。何で預け入れ荷物と一緒にうどんが流れてるの……?」
「気にしないでくださいご主人様、ここの人たちの身体はうどんで出来ていますから」
「ハルが言うと冗談に聞こえないわね……」

 飛行機で1時間、地方の小さな空港にたどり着いた二人を出迎えてくれたのは、ハルの上の姉である莉子夫婦だった。

「あ、おった。莉子姉ちゃん、ただいまー!」

 姉を見つけ満面の笑みで駆け寄るハル。実に7年ぶりの再会だ。
 しかし当の莉子はといえば、最初こそハルに手を振っていたものの、一緒に歩いてくる千花の姿を見た途端目を真ん丸にして「へっ」と凍り付いてしまっていた。

「元気にしよった?って、姉ちゃん何で固まっとるん……?」
「…………晴臣、あんた……ちょ、ちょっと待ちまい!どういうことな!!」
「ん?」
「あんた、一人で帰ってくるんちゃうかったんな!?」
「……あ」

(ちょっと待ってどういうことハル!?)
(うああああごめんなさいご主人様、そう言えば一緒だって伝えてなかったですうぅ!!)
(あんたねぇ!よりによって一番大事なとこじゃないのそれ!!)

 ごめん、彼女と一緒だって伝え忘れてた、とにっこり笑って誤魔化そうとするハルには……当然のごとく「このあほたれがあぁぁ!!」と空港中に響き渡るような大声と、莉子のコブラツイストが炸裂するのであった。

「もう!ほんまにあんたは!!東京に住んでちっとはしゃんとしたかと思とったのに、ひとっつも変わっとらんやん!!」
「うぐぅ……ごめんて、姉ちゃん……」
「すみません莉子さん、ご迷惑を」
「ああ!ええんですよ千花さんは謝らんで!全部晴臣が悪いんやけん!」

 莉子の夫が運転する車で、ハルの実家へと向かう。
 ハルの実家には今、両親と長女である莉子夫妻とその子供、そして次女の結奈が同居しているそうだ。

「ごめんな千花さん、お客さん来るって分かっとったらちゃんと準備したのに。今ばあちゃんが急いで掃除してくれよるけん」
「いえ、そんなおかまいなく」
「まぁ田舎のぼろっちい家やけん、あんまり期待せんといてな。って泊まりよな!?いかん、シーツも洗わんと!」

 いかにも肝っ玉母ちゃんという感じの豪快な女性に、千花もタジタジである。
 そっとハルに「ハル、お姉さんってもう一人いるって聞いたけど」と尋ねれば「あ、ええと……まぁ姉二人いる弟なんてだいたいおもちゃですよ、おもちゃ」と乾いた笑い声が返ってきた。
 なるほど、気弱ながら女性の扱いが上手いと感じるのは、この姉に徹底的に仕込まれたからだなと千花は心の底から納得する。

(にしても……どこまで行くんだろう)

 空港を出てから1時間もは経っていないはずだ。
 空港の周りも見事に何も無かったが、それでも途中には道路脇に店が軒を連ねていたのに、脇の細い道に曲がった途端、その気配すら消えてしまう。

 さっきから眼前に広がるのは、広い空と、一面の田んぼや畑と、お椀をひっくり返したような山。
 そして川……とさっき看板が出ていた気がする、一段下がったところで草が生い茂った中を縫うような細い水の流れ。

 そして田んぼの中にぽつんと数軒連なる集落。
 そんな中に立つ一軒家に「着いたよ」と車は停まった。

 車を降りれば、うだるような暑さの中シャアシャアと賑やかな蝉の声が耳をつんざく。
 コンクリートの建物などひとつも見当たらない。

「…………なるほど、ど田舎、ね……」
「……やから言うたでしょ?本当に何も無いって」
「ええ、今理解したわ……ちなみに聞いて良いかしら?この辺りに店は」
「あ、車で10分も行けばコンビニもスーパーもありますよ、バス停も!」
「待って」

(あ、歩いてコンビニに行けない、ですって……!?それにバス停まで車で行く!?田舎というか、秘境!?秘境なの、ここ!!?)

 これはとんでもないところに来てしまった、と佇む千花を促し、ハルは久しぶりに家に足を踏み入れ、当然のごとく家族の手荒い歓迎を受けていた。

「ただいまぁ、ってちょ、結奈姉ちゃん顔が怖いいぃぃ」
「怖いぃぃ、ちゃうわ!!ほんまごめんな千花さん!うちのあんぽんたんのせいで気ぃ使わせて」
「あ、え、うん、大丈夫です」

(な、何だか随分賑やかなご家庭ね……普通の家ってこんなものなのかしら)

 目の前で繰り広げられる掛け合いにポカンとしていれば、まぁ上がって、と座敷に通される。
 随分古い建物なのだろう、欄間がある部屋なんて初めて見た、としげしげと眺めていると「どうぞ千花さん、お口に合うとええんやけど」と結奈がお茶を持ってきた。

「あ、懐かしなぁ。僕これ好きやん」
「そうなの?というかハル、ここに帰ってから微妙に訛ってない?」
「あはは、つい引きずられるんですよ。ほら、こっちのかぼちゃ餡のがおすすめです」

 はい、とハルに渡されたお茶菓子を頂く。
 しっとりしたパイ生地の中に詰まっているのはかぼちゃの餡とくるみだ。
 確かにクリーミーなのにどこかあっさりしていて、いくらでも食べられそうである。

「美味しい」と思わず呟けば「良かったぁ」と結奈もほっとしたような笑顔を見せた。

「東京やともっと洒落たもんがようけあるんやろうけど、こんなんでごめんなぁ」
「いえいえ、とんでもないです」
「結姉ちゃん、ほんで親父とお袋は」
「あー、さっき二人が立てっとったんを車で通った人が見とってやな……引っ返してきて捕まっとる」
「ああ……まぁそうなるわな……」

 あちゃー、とハルは額に手を当てて天を仰ぐ。
「田舎やけん、ちょっとしたことがすぐ噂になってしまうんです、すみません」と申し訳なさそうに謝るハルの声と被って、玄関の方から恐らく両親と近所の人だろう、大きな話し声が聞こえてきた。

「こんにちはぁ、後にはありがとござんした」
「どちらいか。ほんだけんど姉さん、あれどしたんな!あんなまたシュッとした美人さん、晴臣ちゃんのお嫁さんなぁ?」
「ほれがだ、私らも知らなんでだぁ。ま、とんりゃえず話してみんとなぁ」
「ほうでかー……」

(え、は、ちょっと!?ハル、ここ日本よね!!?何か謎の言葉がいっぱい混じってるんだけど!?標準語通じるわよね!)
(落ち着いてくださいご主人様、じゃなかった千花さん!大丈夫です、標準語は通じるし東京の人と話すときはもうちょっと分かりやすく話しますから!大体僕の言葉、ちゃんと通じてるやないですか!)

 方言と言えば近隣地域の訛りや東北弁くらいしか馴染みの無い千花にとって、どうやら四国の田舎言葉は相当衝撃的だったらしい。
 確かにこの地方の言葉を耳にする機会なんてまず無いよな、と動揺する千花を宥めていれば「待たせてごめんなぁ」と年配の夫婦が入ってきた。
 慌てて千花は立ち上がる。

「初めまして、塚野千花です」
「晴臣の父です、遠いとこ来てくれてありがとなぁ」
「何もないとこやけんど、ゆっくりしていた」
「あ、はい、ありがとうございます」

(あ、『いた』だ……本当に使うんだ……)

 変なところに感心していれば、ハルがえへん、と咳払いをする。
 そうして、ちょっと緊張した面持ちで口を開いた。

「ええと、親父、お袋、いきなりやけんど僕な、こちらの……千花さんと結婚するけん」
「うん、いきなりすぎるけどまあほうやろな。ほんで、千花さんは何しよる人なんな」

「えと」と口を開きかけた千花を、ハルが制する。

「……千花さん。僕が説明するけん」
「…………分かったわ」

 いつもへにゃりとした笑顔でどこか頼りなさを感じさせるハルの顔が、大人びて見える。
 そんな様子に両親と姉もただの報告では無い事を感じ取ったのだろう、すっと真剣な顔になり座り直した。

(大丈夫や。ご主人様がおる。僕は……ちゃんと幸せやって伝えるんや……!)

 すううう、と大きな深呼吸をひとつ。
 そしてぐっと唇を結び。

「あんな、多分訳分からん話をすると思うんやけど、取り敢えず全部聞いてな」

 ハルは最初で最後の大舞台の幕を切ったのだ。


 …………


「……と言うわけなんや。やけん、僕もうここには戻って来れん」
「あ、えっと連絡まで制限するつもりはありませんから、やりとりはこれまでと変わらずしていただければ」

 長い、長い話が終わり、二人はふぅ、と大息をつく。
 あまりに素っ頓狂な話に突っ込みたいところもあっただろう、しかし母が突っ込みそうになれば「先に晴臣に話させまい」「お母さん、あかんって」と父と姉たちが制してくれて、何とか横槍も無く全ての話を終えた。

 ……言うまでも無く、途中から部屋にやってきた莉子も含めて4人は困惑顔ではあるが。

「ええと、つまりやな」

 最初に口火を切ったのは、父だった。

「その、千花さんはお医者さんで、ほんで、えすえむ?の女王様で」
「晴臣は書類上は結婚して夫になるけんど、実際は千花さんの奴隷で」
「家からも出して貰えんで飼われる、と……」
「うんまぁそういうことや」

 これはどう反応していいのだろう、そんな表情の4人に「ほんでも」とハルは続ける。

「さっきも言うたけど、これは僕が望んだことや。ご主人様……あ、えと、千花さんは」
「ああもうええ晴臣、いつもの様に呼びまい」
「うん。ご主人様は何回も確認を取ってくれたし、ちゃんと書類で同意書も残してくれとる。最初に押しかけたんは僕やし、この関係は全部、二人の合意でできとる。ほんで……僕はいま、めっちゃ幸せやん。それだけは胸張って言えるけん」
「ほうか……」

 まぁ、色々聞きたいこともあるけど、まだ混乱しとるしちょっと食べながらにしよかと莉子が席を立つ。
 暫くして出てきたのは、いつぞやかの既視感のある物体だった。

 そう、大きな器に氷水と共にどでんと盛られた、うどんである。

 あ、冷やしうどんですね、と千花が言えば「千花さん知っとるんや!」と結奈はどこか嬉しそうだ。

「よその県ではなかなか見ん食べ方やのに」
「あ、随分前にハルが作ってくれました。お店のまかないで……」
「ああ、そうやった。あの時晴臣を助けてくれたんは千花さんやったんやな」

 ちゅるんとうどんを啜って目を見開き、思わず「え、美味しい!」と声が漏れた千花に「ほらよかった」とハルの母も上機嫌だ。

「あの時送ったんは半生やろ?これはさっき莉子がうどん屋で買ってきた玉やけんな」
「あ、ご主人様、玉ってのは茹でとるうどんのことです。今朝打ち立ての麺なんですよ」
「へえぇ!あのおうどんも美味しかったけど、これはまた全然違うわね!」

 にしてもハルの家族は食べるのが早い。
 ハルも大概早いと思っていたが、なるほどうどんは飲み物だったと妙に納得しつつ舌鼓を打っていれば「ほんで、聞きたいんやけど」とハルの母がおずおずと尋ねてきた。

「その、えすえむってのは一体どんなことをするんな?」
「あれやあれ、えっちい衣装着てお尻ペンペンするやつ!」
「鞭とか蝋燭とか使うんやろ」
「あ、えと、間違えては無いですねぇ……」

 なんだこの会話。ものすごい既視感を感じる。

「いやそれだけやなくて」と偉そうに語るハルだって、4年前まではこの程度の解像度だったんだよな……と千花はしみじみハルとの初めての出会いを思い起こす。
 命を諦めながら、冥土の土産にと店に間違えてやってきた彼は、そこまで追い詰められていても実に反応を見せてくれたっけ。

 あれから4年、心身共にすっかり奴隷に堕ちてしまっても、相変わらずリアクションの良さは健在なままだ。
 きっとその反応も親譲りなんだろうなと、ハルの説明に百面相状態で叫んでいる両親を見て千花は心の中でくすりと笑った。

 と、その時。
 くしゃりと顔を歪めたハルの母の瞳からぽろりとこぼれ落ちたのは、一粒の大きな涙。
 ――ああ、あの涙を流す姿は母譲りだったのか。

「ほんな……ほんな酷いことされるんかいな……!」
「お袋……」
「分かっとる、晴臣がそれがええんも、そうやってえすえむ?なことをされて嬉しいんも、千花さんとおって幸せなんも……ほんだけんど、母ちゃんはやっぱり理解できん……晴臣がそんな酷い扱いを受けるやなんて……かわいそうで……!」

 ああ、そうだ。これが普通の反応だ、そう千花は静かに母を見つめる。
 この歪みは、穏やかな世界で生きている彼らには決して理解できないもの。
 そうして彼らの理解の及ばないものに堕としてしまった張本人が、ここにいる。

(……1、2発は覚悟しなきゃね……)

 母のすすり泣く声が、部屋に響く。
 流石に母の涙には堪えたのだろう、ハルまで涙目である。

 けれども、ハルは謝らない。

(やって)

 ぐっと拳を握りしめ、真っ直ぐな目で家族を見つめて。

(僕は、ごめんなさいせないかんような事、なんもしとらんけん……!)

 だから、ただ一言きっぱりと、けれども精一杯の笑顔で彼らに宣言した。

「……大丈夫やお袋。僕は今も、これからも、ずぅっと幸せやけん」


 …………


 ハルの言葉に泣き崩れる母を抱きしめながら「千花さんは」と尋ねてきたのはハルの父だった。

「……その、この話をご両親にされたんな?それともこれから」
「あ、いえ。実はうちは……話す前にバレちゃって」
「なんとな」

 そうして千花は、事の顛末を語る。
 本当は全てを隠して結婚しようと考えていたこと、たまたま店に来た父親と上司にバレ、医局は名目上追放、親族からは絶縁されたこと。
 そしてそれを見たハルが「理解はされんと思うけど、自分は幸せだってことをちゃんと伝えたい」と今日のカミングアウトを申し出たことを。

 絶縁、という言葉に、姉二人が息をのむ。
「まぁその、うちは……元々ちょっと、な家族だったので」と己の受けてきた虐待の話をさらっと打ち明ければ、泣き崩れていた筈の母ががばっと千花の方を見つめた。

(あ、怒鳴られるかな)

 その真剣な眼差しに、びくっと身体が強張る。
 復讐を果たしようやく父の支配から抜け出せたとはいえ、長年染みついていた癖はそう簡単には消えない。

 次に来る怒号を千花は覚悟する。
 だがしかし、その予想は見事に裏切られた。

「……!!?」


 なんだ、これは。


 ハルの母が、涙を零しながらこちらにやってきたと思ったら、目の前が暗くなって。
 あたたかい、柔らかいものに包まれて。

 ぽたり、と頭に何かが落ちてくる。
 すすり泣く声が上から聞こえてくる。

「ほうなぁ……ほうな……よう、頑張って生きてきたんやな、千花さんは……!」
「……え…………」
「ほんな辛い思いしたけん、あの時、晴臣の辛いも分かってくれたんやなぁ……ありがとうなぁ……ほんまに、よう頑張ったなぁ……」
「あ……えと……」

 そんな反応、ちらりとすら頭によぎらなかった。
 一体どう反応すれば良いのか全く検討がつかず、千花は言葉に詰まる。

 そうしてただ呆然と、泣きじゃくるハルの母の胸に抱きかかえられていた千花だったが……いつの間にか自分の頬が濡れているのに気付いて。

(……ああ、お母さんって、こんなに温かいんだ……)

 知らない、ぬくもり。
 そうだ、自分はずっとこうやって抱きしめて貰いたかった。
 あの人達の望む成果を出せば何だって買って貰えたけれど、私が欲しかったのは、この温かな胸だったのだと気付いたとき、千花の中の何かがぷつりと切れて。

「うっ……ううっ……うわあぁぁん…………っっ!!」

 溢れ出した想いは、もう止まらない。
 まるで幼子のようにわんわんと泣きじゃくる千花と、これまた「えらかったなぁ、よう頑張ったなぁ」と声を上げて泣き続けるハルの母を、ハル達はただ、優しい眼差しで見守っていた。


 …………


「……すみません、お恥ずかしいところを」
「ええんで、私やっていっぱい泣いてしもたんやし」

 ようやく落ち着き、互いにどこか照れくさそうに話す二人に「まぁ良かった良かった」と周りはニコニコと微笑んでいる。
 晴臣まで「良かったですね、ご主人様」といい笑顔だ。きっと千花の心のわだかまりがひとつ融けたことに気付いたのだろう。

「……あらためて、やけどな」

 落ち着いたところで、ハルの父が話し始める。
「流石になぁ、理解はできんわ」とこぼす彼に「そう、ですよね」と千花は俯いた。

「何か怖そうな世界やしなぁ」
「うん、晴臣がまさか虐められて喜ぶような子やったなんて……小っちゃい頃にうちらで虐めすぎたんやろか」
「それはあると……ひいぃ姉ちゃん自分で言うたくせにいぃぃ!!」
「……それにな晴臣、もうここには来んほうがええ。お前も知っとる通りここは田舎や。普通の関係やないなんて、どこから話が漏れて噂が立つかわからんけんな」

 変に噂が立ったら俺らはともかく、孫が可哀相や。
 そう晴臣に忠告しながらも「ほんだら、これが会うんは最後なんやな」とどこか寂しそうな父に、つきりと胸が痛む。

(ああ、やっぱり理解はされんかった)

 結果なんて、分かっていたことだ。
 分かっていたってやっぱり辛いな、とハルは心の中で独りごちる。

 それでも、この温かい家族を失ったとしても、自分は愛するご主人様の幸せを取りたいと決めたのだ。
 だからせめて、ちゃんとこれまでの感謝は伝えよう。

 そう思って「親父、お袋」と口を開こうとしたのと、ハルの母が口を開いたのは同時だった。
 
「ほんで千花さん、どこに住んどるん?」
「へっ」
「晴臣もそこに住んどるんやろ?住所教えてくれるでか?あ、そうやメッセージアプリも交換しといて」
「あ、それ私らもする!お父さんもしとき」
「ちょっと結奈、お父さんに教えたら謎の絵文字連打の怪文書が届いて、千花さんが困るって!」
「ひどいなぁ、俺やってちゃんと文字も打てるんぞ?」

