沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
HomeNovelBlogToolsProfileContact

4話 差し伸べられた手は

小説一覧へ

 今日もまた、変わらない一日が過ぎていく。
 ただ膝立ちで後ろで手を組んでじっとしているだけで、勝手に栄養は補給され腸内は洗浄される。

(……二等種はモノだから、仕方が無いよ、ね)

 徐々に重くなる胃の感触を感じながら、72番は諦めの言葉を心の中で独りごち、それよりも早く気持ちよくなりたいと……だから今日は給餌ノズルが早く抜いて貰える日でありますようにと祈っていた。
 時間が経てばどうしたって吸収された水分のせいで尿意に襲われ、折角の自慰の時間も興を削がれてしまうのだ。ならばそれまでにうんと気持ちよくなりたい……

 強制給餌が始まって2ヶ月、二等種達の自己調教は実に順調だった。
 もはや昼頃から我慢できない尿意に襲われるのは仕方が無い、だからそれまでに最大限の快楽を得ようと試みるもの、むしろ尿意すら忘れるほどの刺激を求めるもの……その動機は二分していたものの、結果的にはより孔を拡張し、刺激して開発し、また新しい性感帯を発掘する流れに拍車がかかっている。

 あれほどモノ扱いの象徴と二等種達の心を折った朝の強制給餌にもすっかり慣れてしまっていた。
 今でも嘔吐かない訳では無いが、なるべく喉を刺激しないように上手く飲み込むコツも覚えたお陰で、当初ほどの苦痛は感じなくなっている。
 夜は今まで通り口を使って食べることもできたというのも大きいのだろう。きっと最初から全ての餌を強制給餌にされていたら、いくら日がな一日気持ちよくなることばかり考えているとは言え、もっと長く尊厳を踏みにじられた苦痛に苛まれていたに違いない。

 2ヶ月経った今では、むしろ強制給餌の方を好む個体も出てきていた。
 ……もちろんそれも、人間様に仕掛けられた罠に過ぎないのだが。


 …………


「うぇ……今日も臭い……まずいよう……」

 強制給餌が始まってどの位経った頃だろうか、72番は夜の餌に違和感を覚える。
 なんだかいつもと餌が違う気がするのだ。

 といっても、昨日までまともだった餌が急に今日おかしくなった訳では無い。
 昨日も、一昨日も、その前もよく考えればちょっと変な臭いと味はしていた気がする。
 一体いつからこうなったのかは分からない。ただ確実なのは、ここに来た当初、そして幼体の頃に食べていた主食とは明らかに異なっている事だけ。

 だから、これは事故では無い。
 恐らくは初期から時間をかけて少しずつ気付かれないように味と臭いが変化していた、それに今更ながら72番が気付いただけの話だろう。

「ほんとなんなの、これ……生臭いし、ちょっとしょっぱくて苦いし、洗口剤みたいに喉に絡んで飲み込みにくいし……」

 腐ったものともちょっと違うけれど、なんとも言えない生臭さ。とても口に入れるものとは思えない異臭。
 良く見れば以前はもう少し粥状というか、粒の成分があった気もするが、今や餌皿に注がれるのはただの粘液である。

(いつの間に……つぶつぶが無くなっていたんだっけ……?)

「んぐっ、うえぇぇっ……おえぇ……んぐっ……」

 口に含めば形容しがたいまずさに襲われ、ねっちょりとした粘度のある餌が舌に絡みつき、流し込むための水も無いから必死で飲み込むも、口や喉に残り続ける気持ち悪さと長く残り続ける臭いに辟易する。
 あまりのまずさに嘔吐きが止まらず、ダラダラと涎を垂れ流しながら必死で胃に押し込む時間は、もはや餌という名の拷問だ。

 それでも10分以内で給餌を完了しなければ懲罰だ。その場でじっとするのも辛い程の尿意から一刻も早く解放してほしいと焦る状況でも無ければ、とても時間内に食べきるのは無理だろう。
 無理矢理胃に押し込み、ようやく尿意から解放され、ホッとしたら余計に残り香で吐き気がこみ上げてくる。
 反射的に何度も嘔吐くけれど、それでも本当に吐いてしまうことが無いのは不思議だ。……もしかしたらそもそも吐くことができない身体になっているのかもしれない。

「……これなら、夜もノズルで給餌して欲しいなぁ……あれならゲップしなければ臭いは上がってこないし、味だってしないもの」

 オスであれば、その臭いと味の正体にすぐに気付いたであろう。
 実際ほとんどのオス個体はある意味嗅ぎ慣れた臭いに愕然とし、けれど人間様から恵まれた以上食べないという選択肢も無く「床に飛んだ精液を舐めるのと同じ」と必死で言い聞かせながら毎日涙目になって誰のものとも分からない精液を――実際には人工的に作られた疑似精液で栄養価は整えられた代物なのだが――餌皿から啜っている。

 だが、経験の無い72番には想像すら付かない。
 これが男性から吐き出される欲望の味で、今後生涯にわたり全身に浴びせられ、全ての孔で主食のように飲み続けなければならないものだと知るのは、もう少し後の話になる。

 むしろ知らないからこそ、顔を顰め嘔吐きながらでもこれを餌として認識できるのだろう。
 そう言う意味ではメスはまだ幸せなのかも知れない。

「はぁ、もうこれなら夜も強制給餌にして下さいよぉ、人間様……んふぅ……」

 気持ち悪さを紛らわそうと、72番はお気に入りのディルドを手に取る。
 一般的な最大径を突破した後孔は、休むこと無く拡げ続けられているお陰で今や慣らしも必要なく4.5センチのディルドを易々と飲み込んでしまう。

「はぁっ……あれ、いいなぁ……お尻にも使える、よね?次はあれを頼んでみようかな……」

 視線の先には、獣のような濁った喘ぎ声を上げながら腰を跳ねさせる女性の姿。
 その股間には固定型のピストンマシンからの突き上げが深々と刺さっているのだった。


 …………


「それでは、前年度の成績発表と明日に向けての打ち合わせを始めます」

 49系の二等種を入荷してちょうど半年、初期管理部では全体ミーティングが行われていた。
 いつもの定期ミーティングと異なり、参加者には心なしか緊張の色が滲んでいる。
 配属されて半年、ようやくここでの仕事にも慣れてきた新人も、先輩達の雰囲気にすっかり飲まれていた。

 しんと静まったミーティングルームに、凜とした部長の声が響く。

「先に48系の成績から。48系は本日で誘導終了となります。流石にもう15時だしここから駆け込み出荷は出ないだろうから、これで確定だね」
「入荷246体中、出荷214体、出荷率86.9%。最低基準80%クリア、内部目標83%も大きく上回った。……今期の査定は期待してて良いぞ」
「「!!」」
「査定どころか、48系の出荷率は全国トップよ!まだABCの保護区域が確定してないとは言え、この数値なら恐らく15年ぶりにうちがトップで表彰されるのは間違いないわ」

 これもみんなの頑張りのお陰だよ、と労う部長の声は、沸き上がった歓声でかき消される。
「部長、打ち上げやりましょうよ!」とはしゃぐスタッフ達を「まだ気が早いって」と副部長は諫めながらも、その表情は達成感に満ちあふれていた。

 ひとしきり喜びに浸ったところで「じゃ、次ね」と部長はすっと真剣な顔に戻る。
 これほど大きな成果を出した後だからこそ、気を引き締めなければならない。

「今日で49系入荷から半年です。よって予定通り、明日から『誘導』を始めます。これまでの実績から初日に15体前後の出荷が見込まれますので、各自マニュアルを確認しておくように」
「最低基準は80%、今回の内部目標は81%です。48系より低いのはAIによる算出の結果ですね。49系も質はそこまで悪くないんですけど、どうもオスが全体的にメス堕ちへの抵抗が強いのがねえ」
「ま、素材の善し悪しまでは俺らじゃどうしようもない。だが今回の誘導用企画も優秀だと俺は思っている。初速は気にするな、評価されるのはあくまで1年後の出荷率だから、今後も良いアイデアを思いついたらどんどん提案して行ってくれ」
「「はい!」」
「じゃあ、明日の割り振りな。48系の後始末と、49系対応の担当表を……」

 粛々と進むミーティングの中、新人は隣に座ったベテランの管理官に「あの」とこっそり話しかける。
 そんな新人に「ああ、初めてだとよく分からないよな」とベテランも小声で説明を始めた。

「誘導がどう言うものかは知っているな?」
「あ、はい。二等種達が自主的に性処理用品になりたくなるような施策を打って、志願してきた個体から順に調教管理棟へ出荷するんですよね」
「そう。このために初期管理部は入荷から半年間かけて、入荷個体群に適した誘導企画やその使用タイミングを考えるんだ。不思議と年ごとに傾向は異なるからな、昨年のものをそのまま全て使い回せるわけじゃ無いんだよ」

 誘導は、初期管理部の最も大きな役割である。
 全ての二等種は人間様のために、自ら性処理用品となって奉仕をしたいと志願しなければならない。
 二等種の意思確認があって初めて、彼らは二等種を「人間様のお役に立つ道具」にするための本格的な調教、加工に着手するのである。

 ほんの30年前までは、一定期間自慰による自己調教を行わせた上で自動的に調教管理部へ出荷し、製品にするための調教を行っていた。
 それが変化したのは、性処理用品の製造研究に於いて本格調教開始時に意欲の高かった個体ほど、有意に製品としての等級が高くなるという論文が出たためである。

「あの頃は、本格調教に入ってからの処分個体も多かったんだよ、2割くらいは処分になっていた」
「2割って凄い数じゃ無いですか、研究用のモルモットばかり増えても困るんじゃ」
「それなんだよ。ただ、その後の試行錯誤でこの2割はそもそも性処理用品としての適性が無いことが発覚してな……それなら最初から別の形で役に立てようってことで、今の形になったんだ」

 性処理用品としての適性をできる限り上げて、自主的に堕ちる個体を増やす。
 それでも堕ちない個体は違う形で活用する。
 そのための自己調教と誘導、そして選別を行う役割を、初期管理部は一手に引き受けている。

「結果として、調教管理部の仕事は随分楽になったって当時は喜ばれたものだったよ。今じゃ当たり前のことだけど、やはり人間自らが二等種を直接調教する機会はなるべく少ない方がストレス軽減に繋がるからな」

 そうだ、折角だから確認作業をやってみるかい?と管理官は新人に持ちかける。
 まだ企画を立案できるほどの経験は無くとも、志願してきた個体の意思確認であれば今の彼でも問題なかろう。

(何より、目の前で自ら性処理用品になりたいと懇願する二等種を見せるのは……二等種への余計な感情も払拭できて一石二鳥だからな)

 若者故の、教育を受けたとは言え二等種への感情がまだどこか割り切れていない新人の心情を管理官は見抜いていた。
 こういう余計な憐憫は、後々彼の精神的健康にも関わってくる。今のうちに二等種をただのモノとして見られるようにしてやりたいという、先輩の優しさである。

 頷く新人に「じゃあ明日から頑張れよ」と管理官は部長に彼の参画を進言するのだった。


 …………


「性処理用品……?なんだろう、これ」

 ある日、いつものようにお気に入りの動画を流そうとアプリを開いた72番は、見慣れないバナーが出ている事に気付いた。
 そこには「性処理用品ってなあに?」とポップなデザインのイラストが描かれている。

 何か新しい製品なのかと思い、何の気なしにタップした先に現れた情報に、72番は「へ……?」と目が点になった。

「これ……ええと、人間様に……せせせ、セックスでご奉仕するって、こと!!?」

 そこには二等種向けの性処理用品に関する情報が纏められていた。

 本来、二等種は人間様にとって害を為す危険な存在であることは既に習ってきた通りだ。
 だから二等種はこの保護区域に収容され、6年にわたる教育において無害化される。
 そうして成体になり一般飼育棟に移された後は、二等種の身分にふさわしい生活が生涯保障されているのである。

 だが、生きているだけで何の役にも立たない無害な二等種を憐れんだ人間様は、そんな二等種でも役に立てる様に作り替える術を編み出した。
 それこそが、人間様に生涯性的な奉仕を行う「性処理用品」である。

 性処理用品となった二等種は、人間様のあらゆる性的な欲望に奉仕する事が義務づけられる。
 あくまでも二等種は国が所有している機材扱いのため、企業や個人が使用する際には貸し出しという形を取るらしい。
 また街中にも設置され、不特定多数への奉仕を行うこともあるようだ。

「満足度98%……本当にこんなに満足するのかなぁ……」

 あからさまに怪しいグラフに、72番は眉を顰める。
 だがその下に書かれた「性処理用品となった二等種のアンケートより」と題した感想を読み進めるうちに、この数値もさもありなんと納得していくのだ。


『ずっと二等種は何の役にも立てないゴミみたいな存在だと思っていましたが、性処理用品として毎日人間様のお役に立てて、ようやく自分にも価値があると思えるようになりました』

(……うん、そう思っている。生きる価値なんてないって。そっか、役に立てるようになるんだ……)


『二度と窓の無い空間から出られないと思っていたのに、地上に出られた。暗くなる空を見て涙が出た』

(ああ……外には本物の空がある、もう忘れちゃってた)


『人間様がご褒美に与えてくださる快楽は凄いです。自慰じゃもう満足できない』

(……そう、気持ちは良いの。でも満足できない……人間様にご奉仕したら、満足できるようになるの……?)


 この言葉が、本当に性処理用品となった二等種から発せられた感想かどうかは確かめようが無い。
 けれども書かれている感想は、どれも今の72番の境遇を、心の奥底に押し込んでいた不満と願望を暴き出してくる。


『性処理用品になれば、全てが解決する』


 あからさまな美辞麗句は、しかし長年抑圧されていた72番の心を揺さぶるには十分過ぎる言葉だった。
 ただ、揺さぶられたからといってなりたいかと言われれば、また別の話で。

(……でも、やっぱり……奉仕ってつまり、セックスするってことだし……)

 それは自分には無理だ。そう72番は結論づける。

 確かに最近では自慰でもなかなか達することができなくて、例え絶頂を得られても最初の頃のような目の前に星が煌めくような強烈な快感と満足感にはほど遠いのが実情だ。
 自分でもうっすらと気付いてはいる。この身体の、特に胎の奥の消えない疼きはもはや自慰では如何ともし難いのだろうと。

 だからきっと、性処理用品になれば渇望を満たしてもらえるのだろう。
 限定と銘打ったバナーは、どうやら適性のある二等種だけを性処理用品へと誘うためのものらしい。つまり、自分にはこのページの下部にある「今すぐ志願する」のボタンを押す……渇望を満たして貰える資格があるのだ。

 それは分かっている。
 けれども、どうしてもこの大切な場所を暴かれ貫かれる事への恐怖は消えなくて。

「……いいや。私はここで、中途半端でも気持ちよくなれたら、それで……」

(忘れよう。自分には分不相応な話だったんだ)

 破瓜の恐怖と自己評価の低さ故に、性処理用品になることにすら自信が持てない72番は、そっとそのページを閉じた。


 …………


「性処理用品に関する質問にお答えします』
『あなたも性処理用品になりませんか?』
『実録、性処理用品の一日』

「……んもうっ、なんでこんなに余計な広告が出るのよぉ……!」

 それ以来、72番のそこそこ満足な自慰ライフは激変した。
 動画を開けばちょうど良いタイミングで動画広告が流れ、電子書籍にはどのページにも常にバナーが表示される。これまで全く広告なんて表示されなかったサイトにも、ありとあらゆる広告が表示され、その全てが性処理用品に関するものである。

「こんなに広告を出していたら、逆効果なんじゃないの……?」

 うんざりして「私は性処理用品にならないってば」と独りごちる72番は、突如増殖した広告のお陰ですっかり興を削がれていた。
 何たって、いつものように快楽を貪りあと少しで絶頂できる、そんなタイミングで突然広告が部屋に流れ始めるのだ。お陰で変に気が散って、絶頂のタイミングを何度逃したことか。

「はぁ……逝きたいよぉ……こんな広告出るから、なかなか逝けないし……」

 愚痴りながらも腰を押しつける動きは止まらない。
 今日は朝から3回しか絶頂できていないのだ。しかも絶頂寸前に広告が差し込まれたお陰で気が散って気持ちよさを堪能できなかったお陰で、どうにもムラムラが収まらない。

「んっ、もう一回……ふぅっ、んはぁ……」

 懲りずに絶頂を夢見て腰を振る72番は気付いていない。
 この広告が出始めた頃から、二等種の自慰は意図的に阻害され、特に絶頂に関しては日が経つにつれ達しづらく、かつ絶頂を迎えてもますます不満が残るような中途半端な状態に制限されていっている事に。

 そんな渇望と不満を溜め込んだ中でしつこく流れる広告は、確かに邪魔だと嫌悪感も感じていたけれど、あまりにも魅力的でどうにも気になって仕方が無いのも事実なのだ。

 それに、毎日連呼され表示される数字は、どうしたって72番を煽ってくる。

『昨日は3体の二等種が、性処理用品に志願しました』
『素晴らしいですね、これで計69体の二等種が人間様のお役に立つために志願したと』
『ええ、我々人類は二等種の決断を歓迎しています。害を為す存在として生まれながらも努力を重ね、社会で役立つモノとして地上に戻ってきたのですから』

「……69体…………そんなに……」

 その数字には、72番も心当たりがある。
 毎日の運動時間に広場に現れる二等種の数が、明らかに少なくなっているからだ。
 自分と同じ歳の二等種がここにどのくらいいるかは分からない。ただ、これまで見てきた管理番号から察するに、200体以上はいるだろうと認識している。
 そのざっくり3分の1近くが、たった2ヶ月の内に性処理用品として志願し……ここから出て行ったのだ。


 あれほど帰りたいと、何度も願った、地上へ。


「……いいなぁ」

 ぽつりと漏れた言葉は、紛れもなく72番の本音だ。
 ずっと忘れていた、もう無くなったと思っていた地上への憧れが脳裏をよぎる。

「何のデメリットも無いんだよ、ね……」

 そう。考えれば考えるほど、人間様が差し出してくれたこの提案は魅力的なのだ。
 実際に性処理玩具となった二等種が名だたる大企業で奉仕している姿も広告動画で見たけれど、彼らは皆一様に幸せそうに笑顔で人間様に奉仕し、ご褒美として前後から同時に穴を突かれては濁った悲鳴を――あれは知っている、本気で気持ちよくて頭がおかしくなりそうな時の声だ――上げていた。
 だから、性処理用品になればこの狂おしいほどの発情もきっと満たすことができる。

 オフィスの様な部屋は清潔で、大きな窓があって、外の光が差し込んでいる。
 いつも浴びている偽物の太陽では無い、あの記憶に朧気に残る、ちゃんと「暑い」太陽なのだ。

 窓の外が夕日に照らされても、画面の中の二等種は相も変わらず幸せそうに腰を振り続けている。
 ……その肢体に映るオレンジの光にすら、キュッと胸が締め付けられて。


(!!……ああ、この音楽、覚えている……!!…………ママ…………っt!)


 喘ぎ声の向こうに夕暮れのチャイムが流れた途端、72番の脳裏には幼い頃母と一緒に散歩した想い出が急に蘇り、思わず涙が溢れて……けれど、その感動すら無情にも懲罰電撃に阻まれる。
 二等種は喜びでも悲しみでも、涙を流すことを許されない。――性的な悦びを除いて。

(懐かしい……もう、ずっと聞くことは無いって思ってたのに……)


 あの風景が、二度と諦めていたものが、また見られる、感じられる――


 そんな憧憬から現実に引き戻すかのように再びバチン!と首輪から電撃が流れ、天井から「給餌時間です」と無機質な音声が流れた。

「……ああ、もうそんな時間なんだ……」

 夜の餌だから、きっと地上は今頃夕暮れでこんな美しい空の色になっていることだろう。
 ……ここではその欠片すら、味わうことができないのに。

 振り返った先に見えるのは、代わり映えの無い白い部屋。
 暑くも無く寒くも無く、適度に明るく快適な場所ではある。ただ、それだけだ。

 ここは季節も時間も奪われた、二等種を保管するためだけの……モノをしまうための空間に過ぎないから。

(考えちゃだめ。私は二等種なんだから……人間様のような事を、願っちゃダメ……)

 突きつけられた現実に72番の瞳は光を失い、いつものように土下座をして今日もあの生臭い餌を恵んで下さいと淡々と誰もいない空間に向かってねだるのだった。


 …………


「誘導」が始まって3ヶ月が経過した。

 初期管理部の管理官達はいつものようにモニタールームに集まり、難しい顔をしてタブレットを眺めている。
「大体豊作の後は揺り返しがくるんだよな」と嘆息するのは定年間近の副部長だ。

「前回は15年前だったが、あの時もそうだった。次の年は不作でな、ノルマの8割どころか7割にすら届かなかったんだよ。ただその時よりは今のところマシだ」
「3ヶ月終了段階で82体、36%かぁ……理想曲線は現段階で5割でしたっけ」
「だな。現時点の最終出荷率予測は74%、流石にてこ入れが欲しい」

 今年はオスの調教の進捗が遅く、恐らく出荷にも影響が出ると管理官達は考えていた。
 しかし蓋を開けてみれば、初日の誘導で出荷となった15体は全てオスで「どうしてこうなった」「あんなにメス堕ちを嫌がってた癖に、もっと酷い待遇を好むだなんて」と部内に困惑が拡がったほどだ。

 その後もオスの出荷は順調で、現時点で既に半数が出荷済である。
 だが、メス個体の状況は非常に芳しくない。

「今回のメス個体は絶頂への訴求にも同調圧力にもなびかないですね」とデータを見つめるのは、今年管理官になったばかりの若い女性スタッフだ。
 彼女の作る誘導コンテンツは非常に出来が良く、今回もコンペで最優秀賞を受賞している実力者である。弱冠26歳で管理官に昇進するのは異例の出世ペースだろう。

「コンテンツも体験談は繰り返し読まれているし、興味はありそうなんだけどなぁ……そう言えば二等種の癖に破瓜率も低いんですよね、今年」
「そうなんだよな、やたら膣を使うのを怖がる個体が多い。幼体時の自慰率も普段より2割くらい低かったし、まぁ歳色ってやつか」
「その恐怖を上回るくらいの魅力を提示したいところですね。……ちょっと早いけど最優秀賞の出番かも。あれはメスの方が刺さると思う」
「そうねぇ、ただ使用はタイミングを見計らいたいかな。人間と錯覚できるような権利への憧れをもっと強めて……そこからトドメを刺すには効果抜群だと思います」
「それは同感」

 誘導初月に出荷した個体は、そろそろ製品として完成する頃合いだ。
 初期の入荷ラッシュが片付いた調教管理部からも、手が空くからガンガン出荷してくれて構わないと催促の連絡を貰っている。

 だからこそ、現時点で何かしらのてこ入れを行いたい。
 ただ大々的にてこ入れを行う前に、どのくらい効果があるか試してみたいとリストを眺めていた管理官が「これ、ちょうど良さそうだし使ってみても良いですか?」とあるメス個体をモニタに映した。

「あーそれな。まさに典型的な後一押しが足りない個体だ。潜在的な絶頂への渇望は強く満足感を得たいと思っているが、セックスは怖いから自分には無理だと諦めてしまってな。なので快楽以外の餌をぶら下げた誘導に切り替えたところ、これが顕著な反応を見せた」
「剥奪された人権をちらつかせる動画は効くからな。外の空気を吸わせて貰えるってだけで喜んで志願してきた個体もいたくらいだ」
「そんなことで喜ぶだなんて、ホント無様よねぇ二等種って」

 鼻で笑う管理監達が眺めるモニタに映っていたのは、群青色のツインテールを振り乱し『逝きたい……逝きたいよぉ……!』と床に固定したディルド相手に腰を振り続けるメス……499F072の姿だった。

「あー随分切羽詰まっているなぁ、今どんな状態?」
「制限ですか?まだ日に4回は許可してますよ。性欲薄めの個体ならこれでもまだ十分余裕なんだけどなぁ」
「これ、確か初穴は尿道じゃなかったっけ?そんな変態個体じゃ4回でも辛いだろうよ」

 これだけ煮詰まっているのにまだ志願しないだなんてね、と管理官達はどこか呆れ顔である。

 初期管理部における「誘導」の期間は1年間だが、半年終了段階での出荷率は平均75%。
 ここまでで志願しない個体は、以後どれだけ締め付けたところでほとんど誘導されない……いわゆる性処理玩具への適性が低い個体なのが現実である。
 だから初期管理部では、ありとあらゆる手段を使って誘導から半年以内に全ての個体の「適性」を高め、志願のボタンを押させることを目標としている。

 そのため誘導開始後に実施される絶頂への制限は基本的に強くなる一方で、個体により差はあるが、大体5ヶ月目に入るとどの個体でも日に1度射精や絶頂ができれば良いレベルまで厳格に管理される。
 これにより、どんなに様々な理由で出荷を拒んでいた二等種も、この時期には一度覚えた自由な悦楽をとことんまで制限され、精神的に限界まで追い込まれる羽目になる。
 そこに先行して出荷された個体が人間様との性交で幸せそうに喘いでいる映像を突きつけられれば、余程でない限りは耐えきれずに出荷の道を選ぶのだ。

 ……ただ、今年はその「余程」な個体が多めなのだろう。だからこそ5ヶ月目に入ってから使用する予定だった虎の子の企画を、前倒しで使おうという話が上がったのである。

「……あの企画は、間違いなく今年の最終兵器だ。あと3ヶ月で75%まで出荷率を上げるためにも、使いどころを間違わないようにしないと」
「ええ、ではこの個体で効果を測定しましょう。結果をAIに分析させれば、残りのもたついてるメスにも効果的に応用できます」

 実験日は翌日と決められ、ミーティングは終了する。
「ま、あの動画なら確実でしょ。こいつの出荷は決まったようなものね」と部長はコーヒーを煎れながら新人スタッフにメッセージを送るのだった。

『明日から3日間、いつでも呼び出しに応じれるようにしておいて下さい。出荷個体の意思確認を担当して貰います。マニュアルは頭に叩き込んでおくように』


 …………


「ああぁ……逝きたいよう……!」

 次の日。
 洗浄を終えて保管庫へと戻った72番は、あまりのもどかしさに狂ったように腰を振り続けていた。

(なんで!?今まではこれで逝けてたのに、どうして……?)

 後孔にはずっぽりとピストンマシンを咥え込み、クリトリスには電マを当て続けている。
 確かに気持ちは良い、それは今までと変わりが無いのに、日に日にこの刺激で絶頂に至れる回数は減り、今日に至っては朝から絶頂の兆しさえ見えないのだ。

「はぁっはぁっ……お願いしますっ人間様、逝かせてくださいっ、お願いしますぅっ!!」

 目の前で濃厚な交合を繰り返す男女の映像を食い入るように見つめながら、72番は届かない願いを延々と叫び続ける。
 こんなに辛いなら、いっそ性処理玩具に志願した方が楽になれるかも知れない……そんな想いが時折脳裏をよぎる。

(……でも、やっぱり前は……怖い……)

 後ろを慰めるだけでは収まらない胎の疼きがどこから来ているのか、流石の72番も察しは付いている。
 それでも、何故かここだけは怖いのだ。破瓜は痛いと聞くし、何より……ここに挿れてしまったら何かが決定的に変わってしまう気がして。

(無理……私にはできない……みんな、気持ちよさそうだけど、怖いもん……)

 数日前に流れた奉仕の動画。
 そこに映っていた二等種の管理番号は497で始まっていて、同い年の二等種が既に性処理用品として快楽を貪っている事を知った心は大いに揺れ動く。
 映像に登場する二等種は皆一様に幸せそうなのが、余計に今の自分の惨めさを浮き彫りにしていた。

「今すぐ志願する」のボタンに指を伸ばそうとしては破瓜の不安と恐怖に見舞われ、やっぱり無理だと一体何度指を引っ込めただろうか。
 きっとその先に待つのは救いだと言うのに、人間様が差し伸べて下さった手すら取れないほど自分は劣った存在なのだと、72番はその度に己を責め、幸せを掴んだように見える二等種達を羨みつつ諦めの言葉を言い聞かせ続けていた。

 一心不乱に腰を振っていれば、突然画面が切り替わる。
 ああ、また広告かなと72番はどこか諦めた様子でモニターを眺め、しかしその腰の動きが止まることは無い。

(無理だよ……私には、できないのに……惨めになるだけだから、もう流さないで……)

 だからせめて、好きな動画で楽しむことくらいは許して欲しいと願う72番の気持ちは完全に無視され、いつも通り唐突に広告は流される。
 どうやら今日は性処理玩具となった二等種のインタビュー動画らしい。散々見せられた内容だなと冷めた目で眺めていた72番はしかし、目の前に広がった光景に「え……」と言葉を失った。

 映像にはいつものように、二等種が映っている。
 だがその様子はいつもと全く異なっていた。
 窓の向こうに広がるのは、濃く澄んだ青い空。背の高い、異国の植物たち。
 そして明るい部屋の中では

「……うそ、椅子に座ってる……それに、服……!?」

 淡いピンクの髪の少女が、座り心地の良さそうなソファに腰掛け微笑んでいた。

特別な二等種



 顔の上半分は分厚いベルトのようなアイマスクできっちりと隠されている。インタビューを受ける個体は皆目隠しをされていたから、これは決まりなのだろう。
 更に股間から伸びている鎖は、手を後ろで固定されているからおそらく手枷に繋がっている筈だ。
 二等種だから、万が一を起こさないように人間様の近くでは拘束されるのも仕方が無い。それは理解できる。

 だが、椅子に座り、更にシースルーとは言え服を……黒のベビードールを身につけている個体なんて、今まで見たことが無い。一瞬、これは本当に二等種なのかと疑ったほどだ。
 首輪と服から透けて見える管理番号の刻印がかろうじて彼女の身分を示していたけど、少なくとも72番から見てこの個体はとても「人間」らしく見えていた。

(性処理用品って……こんな待遇を受けるの!?)

 目を丸くする72番の疑問に答えるように、インタビューが始まる。
 実は一口に性処理用品といってもその境遇は様々で、従順かつ奉仕の成績が良い個体は本来二等種に許されない特権を与えられることもあるのだという。
 目の前に映っている少女は、まさにその特権を謳歌している個体なのだ。

 現在は国外に貸し出されているというこの性処理用品は、貸し出しのために現地の言葉も教え込まれたという。
『人間様のご指導のお陰で、私はとても恵まれた環境に設置して頂いております』と柔やかに語るその口調は、彼女が心から今の生活を、そして人間様から与えられた権利をありがたく思っている様子が手に取るように感じられた。

『人間様は異国の性処理用品である私を、とても大切に扱って下さいます』
『性処理用品としての生活を、辛いと思ったことはありますか?』
『調教中は正直辛かったです。けれどあの時しっかり躾けて頂いたからこそ、人間様のお役に立てるようになりましたから……人間様に使って頂けることで、私は二等種でありながらようやく生きることを許された気がするんです』

 服もいただけるし、ふかふかのベッドで寝ることも許されています、と彼女の口からはまるで人間のような生活を伺わせる発言が続く。
 身体を覆うこと、寝具を使うこと、温かいシャワーを浴びられること……どれも成体の二等種には生涯許されないと諦めさせられたことばかり。

『それに人間様とのセックスはとても気持ちが良いんです。毎日ご奉仕して気持ちが良いことばかりな上に、人間様のような生活まで許されて……本当に私は幸せな二等種だと思っています』
『なるほど、大変満足されているのですね。このインタビューはまだ性処理用品に志願していない二等種が視聴しますので、彼らに対してアドバイスをしてもらえますか』
『そうですね……確かに調教も奉仕も慣れるまでは大変ですけど、努力して結果を残せば人間様は見返りを用意して下さいます。どんな個体でも立派な性処理用品になれるように懇切丁寧に指導して貰えますから、今自信が無くても大丈夫です。私だって最初は凄く怖くて……何せ、志願したときにはまだ前も後ろも使ったことが無かったんですから』
「!!」

 自分と同じだ、そう72番は親近感を覚える。
 いや、後ろは使っている分まだ自分の方がマシなくらいだ。それでも彼女は立派な性処理用品となっている。

(そうなんだ……こんな私でも…………大丈夫……?)

『何も無い部屋で、ただ自分を慰めながら役立たずとして生きているなら、思い切って志願して欲しいですね。だって、私は性処理用品になってこんなに幸せですから』

(そう……ここにいる限り、ずっと私は……ダメな二等種のまま……)

 豪奢な部屋で微笑む彼女が眩しい。
 その姿は二等種でありながら、まるで……人間様のようにすら見えるのだから。

(私でも、ああなれる……?)

 ずっと心の奥底に蓋をしていた思いが溢れてくる。
 地上の景色が見たい。温かいお風呂に入って、布団の中で眠りたい。
 二等種のはしたない身体なのは変わらなくても、せめて薄くても良い、布で覆われたい……

 煌びやかに見える世界のインタビューはどうやらこれで終わりらしい。
『人間様、本日は会話の許可を頂きありがとうございました』と頭を下げる彼女に男が口枷を漏って近づいてくる。
 と、その時。

『Buka mulutmu, itu hadiah』
『Ya, Terima kasih bos』

 男が聞き慣れない言葉を発すれば、少女もまた知らない言葉で返して口を開ける。
 口に放り込まれたのは茶色い四角い物体だ。

 味わうようにもぐもぐとゆっくり口を動かす少女に、インタビュアーだろう声が外から聞こえた。

『それは?』
『チョコレートです。生チョコ?でしたっけ。特にご奉仕に満足頂けたときに時々いただけるんです。甘くて柔らかくて、すぐ溶けちゃうのが勿体ないですね』

「!!」

(え……!?チョコ、って、今言った……!?)

 思いがけない言葉に、72番の全身に雷に打たれたような衝撃が走った。
 まさか、二等種が、人間様の食べ物を……しかもチョコなんて嗜好品を、与えられている!?

 もう一つ、と男がチョコをつまんで少女の口に近づける。
 目が隠れていても分かるほど嬉しそうに彼女が口を開けたところで、映像は唐突に終了し、さっきまで流していたお気に入りの動画に戻ってしまった。

 水音と、喘ぎ声が部屋に満ちる。
 けれど何故だろう、一番好きな動画なのに……今はただその声も虚しく響くばかりだ。


 ぽたり。


「っ……え、なに……涎……うそ、垂れてる……?」

 太ももに濡れた感触を感じて、72番は初めてポカンと開けた口から涎が垂れているのに気付く。
 舌の裏から、じわりと涎が溢れ出てくるのが止まらない。

「ぅ……っぁ……ああ…………うあああぁっ!」


(知りたく、無かった……そんな、そんなの見せないで欲しかった!!)


 思わず漏れた慟哭と共に猛烈に湧き上がるのは、性欲すら凌駕する渇望。
 涎が出ているのは口だけじゃ無い、頭の中からもだ。……久しく忘れていた「食べる」事への、何よりも甘味への本能的な衝動が、72番の心を埋め尽くす。

 人間様の食べ物。チョコレート。甘いもの……甘い、お菓子……!
 地上にいた頃には当たり前のように食べていたおやつ。あれから何年経っても、脳はあの物体の匂いを、味を、鮮明に覚えている。

(食べたい)

 とうに空腹なんて忘れていたのに。今だってお腹が空いているわけじゃ無いのに、頭は猛烈に食への欲求を訴える。
 チョコレートだけでは無い、アイスクリームに、ポテチ……ママが作ってくれたカレー、オムライス……小さな箱にこれでもかと詰め込まれた、今思えば宝石箱のようなお弁当。

 ああ、愚かな二等種は手が届かなくなってから初めてそのありがたさを知るのだ。
 まともな味の付いたものを食べられることすら、権利だったのだと――

『給餌時間です』

 無機質な音声と首輪からの電撃に、72番はいつもとかわらぬ所作で人間様に餌をねだる。
 土下座する向こうで、金属の餌皿に得体の知れない白い物体が注がれていく。

「……臭い……」

 躾けられた身体は、全ての感情を無視して餌を啜り始める。
 口から鼻に生臭い匂いが駆け抜けて、独特の絡みつくようなねっとり感が何とも形容しがたいまずさに拍車をかける、二等種の餌。

「おぇ……まずい……ほんっと…………臭くてまずいよぉ……」

 独りごちながらも、淡々と餌を啜り、嘔吐きながら飲み込む。
 全く空腹を感じられない胃に、事務的に餌が流し込まれていく。

 ああ、今日は首輪からの電撃が全く止まない。
 けれどこんな電撃より、ずっとずっと、心の方が痛い……!

「ひぐっ……涙の塩味じゃ、全然、誤魔化せないよぉ……っ!!」

 一度こじ開けられた欲望の蓋は、そう容易く閉じられない。
 だからこそ絶対に触れられないように、心の奥底に閉じ込めて、幾重にも鍵をかけてきたというのに。

(食べたい)

 涙に暮れ、電撃に呻きながらも、餌を啜る口は止まらない。
 頭の中はまずい、食べたくない、吐きたいといつも以上に訴えているけれど、植え付けられた人間様への従属がそれを許さないのだ。
 何て惨めな……人間様無しには生きていけない、無様な姿なのか。


(あの子みたいに、人間様のようなものを、食べたい)


 けれど、思考するだけなら、願うだけならそれは罪では無いから。

(性処理玩具になれば)

 最後に72番は、餌皿を隅から隅まで舐め尽くす。
 この餌は人間様に与えられたものだ、一滴たりとも残してはいけない。

 ――ああ、もしかしたらこの餌と呼ぶのすら悍ましい物体も性処理玩具になれば食べずにすむのだろうか。

(私も、彼女みたいに甘いものを食べられる……)

 全ての二等種があの境遇を得られるわけでは無い、それは分かっていても自分は幸せな方向に向かうと根拠無く思い込んでしまうのは、人の性であろう。
 新たに増えた渇望を満たすためなら、脳は少々の矛盾など勝手に言い訳で塗りつぶしてしまうから。

「人間様……美味しい餌をお恵み頂き、ありがとうございました……」

 涙声で額ずく72番の心に、今や不安や恐怖は無い。パンドラの箱から出てきた欲望に、全ては埋め尽くされてしまっていた。

 排泄物の転移を待って、彼女はすぐさま側に置いていたタブレットを手に取りバナーをタップする。
 二つの青い瞳が捉えるのは、性処理玩具のランディングページ下部。二つの本能が訴え続ける渇望を満たしてくれるであろう「今すぐ志願する」と書かれた赤色のボタンだ。

「…………私も」

(性処理用品になって、今よりいい生活をするんだ)


 …………ぽちり。


 震える手が、申し込みボタンをタップする。
 数秒後切り替わった画面には「申請を受理しました。その場で土下座したまま待機するように」と表示されていた。


 …………


「ええと、管理番号を略さずに呼んで、感情を込めずに淡々と意思確認を……」
「声が震えてるよ、新人君。ほら、胸を張って堂々とする!」
「はひぃっ、もう心臓が爆発しそうですぅ!」

 初期管理部のスタッフ達が地上からのデリバリーにさぁ手を付けようとしたところで、モニタールームにチャイムが鳴り響く。
「志願者出ましたね」と一人のスタッフが画面を確認するやいなや、新人の方に向き直ってにっこりと口の端を上げた。

「おめでとう新人君、出番だよ」
「ほえっ!?ちょ、せめてこれを食べてから」
「麺は伸びてても食べられるって。申し込みがあれば即出動して出荷準備室へ連行、気が変わらないうちにさっさと話を進めるのが基本!ほら行くよ!」
「くそおぉぉちょっとはタイミング考えろ二等種めえぇぇ!!」

 マニュアル片手に泣く泣く部長に引きずられていく新人を、スタッフ達は「気の毒に」と笑いながら見送る。
「にしても早かったわね、即堕ちじゃない」と仕掛け人……かの動画を作った管理官はご満悦だ。

「どれだけ人権を剥奪したって、何年も抑圧されていたって、幼い頃に刻み込まれた蜜の味は忘れられないのよねぇ」
「にしてもあそこまで反応するものです?たかがチョコ一つに」
「甘味への欲求ってバカにならないのよ。砂糖も麻薬並みの依存を引き起こすでしょ?普段は性欲で隠れているけど、この国で生まれ育ったなら12歳まではたらふく砂糖たっぷりのお菓子を食べてたでしょうし、ちょっと揺さぶってやればこの通り」

 とはいえここまで綺麗にハマってくれると気持ちがいいわぁ、と若い管理官はすっかり興奮した様子だ。
「これなら相当効果は期待できる」と早速取得したデータをAIに入力し、プロトコルを算出していく。

「……うん、AIの予測だと現時点でも22体のメスがこれで出荷できるって出たわ。残りの個体もいくつか動画を挟んで揺さぶってから使えばいけそう」
「22体!?そりゃまた一気に出荷したら調教管理部にドヤされますかね、ちょっとは加減しろ!って」
「いいんじゃない?向こうは忙しくなるったって、実働するのは人間じゃ無いんだし」

 すっかり調子に乗ったスタッフ達は、早速明日に向けての担当決めを始める。
 その背後のモニターには、出荷準備室に移された72番の姿が映っていた。


 …………


「ロックを解除します、外に出て人間の指示に従いなさい」

 無機質な音声と共にカチリと音がして、部屋のドアが解錠される。

(やっちゃった……申し込んじゃった……!)

 勢いのままに申し込みボタンをタップした72番は、全ての精力を使い果たしたのだろう、その場で惚けてぺたんと床に座り込み、けれども少し時間が経ったお陰で冷静さを取り戻していた。
 確かにもっと気持ちよくなりたいし、甘いものだって食べたい。どんな二等種でも丁寧に指導されるとも彼女は言っていた。
 でも、本当に……自分にセックスができるのだろうか?

 蘇ってきた破瓜への不安に飲まれそうになりつつも、72番は指示に従い廊下に出る。
 そこには見慣れたポロシャツを着た男性スタッフと、初めてここに来たときに画面に映っていた女性管理官の姿があった。

「…………」
「………………」

 無言で首輪に鎖を付けられ、管理官に引っ張られる。
 慌てて四つん這いで歩くも、二足歩行の速さに付いていくのは割と大変なのだ。しかし少しでも遅れれば後ろからスタッフの鞭が飛んでくる。

(一体どこへ……)

 いつも矢印に沿って歩くことしかしないから、いまいち方向感覚が分からない。
 スロープを下り、少し薄暗い廊下を抜けた先にあるドアを開けた管理官は、そのままずんずんと中に入っていった。

「…………!!」

(ここは……まさか……!)

 目の前に広がる光景に、72番の心臓が早鐘を打つ。

 そこは殺風景な部屋だった。
 隅にはたくさんのスーツケースが並べられていて、目の前には壁の向こうに繋がるベルトコンベアーがある。
 さっと蘇るのは、ここの棟に収容されたときの出来事、そして……二等種として捕獲された日の記憶だ。
 どうやら二等種の輸送はスーツケースに詰めるものらしい。そしてここに連れてこられたと言うことは。

(ああ、あれに詰め込まれて……また、違うところに行くんだ)

 四つん這いのまま、72番はぐっと唇を噛みしめる。
 もうここまで来てしまったのだ、今更申し込みのキャンセルなど許されないだろう。

(……早まったかな……)

 せめて一晩考えてからボタンを押すべきだったのでは、と今更ながら思い返したところでどうしようもない。
 その場で土下座をするように促された72番は、額を床に付け、しかしどうにも止まない発情に腰を揺らし蜜を垂れ流しながら次の命令を待つ。

 だが、そこにかけられた声は、意外なものだった。

「499F072、これから性処理用品志願の確認を行う」
「……え?」
「自らの言葉で性処理用品になりたいと、人間様のお役に立ちたいとここで宣言しろ。その熱意が本物であると我々が判断すれば、性処理用品になることを許可しよう」
「!!」

 スタッフの言葉に、72番は戸惑いを覚える。
 どうやら申し込みボタンを押したからといって必ず性処理用品になれるわけでは無さそうだ。
「ええと、あの……」と口ごもる72番に「さっさとしなさい」と口を挟んだのは女性の管理官だ。
 その凜とした声に、思わず身体が強張ってしまう。

「時々ね、邪な考えで志願するバカがいるのよ。性処理用品は人間様に奉仕するためだけに作られるモノなの。自分の快楽を優先するような二等種には本来務まらない仕事よ」
「!!」
「そうではない、心から人間様にご奉仕したいと望んでいるなら、今、この場で宣言しなさい。……私達が納得できるまでね」
「っ…………」
「ああ、言っておくけどチャンスは一度しか無いわよ?あの申し込みボタンは一度押せば二度と表示されない。ここで適性無しと判断されれば、あんたは一生あの保管庫の中で自分を慰めながら生きるしか無くなる」
「そんなっ、ぐあぁっ!!」
「無駄吠えをするなと習っただろう?お前は人間様に命じられたことだけを話せばいい」

(やり直しはできないんだ……これが最初で最後のチャンス)

 時々、なんて言ったけれど、きっとほとんどの二等種は自分と同じようにもっとマシな環境を夢見て志願しているのだろう。そんなことは人間様も把握済みということだ。
 そしてここで人間様を納得させられる言葉を発せられなければ、自分は一生あの部屋の中で満たされない思いに泣き、臭い餌を啜り続けるしかなくなる。

 人間様が差し出して下さった救いの手は、今、ここで手を取らなければ消えてしまう――

(やだ……それは、いやだ……!)

 ふと生じた不安も、後悔の気持ちも、ここで決断しなければ前に進むことすらできなくなると理解すれば途端に消え失せる。
 ……もはや72番の頭の中は、いかにしてこの状況を上手く切り抜け、性処理用品への道を開くかを思考するだけで精一杯だ。


「っ、私、はっ……!」


 しばらくの沈黙の後、72番が震える口を開いた。

「にっ、人間様のお役に立ちたいです!!お願いします、一生懸命頑張ります!だから、性処理用品にならせて下さい!」
「……そんなに股間から本気汁をダラダラ垂れ流しているのにか?本当は自分が気持ちよくなりたいだけだろう?大体お前、膣もまともに弄れないじゃないか。そんなので奉仕ができるのか?」
「違いますっ!!私は人間様のためだけに働きます!そのっ、怖いけど……でも、ちゃんとやります!」
「自分の快楽を追わないと誓えるのかしら?どんな状態でも必ず人間様に奉仕すると」
「誓いますっ!!お願いします、自分の気持ちいいは追いません、だから、だからっ、性処理用品にならせて下さい……!」

 二人の人間様は、何度も何度も72番に問いかける。
 本当に自分の快楽を後回しにできるのか、人間様に絶対服従し、いついかなる時でも奉仕を全力で行うのか、どんな仕打ちだろうが人間様に与えられたものに感謝できるのか……

(お願いします、お願いします……性処理用品に、ならせて……!!)

 繰り返すうちに、興奮と疲弊により段々何を問われているのかすら分からなくなってきて。
 それでもとにかく叫び続けなければ、性処理用品になりたいと乞い続け無ければならないと、72番はただただ頭を下げ己を地獄へ送り込む言葉を吐き続けていた。

 その姿はいっそ憐れなほどで……未だ二等種への憐憫が残存していた新人がその感情を捨て去るには十分すぎる醜態だ。

(ああ、こんなに嘘をついて必死に……何が何でも自分の欲を満たすために媚びへつらって、結果二等種は「穴」になるんだ)

 72番を見つめる新人の胸に去来するのは、成人基礎教育でクラスに設置された二等種達。
 オスもメスも変わらずいつも人間様にヘラヘラと媚びへつらい、ペニスを見せるだけで「ご奉仕させてください!」と涎を垂らして腰を振るような、人の姿をしたケダモノの姿だ。
 あの頃はそんな二等種を使う事への罪悪感は無くても、なんだかんだ言っても人間様に無理矢理こんな役目を押しつけられたのだろうと心のどこかで憐れんでいた。

 けれど、その考えは間違えていたのだ。
 彼らは己の欲望のために、自ら進んで人間様の穴になる。

 ――その欲望を作り出したのもまた人間ではあるけれど、それでも選んだのはこいつら自身だ。

 すっと、新人の瞳の色が変わる。
 その様子を隣で見ていたベテランの管理官は、新人の「成長」を見逃さない。

(頃合いね、十分目的は達した)

「……いいでしょう、そこまで言うなら性処理用品になる許可を与えても。ね?」
「あ、はい。同感です。……499F072、我々人類はお前が性処理用品になることを許可する。ここでの宣言は全て録画されている、精々己の言葉には責任を持つんだな」
「はいっ、ありがとうございます、ありがとうございます……!!」

 あからさまにホッとした様子の72番に(一丁上がりね)と心の中でほくそ笑みつつ、管理官は「じゃ、梱包しましょ」と新人に声をかける。

(ああ、これで……これで、この環境から出られるんだ……!!)

 早速拘束用のベルトを手にして近寄ってきたスタッフに、72番は満面の笑みで……それはいつもの作られた笑顔では無い、心からの喜びに満ちた顔で、叫ぶのだった。

「ありがとうございます!499F072です、よろしくお願いします!」


 …………


 一方その頃。

『あれで一体、何十体、いや何百体の二等種が人生終了するんだろうなぁ?ああ、そもそもお前ら二等種だから、既に人生は終わってたか』
『お前も同じ二等種なのにな。どうだ?仲間を売った気分は』
『んっ、んふぅ……私は本当のことを言っただけです、人間様』
『はっ、違いない。お前にとっては真実だよな、この生活は』

 異国の言葉が飛び交う中、腹部に「442F091」と刻印された一体のメス個体が後ろから男に抱きかかえられたまま、ソファに腰掛ける男の股座に顔を突っ込んでいる。
 その剛直を咥え込んだ股間からはしとどに蜜が溢れ、上気した顔と潤んだ瞳はまさに好色そのもので、二等種らしい幸福に満ちあふれていた。

 口元をベトベトに汚しながら、喉奥まで男の欲望を咥え込む二等種。
 たった5分前まで黒のベビードールに身を包んで穏やかにインタビューに答えていた彼女は、撮影が終わるや否や「本来の」使い方で弄ばれていた。

『お前みたいな最高級の性処理用品になれない限り、人間の食べ物や味は許されないんだろ、お前の国の二等種は』
『すげえよな、うちの国でも残飯くらいは与えてるのにさ。流石は二等種発祥の国だぜ、やることがえげつねぇ』

 まぁお陰で俺たちはこんな上物を借りられるんだけどな、と笑いつつ、どうやらそろそろ限界が近いのだろう男が頭を押さえつけて小刻みに腰を押しつける。
 だらだらと涎が垂れ、あまりの苦しさに嘔吐きながらも、彼女は一切抵抗すること無くうっとりとした様子で瞳を蕩けさせ男を見上げていて、それがまた男の劣情を誘うのだ。

(……そう、私は本当のことを言っただけ)

 喉と胎に熱い飛沫を浴び、快楽に震えながら彼女は心の中で独りごちる。
 その胎には管理番号と共に「SS」――彼女がかの国で最高等級と認定された性処理用品である証がくっきりと刻まれていた。

 性処理用品の中でも、もっとも等級の高い製品はまず一般に出回ることが無い。
 ほとんどは国内外のやんごとなき御方や政府高官などに貸し出され、外交にも一役買っているのが現状だ。
 それゆえにSS等級は二等種でありながら語学と最低限の教養を身につけることを許され、さらに国外であれば二等種とは思えない程の厚遇を受けることもある。
 ……もちろん性処理用品らしく、朝から晩まで穴だけを使い倒されることに変わりは無いのだが。

 その割合は全性処理用品のわずか0.1%。
 1年に製造される性処理用品は不良品も含めて約2400体だから、平均して年間2-3体出荷、酷いときは1体もいない年もあるほど非常に貴重な個体である。

 つまり、彼女と同じ待遇を得られる可能性は、限りなく低い。
 それを分かった上で、SS個体は時折「誘導」用の広告塔を人間様に命じられ、意外にも積極的に協力する。

『ふぅ、すっきりした……ああもうこんな時間か』
『22時までしか使えないのは不便だな。高級品だから仕方ないけどさ』

 ようやくひと心地付いたのだろう、名残惜しそうに男達は部屋から出て行く。
 全身あらゆる体液に塗れたまま、その場にうち捨てられた二等種には目もくれない。この辺はかの国の高級品だけあって非常に便利だ。この国の二等種と異なり、後始末をしなくても勝手に洗浄と掃除を終わらせてくれるから。

「……ああ、今日も終わった……」

 今日は随分乱暴だったなと、痛む喉に顔を顰めちゃりちゃりと枷の鎖を鳴らしながら、彼女は床に溢れた誰のとも知れぬ体液を舐め取り、備え付けの洗浄室で身体を清める。
 故郷のシャワーほど熱い湯は出ないとは言え、寒さに震えることは無いから十分だ。洗浄液も自動で噴射され乾燥機能も付いているから後ろ手のままでも不便は感じない、というよりすっかりこの状況に慣れてしまった。

 慣れてしまった事実は悲しいが、仕方が無い。自分はただの穴で……穴でありながらこれほどまでに恵まれているのだから。

「ふぅ……疲れた……」
 スプリングの効いたベッドに横になれば、途端に眠気が襲ってくる。
 6時から22時まで、まさに休むこと無くこき使われ甚振られ弄ばれても、この身体は朝になれば何事も無かったかのように回復しているのだ。
 夢も見ないせいか、意識を落とした次の瞬間には次の朝になっているから、正直全く休んだ気はしない。けれど、あの白い部屋や狭い檻に比べればずっと寝起きはマシな気分である。


『お前も同じ二等種なのにな、どうだ?仲間を売った気分は』


 意識が遠のく頭に、男の言葉が蘇る。
 ……売るも何も無い。12歳で捕獲、収容されて以来徹底的に接触を禁じられていたのだ、二等種に仲間意識などと言うものは存在しない。

 それでも、わずかに残った良心はちくりと痛む。
 自分の言葉に夢を見て、今も地獄へと赴いている二等種がいるのは間違いないから。

「……ごめんなさい」


 私がここで生き抜くためには、あなたたちを地獄に突き落とすしかないの。


 母国語で呟かれた贖罪の言葉は、夜の帳に吸い込まれていく。
 意識が落ちる寸前、バチンと彼女の全身に電撃の痛みが駆け抜けていった。

© 2025 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence