第2話 届かない贖罪、届いたぬくもり
ずっと、ずっと、愛している、欲しいとただ叫び続けている。
けれど、一体自分が何を愛していたのか、欲しているのか……脳裏に浮かんだまま消えることの無いそれが何だったのか、もう思い出すことは出来ない。
「!!」
バチン、と時折弾けるような激痛が意識の中を駆け抜ける。
その痛みの場所と回数に応じて、身体は勝手に決められた姿勢を取っている、筈だ。
人間様による命令であり懲罰でもあり、全ての二等種にとって恐怖の存在でしか無い電撃は、しかし今の自分には……とうの昔にあやふやになってしまった存在の輪郭を確かめられる恩寵に過ぎない。
――ああ、どうやら俺はまだ、モノの形を保っているらしい。
(あ、あ……欲しい、欲しい……)
前と後ろから、わずかな衝撃と小さな快感が送り込まれる。
渇望のかの字すら癒やせない刺激を受けて、赤い被膜で覆われたはずの内側はまるで別の生き物のように打ち込まれた何かを歓待しているようだ。
これが何なのかは分からない。ただ、自分という朧気な存在の核には、意味の分からない音の羅列が刻まれていて……きっと無意識のうちに、その役目を果たしている。
……はて、役目とは、一体何だったのか。
小さな快楽は、増えることも無く、ただもどかしさだけを募らせる。
それでも何も無いよりはマシだと言わんばかりに、与えられた刺激で己であろう何かを確認していれば、頭の中に聞き慣れた音が響いた。
《イケ》
「!! シュッ、シューッ! シュ――……ッ……!!」
次の瞬間、全身がガクガクと震え喜悦が内に満ちる。
漆黒の中に幾度も光が明滅して、どうしようも無い渇望がほんの一時だけ消え失せて……そして自分は、唯一の快楽と共に未だモノとして存在する己の形を、ようやく掴ませて貰えるのだ。
……といっても、それは瞬きを数度する程度の時間でしか無いのだけれど。
気がつけば、またこの存在は静謐な暗闇の中に沈んでしまう。
これが生きていると呼べるのか、そんなことは分からない。分かろうと思ったことも無い。
ただ、自動的に発せられる音の羅列が終わると共に、再び意識はいつものように「欲しい」という衝動に埋め尽くされるのである。
――おちんぽさま このたびは ひといぬがた せいしょりようひん 499M104 を ごりよういただき ありがとう ございます
またの ごりようを おまちしております――
◇◇◇
行政区域6、エリア12第1区画ふれあいセンター。
首都から車で2時間もかからないベッドタウンにある施設を訪れたのは、少々場違いなほど身なりの良い壮年男性だった。
深紅の髪を後ろになでつけた男は颯爽と、しかしどこか思い詰めたような表情を時折覗かせながら受付に声を掛ける。
「すみません、10時に性処理室を予約しているのですが」
「はい、身分証をお願いします……刑部彰也(おさかべ あきなり)様ですね、お待ちしておりました。本日はヒトイヌ個体のご利用でよろしいですか?」
「あ、ええ……その、利用では無く案内を頂ければと」
「かしこまりました、見学ですね。係の者を呼びますのでおかけになってお待ちください」
手続きを終えた彰也は、待合の固い椅子に座ってはぁ、とため息をつく。
平静を装ってはいるものの、その内心はいつになく荒ぶっていてどうにも落ち着かない。
(……灯台下暗しとは、よく言ったものだ)
「あの日」から12年あまり、探し始めてからは5年。
ようやく見つけた確たる手がかりに、彰也はすぐさま直近の予定をキャンセルして帰国し、見学の予約を取り付けた。
(やっとだ、やっと逢える……)
そこに待つのが絶望だと知っていても……どんな形であったとしても全てを受け止める覚悟は出来ていると、ぎゅっと拳を握りしめながら待つこと15分。
「お待たせしました」とやってきた性処理用品管理係の女性職員に連れられて、彰也は性処理室の扉の向こうへと消えていった。
◇◇◇
そこにあったのは、テカテカした全身の黒い被膜と、もこもこした耳と尻尾が実にアンバランスな……生き物と呼ぶことを憚られるようなモノだった。
「こちらがうちのヒトイヌ型性処理用品、トシくんです」
「トシくん……?」
「ええ、驚きますよね? 性処理用品に愛称をつけるだなんて。最初の頃は管理番号で呼ばれていたんですけどね、この子めちゃくちゃ優秀な穴な上に、凄く人なつっこいんですよ。それで、いつからだったか利用者さんが愛称で呼ぶようになって……今じゃすっかりこの街の人気者なんです」
「そ、そうなんですか……」
笑顔で人気者の「穴」を紹介する職員に内心引き攣りながら、彰也は「トシくん」と呼ばれたモノを眺める。
それは全身を黒い被膜で包み込み、膝と肘を限界まで折り曲げられ、革製の拘束具でひとまとめにされて四つん這いで佇むD等級の性処理用品、いわゆるヒトイヌ個体だった。
シューシューと空気の漏れるような音がするのは、ヒトイヌの呼吸だろう。
アイマスクで視界を覆われた個体――499M104(D)は、二人が近づいても、側で話しても、何の反応も見せる事が無い。
「あ、ご自由に触って頂いて結構ですよ。2時間の予約ですし『ご利用』に切り替えたければいつでもお申し付けください」
「……はい」
触ってあげると喜びますよ! という職員の勧めに従い、彰也はおずおずと手をヒトイヌの頭に伸ばす。
つるりとした被膜は思ったよりも温かく、けれど記憶にある野放図に跳ねた柔らかい赤毛の感触にはほど遠い。
と、触れられたことに気付いたのだろう、ヒトイヌの短い尻尾がぴこぴこと振られ、頭を手に擦りつけてきた。
(…………ああ、頭を撫でるといっとう可愛い笑顔を見せる子だった)
良く知っている。これはあくまでも植え付けられたプログラムに過ぎない。
無害化された二等種は人間様に……正確には性器に完全服従するが、言葉や視覚を持たないヒトイヌの場合その服従心が愛着行動となって反射のように現れるのだと。
それでも……物言わぬ黒い塊だというのに、彰也の目には遠い昔の笑顔が浮かんで見えて。
(敦……)
グッと唇を噛みしめた彰也の様子には気付かなかったのだろう、職員は「良かったら指を入れてみます?」と104番の穴を指さした。
「被膜がありますから二等種の粘膜には触れません。被膜は消毒済みですし潤滑剤も充填されていますから、そのまま入れても大丈夫ですよ」
「…………はい」
男がこの部屋に来て、高性能な性処理用品相手に何もせずに帰るのは流石に怪しまれるだろうと、彰也は意を決して人差し指をそっと104番の口の中に入れる。
ぬるりとした舌に触れた途端、104番は待ってましたと言わんばかりにちゅぅと彰也の指に吸い付き、被膜に覆われているとは思えないほど艶めかしい感触の舌でずるりと指を舐め上げた。
「っ……!!」
(だめだ、これは……!)
