沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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9話 Day1-2 成れの果て

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 ぺたぺた……ぺたぺた、じゃらじゃら……

 広い廊下に響くのは、6つの足音と、鎖の鳴る音。
 そして、ふたつの哀れな素体の息遣いだけ。

「ふぅーっ、んぐっ……ふぅっ……」
「ほら、折角二足歩行を許可されているんだからさっさと歩け。それと72番、手枷の鎖が無くても歩行時の手は後ろで組め。これ以上勝手に下ろすなら拘束するぞ」
「んうぅっ!!あぃ……」

 少しでも歩みを遅くすれば、途端に股間に繋がる鎖を引かれて電撃に叫ぶ羽目になるのは、隣で通算4回目の電撃を食らっている104番が証明している。
 だから、72番は必死に足を前に出す。
 あちこちから発せられる痛みと、喉の苦しさと、腹の重さと、恐怖と……ありとあらゆる負の感覚と感情を押し潰しながら。

 そこにほんの少し混じる快感には、まだ気付く余裕も無い。


 …………


「さっきすれ違った素体を見たか?腹に刻まれた等級記号がEだっただろう」

 次の見学場所に向かう道すがら、ヤゴは思いつくままに口を開く。
 イツコや他の作業用品と異なり、彼は言葉で説明する事を好む個体らしい。
 さっきも、性処理用品に二足歩行が許可されるのは股間に鎖を繋がれたときだけで基本は四つん這いなのだと、尻を鞭で打たれガクガクと痙攣しつつも必死に手足を運ぶ素体を指さしながら話していたっけ、と72番は霞む頭で思い出していた。

(あれ……多分、逝ってた……逝きながら歩かされてた……)

 教えられたことの意味も、見たモノの現実を深く理解する間も無く、話は続く。
 まるで余計なことを考えるなと言わんばかりに。

「検品に合格し製品として貸し出されるのはD等級以上でな。実際には様々な理由で製品にはできない不良品が一定数出てしまう。それがEとFだ」
「Eは再調教相当ね。6週間の追加調教を行ってから、再度検品するの。そこで合格できれば晴れて製品に……といっても、再調教に送られた段階でどれだけ成績が良くてもC等級止まりだけど」
「で、これから俺たちが向かうのは再調教すら効果が無い、もしくは再調教の価値も無いと判断されたF等級専用の保管庫だ」
「うぅ…………」

『保管庫』という言葉が妙に重く聞こえる。
 自分達が入れられている檻だって同じように呼ばれているけれど、ヤゴたちが口にするF等級のそれは……きっと、もっと酷い環境なのだろう。
 更に狭い部屋なのだろうか。だとしたら寝ることすら大変そうだなと72番の脳裏に一瞬思考が過るも、それは直ぐに朝から続く、否、悪化するばかりの焦燥感に取って代わられた。

(あぁ……もう…………もう、無理…………)

 ぶるり、と72番が青ざめた顔で震える。
 そのまなじりには薄く涙が溜まっていて、このまま放っておけばじきに溢れるだろう。

(蓄尿は飼育棟でも散々食らってるだろうに……まぁ、詰め物があって歩かされる分はあれよりしんどいか)

 鎖を引いて先導しながら、無表情な仮面の下でヤゴは独りごちる。
 初日の見学は後半にもなれば皆こうだから、作業用品達も慣れたものだ。そもそも二等種はこの程度の苦痛では壊れられない、だから特に気にする必要も無い。
 とはいえこの甘ちゃんで軟弱な個体に落涙の懲罰追加は耐えられないだろうと、ヤゴは黙認することにした。管理官からの指示も無いし、問題は無いだろう。

 ――調教棟に収容されてから、既に18時間以上。
 餌や口からの給水のみならず、下から送り込まれた浣腸液からもしっかり吸収されたであろう水分の成れの果ては、今や72番の、そして顔にこそ出さないが時折内股を擦り合わせている104番の膀胱をしっかりと満たしているに違いない。
 あれはなかなかキツいのだ。出せない事実を理解できない身体はひっきりなしに尿意を訴え、思考すら排泄に全振りされて散り散りになり、なのに無意識に腹圧をかけては更なる苦しみを与えてくるから。

 とはいえ、何年も1日2回の排尿管理で過ごしてきたせいか……それとも人間様により作業の邪魔にならないよう操作されているのか、いつからか尿意というものを感じられなくなった自分達には縁の無いものだけれど。

(出したい……おしっこ……うあぁ…………っ……)

 視界が、揺れる。
 たかが尿意に狂わされた72番の頭は、今自分がどこに向かっているのかすらあやふやにしてしまう。

 足を踏み出せば腹の中に詰め込まれた器具が微妙に位置を変えて、無理矢理限界まで膨らまされた膀胱を中から押し上げる。だからといって足を止めそうになれば、絶妙なタイミングで鎖を引かれて、また自らを苦悶の渦に落とし込むしかない。

 ぽたぽたと涎を廊下に垂らしながら霞む視界でふとヤゴの姿を捉えた72番の口から、堪らず「おぁ……!」と必死に解放をねだる声が上がった。
 ……いけない、こんなことをしては懲罰だと分かっているはずなのに、もう声が止められない。

(助けて……お願いします、何でもするから……もう、懲罰でもいいから中身を抜いて……!!)

 叶えられない事を知りつつも、まるで壊れた玩具のようにびくびくと震えながら72番は何度も解放を懇願する。
 そんな彼女の意思が伝わったのだろう、ヤゴは「お前は少しは我慢することを覚えろ」と呆れつつ、歩くスピードを上げた。
 それは少しでも早く目的地に着こうというヤゴなりの配慮であったが、72番からすれば余計な辛さが増えたに過ぎなくて。

「んひいぃぃぃっ!おぇんああぃぃ!!おえんなあぃっ……!!」

(ああ、やっぱりおねだりなんかしたから罰を与えられたんだ……!でも、もう辛くて叫ぶの止められないよう……!!)

 栓をされた口から飛び出す音は、いつの間にか謝罪の色を帯びていたが、どうやら今回は気付いて貰えないようだ。

「ったくもうちょっと大人しくしろよな?保管庫の見学が済んだら、一旦全部抜いて貰える。それまで頑張れよ」
「おぇんああい……ううぃぇ……はぁっはぁっ……うあぁ…………ぁ?」
「ヤゴ、もう子ネズミちゃんの頭じゃ言葉は理解できないんじゃない?」
「おいおい、まだ初日だぞ?はぁぁ……この程度で追い込まれすぎだろ……」

 天を仰ぐヤゴとは対照的に、こっちの可愛げの無い個体と足して2で割ればちょうど良さそうなのにねと笑うイツコの視線の先では、既に限界まで膀胱を満たされた104番が、それでも気丈に作業用品達を睨み付けていた。
 こちらはこちらで、一旦抜いて貰えるというヤゴの言葉に安堵を覚えた分余裕ができたのだろう。まだまだ『天然モノ』の指示には従う気が無さそうだ。

「……抜いて貰えるのが幸せかは、分からないけどね」
「あ……?」
「何でも無いわ。ほら、着いたわよ」
「ひぎゃっ!!」

(くそっ、今のはわざとだろ!!このクソアマ……覚えてやがれ……!!)

 戯れに思い切り鎖を引かれて、テザーを埋め込まれた亀頭に走る電撃に悶絶しつつ104番が見上げた扉の上には「実験用個体保管庫」と書かれたプレートが張り付けられていた。


 …………


「入荷個体連れてきたぞ」
「はいよ。ちょうど人間様から2体貸し出し依頼が来てるから、見せてやれ」
「お、運がいいねえ」

 いつものことと言わんばかりに和やかに話す作業用品とは対照的に、素体達は予想外の光景に目を丸くしていた。
 保管庫というからには、廊下の両側に部屋が並んでいると思っていたのに。

(あの扉……上から下までびっしり……それに小さすぎない?一体どうやって入れてあるの……?)
(……嘘だろ、保管ってまさか……いや、でも流石に生きてるんだろ……!?)

 部屋に足を踏み入れた瞬間104番の脳裏によぎったのは、幼い頃に祖母の葬儀で見た風景だった。
 いや、あの部屋にはここまでたくさんの扉は並んでいなかったが。

 両側の壁に四角い金属の扉が上から下まで整然と並んでいる部屋には、わずかなモーター音だけが響いている。
 部屋の突き当たりには強化ガラスで仕切られた小部屋があり、かつて地上でよく見かけた転送用の魔法陣が床に描かれていた。

「ここはF等級の保管庫。製品としては使えないガラクタだって、ここまで作り上げるのにかかったコストはバカにならないからな。お優しい人間様はガラクタにも使い道を与えてくれると言うわけだ」

 尿意で気もそぞろな72番はもう放っておく事にしたのだろう、ヤゴは104番に向かって口を開いた。
 イツコに向けられる視線ほど苛立ちを感じないのは、こいつがオスだからか。妙に抗いがたい何かを感じ取ったのだろう、104番は眼光こそ鋭いままだが特に反抗することも無く、ヤゴの話に耳を傾ける。

「ま、説明と言ってもF等級の役目は実にシンプルだけど、な」

 F等級と判定された個体は等級を刻印後、直ぐにこの部屋に格納されて『使い道』が決まるまでの時を過ごす。
 平均待機期間は13ヶ月。一度貸し出された個体は死ぬことこそ無いが、五体満足でここに戻ってくることはまず無い。また3回以上貸し出される個体は稀である。
「使い道は知らない方が幸せだろうよ」と口を噤むあたり、どう考えても碌な未来は待っていなさそうだ。

(……臓器目的?いや、モルモットか。二等種の薄汚れた臓器を移植されたい人間様などいるはずが無い)

 ヤゴの口ぶりから、104番は何となく用途に見当を付ける。
 そして、一体どんな実験に使われるのか分からないが、碌でもない処遇には変わりないとまるで人ごとのように独りごちた。

 104番は、人間の二等種に対するリアルな感情を恐らくこの場の誰よりもよく知っている。
 家畜以下のモノ、なんて言い方は随分可愛い方だ。この世界のあらゆる恐怖と憎悪を煮詰めたような対象とでも表現する方が適切だろう。

 ……だが、104番は気付いていない。
 不幸にして二等種の存在を幼くして知ってしまった彼の中にも、ただの嫌悪だけでは無い二等種への恐怖が染みついている事に。

(こいつは、今の話を聞かなくて正解だろうな……ったく、顔だけは可愛いのにビビりでついでに二等種とか、救いようが無いメスだな)

 相変わらず尿意で目を潤ませている72番に運のいい奴だなと心の中で毒づく。彼女の性格ではとてもこの話には耐えられないに違いない。
 別にこいつがどうなろうと自分には関係ないが、そうは言っても愚図のお陰で余計な連帯責任沙汰にはなりたくないものだ。

「ええと……今回はオスメス1体ずつ。眼球と歯が残っている個体ねぇ……ならこれにするかな」

 説明が続く中、保管庫の担当らしい作業用品がしれっと恐ろしい事を口にしながらデバイスを操作すると、ガシャンと鈍い音が部屋に響き暫くして開いた上段の扉からずるりと細長い箱が飛び出てきた。
 何本ものパイプが接続された箱は、恐らくこの装置に組み込まれているのだろう浮遊魔法により、ふわふわと床に降りてくる。

 箱は人一人がすっぽり入れそうな直方体……その事に気付いたとき、先ほどの直感が104番の中に蘇ってくる。
 
 この扉、この形。これはまるで


「通称『棺桶』って呼ばれてるのよ、これ」
「!!」


 不意に、104番の思考を呼んだかのようにイツコが耳元で囁いた。
 ほら、いい顔で怯えてねと言わんばかりの期待を込めた言葉が、耳に流し込まれる。

「ふふっ、ただの棺桶じゃないわよ?人間様の叡智と趣味が詰め込まれた……結構えげつない代物だから」
「…………はっ」

 またそうやって、いたずらに絶望を煽ろうとする。どこまでも壊れてやがるな二等種は、と104番はイツコをぎりと睨みつける。
 だが、こいつの思惑通りになんかなってたまるか……そんな反骨心は箱の蓋が開いた瞬間に霧散してしまった。

「…………!!」
「……?…………ひぃぃっ!!」
「あー、子ネズミちゃんにはちょっと刺激が強かったのかしら?」
「ちゃんと見ておけよ、後で体験するんだから」

 今何か物騒な言葉が聞こえた気がするが、正直もう二体はそれどころでは無い。
 彼らの目は、棺桶の中に保管された二等種に釘付けになっている。

(え、これ……生きて……る?)
(くっそ趣味悪ぃ……これが二等種とは言え生き物に対する処置かよ、吐き気がする……っ!)

 二等種への嫌悪感を抱く104番すら怯むそれは、まさしく「保管」という言葉がぴったりだった。

 ピクリとも動かない身体。半開きの口からは親指くらいはあろう太い管が、鼻からは鼻孔をしっかり埋め尽くす幅のチューブが伸びている。
 瞬きの見られない瞳には半透明の軟膏がべったりと盛られ、黒目の位置すらよく分からない。ただ胸は上下しているから、生きているのは間違いない。

 股間にも管が1本……どこから伸びているかだなんて考えたくも無い。

「おい『お仕事』だぞ」
「…………」

 横たわる個体に声をかけても、答えは返ってこない。だがそれを気にも留めず、作業用品達は手際よく装具を外していく。
 あちこちに刺さった管を抜き、手足や腰の動きを封じていた拘束具を外しても、F等級の個体は相変わらず身じろぎすらしない。というより、まるで力が入っていないようだ。
 軟膏を拭われた瞳の焦点は、合っていないような気がした。直ぐにアイマスクを装着されたから確信は無いけれども。

「F等級ってのは、動作の権利も剥奪されている。自ら動くこと、その全ての権利を、だ」

 保管庫の中で器用に身体を折りたたまれ――あれはいつもの梱包だ――ただの塊と化していく個体を眺めながら、ヤゴが説明を続ける。
 彼らF等級が床に足を着ける日は生涯訪れない。彼らの身体が触れるのは『棺桶』と輸送用のスーツケースの内側、そして研究用の機材や処置台だけ。

 何もしないこと。ただそこに生きて存在すること。
 ――それだけがF等級に許された権利なのだと。

 淡々と語るヤゴの瞳に宿る感情は、基本姿勢を強いられている104番の視座からは窺い知れない。
 ただ、どこか……少しだけ、哀れみの色を帯びた声なのが不思議に思えるだけだ。

「ちなみにあの魔法陣の繋がる先は、地上だ」
「!!」
「これまでお前達がいたところにあった魔法陣は、地下にある人間様のオフィスに繋がっていた。だが調教棟には2つ、直接地上に繋がっている転送用の陣がある。その一つがここだ」

 とは言え、二等種は輸送用のスーツケースに収納されていなければ転送ができないけどなと付け加えつつ、彼らは奥の部屋に先ほどのF等級入りのスーツケースを放り込んだ。
 程なくして魔法陣が起動し、スーツケースは一瞬にして跡形も無くなってしまう。

「あれも運が良ければ、地上の空気を吸えるかもしれん……ま、それを理解できる頭かどうかは知らんがな」

(理解できる頭…………どういう、事だ?)

 不穏な言葉が続く中、素体達はもう一体の梱包作業を見学するように指示される。
 先ほどと同様、ぐんにゃりした身体を折りたたむ作業は淡々と静かに、しかしどこか重苦しい雰囲気の中で進んでいった。


 …………


「……はい、はい……かしこまりました。ありがとうございます、管理官様」

 転送用の小部屋の前で、空に向かって保管庫担当の作業用品がぺこぺこと頭を下げる。恐らく先ほど転送した個体の報告だろう。
 暫くやりとりが続いた後、一仕事終えて緊張が解けたのか幾分表情を和らげたオスがこちらに戻ってきた。

「どうする?見学し足りないならもっと出すけど」
「いや十分だ。時間も惜しい、さっさと体験に移ろう」

(……体験?さっきもそんなことを言っていたな……いや、いくらなんでもあれは)

 この状況で聞くにはあまりにも物騒な言葉の繰り返しに、104番は眉を寄せる。
そして「説明しながら準備を進めるか」と話すヤゴに一瞬気を取られたその時

「!!」

 突如、104番の首筋に鋭い痛みが走り、さぁっと冷たい感覚が脳を駆け抜けていった。
「んおおぉっ!!」と泣き叫ぶ声が隣から聞こえる。きっと今の痛みで、72番の明後日に飛ばされていた正気も戻ってきたのだろう。
 痛みは首の後ろから。つまり後ろに立っているイツコが何かを首筋に突き立てたのだ。

(痛いっ!!何っ、何を……あ、れ……?)
(くそっ何しやが……え、なんでこのクソアマが2人……も……)

 一体何をされたのか、文句の一つも言ってやりたいと背後を振り向いた途端。

 視界がぼやけて。
 息が苦しくて。
 手に注射器らしきモノを持つ二人のイツコが……視界がぐらりと斜めになって。

「いつもながら即効性よねぇ、このオクスリ」
「スキサメトニウム、とか言ってたっけな……人間様の付ける名前はややこしくてかなわん」

 ドサッ、と鈍い音を立てたのが自分と72番の倒れ込んだ身体だと理解したときには、既に彼ら素体から動作の権利が奪われていた。

(動けない……何これ、拘束魔法じゃない……!)
(力が入らないっ!くそっ、あのグニャグニャした身体はこういうことかっ!)

 初めての感覚に、素体達は戸惑いを隠せない。
 幼い頃からかけられ慣れた拘束魔法は、あくまでも身体を見えない拘束具で動けなくするものだった。
 けれど、今の状態は明らかに違う。一ミリも動けないのは同じだが、手も、足も、口も……まるで筋肉がその働きを忘れてしまったかのように、あるいはただの人形の中に魂を埋め込まれたかのように、力を入れることすらできないのだ。

(ひっ……いやああぁぁ助けてえぇぇぇっ!!)

 ぞわり、と背中に感じたことの無い恐怖が走る。
 だというのに、彼女は口枷越しに叫び声をあげることすら許されず、ぼやけた視界に映る作業用品達の呑気な話を表情すら変えられないまま聞き続けることしかできない。

 ――ただの拘束とは違う、身体の機能そのものを奪われた事実に、昨日から消耗したままの72番の心が耐えられるはずもなく。

(怖い怖い怖い……お願い、助けて、もう嫌あああっ!動けないの怖いよおおおおっ!!)

「……オッケー、じゃあ俺らは装具を着けていくからヤゴ説明頼むな」
「そうね、お願いねヤゴ」
「なんでイツコまで俺に振るんだよ……げっ、72番のメンタルがヤバい」
「はい!?まだ筋弛緩剤しか使って無いのに!!?…………っ、はい、かしこまりました管理官様っ!ヤゴ、これ薬入れてドロドロにするから説明聞けなくなるぞ」
「管理官様の命令だ、問題ない」

 数十秒後、作業用品達の頭の中にアラートが鳴り響く。
 嫌な予感を覚えながらヤゴが確認すれば、案の定72番が突然の事態にパニックを起こしていて。

 慌てて鎮静剤を首輪に繋いだチューブから流し込もうとする作業用品の確認に頷きつつ、ヤゴは「こいつが俺の説明をまともに聞く日はいつ来るんだ……」とがっくり肩を落とすのだった。


 …………


「……じゃ、始めるか。今からF等級の生活を体験して貰う。生活と言っても、何もせずにそこにいること、それがF等級の全てだけどな」
「心配しなくても保管体験だけよ。手足や臓器を失うことは無いから安心なさい」

(んなもん全然安心できるか!!)

 ようやく落ち着きを取り戻した……というより、薬で朦朧とした72番を確認しヤゴが宣言するや否や、心の中で盛大なツッコミを入れていた104番はふっと身体が軽くなったのを感じた。

(……これは……尿が、消えた……?)

 視線を動かすこともままならないから膨らんだ腹を確認することすら出来ないが、先ほどまで感じていた焦燥感が明らかに消失している。
 そう言えば後で尿は抜くと話していたなと思い出し、更に「ほら、軽くなっただろ?」と己の後ろを貫いていたディルドを目の前でぶらぶらされて、104番は久しぶりに訪れた解放に安堵と……そして、わずかな違和感を覚えた。


(おかしい)


 何がって、無い、のだ。
 身体の力が入らないのは、薬を盛られたせいだと分かっている。
 だが、いくら力が抜けていたからとは言え直径5センチ、長さ12センチもあるディルドを本来入れるべきでは無い所からひっこ抜かれたのに、痛みはおろか「抜かれた」感触すら無いなんて事が起こり得るのだろうか、と。

 弛緩剤により能面になった表情の下で不思議に思う104番の疑問は、直ぐに氷解する。
 ――ただしヤゴから語られる碌でもない事実によって。

「さっき注入したのはただの筋弛緩剤。全身の筋肉が緩んで動かなくなっちまう代物だ。と言っても心臓は勝手に動くし、呼吸は魔法で補助されているから死にゃしない。後で挿管もするしな。で、それとは別で脊髄腔……だったか?に麻酔薬を注入している」
「……!?」
「この首輪な、首の皮と癒合しているのは知っているだろう?そこから首の血管と、背骨の神経が入っている空間にチューブが伸びていてな、こうやって外から薬液のボトルを接続できるんだよ」

 と言ってもその目じゃよく見えないよな、と話すヤゴは、恐らく首輪をトントンと指さしているのだろう。
 そんな機能があったことなどすっかり忘れていたと、104番は幼体時の検査で何度か首にチューブを繋がれた記憶を思い出した。

 ヤゴが言うにはこの麻酔薬により上位頸髄損傷を擬似的に再現している……つまり背骨の中を通る脊髄の神経をほぼ全て麻痺させて、呼吸を含む首から下の動きはおろか感覚すら感じない状態を作り上げているそうだ。
「顔の感覚はこれから管理官様が魔法で対応する」とさらっと恐ろしいことを付け加えられ、背中にぞわっと冷たい汗が……感じないはずなのに流れた気がする。

(嘘だろ、全部麻痺させるってお前、そんなことをしたら……!)

 動けない上に、感覚まで奪われるとは。
 生まれて初めての体験に流石の104番も恐怖を覚える。言葉にはならずとも、必死で心の中で叫んでいなければとてもいられたものではない。
 そうこうしているうちに口枷をずるりと外される。感覚は無くともこれだけ至近距離なら流石に何をされたかくらいは見えた。

 ぼんやりとした視界に、また何かが近づいてくる。

「よい、しょっと……」
「歯を折らないように気をつけろよ?訓練外での素体の損傷は懲罰モノだぞ」
「分かってるって」

 保管庫の作業用品達は、人形のようにくたりとした104番の口に右手の親指と人差し指を突っ込み、クロスさせてこじ開ける。
 銀色に光る鎌のような喉頭鏡を喉に差し込みぐいっと押し上げれば、眼前にはしっかり声門が見えて「あ、これは見やすい個体」と軽口を叩きつつ彼はべっとりと潤滑剤の塗られた気管チューブをぶすりと押し込んだ。
 もう一人の作業用品がシリンジで空気を入れ、固いゴムのようなバイトブロックを口にかませてチューブと一緒にテープで頬に留めれば、気管は完全に塞がれチューブ越しにのみ空気を与えられるしかなくなってしまう。

「次はこれ、と……こんな細い管で給餌できるんだよなぁ、俺らの餌もこれでいいのに」
「でもこれを使うと、餌を入れ終わるのに1時間くらいかかるって管理官様が前に言ってたぜ。1時間も管に繋がれてずっと膝立ちは勘弁かな」
「あーたしかに、それじゃ性処理用品と変わんないもんな……」

 続けて彼らが手にしたのは、小指よりは細いであろう60センチ近い長さの柔らかいチューブだ。
 中には細い針金のような――スタイレットというらしい――ガイドが入っていて、先ほどの気管チューブ同様べっとりと透明な粘液を纏っている。
 それを104番の鼻孔に突き刺すと、ずるずると何の抵抗もない身体の中にその大半を埋めていき、スタイレットを抜いてシリンジで空気を送り込む。

「……ん、よし」

 もう一人の作業用品が腹に耳をつけて音を聞き、管の先端が胃の中に間違いなく入っていることを確認すれば、これまたテープできっちりと顔に固定された。

(…………何とも、ねぇ……!)

 視界はぼんやりしていてもヤゴがいちいち動作を説明してくれるから、何をされているのかは理解できている。
 そのお陰で、悪趣味な口枷で感じていた喉の違和感も、咽頭反射――嘔吐きも、それどころか唇や鼻孔に触れるはずのチューブの感触すらも全く感じとる事が出来ない現実を理解させられてしまったわけだけど。

(やめろ、やめろったら!!くそっ、天然モノが気安く触るんじゃねえっ!!)

 不安を払拭させようと、104番は八つ当たりじみた怒りを作業用品達に向ける。だが必死に睨みをきかせようにも、焦点すら上手く合わせられない。
 流石にイツコには何となく伝わるものがあったようだ。「楽になって良かったわね?」と相変わらず艶のある……熱の籠った声で話しかけてくる。

「もう尿意にも悩まなくていいし、浣腸の苦しさも感じなくていいのよ?今、浣腸用のチューブも肛門から挿入したけど、気が付かなかったでしょ?」
「…………」
「それに……気付いてるのかしら?どうしようも無い発情だって、ピアスや貞操具の痛みだってもう感じないはずよ」
「…………!!」

(そうだ、確かに痛くないし……ムラムラもしねぇ)

 イツコの言葉に、104番はようやく気付く。
 成体になってからずっと頭から離れることの無かった渇望は、今やすっかりと消え失せていた。
 どうやらF等級に関してはその利用目的故に、保管時には一切の刺激を禁じられているらしい。

 無遠慮に穿たれたピアスのじくじくした痛みも、尿道を押し広げられる苦痛も感じないのは確かに楽でいいが、それ以上に碌でもないことをしやがってと全力で問い詰めたい。
 ……作業用品である二等種に反抗する権利は、性処理用品に志願した段階で失っているというのに。

「力が抜けた身体ってのは重いよな……よっこいしょっと」
「そっと下ろせよ、腰をやったら洒落にならん」

 だらんとした身体を2人がかりで持ち上げられ、新しく用意された『棺桶』の中に収納されたのだろう、少しだけ104番の視界の幅が狭くなった。

 にしてもこの身体を扱う手は、人間様のそれと比べて明らかに丁寧さを感じて……それが貴重な素体だからなのか、それとも格は違えど『同類』扱いされているからなのかは分からないが、どちらにしても気分の良いものでは無いな、と104番はこの期に及んでも心の中でぼやいている。


 ……それは勝ち気な性格故か、自覚の無い不安を煙に巻くためか。


 カチン、カチンと遠くで手枷と足枷、首輪が棺桶の壁についた金具に固定される音がする。
 いつの間にか巻かれていた額と腰のベルトは位置を調整され、これまた棺桶の壁から伸びる金属バーと緩みなく接続された。
 麻酔薬の効いた身体が自発的に動くことは無いが、棺桶の収納や取り出し時に中で個体がずれて損傷しないように、物理的な固定はむしろ強固に施される決まりである。

 棺桶の底面はスーツケース同様スライムのような緩衝材が敷き詰められていて、長時間同じ体勢で保管しても背中や踵に傷ができないように微細な動きで保護するそうだ。
 と言われても、104番には実感が無い。それどころか、身体が底面に接地している感覚すら無い。

 至極丁寧で、かつ念入りな拘束。
 だと言うのにあらゆる苦痛を取り除かんとする配慮は行き届いている。これまでの経験からも明らかに異質な扱いだし、第一このような楽をさせる所業は二等種に与えるべきでは無い。

 ――もしこの処置が、本当にこの処置が二等種を楽にするものであるならば、だが。


(これは……なんか、ヤバいんじゃね……?)


 イツコの言ったとおり、確かに心身は楽になったと感じている。
 ずっと淫らな妄想に襲われることも、射精や糞尿の排泄を渇望することも無い。
 こんなに頭がスッキリ冴えているのは一体何ヶ月、いや何年ぶりだろうか。今なら目の前にいる天然モノ達にあらん限りの罵詈雑言を吐いて、それこそ身体が自由ならここから抜け出すことだって出来そうだ。

 けれど、104番の心のどこかが警鐘を鳴らし続ける。
「無い」事の恐怖を、かつてお前はほんの触りとは言え経験したでは無いかと、どこかで囁く声が聞こえるのだ。

(…………分からねぇ……何でこんなに俺は、不安に感じている……?)

 104番が逡巡している内に一通りの準備を終えたのだろう。「じゃ、棚に戻すからな」とヤゴの声が上から降ってきた。

「既に、気管に入ったチューブから酸素は供給されている。餌も胃管から勝手に注入されるし、浣腸もしかり。尿も適宜転送される。つまり、お前はただそこに横たわってじっとしているだけで良い。……これがF等級の保管方法だ。楽なものだろう?……俺は二度とごめんだがな」
「まあまあ、実際に体験しないとどんな感じかは分からないでしょ?明日の朝には迎えに来てあげるから、精々楽しんでらっしゃいな」
「……!!」

 明日の朝までこのままだという宣告に、胃の辺りがキュッと引き攣った、気がする。
 多分だが今はお昼頃のはずだ。つまりこれから自分は半日あまりここに横たえられ、機械にただ生かされる物言わぬ塊として過ごさなければならない。


『だから言っただろう?これはマズいって』


 余分な刺激が取り払われ明晰さを取り戻した頭の中で、心の奥底からの警告は徐々に大きくなっていく。
 何故かは分からない、けれど確かに自分はこれとにた何かを「知っている」

 それに何より、さっきのイツコの言葉が耳から離れない。
 言葉の意味などどうでも良い、そうじゃなくて彼女の声の明るさが――

(ああ、その声色は)

(俺が確実に苦しむと分かっている声だ)

 目にべったりと塗られた軟膏のお陰で、もはや視界は霞がかっている。
 唯一差し込んでいた光すら、ギィと音を立てて閉まる蓋に遮られ。

(くそっ、待てよ!こんな状態で置いていくな……!)


 バタン――


 104番と、そして未だ状況を理解せずぼんやりしたままの72番から、全ての光と音が奪われた。


 …………


(……あ、れ…………私……ここは…………)


 真っ暗な視界の中で、ぼんやりと72番の意識が覚醒する。
 すっかり慣れてしまった、意識が落ちた次の瞬間には覚醒している睡眠とは異なる……そう、これは遠い昔に味わった微睡みに近い感覚だ。
 柔らかな寝具に包まれてふわふわと夢現を行き来する時間は、今思えば幸せだったなとつれつれまとまらない思考を回しつつ、しかし寝返りを打とうとして動かない身体にようやく72番は現実を把握するのだ。

(そうだった、確か……F等級の体験って…………あの時、首に何かが刺さって、それで身体に力が入らなくなって……)

 朦朧とした中で聞かされた説明を必死で思い出す。
 動きと感覚を剥奪されてあらゆる生命維持に必要な管を挿入され、あの細長い棺桶のような保管庫に入れられて蓋をされた。
 そう、ここはF等級の保管庫。自分はこれから明日の朝まで、ここに横たわったまま過ごさなければならない。

(ずっとこのまま……でも、しんどくはない、かな……)

 身体を横たえている感覚も無いが、特に不快感も感じない。
 あらゆる穴に詰め込まれた重さも、楔を打たれた3カ所からの痛みもすっかり消え失せていて、感覚が無いからか身体はとても軽くまるで宙に浮いているかのようだ。
 それどころか

(……あれ、えっちな気分にもならないや)

 ずっと心の奥底から湧き上がる淫らな衝動に翻弄されていた心身は、久しぶりの平安を取り戻したようだ。
 頭の中の霧がスッキリと取り払われたようにすら感じる。

 準備段階でパニックを起こしたため、通常体験時に投与される抗不安薬に加えて精神安定剤が投与されている分多少思考能力も落ちてはいるのだが、これまでが完全に性欲に支配された状態だっただけに、72番からすれば明晰だった頃の自分に戻れたような感覚だろう。

 ……ちなみに十数時間後、彼女はこの特別な処置がどれだけ幸運だったかを知る事になる。

(ただこうやって寝てるだけで良いなんて……意外と待遇は悪くないんじゃ)

 全身をくまなく確認し――と言っても暗闇の中で感覚も無いから適当なものだが――72番は思ったより随分楽な環境にひとまず安堵する。
 強いて言うなら、静かすぎて聞こえないはずの耳鳴りが聞こえるのがちょっと不快なだけだ。

(確か……餌も、排泄も、呼吸も何にもしなくていいって言ってたっけ)

 ものは試しと息を吸おうとするも、胸はピクリとも動かない。
 というより、これまで自分は一体どうやって胸を動かしていたのかとんと見当もつかない。
 暫く思い出そうと格闘していたものの、呼吸は確保されているし別に死ぬわけでも無いからいいかと72番はあっさりその試みを諦め、ふぅ、と出来ないはずのため息をついた。

(まあいいや。折角寝てるだけで良いって言うならこのままのんびり寝てよう……)

 気持ちを切り替えて、彼女はぼんやりと見えない天井を見つめる。
 ほんのわずかな光すら無い密閉された空間は、恐らく防音もしっかりしているのだろう。周囲の音はおろか、己の身体に差し込まれている器具の動作音すら聞こえてこない。

 ここまで何もすることが無いとちょっと暇だなと思いつつ、ぼんやり寝転がっていた72番の胸に、ふと小さな思考の呟きが響いた。


(……こんなに静かなのは、すごく久しぶりな気がする)


 思えば成体になってから数ヶ月、いやそれ以前だって、二等種としての彼女の生活の中は常に色彩と騒音、そして不安と恐怖、性的衝動を核とする感情に満ち溢れていた。
 毎日のように決められたルーティンで考える事もなく生活を送り、長じてからは全ての時間を快楽で埋め尽くし続けた。
 ……まるで、もう二度と退屈は嫌だと言わんばかりに。


(…………もう、二度と……?)


 たまには静かなのもいい、なんてぼんやりしていた心に引っかかる、己の囁き。
 どうして自分はそれほどまでに退屈を嫌って……違う、恐れていたんだっけ……?


『退屈したら、不安が、消えなくなるよ』


「!!」

 心の奥底から響いてきた声。
 それを皮切りに溢れ出すのは、ほんの数ヶ月前に味わった3日間。

 餌と運動、洗浄以外の時間、真っ白な4畳半の部屋に閉じ込められて。
 それまで数多の娯楽を提供していた筈の端末は、無味乾燥な規則だけをただ映していた。
 何もやることが無くて、小さな部屋の中をうろつき、懲罰になら無い程度の独り言を呟き、けれどそんなものでは暇が織りなす不安をかき消すには到底足りやしない。

 やがて己の零した体液を一心不乱に舐め啜るという倒錯した行為によって、何とか不安を沈める事を覚えたのだ。
 あの行為は今だって、不安な心を静めてくれるお守りである。
 とにかく、成体となってからの3日間は本当に暇との闘いで、端末がまともにコンテンツを配信し始めた4日目がどれだけ天国に思えたことか――


 ドクン


(……だめ、このままじゃ)


 記憶と現在の状況を照合した瞬間、すぅと身体が一気に冷える感覚がする。
 いや、今の自分は何も感じることは出来ない。だからこれは錯覚に過ぎない。
 心臓が痛いほど高鳴って、不安を煽って……

 ――待って、この耳では己の心臓の音すら、聞こえ、ない?


(あの時と同じ……)


 いや、と声を出そうとして、唇の動かし方も、声の出し方も分からなくなっている事に気付かされる。
 無意識に出来ていた動作故に、思い出す事すら至難の業。例え思い出したところでこの身体が動作する権利は……そうだった、F等級は動作の権利を全て奪われるとあの作業用品が語っていた……!

 違う。
 あの時と同じ、では決してない。

 72番は己がついさっき出した結論を即座に否定する。

 人生で最も退屈でそれ故に苦痛な3日間は、それでも餌を啜ることを許されていた。
 身体を動かして、己の愛液を舐める権利を与えられた。
 真っ白な部屋だけど、一応床と壁の区別はついたし、餌皿とタブレットもあったし、動けば音がした。
 ……何より、己の内腑が奏でる音は……ささやかで聞き慣れているが故に普段は聞こえない音までは封じられていなかった。


(そんな、何も、無い……!!)


 肌に何かが触れる感覚も、己の位置を確かめる景色も、かすかであっても心の声を消し去れる音も、何もかもが、無い。
 その事実に気付いたとき、目を背け続けてきた――ここに入れられたときから、自分はずっと気付いていたのに――不安が、インクの染みがじわりと広がるように心を染め上げていって。


(いや……いやあああああっ!!!)


 ただの傀儡と化した72番には、声なき慟哭をせめて不安をかき消さんと上げ続けることしかできなかった。


 …………


 なんでもいいから。


 なんにもいやがらないから。


 おねがいします、しげきを、ください。


(助けて……お願い、助けて……!!)

 まるで奈落の底に堕ち続けるかのような感覚に襲われる。
 不安はどこまでも増幅し、今や72番の全てを飲み込み、細胞の一つ一つまでを恐怖で震わせているかのようだ。
 ああ、せめてこれを言葉で表すことが出来たならば、少しは楽になれるのだろうか。

(えっちなこと、考えて……っ何で!?いつもえっちな気分のままなのに!!お願い、いつも通りの頭にして……えっちなことばっかり考えてる頭にしてえぇっ!!)

 F等級はその用途故に、一切の刺激を禁じられる。
 それは物理的な刺激のみならず、感情に対する刺激も同様である。
 故にF等級は、成体の二等種でありながら一切の性衝動から解放された存在となるのだ。

 ……それが救いで無いことを、72番は今自らに生じている苦痛をして嫌と言うほど思い知らされていた。

 最初に助けを求めたのは、視覚と聴覚だった。
 とにかく何かが見えれば、何かが聞こえれば自分はこの不安を紛らわせると、見えないはずの目をこらし、聞こえないはずの耳を必死ですました。

(何か……ちょっとでいいの、ほんの少しの明かりで良いから、空気の動く囁きで良いから、感じたい……!!)

 当然のように徒労となるこの行為を、彼女は気が遠くなるほどの時間試み続ける。
 否、その時間感覚すらすでに狂わされたものに過ぎない。
 この棺桶の外では、素体達が収納されてからまだ1時間も経っていないのだから。

(どうして、何も無いの……お願い、一度で良いから、私に光を、音を……!)

 助けて。
 そう恐怖に心で泣き叫ぶ72番は、次第にある違和感に気付く。
 何年にもわたり、ずっと自分の傍にあったものの存在が、消え失せている――

(……私、今、絶対に泣いているはず……涙の感覚は無いけど、涙が溢れているはずなのに……)

 二等種としてここに連れてこられた日から、徹底的に躾けられたルールの一つ。
 涙を流せば懲罰として、首輪から電撃を流される。それはそれはこっぴどい痛みと痺れを伴い、懲罰に泣けば更に追加の電撃を食らうから、幼い頃は指一本動かせなくなるまで延々と罰を受けたこともあったっけ。

 だというのに、確実に涙を流している筈の今、あの恐ろしい電撃は何故か一度たりとも飛んでこない。
 快楽で流す涙だと判定された?そんなことは無い。だって今私は、何も演じていない。
 ああ、どうして人間様は私を罰して下さらない……?


(そんな…………っ、待って、今私何を……!?)


 この不安が紛れるなら、電撃だって……あらゆる苦痛だって恋しくて堪らない――


 ふと過った考えに、72番は戦慄する。
 そして「そんなこと、ない!」と必死に否定する心とは裏腹に、無意識の渇望を自覚した思考はどんどんと歪められていった。


 …………


『やっぱり二等種よね、懲罰を受けるのが嬉しいだなんて』
『自分から痛くして欲しい、苦しめて欲しいっておねだりするんだ?へぇ、二等種の中でもクズじゃないのあんた?』
『性処理用品になるのがお似合いよねぇ、こんなできそこないは!』

(うあぁ……やめて……!それじゃ、楽になれないの……こんな声、聞きたくない……!!)

 ……得体の知れない不安は、いつしか言葉を生み出していた。
 不安で泣き叫ぶ72番をせせら笑う声、軽蔑する顔――真っ暗闇の視覚に浮かぶ幻覚と、聞こえないはずの聴覚を震わせる幻聴は、幾重にも重なり、増幅する一方である。

 刺激の無い状況に耐えられなくなった心が織りなす幻は、しかし正気を保つ縁となるどころか、むしろ72番の追い詰められた心を削いでいく。

 助けを求めても、応えるものなどいない。
 いっそのこと気絶してしまえれば、そう、いつものように眠りにつければと思うものの、何故か全く睡魔は訪れない。
 ……例え眠れたとしたって、夢を取り上げられたこの身体に逃げ場所はないのに。


(おねがいします)


 ――だから、どこにも逃げられない彼女が懇願するのは


(おしっこ抜いてくれなくていいです!浣腸も頑張って我慢します、ご指導ありがとうございます!だから、与えて下さい……!)


 ありとあらゆる刺激への渇望と


(ずっとえっちなままでいいです!淫乱な頭のままにして下さいっ、こんなの、まともな頭になんて戻れなくて良い!!はっきり分かるのは嫌あぁぁ!!)


 折角取り戻した明晰さへの忌避感だけ――


 津波のように襲いかかる幻覚に打ち震えながら、72番の精神はじわじわと追い込まれ、蝕まれる。
 それでも彼女が完全に壊れることは無い。
 実験用のモルモットとしてしか用途の無いF等級とは異なり、性処理用品の素体が発狂して使い物にならなくなれば国にとって大きな損害だ。だから、保管庫の体験は精神崩壊しないギリギリのレベルを保つように細心の注意を払ってモニタリングされ、ふんだんにあらゆる薬剤が用いられる。

 とは言え、狂わなければ、最後の一線さえ越えなければ問題はない。
 むしろその方がこれからの調教に於いては好都合。だからこそ入荷した素体は、まず真っ先に最底辺の環境に放り込まれるのだ。

(恵まれてた……!こんな箱に詰め込まれたまま放っておかれるより、ずっと、ずっと性処理用品は楽だったんだ……!)

 例え喉を埋め尽くす口枷を嵌められていても。
 排泄すら管理され、24時間衝動と焦燥感を与えられ続けていても。
 そして常に愛液を垂れ流し、快楽を、絶頂を求めて疼き続ける頭と身体に仕立て上げられても。

(F等級は……確か平均13ヶ月待機って……1年以上ずっとこのままだなんて、絶対に壊れちゃうよ……!!)


 ――F等級としてこの静寂の地獄に保管される事に比べれば、性処理用品の世界は天国だと『自覚』させるために。


(ごめんなさい、ごめんなさい……もう、同じ二等種だからって文句なんて言いません、思いません……!私は性処理用品で、調教師様に躾けて頂く底辺の存在です……ちゃんとご奉仕します、立派な性処理用品になります、だからお願い、刺激を下さい……っ!!)

 己を嘲笑い、軽蔑し詰る幻覚は、幻聴は、全く途切れる気配が無い。
 それをかき消すための快楽も、痛みも、今の自分には何一つ与えて頂けない。

(何でも良いです、気持ちよくなくても、苦しくても良いから、お願い…………)

 それを分かっていても、半狂乱となった72番の懇願は止まらない。
 彼女はこの後、ただひたすらに先ほどまで感じていた苦しさを、浴び慣れた電撃の痛みを必死に脳内で再現しながら、人間様による慈悲が訪れる事を希い続けるのだった。


 …………


「覚えてるわぁ、いつも無表情なあんたがあの時ばかりはすっかり取り乱して酷い顔をしていたっけね……ふふっ、思い出すだけで濡れそう」
「人をオカズにしないでくれ……あれをやられてまともな奴なんて、俺は見たことが無いが」
「ごく稀にいるわよ。流石に素体で見たことは無いけどね」

 翌日。
 いつものように管理官からの指示を確認したヤゴとイツコは、雑用を済ませた後実験用個体保管庫へと向かっていた。
 視界に映る担当素体のバイタルにも、特段問題はない。いつもながら人間様のコントロールは絶妙だなと感心しつつ、ふと昔のことを思い出してニヤニヤするイツコにヤゴはげんなりした顔を向ける。
 
(ったく、指導担当と一緒の仕事はこれだから……死ぬまで擦られるに違いねぇ)

 作業用品となった二等種の内、調教担当となった個体は、2週間かけてほぼ全ての調教を体験する。
 自ら訓練内容を身体で把握する事で調教効率を上げるのが目的だと言われているが、むしろ本当の目的は、ある程度の裁量を持ち素体と直接密接に関わる作業用品に「逆らえばお前達もこうなる」と突きつけるためだろう。実際、覚醒した性質を持て余し素体に対して過度な「躾」を繰り返した個体が懲罰という名目で調教後F等級に堕とされる事態は、数年に一人とは言え起こらない訳では無いから。

 当然、ヤゴも新人時代には体験と称してF等級の保管庫に放り込まれた。
 素体と異なりたった6時間ではあったが、それでも己の存在があやふやになる恐怖の中見えるはずの無いものが見え、聞くに堪えない幻の罵詈雑言に晒される経験は、比較的精神的には強い個体が多い作業用品すら消耗し2-3日は使い物にならなくなるのが常である。
 あれで「精神的には健康」と判断する人間様の頭はおかしいんじゃ無いかと、当時ヤゴは本気で思ったものだった。

「今回は……21時間か、ほぼ丸1日だな。普段は15時間ぐらいなのに」
「難物がいるときは長くなるわよ。付き合わされる子ネズミちゃんは可愛そうだけどねぇ……あ、でも多めにお薬を盛られたっけ」
「準備でパニックを起こしたからな。ああでも、これも見越して投薬したのか。これで少しはあの『堕とされ』も御しやすくなるといいんだが」
「別にならなくてもいいわよ、その方が甚振り甲斐があるじゃない」
「ひでぇ」

 軽口を叩きながら、保管庫の作業用品に管理番号を告げる。
 程なくして二つの棺桶が、二人の足下にふわりと降りてきた。

「床に転がしておけば良いか?」
「おう、特に管理官様から追加の指示は出ていない。復元処置を取ったらすぐ訓練させろってさ」

 保管庫に封入したときと同様、作業用品達は丁寧な手つきで手際よく管と拘束が外されていく。
 瞳に残った軟膏を拭い洗い流せば、光を灯さないどんよりとした目が作業用品をぼんやりと見つめていた。


 …………


(あか、るい…………?)

 一体どのくらいの時間が経ったのだろう。
 繰り返される幻覚の嘲笑にすっかり疲弊し、刺激が欲しいと懇願する気力すら失って、頭の中が意味の無い言葉の羅列で埋め尽くされ……永遠とも思えるほどの時間が過ぎた後、唐突に72番の視界が眩く光る。
 と同時に、耳をつんざくような騒音――実際には小さなモーター音だったのだが――を頭に叩き込まれた72番は、突如現実へと引き戻された。

 目の前に映るのは、人の顔。
 自分と同じように首輪と手枷を着けた二等種が、未だ感覚の戻らない身体を持ち上げそっと床に置く。
 天井のまぶしさに目を顰めたくても、相変わらず瞼は動かない。

「おい」

 聞き慣れた声と共に飛び込んできたのは、草色の二等種の顔だ。
 相変わらず無表情な彼は暫く72番を見つめた後、少しだけ意外そうな表情を浮かべ「……復元するからじっとしていろ」と命令し、すっと彼女から離れた。

 次の瞬間

 バチッ!!バチバチバチッ!!!
「うああぁぁっ!!」
「ぎゃああぁぁぁ!!!」

 全身に電撃が走ると同時に、二つの獣のような叫び声が部屋を満たす。

(痛い痛い痛い……っ!!……ああ…………)


(…………痛みが、ある…………っ!!)


 それは、あれほど恐怖でしかなかったのに、待ち望みつづけた刺激。
 己という存在を、世界との境界線を明らかにする、人間様からの天恵。
 そう、何だって良いのだ。何も無い恐怖を覆い隠してくれるならば、痛みも、苦しさも、全てが愛おしい――

(痛いよう……あはは、涙、止まらない……痛いの、感じるよう……!)

 ぬるりとした感覚が内ももに走る。
 ジンジンとした痛みが胸の頂と股間の女芯から発せられる。
 管を抜かれたばかりでほんのり口を開けた後孔は、何か咥えるものが欲しいと切なさを訴えていて。

(ありがとうございます、ありがとうございます……あははっ……ちゃんと痛い……ちゃんと、頭えっちなことばっかりになってる……!)

 ようやく動くようになった口の端をあげながら、72番は繰り返される懲罰電撃に確かに安堵と悦びを覚えていたのだった。


 …………


 ようやく電撃が止むや否や「ほら、基本姿勢」と冷たく放たれた命令に、72番は未だ痛みと痺れの残る身体を無理矢理動かして蹲踞の姿勢を取り股を開く。
 どうやら懲罰電撃を受けている間に、下の穴は元通りしっかり埋め尽くされていたようだ。心なしか保管庫に入れられる前よりずっしりした重みを感じる。

(……さっきまで何も無かったから、重いのかな……?ああ、でもこのお腹の重さも……おしっこしたい感じも……)

 安心する、と72番は発情に浮かされた頭で結論づける。
 昨日までは不快をもたらす要素でしか無かった全ての刺激が、今は……決して快適とは言わないけれど、自分という存在を成り立たせてくれる大切な装具に認識がすっかり書き換えられてしまっていた。

 後ろはともかく、まだ違和感しか感じない蜜壺の杭も、いずれは快楽を産み出すものへと変貌するのだろうか。
 彼らは「言うことを聞いて訓練に励めば、立派な性処理用品になれる」と言ってくれたっけと、72番は見学の時のイツコの言葉を思い出す。
 検品に合格して製品にさえなれれば、この地獄のような棺桶に放り込まれることも無くなるのだ。積極的とまでは言わないが、ここで生涯を過ごすことに比べればマシな未来に違いない。

(頑張らなきゃ……ここで死ぬまで過ごすなんて、絶対やだ……!!)

 先ほどまでの苦痛を思い出して恐怖に震えつつ、壊れたくなければ訓練に励むしか無いと己を鼓舞する72番の様子にヤゴは(よし)と心の中で頷いていた。

 様々な思惑を――ほとんどの個体は自慰では得られない快楽を求めてだが――持ちながら、しかし現実を、そして同じ二等種であった筈のものに頭を垂れなければならない理不尽を知った素体は、しかしこの体験を通して最悪の未来を叩き込まれ、以後は作業用品に対しても従順となるものがほとんどである。
 過酷な訓練と共に記憶が薄れ、反抗心を取り戻すことも無いわけではないが、そうなればちょっとばかり身体で思い出させてやればいいだけ。

(薬で楽した分、効きが悪いかと思ったが……ま、甘ちゃん個体だしこれで十分か。それにこっちも十分に効果があったみたいだしな)

 これはこれで予想外に上出来だ、とヤゴは72番の隣で未だ転がったままの素体に目をやる。
 未だ正気に戻らず、ブツブツとあらぬ方向に視線を向けたまま生気の抜けた顔で呟き続ける104番の顔には、幾筋もの涙の痕が走っていた。

 そんな104番にイツコは微笑みながら「ふふ、ねぇ、楽しかった?」と嬉しそうに鞭の音を響かせている。
 その度に上がる叫び声は、けれど鞭への直接的な反応ではない。まだ彼の頭は幻覚に襲われる世界から戻ることを許されないのだろう。
 この様子なら、相当な恐怖が魂にまで刻み込まれている筈だ。イツコへの反抗も多少はマシになるに違いない。

 ――そこまで仲間意識は無いとは言え、やはりメスの作業用品が傷つく姿は見たいものでは無いのだ……少なくとも『未覚醒組』であるヤゴにとっては。

「ごめんなさい……ごめんなさい…………ゆるして…………」

 明らかに狂気に振れた様子で壊れたラジオのように呟く104番は、決して他の個体に比べて脆いわけでは無い。むしろ電撃だけで正気に戻れた72番の方が特殊な(というより運が良かった)だけ。
 ほとんどの素体は、そして短時間の体験をした作業用品達も電撃の痛みでは正気を取り戻せず、管理官による精神復元魔法で無理矢理こちらに引き戻すのが常である。

「……イツコ、そろそろ」
「ん?ああ、そうね。あんまり遊んでいると時間が押しちゃうか」

 どうやら、昨日の朝までにやられた分はきっちり返したらしい、イツコが管理官に「スッキリしました、ありがとうございます」と頭を下げれば、次の瞬間復元魔法が発動したのだろう、スッと104番の瞳に光が戻り……そして

「……あ、ああ…………っ……うあああああっ!!」

 微笑むイツコを見るなり、顔を引き攣らせ恐怖の雄叫びを上げた。


 …………


「あら、なあに?もう反抗しないの?」
「ひぃっ!!」

 正気に戻るなり咆哮を上げた104番を電撃で無理矢理黙らせる。
 そしてイツコが「ほら、もう動けるでしょ?さっさと股押っ広げてしゃがみなさいな」とにっこり微笑みかければ、顔を引き攣らせた104番は飛び上がるようにして慌てて基本姿勢を取った。

 そこに、昨日までの反抗心は欠片も見当たらない。
 104番はガタガタと身体を震わせながら、縋るような目でイツコを見つめている。

(ごめんなさい、ごめんなさいっ……!言うこと聞くから、だから……!!)

 俺を、殺さないで。
 声にならない声で呟くように懇願する104番は、どうやら幻覚のイツコに延々と命を奪われ続けていたらしい。

(やっぱり二等種だ、こいつらは……しかも人間様の前に出せない二等種……下手なことをすれば、殺される……!!)

 心の奥底に植え付けられていた二等種への恐怖は、感覚剥奪という極限状態に於いて心のままの幻影を作り出す。
 天然モノの二等種であれば決して持たない感情。不幸にもそれを持ち得ていたが故に、104番の怯えは際限なく増幅され、特に唯一彼が手を下した――つまり反撃される恐れのあるイツコへの恐怖に根ざした服従の念を形成してしまったのだ。

 画面の向こうでほくそ笑む管理官はともかく、ヤゴやイツコはその事に思い至っていない。
 ただ、異様なほどイツコに怯える様子に「効果抜群だな」「これで躾けやすくなったわ」と喜ぶだけである。

「んー、でもまだ口先だけかも知れないのよねぇ……ねぇ、何ならもう一日ここに泊まっていく?」
「ひっ!!そっ、それはっんぐうぅぅっ!!」
「だめよ、あんたは性処理用品なんだから許された言葉以外は喋っちゃ。ちゃんとお口には蓋しておかないと、ね?」
「んぐっ、んえぇぇぇっ……!!」

 お前の意見は聞かない、とばかりに無理矢理ディルド付きの口枷をねじ込まれても、涙と涎こそ垂らすもののその瞳から力は失われたまま。

 あまりの豹変振りに(なんで、そこまで……?)と72番は目をぱちくりしている。
(確かにもう二度と嫌なくらい怖かったけど……ちょっと大袈裟なんじゃ……)

 戸惑い混じりの視線に気付いたイツコは、ギリギリと104番の顔に掛かったベルトを締め上げながら「子ネズミちゃんは幸運だったわね」と微笑んだ。

「おぅ……うん?」
「最初にパニックを起こしたでしょ?だから、壊れちゃわないように通常よりたくさんお薬を使われていたのよ。お陰でこれに比べれば随分マシな体験だった、ってこと」
「……!!」

(嘘でしょ、あれでマシだったの……!?)

 その事実に驚愕しつつ、72番は己の強運をしみじみと噛みしめていた。
 ここに来た日、自分を追い込んだ人間様……ああ、バレエで一緒だった、何て名前の子だったか……彼女の非道な所業にすら感謝を覚えたほどだ。

「……どう思う、俺は十分だと判断するが」
「私もよ。本音はもうちょっとダメ押ししたいけど、流石にこれじゃ管理官様の許可が出なさそう」
「お前はほんっっとうにブレないな……」

 ともかく、これまでの様子から反抗心そのものが完全に消え去ったとは思えないが、少なくとも体験の強い印象が残る内は従順になるだろう。
 そう判断したヤゴは「ちなみに」とまだ青い顔で股間を開きしゃがみ込む二体の方に向き直った。

 ――体験の仕上げとして、そしてこれからの訓練の準備として、打ち込まれた恐怖を更に深く刻み込むために。

「性処理用品への懲罰は、基本は電撃と鞭で行う。だが、素行や成績が改善しない場合は……ちょっと頭を冷やしに数日『棺桶』で転がって貰うかも知れん」
「!!」
「もちろん懲罰を決めるのは管理官様だ。俺たちに媚びを売ろうが何の意味も無いが……だがまぁ、指示には常に従って真面目に訓練に励んだ方がいいだろうな。出来の悪い素体は早めに矯正するのが常だし」

 お前達が思うよりずっと、ここは懲罰室として気軽に使われているぞ?と、ヤゴとイツコは壁に並んだ扉を指さした。

「あれと、あれと……あ、あれもだな。お前らと同じ、訓練中の素体が格納されている。確か今懲罰中で一番長い奴は1週間だったか……」
「F等級なら半数は壊れてるわよね、1週間だと。まあでもそこまで長期で放り込まれるような個体はどのみちE以下の判定になるでしょ」
「……っ!?」

 F等級と素体、どちらが入っているか一目で分かるように、素体が格納されている扉には刻まれたラインが青く光るのだそうだ。
 ざっと見ただけでも5-6個は青いラインの扉があって、彼らの言っていることは決してブラフでは無いと素体達は震えあがる。

(そんな……あれを、気軽に懲罰で使われる……ちょっと成績が悪いだけで、あんな酷い目に遭わされるの……?しかも今、数日って言わなかった……!?)
(人間様のことだ……天然モノ相手でもこれ以上反抗したら、あっさりぶち込まれるかも…………!!)

 紙のように白くなった顔で、信じられないと言わんばかりに72番はヤゴたちを凝視する。
 人間様が求めることは重々承知している。「調教師様」に大人しく従い、良き性処理用品になれるよう努力を重ねる、やることはシンプルだと。

 ――けれど、その成果を、態度を判断するのはあくまで管理官……人間様だ。彼らの匙加減ひとつで自分達の運命は簡単に捻じ曲げられる。
 努力はあっさりと踏みにじられるかも知れない。だが分かっていても努力以外の選択肢は無い。
 製品としての検品だって、判断を下すのは人間様だ。性能が良ければ等級も高くなるとは限らない……
 
 ただしそれを知るのは、知って良いのは作業用品だけ。

(これから死ぬまで、報われるかも分からない訓練や命令を全力でこなし、気まぐれな人間様の沙汰を震えながら待つしかないんだ、お前達は)

 そう続けようとしたヤゴはしかし一瞬目を見開き「……申し訳ございません」と口を噤む。恐らく管理官から制されたのだろう。

(まったく、『仏のヤゴ』はやっぱり優しすぎるわね)

 チラリと隣をみやり、イツコはため息をつく。
 自分達のように本来の性質に目覚めずとも、せめてもう少し非情になれたら良いのにと指導担当になって以来ずっと思っていたけれど、この様子ではその変化を自分が見ることは叶わなさそうだ。

「……ともかく、だ。3ヶ月後、役立たずだと判断されればここがお前らの終の住処となる。F等級は生命維持だけが保障された存在だ……つまり、今回の体験でお前達が使われたような、発狂しないための処置は一切行われない」
「永遠に覚めない恐怖の中で、朽ち果てていきたいってのなら別だけどね」

「それが嫌なら、死に物狂いで訓練に励むんだな」

 何かを誤魔化すように咳払いをして72番と104番の心にとどめを刺すヤゴの瞳は、少しだけ憂いを帯びていた。


 …………


「……あと、2年もないかしらね」
「イツコ」
「何悲しそうな顔してるのよ、みんなそうだったじゃ無い。ほら、仏頂面があんたの取り柄でしょ?しゃんとなさいな」
「…………」

 ヤゴとイツコは訓練室への移送をサポートで入る作業用品達に任せ、保管庫の作業用品と共に管理官に命じられた作業を行っていた。
 整然と並ぶ扉のラインの色は青だけでは無い。大半は白で、次に多いのが緑。そして……中にひとつだけ赤く光っている扉がある。その「処分」が二人の仕事だ。

「よい、しょっと……ちゃんと載ったか?」
「おう、問題ない。んじゃ処分してくる」

 取りだした保管庫を台車に載せ、新たな空の箱を収納するスタッフに背を向けて二人はゴロゴロと廊下に車輪の音を響かせる。
 そうして「処分室」と書かれた部屋の中に入っていった。

 処分室の奥の壁には、荷台の保管庫がすっぽり入りそうな扉と、その横に「起動」とラベルを貼られた大きなボタンが設置されている。

「…………」

 無言で扉を開けて箱を入れようとしたヤゴを「ちょっと待って」と不意にイツコが制した。
 何を、と聞き返す間もなく、イツコはロックを外し棺桶の蓋を開ける。
 思いがけない行為に、流石のヤゴも眉を顰めた。

「……おい、管理官様に注意されないのか?」
「ダメならダメって言われるわよ。……ほら、何も言われない」
「…………」

 はぁ、とため息をつくヤゴの横で、イツコは躊躇いなく保管庫の中を覗き込む。
 そこに横たわっていたのは、淡いピンクのボブカットが似合う個体だった。
 イツコよりも随分幼い相貌を持つ個体の下腹部には「139F107」の管理番号とXの等級記号が見て取れる。

 その肢体はピクリとも動かない。
 イツコがそっと見開かれたままの瞼に触れれど、指先に伝わるのは無機質な……血の通わない冷たさだけ。

 ……ああ、この瞳は狂気の最期に一体何を見たのだろうか。
 せめてこれ以上何も見なくて良いように瞼を閉じてあげたかったけれども、既に硬直した身体はそんなイツコの気遣いすら拒んでしまう。

「…………イオナ」

 呼びかけたところで返事は無い。
 ただ、自分の掠れた声が部屋に響くのみ。

 そうだ、これはただの我が儘。
 ここに配属されたばかりの自分を指導してくれた作業用品の最期を、全ての二等種に訪れる成れの果てを、この目でしっかりと見届けたかった……ただそれだけのこと。

「………………」

 イツコは無言で、蓋を元通りに閉じる。
 そして「もう、いいのか」と少し躊躇いがちに尋ねるヤゴに「ええ」と頷き、自らの手で本当の意味で棺となった保管庫を炉の中に設置した。

 沈黙が、流れる。

 炉の蓋を閉めて、鍵をかけて。
 後はこのボタンを押せば瞬時に強力な魔法が発動し、二等種だった彼女の亡骸は棺桶もろとも灰のような粉末へと分解されてしまう。

「……どんなに」

 沈黙を破ったのは、ボタンに手をかけたイツコだった。

「どんなに頑張って等級の高い性処理用品になろうが、ささやかな尊厳を必死に守った結果作業用品として使われようが……最期はみんな、同じよ」
「…………イツコ」
「私も同じ。この『棺桶』に入る日は、そう遠くないわ」

 カチリ、とボタンを押し込む音が、やけに耳に響く。
 今日は少しだけボタンが……重い。

 この分厚い扉の向こうでは既に魔法が発動している筈だ。15分もすればブザーが鳴り、後始末をする……二等種の「弔い」は、まさに文字通り処分でしか無い。

 その用途にかかわらず、全ての二等種は人間様の役に立てなくなった――すなわち「壊れた」と見做された段階で廃棄処分となる。
 あらゆる肉体的・精神的負担に晒される性処理用品の耐用年数は35歳前後、そこまで過酷な環境では無い作業用品も中央値は50歳と、人間より圧倒的に短い。
 これまでの彼らの経験から、特定の症状が出始めてから性処理用品はおよそ半年、作業用品は2年で廃棄処分となる事がほとんどだ。といっても、人類は二等種の命を奪うことができない。
 
 だから廃棄処分となった二等種は、あの保管庫でF等級と同様の生命維持措置だけを施され、自然と衰弱して命を落とすまでただ静謐な暗闇の牢獄に捨て置かれるのみ。
 格納から命の灯火が消えるまでの期間は個体差が大きいが、短くても1ヶ月、長ければ……イオナのように、5年近くかかる事もある。
「すでに壊れた二等種だから、苦痛はない」と人間様は豪語するが、それは彼らの見るお綺麗な数値だけが根拠の言説だ。壊れ切ったその頭が終わらない恐怖を投影し続けるであろう事は想像に難くないと言うのに。

 ――当然ながら、この処遇に二等種としての用途や地位は一切考慮されない。

「それは人間様だって一緒だろう?死ねば皆等しく土に返る」
「私達二等種に、人間様のような寝床と安らかな最期は許されないけどね」
「…………」
「でも、まぁ死んじゃえば一緒か……そう、だよね」

 目を合わせないヤゴの言葉はいつも通り淡々としていて、けれど彼なりにイツコを慰めたつもりなのだろう。
 本人は頑なに認めやしないが、ここにいるには彼はあまりにも性根が優しすぎるのだ。その仕事ぶりは有能だが、無意識に心を傷つけ続けて――それは作業用品の特性上仕方がないとはいえ――耐用年数を縮めているようにすら、イツコの目には映っていた。

(……ま、それも良いのかも知れないわね。長生きをしたところで所詮私達は二等種なのだから)

 終了のブザーが鳴り、炉を開ければむわっと形容しがたい臭いが部屋に満ちる。
 炉に残るのは、わずかな灰と手足の枷、そして二等種の証であった忌まわしき首輪だけ。
 灰と枷は廃棄。そして回収された首輪は人間様が清掃と調整を施した後、再び名前も知らない……名前を捨てさせられる誰かの首に嵌まるのだろう。

「私も、早晩そっちに逝くわ」

 灰だらけの首輪を、イツコはそっと握りしめて呟く。
 二等種に仲間意識など無い。特に作業用品は本来の二等種の性質を取り戻したものが大半だ。他者の苦痛は悦びで、精々今夜を彩るオカズでしかない、自他共に認める破綻者である。

 それでも、何十年と同じ場所で使われてきたモノを悼む気持ちまで捨てたつもりは、無い。

「さ、訓練に向かいましょ。あの調子じゃかなり従順になってそうだし躾も楽そうね。……あんなに粋がってたのにあっさり屈服するなんてつまんないわよねぇ、また反抗する気にならないかしら」
「へいへい。ったく……おまえら『覚醒』組はもうちょっと自重する気は」
「無いわよ、そんなもの」

 定められた運命なら、その中で楽しく生きた方がいいじゃない?
 イツコはそう微笑みながら処分室を後にするのだった。

 扉を閉める寸前、誰にも看取られず消えていった命への祈りを、部屋に残して――


「……お休みなさい。どうか、生きてる時には叶わなかった……安らかな夢を」

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