第15話 泣き虫坊やの小さな一歩
(お題: 雨)
「ただいま、ハル。今日も……ふふ、良い子にしてたみたいね」
「ふぐぅっ……ごしゅじん、さまぁ……!」
脂汗を浮かべて唸る奴隷の額に、ご主人様の口付けが落とされる。
それだけで与えられた苦痛は、奴隷に幸せを運んでくるのだ。
帰宅に合わせて遠隔で腹に注入された薬液をようやく栓ごと抜くことを許されて、千花の奴隷はぐったりと、けれどどこか幸せそうにリビングの床に蹲っていた。
傍らではソファに座った千花が、奴隷をオットマンとして利用中だ。ご主人様がゆっくり休めるようにじっとしていないと。
「……雨、ですか?」
「ええ、帰りに降られちゃってね」
口付けを落とされたときにふと漂ったのは、千花が外から連れてきた雨の匂い。
田舎育ちの奴隷にとっては嗅ぎ慣れた、けれど千花にはただの埃っぽい匂いに過ぎない。
このマンションで奴隷が飼われるようになって早10年。
27階にあるこの部屋の眺めは素晴らしいが、奴隷にとっては今や見知らぬ外の世界だ。
こうやって千花が外から纏ってくる匂いだけが、そう、千花が与えてくれるものだけが、今の奴隷に世界を形作ってくれる。
千花と奴隷、ただそれだけの小さな世界。
けれど今日そこにもたらされたのは、懐かしい雨の匂いだけでは無かった。
「……可愛らしいお客さんが来てね」
普段、千花が客の話をすることはほとんど無い。
だからこれはきっと、ご主人様にとって特別なお客様。
馬鹿でかい図体で、けれどとても気が弱い坊やで。
この世界に足を踏み入れた大切な人たちのために、混乱と不安を抱えながらも歩み寄ろうとする、臆病で優しい少年のことを千花は嬉しそうに語る。
そう、いつだってこんな世界に棲むものにとって、歩み寄らんとするものは福音なのだ。
どうやら初めて会った頃の奴隷よりも臆病そうな少年は、たかがへそのピアス一つに恐怖で漏らしてしまうと言う醜態を晒し、雨模様よりもさめざめとひとしきり涙に暮れた後千花の店を後にしたらしい。
何だか今日は色々湿気てるわよ、と笑う千花の声は柔らかく、臆病な少年への慈しみに溢れていた。
「……ご主人様は、その子を堕とすんですか?」
ふと気になって奴隷が尋ねる。
少年の恋人と大切な友人が主従関係になる、そんな不思議な関係において少年だけがノーマルでいることはきっと難しいと、奴隷はこれまでの体験から知っていたから。
けれど、千花は首を横に振る。「最初が最初だったあんたとは違うから」と付け加えて。
「時間はかかるだろうけど、きっとあの子は二人の良い理解者になるわ」
「……それは女王様の勘ですか」
「そうね。そして……それは大人が手を出すことじゃない。彼は彼のペースで、きっと『こちら』に来るわよ」
だってあんなに臆病で慎重な泣き虫君なのに、大切な二人のためならそれを飛び越えられちゃう勇気を持っているんだから。
ハル、あなたのように、ね。
「もうお婿に行けない……」とグズグズと泣きじゃくる少年の姿を思い出しながら、昂ぶりを覚えた千花はハンブラーで戒められた奴隷の双球を足で弄る。
そうして窓の外を眺めながら、嬉しそうな声を漏らす愛しい奴隷との逢瀬に思いを馳せるのだった。