ぞくり、と覚えてはいけない感覚が腰を重くする。
慌てて引き抜けば、目の前の黒い塊はどこか残念そうな様子で、けれど続きをねだることも無くただ尻尾だけを愛想良く振り続けていた。
(分かってはいた。あの日俺がサインをした段階で、どれだけ運が良くてもこうなるであろうことは……だが……)
膝が、震える。
この衝撃を、感情を、そして絶望を言葉にする術を自分は持っていない――
「初期設定後のオークションで競り落とせて幸運でしたよ! こんな掘り出し物、滅多に見つかりませんからね」と自慢げにヒトイヌの事を説明する職員の声がどこか遠い。
たった一つの過ちが、愛情のかけ方を間違えた結果がこれだ。12年にわたる己の後悔と苦悶など、この子に下された幾多の加工と暴虐の前では何も無いに等しかった……!
彰也はただ呆然と立ち尽くし、彼女の説明を右から左へと聞き流し必死に涙を堪えるのだった。
◇◇◇
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
「同意書の方、確認いたしました。来週の12歳の誕生日に捕獲を行いますので、面会はそれまでにお願いします。以後はどのような理由があっても、生涯接触することは出来ませんので。当然ですが、このことは当人には一切内密にお願いしますよ?」
「…………はい……」
彰也の一人息子、敦が矯正不能な非行少年として二等種堕ちの宣告を受けたのは、12年前の残暑が厳しい日だった。
親権者として署名をした後泣き崩れた面会室の外は、立秋が過ぎたというのにまだ焼け付くような日差しで、シャアシャアという暑苦しい大合唱が鼓膜を揺らしていた。
だから蝉の鳴き声は……どうにも苦手だ。
父から引き継いだ刑部コーポレーションの代表取締役兼社長として、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで経営に励んでいた彰也は、世の精力旺盛な経営者達と同様に夜の方も大層お盛んだった。
気の合う仲間達とホームパーティーと称しては何体もの性処理用品を借り、日頃のストレス発散も兼ねて法的に問題にならないギリギリまで甚振っては堪能したものだ。
だがある日、そんな秘密の狂宴をうっかり幼い息子に見られてしまった彰也は「内緒だぞ」と言い含めつつも、未成年には決して告げてはいけない二等種の存在を彼に教えてしまう。
その結果、幼い敦少年はある意味純粋な、しかし歪んだ正義感を如何なく発揮し……魔法を発現していないクラスメイトを自殺未遂に追いやってしまう。
矯正施設に送られても、子供向けの歯の浮くような建前を現実を知る聡明な少年が受け入れることは無く、結果として彼はたった12年で人間としての全てを奪われたのだ。
己の不注意故に、そして早くに妻を亡くし息子を溺愛していたが故に道を外させ、愛しい人の忘れ形見を二等種などという下等なモノに貶めてしまった――
以降、彰也はあれほど耽溺していた性処理用品遊びからすっぱりと手を引き、それまで以上に精力的に事業拡大に励む。
その様子は、まるで何かに取り憑かれたように鬼気迫るものだったという。
それから7年後、国内では知らぬ人のいない規模にまで企業を育てた彰也は、突如社長の座を弟に譲る。
名誉会長という肩書きこそ残したものの、実質的には経営からは手を引き、海外にも拠点を持ち若くして悠々自適の生活を手に入れた――そう周囲は判断し、絵に描いたようなサクセスストーリーを大層羨んだものだった。
「にしても、社会的には成功したけど……私生活は気の毒なものよね」
「だな、若くして奥さんは亡くすし、息子さんも12歳で夭折とはねぇ……まぁまだ若いし、新しい人生を送るのも悪くないんじゃ無いか」
……彰也が何故表舞台から姿を消したのか、理由を知る者はほとんどいない。
(どうか生きていてくれ……必ず父さんが探し出して、迎えに行くから)
社会的な地位と名誉、そして有り余るほどの資産にこの国の中枢へのパイプ。
7年という月日を経て、順調にいけば捕獲された我が子が完全な無害化を終えたと思われる時期を境に、彰也は未だ命があるかどうかも分からない、かつて我が子であったモノを探し始めたのである。
◇◇◇
ありとあらゆる伝手を使い、裏金を流し、全国を探し回ること5年。
捜し物はよりによって、彰也の……そしてかつて幼い敦が暮らした街の片隅で、市民に大人気の穴として日々酷使されていたと知ったときの安堵と脱力、そして希望と絶望の混じった感情を、彰也はきっと生涯忘れることは無いだろう。
「でも二等種なのに幸せですよね、ヒトイヌは」
ようやっと見つけた我が子であった残滓を撫でながら、職員は笑顔で話す。
「幸せ?」と彰也が訝しげに尋ねれば、まだ20代であろう若き女性は「性処理用品の扱いはご存じでしょう?」と肩をすくめた。
「ヒトイヌはヒト型の性処理用品と違って、何も見えないし聞こえないでしょう? そもそも穴以外は使えませんし、被膜のお陰で懲罰電撃以外はほとんど感じないともいわれています」
「感じない……それは、痛みを?」
「全てですね。痛みも、快感も、こうやって触れる感覚も……穴を激しく出し入れすれば、ほんのり気持ちよくはなれるみたいですけど。だから、人間様の恨みつらみを浴びたところで何も分からないんですよねぇ」
「……ああ、それは……そうかも知れないですね」
「でしょ? 成人基礎教育の性処理用品とか、悲惨極まりないですもの」
あっ、今のは内緒ですよ? と職員は慌てて口に人差し指を立てる。
確かに性処理用品管理に関わる人間が、二等種に対して同情とも取れるような発言をするのはまずいだろう。
「大丈夫ですよ、何も聞いていませんから」と彰也が柔やかに返せば、職員はほっとした様子で「まだ時間もありますし、後はご自由にお使い下さい。帰りに受付で声を掛けて下さいね」と部屋を後にした。
「…………」
「………………」
パタンとドアが閉まるなり、彰也の顔からは表情が抜け落ちる。
そして、目の前のヒトイヌは……今ここで何が起こっているのかも、そもそも誰かがいるのかも分からないまま、命令通りじっと佇んだまま。
「……これの、どこが幸せだと?」
思わず言葉が漏れ、彰也はぎり、と音がするほど歯を噛みしめる。
分かっている、確かに二等種の中ではヒトイヌはまだ「まし」な方だろう。そもそも遊べる場所が穴だけに制限されている上、表情も読み取れない、反応も家畜ほどにも得られない……ある意味ではつまらないモノに対して、人間はそこまで極端な悪意をぶつけることは無いから。
それでも。
この感情は、人間様としては決して抱いてはいけないと分かっていても、止められるものじゃ無い……!
(この子はもう……俺のせいで、日の当たる世界を感じることすらできないのに……!)
泣くな、涙を零してはいけない。
この個体に許されない感情を抱いているとバレれば、この12年間の努力が水の泡になってしまう――
彰也は監視カメラの向こうを誤魔化すかのように、無言で104番のつるりとした肌をなで続けた。
じっと動かない104番がそれをどう感じていたのか、そもそも感じられていたのか……知る術も無いまま。
「刑部です。利用終わりました。あの、そのまま置いてきたんですけど」
「ああ、大丈夫ですよ! こちらで後始末はしておきますから!」
受付に行けば、ちょうど先ほどの職員と顔を合わせる。
彼女は「お疲れ様でした」と彰也を見送りつつ、刑部様もラッキーでしたねと笑いかけた。
「トシくん、実は来月センターに返却なんですよ」
「! ……そう、なんですか」
「ええ。元々5年契約で、市民の嘆願もあって契約を半年延長したんですけど、流石にこれ以上うちで独占するのは難しくて」
「そうすると、どこか別の所に?」
「そうですね。2ヶ月もすれば設置されるんじゃないかな? ただ凄く人気の高い個体ですし……次は予算の潤沢な首都に持って行かれそうです。まあトシくんなら、どこに行っても可愛がって貰えそうですけどね!」
これを、と渡されたパンフレットには「トシくんさよならパーティー」と銘打ったイベントの告知が記されていた。
どうやら返却日までの最後の2週間、あの子は復元時間を除く全ての時間を、人間様の穴として休み無く捧げることになるようだ。
「良かったら次回は利用しに来て下さいね。返却日までの予約も埋まりつつありますから、お早めに」
「ええ、時間が取れれば是非」
紳士らしく穏やかな笑顔を作り、彰也はその場を後にする。
そして迎えの車に乗り込み帰宅を指示するなり、手にした紙をぐしゃりと握りつぶした。
「……来月返却とは、何と運がいい……手を回しておかねば」
ここはあまりにも首都に近い。
これほど人気のある個体なのだ、買取を考えているのが自分だけとは思えない。
手続きは早急に進めるべきだ。そしてこちらの準備が整うまで、なるべく人目につかない場所に展示させておいた方がいいだろうと、彰也は早速どこかに連絡を取り始める。
「俺だ。……ああ、頼む。出来れば辺境のセンターに保管を……」
その瞳に光は無い。
無邪気な職員の言葉に、これから下衆なイベントであの穴を貪り尽くすであろう獣共に、そして何より……我が子をそんな状況へと追いやってしまった自分への怒りが溢れて、止まらない。
「もう少しだ、もう少しで……これ以上、傷つけさせてなるものか……!」
ようやく得られる贖罪の機会のために、彰也はただの愚かな父親として、その財力と権力を惜しげも無く使うことを誓うのである。
◇◇◇
「刑部様。商品の方ご確認と、いくつか説明がありますのでこちらへ」
「…………越智、どうして」
「……流石にこんな案件を下のものには任せられんだろう。ほら、座れ」
それから半年後、彰也は首都から遠く離れた行政区域Cの性処理用品貸出センターへと赴いていた。
売買契約を結び、所有者として3ヶ月の講習を経て取扱資格を取得し、ようやくこの日を迎えた彰也を直々に出迎えたのは、二等種管理庁品質管理局長であり、かつての「遊び仲間」でもある越智だ。
無理矢理出張を作り出したんだと嘆息する越智は、通常の受け渡し口では無く特別室へと彰也を誘う。
「ほらよ。確認したらすぐに施錠するから、さっさと頼む」
「ああ…………間違いない」
「ん、じゃあ閉めるぞ。家に帰るまで絶対に開けるなよ」
床に置かれたスーツケースを開ければ、そこにはスライムのような緩衝材に包まれたヒトイヌ製品が詰め込まれていた。
額に白く刻まれた個体番号と、もこもこした耳を確認した彰也が首を縦に振れば、越智はいささか緊張した面持ちでさっと蓋を閉め手際よく封印を施していく。
完全に無害化された製品であっても、二等種への本能的な恐怖はどうしたって拭いきれないようだ。
「講習で聞いたとは思うが、一応確認な」
「ああ」
梱包が終われば、今後の取扱に関する説明を受ける。
日常の処置については既に実技講習で習得済みだ。設置場所の申請も受理されている。屋外利用は……申請することもないだろう。
メス個体と異なり、オス個体は貞操具のメンテナンスがあるため月に一度近隣のセンターで定期検査を受ける必要があるけれど、基本的に購入後の製品に関しては特段の制限は設けられていない。
個人の所有物となった以上、器物破損罪が適用されることもなくなり――つまり、持ち主がその欲望の赴くままにどう扱おうと自由というわけだ。
「これは製造後6年の個体。通常の性処理用品だと耐用年数は15年ってところなんだが、ヒトイヌは20年を超える個体も多い。丁寧に扱えば長持ちするぞ」
「……そうだな……俺より長生きしなければ、それでいい」
「…………ま、そうか」
ヒトイヌは一般的な製品に比べて耐久性に優れている。
とは言えそれはあくまで肉体の話だ。精神は1年もすれば、感覚遮断と重度性器依存の禁断症状という過酷な環境により、脳が萎縮して犬猫ほどにも言葉を解さなくなる。
104番も例に漏れず、今ではテレパスでの命令はある言葉を除いて一切通じなくなり、電撃のみで操作しなければならないそうだ。
「これは随分人気の高い個体でな、毎回のように利用者から絶頂を許可されていたそうだ。普通ヒトイヌ個体なぞ月に1度絶頂出来ればいい方だってのに、随分甘やかされていたらしいな。そのお陰か、絶頂命令だけは今でも音声で入る。実に恵まれているな、二等種ながら」
「…………越智」
「そんな顔をするなよ。事実だろう? 音声を解せなくなったヒトイヌは壊れるまで絶頂を取り上げられるんだから」
自分を睨み付けるかつての悪友に「ちゃんと使ってやれよ」と越智は念押しする。
これは徹底的に感覚を剥奪することで穴の性能を上げ、わずかな膜越しの刺激を恵んでもらう事で、そして絶頂という褒美を与えられることで動作が保証されたモノなのだ。
黒い被膜の中にあるものが何なのか知っていても、いや、知っているからこそ、越智は彰也に最低一日一回の絶頂命令と定期的な穴の利用を勧めるのである。
……どんな形であっても、子を先に喪う辛さは、耐えがたいだろうから。
「お前の気持ちは分かる。だがいいか刑部、穴を使われないことは……これにとっては拷問に等しい事だ。なに、自分でやれとまでは言わんが……所有者として遊ばせてやるのも優しさだぞ」
「…………」
「それに堕とされであっても二等種である以上、これは人間には害悪しかもたらさないモノだ。くれぐれも気をつけろ……何があっても絆されるんじゃ無いぞ」
「……今更だよ、きっともう俺は……いや、最初から、敦をモノと思ったことは一度だってない……!」
「刑部……」
終わったなら、もう帰るぞ。
そう言葉少なに言い残した彰也は、越智の制止も聞かず即座に転送魔法を発動する。
「ちょ、刑部!!」
「……世話になったな。また、連絡する」
待て、と声を掛けかけた越智は、しかしその言葉を飲み込んだ。飲み込まざるを得なかった。
何故なら、彼の瞳にはもう……スーツケースの中に眠る我が子の成れの果てしか映っていなかったから。
「……頼むから道は踏み外さないでくれよ……お前まで二等種になんざ堕ちたら、千帆に何て謝りゃいいんだよ……」
越智はその場に立ち尽くし、天を仰ぐ。
そうして早々に旅立ってしまった己の妹であり彰也の妻に、どうか彼が過ちを犯さないよう守ってやってくれとただただ祈るのだった。
◇◇◇
きもちいい ない
いつもと ちがう
わからない けれど ここは やわらかい
……起動命令により四つ足で立ち上がった104番は、いつも通り分からない何かに愛を囁き欲しいとねだりながら、しかし奇妙な感覚に襲われていた。
この身体はありとあらゆる感覚を封じられてはいるが、そのお陰で残存した感覚は鋭敏だ。
例えば、この折り曲げられ固められた足が踏みしめる床の違いが分かる程度には――
「どうだ、部屋がすっきりしていてびっくりしたか? ……これなら敦も快適にいられるだろう?」
当然ながら、呼びかけに反応は無い。そんなことは百も承知だ。
だが何も届かないことが分かっていても、彰也の口は勝手に104番を出迎え、腕はそっとつるつるした躯体を背中から抱き締める。
彰也がスーツケースを開け起動ボタンを押した8畳ほどの部屋には、床暖房突きのクッションフロアが敷き詰められている。
部屋の隅にはガラス張りの洗浄設備が設えられ、ヒトイヌの世話に必要な全てが備え付けられていた。
「規則だからな、ごめんな」と物言わぬ塊に謝りながら、彰也は銀色に光る股間のプレートの真ん中、テザーからぶら下がったピアスに床から伸びる短い鎖を繋いだ。
……ああ、性処理用品への命令には、楽な姿勢を取らせるものはないのだと、今更ながら気付かされる。
「……敦」
彰也は微動だにしない体躯を撫でながら、そっと奪われたはずの名前を耳元で囁く。
ヒトイヌの聴神経は廃絶しているから、例え骨を伝ってすらその音は届かない。届いたところで、6年にわたり閉じ込められ狂わされた頭は言葉を解しない。
そもそもこれの名前は捕獲段階でとうに剥奪され、例え一般の性処理用品同様の精神状態を保っていたとしても意味のある音としては認識されないのだ。
それでもなお、人間は二等種の元の名前を呼ぶことを法律で固く禁じている。万が一、元身内であったモノであっても名前を呼べば、下手をすればそれだけで逮捕、最悪二等種堕ちになるほどの重罪だ。
人間の根本にまで刻み込まれた、二等種への恐怖は計り知れない。恐怖故の残酷さを、法律という都合のいい文言で覆い隠し、正当化しなければならないほどに。
だが、無害化されているが故に決して目にすることが無い二等種の有害性とやらと、この地上を闊歩する人間がひた隠しにするどす黒い感情に、一体どれだけの差があるというのか。
(……ここから出すわけでも無し、構うものか)
お前は499M104などという英数字の羅列でも、ましてトシくんなどという軽薄な愛称でも無い……そんな思いを込めて、彰也は禁を破り、妻の付けた愛し子の名前を呼び続ける。
「これからはずっと一緒だ、敦。ずっと……父さんが、側にいるから……」
どれだけ加工されようが、壊されようが、君は俺と千帆の大切な子供だ。その苦しみとは全く釣り合わないと知った上で、俺はこれからの全てを君への贖罪に捧げよう――
(父さん)
頭の中で再生されるのは、在りし日の我が子の声。
少年特有の高く柔らかい声が、愛情に満たされた笑顔が、彰也の胸を締め付ける。
「…………っ……!」
震える身体から、ぽたり、と熱い雫が被膜に落ちる。
……そのかすかな振動が渇望の中でただ何かを欲し続ける104番に、届くことは無い。
◇◇◇
貸出センター外に設置された製品は、一日二回の洗浄を必要とする。
一応洗浄魔法でも対応可能ではあるが、貸し出し中の製品に貴重な魔力を使おうなどと言う奇特な人間は存在せず、季節を問わず屋外でホースの水をかけ、ブラシで奥の奥まで擦るのが基本だ。
それはヒトイヌであっても、そして買い取られた製品であっても変わらない。
「っ……冷たいな……ごめんな敦、さっさと終わらせような」
製品の洗浄には、被膜や汗腺から分泌される保護剤の関係上、10度以下の冷水を使うことが義務づけられている。
井戸水でももう少し温かいだろうにと彰也は胸を痛めながらも、やはり「人間様」故か魔法で洗浄するなどという考えに及ぶことは無いようだ。かじかむ手で被膜専用のスポンジを握りしめ、洗浄剤を泡立てて全身に塗りたくっていく。
アイマスク以外の装具は外した上で洗浄し、拭き上げれば穴を利用しない限りすぐに全ての装具を取り付けなければならない。いくらハーネスで肢体を浮かせているとは言え、一般人がやるには重労働だ。
「……本当に、君の肌に触れることは出来ないんだな」
電撃で口を開けさせれば、真っ赤な被膜がテラテラと輝いている。粘液は潤滑剤と、104番の体液が混じったものだろう。
「ヒトイヌは暑さ寒さを感じない」という講習で習った言葉を信じ、彰也はホースを喉奥まで突っ込んで丹念に奥にたまった粘液を洗い流す。
作業をしているだけでこちらまで嘔吐きそうなのに、彼は何事も無かったかのように……いや、何も理解していないかのように、命令通り動かない。
「ふぅ……綺麗になったぞ、敦。うん、綺麗だ」
優しくタオルで拭き上げ、頑張ったなとぎゅっと抱き締めれば、104番はもこもこの尻尾をちぎれんばかりに振り、耳を顔に擦り付けてきた。
――まるで「嬉しい」「大好き」と言っているかのようなその行動に、彰也の顔がくしゃりと歪んだ。
なにか かんじる
からだ にんげんさま ふれている
いつもと ちがう
なにかが じんわりする ふんわりする
これは なに だった?
◇◇◇
――それから始まった一人と一体の生活は、実に平穏で淡々としたものだった。
「おはよう、敦。よく眠れたか? さあ、餌にしような」
あの日以来、彰也は寝具を104番の保管庫に持ち込み、起床の電撃よりも早く四つん這いで佇み消灯の電撃と共に倒れ込むように意識を落とす真っ黒な個体と、共に寝起きするようになった。
先に104番の餌と浣腸を終わらせてからメイドの作った食事を食べ、特段の用がなければ何をするでもなく、日がな一日保管庫で104番に寄り添い続ける。
メイド達が胡乱な視線を向け、陰で何を言っているのかも知っているが、そんなことは些末事に過ぎない。
「刑部さん、これはまた素晴らしい製品を手に入れましたな! いやぁ、噂には聞いていましたがこれほど具合の良い穴は生まれて初めてですわ」
「しかし良いのですか? 刑部さんもご一緒に楽しまれては」
「ああ、いえ、私は見ている方が良いので……どうぞお気になさらずに」
時には「客」がこの部屋を訪れることもあった。
身元が確かで口が固く、信頼の置けるものを厳選して招待し、104番を存分に使わせた。
本当はこんなことなどしたくはない。時折怒りに我を忘れ、目の前で穴を堪能する男達に殴りかかりそうになるほどだ。
それでもこの時間が無ければ、性器に絶対服従の穴として作られたこれは、幾ばくもしないうちに禁断症状を強め……修理不可能と判断されたが最後、国によってあっさりと処分されるだろう。
(……すまない、敦。これは……君を喪いたくない、そして少しでも君に許されたい俺のエゴだ…………)
そのまま命を刈り取ってやる方が、敦には幸せかも知れない。いや、きっとその方が楽に決まっている。
そう確信していても、我が子に……それも自分のせいでこの苦界に堕ちてしまった子に、引導を渡すなど、彰也には到底出来なかった。
矛盾を抱え苦しむことも罰だと涙を流しながら、彼はいつも自らの手でドロドロに汚れた104番の「後始末」をする。
こんなものは贖罪にすらならない。そして、この行為も、この言葉も、この想いも、何一つ彼には届かない。
「……これが、取れれば」
今日も頑張ったなと104番を撫でる彰也の指が、ふとアイマスクにかかる。
一筋の光も通さないようぎっちりと締め上げられたアイマスクは、通常の刃物では切れない特殊な魔法繊維で作られており、ベルトをロックする南京錠も貸出センターにある特殊な鍵を使わなければ外すことが出来ない。
これは、所有者が誤って製品と目を合わせ被害に遭わないための措置だという。
「そんなもの詭弁だろう……もう、何も分からないのに」
個体の状態確認に用いられるため、ヒトイヌの視力自体は奪われていない。ただ、意識のある状態でこのアイマスクが外されたことは、製品として出荷されて以来一度も無い。
6年にわたり視覚を奪われた瞳は、視力自体はともかく目で捉えたものが何であるかを弁別する能力を既に失っているそうだ。
「敦……父さんは敦の傍に、ずっといるからな……」
全く人間というヤツは身勝手で欲張りが過ぎると、彰也は寂しく自嘲する。
こんな酷い目に遭わせておきながら、それでも父を認識して欲しいと、あわよくば心を通わせたい、赦しを乞いたいと願うなど……
こんな人間に二等種を悪辣などと蔑む資格はないとすら思うのは、人閒としては失格だろうか。
「……」
今日も104番は命令を守り、されるがままに立ち尽くしている。
シューシューと響く息の音は少しだけ速く、尻尾はぶんぶんと振られていて、これの自覚はともかく身体はこの後にやってくるであろう「お楽しみ」を待ち遠しく思っていそうだ。
――客が散々遊んだ日には、本来必要の無い行為。
だが、ここに104番を設置して以来、彰也がこの日課を欠かしたことは無い。
《敦》
彰也はいつものように、104番を抱きかかえその胸にもたせかける。
そうして届かない贖罪を胸に、たった一つだけ届く言葉を魔力に載せて、被膜の内側……退化したとされる脳へと響かせる。
《イケ》
「シューッ!! シュー、シュッ、シュー…………ッ!!」
絶頂の命令を受けた104番は、二度、三度と彰也の腕の中で身体を跳ねさせる。
この個体に許されているのは、本来の性とは異なる歪な絶頂だけ。中心にあったはずの印は銀色の蓋の下に押し込まれ、ただ白濁混じりの蜜をダラダラと床に垂れ流すばかり。
「……っ…………」
胸が、締め付けられるように痛い。
思わず泣き叫びたくなるけれど、本当に泣きたいのはこの子の方だと、ぎゅっと抱き締める腕に力がこもる。
「……良かったな、気持ちいいな……」
やっとの事で音となった呼びかけはすぐに嗚咽となり、部屋の中に寂しく吸い込まれていった。
◇◇◇
ああ また このこえが きこえる
全身を止まらぬ絶頂に打ち振るわせながら、104番はその脳裏に響く命令を無意識に鈍った頭で反響させていた。
いつからなのか、そんなことは当然分からない。
そもそもこの身体に時の感覚は無い。延々と続く渇望の中、本来の機能である穴を使われるかすかな快楽と、己が生きていることを突きつけるような電撃の痛み、そして一瞬だけ全てを忘れられる絶頂を流し込まれる――それ以外のものは存在しないから。
そう、存在しないはずなのに。
104番の世界には二つ、気がつけば増えていた要素がある。
一つは、この「声」だ。
音を奪われたはずの肉の器に響く魔法で練られた声は、いつからか同じものだけが繰り返されるようになった。
「イケ」の命令こそ理解出来るけれど、それ以外の声は104番にとってただのノイズに過ぎない。
更に言うなら、それは魔法により刺激された脳細胞が織りなす信号でしかないのに、これまで与えられたどの命令よりも心地よく、何かがふぅっと溶けていくような感覚を覚える。
これはきっと ごしゅじんさま
おれの もちぬしだ
いつしか彼は、この声をただの人間様では無く、特別な……自分の主人であると認識するようになる。
表に出る行動は何も変わらない。反射による愛着行動は、相変わらずこのヒトイヌの魅力として幾多の客に愛されている。
だがその内側では確かに、ご主人様からの命令に、そして命令の時には必ず感じる輪郭を締め付ける感覚に対して、自主的な親愛を示すようになっていた。
そう、もう一つ。
彼に毎日のように与えられる、不思議な感覚。
頭や足に装具を着けられたときのような圧迫感は、残存した感覚で捉えられる。
だがそれと共に与えられる、けれど異なる種類の刺激を……人間であった頃には当たり前のように享受していた感覚を、この躯体はすっかり忘れてしまっていて。
わからない
けれど これは びりびりしない
だから いいもの
きっとこれは、俺が役目を果たせたご褒美なのだろう、そう104番のわずかに残された思考は判断する。
自分を使うのがご主人様なのか、他の人間様なのかは分からない。そもそも、これに人間様を区別する機能は許されていないと、遠い記憶が囁きかける。
だから自分がすることは、ただ存在の奥に差し込まれる愛しい何かを、全力で愛でることだけ――
月日が経つにつれ、性処理用品の性能は徐々に落ちていく。
だがこのヒトイヌは、高性能とは言えD品を大枚はたいて手に入れるという珍妙な行動を取った人間様の元に設置されて以来ますます具合が良くなったと、ここに通い詰めていた客の一人は時折語っていたという。
◇◇◇
以来、家庭という閉じた空間における通じ合えない親子の変わらない生活は、2年半にわたり繰り返される。
外の世界ではエリアが水没するような酷い災害が度々発生していたが、そんなことを知る由も無い104番は当然のこと、彰也にとってもそれはどこか遠い世界の……自分達とは関係の無い話でしかなかったようだ。
そうして……その日は訪れる。
「な、んだ……!?」
いつものように保管庫で――かつての敦の部屋で104番と過ごしていた彰也に、突如突き上げるような衝撃が襲いかかる。
一体何事かと立ち上がろうとしたその瞬間、屋根を突き破ってきた巨大な破片が静かに佇む104番を押しつぶそうと迫るのが見えて
「っ、危ないっ!!」
考えるまでも無く、身体が勝手に動く。
咄嗟に104番の上に覆い被さった彰也の背中には、幾多の瓦礫が降り注ぎ……その一つがボキリと聞いたことも無い音と絶望的な衝撃を身体に響かせた。
「か……は…………っ……」
(だめだ、力を抜くな……この子を、敦を守らなければ……!)
急速に身体から熱が、力が奪われていく。
未だ不気味な地鳴りと酷い揺れは収まらず、彰也は霞みつつある瞳で黒い頭ともこもこの耳を捉え、最期の力を振り絞ってその胸に抱き締めた。
多分、自分はもう助からない。
そしてこの子も……例えここで生き延びたとしても、二等種を助けようなどと言う人間はいない――
《敦……敦…………》
もう、何も見えない。
耳も良く聞こえない。
手足の感覚も遠くなり、己だと認識していた輪郭がぼやけていく。
ああ、敦はずっとこんな世界にいたのかと、彼の苦難のほんの一端を垣間見た男の虚ろな瞳からは、つぅと悔恨の涙が流れ落ちる。
《ごめんな、敦……全部、父さんのせいだ…………ああ、君は、何一つ悪くない……!!》
――神様、どうかこの子の来世はうんと幸せにしてあげて下さい。
全ての罪は俺にあります。この子は罪深い二等種などでは無い、真面目で、素直で、笑顔の眩しい俺の自慢の息子なんです――
届かない贖罪を魔力に載せて、胸の中の愛しい我が子に送り届け。
愚かな男の鼓動はそっとその時を止めた。
ごしゅじんさまの こえが きこえる
そのおとの いみは わからない
けれど ごしゅじんさまのねつが おもさが たしかにかんじられる
ねつを かんじる……ああ そう これはねつだ
ねつ って あたたかい な…………
(そうだ、俺は……人間様の穴だ。愛しいおちんぽ様に奉仕するための、ただの穴……)
ご主人様、こちらはヒトイヌ型性処理用品、管理番号は499M104です
穴しかお役に立てませんが、どうぞご自由にご利用ください――
数年ぶりに104番の思考が明晰さを取り戻した瞬間、親子の箱庭は更なる瓦礫により完全に押し潰される。
黒い被膜によって断ち切られたはずの温度は……いや、わずか12歳にして奪われた人の温もりは、皮肉にも今際の時に切り開かれることで、ようやく104番の内側へと届いたのだ。
◇◇◇
CIMS特性保持者として生まれて、両親は大災害で喪って。
12歳で症状が出たと思ったらまさかの重症型で危うく死にかけたけれど、そんな俺を見つけてくれたNPOと受け入れてくれた自治区域の大学病院、そしてたくさんの支援者のお陰で、俺は今こうやって再び足で大地を踏みしめ生きていられるんだ――
「へっ、トシ君って長いこと入院してたの?」
「あ、至恩さんは知らないんですっけ。俺、CIMSの症状が出た途端に手足が動かなくなって、ついでに呼吸も食事も出来なくなったんで、ミラード自治区域の大学病院に緊急搬送されたんすよ。これはその時の写真っすね」
「…………!! そ、そうだったんだ……大変だったんだね……」
エリア28の名物SMバー「White Abyss」の待機室では、今日の勤務を終えた至恩達とトシが部屋にあった古いアルバムを捲っていた。
支援者が作ったという今時珍しいアナログのアルバムには、ICUでほぼ裸同然の状態で管理されている幼い顔立ちのトシの姿が映っている。その下腹部には、至恩達だけに理解出来る「499M104」の管理番号と等級記号のDが刻まれていて、二人は一瞬目を見張り……しかし何事も無かったかのように目の前の赤毛の青年の思い出話に耳を傾けた。
CIMS保持者は不思議と目を惹く美形が多い中、トシは凡庸な容姿の持ち主であった。
だが彼は幼い頃から不思議と周囲の人に愛され、世話を焼かれるという幸せな資質を持っていたらしい。
その半生は確かに苦難の連続ではあったが、彼の傍には必ず手を差し伸べる人たちがいたせいだろうか、それとも命の瀬戸際を覗き込んだためなのか、トシはいつも「俺は恵まれている」と豪語して憚らない。
「手足が動いて、息が出来りゃ、俺は十分幸せっすから」
「そっか……そうだよね」
――その言葉の本当の意味を知るのは、至恩達だけ。
「お、今日の行き先が決まった」
「……トシ、お前はそろそろ帰る家を持て。うちの給料じゃ足りないとは言わせないぞ」
「帰ってますって、俺の家はみんなのところですから」
「お前なあ……はぁ……」
通知音にスマホを覗き込んだトシは、慣れた手つきでメッセージを返す。
どうやら今日の宿泊先はお気に入りの「パパ」の所なのだろう。明らかにご機嫌そうだ。
支援者の伝手でエリア28に移住し、矢郷のサポートを受けてこのSMクラブで働くようになって以来、トシは特定の住処を持たなくなった。
入院時代からの支援者やクラブの客、はたまたバーでたまたま出会った人など、彼らの家に順番に誘われ、ちょっとした「お礼」と引き換えに衣食住(と小遣い)の提供を受けるという、何不自由ない生活を送っている。
トシに貢ぐのは不思議と親子ほども年の離れた社会的地位のある男性ばかりで、界隈では「トシは老け専らしい」ともっぱらの噂だ。本人は否定しているけれど。
「トシくん、そんな浮気ばっかりしてたらいつか刺されるよ?」
「浮気じゃねーよ、バカナツ。俺にとっちゃみんな大切な人だからな!」
「何よぉ、トシくんの節操なし!!」
「あーはいはい、節操なんて言葉知ってたんだ、ナツはえらいえらい」
「むう、すぐそうやってバカにするんだからぁ……」
何かにつけて幼馴染みのナツは呆れ混じりに忠告するけれど、その時はその時だ。きっと救いの手が差し伸べられるとトシは確信している。
「トシ、こればかりは豆腐娘の言うとおりだ。親切面して寄って来るヤツにはくれぐれも気をつけろよ?ここだってCIMSを狙う人間はいないわけじゃ無い、何かあってからでは遅いんだからな」
「そんなに心配しなくたって、どのパパも安全っすよー」
「世話賃を身体で払う『パパ』の、どこが安全だと……?まあいい、今日はどこに泊まるつもりだ」
顔を顰めて尋ねる矢郷に「あ、今日はアキさんとこっす」とトシが告げれば「あー添い寝パパか」「人畜無害パパだな」と待機室の面々から声が上がる。
トシに限らずCIMS保持者が支払う対価は身体が基本のこの街において、頑なに奉仕を拒否し続けるこの「パパ」を、しかしトシは「サービスだって言ってるのに頑固なんだよあのおっさん」と不満を漏らしながらも随分気に入っているらしい。
『トシ、考えてくれたか』
『そろそろ一緒に暮らそう。生活の面倒は俺が全部見るから』
「…………ったく、俺はみんなのものなんだけどなー」
今日の宿へと向かう、トシの足取りは軽い。
追加で送られてきたメッセージに文句を言いつつも、顔はにやけていて。
「……帰る家を一つにするのも……悪くないかな」
……うっかり、本音が漏れてしまう。
致命的な症状こそ治療出来たものの、この身体と心からCIMSの特性は何一つ消えてはいない。
矢郷が心配するのももっともだと、トシは理解している。
優しく手を差し伸べてくれる人たちがひとたび牙を剥けば、彼の心はそれに抗う術を何一つ持たないのだから。
明日もこの幸せが続く保障はない。
それでも、だからこそ、トシは明日への心配では無く、今日の幸せを素直に享受する。
――ああ、彼の腕の中はどこか懐かしい重さと温かさに満ちていて、あの中で毎日目を覚ますのは、きっと幸せに違いない――
「ま、他のパパ達がいいって言ったら、かな!」
駅近くの駐車場で見慣れた高級車を見つけたトシは、満面の笑みでそのドアを開けるのだった。