第1話 大人になる
その日は小雪がちらつく寒い日だった。
新歴3056年1月。
ある地方都市で一番大きなホールには、煌びやかな衣装を纏った青年達が賑やかに歓談している。
彼らはこの地域で昨年18歳になった、中等教育過程を修了したばかりの新成人だ。
「だるいよなー成人式だなんて」
「仕方ないって、これセンターへの入所式も兼ねてるから休んだら減点らしいしさ」
真新しい上質なローブに身を包んだ男子達が、だるそうな声を上げる。
成人と言ってもまだ18歳、遊びたい盛りだというのに年明け早々つまらない式典に参加するのは、彼らにとってはただ退屈極まりないだけだろう。
中等教育を終えた彼らは、これから地区ごとの成人基礎教育センターに2年間通う。
これは成人した国民全員に義務づけられていて、青年たちは成人として必要な法律などの知識を含む一般教養を学びつつ、今後の進路をアドバイザーと共に決めるのだ。
そして無事センターのカリキュラムを終えれば、彼らは晴れて大学進学や就職の資格を得ることが出来る。
式典では、案の定眠くなるような祝辞が続いていた。
あれは市長だったか、以前チラシで見た覚えのある顔だ。
当たり障りのない祝辞を述べた後、そろそろ頭が寂しくなってきている市長は「成人としての権利にはいくつかありますが」と前置きをして大切な話をする。
……と言っても、まともに聞いている人間などどれだけいることやら。
「成人し、かつ基礎教育課程を終えれば二等種を使う事が出来ます。二等種の取り扱いは一つ間違えれば皆さんの人生を変えてしまいますので、センターで正しい知識と取り扱い方をしっかりと学んで下さい」
二等種、と言う言葉にざわつくのは主に男子達だ。
どこか下卑た笑いを浮かべ「人生を変える、ったって二等種だろ?」「あ、気持ちよすぎて人生変わるって意味?」と隣の友人達とこそこそ話している。
「二等種ってあれだろ、役所とか公衆精液便所とかに設置されているやつ」
「そうそう、あれ個人レンタルも出来るんだぜ。兄貴が魔法管理局に就職決まったときに、お祝いで親父がメスを1体レンタルしてた」
「まじかよ!あれ、こっちが動かなくても勝手に良くしてくれるって聞いたぜ。いいなぁ俺も早く使ってみたい」
「成人基礎教育センターでクラスごとにオスメス1体ずつ設置するって聞いたよ、実際に世話をしながら使い方を学ぶんだって。楽しみだよなぁ」
すっかり盛り上がる男子達を横目に、女子は「これだから男子は」と呆れた視線を向けていた。
けれど、彼女たちだって全く興味がないわけではない。
二頭種のオスは小柄だが美形も多い。中には女の子のような髪型や顔立ちの個体も存在する。
奉仕も気持ちが良いと聞くし、好みのディルドを装着すれば勝手に動いてくれる、その様がまた無様で可愛らしいと先輩から聞いたことがある。
オスを二体借りて、封じられた性器を泣きながら必死で刺激しようとする姿を見物するのもお勧めだそうだ。
もちろん二体ともなるとレンタル費用はそれなりにかかるが、友達とお金を出し合って週末レンタルなんてのもありだとか。
それぞれの思惑が交錯する会場を、大人達は「静粛に」と諫めながらも、自分達もそうだったなと若い彼らを懐かしく眺めるのだ。
「…………いないな」
「どうした、冬真」
そんな中、チラチラと会場を見渡す青年が一人いた。
雪梅冬真(ゆきうめ とうま)18歳。アイスブルーの瞳が美しい、まだどこか少年の面影を残した新成人は、この日のために両親が誂えた紺のローブに身を包み誰かを探しているようだった。
「冬真、誰か探してるのか?」
「ん、ああ。……茉莉ちゃんいないかなって」
「茉莉?」
「うん。初等教育過程の最後の方で、留学した」
「ああ、バレエやってた子か!そういやそんな子いたなぁ、すっかり忘れてたわ」
幼い頃、冬真が仄かに恋心を抱いていた薄い群青色の髪をポニーテールに纏めた少女は、いつも明るく活発でクラスの人気者だった。
密かに彼女を好いていた男子も多かったと聞く。
けれど、運動神経抜群で3歳からクラシックバレエを習っていた彼女は、初等教育校6年の秋に突如海外へと留学してしまう。
世界的にも有名なバレエ団がある、けれども情報統制の厳しい国への別れさえ告げない突然の旅立ちに、さよならも言えなかった、連絡すら取れないだなんてと当時の冬真少年は涙に暮れたものだった。
「成人式だし帰ってきてるかなって思ったんだ。ほら、留学してても成人基礎教育って義務だから」
「でも留学生は時期をずらす人も多いらしいしなぁ。……何だよ冬真、まだその子のこと好きなの?」
「そっ、そんなんじゃなくて!」
「へいへい、あ、終わったら昼飯食べに行こうぜ!折角成人したんだし酒飲みたい」
「お前なぁ、どれだけ酒飲みたかったんだよ……」
悪友の誘いに「なら駅前の店に行こう」と提案しながらも、冬真はどこか諦めきれない様子で会場を再び見回すのだった。
…………
時間は少しだけ遡る。
新暦3055年10月、といってもこの地下に拡がる広大な空間には、季節も日時も存在しない。
魔法で作られた疑似太陽が、人間のメンタルを保つためだけにそれっぽい明るさを演出しているだけである。
まして、窓さえ存在しない建物の中なら、なおさら。
(……朝だ)
ぱちり。
真っ暗な部屋の中で少女は目を覚まし、ああ今日も朝が来たのかと少しだけ憂鬱な気分に襲われる。
……いつも通りの、変わり映えの無い一日の始まりだ。
(だめ、ゴロゴロしてる場合じゃない……早く座らなきゃ)
朝の微睡みを堪能したい気持ちを振り払いベッドから降りた少女は、ぺたんと硬い床に座る。
正座の体勢から足を外に投げ出した、いわゆる女の子座りだ。
そしてそのまま喋ることもせず、暗闇の中ただ静かにその時を待ち続けている。
10分はそのまま待機していただろうか。
ジリリリ……と突如けたたましくなるベルの音と共に部屋に明かりが点き、彼女は今日も無事起床できたことに安堵するのだった。
(もう慣れちゃったな、目覚ましの音より早く起きるの。……鳴ったときに床に座ってなかったら痛い目に遭うって身体が覚えちゃってる)
ホッとした様子で立ち上がるのは、薄い群青色の髪をポニーテールに纏めた少女だ。
膝上丈のグレーの半袖ワンピース、豊かに膨らんだ胸の辺りには「499F072」と記された白い布が縫い付けられている。
その首には少女には随分不似合いな、厳つい金属の首輪が装着されていた。
彼女は、管理番号499F072。
人間が二等種と呼ぶ存在である。
窓のない6畳程度の殺風景な部屋の中で、72番はいつものように壁のモニターを確認する。
「今日は朝食なし、か……また検査があるのかな」
それなら先にトイレに行っておこう、と彼女は入口のドアに近づく。
そしてドアの側にあるブザーを押すと、床に引かれた線に沿ってその場で土下座し、床に額をつけた。
『……はい』
無機質な音声が応答する。
これはAIによる自動応答だが、二等種にとってAIに関する全ては人間様と同等に敬うべき存在だ。
……否、二等種が敬わなくて良いものなど、この世界には存在しない。
「人間様、499F072に排泄の許可を願います」
『…………許可します。10分以内に自室に戻るように』
「ありがとうございます、人間様」
ガチャ、とドアのロックが解除される音が響く。
72番は「急がなきゃ……」とノブの無いドアを押して開け、気持ち歩幅を大きくして――走ればすぐさま懲罰が与えられるから――トイレへと向かうのだった。
…………
72番がここに来たのは、随分前の事だ。
正確には6年前だが、目に触れるところに時計もカレンダーもない、窓も一切ないこの空間に於いて彼女が正確な日時を把握することは不可能である。
起床のベルが鳴り部屋の明かりが点けば朝、消灯のベルが鳴り部屋の明かりが消えれば夜……72番にとってはそれが全てだ。
「私は二等種、何の役にも立たない、人間様に害を為すだけのモノです」
「私は人間様の命令に決して逆らいません。人間様、今日も二等種である499F072を生かせて頂いてありがとうございます」
トイレから戻れば、部屋は自動的に施錠される。
モニターはカメラモードに切り替わり、モニターに映った自分の顔を見ながらいつもの挨拶をその場で宣言するよう文言と共に指示されているが、毎日繰り返していればこの程度の文言、諳んじることは難しくない。
ただ、宣言をする度少しだけ悲しくて、けれど仕方が無いと諦めるだけ。
鏡の中に映る自分の表情だってそう言っている。
(だって)
「授業」で人間様が何度も教えてくれた事は、もう魂にまで染みついている気がする。
二等種は大人になる前に保護して「教育」をしなければならない、そうでないとこの世界の害虫となってしまうのだと、人間様に言われた言葉を72番は心の中で反芻する。
(……だって私は、産まれながらの咎人なのだから)
…………
――かつてこの世界は、争いと貧困、不安と恐怖、そして数多の絶望に満ちていた。
少数の人間が世界のあらゆる物を支配し、己が欲のために大勢の人を戦争に駆り立て、搾取し、そんな様子をまるで歌劇のように楽しんでいたという。
だが、苦境にのたうち回っていた民衆の中から魔法と呼ばれる力を持つ者が現れ始めた事で、状況は一変する。
支配者達の弾圧も巧みにかいくぐり、徐々に数を増やしてきた魔法を使える人間達は、ついに一致団結し魔法の力でこの世界のシステム自体を作り替えてしまったのだ。
支配から共生へ。所有から共有へ。
その理念の中で、もはやかつての圧制者達や彼らに都合の良いシステムはなんの力も持たず、圧制者達も人知れずこの世界から放逐されていった。
そうして新しい暦が始まり、人類はようやく平和な世界を取り戻し、長らく平和な時代を謳歌してきたのだ。
新しく産まれてくる子供達は皆魔法の素養を持っていて、時が経つにつれ魔法技術は発展し、今や人類が魔法を使えることを前提にこの世界は成り立っている。
しかし、そんな世界に暗雲が立ちこめる。
……新暦500年頃から、魔法の使えない子供が時折産まれ始めたのだ。
彼らはすべからく、長じるにつれて古い時代の支配者と同じ性質を開花させる。
すなわち表面上は紳士的だが内面は粗暴かつ狡猾で、あらゆる手を使っては人間を支配し、搾取し、この世界を独占しようとするのだ。
当然のごとく、世界中の政府は過去の恐怖と共に同じ思いを抱いた。
「二度と同じ悲劇を繰り返してはならない」
……しかし当時旧人類と呼ばれたこの種の人間への対応に、人類は非常に苦慮した。
というのも、旧人類には生まれつきとんでもない地雷のような性質があったからだ。
それは、旧人類の命を奪えば、理由の如何に関わらず人類は魔法の力を失い、旧人類と同じ性質を植え付けられてしまうというもの。
それは、例え犯罪を犯した旧人類を処刑しても、処刑のボタンを押した人類が旧人類化してしまうほどの無慈悲なシステムだった。
結果、各国の政府は旧人類を見つけ次第、高い壁で囲まれた保護区域に生涯隔離するようになる。
とは言え彼らも人間だ。時の政府によって最低限の生活は保障されており、旧人類達は不満を募らせながらもどこか諦めた様子で塀の中で過ごすのだった。
……それが激変したのは、新暦2025年のこと。
複数の国で、旧人類による大規模な同時多発テロが勃発し、多数の死傷者が発生した。
死者数は当時の世界人口の1割にのぼり、全世界の人類を震撼させる。
そんな折、とある国の神官にある神託が降りたのだ。
曰く、旧人類と呼ばれる彼らはかつての支配者達の生まれ変わりである。
ただ閉じ込めるのではなく、自分達が前世に於いて虐げてきた人類に奉仕させることで罪を償わせなければならない。
何十回、何百回と贖罪の人生を繰り返すうちに、彼らの罪は現れ、魔法を持つ本当の人類として生まれ変われる日が来るであろう、と――
その神託が真実かどうかは、今となっては誰にも確かめようがない。
けれども神官の進言を受けた当時の政府は、当然のようにこれを利用した。
つまり、即座に12歳以上で魔法が使えない旧人類を全て捕獲。彼らを人類ではない家畜以下の害虫的存在である「二等種」と定義づけ、徹底的な矯正教育を施した上で生涯人間に服従、かつ奉仕することを義務づけたのだ。
当然人類ではないから、人権など存在しない。人類には使えない強力な魔法や薬剤も死なない限りは問題ない、つまり「矯正」はやりたい放題だ。
ただし奉仕のためとは言え、下手に危害を加えられるような能力を身につけさせてはいけない。
あくまでも人間にとって従順で、決して人間が同情など覚えない、侮蔑の対象となる奉仕こそ、二等種には相応しいのだから。
……結果、この国が採択した奉仕は性的奉仕であった。
時の政府による布告の瞬間、全ての魔法を使えない人間は二等種というただの穴として、人類の性欲解消と旧人類への恨みを晴らすために生涯使い倒されることが確定したのである。
当初はこの政策を打ち出した国に、世界中の国が「いくら何でもやり過ぎだ」と猛反発した。
しかしながら二等種制度が制定されて数十年後には、この国は驚異的な経済発展と犯罪率の低下を成し遂げ、また世界的な二等種発生率が2%で横ばいのところ何故か0.5%にまで減少したことから、他国も徐々に同様の制度を採用し始める。
それから約1000年。
今では世界中どの国でも、二等種は何らかの奴隷、もしくは「モノ」として捕獲され、調教され、使役されるのが常識となっている。
…………
現代の人類は、12歳までに全員が魔法を発現する。
もちろん能力には多大な個人差があるが、早ければ3歳で、遅くとも10歳には9割の人間が魔法を使いこなせるようになるのだ。
だから、子供達は皆いつか魔法が使えるようになると信じて疑わない。
人間だった頃の……いや、この言い方は語弊があるだろう。人間だと思い込んでいた幼少期の499F072もまた同様だった。
まさか自分が人口の0.5%にあたる、生まれつき魔法の使えない二等種だなんて思いもせずにただの子供として幸せに過ごしていた72番の人生が変わった……否、終わったのは、12歳の誕生日。
その日のことはあまりにショックすぎたのだろう、今ではほとんど思い出せない。
ただ、気がつけばこの部屋に放り込まれていて、人間様から教えられた事実に打ちのめされ、二度と両親にも友達にも会えない境遇を嘆き、けれど死ぬことも出来ずただ生かされて……現在に至る。
(でも、人間様に従っていれば……ここの生活もそんなに悪くはない)
しかしながら6年にわたる洗脳とも言える教育と規則正しくそれなりに人間のような娯楽も許される生活により、72番はすっかりこの環境に順応していた。
そう、人間様に逆らいさえしなければ、多少不便ではあるけれども生かして貰える。
美味しくはないが食べられないわけでも無い食餌を日に3度与えられるし、授業は昼の食餌までで初等過程よりもずっと短い。
授業と昼食後1時間の運動時間、シャワーとトイレ以外はずっとこの6畳の部屋の中に閉じ込められたままだけれど、机の前に設置されたモニターとタブレットはあらゆるデジタルコンテンツを供給していて、アニメに動画にゲームにと、誰に叱られることもなく好き放題遊ぶことが出来るから退屈もしない。
湯船はないけれど毎日温かいシャワーは浴びて清潔にいられるし、簡素な作りとは言えベッドで毎日ぐっすり眠れる。気温も一定で寒さに震えることも、熱さにぐったりすることもないのだ。
これも全て、人間様が自分達のような出来損ないの二等種のために用意して下さった物。
二等種なんだから、人間様の言うことだけ聞いてただ与えられる物を楽しんでいれば良い……
いつしか72番はこの生活の不自然さすら自覚できなくなり、無条件に人間様に依存するようになっていた。
――それもすべて、長年に亘る仕込みの序章でしかない事に、気づきもせず。
『ドアを解錠します。教室Aへ移動しなさい』
「かしこまりました、人間様」
時間になり、部屋のロックが解錠される。
72番はいつものように廊下を渡り、授業を受ける教室へと足を運んで……そこで繰り広げられる光景に言葉を失った。
「え……な、に…………ぎゃっ!!」
「人間様の前で許可なく声を出すなと習っただろう」
「ひっ、申し訳ございません人間様!」
思わず呟けば、すかさず側にいた人間から鞭を振るわれる。
服越しに振るわれてもたった一発で紫色の跡が付く鞭の打撃痕は、けれども痛みは残れど一晩寝れば何事もなかったかのように綺麗な皮膚に戻ってしまうのだ。きっと寝ている間に人間様が魔法で治療して下さるのだろう。
もちろんここに連れてこられた当初はあらゆる場面で与えられる懲罰の痛みに、そして寂しさに涙を流すことも多かった。
けれども涙を流すことすら違反であると、泣くのを自動で関知した首輪から電撃という形で懲罰を繰り返し与えられた結果、今ではこの程度の痛みでは心の中で泣いても涙一粒溢れない。
人間様の前では、必ず笑顔。そして命令に対して許される返事は「はい」のみ。
だから72番は必死で笑顔を作り、そして二等種立ちの列に並んで教室の中を覗き見た。
(何、あれ……えっ、詰め込んでる、荷物みたいに……!?)
教室の隅には、大量のスーツケースが並べられていた。
順番が来た二等種は耳栓と口枷、アイマスクをつけられて手足を限界まで曲げ、革ベルトで緩み無く締め上げられていく。
呻き声を出そうものなら「無駄吠えは禁止」と容赦なく鞭が浴びせられるのは、いつものことだ。
そうして出来上がった塊は、魔法で浮かせて緩衝材の詰まったスーツケースにきっちりと押し込められ、蓋をして鍵をかける。
教室の壁だと思っていたところは実は隠し扉があったようで、扉の向こうに続くベルトコンベアーに次々とスーツケースが載せられて行くのだ。
まるで昔空港で見た、チェックインカウンターのようだと72番はぼんやり思う。
……そして遠い昔に、同じスーツケースを見たような記憶も。
(いつだっけ……あんなケースを用意されて……)
「次!」
「っ、はい!499F072、よろしくお願いいたします!!」
いつの間にか順番が回ってきていたことに首輪から流れるビリッとした痛みで気付き、慌てて返事をしてスタッフの前に立てば、スタッフは無言で72番を梱包し始める。
電撃で合図をされれば前の子と同じように手足をきっちり曲げ、拘束されるがまま大人しくしているしかない。
人間様は滅多に二等種の『名前』を呼ばない。こうやって魔法で首輪の電撃を作動させ合図をするのが基本だそうだ。
「ゴキブリに名前をつけ呼ぶ人はいないですよね、ましてそれにも劣る二等種ですから」と授業で言われたときには、流石に悲しくなったものだ。
そう言えばあの時は、何を勘違いしたのかぶち切れて人間様に殴りかかった二等種がいたっけ。
……人間様に反抗した二等種がどうなるかなんて、初日から嫌と言うほど教えられているのに。
そうこうしているうちにスーツケースの中に詰め込まれ、身体が横になった感覚とかすかな振動が伝わってきた。
恐らくあのベルトコンベアーに載せられたのだ。
(ああ、思い出した)
真っ暗な中身動きも取れず、零れる涎も拭うことを許されず、スライムのような緩衝材で隙間無く覆われた状態では呼吸すらままならない。
けれど首輪に込められた魔法があれば窒息しないだけの酸素は直接送られるから、例え鼻と口を塞がれても死にはしないと教えられている。……もちろん苦しさや死への恐怖は無くならないけれど。
その授業では首輪を動作させ窒息状態を体験して、呼吸すら人間様の許しがなければできないのだと叩き込まれた。
衣食住だけでない、あらゆる面で人間様の許可なしには何もできないのが二等種なのだと、嫌と言うほど何度も言葉と身体で教え込まれる、それが二等種にとっての「授業」なのだ。
そうしているうちに沈静魔法が作動したのだろう、72番の意識が段々遠くなっていく。
(そうだった、ここに来たときも……こうやって詰め込まれたんだった)
薄れかけた意識で過ぎ去った日の記憶を思い出した次の瞬間……全てが暗転した。
…………
「ふぅ、これで全部か」
「お疲れ様です主任。年に一度とはいえ、出荷日は重労働ですよねー」
「入荷は同じ年に一度でも1ヶ月断続的にだからな、出荷もせめてオスメス別とかなら楽なのにさ」
「向こうの管理が一斉開始だから仕方ないっすね。あ、出荷も終わったし今日は飲みに行きません?」
「お、いいねぇ」
その頃、72番たち二等種の出荷作業を終えたスタッフ達は、談笑しながら後片付けに追われていた。
と言っても重たい物の移動は魔力で動かせるアンドロイド任せだし、掃除も魔法でぱぱっとやれば終わりである。
「おお、もう終わったのか。お疲れ様」
「あ、篠原管理官!臨時会議は終わったんですか?」
「ああ、幼体の脱走なんて8年ぶりだってね、余計な仕事を増やしてくれるもんだ」
片付けをするスタッフに声をかけた年配の男性は、揃いのポロシャツに水色の手袋をつけたスタッフとは明らかに異なる装いだ。
スタンドカラーのグレーの制服に白の手袋をはめ、右肩からは臙脂色のケープを羽織った出立ちは、彼がここでそれなりの地位にいることを示していた。
「出荷日だってのに、アシスタントだけに任せてすまなかったね。これ部長から差し入れ」と篠原から差し入れられたコーヒーに、スタッフ達がわっと沸き立つ。
「早く終わらせてラウンジに行きましょ」と差し入れを受け取った女性のIDカードには「二等種管理庁 矯正局幼体管理部アシスタント」の肩書きが記されていた。
――ここは二等種保護区域9、地下深くに拡がる広大な空間の一角にある教育棟エリア。
12歳で捕獲された二等種の幼体が18歳で成体となるまでの6年間収容される施設であり、幼体管理部がその管理を担っている。
保護区域は全国に12カ所。
捕獲された月別に二等種は各地の保護区域に振り分けられ、同じ歳に捕獲されたものを一つの棟にまとめて収容、成体になるまで飼育と教育を行う。
年により多少の増減はあるが、平均すると毎年250体の二等種が一つの保護区域に入荷されるようだ。
「49系は入荷が258体、出荷が224体……割と平均的ですね」
「来年出荷分がヤバいんだよな、入荷270体で既に62体『処分』されている」
「うっそ、また質の悪い二等種が揃っていたんですねぇ」
「定期的に不作の年はあるねえ」
ラウンジでのんびりコーヒーを飲みながら、スタッフ達は出荷報告書を作成する。
そこに二等種達への感情はない。あれは人間と同じような見た目こそしているものの、人間にとってはこの紙コップよりはるかに役に立たない、劣った種族だから。
教育棟で二等種に与えられるのは、ただの「下処理」だ。
青少年の国際的な人権問題に配慮して一見すると人間に近いような保護(飼育)と教育を授けているように見えるが、実際は今後の調教に向けて心身両面からの「加工」をしているだけ。
当然ながら他のエリアに比べて不良個体を処分する機会も多く、それ故にうっかり二等種の命を奪いかねない――それは自らが二等種に堕ちることを意味するのだ――二等種管理庁矯正局の中でもかなり危険な職場である。
その分給料の高さはお墨付きなので、志望者は意外と多いのだが。
慣れない報告書の作成にやる気がそがれたのだろう「ここから出荷後の二等種ってどうなるんすか?」と一人の新人がふと尋ねれば、主任と呼ばれていた壮年の男性は「お前な、新人研修で習っただろ?」と呆れた顔をする。
「いや、出荷して事前調教棟に放り込むんでしょ?それは知ってるんすけど、あそこって何やってるんですか?」
「あ、それ私も知りたい。てかわざわざ事前調教とかめんどくさいことしないで、成体になったらとっとと本調教棟に放り込んで性処理用品に調教しちゃえば良いのに」
「むしろさ、魔法でぱーっと一気に奴隷に出来ないんですか?そうすりゃ二等種は魔法抵抗力もゼロなんだからコストだってかからないのに」
「お前らなぁ……あれはあれでちゃんと理由があるんだってば。先人達の創意工夫の結果が、この二等種矯正プロトコルなんだぞ」
「まあ別の部署の仕事なんてなかなか知る機会もないからね。私は初期管理部からの移動だからそれなりに知っているが」
折角だし後学のためにも知識を入れておくと良い。
そう言って管理官の男性は、若者達に成体となった二等種の処遇をレクチャーし始めるのだった。
…………
「……なさい…………」
(……なにか、聞こえる)
「……わよ…………さっさと……」
(さっさと…………?)
………………
…………
「ほら、さっさと起きる!」
「がぁっ!」
「ったく、定時で帰りたいんだからさっさと動いてよね」
女性の怒鳴り声と同時に首に痺れるような痛みが走り、慌てて72番が飛び起きれば、そこはだだっ広く窓のない部屋だった。
どうやら既に「梱包」は解かれていたようで、口の中に詰め込まれていたボールのようなものも、手足を戒めていた枷やベルトも見当たらない。
部屋の隅にはスーツケースが大量に転がされている。
周りを見れば同じようにここに運ばれてきたのだろう、グレーのワンピースを着た二等種達が首輪の電撃で這いつくばったまま呻き「立ちなさい」と無慈悲に振り下ろされる鞭に声なき声を上げていた。
(いけない、すぐ立たないと……!)
慌てて立ち上がれば、目の前にいた人間様――授業の「先生」と同じ服装で、ただケープの色が深緑の女性が「そこで服を脱いで、列に並びなさい」と洗浄室で見慣れたランドリーボックスを指さした。
だが、そこにいつも用意されている着替えのワンピースは見当たらない。
(え、服を脱ぐ!?まさか……裸のまま!?)
こんなところでスタッフに見られながら全裸になるだなんて、と72番は一瞬躊躇するが、長年の懲罰を刻み込んだ身体はすぐに命令に従い、ワンピースを脱いでボックスに入れる。
とはいえ恥ずかしさに胸と股間を手で隠せば「手は身体の横に、直立姿勢で待ちなさい」と無慈悲にも咎められ、真っ赤になりながら列の最後尾に並んだ。
(……あ、でも女の子しかいない……)
列は実に静かに、かつのろのろと進んでいく。
当然、私語をする者はいない。二等種同士の会話は反抗的態度と見做され、一発で処分対象だからだ。
二等種を取り囲むスタッフ達も無言だ。だから時折無意識に手を前にやった個体に鞭が振り下ろされ「申し訳ございません!」と叫ぶ声くらいしか音がしない。
実に静謐で……不気味な時間の流れはどうにも居心地が悪く感じる。
ようやく梱包からの一連の出来事によるショックが落ち着いてきた72番は、そっと辺りを見回して、並んでいる二等種にもスタッフにも男性がいないことに安堵する。
流石に二等種といえど異性と全裸で混ぜるようなことはしないのだろう。
反抗心なるものはとうの昔に粉々に砕け散っている彼女は、人間様の配慮に感謝の気持ちさえ覚えていた。
(にしても……さっきがチェックインカウンターなら、ここはイミグレみたい)
72番はまた遠い記憶を辿る。
ここの風景は、まだ自分が人間の中に紛れ込んでいた頃、家族と海外旅行に行ったときの空港にどこか似ているのだ。
目の前には4つのブースがあり、スタッフが何かをチェックした後奥に進む仕組みなのだろう。
どうやら72番がここに運び込まれたのは最後の方だったようだ、折り返して並ぶ列を見る限り後ろにいるのは十数体といったところか。
(何をするんだろう……検査かな、でも初めて来る場所)
これまでにも不定期に検査室へと連れて行かれることはあった。
けれどもその時は首輪を前の人の首輪と鎖で繋がれて集団で連れて行かれたのに、今回はわざわざ一体ずつスーツケースに梱包しての移動だ。
今日も、いつもと変わらない一日の筈だった。
けれども今日は、明らかにいつもと様子が違う。
(…………なんだか怖い……)
胸に漠然とした不安がよぎる。
何か嫌なことが起こりそうな予感がするのは、時折ブースの向こうから二等種だろう聞いたこともない悲壮な叫び声と「無駄吠えするな」と言わんばかりの鞭の音がするからかもしれない。
(……でも、人間様がすることだから、大丈夫)
不安と焦燥を覚えた心に、72番は根拠の無い自信を言い聞かせる。
そうだ、これまでだって人間様は自分達のような劣った種族にも生きる権利を与えて下さったのだ。
確かに痛いことや辛いことはあるけれど、それも私達二等種が人間様に危害を加えない「無害な」二等種となるために躾けて下さったこと。そう、何も心配する必要なんて無い。
と、バチッと首に痛みが走る。
前を見ると、ちょうど左の端のブースが開いたところのようだ。
(大丈夫、大丈夫……)
まだ何となく胃の辺りがキュッとするような不安を覚えながらも、72番は教えられたとおり姿勢を正してブースへと向かうのだった。
…………
「499F072、入ります」
ブースに入れば、床の足型に合わせて立つように指示される。
肩幅より心持ち広く足を開き、腕は真横に真っ直ぐあげたままじっとするように命令された。
(ああ、やっぱりいつもの検査だ)
身体をスキャンする魔力の光に、72番は安堵を覚える。
この光は覚えがある。全身を隅々まで計測する検査機器だ。
やはり杞憂だったのだ。ちょっといつもと違う場所で検査をするだけじゃないか。
ブースの向こうには女性スタッフが2名。
いつもの検査と同じくこちらには目もくれず、モニタに表示されたデータを眺め、操作している。
「胸はF70か、良い感じに育ってるね」
「乳首の色もいい。乳首はちょっと長めかな?まぁ基準はクリアしているけど」
「にしてもクリトリスが小さいね。基準ギリギリ……これは要矯正」
彼女たちが淡々と話す内容は、自分の恥ずかしいパーツのサイズばかりだ。
これも検査ではいつものことだと頭では分かっていても、慣れるものでは無い。
72番に許されているのは恥じらいで顔をほんのり赤らめながら、ただただ検査が終わるのを待つことだけだ。
(いつもより長い……お願い、早く終わって……)
ゆうに15分は経っただろうか。
そろそろ上げている腕も限界に達してきた頃、ようやく「奥に進みなさい」と指示された72番は「ありがとうございました、人間様」とどこか解放された喜びすら浮かべながら奥へと進んでいく。
「あーあ、何も知らずにはしゃいじゃって。これからが今日の本番なのに」
「いつもながら見ものよね、この瞬間って。無様に悶え苦しむ姿を見ているとスッキリするのよねー」
「先輩酷い。でも気持ちは分かるかも、二等種ってホントいいストレス発散道具よね」
背後でクスクスと笑う女性スタッフの言葉は、彼女には届かない。
ただ、いつも通りならこれで検査は終わり。後は後続が終わるのを待って部屋に連れ帰られるだけだと、72番は呑気に奥へと歩みを進める。
しかしそこに待っていたのは、首輪を繋がれた二等種ではなく、新たな検査機器のようなものだった。
(えー、まだ検査があるの……今回は長いなぁ)
心の中で愚痴るも、当然ながら表には出さない。
先ほどと同じように「499F072、入ります」と大きな声で宣言すれば、これまた検査台の底部にある足型に合わせて立つように命じられた。
「そこに顎を置いて……胸も腹もぴったり前の壁につけて。手は横のハンドルを握って……はい、その位置で固定します」
「っ……」
検査台に立てば、後ろに立っていたスタッフが顎の高さを調整する。
前面は下腹部に当たる部分がガラス張りになっていて、ちょっとだけお腹が冷たい。
スタッフが何かを操作すれば、バシュン!と音がして手首と胸、腰、太もも、膝下にベルトが巻き付き、まるで検査台に抱きつくような体勢できっちりと固定された。
首は顎台の下にこれまた首輪の固定具があったのだろう、こちらも全く動かせない。
「頭は動かさないように、目の前の鏡を見ていなさい」
「はい」
スタッフに言われて72番は初めて気付く。
目の前には鏡が設置されていて、当然のごとく自分の顔が映っていた。
(一体、何の検査を……)
初めての検査に72番は戸惑いを覚える。
けれども質問することは許されていない。ただ指示通りに動き、止まり、待つことしか出来ないのだ。
と、鏡に映った自分に急に変化が起きた。
(え、何これ!?髪型が変わってる?)
錯覚かと思ったが、耳に触れる髪の感じが変わったことからこれは現実のようだ。
恐らく魔法で髪型を弄っているのだろう。
「んー、元のポニーテールも悪くは無い……ボブカットだとちょっと野暮ったいですね」
「結構童顔だし、ツインテどう?毛量も多いし似合うんじゃ無いかな」
「試してみます。……あ、これ可愛い。これなら男受けしそうですね」
まるで人形のように気軽に髪型を変えられながら、そう言えば昔、母がヘアカタログ片手に魔法で髪を整えてくれたなと72番はふと懐かしさを覚える。
(あの時のママの手は、温かかったな……もう私の事なんて忘れちゃったのかな)
二度と家族に会えない寂しさはあるが、もう涙も出ない。
けれど思い出せば思い出すほど、この事務的な髪型変更が余計に辛くなるから。
(……忘れよう。あれはもう、私には望めないもの)
72番はそっと、記憶に蓋をするのだった。
…………
「じゃあ、髪型はこれで。こちらで首輪に成体用魔法セットを追加しますんで、股間の処理をお願いします」
「はい。排泄転移パッチが入ったら合図下さい」
散々弄られた後、結局72番の髪型はツインテールに決まったようだ。
(これが、私の新しい髪型……)と72番はぼんやり鏡を眺める。
自分で言うのも何だが、少し幼さを感じる風貌に良く似合っていていて、一段可愛くなったような気さえする。
新しく生まれ変わった様な気分にちょっとした満足感を覚えていると、不意に尻を割り拡げられるような感覚を覚えた。
「ひっ」と思わず悲鳴を上げれば、すかさず首輪から懲罰の電撃が流され「ご指導ありがとうございます!」と慌てて叫ぶ。
けれどもその行為は終わらない。それどころか、尻たぶを掴み人に見せるものでは無い穴を晒すスタッフは、淡々と無言で細いカテーテルに何かを塗りつけたものを、ぷすりと後孔へ突き刺した。
(いやっ、何!?お尻に何かが入ってる!!っ、待って、管だけじゃ無い……液体!!?これ、浣腸!?)
数センチ挿入すれば魔法で固定し「肛門をしっかり締めなさい、漏らせば懲罰よ」と冷たく言い放った後、後方のスタッフは浣腸注入用のポンプのスイッチを押す。
と、ピーッという音と共に生ぬるい浣腸液が72番の腹の中にドクドクと注がれ始めた。
そして、10数秒もしないうちに異変は訪れる。
「っ!!……ぐぅっ……はぁっ、はぁっ……いだい……ギャッ!!も、申し訳ございませんっ……はぁっ、ううぅ……」
ゴロゴロと凄まじい音が、腹から響いてくる。
猛烈な便意に声を漏らし、案の定電撃に晒され、必死で謝罪する。
(うあああっ漏れるっ!出したい……おトイレに行きたい……!!)
呻き声を噛み殺し、必死に肛門に力を入れて耐える。
けれど注入が終わる気配は全く無く、ますます高まる便意と腹痛にぶわりと全身から脂汗が滴り始めた。
「うぅ……はぁっ……ふうぅぅぅっ……」
「どのくらい入りました?」
「まだ1リットルですね。バイタル問題ないので初回規定量の1.5リットルまで入れちゃいます」
「了解です、入るまでには排泄管理魔法が発動しますね、この調子なら」
(え、1リットル!!?しかも、まだ入れるの!?そんな、そんなに入れたらお腹破けちゃう……!)
あまりの苦しさに涙まで滲んでくる。
真っ青を通り越して白くなった顔を苦痛に歪め、せめて身をかがめて激しい便意を逃したくても、直立不動のまま拘束された身体はぴくりとも動かなくて、ただただ苦痛を甘受するだけだ。
あまりに苦しくて、頭の中はこの注がれた中身を全部ぶちまけることしか考えられない。
何だって言うことを聞くから出させて、72番はそれだけを心の中で叫び続ける。
「膀胱頸部の永久閉鎖、肛門の一時閉鎖発動しました」
「了解です。あ、ちょうど注入終わりましたんで抜きますね」
スタッフが話している内容なんて、ただの音にしか聞こえない。
とうとう苦しさに涙を零せば、案の定首輪が作動して余計な刺激に更に呻くことになる。
そんな72番を眺めるスタッフの顔は、心なしか嬉しそうだ。
「もう限界って顔してるわね。これが日常になるんだからさっさと慣れた方が身のためよ」
「たかが1.5リットルで死にそうですって言いたそうねぇ、こんなの序の口なのに」
(序の口……!?そんなっ何でもします、ちゃんと言うこと聞きますっ!だからもう浣腸はやめてっ、トイレに行かせて下さいぃ!)
全身が震え、歯の根が合わない。流れる汗が嫌な冷たさを残す。
必死で肛門を締め続けているけれど、それだって時間の問題だ。
このまま漏らせば間違いなく重い懲罰になる、それだけは何としても避けたいのに。
そんな72番の願いは、人間には届かない。
……いや、届いたところで叶えられることなどあり得ない。
「しっかり下腹部も膨らんでますね。じゃあ刻印入れます」
器械の向こうに座るスタッフが、何かを操作する。
と、ピーッと言う音と共に下腹部に痛みと灼熱感が走った。
(ヒィッ、今度は何!?)
涙目で必死に訴える72番を憐れに思ったのだろう、スタッフが苦笑しながら「ああ、管理番号を刻印しているのよ」と説明してくれた。
「浣腸の苦痛で刻印の痛みも紛れるでしょ?麻酔無しでやったら悶絶ものなのよ、良かったわね痛みが楽で」と付け加えることも忘れない。
確かに痛みが無いわけではないが、この暴力的な便意の波と腹がよじれそうな痛みに比べれば些細なものだ、とどこか冷静な部分が72番の頭の中で呟いている。痛みに痛みをぶつけて相殺だなんて、何という無茶な手段なのだろうか。
ほんのり侮蔑を混ぜ込んだような笑顔で、スタッフは自分の下腹部を指さす。
「下腹部のこの辺ね。ここの皮膚の下に魔力を練り込んだインクを注入するの。物質体だけじゃ無い、エーテル体にも浸食する特殊なインクだから、どれだけ皮膚を切り取ろうが、別の皮膚を植え付けようが、この身体が灰になるまでは管理番号がくっきり浮き上がるのよ」
(そんな……!!)
「物を管理するなら、カバーより本体に直接管理番号を刻印しておいた方が何かと便利だからね」
(っ!!)
(………………これは、違う)
痛みで朦朧とし、時折身体を痙攣させながら、72番は悟る。
ここに来てからの二等種に向けられる視線、言葉、表情……そのどれもが根本的にこれまでと異なっていると。
(何で……人間様、どうして……)
あまりの痛みに意識を飛ばしたくても、度重なる便意が無理矢理此岸へ引き戻す。
必死に声をかみ殺しのたうち回る自分を見つける人間様の目は、これまでスタッフが自分達二等種に向けてきた視線より、ずっと冷徹で、無感情で……初等過程で見学に行った工場のライン工が製品に向けていたものとそっくりで。
「終わりましたね。……うん、綺麗に刻印されてる。じゃ、移送スタッフに渡して保管庫まで運んで貰って」
「はい」
(……これじゃまるで、モノみたいだ)
当たらずとも遠からずな結論に鈍い頭がようやくたどり着いた頃、72番の身体は器械への拘束から解放され、首輪にチェーンタイプの手綱をつけた状態で移送スタッフに手渡されるのだった。
…………
(こんな酷い扱い……どうして……)
何故かは分からない。
けれども明らかにここでは二等種の扱いが異なることを、72番は今まさに身をもって痛感していた。
「なに足を止めているんだ、さっさと歩け」
「ギャッ!!……申し訳ございませんっ……!」
「指導して貰ったのにお礼も無しか?」
「ひぎいぃぃっ!!ご、ご指導ありがとうございますっ……!!」
首輪を無理矢理引かれて、72番はブルブル震えながら足を前に運ぶ。
手綱を引くスタッフは男性だったが、正直言ってあまりの便意に羞恥心を覚える余裕すら今の72番には残っていない。
少しでもスタッフから遅れれば、容赦なく鞭が尻に、背中に、パンパンに膨れ上がった下腹部に飛び、首輪の電撃が追い打ちをかける。
これまでだって生活の些細なことで懲罰を受けることはあったけど、たかが歩くのが遅いから、そしてお礼を言うのが遅いと言う取るに足らない理由で、しかもどう考えてもまともに歩けないような状況で理不尽に懲罰を加えられたのは初めてだ。
「ぁ……あぁぁっ……!!」
また、新たな便意の波が72番を襲う。
出したい、出したい、頭から鳴り響く警鐘はもはや他の思考を許さない。
「止まるな」と怒鳴るスタッフの声すら、意味を理解できない。
(も、もうだめ、これ以上我慢できない…………)
腹の渋りは最高潮に達し、もう一歩踏み出すだけでも決壊してしまいそうだ。
呼吸は浅く、目は虚ろになり、あまりの辛さで閉じられなくなった口からはつぅと涎が床に落ちている。
だというのに、スタッフは容赦なくとどめの一撃だとばかりに下腹部の真新しい刻印の上を打ち据える。
バシッ!!
「ほら、歩け!」
「っいやぁぁ漏れるぅぅぅっ!!」
これ以上肛門を閉じられない。
圧力に負けて全てをぶちまける恐怖に思わず72番は叫び、決壊の瞬間を受け入れた、筈だった。
なのに。
「う……あ…………?え、なんで、出ない……!!?」
そう、既に肛門の括約筋は疲弊して限界を通り越している。
彼女の感覚では肛門は完全にその内腔を曝け出し、溜め込んだ物を無残な排泄音と共にぶちまけているはず、なのに。
「出るわけねえだろ、閉鎖しているんだから」
「へい、さ……」
「おっと、会話は許可してないぞ?」
再び尻に鞭が振り下ろされる。
パチン!と軽快な音を立てて、皮膚が裂けるような痛みを与えられた。
(な、なんで出ないのっ……!?)
その痛みに飛び上がりつつも、今度こそ72番は尻に力を入れて敢えて中身を出そうと踏ん張った。
しかし、どれだけ息んでもまるで頑丈な膜で肛門が覆われてしまったかのように、ぽっかり開いているはずの孔からは中身どころか空気すら漏れ出さない。
(いや……出させて、お願い出させて!!いやあぁぁ出ないのいやっ、死んじゃうっ!!)
「おーすげぇ、中ががっつり見えてら。……うへぇ汚ぇブツまで丸見えじゃねえか、良くこんなモノを晒していられるよな」
「ひぃっ!!」
内心パニックを起こしている72番などお構いなく、水色のゴム手袋をつけたスタッフの指が開いたアナルの辺縁をなぞる。
「にしても、いつ見ても面白い光景だよな。こんなに開いてるのに全く出てこないだなんて」とどこか嬉しそうに、そして執拗に触れられる指が気持ち悪くて、ぞわぞわした何かが背中を駆け抜ける。
自分でも触れたことの無いところを弄くり回されて、頭がおかしくなりそうだ。
「にしてもいい顔するなぁお前!童顔のかわいい系でそんな絶望的な表情が出来るだなんて、さぞかしモテるだろうよ!」
「ぅ…………ぁ……」
混乱した様子の72番を嘲るような笑顔で、スタッフはようやく仕組みを披露する。
……どうもここの人間様は、今まで以上に二等種を嘲笑し痛めつけるのがお好きなようだ。
「お前の肛門は既に魔法で閉鎖されている。天然の逆止弁状態だな、入れる分には何だって入るが、中から出すことは出来ない。一応糞詰まりになって死ぬラインを越えれば、余分な中身だけ魔法で二等種用の汚物処理施設に転送されているから安心しろ」
(閉鎖…………転送……!?)
苦痛に塗れた頭では、内容は上手く把握できない。
けれど一つだけ、理解できたことがある。
それは、少なくとも今はどんなに苦しくても排便が出来ないという残酷な現実。
「ま、詳しい話は保管庫で聞け。苦しいよなぁ?外から見ても分かるくらい腹が膨らんで、ほら鞭で撫でるだけでも刺激されて……いい音が鳴ってやがる」
「ぐぅっ……うぁ……」
「保管庫に収納されて鍵がかかれば、その腹の中身は綺麗さっぱり転送される。楽になりたければ、とっとと歩くこった。……ああ、お前は二等種なんだから別に二本足で歩かなくたって良いんだぞ?四つん這いで獣のように這えば少しは早く保管庫にたどり着くんじゃね?」
(そんな……犬みたいに、床を這うだなんて……)
絶望の中で、72番はうつむき足元を見る。
スタッフは当然のように靴を履いていて、少し土が付いている様子からこの廊下は土足で歩くためのものだと改めて確認して。
(私は……人間様じゃない、二等種、でも……)
ひとかけらの理性が、必死で押しとどめる。
二等種だって人間と同じ構造をしているのだ、二本足で歩く生き物だと、なけなしのプライドを振りかざして。
けれども。
ぐぎゅるるる……となる腹の音、それに引き続いてやって来る、弱まることを知らない猛烈な便意の波の前では、そして頭の中で荒れ狂う苦痛と焦燥感の中では、二等種だと口では言いながらもどこか心の奥底に眠っていた尊厳すら、徐々に削られていって。
「っ……はぁっ…………うぐ……」
「……それでいい。ほら、とっとと足を動かせ。お前のそれはただの前足だ」
「ふーっ、ふーっ……は、はいっ……」
その場に崩れ落ち、ぺたりぺたりと手を、足を動かしながら、それでも便意の波が来る度に立ち止まっては鞭打たれ。
そんな鞭の痛みすら……既に真っ青になっている尻の事すら気にならないほどの苦痛に苛まれながら、72番はスタッフに引かれるまま己の保管庫へと向かう。
……現実感を無くした頭で、掌と膝に付く砂のざらつきだけが、妙に鮮明に感じられた。
…………
「保管庫」の扉は、これまで収容されていた部屋とは少し異なっていた。
扉に管理番号が書かれ、オートロックで内側にノブが無いのは今までと同じ。
扉の一番下に食事のトレイを差し込むための鍵付きの小窓があるのも変わらない。少し幅が狭いような気はするが。
異なるのは扉の高さだ。
どうみても扉は四つん這いで通るしかないの高さしかなく、さらに半分より上にもう一つ小窓が付いている。
「さっさと入れ」と尻を鞭打たれ中に入れば、すぐに扉が閉められる。
ガチャリと鍵がかかる音がするや否や、あれほど苦しめられていた便意と腹痛は最初から無かったかのようにあっさり消え失せ「……おわ、った……?」と72番は思わずその場にへたり込んでしまった。
「……全部、空っぽになったんだ」
一体どのくらいそうして惚けていただろう。
ようやくまともな思考を取り戻した彼女は、ぺたんと元通りに凹んだ下腹部をしげしげと眺め、あれから全く便意が無いことに……何となくお腹が軽くなったような気さえすることにようやく安心するのだった。
けれども一方で、72番はその平らな下腹部に暗澹たる現実を突きつけられる。
毛も生えていないつるりとした下腹部には、今や72番の管理番号が……黒文字の「499F072」が遠目からでも分かるような大きさでくっきりと刻みこまれていた。
「ちょっと、痛いな……赤くなってるし……」
今更ながら、じくじくと刻印の痛みが襲ってくる。それでもさっきの苦痛を思えば、大したものでは無い。
きっと明日の朝には人間様が治療してくれて赤みは取れているだろうが、痛みが引くまでには少し時間がかかるのだろう。
けれど、痛いのは身体よりも、心の方。
「こんな……こんな所にでかでかと管理番号を……二度と取れないって…………」
流れ作業のように施された刻印に、叫びたくなる気持ちを必死で抑える。
部屋――ここでは保管庫と呼ぶらしい――の中は当然のごとく24時間監視されていて、あまりのストレスに耐えられなくなって叫ぼうものなら、電撃の懲罰に加えて食事抜き、トイレ禁止などの制限をかけられてしまうから。
そして、72番は気付かされるのだ。
口では自分は二等種だと言っていても、心の中でも人間とは違う劣った存在だと思っていても、どこか無意識の領域では人間様に似た扱いをされるものだと信じて疑わなかった己の愚かさを。
「……私は二等種、何の役にも立たない、人間様に害を為すだけのモノです」
ここに来てから毎朝のように唱えていた言葉を、72番は無意識にぽそりと口にする。
(ああ、確かに人間様は最初から教えてくれていた。私は二等種で、つまりただのモノなのだと)
気付かされた今、言葉の意味はあまりにも重くて、ただの呪文だった挨拶が急に命を吹き込まれ、自分を浸食していく様にすら感じられて。
本当の意味で二等種という存在に貶められた、堕ちた音が聞こえた気がした。
けれど72番はまだ気付いていない。
本当の意味でこの言葉の意味を体感するのは、もう少し先の話だと言うことに。
…………
確かにここは、部屋では無く保管庫という方が正しいのかも知れない。
ここまで連れてきたスタッフの指示に従い、モニタを通じて一斉配信が始まるのを72番は床に座ってぼんやりと待つ。
……そもそも床以外に座るところが無いともいう。
これまでの部屋より一回り狭い空間。多分4畳半くらいだろうか。
ベッドも机も無く、壁には大きめのモニターが埋め込まれている。
床に無造作に置かれているのはタブレットだ。これは恐らく今まで通り、タブレット単体でも使用できるしモニターのリモコンも兼ねるのだろう。
そして、もう一つ。
部屋の隅に置かれた、犬用の餌皿。
しかしその側面には、72番の管理番号が刻まれている。
(まさか、ご飯がこれになるとか……?いやいや、水入れかもしれない、でも……)
ここに来てからの扱いを思えば、不安は尽きない。
どうにも落ち着かなくて気を紛らわしたい衝動に襲われるも、モニターもタブレットも「配信待機中」の画面から切り替わることはないから、少なくとも配信が終わるまでは使えないのだろう。
「はぁ、ゲームの続きしたいな……読みかけの漫画も……いつまで待たされるのかな……」
いい加減待ち疲れてため息を零したその時、パッとモニターの画面が切り替わる。
そこに映っているのは制服姿の女性だ。首から提げたIDタグには「二等種管理庁 矯正局初期管理部長」という肩書きが辛うじて読み取れる。
この世界ではえらい人ほどケープ付きの制服を身につけているし、肩書きからしてきっとこの人はここで一番えらい人間様だろう。
人間様の配信は正座して拝聴するのが決まり。
72番もその場に正座し、姿勢を正して言葉が発せられるのを待つ。
『あーあー、これちゃんと入ってる?』
『はい、大丈夫です』
『了解。ああ、言うまでも無いが二等種達は姿勢を正して拝聴するように』
――そうして始まった話は、全てが二等種を絶望へと叩き堕とす内容であった。
ここは一般飼育棟。これまで収容されていた教育棟とはまた違うエリアにある建物だ。
教育棟は18歳までの二等種を飼育及び教育する施設で、18歳を迎えたいわゆる成体はこの一般飼育棟に収容されるのだという。
『これまでは幼体であったから、飼育上の都合と……青少年の人権問題に世界はうるさいからな、だから人間の真似事も許されていた。だがお前達はもう成体の二等種だ。これからは二等種用の環境で飼育される。さしあたって、お前達二等種にトイレは必要ない。家畜ですらトイレは使わないだろう?お前達はそれ以下の存在だからな』
「な……!!」
トイレを使えない。
のっけから衝撃的な命令に72番は思わず声を上げ、慌てて電撃の恐怖に身をすくめる。
だが予想されていた懲罰は与えられず、この保管庫内ではある程度の独り言はこれまで通り許されたままなのだと知るのだ。
(トイレが使えないって、どうするの……!?まさか、おまるとか……いや、今日みたいに見られながら外で……!?)
姿勢は正したまま真っ直ぐ画面を見つめる72番の顔からは冷や汗が流れ、消えない不安に胃がキュッとなる。
しかし、続けて告げられた内容はそんな72番の浅薄な想像からはかけ離れた、残酷な処置が既に終わっているという宣告だった。
『先ほどの成体加工……ああ、浣腸と刻印をしたときな。あの段階でお前達の膀胱と肛門は閉鎖された』
「閉……鎖…………?」
『正確には、挿れられるが出せないとでも言えば理解できるか?つまり、どれだけ息もうが排泄物を垂れ流して床を汚すことは無い、一生な』
「…………うそ……」
『心配せずとも死にはしない。膀胱に溜まった小便は1日2回、汚水処理施設へ自動的に転送され、浄化後お前らの飲料水として再利用される。なに、別に今更驚く必要は無い。教育棟でも下水は適切に処理され、二等種用の飲料水や洗浄水、肥料としてリサイクルされていたのだから。当然身体には無害だから安心しろ』
「……うぇっ…………おえぇっ、そんな、そんなことっ!!……ぐっ!」
(ずっと下水を飲んでた……!?処理してるけど、そんな、誰かの出したものから出来た水を……!)
明かされた衝撃の事実に吐き気を催し、悲嘆の叫び声を上げれば首輪から電撃が発せられる。
誰か嘘だと言ってと縋るような気持ちで配信を見続けるも、人間様の口から語られるものには何一つ希望が見いだせない。
(知りたくなかった……既に人間様とは全く違う扱いだったなんて……!)
成体に対する取り扱いの説明は、その後も続いていく。
運動場や洗浄室への移動は四つん這い以外許されないこと、餌(食餌とすら呼んで貰えないのだ)は1日2回保管庫にある餌皿に補充されること。
排便は先ほどのように大量の浣腸液を詰め込まれて十分に洗浄後、転移されるのが毎朝の日課になること、当然命令違反があれば死なない程度の転送しか許可されず、激しい便意と尿意に苦しむ事になること……
(それでもまだ、これまでは人間様に似た生活が許されていた。けれど……今日からは)
『成体となった二等種に、我々人間は一切容赦しない。教育棟で学んだ人間様への礼儀と服従を忘れず、地に這いつくばることしか許されない下等な存在として振る舞うように。では、日常動作に関する成体用の作法について説明する……』
(今日からは、完全に人とはかけ離れたモノ、二等種として扱われる)
ここに連れてこられるまでの、処置ブースや道中で向けられた侮蔑と嘲笑の視線、劣ったものを馬鹿にするような笑い声。
淡々とモノのように扱われ、家畜のように追い立てられ、些細なことで鞭を、電撃を与えられる理不尽さ。
今までだってこの命は完全に人間様に握られていた。
けれどもこれからは、その生活の細部に至るまで自由を奪われ、二度と人間らしい行動を取ることは許されない。
(…………助けて、だれか……)
ぐにゃりと視界が歪む。
奈落の底に堕ちていくような感覚に襲われ、思わず助けを求めるも、当然何も返っては来ない。
ここまで絶望的な気持ちに叩き落とされたのは、教育棟に連れてこられたとき以来だ。
(もう、これ以上の絶望なんて無いと思っていたのに)
良い子にしていれば人間様が快適な生活を与えてくれる。
そんな甘っちょろい希望は粉々に砕かれ、奈落の底に吸い込まれていく。
現実逃避をしたくても、目の前で喋る人間様が、痛みの消えない下腹部の刻印がそれを許してくれない。
そう、成体になり生涯消えない刻印を施されることで、二等種は「完成」してしまったのだ。
(…………私は…………二等種……ただの、モノ…………)
話は生活の細々した規則や作法へと移っていく。
だが現実を突きつけられた72番の耳に、その言葉は届かない。
1時間ほど話は続いた続いただろうか。
『二等種の頭では、ここで話しただけでは理解できないだろう?今話した内容はタブレットに送信されている、明日より3日間表示されるのでその間に全てを頭に叩き込むこと、以後の不備はすべて懲罰となる』と画面の女性が締めくくり、唐突に配信は終了した。
「………………」
ぐるぐると頭の中で回り続ける現実。
どこか感覚すら鈍くなった手はずっと震え続けていて、無意識のうちにタブレットへと伸びていく。
「……配信、終わったから…………ゲームしよう……」
呟きながら開いたタブレットには、しかし成体二等種としての生活ルールが事細かに表示されているだけで、現実から逃げる隙すら与えてくれない。
「そん、な…………」
逃げたい。ここから、今すぐに逃げたい。
このままでは「私」が、壊れてしまう――!
そんなことを思ったのは一体何年ぶりだろう。
二等種保護区は地下深くに作られた、地上への物理的出入り口が存在しない空間で、人間様の転送魔法無しには絶対に出ることが出来ない場所だと教えられて以来、諦めとともに蓋をされていた反抗的な思考があまりの絶望に顔を覗かせ、しかし積み重ねられた教育と懲罰の記憶によりすぐさま押しつぶされる。
「お願い……します…………神様……良い子にするから、どうかここから出して下さい……!」
ぽたり。
一粒、また一粒、タブレットに水滴が落ちていく。
その度に与えられる首輪からの電撃すら今の72番には抑止力となり得ない。
「たすけて」
72番の世界に手を差し伸べるものは一つもない。
絶望からの慟哭は、ただ空気に溶けて消えゆくのみ。
「たすけて……」
監視カメラの向こうにいる管理者の判断により、首輪から強力な鎮静魔法が発動しその場に昏倒するまで、72番は消灯後もその場に座り込んだまま、ただひたすら届かない救いを呟き続けたのだった。