 わいわいと我先にスマホを出してくる家族達に「ええと、あ、はいっ」と戸惑いを隠せないまま、千花は彼らと連絡先を交換する。
 ついでに「あ、おみかん食べるでか」とすかさずみかんの乗ったかごがすっとテーブルに差し出される。もう訳が分からない、分からないがみかんは頂こう。

「ええと、理解はできんし、来んといてって言うたやん……なんで……?」

 みかんを剥きつつも、ぽかんとした間抜けな表情でハルがぽつりと呟けば「ん?いや、理解はできんで」とこれまた母もぽかんとした顔になる。
 そして「あ、そういうことか」と得心が行ったらしく「心配せんでええ」とにこりと笑った。

「何な、晴臣もしかして勘当されるとでも思ったんな」
「え、やって、今の流れどう見たってそうやったやん!会うんは最後やって親父も言うたし!!」
「おう、会うんは無理やろ。いや千花さんが会うてええって言うんなら……いややっぱええわ、晴臣がそんな辛そうなことしよるん見るんは怖いけん」
「ほんだけんど、連絡はかまんのやろ?心配せんでもおうどんは送ったげるけんな!」
「はぇ」

 いよいよ訳が分からない、と言った風体のハルと、これまたどう反応して良いか分からず戸惑う千花に彼らは「つまりや」と口々にその想いを語る。

「うちらは結婚に反対はせん。晴臣が決めたことなんやしな」
「晴臣が幸せやいうんやったら、幸せなんやろ。まぁ一生掛かっても姉ちゃんには理解できんけんどな!」
「大好きな人と一緒になれるやなんて、晴臣はええなあ……あーあ、私もどこかにええ人おらんかなぁ……」

 理解できる日が来ることを、期待はしないで欲しい。
 ただそれでも自分達はずっと二人の家族で、味方だから。
 そう彼らは、迷いなく口にする。

「家族……」

(……ああ、そういう赦し方もあったんだ)

 やはりこの人達は、ハルの家族なのだと千花はしみじみ実感する。
 例え理解不能なものであっても、相手の幸せのためなら受け入れる事を厭わない、強くて優しい人たち。

(だから、私はハルに救われたんだ)

 愛しい奴隷を形作った原点が、ここにはある。
 そして……千花の知らない『家族』というものを見せてくれるのだ。

 きっと自分は今日の日のことを……初めて『家族』を知ったこの瞬間を生涯忘れないだろう。

「お義父さん、お義母さん、ここまでハルを育ててくれてありがとうございます。……歪んだ形ではありますけど、必ず幸せにして……添い遂げますから」

 そうぺこりと頭を下げる千花の瞳から、またひとつ温かい涙がこぼれ落ちた。


 …………


 穏やかな時間は、あっという間に終わりを告げる。

 次の日、朝から「もう最後なんやから、がっつり堪能しとき!」と晴臣のお気に入りのうどん屋を4軒はしごする羽目にこそなったものの、ハルの家族と過ごしたひとときは千花の心に小さな明かりを灯してくれた。

「えと、お義母さん、そろそろ……」
「だいじょぶだいじょぶ!田舎の空港やし、そこ抜けたらすぐ待合やけん!もうちょっとだけ待っとって!!」

 飛行機の搭乗受付締め切りまであと15分。
「何とか間に合うて欲しいんやけどな」とそわそわするハルの家族達に引き留められ、千花はハルと共にどうしたものかと悩んでいた。

「あーーーー!!来た!!姉ちゃん、こっち!!」
「はぁっはぁっ……間に合うたーーーー!!?」
「もうギリギリやぞ莉子!気合いで走れ!!」

 もうこれ以上は、とハルが言いかけたとき、結奈が大声で叫ぶ。
 それを聞きつけ必死で走ってきた莉子は、「ほんま、東の端から西の端までは遠すぎやわ!」と、ぜいぜいと息を切らしながら手に持っていた紙袋をハルの母に渡した。

「ありがとな莉子!いやほんま間に合うて良かった!はい晴臣、これ!!」
「はい!?」

 ぐいっと母がその紙袋をハルに押しつけてくる。
「えと、これ」と戸惑うハルに「ええけん先に手続きしといで!中からでも話せるけん!」と母は出発口の近くにあるガラスで隔てられた、待合室と話せる受話器を指さした。

「あ、えと、皆さんお世話になりました」
「んもう、お袋は最後までギリギリすぎや!」
「あんたの母ちゃんやからな!千花さん、晴臣を頼んだで!」
「……はい!」

 急いで手荷物検査を受け、待合室に向かう。
 確かに中に入れば、出発口とは目と鼻の先で「何だか変な感じね」と苦笑しつつ千花は母から預かった紙袋をハルから受け取った。
 ガラスの向こうからジェスチャーする母に「まったくもう……」とこぼしつつも、ハルは受話器を取る。

「ほんでなんなん、これ?」
『まだ時間あるんやろ、開けてみ』
「お袋の時間あるは、ギリギリすぎやろ……」

 ハルに促され、千花は中身を取り出す。
 のしの掛かった化粧箱をそっと開ければ、その中には色とりどりの……なんだろう、丸い玉のようなものがぎっしり詰まっていた。

「……お袋、これ何?」
『ああそうか、晴臣は莉子の結婚式も来んかったもんな。それ、おいりや』
「おいり」

 その言葉を耳にした千花が、スマホで調べる。
 するとその箱に記されていた店のサイトが一番上に表示された。

「おいり……お米のお菓子なのね。ええと……結婚式の引き出物……!?」
「ええええっ!?お袋、え、ちょ、これっ!!」
『やって晴臣が嫁に行くようなもんやろ?私も真鍋の家へ嫁に来るときに母親からしてもろたんや、そのお店でな。やけん、娘が嫁に行くときには必ず持たせるって決めとったんや……まさか、息子にこれを持たせる日が来るとは思わなんだけどなぁ』

 東ではせん風習やけどな、と笑う母の瞳には、キラリと光るものがある。
 そして、サイトを見た千花の目にも。

「ハル」と呼んだ千花の声は……鼻を啜りながら、涙に濡れて震えていた。

「これ……おいり……」
「ご主人様?」
「花嫁が幸せになってほしいという願いを込めたお菓子だって……」
「…………!!」

 ――その選択は理解できない。
 けれども、どうか愛しい息子がこの人と決めた伴侶と、例え自分達とは違う価値観であったとしても幸せに暮らせますように――

「お袋……っ!!」

 だめだ、こんな人がいっぱいいるところなのに、もう涙が堪えきれない。

 嗚咽を漏らすハルに、母も鼻を啜りながらただ一言「幸せになりまいよ、晴臣」と告げる。
 ああ、いっぱいありがとうって言いたいのに、もう、溢れる涙がそれを許してくれない。

 代わるわ、と千花はハルの肩を抱き、受話器を手にする。
 そうして「……ありがとうございます、お義母さん。必ず二人で、幸せになります」と涙を堪えながら改めて母に誓うのだった。


 …………


「ひぐっ……すみません、ご主人様……ひぐっ……!」
「……いいわよ、好きなだけ泣きなさいな。そんなに混んでないし誰も気にしないわよ」

 飛行機の中、もらったおいりを両腕で抱きしめて、ハルは千花の肩に顔を埋めて泣きじゃくっていた。
 ほんとうにこの子は家族に愛されていた、いや今だって愛されているのだと……そしてそんな彼を託して貰った、家族として受け入れられたのだと、千花は涙に暮れるハルを眺めながら感慨に耽る。

(……ねぇ、ハル)

 結婚式も無い、新婚旅行だって無い。当然初夜なんてものは彼らの辞書には存在しない。
 明日役所が開けば、婚姻届を出してそれで終わり。
 もちろん姓が変わる晴臣の手続きはいくつかあるけれども、それだって生涯千花の檻の中で過ごす彼にとっては大した分量ではない。

 そんな、これまでの日常と何も変わらない、ただ法的な関係ができるだけだと思っていたのに。

(ありがとう、私に……『家族』を与えてくれて)

 その頭を抱きしめ、そっと額に口付ける。

 ――それはハルへの誓いのキス。
 二度と外を歩けない身体に変えてしまう代わりに、誰よりも幸せな奴隷にしてあげるという、彼女の歪みきった、けれども純粋な愛情。

 泣きじゃくるハルは気付かない。
 その口付けは、二人が出会って4年、初めてのキスだったことに。

(いいの、気付かなくて。これからいっぱい口付けてあげる)

 これからその額に刻み込む、千花の奴隷としての証に何度だって自分はこの誓いを繰り返すだろう。
 そう、生涯ずっと、その命が絶え果てるその瞬間まで、あなたは私の、私だけの奴隷なのだから。

 ハルに結婚を言い渡したときから考えていた、ハルを完全に閉じ込める最後のピース。
 きっと彼は泣きながらも、千花の満足そうな笑顔を抱きしめながら、どこか幸せそうにそれを受け入れてくれると信じている。

「ね、ハル」

 ようやく落ち着いてきたハルの耳元で、千花は感極まったような吐息を漏らしつつ、その命令を下した。

「ハル、結婚の手続きが全て終わったら……その額に『証』を彫るわよ」


 …………


「あれ、珍しい。今日はCHIKA様お休みですか?」

 ようやく残暑も少し落ち着いてきたある日、いつものように『Purgatorio』にやってきた井芹はいつもの女王様とその奴隷の姿が見えないことに気付く。
 カウンターの向こうにいる賢太に尋ねれば「ああ、今日は特別な日だから」と答えが返ってきた。

「特別な日?」
「お、先生来てたのか。残念だったなぁ、今日はCHIKA様の奴隷の誕生日なんだとよ」
「ああ、なるほど。そりゃここに来ている場合じゃ無いねぇ」

 きっと今頃、本気のCHIKA様に『愛されて』いるんだろうよ、と常連の紳士は席を立つ。
「羨ましいねぇ」と言いつつもどこか冷や汗混じりなのは、彼が千花の『テスト』の経験者だからだという話を、以前他の常連客が教えてくれた。

(やれやれ、医師として働く裏で、彼女は随分と過激に生きていたんだねぇ)

 今日は賢太による縄のイベントだ。ちょっと着替えてくるよと更衣室に向かう彼を見送りながら、井芹は「そんなに凄いのかい、CHIKA様の本気とやらは」と賢太に話しかけた。

「あーそうだなぁ……先生は表の千花の顔はよく知ってるんだろ?」
「そりゃあね、入局した頃から活発で何にでも積極的な子だったよ。凄く責任感が強くてね、自分をすぐに疎かにしてしまう……今思えばそれも虐待の後遺症だったんだろうけど」
「ふぅん、割と良い子にしてたんだな、千花は」

 あいつの愛は苛烈だし独占欲も半端ねぇからな、と賢太はいつものように焼酎を井芹に出しながら「今頃は」と呟いた。

「……きっと、完全に千花のモノになってるんじゃないかな、奴隷君は」


 …………


 遡ること半日前、千花の自宅の「処置室」と銘打った一室に二人はいた。
 いつものように処置台に全身をがっちりと拘束されたハルは、今までに無く緊張した面持ちで頭側に座る千花に「大丈夫ですから」と声をかける。

「……ええ」

 言葉少なに機材を……タトゥーマシンを用意する千花の手は、少し震えていた。

(これが終われば、ハルは二度とこの家から出られない)

 海外であれば多少奇異の目にさらされようが外出する強者はいるかもしれない。
 けれど日本で、額に彫られた奴隷の証を晒すことはまず不可能だろう。

 これは自分の我が儘だ、そう千花は心の中で独りごちる。

 こんなことをしなくたって、ハルはもう千花の手から出ていくことは無い。
 ……分かっているけれど、それでも目に見える証が欲しかったのだ。

 あの飛行機の中で命令を囁かれたハルは、目を丸くしたものの直ぐに「嬉しいです」と真っ赤な目で笑いかけてくれた。
 ああ、こんな酷い仕打ちすら彼は笑って受け入れてくれるのかと、千花の方が泣きそうになったくらいだ。

「……ちゃんと、みんなにお別れも出来ませんでした」
「いいのよ、賢太さんには言えたでしょ?後の人たちには私から伝えておくわ。……だって、ハルはもう、私だけのモノなのだから」

 昨日の夜、閉店後に口枷を外され特別に会話を許されたハルは、賢太にここに来るのはこれが最後であることを告げた。

「あの日から4年間、本当にお世話になりました。この店が無ければハルは今頃墓の中だったと思います」
「なぁに、俺は大したことはしてねぇよ。……むしろ俺こそ感謝する。君があの日ここに来なければ、千花はずっと父親に縛られたまま生涯を終えるところだったんだしな」

 千花と幸せに暮らせよ。
 そう命の恩人に笑顔で送り出して貰えたことを思い出して、じんと胸が熱くなる。

(本当に、あの日店に迷い込んで……CHIKA様に会えて、良かった)

 そう、これは自分にとって最高の誕生日プレゼント。
 調教という形で確かに千花には沢山のものを刻み込まれたけれど、これほどあからさまに千花の所有物であると宣言される証は初めてだから。
 心の底から喜びが溢れてきて、ああ、だめだまだ泣くには早すぎる。

 と、額に何かが触れる感触がした。
 頭上では千花が転写紙を額に貼り付け、何かの液体をまんべんなく塗りつけている。

「転写液よ。……こんなもんかしら、剥がすわね」
「はい」

 そっと紙を剥がせば、額にはデザインされた文字がくっきりと転写されていた。
「見てみなさい」と鏡で己の額を見せられ、思った以上の大きさに思わず「目立ちますね」とハルは呟いた。

「問題ないわよ。ここに人を招く予定なんて無いから、これを見るのは私だけ」
「これ、歳をとっても消えないんですよね」
「ええ。額だし皮膚のたるみもそこまで酷くはならないから、この大きさなら崩れて読めなくなることもないわよ」

 一応消せないわけじゃ無いけど、まず無理だと思っていて良いわと千花は己の経験を語る。
 もちろん、入れ墨を「消す」側の経験だ。
 採皮刀を使ってまさに背中の皮を剥ぐその工程は、局所麻酔で行うのもあって実に心躍るものだったとうっとりしながら語る姿は、その話の残酷さと対照的にとても美しくて。

(これは僕だけに許された、ご主人様の姿)

 あの台風の日の告白から、ハルの根本は何も変わっていない。
 千花の幸せのために生きる、それがどれだけ世間的な基準から外れていようが全てを受け止める、それこそが自分の幸せだ。

 だから、ハルは躊躇わない。
「いいのね」とタトゥーマシンを構えて最後の確認をする千花に、とびきりの笑顔で微笑んで「もちろんです、ご主人様」と彼らしい愛の言葉を囁いた。

「ハルに、ご主人様の全てを、その歪みも全部……与えてください」


 …………


 一刺し毎に、証をを刻み込んでいく。
 手慣れた皮膚を貫く感触も、今日ばかりは特別だ。
 快感と、歓喜と、愛情がないまぜになった奔流の中を揺蕩いながらも、千花は真剣に手を動かしていた。

「っ……」と時々ハルの口からは苦痛を噛みしめる声が漏れ、額にはぶわっと汗が浮かぶ。
 折角だからと手は大量のガーゼと包帯で開いたまま固定してあるから、何かを握りしめることも出来ない。

 寸分たりとも身体を動かせず、その痛みを逃すことを許されぬままただ受け止め、涙を流す姿は実に哀れで、さっきから胎が疼いて仕方が無い。

(気持ちいい……堪らない……!)

 はぁ、と熱い吐息を漏らしつつ、だが千花はただ黙々と皮膚に針を刺し、色を刻み続ける。

 小さなモーターの音だけが響く、静かな部屋。
 痛みをひとつ刻み込まれる度に、千花と深く繋がっていくようで、その痛みすら愛おしい。
 ああ、まったく息子さんは行儀が悪い。股間の痛みから察するに、余りの嬉しさに久しぶりにボンレスハムになっていそうだ。

 言葉なんて必要ない。
 ――そう、これは本当の意味の、彼らなりの『結婚式』だ。
 二人が永遠に繋がるための、2時間の儀式をひとつたりとも記憶から溢れ刺すものかと、千花も、ハルも、ただただこの時間を、幸せを噛みしめていた。


「出来たわよ」

 汚れを拭い、ついでに汗も拭った千花が、ハルに再び鏡をかざす。
 見慣れた額の真ん中に黒のインクでくっきりと彫られたのは、千花の愛の証。
 千花が密かにその筋のデザイナーに依頼して作ってくれた、流麗な筆記体がそこには刻み込まれていた。


 Slave of
 Mistress Chika


(ああ)

 それを見た瞬間、ハルの世界に眩い光が満ちた気がした。

 何という幸福だろう。
 愛する人の糧となり、糧としてのみ生きることを許された存在に堕ちることが、これほど幸せだったなんて。

「一応傷だからね。今日は湯船は無し、激しい運動もだめだから寸止めも出来ないわね。出血が止まったら被覆材に替えるから」

 そう冷静に説明する千花の言葉もどこか震えている。

「ご主人様」
「……これであんたは、もう二度と外を歩けない。そしてあんたと社会を繋ぐものは、もう何も無いわ」
「はい……ハルには、ご主人様だけです。死ぬまでどうか、ご主人様の幸せのためにハルをお使いください」

 ああ、人であることを捨て堕ちきってなお、この人の光は陰ることを知らない。

 この気持ちを一体どう表現すれば良いのだろう。
 愛なんて言葉は生ぬるい。否、どんな言葉を尽くしても、ハルへの気持ちなど言い表せやしない。

 だからただ一言、千花はその真新しい証を避けて額に口付け、とびきりの笑顔で囁いた。



「私のために、奴隷になってくれてありがとう、ハル」



 塚野千花39歳、ハル29歳。
 4年の歳月を経て、彼らはようやく、彼らの形で結ばれたのだ。

© 2025 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence