沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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19話 Week12-2 ヒトイヌ加工

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 ヤゴが出荷前検品室に飛び込む15分前。
 104番の検査を終えた検査官達は、床の上で絶頂から降りてこられず朦朧とする素体を放置したまま、等級判定について話し合っていた。

「いや、これは非常に高性能ですね。拡張も十分進んでいますし、なにより奉仕の性能がずば抜けている。今のところ49系では3本の指に入るんじゃ無いですか?」
「服従心もしっかり入っています。内心との乖離も少なそうですし、順応が早い。あれほど強い反抗心を抱いていた個体を、良くここまで仕上げましたね」
「なんだかんだ言っても、堕とされはプライドが高いからねぇ。天然モノより下の存在になるくらいなら進んで穴になる個体は多いんだよ」

 検査官の絶賛に気を良くしつつも、だからこそ実に残念だと管理部長は肩を竦める。
 正直、彼自身もまさか104番がこれほど高性能な個体に仕上がるとは思ってもみなかったのだ。
 処分にならない程度の調整が出来ればそれでよし、ぐらいの感覚で管理していただけに、これから下される判定は彼にとっては少々不本意でもある。

 ――だが、こればかりは仕方が無い。
 この個体は、性処理用品に要求される最も根本的な基準を満たしていないから。

「ぁ…………はぁっ……」
「あれ、もう薬が切れたんだ。耐性高めですか?」
「そうだねぇ、これも堕とされの特徴だね。天然ものの倍は盛らないといけないから、コストも嵩む」

(……死ぬかと、思った……気持ちよかったけど、ヤベえだろあの快感は……)

 談笑する人間様を視界に映しつつ、104番はまだ上手く力の入らない身体を叱咤しガクガクと震えながらも基本姿勢を取る。
 股間からどろりと溢れる残渣の感触に「んううぅ……」と悩ましい声が上がるも、その背筋はピンと伸びたままだ。

 幸いにも今は、人間様の服に覆われた股間はここから見えない。お陰で無闇におちんぽ様への奉仕を叫ぶことも無いと安堵していたとき「じゃ、決定でいいね」と管理部長の声がした。

(そうだった、俺は……今、検品を受けていたんだ)

 その言葉が耳に入るや否や、さっと104番の顔に緊張が走る。

 やるべき事はやった。といっても、この身体が自動的に動いてやっただけとも言うが。
 強いて言うなら自分の努力が実を結んだのは、悍ましい物体を目の前に差し出されても躊躇い一つ見せず笑顔で頬張った時に、内側の絶叫を決して外に漏れないよう必死に押さえ込んだ位か。
 洗浄魔法で汚れは持続的に分解されているというのに、まだ喉の奥から吐き気を催す臭気が上がってきている気がする。

(いや……俺は、努力してきた。少なくとも訓練はずっと真面目に受けてきたんだ)

 裁定の時を前に不安が過る心に、大丈夫だと彼は何度も言い聞かせる。
 服従心はあの検査で確実にパスした筈。それに、実習中だって作業用品にその性能を何度も高く評価されていたのだ。少なくとも処分になることだけは無いだろう。

(いくら何でも、あのへっぽこよりは上になるはずだ……)

 事前の評価の高さ、同時に加工されていた個体との差を鑑みれば、恐らくそれなりにいい等級を与えられる。
 それだけ104番は自分の性能に自信があったし、密かに期待もしていたのだ。

 ――ああ、自分は何と愚かだったのだろう。
 期待するから絶望するのだと、堕とされた日から何年も叩き込まれてたではないか。
 なのに、迂闊にもあのへっぽこ天然モノのように楽観的な期待を抱いてしまったあの時の自分を、全力でぶん殴りたい。

「そうですね」と頷きながら検査官の唇が運命を宣告する。


「D等級で異論ありません」
「同じく、これは処分するには惜しい」


(…………え…………?)

 瞬間、104番の世界が止まる。
 ……今、彼らは自分のことを、性処理用品の製品の中で最も最下層であると断じたのか。

(う……嘘、だろ……!?)

 予想だにしなかった判定に、ドクンとひときわ大きく心臓が鼓動を打つ。
 あまりの衝撃に現実感は薄れ、手足の感覚が遠い。
 何かの聞き間違いかと必死に耳を澄ますも、続く会話の内容はむしろ己の立場を分からされるものでしかなくて。

「……うん、品質管理部長から検品証の承認も下りました。今日の検査はこれで終わりですね」
「はい、お疲れ様でした……と言ってもD等級だと管理部長はこれから加工ですっけ」
「そうなんですよね、Dの加工は少々手間がかかるのが難点で……ああF125X、すぐに標準Dの処置を。尻尾の形は君が決めなさい」
「かしこまりました、管理官様」

(そんな……なんで、何で俺が……出荷最低基準のDなんだ……!?)

「…………人間様……なん、で……?」

 呆然とした表情の104番から、思わず禁じられている質問の言葉が飛び出した。


 …………


「いやぁ、等級が確定した後でよかったねぇ104番。確定前にその言葉を発していれば、流石に評価を下げざるを得なかったけど……検品証の承認が下りた以上は、僕らでもそう易々と等級変更はできないから」
「ぎっ!!……ご指導ありがとうございます、人間様っ……!」

 基本姿勢のまま首輪と端末を繋がれた104番は「人間様に質問なんて、基本的な規則違反をここに来て犯すだなんてね」と案の定懲罰を食らっていた。
「まあ、堕とされの判定では良くある話なんだけどさ」と付け加えられる説明に、足元が崩れていくような絶望を覚えながら。

「僕たち人間が気持ちよく使えるようなデザインは、製品には必須だからね」
「…………え」
「そうそう、いくら穴が仕上がっていて性能が高くたって、見た目が良くないのはねぇ……特殊な趣味の連中はともかく、一般的には受けないよね」
「天然モノの二等種が容姿で引っかかる事は絶対に無いもんな。やはり人間を騙し油断させるには、それ相応の美しさを持っていた方が有利なんだろうよ」

(そんな……そんな理由で……)

 検査官達の容赦の無い物言いに愕然とするものの、104番にも心当たりはあった。
 幼い頃に見かけた性処理用品達はタイプは違えどどれも美男美女揃いで、子供心にも綺麗だと感じていたものだ。
 その美しい顔をだらしなく歪ませるのが、人間様にはこの上ない優越感を与えることも嫌と言うほど知っている。

 考えてみれば、堕とされて以来見かけた二等種たちの容姿も、地上でなら顔だけで人生が有利になったであろう美貌の持ち主だらけだった。
 あまりに顔のいい連中に囲まれすぎていたせいで感覚が麻痺していたようだ。目の前にいる4人の人間様をあらためて眺めれば……非常に失礼な話だが、箸にも棒にもかからないという表現がぴったりである。

 ……そして、鏡を見るまでも無く自覚している。
 自分も「そちら側」の……決して醜いとは思わないが、十人並みの外観であることを。

(俺のこの等級は……ああ、だからあの訓練だったのか……!)

 脳裏によぎるのは、ここに来た当初に散々やらされた基礎訓練の風景だ。
 共に調教されていたへっぽこ天然モノのメスと異なり、自分は最初からただの四つん這いでは無く、手足を纏められ肘と膝だけで歩く訓練を強いられていた。
 さらに筋トレの強度はそこまで上がらないものの、柔軟体操の時間がとにかく長く、それもやたら肩や股関節周りの可動域を広げるようなメニューばかりだったのだ。

 全ては出荷された段階から決まっていて、道は一つしか存在しなかった。
 だからこそ等級に合わせた訓練を組まれていたのだと104番は気付いてしまう。

(全員、知っていたんだ……人間様も、調教師様も、俺がどんなに頑張ったってD等級にしかなれない事に)

 彼らは誰一人として、この努力が無駄だと教えてはくれなかった。
 性能を褒めそやす作業用品達は、きっとその腹の中で自分を嘲笑っていたのだろう。
 自分が天然モノだという理由だけで、彼らを下に見ていたように……

(俺の12週間は……何一つ、報われなかった……何のために俺はここまで……)

 ああ。
 こんな状況でも股を大きく開き、何も咥えていない疼きに悲鳴を上げ、封じられたオスの徴からメスのようにダラダラと汁を零しつつおちんぽ様を探してしまう身体が恨めしい。
 この心身は、すでに取り返しのつかないレベルで変質させられた。
 けれども彼らの評価により、それらは
 ことごとく無駄なものとして切り捨てられるのだ――

 ぱりん
 
 心が砕ける音が、熱を溜め込んだ肉の洞に響いた。
 
「あは……ははっ……」
「そうかそうか、思わず笑ってしまうほどほど嬉しいのかい?そりゃこっちも頑張って調教した甲斐があるってもんだ。ねえ、F125X?」
「そうですねぇ」

 空虚な笑い声が、部屋に響く。
 虚ろな瞳に映る絶望には誰も気付かない。いや、気付いていたところで無視されるだけ。

「…………」

 目の前にスッと影が落ちる。
 見上げれば、そこにはイツコが仁王立ちになり、104番を静かに見下ろしていた。

「……良かったのよ、104番」
「…………?」
「何も無駄なんかじゃない。あんたの努力は、実ったの」

 そのまましゃがみ込んだイツコは、両手で情けなく笑う104番の頬を包む。
 いつもながら美しいかんばせは微笑みを湛えていて、けれど何故だろう、今日の彼女にはいつものような……104番の嘆きを心底楽しむ嗜虐者の光が見えない。

 絶望に歪む顔が好きで堪らないくせに、彼女の瞳に映るのはほんの少しの憐憫だけ。

「管理官様が仰るとおり、堕とされは外見にばらつきがあるの。天然モノと同じ土俵に立てる堕とされなんて、1割もいればいい方だわ」
「…………」

(……別に知らせること自体は……管理官様も止めないわね。今更知ったところで人間様には関係が無い話だし)

 イツコは何かを確認するように、チラリと管理部長の方を見る。
 小さく頷く姿に一礼し「あのね、104番」と再び口を開いた。

 きっとこの事実は、何の慰めにもならない。
 それでも……このどこまでも不幸な堕とされが必死に足掻いてきた軌跡は、確かに意味があったのだと知らしめるために、イツコは非常な現実を告げるのだ。

「あんたの入荷時の判定、教えてあげる。……F等級だったのよ」


 …………


 二等種に匹敵するほどの容姿を持っていない大多数の堕とされは、基本的に実験用のモルモットや各種材料としてしか使えない個体と判断される。

 成体であれば、2ヶ月間の初期加工後に行われる事前検品で跳ねられて即棺桶行きだ。
 幼体の場合は通常の二等種と同様の製造ラインに乗せるが、成体になった段階で密かに容姿の判定が行われ、基準を満たさない個体は性処理用品に志願したとしても入荷時判定がF等級で固定となる。

 本来入荷時の判定は、あくまでもこれまでの実績からAIが算出した数値であるため、必ずしも出荷時の判定と同じにはならない。
 実際、先に検品を受けた72番のように、3割ほどの個体は1段階以上等級が上がるのが常だ。

 だが容姿の劣る堕とされについては、実に9割以上が出荷段階でもF等級の判定を受ける。
 どれだけ手を施そうが、生まれ持った自然な美しさを手に入れることだけは不可能だから、どの段階においても顔のパーツを加工することはない。
 だからこの判定が変わらないのは、ある意味当然なのだ。

 そして不運な彼らは出荷前検品が終わり次第実験用素体保管庫へ直送され、いつ訪れるか分からない命の終わりを狂気の中で願うことしか許されない存在へと堕とされるのである。

 であれば、何故わざわざ12週間も各種コストをかけて調教を行うのか。
 ……それは、ごく稀に存在する高性能な個体を拾い上げるため。

「あんたの性能は本当にずば抜けているわ。25年近く性処理用品を作っている私が断言してあげる。もちろん、管理官様の能力が高かったのは大きいけれど、それだけじゃここまでの性能にはならない。だからこれは、あんた自身の素質や努力の結果でもあるのよ」
「…………」
「高性能な穴をわざわざ部品としてしか使わないなんて、勿体ないじゃ無い?だから人間様は、見栄えの良くない性処理用品でも人間様のお役に立てる道を作って下さったの。……それがD等級、ヒトイヌよ」
「…………!!」

 見栄えが悪いなら、覆い尽くせばいい。

 全ての利用者が見目麗しい外観を堪能するわけでは無い。
 性処理用品は見た目を問わず穴さえ使えれば問題が無いと考える者も多いし、人間に似た外観をむしろ忌避する利用者も一定数存在する。
 それならば、見た目すら均質な製品として作り替えて、それ相応の需要に応えられるようにすればいい、となるのは自然な流れであろう。

「あんたは優秀だったから、F等級にはならなかった。まぁ……天然モノ並みの容姿を持っていればかなり等級も上がったんでしょうけど」

 イツコの言葉に「あ、それはそうだね」と検査官の一人が頷く。

「これならA等級は確実でしょ?」
「ええ、私ならS等級判定を出します。……本当に、それだけに実に惜しい。これほどの逸材なら、見目が良ければどれだけの売り上げを国にもたらしたことか」
「そこまでかい!?……いや、逆に考えるんだ。S等級相当の性能を持つヒトイヌとなれば、付加価値も大きくなる。そこは君たち品質管理局の腕の見せ所じゃ無いのかい?」
「それはそうだね。上手くいけば、さっきのB等級よりよっぽど稼げそう」
「……!?」

 何気ない検査官の言葉が、104番の胸に刺さる。

(嘘、だろ……あのへっぽこが、B等級……!?)

 あれだけ調教師様の手を焼かせた個体が、一般的な性処理用品として、特段の加工もされないまま出荷される。
 なのに、たかが容姿が平凡だったと言う自分ではどうしようもない理由だけで、自分はこれから物言わぬ穴へと変えられてしまうだなんて!

(俺は……俺は、最初から)

(……そうだ、最初から俺は、天然モノよりも劣った存在だったんだ……!!)

「あああ………っ、うああああいやだあああっ!!」
「!!」

 104番の中で、何かが弾ける。

 怒りと、悲しみと、悔しさと、妬ましさと……これまで押さえつけてきた、ありとあらゆる感情が噴出した次の瞬間、ありったけの咆哮を上げる104番の頭の後ろで組まれていた手は、躊躇無くイツコの首筋へと伸ばされた。

「!!」

 ダン!と派手な音を立てて、イツコが床に叩き付けられる。
 完全に不意打ちだったのだろう、イツコの身体はなすすべも無く組み敷かれた。

「……っ、ぁ…………っ、ヤゴ、手伝っ……て……!!」
「おやおや、随分動揺しちゃって。F等級で無かったんだから素直に喜べばいいのにね」
「全くですね、人間様のお役に立てるというのに何がそんなに不満なんだか」

 ……人間様の嘲笑混じりの声が遠い。

 何が喜べだ、ふざけるな!と心の中で上がる慟哭は、植え付けられた従属心故にどうやっても人間様には向けられない。
 そうだ、これは八つ当たりだと分かっている。けれど、これ以外に怒りを表現することを許されていないから、104番は馬乗りになったまま、イツコの首に体重をかける。
 みるみるうちにイツコの顔が赤くなり、目が血走ってぐるりと上転した。

(努力なんて、するんじゃなかった……!!)

「お前のっ、お前のせいでっ俺は、俺はっ!!うわああああ……っ!!」

 あんな異様な姿に変えられて生きなければならないというなら、棺桶で早晩何も分からなくなれた方が、ずっとマシだった――

 行き場の無い感情を全て掌に込めて、104番は己をここまで変えてしまった美しい作業用品の細い首を、慟哭しながらがむしゃらに絞め続けるのだった。


 …………


(あ、戻ってきた)

 暫く騒がしかった隣室が静けさを取り戻して数分後、シュンと扉が開く。
 その音に72番は扉の方を振り向き、そして思わぬ光景に目をぱちくりとさせた。

(え……一体何があったの……?)

 先頭で入ってきたのはヤゴだ。
 ぐったりと104番を肩に担いで「あー重てぇ……」とぼやきつつこちらに向かってくる。
 その後ろに続くイツコは目を真っ赤に染めていて、更に首輪の上にはもう一つ輪をかけたかのような紫の痣が広がっていた。

「おや、まだ梱包が済んでなかったのかい」
「申し訳ございません。すぐに片付けますので」

 部屋の真ん中で104番を床に放り出し、慌てて梱包用のベルトを手にしたヤゴを、一番後ろから入ってきた男性――調教部の管理部長は逡巡し「いや、そのままでいいよ」と制する。

「それも随分手を焼かせる個体だったんだろう?折角だから処置を見学させなさい。多少の抑止力にはなるかも知れない」
「……かしこまりました」

(……処置?写真を撮るのよね、何でそれを見学……?)

 いまいち状況が飲み込めない72番を置き去りに、着々と処置の準備は進んでいく。

 ヤゴは、時折小さな呻き声を上げるものの全く動く気配の無い104番に革ベルトで出来たベストのようなものを着せ、ぎっちりと締め上げて背中の金具と天井から伸びる鎖を繋ぎ、高さを調整した。
 上手い具合に釣り合いが取れるようになっているのだろう、104番の身体はまるで天秤のように傾くことも無く、床と平衡を保って力の入らない手足をだらりとぶら下げている。

 イツコは床に青い布きれを敷く。
 そしてその上に持ち手のついた缶と刷毛らしきものを置いた。
 ……あれは塗料だろうか。
 
 更にワゴンの上に、いくつもの器具や薬品を並べていく。
 どれも72番が今まで見たことが無いものばかりだ。

「ぁ……うぁ……」
「ああ、先にこっちの処置だけ終わらせようか。そうすればイヤーマフを使わなくて済むしね」

 そして管理部長は、吊られた104番にカツカツと近づき、ぐいっとその頭を上げる。
 そのまま右手の人差し指をつぅ、と顎から下に滑らせ、首輪の下、鎖骨の窪みの少し上で止めた。

「……この辺だね。どれ…………」

 管理部長が短く呪文を唱えると、指先がぽうと青白く光る。
 10秒ほどそのままだっただろうか、終われば続けて顎の下、首との境目辺りに手を当てて更に魔法を展開した。

「ん、いいね。綺麗に開いた」
「!?」

(……魔法?首輪に魔法を追加……じゃないよね、何を……)

 ここからではよく見えないと72番が目をこらしていれば、ヤゴが「お前はここで待機な」と彼女を104番の近くに引っ張っていき、股間のリングを床に繋ぎ止める。
 そして「折角だし説明をしてやりなさい」という管理部長の命令に従って、ほら、と104番の顎を持ち上げた。

「見えるか?首輪の下。真ん中に穴が開いているのが」
「んあ?…………ひっ、うあ…………!」
「あ、ヤゴ。そのまま頭を持ってて。カニューレを入れちゃうから」

 ヤゴの指の先を追ってそこにあるものを認識した途端、さぁっと72番の顔が青ざめる。
 確かにヤゴが言うとおり、104番の首には1円玉ほどの穴がぽっかりと空いていた。
 穴の底は見えない。穴に管を取り付ければ余計に人工的な印象が強まって、どうにも不気味なものだ。

「これは呼吸用の穴だ」
「……?」
「ああ、そうだった。お前は向こうの顛末を知らないか……今から104番の出荷前処置を行う。等級はD、ヒトイヌ加工だ。見学の時に見ただろう?」
「…………!!」

(ヒトイヌ……ああっ、あの真っ黒な物体……!!)

 ヤゴの説明に、72番は初日に見せられたとても生き物とは思えない物体を思い出す。
 真っ黒なスーツに身を包み、手足を黒い袋のような物で戒められ、ありとあらゆる感覚を奪われた哀れなモノ。
 確かにあのヒトイヌには、呼吸用の穴が開けられていた。だから他の等級より呼吸が楽になる代わりに声を出すことはできないと、調教師様が話していた気がする。

(……何で?どうして104番がそんな目に……だって、性能は私より高いって調教師様も言ってたのに……)

 疑問を尋ねようにも、既に塞がれた口では言葉など紡げない。
 だから72番はただ、ヤゴの淡々とした説明を聞きながら、共に調教された個体がただの黒い塊に作り替えられるのを見守ることしか出来ないのである。

「……うん、ちゃんと喉頭も塞がっているね。これでどれだけ無茶な使われ方をしても咽せることはない。……ああ、気付いたのかい?声どころか息すら鼻や口に抜けないだろう?あまり叫ばれても喧しくて堪らないんでね、先に塞がせて貰ったよ」
「シューッ!!」
「ははっ、どれだけ叫んだって、喉の穴から空気が漏れるだけさ。さて、次は腹に穴を開けようか」
「シューッ!!シュッ、シューッ!!」

(やめろ……やめてくれ……!!お願いだ、もうこれ以上俺から奪わないでくれ……!!)

 渾身の叫び声が声帯を震わせることはない。
 ただガスが漏れるような空気音だけが響く中、先ほどと同じように管理部長は腹に指を当てて詠唱する。
 暴れたくても、手足は懲罰電撃の痺れがまだ取れなくて全く言うことを聞かない。

「失礼します……ってイツコ!?どうしたの、その首!?」
「あはは、ちょっと油断しちゃってねぇ……」
「最後の最後までついてないわね、あんたも……」

 詠唱の最中、別の扉が開き作業用品が二体部屋の中に入ってきた。管理部長が加工の為に手配した個体だ。
 呆れたような声を出したのがメス、そして後ろから入ってきて物珍しそうにキョロキョロとしているのは……以前見たことがある。いつだったかの訓練でやってきた、新人のオスだ。

(……俺も、あんな風に整った顔なら…………)

 女性と間違うようなたおやかな相貌を羨み、天然モノを羨んだことに更に愕然とする104番の腕が、唐突に掴まれた。
 首を動かせば、イツコがまだ力の入らない104番の肘を曲げ「このくらいかな」と手の位置を細かく調整しているのが目に入る。

「仮固定するわよ。レイク、私が抑えているからそのベルトで腕を固定して。なるべく肘から遠いところでね」
「はい。よ、っと……このくらいですか?」
「うーん、まだ緩い。もう二つ穴を詰めて」
「はい」
「シューッ!!」

(痛い痛い痛いっ!!無茶するな、そんなに曲がらねぇよ!!)

 限界まで肘を曲げ、前腕と上腕の肉が潰れてぴったり合わさるような状態で腕が固定される。
「こんなに締めたら血が通わなくなりませんか?」と尋ねるレイクに「短時間だから大丈夫よ」とイツコは答えつつ、左腕も同様に曲げた状態で固定した。
 足の方ではヤゴともう一人の作業用品が同様に膝を曲げた状態で脚を畳んでいるようだ。足首までピンと伸ばされ、関節が悲鳴を上げている。

(ああ、こんな状態で包まれてしまうのか!)

 見学の時に見たヒトイヌの姿を思い出し、104番の背筋が凍る。
 確かあのヒトイヌは、全身を黒い艶のある被膜で覆われていた。手足の状態までは良く覚えていないが、恐らくこの姿勢のままテカテカした袋の中にぎっちりと詰め込まれてしまうのだろう。

 ……あまりの恐怖にまた「シューッ!!」と息の音が漏れた。

「胃瘻も問題ないね。試しに餌と洗腸液を注入して、っと……うん、漏れも無い。良かったねぇM104、これで君は生涯浣腸に苦しむことは無くなったんだよ!まぁ、洗腸液も楽とは言いがたいが、浣腸よりはマシらしいというし」
「シューッ!シュッ!!」

(何にも良くねえよ!!何だよその洗腸って、ろくなもんじゃないだろ!)

 腹に穴を開け終わった管理部長が、顔の方に回ってくる。
 とうとうあの無機質な被膜の中に閉じ込められるのかと思いきや、彼も作業用品もそれらしきものは手にしていない。

「うん、形はこれで十分だね。M019X、これの指を揃えなさい……そうだね、軽くカーブした状態で……いいね、そのまま保持だ。どれ……」

 管理部長の手が右肘に当てられる。
 途端、ふわりと肘の中が温かくなった。
「うーん、もうちょっとかな……形成が遅いね……」とブツブツ呟きつつたっぷり2分ほど当てられた手は、そのまま腕の内側に、そして外側にスライドして、同じように詠唱しつつ内部にほんわかした熱を起こしていく。

「……うん、こんなもんでしょ。見た目もそれっぽくなった」

 最後、手首から指先まで管理部長の手は熱を送り込んで、ようやく離れていった。
 お陰で肩から先は、温泉に浸かったかのようにぽかぽかしていて、これほど無茶な体勢で締め付けられているというのに血流まで良くなっているようだ。

(あーあったけぇ……懐かしいな、いつだったか父さんと一緒に行ったっけ……)

 温泉だなんて概念すらすっかり忘れていた。
 この身体を温めるものは発情以外に存在しないもんなと数年ぶりに感じる穏やかな熱に、104番はこんな状況であることも忘れて思わず心を緩ませる。

 だが、穏やかな時間はそう長くは続かない。

「ぁ……ぁ…………!!」
「……?」

 ふと聞き慣れた呻き声がする方を向けば、維持具を詰め込まれた72番が顔を青ざめさせ、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめていた。
 その腹にはくっきりとBの刻印が押されている。
 ……本当にこのポンコツより下の存在になってしまったのだと見せつけられたようで、104番はいたたまれずふい、と視線を逸らした。

 にしても、あの表情はなんだったのか。まるでこの世の終わりのようだったと心の中で呟いていれば「よし、次に行こう」と管理部長が左側に移動し、イツコが手際よく右腕のベルトを外した。

(ん?なんだ、そのまま包むんじゃ無いのか?じゃあ一体、何のためにわざわざベルトで固定したんだ…?)

 首を捻りながら、104番はようやく自由になった右腕を動かそうとする。
 何せずっとガチガチに締め付けられていたのだ。ようやく電撃の影響も抜けてきたし、少し伸ばしてぶらぶらさせたいと力を抜いて……おかしな事に気付いた。

 腕が、伸びない。
 肘を、手首を伸ばそうとしているのに、まるで固まってしまったかのように一ミリも動かせないのだ。

 あんなに無理矢理締め付けていたせいじゃないのか、と愚痴りながら彼は右を向き……そして、絶句する。

(…………なんだ、これは……!?)

 104番の目に映るのは、確かに自分の腕だった。
 先ほどイツコに無理やり折り畳まれた形のまま……肘を限界まで曲げ、手首は直角に、そして指を揃えて自然なカーブでくっつけた腕。

 だが、上腕と前腕の接触した部分、肉が潰れて合わさった部分にあるはずの境目が、存在しない。
 慌てて肩口を見れば、指も同様に親指を除く4本がまるでミトンを履いているかのようなひとかたまりに変質していた。
 ……辛うじて、かつて別々の指であった名残が薄い筋のように残って見えるお陰で、その異様な外見が際立っている。

「何でお前がそんな死にそうな顔をしてるんだよ、72番……」
「っ……らっれぇ…………!!」
「はぁ……お前はB等級だろう?関節が固定されたり肉が一つにされることは無いから安心しろ」
「ははっ、あんまり失言ばかりしてるとこうなっちゃうかもしれないけどねぇ」
「ヒィッ!!おえんなぁいっ!!」
「……あの管理官様、これはどうなっているんですか……?」
「ん?ああ、M019Xは初めてだったか。なぁに、ちょっと関節を固定してこの辺の組成を変えただけだよ」

 下半身に手を当てながら、かなり高度な魔法なのだろう額に汗を浮かべた管理部長は新人に説明する。

 肩や股関節から末端の関節は、ヒトイヌにとっては不要な構造である。ヒトイヌの前足は肘で、そして後ろ足は膝で地面を踏みしめるのが基本だからだ。
 それに、本来生き物として想定外の荷重を関節にかけることは、早期の劣化に繋がってしまう。最悪、手足の切断にも繋がりかねない。

 このため、肩関節及び股関節より末梢の関節は、全て関節としての機能を排除し、前腕に至っては一本の骨として繋げる処置が取られる。
 もちろんただ繋げるだけでは脆くなりがちだから、骨形成を促して耐荷重性は高めてある。
 更にそのままでは体重を支えるには心許ない為、踵のようなクッション性のある組織を肘と膝に分厚く増殖させ、さらに血流を増やすために上腕と前腕、大腿と下腿を組織レベルで完全に癒合し、血管の走行も変更してしまうのだ。

「とはいえ、利用者にはそんな事情は分からないからね。だからこうやって」
「!!」
「……特に目につく手首と足首は、何かで固定しているような装飾を施すんだよ」
「へぇ……皮膚の下に金属のフレームが入っているみたいです……」
「だろう?これは骨と同じ組成なんだよ。被膜越しでもフレームのでこぼこは分かるから、利用者は手足が勝手に動く心配無しに穴を使えるって訳だ」
「なるほど。指先は肩に固定しないんですか?」
「そこを完全に固着させれば、前足が動かなくなるだろう?自分の手で試してごらん」
「はい……あ、本当だ。前に出せなくなる……」

 のんびりした講釈も、104番の耳には届かない。

 ヒトイヌ加工をされると行っても、それはあくまで物理的に拘束されるだけ。
 それに関節を無理やり曲げた形で長時間放置などすれば、当然結構も悪くなり痺れや痛みが出るのみならず――その程度なら人間様が対応する筈も無い――手足が腐ってしまうであろうことは容易に想像がつく。
 だから、D等級といえど保管庫の中では手足を伸ばすくらいは出来るものだと、104番はすっかり思い込んでいたのだ。

 まさか身体の構造や組織を弄くって、生涯この体勢のままでも生きられるようにするだなんて、いくら何でも想像が出来なかった。
 確かにさっきから曲げたままだというのに、腕……いや、もうこれは前足だ……にも後ろ足にも痛みや痺れは全く感じない。
 この形を維持するための無駄な力も入っておらず、まさにさっきまでと同じようにだらんと伸ばしているのと感覚的には変わらないどころか、血流はむしろ良くなっていそうだ。

(そんな……手足まで奪われるだなんて……一生、こんな気味が悪い身体のまま……)

 理解を超えた残酷な所業に、104番は叫ぶ声すら出ない。……いや、そもそも二度と叫べないが。
 まさか事ここに及んで、自己の存在を更に否定されるような加工を施されると、一体誰が想像できるだろうか。
 人間様の残酷さは自分が思っている以上に……それこそ二等種と何も変わらないレベルではないかと、心のどこかが嘆いている。

 もう、何も分からなくなりたい。意識も落とせないならせめて、心が壊れて欲しい。
 ……あまりのショックに思考が止まりかけている104番を、しかし彼らは休ませる気はなさそうだ。


 …………


 ようやく手足の加工が終わったのだろう。ちょっと休みたいねぇと息を切らせつつ、管理部長はとんでもないことを口にした。

「先に尻尾を生やそうか。やっぱりヒトイヌという以上、尻尾は必須だからねえ……終わったら少し休ませて貰うよ」
「シュッ!?」
「おや、尻尾を生やされるのが嬉しいかい?そんなにシューシュー言っちゃって」

(いやいや嬉しい訳無いだろう!!……何だよ尻尾って、どこまで俺を人型から遠ざけたら気が済むんだよ……)

 矢継ぎ早に行われる非人道的な処置は、どうあっても彼を逃避へと向かわせてくれないようだ。
 まったく人間様は悪趣味極まりないと104番が顔を顰めていれば、管理部長はイツコの方に向かって「F125X、どうする?」と声をかける。

「僕は、尻尾の形は担当作業用品の好みで作る主義だからね。何でもいいよ?と言っても二等種じゃ犬種もそんなに知らないか……分からないならざっくりしたイメージでもいい」
「あ、ええと……」

 イツコは104番を見つめながら思案しているようだ。
 彼が思いきり睨み付けているというのに、彼女の目はどこか遠くを……そう、ありもしないものを見ているようで、どうにも気味が悪い。

 やがて彼女はにっこり笑って……104番にとっては悪夢のような希望を口にする。

「…………管理官様、トイプードルみたいな尻尾って可能ですか」
「シュッ!?」
「ぶっ!!ぷぷっ、ちょっ、トイプードル!?ああいやできるよ……?できるけど……こ、この個体に、トイプードル…………プッ、あははははっ!!いやF125X、君よくそんな酷いことを思いつくねぇ!!」
「そうですか?似合うと思ったのに」
「い、いやいいよ、うん希望通りで……ぷぷっ……」

(おっ、お前っ!!言うに事欠いて何てものを指定しやがるんだ!!俺の身体にそんなふわふわもこもこした尻尾をつけるんじゃねぇ!くそっ今すぐ訂正しやがれ!!)

 イツコの提案に、作業用品たちからもどっと笑いが起こる。
(全くだ)と憮然とした表情でチラリと目を向ければ、あの72番すらその様子を想像したのだろう、ふるふると肩をふるわせているではないか。

 ……こいつにまで笑われるのは、どうにも癪に障る。

「あーお腹痛い」と笑いながらも、管理部長は尻の割れ目の終わりにスッと手をかざす。
 時折噴き出しながらの詠唱は随分時間がかかったがようやく完成したのだろう、尾骨の辺りからにょきっと小さなふわふわの尻尾が顔を出した。
 カーリーな毛の色は黒。ヒトイヌは基本的に黒一色で作ることが決められているためだ。

 体躯に似合わないユーモラスな尻尾は、持ち主の感情を反映してか今はしゅんと股間の方に垂れ下がっていて「何かちょっと違う……」とイツコをがっかりさせる。
 何がちょっと違うだばかやろう、と104番の突っ込みはひときわ大きい息の音を立てた。

「はぁっ、はぁっ……ああもう、久々に大笑いしたよ……なあに、この尻尾は感情を反映して結構素直に動くんだよ。ただし『表の』だけどね」
「あ、そうなんだ。じゃあ性器を関知すれば」
「そりゃもう、ちぎれんばかりに振るさ。このふわふわの可愛い尻尾をピコピコと……ぶっ、ああもうだめだ笑いが止まらないよ、あはははっ……!!」

(お前ホント最後までふざけんなよ!!くそっ、尻尾なんか生やされるだけでも屈辱的なのに……!)

 必死に毒付いたところで、彼の気持ちは誰にも伝わらない。
 それどころか、新たに着けられた情けない装飾品すら表現するのは作られた自分の感情だけだとダメ押しされて、一体人間様はどこまで自分を加工し変質させれば気が済むのかと、104番は暗澹たる想いを心の中で叫び続ける。

「ううん……そんなに私の提案、変だったかしら?可愛いと思ったんだけど」
「「「それはない!!」」」

 そんな104番の慟哭も知らず、暢気に小首を傾げるイツコの呟きが耳に入る。
 彼女の問いかけを全力で否定した作業用品たちに、104番は生まれて初めて二等種に同調し「いいぞもっ言え!」と言わんばかりにシューシューと激しく息の音を鳴らすのだった。

 ――後から思えば、そんな絶望を織り交ぜた、しかも双方向で無いやりとりすら、もっとじっくり味わっておくべきだったと思う。
 内心どころかありとあらゆる感覚まで奪われ閉じ込められたヒトイヌ製品にとっては、二度と浴びれない罵声や嘲りすら懐かしく、そしてこの上なく愛おしく感じるのだから。


 …………


「はぁっはぁっ、ああもう余計に疲れちゃったねぇ……ここから先は作業用品だけでだいたい進められるだろう?……ぷぷっ……」
「かしこまりました、管理官様。……ちょっとそんなに笑わないでよレイク。少しはヤゴを見習いなさい」
「くくっ、いやイツコさん……ヤゴさんも笑ってますって、いつもより口の端が上がってる」
「もう!!そんなにおかしな事は言ってないつもりなのに……」

 頬を膨らませながら、イツコ達作業用品は肘まである手袋を身につける。
 そうして104番の下に置いてあった缶を手に取り、刷毛の先端をチャポンとつけた。

「先に足からね。私とレイクが前足、ヤゴたちは後ろ足を。身体につかないように気をつけるのよ、光を当てた後だと二度と取れなくなるからね」
「了解」
「!!」

(うひっ、くすぐったい……!!ちょ、何してるんだよ!やめっ、んうぅっ気持ちいい……!!)

 ペチャリ、と少し粘度のある黒い塗料を、作業要員達は刷毛で丹念に塗り広げていく。
 肩甲骨の辺りから、肩、腋、そして前足と化してしまった腕……みるみるうちに皮膚が黒く覆われる。

 刷毛がするっと皮膚を撫でる度に、ぞくりと快感が走る。
 そうだった、この身体はこんな状態でも発情からは逃れられないのだと、104番は忌まわしい身体を嘆きつつも次第に目をとろんとさせ息を荒げ始めた。
 さっきまですっかり意気消沈していた尻尾も、今は持ち上がりピコピコと小さく揺れている。この姿が104番の目に触れないことだけが、不幸中の幸いだろう。……管理部長にとっては、いつまで経っても笑いが止まらない災難ではあるが。

「シューッ……シューッ、シュッ……」
「ふふっ、気持ちよさそうねぇ……最後なんだから、しっかり味わいなさい。もう二度と、この快感は得られないんだし」
「……ヒトイヌは快感を得られないんですか?」
「あ、レイクは知らないわよね。これを塗ると、皮膚の感覚が一気に鈍くなるのよ」
「へぇ……」

 思い切り握られたり爪を立てられれば感じるけど、こんな優しい刺激は感じられなくなるのよ、と話しながらイツコはペンキ缶を置き、カートに載せてあった白い機械を手にして塗り終えた部分に青白い光を当てる。
 そうすればさっきまで滴っていた塗料はピタリとその動きを止め、まるで元から黒く艶々と輝く皮膚であったかのように滑らかな状態になった。

(……んっ……んん?段々弱くなってる……ふぅっ、もうちょっと、気持ちいいのが欲しいのに……)

 作業用品達は、何度も黒いとろりとした塗料を104番の皮膚に塗っては光を当て、また塗っては定着させる。
 次第に薄れていく快感に何かがおかしいと104番が気付いた頃には、前足は厚さ3ミリ程の分厚い被膜にすっかりと覆われてしまっていた。

「はい、これで足はできあがり。ほら、さっきみたいに刷毛でこれの弱いところをなぞっても」
「……!!」
「ふふっ、何にも感じないでしょ?通常の性処理用品と違って、ヒトイヌはあくまで穴だけ使えればいいからね。肌理の細やかさなんて堪能する必要も無いし」
「皮膚と完全に一体化している、というかこれ自体がもう皮膚の一部だからな。脱ぐことは出来ない。まぁ、全身皮膚がずるむけ、血みどろになってもいいというなら削り取ることはできるだろうが」

 見た目は全く異なるものの、この黒い被膜は完全に皮膚と同等の機能を有する。
 汗もかけば新陳代謝もする。更に炎天下だと大変熱くなりそうに見えるが、体温調節に優れたこの被膜は外気の温度を皮膚の感覚器に伝えることは無いのだ。
 ちなみに二等種の加工された皮膚同様、どんな頑固な汚れもホースで雑に洗うだけでするりと落ちる、見た目の残酷さとは対照的に非常に高機能な疑似表皮である。

(な……皮膚の、一部!?これが俺の皮膚!?嘘だろ、俺の肌の色まで隠されるのかよ!!)

 愕然とする104番の表情には気付かず、新人はしゃがみ込んで腹側に手を回す。
 ぷっくりと腫れた胸の飾りに刷毛を当てれば、面白いことにピアスに垂れた塗料はその場に留まらずぽたりと床に落ちてしまった。
 どうやらこの塗料は、皮膚にのみ吸着するらしい。

「これ、乳首に塗ったら」
「シュッ……」
「もう乳首で感じることも無くなります?」
「ええ、少なくとも触られたり摘ままれたりしても何も感じないでしょうね。全力で摘まめば多少は感じるのかしら?ただ」
「シューッ!!……シュッ、シュッ……!」
「乳首はピアスがあるでしょ?ここから低周波を流してあげれば気持ちよくはなれるわ。人間様が使うかどうかはともかく、ね」
「ああ、反応が欲しい利用者が使うことはあるみたいだよ。と言ってもじわじわ気持ちがいいレベルで、とてもまともな快楽は得られないだろうけど」

(皮膚の感覚まで奪われる……もうやめてくれ……)

 今にも泣き出しそうな顔で、104番はイツコを見つめる。
 彼女は前足をレザーで出来た袋のようなものに詰め込み「ほら、お洋服ですよぉ、可愛くしようね」と声をかけながら、二本の太いベルトで装具を締め付けていた。
 そして104番の縋るような視線に気付いたのだろう、ふと顔を上げて……にっこりと微笑むのだ。

 ……気のせいだろうか、その笑顔がどこか幼く感じたのは。


ヒトイヌ加工


「ふふっ、可愛いわねぇ……ちゃんと全部塗ってあげるからね。外も、内も」
「…………シュッ……?」
「イツコ、腸内被膜を先に作ってしまうぞ。装具は下ろす前に着ければいいだろ」
「ええ、お願い。レイクは装具を着けたらそのまま首から下を塗り終えちゃって。私は頭を何とかするから」

 内も。
 その言葉に、104番の脳裏にかつて見たヒトイヌ製品の姿が過る。
 あの個体の口の中は、歯や舌を含めて全てが赤色の被膜で覆われていた。
 あれは確かメスだったからだろう。後ろから見れば開いた割れ目から真っ赤な被膜が膣の奥まで続いているのがよく見えたのを覚えている。
 確か、股間の粘膜も全て覆うため人間様が二等種の粘膜と直接接触しなくて済むと説明を受けた筈だ。

(股間も……まさか、ケツの穴も……!?)

「シュッ!?」
「……暴れるなよ104番。吊った状態で入れるのは結構骨が折れるんだ」
「…………!!」

 104番の嫌な予感は的中する。

 静かな忠告と共に、後孔に太い何かが入ってきた。
 いつもの拡張器具だろうか、いや出荷の時には維持具に変えられると言っていたはずだと思案していれば、じゅわんと腹の中に温かさが広がる。
 ……ああ、この温かさはさっき青白い光を当てられていたときと同じものだ!

「シュ…………」
「ここで感じられるのもこれが最後だからな……まだ薄いか、あと3回くらい散布しておくか……」
「シューッ!?シュッ、シュッ!!」

 間隔を開けて腹の中に照射される熱が、どんどんと小さくなる。
 いや、小さくなっているのでは無い。まさに腸がこの外と同じ被膜で分厚くコーティングされているのだ。
 中の快感まで封じられてなるものかと、104番は必死に熱を感じようと集中する。……そんなこと、何の役にも立たないと分かっているのに。

「これでよし、と……押されたり擦られているのは分かるだろうが、気持ちよくは無いだろう?ほら、ここ……お前が一番感じる場所だ」
「!!」

 被膜形成用の器具をずるりと抜いたヤゴが、ダメ押しで入口に光を当てた後、指に潤滑液を纏わせてまだ口を開けてヒクつく孔の中に指をずるりと突っ込む。
 ぐりぐりと押されているであろう場所は確かに飛び上がるほどの鋭い快楽が生じる場所なのに、今の104番にはまるで羽でそっと撫でられている程度にしか感じなくて、それに気付いた瞬間顔がさっと青ざめた。

 慣れるとこんな被膜の上からでも多少は快感が得られるらしいよ、二等種ってのはどこまでも浅ましい種族だよねぇと付け加える管理部長の言葉など、何の慰めにもならない。

(……そんな、ここまで感じなくなるだなんて)

 性処理用品は己の快楽を追ってはいけない、追わずに人間様に奉仕すると誓わされた、あの言葉がガンガンと鳴り響く。

 これでは、おこぼれの快楽すらいただけない。
 ただ具合のいい穴として、渇望と衝動が必死に快楽を得ようとする穴の動きだけを人間様に提供して、自分には何も返って来ない――

 スッと目の前が暗くなる。
 これはショックを受けて気が遠くなったせいではない、イツコが目の前に立っているせいだ。
 その手に握っているのはバリカンで、隣に置かれたワゴンに乗っているのは真っ赤な塗料が滲み出たロングディルド。
 根元から伸びるコードは床のコンセントに繋がっている。恐らくさっき股間に使われた器具と同様のものだろう。

「さぁ、頭もお口も食道も、全部綺麗に覆っちゃおうね……可愛くしないとねぇ……」

(こいつ……!っお前……どこ見てるんだよ……!?)

 ふざけるなと顔を上げてイツコを見た104番は、しかし異様な雰囲気に凍り付く。
 嬉しそうに微笑むイツコの瞳は104番に焦点を結んでおらず、これまで見たことが無い浮世離れした狂気が浮かんでいて。

「……イツコ」
「…………!!っ、あぁ……ありがとうヤゴ」

(何だ……?こいつ、どこかおかしいのか……?)

 異変に気付いたヤゴが、ぐっとイツコの腕を引く。
 ハッとした表情で彼女はヤゴと104番を交互に眺め、気を取り直して104番の口元に血のような塗料が滴る器具を近づけるのだった。


 …………


「凄いですね、まさか尿道まで被膜で覆っちゃうなんて……」
「前立腺の直前までだけどね。あんまり覆うとほら、カウパーも出せなくなるし、ミルキングの時にも困るでしょ?口だって唾液腺は覆ってないのよ」
「ああ、だから涎が垂れているんですね。あの状態でも涎は飲み込めるんですか?」
「できるわよ、じゃないと精液を飲めないでしょ?といっても胃に入るわけじゃ無いから、時々ホースを突っ込んで洗って、中に残った水分を吸引する必要があるけどね」

 装具を着けた104番を作業用品達は床に下ろし、ハーネスで隠れていた部分を細かく塗りつぶしていく。
 髪はバリカンで綺麗に剃られ、その上から目と口を閉じた状態で黒い被膜を塗る。
 さらに口から胃の直前まで、そして鼻の穴の粘膜までもストローのような器具を使い赤い被膜で覆ってしまった。

(匂いも……分からない、味も…………)

 なすすべも無く呆然と佇む104番の額に、イツコが重箱のような機械を当てる。
 ジジッと何かが焼けるような音と匂いが漂うこと数十秒。アラームの音と共にイツコが機械を上げれば、頭部には白い文字で管理番号と等級記号「D」が刻まれていた。
 もちろん、痛みなど感じない。それどころか機械が触れる感触すら全く分からなかった。

(呼吸は、楽になった。維持具も今までより短くて軽くなるって言ってた……けれど……俺に残されたものは……)

 ヒトイヌ用の口腔性器維持具と肛門維持具は、太さはC等級以上の規格と同様だが長さは多少短くなる。
 穴に作成した被膜は胃の直前と下行結腸から横行結腸の移行部で盲端となっており、そこから先には水分や空気すら入っていかないからだ。
 これは、ヒトイヌの穴に突っ込むことが出来るものが維持具と生殖器だけと規定されているためである。

 ――ちなみに被膜で覆う長さから推測できるとおり「人間の」生殖器だけを突っ込むとは言っていない。

 当然、そのままでは排泄はともかく給餌を行うことが出来ない。このためヒトイヌの腹部には胃瘻と呼ばれる胃に直接餌と洗腸液を流し込めるポートが増設されるのである。
 また、鼻や口から呼吸をすることも物理的に不可能なため、口腔性器維持具は呼吸孔のない閉鎖型となる。

(…………人型ですら、無くなった……モノ……)

 虚ろな瞳で104番は、自分の周りを取り囲み加工に不備が無いかチェックを行う作業用品達を眺める。
 じきにこの瞳は光を映すことを、耳は音を拾うことを奪われるのだ。かといってそこまで必死で見たいものがあるわけでも無い。

 強いて言うなら、そろそろ現実を見ることからは逃れたいなと104番は自嘲気味に心の中で呟く。
 残念ながら通常の性処理用品以上に正気を保つための薬を惜しげも無く使われる彼が望み通り狂える日は、まだまだ先のことであるが。

 自分に残されたものは、わずかな触覚と、壊れられないが既に歪みつつある心だけ。
 本当に欲しかったものを根こそぎ奪い取られた先に待つものが、どういった世界かは、正直想像もつかない。
 ただ……少なくとも二度と逃れられない、絶望の底なし沼には違いないのだ。

「チェック完了、加工状態問題ありません。全て基準値です」
「うん、じゃあ最後の仕上げを終わらせようか。アイマスクを着けて」
「はい」

 アイマスクを持ったイツコが、目の前にしゃがみ込む。
 その表情は見たことが無いほど穏やかで、瞳には嗜虐のしの字も見受けられない。
 これから一つの命を終わらない地獄に叩き落とすにはあまりにも不似合いだ。

「可愛くおめかしできたわね」
「シューッ……」
「人間様にいっぱい可愛がって貰うのよ。じゃあね」
「…………」

 そっと、104番の目に覆いが被せられる。
 いつも通り頭の後ろでベルトを締め、さらに口枷から伸びるハーネスをきっちりと締め上げれる手が、何だか優しい。
 ……触れる感触なんて全く感じないのに。

(やっぱりこいつ、おかしい)

 最初は哀れな堕とされにかける優越感混じりの同情かと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。
 加工を手がける彼女の手は時折震え、ぴたりと止まり、そしてぎこちなく動きを再開していたと今になって104番は気付いた。

 何となくだが、この個体は二等種としての寿命が近いのでは無かろうか。
 そう考えると立て続けの異常な言動にも納得がいく。

(……いや、もうどうでもいい…………どうでも、いいんだ……)

 彼女がどうなろうが……更に言うならこの世界がどうなろうが、今まさに世界から存在を切り離されようとしている自分には関係の無いことだけど。

「アイマスク装着しました」
「はいよ、じゃあ聴神経を麻痺させてしまおうねぇ」

 管理部長の両手が、104番の分厚い被膜で覆われた耳をそっと包み込む。
 次の瞬間


 ぱつん


 まるでイヤホンジャックを抜いたときのような音を最後に、104番の世界から音が消え去った。

「はい、できあがり。いやぁ、服を着れる二等種なんてほとんどいないんだ。しかもオーダーメイドの革製品だよ?君が戻りたかった人間様のように着飾れて良かったね、104番」
「…………」
「うん、もう何にも聞こえないね」

 管理部長の煽りにも、喉から発せられる呼吸音に変化は無い。
 それを確認した彼は作業用品に「じゃ、出荷しちゃって」穏やかに命じ、傍らの椅子に座って端末を弄り始めた。
 作業用品達もその声にスッと従い、梱包用のベルトを手にする。

「……この状態だと、命令ってどうするんですか?」
「D等級への命令は基本的にテレパスか電撃ね。この被膜、電撃だけは通すから。上だと最初の内だけは道具を使ってテレパスで命令するはずよ、じゃないと地上のお作法も説明できないし」
「あ、なるほど。じゃあ全く見えない聞こえないじゃないんだ。目はアイマスクを取れば見えますもんね」
「そうねぇ。でもアイマスクは2ヶ月に1回の点検でしか外さないし……そもそも穴として使う人間様がわざわざテレパスなんて二等種に使うとは」
「……ないですよね、確かに」

 新人に説明をしながらイツコは104番を丁寧に梱包していく。といっても、ヒトイヌは通常の性処理用品に比べれば随分簡単だ。
 あっという間に緩衝材に埋もれた104番を一度だけ愛おしそうに撫で、イツコはスーツケースの蓋を閉めた。

「…………」
「……分かったか?あれがD等級の作り方だ」
「……あぃ…………」

 その隣で、ヤゴは72番の梱包を進めていた。
 流石にこの甘ちゃん個体には、ヒトイヌ加工は刺激が強すぎたのだろう。半ば放心状態の72番を塊へと変えながら、ヤゴは最後のお節介を焼く。
 ――自分の『名前』もこの製品の情報には含まれるのだ。
 あまり態度が悪ければ、作業用品にもとばっちりが飛んでくる。だから、どうか早々にやらかすなよと実に現実的な祈りを込めて。

「お前は何度か消灯後の懲罰を喰らっただろう?あの状態が、ヒトイヌが穴として使われる時の感覚に近いと言われている。お前にとっては拷問だったが、何も感じられない状態のこいつには、狂おしいほどの渇望を……それは快楽のみならず刺激全てに対してだが、癒してくれる何者にも変え難い救済となるのさ」
「…………」
「そんな風になりたくなければ、全力で人間様に媚び、奉仕しろ。もうお前の本音が表に出ることは無い、無いはずだが……お前だからなぁ……保障ができん」
「ぅ…………」

 ちなみにな、と足を折りたたみながらヤゴは72番の下腹部をつんとつつく。
 そこにあるのは、さっき刻み込まれたばかりの真新しい等級記号。
 まだほんのりと周囲に赤みを残す刻印をなぞりながら「これ、消せるからな」とヤゴが72番に告げれば、彼女はきょとんと首を傾げた。

「管理番号は生涯消せないが、等級記号は特殊な機械を用いれば消すことが出来る。……つまり、等級は変わることがあるってことだ」
「!」
「定期的に貸し出し実績や利用者の評価で等級の再判定が行われる。といっても等級が上がる奴は稀だな。ただ品質が落ちたり、評価が低ければ再調教になってここに舞い戻ってくる奴もいるし……最悪D等級や、棺桶直送だ」
「…………おんぁ……!!」

 だからそうなりたくなければ、訓練中のような失言やうっかりは控えるんだな。
 そう最後に強調し、ヤゴはスーツケースをパタンと閉めた。

(そっか……製品になっても評価される……)

 性処理用品という製品である以上、一定の品質を保つのは当然のことだ。
 この出荷はゴールでは無い。むしろこれから、性処理用品としての生活が始まるのだ。
 ここまで何とか上手く(?)やってきたというのに、また地下に戻されて再調教だなんて……まして棺桶行きだなんて想像もしたくない。

(それだけは……頑張らなきゃ……)

 次に浮上するときには、地上だ。
 すぐに薄れていく意識に身を任せた72番は、104番の境遇に同情しつつも自分は決してああならないと改めて人間様への従属を誓うのだった。


 …………


「ふぅ……こんなに大変な個体は久しぶりだったわねぇ……」
「俺は初めてだ。ったく、今晩はがっつり遊び倒してやる……!」
「あはっ、そっか出荷も終わったし懲罰は明けるわよね。まぁ精々励みなさいな、若者よ」
「……人ごとだと思って……今回ばかりは壊れるかと思ったんだからな!」

 二つの大きなスーツケースを処置室の奥にある製品転送室から送り出し、ヤゴとイツコはほっとした表情を見せる。
 日替わり作業の気楽なアシスタントと違って、素体の担当を割り振られるのはそれなりにストレスが大きい。入荷時と出荷時の等級差はそのまま自分への評価となって返ってくるし、今回のように調教中の個体から攻撃されたり連帯責任で懲罰を食らうこともあるからだ。
 だから、いつも出来上がった製品を転送するときは肩の荷が下りたような気分になる。

「はぁ、暫くはアシスタントでゆっくりしたい……っかしこまりました、管理官様…………したかったんだけどな……はぁぁぁ……」
「ははっ、そりゃ無理な相談だM085X。未覚醒かつ性能の高い個体は貴重だからねぇ、使い勝手のいいモノは使い倒すに決まっているだろう?」
「……過分な評価に感謝します、管理官様」

 ようやく一息着けると思った途端に飛び込んできた指示に、ヤゴも流石にげんなりした表情だ。
 今朝入荷した個体の担当管理官から指示を受け、目の前の管理部長に頭を下げてイツコと共に控え室へと戻ろうとしたその時「ああそうだ」と管理部長が口を開いた。

 その顔は、いつも通りの穏やかな笑顔で……けれど、いつも通り瞳は笑っていない。
 ここで上に立つような人間の顔は、皆同じだ。口ぶりこそ丁寧なものの、二等種を心の底から見下していることを隠しさえしないから。

「F125X、実験用個体保管庫へ」
「「!!」」
「僕も用事があるからね、一緒に行こうか。……襲ったりしないでくれよ?」
「…………かしこまりました、管理官様」


(ああ、来てしまった)
(そんな、もう来てしまったのか……!?いくら何でも早すぎる……!!)


 実験用個体保管庫。
 その言葉が今のイツコに投げかけられる意味など、考えるまでも無い。
 ……全ての二等種に等しく訪れる瞬間が、来てしまった。ただそれだけだ。

 一瞬顔を強張らせたイツコは、しかしいつもの笑顔で「襲いませんよ、私は人間様のモノですから」と管理部長に返す。
 その隣でヤゴは表情を変えず佇んでいた。

 だがヤゴの背中には冷たいものが走り、心臓は破裂しそうなほど勢いよく拍動を打ち続けている。
 目の前の風景がぐにゃりと歪んで……思わずその場で叫び出したくなるのを必死に押し止めることしかできない。

 ――ああ、今日ほどこの仏頂面を感謝した日は無い。
 こんな突然の宣告を平然と受け流せるほど、自分は強くは無いのだから。

「……イツコ」

 ヤゴは努めて平静に呼びかけた、はずだった。
 けれどその絞り出すような声は震え、掠れていて、思った以上に自分が動揺していることを痛感する。
 そんな愛弟子に、イツコは「……そんな顔しないの」とちょっと困った風に笑うのだ。

「ま、近いうちにそうなるとは思ってたからね。さっきだって処置中に何度も104番がモモに見えてたし。それに、あんただって気付いていたでしょ?今回の調教中は随分フォローしてくれていたじゃないの」
「……それは、っ、だけど…………」
「確かにまだ作業は出来ているけど、自分でも後一体担当できるほどの時間は無いと思うのよね。……何より管理官様が判断したなら、今が『その時』なのよ。たまたま私はちょっと早かっただけ」
「…………」
「あんただっていつかは摩耗して、壊れて、廃棄処分になるの。そうして灰になればまたすぐに逢える。それはそんなに遠い未来じゃ無いわ。……このまま作業に明け暮れていれば一瞬よ、本当に」

 けれど、死に急がなくていいのよ。

 どこか吹っ切れたような穏やかな言葉と共に頭に触れる、イツコの熱と重さ。
 どうにも子供扱いされているようで慣れなかったその仕草も、ああ、出来ることならこのまま終わって欲しくない――

「あんたはもうちょっと素体に対して非情になりなさいな。未覚醒だからある程度は仕方が無いけど、そんなんじゃすぐに壊れちゃうわよ。…………いい?ヤゴ、生きなさい。モノであっても最後まで全力で、ね」
「イツコ……」
「私は生きたわ。うん、もう十分生きたの」


 じゃあ「行ってくる」わ。……またね、ヤゴ。


「…………ああ、また」


 管理官に連れられて製品転送室を出るイツコの後ろ姿を、ヤゴはじっと見つめる。
 その顔は相変わらずの無表情で、けれど両の拳は爪が刺さり痛みを覚えるほど握りしめられていて。

「さよならは……言わない」

 その声はきっと届かないだろう。
 それでも、ヤゴは追いかけ続けたその背中に向かって囁くような声で語る。
 目は、離さない。その扉が閉まるまで、気配が消えるまで……全てを、この目に焼き付けておくと言わんばかりに。

「……はい、かしこまりました、管理官様」

 一体どのくらい時間が経ったのだろう。
 頭に響く管理官からのせっつくような命令に、自分もさっさと移動しなければとヤゴは足を踏み出す。
 部屋を出て、最後に一度だけ彼女の通ったであろう方向を振り向き小さく呟いたのを最後に、彼は毅然と次の作業へ向かうのだった。


「俺もいつかはそこに行くんだ、だから……向こうで少しだけ待っていてくれ」


 …………


 孤児として生まれ、身体の小さかった自分は、孤児院でも初等教育校でも格好の標的だった。
 8つの頃にボランティアでやってきた青年が教えてくれた剣道への誘いが無ければ、もしかしたら自分は二等種として堕とされる前に命を絶っていたかも知れない。

 今となっては、そこで小さな命を散らすのとどちらが幸せだったか、分からないけれど。

 少年剣士として希有な才能を開花させ、ほどなくして虐めの標的となることも無くなったヤゴは、全国大会で個人優勝という輝かしい偉業を成し遂げた一月後、まさに全てを奪われる。
 恵まれない幼少期を過ごしてきたとは言え、まだ12歳の少年だ。この空間に閉じ込められた時は流石に落ち込んだ。
 だが、今までのことを思えば最悪の事態では無いし、周りに味方がいないのも特段珍しくはないとあっさり切り替えて、地下での非人道的な生活に適応していく。

 それからもう何年が経ったのだろう。
 人間様の思い通りにあらゆる場所を加工されて、尽きぬ発情と従属心を植え付けられた。
 自分一人では生きることすら不可能な、全てを人間様に握られたモノと化した。

 それでも生い立ちが生み出した猜疑心は消え失せることなく、彼を形成する大きな柱となり、結果性処理用品への執拗な誘いすら退けて今の生活を手に入れた。
 何故か覚醒はしなかったけれど、一般的に未覚醒の個体は向かないとされる調教用作業用品としての適性を見出され、イツコの育成手腕もあって今ではこうやって間を置かず担当を割り当てられる機会も増えている。

 ただ環境が変わっても……いや己が変わってすら、12歳のあの時から身の内に刻んだ信条だけは色褪せることが無い。

 自分の人生は自分で選択する。
 どれだけ心身を歪まされ貶められようが、それだけは譲らない。
 そして後悔なんて知ったことかと、己の選択の結果を甘んじて受け入れ生きてきたのだ。

 それでも。
 この後悔だけはきっと、いつか壊れられる日まで自分を苛み続けるだろうとヤゴは確信している。
 これから先、自分は彼女が最後に望んだ通り、一介の作業用品として最後まで全力で生きて……そして恐らくは毎日のように同じ慟哭を上げ続けるのだ。

 どうしてあの時、密かに慕っていた彼女に「さよなら」を告げなかったのだろう、と――


 …………


「あ、ヤゴ!今回の担当個体、同じグループよね。よろしく」
「ああ、よろしく。こんな時期に4体同時だなんて珍しいな」
「ホントよねぇ、お陰で出荷早々に駆り出されたんでしょ?優秀な作業用品は辛いねぇ」

 次の日の朝、調教棟に転送されたヤゴに後ろから声をかけてきたのはメスの作業用品だ。
 ロロと呼ばれる彼女は待機室までの道すがら、今日の予定についてヤゴに確認を取りつつ「見てよこれ」とタブレットをこちらに寄越した。

「今回の担当個体なんだけどさ。これでオスだよ!?メスかと思っちゃった。私より小さいのよねぇ」
「へぇ、またずいぶん可愛らしいのが来たな。大人しそうだし調教も進みが良さそうだ」
「でしょ?で、ヤゴの方は?今回はまともなのが来たの?」
「…………もう何も聞くな。どうして俺にはこういう脳みそをどこかに放ってきたような個体ばかりが割り振られるんだ……」
「あはは、苦労人ねぇ!ヤゴ、早番でしょ?こっちはイツコに早番を頼むから、また助けて貰いなさいな」
「え」

 何気ない会話の中で、決して登場しないはずの名前が聞こえて、ヤゴは思わず目をぱちくりさせる。
「イツコが、担当?」と思わず聞き返せば「そうよー、ほら」と彼女がタブレットに指を指す。
 表示された入荷個体情報には、間違いなくF125Xと記されていた。

(……どう言うことだ?イツコは既に……何かの間違いか……?)

 ヤゴの動揺は、いつも通り外には漏れていないらしい。
 何事も無かったかのように話を続け作業用品の待機室に辿り着いたロロは、扉を開けた途端に「あ、イツコいるじゃん」とスタスタと向かっていった。

「え、ちょっと、ロロ」

 彼女の向かう方向には、珍しく人だかりが出来ている。
 その中心に佇んでいるのは……ああ、間違いなくイツコだ。もしかして昨日の管理部長の命令は、ただの移動だけで廃棄処分命令では無かったのかも知れない、とヤゴはホッと胸をなで下ろした。

 けれど……何故だろう、何か様子がおかしい。
 イツコはともかく、周りの作業用品立ちもどこか戸惑っているような空気が流れている。
 もしやまた、幻の世界へと飛んでいってしまったのか?とヤゴも足早にその人だかりの方へと向かっていった。

(……何だ、あれは)

 ヤゴがそこで見たのは、初めての光景だった。

 イツコの額、右の生え際に水色に光る何かが埋め込まれている。
 良く見ると六角形の金属のようなプレートには製品記号らしき文字が刻まれ、中心には何かの端子を刺せそうなポートが備わっていた。
 ヤゴは思わず声をかけようとしたものの「イツコちょうど良かった!」と隣にいたロロに先を越されてしまう。

「イツコ、昨日入荷の個体の情報ね。私今回遅番希望なのだけど、いい?」
「ありがとう、確認するわ…………随分御しやすいそうな個体ね。いいわ、私が早番に入る」
「ありがとうー!あ、今日の見学に使う製品候補なんだけど……」

 ロロは怒濤の勢いでイツコに引き継ぎを行っていく。
 タブレットを確認しつつ受け答えをするイツコの様子は、昨日までと特に変わりが無い。幻覚に現を抜かしている様子も無さそうだ。

 ただ、額の金属があまりにも奇妙で……どこか胸騒ぎを覚える。

「これで大丈夫よね、じゃあ私昼まで保管庫に戻されるから、また後で」
「ええ、また後で、F066X」

 挨拶もそこそこに、ロロは自分の保管庫へと戻された。
 ――転送される瞬間、ロロがわずかに目を見開いたのは何故だろうか。

(まあいい、とにかくイツコと話さなければ)

 グズグズしていたらまた誰かに先を越されてしまうと、ヤゴは慌ててイツコの方に歩み寄った。

(イツコがまだ生きていた……!)

 もう一度その姿を見れる機会があったとしても、それは亡骸と化した彼女を処分する時だ。当然ながら再び生きている彼女に会えるだなんて想像もできなかった。
 だから、ヤゴにしては珍しく浮かれていたのかも知れない。
 いつもと同じように微笑む彼女に、自分でも驚くような感情の籠もった声がつい口をつく。

「イツコ、お前……その、棺桶に入れられたんじゃ無かったのか!?」
「……え?」
「え、じゃないだろう?俺はてっきりあのまま……いや、それより一体どうしたんだその額の謎物質は!まさか頭に穴でも開いたのか!?」
「おいおいヤゴ、そんな一気に問い詰めたってイツコが困るだろうが。それに……」

 実に珍しいヤゴの様子に苦笑しつつ、隣にいたオス個体が落ち着けと彼を宥める。
 だが、イツコの発した一言でヤゴはあっさりとその剣幕を封じられた。

 ただし……凍り付く、という形でだが。

「ええと、ごめんなさい。あなたは……M085Xね。何と呼べばいいのかしら?」
「は…………?」

 話しながら、イツコはチラリとヤゴの下腹部を確認する。
 そう、彼女は今、ヤゴの管理番号を確認して……それをそのまま、呼びかけたのだ! 

(……まさか……そこまで壊れてしまったのか!?いや、そんな壊れ方をした個体なんて初めて見た……嘘だろ、よりによって……)


 イツコが、ヤゴの『名前』を忘れている――


 想定外の事態に、ヤゴの世界からさぁっと色が消えた。
 ややあって震える声で「お前一体何を」と言いかけたところで、ヤゴは再び絶句する。

「……どうかしたの?」
「…………お前…………それ……」
「……?」

 きょとんと小首を傾げながらヤゴを見つめるその瞳を見た瞬間、ヤゴは悟る。
 この様子だと多分、だれも気付いていないのだろう。そのくらい微妙な変化で、けれどヤゴにとっては明らかな、そして重大な変化がそこにはあった。

(目が……違う……!)


イツコの変貌


 ここに配置されて以来、何年も飽きるほど見続けてきた瞳なのだ。
 だから見間違うはずが無い。彼女の瞳の色はもっと濃かったし、そんな加工済みの作業用品のような作られた輝きなんて見当たらなかった。

 つまり目の前にいるイツコは、少なくとも昨日までのイツコとは違う――!

(そんな、冗談だろ……?)

 その場で固まってしまったヤゴに、表情が変わらないとは言えショックを受けていることは伝わったのだろう「ずっとこの調子なんだよ」と隣にいたオスが嘆息しつつヤゴを気遣うように話しかける。

「昨日までの作業のことは全部覚えているんだけどさ。俺達の事はすっかり忘れていて」
「え、俺達だけ……?」
「イツコ、そろそろ壊れそうな感じだったものね。でも私達の記憶だけ飛ぶだなんて、今まで見たことが無いわ」
「これは本格的に廃棄処分かなぁ……あーあ、イツコがいなくなると難物オス個体の対応が大変になるわね」

 イツコ大丈夫?誰か思い出せない?と心配そうに声をかける作業用品達の声は、耳鳴りでかき消された。

 あまりのショックにまとまらない頭の中で、ヤゴは必死に状況を整理し彼女に起こった事態を理解しようとする。
 だが、ただの作業用品であるヤゴが推測するには、あまりにも情報が少なく、不可解すぎた。

(そもそもイツコに処分命令が出たのは、俺しか知らないってことか……いや、実は処分では無かった可能性も捨てきれない。現にイツコはここにいるんだから)

 確かに昨日、イツコは命令を受け実験用個体保管庫へと向かったはずだ。
 けれど、昨日ここにいた作業用品のみならず、保管庫の担当すらイツコの廃棄処分を知らない。それどころかイツコは保管庫へは立ち寄っていないという。

 では一体、彼女はどこへ行ったのか。

(そもそも俺達二等種が、決められた場所以外へ移動する事なんて、できるはずが無い。それに……そうだ、あの時イツコは一人じゃ無かった!)

 鍵を握るのはあの管理部長だ。
 そうヤゴが思い至った次の瞬間

『作業用品ども、基本姿勢を。管理部長からのお話だ、ありがたく拝聴するように』
「「!!」」

 全員の頭の中に男性の声が響き渡った。


 …………


 場のざわめきは一瞬で収まり、待機室にいた全ての作業用品がざっとその場に蹲り頭を地につける。
 土下座は二等種の基本姿勢。人間様の足元すら目にすることを許されない、モノとしての正しい姿だ。保管庫で自慰に励む個体も、他の部屋で作業中の個体も、今頃は手を止めてその場で跪いているに違いない。

 ……場がしんと静まる。
 接続を変えたのだろう、ややあって管理部長の聞き慣れた穏やかな、しかしどこか冷徹な声が作業用品達の頭に流れ込んできた。

『さて、既に気付いているものもいるようだけど……F125Xは昨日こちらで大規模な修理を行った』
「!!」
『いやぁ、廃棄寸前の所まで壊れていたんだけど、何せF125Xは作業用品の中でも近年まれに見るハイスペック品だからねえ。……だから、実験的に部品を交換しながら耐用年数を延ばすことにしたんだよ。初めての試みだけど、少なくともこれでまだ2-3年は持つと思うよ』

 部品の交換。
 まるでモノを修理するかのような軽い言い草に――いや、彼らからすれば二等種は等しくその辺の備品にも劣るモノではあるから当然ではあるのだが――なんとも言えない苛立ちがヤゴの中に沸き起こる。

 そもそも、モノとは定義づけられていてもこの身体は生き物と同じ組成で出来上がっているし、機能面もベースは変わらないはずだ。そんな機械のパーツを交換するような感覚で変えられるはずが無い……

 そんなヤゴの推測は、あっさりと悪い方向で打ち砕かれる。

『ま、部品はいっぱい保管庫にあるからね。さしあたって今回は劣化が酷かった小腸から肛門、膣と子宮、あと眼球を取り替えてあるよ。流石に目は全く同じ色のモノは無かったからねぇ、ちょっと薄くなっちゃったけど。まぁ機能的には問題ないから』
「っ、保管庫……まさか……」
「そんなっ、内臓を取り替えてって……おぇっ、うええぇぇっ……!!」

 初めての実験とやらが成功してご機嫌なのだろう、管理部長の明るい声色からむかつくほど清々しい笑顔が目に浮かぶようだ。
 その内容は、嗜虐を悦ぶ二等種ですら吐き気を催すほど、醜悪そのものだというのに。

『後は脳みそだね。ただこっちは単に交換しちゃうと性能が落ちることは確実だったから、劣化した部分を除去して機能を転写した魔法素材のパーツに取り替えてある。これならメンテナンスも簡単だしね』

 イツコの額に取り付けられた六角形のプレートは、脳に埋め込まれたパーツのメンテナンス用ポートらしい。
 少なくともこれがある限り、半永久的にイツコの脳が壊れることはないそうだ。

(壊れない……それは、ずっと死ねないって事か……?)

 何ということだ、とヤゴの顔がさっと青ざめた。
 ――あれほど夢を見ることを望み、あの世での、そして来世への希望を宝物のように握りしめていた彼女から、人間様は死というイツコにとっての唯一の救いを奪い取っただなんて!

 ヤゴは俯いたままあらん限りの力で歯を食いしばる。
 人間様に楯突けないよう、そして自ら命を絶たないよう弱められた顎でも、うっかり管理官様に向かって暴言を吐きそうになる自分を押しとどめるくらいの役には立つはずだ。

『ああ、そうだついでに』

 だというのに、人の気も知らない管理部長は何かを思い出したかのように話を付け加える。
 ……その内容こそが自分達には最も大切な部分だと分かっているはずなのに。
 それとも、ただの使い捨ての道具である二等種には知らせたところで意味が無いとでも思っているのだろうか。

『F125Xの早期劣化の原因が分かってね。原因となっていた記憶は全て削除したんだ』
「!!」
『で、その時に予防措置としてやっておいた方が良いって研究開発局から言われてね。これの脳みそから、全ての作業用品に関する記憶情報を削除してある。ああ、心配しなくてもその頭に詰まった経験や知識は一切消えていないよ。あくまで消えたのは、作業用品に関するデータだけだ。だから、性能はこれまでと変わりが無い。何の心配も無くこれまで同様に使い倒せるね、いやあ良かった良かった!』

 嬉しそうな管理官の声に、ヤゴの頭が真っ白になる。
 地下に連れ去られて20年近く経つが、人間様に殺意が湧いたのは人生で初めてかも知れない。
 ここまで服従心を叩き込まれていたのにまだこんな想いを抱けたのかと、どこか冷静な自分が頭の中で驚いている。

(何が、良かっただ……!!貴様、よりによって、イツコの……イツコの一番大切な思い出を、奪いやがったのかよ!!)

 気付いていたのは自分だけでは無かった。
 イツコがイオナに自覚無く恋心を抱いていたことも、それ故にイオナの死を目の当たりにしたあの日から、彼女の劣化が急速に進んでしまったことも、人間様は既に把握していたのだと、ヤゴは臍を噬む。

 だからこそ、管理部長は先手を打った。
 単にイオナに関する全てのデータを消去するのみならず、今後彼女が例え無意識であっても作業用品に特別な想いを向けないように、彼女が築いてきた作業用品たちとの関係性を初期化してしまったのだ。
 自分の推測が合っているなら――出来ることなら当たって欲しくは無いが――きっと『イツコ』の劣化に関連しそうなデータは、これからも定期的に削除される。

 更に言うなら、彼女が抱いていた『夢を見たい』という願望も、削除されているに違いない。あれは、彼女が壊れなければ実現できない希望だから。

(イツコが優秀だったから……人間様にとって有能で便利な道具として、末永く使い続けるためだけにイツコは……くそっ…………!!)

 ああ、本当に自分の表情筋が死んでいて良かったと、ヤゴは溢れ出しそうになる罵声を必死に押しとどめつつ己の顔に感謝する。
 正直、今の自分は自力では感情が顔に出るのを止められそうに無い。普通の作業用品と変わらなければ、その顔を見られた瞬間良くて懲罰、悪ければそのまま棺桶送りだろう。

(だめだ、堪えろ……!イツコに……昨日のイツコに言われたんだ、死に急ぐな、全力で生きろって……!!)

『じゃ、そういうことだから』と、管理部長の話は唐突に終了する。
 けれども、誰もその場から動こうとはしない。
 ある個体は放心し、ある個体は未だ青い顔をして蹲っている。
「そんな……!」と思わず涙を流し、懲罰電撃に呻いている個体もいる。

(耐えろ……絶対に、出すな!俺は……壊れるまで、最後まで生きるんだ……!!)

 ヤゴもまた、跪いたまま動くことが出来ず……両手をぐっと握りしめ、怒り混じりの慟哭に荒ぶる心を必死に押さえつけるのだった。


 …………


「……まぁ、でもさ」

 どのくらいの時間が経っただろう。
 この場にいる作業用品の中で最も年長の個体が、口を開く。
 どこか悲しさと諦めを滲ませつつ、けれどそれを払拭するかのような明るい声色で。

「俺達のことを忘れただけなら、また一から覚えて貰えばいいだけじゃんか。少なくともイツコは今すぐ処分にならなくて済んだんだ、それで十分だよ、な!」
「……ま、それはそうかもね……それにこの実験が上手くいったら、私達も人間様みたいに長生きできるようになるかもしれないし」
「あ、それはいいかも!棺桶に入る日は来ないに越した事は無いもんね!」
「いやそれは流石に無理だろ」

 容赦ない突っ込みを受け、部屋にどっと笑いが満ちる。

 彼らの本音は窺い知れない。中にはきっと、同じ作業用品に為された残酷極まりない現実を嘆きたい個体だっているだろう。
 けれど、24時間ありとあらゆる方法で監視され続けている自分達に、ましてや失敗作の作業用品に、反抗と見做されるような言動を取るなどほんの一言だろうが許されるはずは無いから……彼らは、全ての感情を内包してただ笑うのだ。

 そうと決まったら自己紹介しようぜ、とイツコを前に、全員が自己紹介を始める。
「そんな、全員なんていきなり覚えられないでしょ」と突っ込むメスに「大丈夫よ、データはすぐに換装されたパーツに書き込まれるわ」とイツコが返して一瞬場が凍り付く場面こそあったものの、二度目の初めましてはつつがなく進んでいった。

 そう、このまま何事も無く進ませなければならない。
 分かっていても……ありとあらゆる感情が、ヤゴの中でぐるぐると渦を巻き続ける。

「ほら、ヤゴ、お前が最後だぞ」
「……ああ」

 促されてヤゴはイツコの前に立つ。
 そこにあるのは、昨日までと変わらない美しい笑顔。

 けれど、昨日とは何もかもが変わってしまった、愛しい人――

「379M085X、ヤゴだ」
「ヤゴね。…………どうしたの?」
「……ヤゴ?」

 イツコを含む周りが訝しむ中、震える声が、精一杯の想いを告げる。
 この光景を見ているであろう人間様に、この内心がバレてはいけない。いや、あの管理部長には既にバレているかも知れないが、少なくとも表には出してはいけない。

 二等種はその罪を償いきらない限り、何度でも二等種として生まれ変わる――
 そんな本当かどうか分からない人間様に教えられた言葉を都合良く信じ、彼女の命はここで終わりではないと、死を受け入れることから逃げ、来世でまた逢えるからと当たり前のように思い込み区切りを付けられなかったのは、自分の弱さだ。

 この命をどう弄くるかなんて、全て人間様に握られていると分かっていたくせに。

 その結果、自分は彼女の命に、想いに、区切りを付ける機会さえ永遠に失ったのだ。
 弱さ故の選択を、きっと自分は生涯後悔する。
 ……だが、それでいい。せめて後悔することからまでは逃げたくない。

「お前はイツコだ。けど……俺の知るイツコはもう、死んだ。それだけだ」
「……そう。まぁどちらにしても作業に支障はないわ。よろしく、ヤゴ」
「ああ」

 真っ赤に充血した目で、ヤゴは変わってしまったイツコの目をぐっと見据える。
 瞳の奥に宿る小さな決意に気付く者は、誰もいない。

(愛する人を失ったら劣化する?いいや、お前を失おうが俺はそんなことで絶対に壊れない。お前の最期の望みなんだ、そう易々と壊れてたまるか!)

(それにお前が奪われた希望は、俺が持っている。俺は忘れない、俺が壊れるその日まで絶対に忘れない!……そしていつか、お前が自由になれたら……その時こそ、この希望をお前に突き返してやる……!)

 だから、二度と昨日までの彼女には会えないと知っていても。
 そしてこれから毎日、人間様のモノらしく作り替えられてしまったイツコからかつての面影を見つけるたびに、この心が激しく慟哭すると分かっていても。

 いつの日か、人間様の醜悪な身勝手さから彼女の魂が解放される日が来ることを祈って、一日でも一瞬でも長く、側で見守り続けよう……ヤゴはそう密かに誓うのだった。


「これで自己紹介は終わりだな?……イツコ、データは見ただろう。見学用の製品はそれで問題ないか?」
「ええ、大丈夫よ。棺桶の方は手配済みかしら」
「問題ない、4体分の予約は入れてある。……なら素体を取りに行くか。いつもの奉仕実習室を使う」
「分かった、また後でね、ヤゴ」
「……!」

 変わらない笑顔で微笑みかけるイツコに、一瞬言葉を詰まらせたヤゴは「……ああ」と何とか言葉を振り絞り、ぐっと唇を噛みしめ待機室を後にする。


 ――部屋を出る直前、ヤゴの首輪が青く光り、数度バチッと弾ける音が小さく響いた事に気付いた者はいなかった。

© 2025 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence