沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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5話 見ぬ「君」の言葉握りて径を往く

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 自分に恥じない正しいことをしたならば、例え周りがそれを非難しようが堂々と胸を張れ――
 誰の言葉だか、どこで出会ったのか分からない。だが、この言葉はいつだって俺を前に向かせてくれる。

 全てが寂しい世界でも、この言葉と、それをくれた知らない君だけは俺を裏切らないから。


 ◇◇◇


「はぁ、5時間ぶっ続けはしんどいな……」

 毎度変わらぬ針のむしろのような会議が終わるや否や、久瀬は真っ先に本庁のビルの外へと飛び出した。
 深呼吸をすれば、冷たい空気が心の澱を吹き飛ばしてくれる気がする。とはいえ身体はガチガチに強張っているし、何より無性に酒が飲みたい。
 ……独りで飲む酒の寂しさは、分かっているくせに。

 久瀬に対して、定期的に行われる首都への呼び出し。
 それは会議や研修だったり、はたまた査定という名の嫌みを聞かされる時間だったり様々ではあるが、総じて楽しい出来事であった記憶はこの20年近く、一度たりとも無い。

 まあ、上の言い分も分からなくはないのだ。
 中央政府に属する組織でありながら、辺境自治区域の、それも反社会組織の使いっ走りに10年以上甘んじている本部長など前代未聞だろう。
 この自治区域において中央が実質的に統治権を失っているのは明らかだが、公に認めてしまえば国中に散らばる火種を煽りかねない。だが、ヤクザの庇護下にある久瀬を更迭し、まして支配権を取り返せるほどの国力はすでに残っていない――

 だから彼らは、精々苛立ちをぶつけて正義のポーズを取ることしか出来ない。
 そして久瀬も分かっているからこそ、ため息をつきながらも律儀に呼び出しには応じ、彼らの体裁を守る茶番に付き合い続ける。

「……吠える九条さんの前で正座している方が、よっぽど有益な時間を過ごせそうだ」

 先ほどまでのやりとりを思い出し、うんざりした久瀬の口からつい本音が漏れる。

 左遷先のボスである黒狼組の組長は自分より十ほど年若いが、CIMSとは思えないほど鋭い目をした、そして実に肝の据わった男である。
 勿論、表では言えないような事も――むしろそっちが「本業」なのだから当然だが――散々やってはいるが、お陰で南西の辺境にある小さなエリアの経済と治安は国内でも指折りだ。

 生まれ持って大きなハンデを背負いながらも気勢を吐き、目的のために清濁併せ飲む姿勢は嫌いじゃない。
 それでいて、自分には些細なことでもあっさり屈するあたり……本人に言えば半殺しにされそうだが、何とも可愛いところがあると密かに好んでいる。

 ――だからこそ久瀬は九条を服従させようとはつゆほども思わないし、彼の「秘密」が組織的には敵対している自分の口から中央に漏れることはない。

「退官したら……あそこに移住するのも悪くない。どうせここに俺の居場所はないしな」

 あの街も自分には冷たいが、少なくとも話せる人はいる。何なら彼の馬鹿でかい家に転がりこむのも悪くはない……九条に知られたら確実に説教を食らうささやかな野望を、久瀬は密かに抱いている。

 こんな扱いを受け続けても退官という選択肢に至らないのは、ただの意地だ。
 だって、自分は何一つ間違ったことをしたつもりはないから。内部告発も、黒狼組の傘下に下ることも、結果として何かと苦労はしているけど後悔したことは一度も無い。

 何より――ここで引けば、ずっと握りしめてきた大切な言葉を裏切ってしまう。

「はぁ……見つかったら面倒だな、さっさとホテルに行くか」

 後ろから同僚達の声が近づいてくる。
 ここにいればまた絡まれると、久瀬は足早にその場を去った。


 ◇◇◇


 警察官というのは、基本的に好かれることはない生き物だと思っている。
 政府を蛇蝎のごとく忌み嫌う自治区域では当然のこと、直轄領であっても、そして特段やましいことがなくたって、ただでさえ汚職だ何だと評判の悪い政府の犬と市民はあまり関わり合いになりたくないだろう。

 そんな連中に用があるのは、日頃の恨みを晴らさんと待ち構えている連中ぐらいだ。
 例えば……弱者の振りをして獲物を狙う輩とか。

「…………行き倒れか」

 安宿への道中、大通りから一本入った寂しい路地に倒れる人影を確認し、久瀬の眉間に皺が寄る。

 ここ政府直轄領では、路上で貧者が倒れているのも珍しい話ではない。
 貧富の差は大きく、大多数の庶民は生きるために働いているのか、はたまた働くために生かされているのか分からないような生活を送っている。
 
 そもそもこれが本物の行き倒れだという保障はない。近寄ってきたところを襲われ身ぐるみ剥がされ、下手をすればそのままコンテナに詰め込まれて「部品」にされる未来も大げさではない……
 それがここ、政府直轄領での常識だ。

 だから、倒れている人に近づくのは自殺行為。
 例え警察官だろうが……いや「持てる者」と見なされる立場だからこそ、ここは知らないフリをして通りすぎなければいけない。

 ……そう、知識と経験は全力で警鐘を鳴らすのに、それと同時に囁きかける言葉はいつだって久瀬の行動を逆方向に後押しする。

「……二人……双子、か……?」

 慎重に近寄ってみれば、倒れていたのは同じ藤色の髪を持つ少年と少女だった。
 とても清潔とは言えない身なりと、近くに落ちている古ぼけたキャンプ用品の詰まった荷物を見るに、恐らく彼らは路上生活者。
 散らばった荷物から飛び出たピルケース、その中に入っている毒々しい色の錠剤は赴任地で散々目にした違法の媚薬だ。確か、本来使うべきでない穴を泥濘に変えるものだと九条に説明された気がする。

 ――つまり、IDを確かめるまでもない。この二人は、生まれつきの障害故に、そして生まれた場所故に政府から見放された……九条の言うところの「棄民」だ。

「…………おい、大丈夫か」

 うつ伏せで倒れ込んでいる二人の傍にしゃがみ込み、久瀬はそっと声を掛ける。
 背中は上下しているから、まだ息はありそうだ。流石に二人を担ぐのは無理だなと「歩けるか」と薄目を開けた彼らに手を伸ばせば、ぱくり、と唐突に少女の口が久瀬の指を食んで。

「……へっ」

(まさか、罠か!?)

 さっと久瀬の顔に緊張が走る。
 だが警戒心を強めたこちらの気も知らず、彼女はもぐもぐと暫く口を動かしたかと思うと、か細い、しかし実に残念そうな声で呟き、久瀬をその場にがっくり崩れ落ちさせたのだった。

「おいしくない……おなか、すいたぁ……」


 ◇◇◇


「……まさか、ただ腹が減って倒れていただけとは……いやそれも問題ではあるが……」

 ホテルに着いた久瀬は、部屋に入るなりその場に倒れ込んだ二人を一旦放置し、階下のコンビニで夕食を漁っていた。
 かごの中には政府直轄領限定の激辛麻婆豆腐と弁当、そして最重度CIMS用の療養食のパウチがうず高く積まれている。

「お巡りさんも物好きですねぇ、野良のCIMSを宿に連れ込むなんて。……ああ、その格好じゃ堂々と遊びに行くのは無理か」
「…………まあ、そんなところだ。腹が減って動かないんでな、療養食を買いたいんだが野良用はこれでいいのか?」
「ん? ああ、流動食のやつね。それならどのタイプでも食えるっしょ。まあ折角首都まで来たんだし羽目も外したくなりますよねぇ。大変なんでしょう? 自治区域の生活は」
「そうだな。……こことは大違いだよ」

 下卑た笑みで「避妊具もありますぜ」と勧める店員をいなし、久瀬は足早に部屋へと戻る。
 貴重品は全て手元にあるし何より相手はCIMS保持者だが、IDを確認後「宿まで付いてきたら、飯くらいは奢ってやる」の一言でよろよろとやってきた見知らぬ者達をいつまでも放置するほど、危機意識が欠けているわけでもない。

(……お楽しみ、か。それが常識だな。全く……黒狼自治区とは雲泥の差だ)

 やれやれと扉を開ければ、二人は案の定部屋を出る前の形のままで倒れていた。
「ほら、買ってきたぞ」と声を掛け、起き上がる気配もない少女の口元にパウチの吸い口を当てるや否や、彼女は目を閉じたまま唇を開けて、もの凄い勢いで音を立て中身を吸い始める。
 少年の方は身体を起こしたが、それでも座る場所は床だ。……すぐ傍にある椅子やベッドは、彼には触れる事が許されるものだという認識すらないらしい。

「ふむ……あまみや、しおん……珍しいな、名前が同じで誕生日も同じ……双子ではないのか」
「んっ、はっ、はひっ……ちがっんぐっ、えほっえほっ」
「ゆっくり食べれば良い、別に取って食やしない」
「あっ、ありがとうごじゃましゅっ!!」

 IDを確認した久瀬がぽそりと呟けば、少年が弾かれたように飛び上がり、裏返った声で返事をする。
 引き攣った顔と怯えだけの視線は、久瀬にとっては向けられ慣れたものだ。どうも自分は、警察官という身分を差し引いても。やたらCIMSを畏怖させてしまう性質らしい。

(登録地がエリア39……生まれ年から察するに災害孤児だな。N型のCIMSは珍しい、だが……この様子ではまともな生活訓練など受けてはいるまい)

 ここ政府直轄領におけるCIMS特性保持者の人生は、ほとんどの場合「悲惨」の一言で説明がつく。
 運良く理解ある親の元に生まれれば、薄いながらもそれなりの支援には預かれる。だが、経済的に余裕のない親がCIMSの子供を育てることはほとんど無く、ほとんどの患者は乳幼児期に保護施設へと捨てられるのだ。

 そういった子供は初等教育こそ受けられるものの、CIMSの特性に対する訓練や治療を受ける機会が与えられることはない。
 そして15歳になれば、問答無用で施設から追い出されるのが常だ。

「それで? この荷物だ、家はないのだろう? 仕事はどうしてる」
「……今日はこの近所で、清掃を…………あと……その」
「身体で稼いでいる、か」
「ひっ!! 申し訳ございません! お願いします詩だけは助けて」
「…………別に逮捕する気は無いし、そもそも出来ん。現場を押さえたわけでも無いからな」

 久瀬の言葉に幾分緊張が解けたのだろう、少年はぽつぽつと身の上を話し始めた。
 聞けば二人は同じ施設の出身で、同じ日に施設から追い出された縁で行動を共にし、その日暮らしで何とか生き延びてきたそうだ。
 今日は3日ぶりに仕事が見つかり、ようやく食事にありつけるとコンビニまで向かっていたものの、あと少しと言うところで空腹に耐えかね動けなくなってしまったらしい。

(まぁ、良くあるパターンだな。まだテントを持ってるだけ恵まれている方か)

 中央政府の対応に業を煮やし、各地の自治区域からやってきたNPOが保護活動も行っているとはいえ、焼け石に水なのが実情だと以前九条もぼやいていた。
 政府直轄領の人間が自治区域に移住するのは禁じられているため、多少のことは袖の下で黙認されるとは言えおおっぴらに活動すれば投獄されかねないし、そもそもNPOの母体だってまともとは限らない――

「まぁ半分くらいは、人身売買目的だろうよ」と鼻で笑っていた九条の言葉を思い出し、久瀬は沈鬱な表情で目の前の二人を眺める。
 パウチを4つも平らげてようやくお腹がくちたのだろう、やっと状況を把握し少年と同じくガクガクと震えながらその場に土下座した少女に(こんな食いしん坊なCIMSもいるのか)と場違いな感動を覚えつつも、彼らがこの歳まで――見かけはともかく、実年齢はとうに20を超えていたらしい――生き延びられたことに安堵感を覚えていた。

(……? 何故、安堵など)

 確かに、野垂れ死ぬことも犯罪に巻き込まれることもない状態でこうやって保護出来たことは僥倖だが、良くある話なのにと久瀬は首を捻る。
 だが、今はそんな事を考えている場合ではない。何せ目の前の二人は、あまりにビビりすぎて腰が抜けたのかさっきから土下座の姿勢のまま、一ミリたりとも動けず震えているのだから。
 ここまで怯えられるのは、久瀬も生まれて初めてだ。服従心への訓練を受けてないからある程度は仕方が無いとしても、流石にちょっと悲しくなる。

「まずは身綺麗にせねばな」
「え」
「その様子じゃ身体もろくに洗っていないんだろう? そこにバスルームがあるから、シャワーを浴びると良い」
「へっ……し、しゃわー……」
「ほら、その汚い服をさっさと脱げ。下のランドリーで洗ってくるから」
「ひっ!! は、はひっ、かしこまりましたっ!!」

 少し語気を強めて命令口調にすれば、大抵のCIMSはあっさり久瀬の言葉に従う。あまり使いたくはないが、膠着状態を打破するためには致し方あるまい。
 案の定、二人はさっきまでの置物状態が嘘のようにすっくと立ち上がり、恐怖に震えながらも服を脱ぎ始めた。

「やだ、お風呂なんて……」と泣きじゃくりながも服をはだける手が止められない少女と、「だめだよ、命令だから脱がないと怖くなっちゃう」と少女を宥めながらボタンに震える手を掛ける少年。
 CIMS特性者にしては大柄な少年の体躯は引き締まっていて、なるほどこれなら力仕事もできそうかと眺めていた久瀬は、しかし肌を露わにした姿を見て……目を丸くしぴたり、とその動きを止めた。

「ぬ、ぬぎ、ました……」
「…………誰にやられた?」
「……え」
「その股間の金属だ。まさか既に犯罪組織の手に……」

 一糸まとわぬはずの二人の身体には……正確には股間には、奇妙な装具が取り付けられていた。
 少女の方は下着……と言われればまあ、分からなくもない。金属ワイヤーをシリコンチューブでくるんだ紐? とクロッチを覆う透明なカップで出来た下着など、趣味の悪さが際立っているとは思うが。

 だが、少年の股間の装具はどう見ても異様だった。
 あるべきものの気配はなく、代わりに鎮座するのは丸い銀色のプレートだけ。
 中心に穴は開いているから、恐らくそこから排尿は出来るのだろう。だが明らかに大切なものが切り取られたかのような平らな風景に、思わず久瀬の語気が荒くなる。

「ひょええぇちっちがいますこれはそんなんじゃなくて」
「違うわけがないだろう、男性のそこを切り取ってしまうなど……!」
「あわわわ反論して申し訳ございませんっ!!」
「……っ! す、すまない……大丈夫だ、怒ってはいない」

 途端その場に再び崩れ落ち頭を床に擦り付ける二人に(しまった)と久瀬は慌てて頭を下げる。
 そうして深呼吸を一つ。視線は合わせない、なるべくゆっくりと穏やかな口調を心がける――久瀬は九条から叩き込まれた未支援のCIMSに対する接し方を思い出しながら、とにかく「ではこれは何だ?」と事情を聞くことにした。

「こっこれは…………お守りなんです……」
「お守り? それは買った……訳がないか、誰かから貰ったのか?」
「えっと、その……多分……」
「……多分?」
「覚えてないんです、何も……施設を出た頃に貰ったんじゃないかなって思ってます」

 これがあると、襲われても時々諦めてくれるんです、と少女は股間の透明なドームをコンコンと叩く。
 身体のカーブにしっかり沿った装具は見た目ほど窮屈ではないという。それでいて大切な場所を守れるくらいには頑丈なため、わざわざこれを壊してまで穴を使おうという酔狂な暴漢はいないそうだ。
 ちなみに少年の装具の下は押し込められているだけで、ちゃんと生来の形と機能を保っているらしい。それは本当に良かったと、心の底からほっとすると共に、ふと浮かんだ疑問を久瀬は何気なく口にした。

「……待て、ならどうやって身体を……?」
「あ、後ろは使えるんで……突っ込めて出せれば問題ないですし」
「後ろ」
「襲われたときも、前は諦めても後ろは諦めてくれないんですよね」
「…………そ、うか……」

 さらっと当然のごとく語られる事実に、久瀬はくらりと目眩を覚える。
 彼らがこの境遇を当たり前のものだと受け入れていることが、そしてそんな風に「仕込んで」しまった中央政府の扱いが、どうにも腹立たしい。

(しかし少年のそれは……そもそも全く防御にはなっていないと思うのだが)

 怒りと戸惑いを悟られぬように再度深呼吸を繰り返し、それなら装具を着ける意味はあるのか? と久瀬は首を傾げて問う。
 そんなことを聞かれるとは思ってもみなかったのだろう、顔を見合わせ二人でオロオロすること数分。覆われた部分にそっと触れつつようやく返ってきた言葉は、思いもかけないものだった。

「……ここが守れていれば、いいから」
「そう言うもの……なのか?」
「はい。ここは、誰かのものなんです。……思い出せないけど、いつだったか、約束した誰かのもの」
「…………!」

 震えながら、けれど真っ直ぐとこちらを見て告げられた理由が、久瀬を固まらせる。
 ややあって久瀬の口から溢れたのは「……そうか」とどこか感じ入ったため息だった。

(ああ……君らも、俺と同じか)

 どこの誰だか、どれだけ記憶を辿っても、記録を探っても分からない。
 けれど確かに自分の心の奥深くに刻み込まれた信念が、自ずから湧き上がったものでは無いことだけは確信している。
 そんな、誰かに話せば一笑に付されるような言葉を握りしめ人生を歩む自分と同じように、彼らもまた記憶にないはずの誰かとの約束を、守り続けているのか――

「そうか……それは、意味のあることだな」
「…………はい」

(そう、意味のあることなんだ。誰が否定したって、俺や君たちにとっては)

 どこにいようが、何をしようが……気心知れた連中と飲んでいてさえ消えない、どうしようもない寂しさ。
 それが彼らの言葉で、少しだけ埋まった気がした。


 ◇◇◇


『はあぁ!? また拾ったのかよ!! しかもよ首都で2人同時保護とか……いい加減てめぇの立場を理解しろ、バレたら懲戒免職だろうが!!』
「ええ、俺がそちらに連れて行けば減給どころじゃすまないっすね。またお二人に食事の世話を」
『どうして俺らが奢る前提なんだよ!?』
「……なので、これは俺の意志じゃないことにして下さい。そうすれば九条さんたちの懐は痛みません」
『くそっ……どうしててめぇは毎度毎度、好き勝手拾ってきては圧かけて押しつけやがるんだ!! ああもう、指令書を送るから責任持って連れてきやがれよ!』

 いつも通り九条に彼らの移住手続きを依頼すれば、スマホの向こうから耳をつんざくような怒鳴り声が飛んでくる。
 だが、久瀬は知っている。彼は恫喝混じりの説教こそ欠かさないものの、保護されたCIMSの移住依頼を一度も断ったことがないことを。

「九条さんの声が聞こえると、彼らを怯えさせますから」と、説教の気配を察した久瀬は要件だけ告げて早々に通話を切る。
 どうせ近いうちにまた飲み会で説教されるのは確実なのだ、そこでゆっくり付き合おうとメールを確認していれば、バタンとドアの開く音がした。

「あ、あ、あのっ、きれいにしました……」
「ああ、そこにバスローブがあっただろう? それでも着て……」
「…………あの……?」

 少年の声に顔を上げた久瀬は「そこからか」と眉間を押さえ首を振る。
 何も身に付けないまま部屋に戻ってきた二人は、風呂上がりだというのに震えていて、唇は真っ青で……間違いなくお湯は使ってない。
 この調子では、施設でも年中冷水で身体を洗っていたのだろう。コスト削減もここまで来ると害悪だ。

「……いや、何でも無い。今日はベッドで寝ろ、いいな?」
「「はっ、はひぃっ!ありがとうございましゅっ!!」」

 ツインの部屋で良かったと、久瀬はどこか気まずそうにベッドに潜り込みしかし数分もしないうちに寝息を立て始めた二人の頭を、そっと撫でる。
 CIMS保持者は外見上歳を取らない。だから見た目はいつまで経っても10代半ばのままで、それが余計によからぬ欲望を惹きつけてしまうのだろう。
 久瀬でさえ、実年齢を知っていながらつい子供扱いしたくなるほどだ。

「まぁ、頭の中は子供同然だな……これは訓練が大変そうだ」

 通知音にアプリを開けば、そこには『てめぇ帰ったら覚えてやがれ』の一文と共に、黒狼組の家紋が入った二人の移住許可証と、久瀬への護送指令書が添付されていた。

「……ありがとうございます、九条さん」

 久瀬は小さな声で画面に向かって頭を下げる。
 今自分が取っている行動は、警察官としてはふさわしくないどころか、立派な違法行為だ。
 あらかじめ手を回して処分を免れたところで、上からの評価がまた下がるのは間違いない。ただでさえ少ない給料がまた査定で減らされる日も近いだろう。

 だが、久瀬の中に保護活動を止めるという考えは微塵もない。
 直接彼らの生活支援に携わることは流石に立場上不可能だから、こうやって九条の力を借りつつあちこちの自治区域に送り込むのが精一杯。上層部からは目を付けられ、受け入れ側からも「送りつけるだけで何もしない」「身勝手が過ぎる」と批判が止まないことも承知だ。

 それでも、彼は罵詈雑言をものともせず、淡々と己の為すべきと思ったことを為す。
 ――全ては誰かに授けられた信念と、存在すらあやふやな「誰か」のために。

(俺は……これが人として正しいと、胸を張れるから)


 ◇◇◇


「おまわりさん、私たちを自治区域に逃がしたら怒られるんでしょう?」

 次の日。
 エリア28へと二人のCIMSを護送する船の中で目を光らせる久瀬に、おずおずと少女が話しかけてきた。

 しっかり栄養を取って寝たおかげだろうか、昨日までの精気の無さはすっかり影を潜め、今はキラキラと輝く海原を興味深そうに眺めながら療養食のパウチを口にしている。
 適当に買ってきた療養食の中に混じっていた明太子味が、どうやら随分お気に召したようだ。……CIMSとは塩味以外を避けがちだというのは、都市伝説だったのか。

「ん? ああ……まぁ、始末書くらいはな。報告を上げられた以上仕方が無い」
「あ……ごめんなさい……」
「なに、問題はない。いつものことだ」

 しゅんとしょげる少女に「お替わりはいるか?」と新たな味の療養食を差し出せば、途端にぱぁと彼女の顔に笑顔が広がった。

(まったく、警官ともあろう者が……いたずらに弱者を怖がらせるとは)

 つい半刻ほど前、たまたま同じ船に乗っていた久瀬の同期が声をかけてきた。
 そして彼は療養食を食べている二人を見るなり威圧的な態度を露わにし、その場で逮捕しようとしたのである。
 久瀬が慌てて止めれば「警察の癖に不法移住を幇助する気か!!」と彼は大声で叫び始める。

「貴様、政府を裏切るのか!?」
「いや、べつにそんな気は無い。そもそもこれは『ボス』の命令だからな」
「はぁ?」

 怪訝な顔をする同僚に九条の手配した書類を見せれば、今度こそ彼は怒り狂い、軽蔑の眼差しを久瀬に向けた。
 政府直轄領以外に出向経験の無い彼からすれば「ならず者の集まり」でしかない自治区域の軍門に警察が降っているなど、許せるものでは無いのだろう。無明の正義に酔う頭の中は、何とも平和でめでたいことだ。

「あんたがどれだけ吠えたところで、自治区域の警察が支配者の犬であることは変わらないっすよ。そうしなきゃ、俺達はあそこで生き残れない」
「……はっ、プライドも正義感も捨てて、何が警察だ! この恥さらしが!!」

 今回のことは上に報告するからな! とその場で通話を始めるもどうやら裏事情を知る上から取りなされたのだろう、いくつかのやりとりの後は彼は忌々しげにこちらを睨み、去って行った。
 お陰ですっかり怯えきって床に土下座したまま謝罪を叫び続ける二人を、久瀬の力で落ち着かせるのは随分骨が折れた。

 ……もしやと思って少女の食い意地にかけたのが正解だったのは、何とも複雑な気分ではある。

「……なんで、助けたんですか」
「ん?」
「おまわりさんが叱られるって、分かってるのに……それに、これまで僕たちを助けてくれる人なんて、いなかったのに」

 パウチを手にすっかりご機嫌になった少女の隣で、少年はまだどこかすまなそうな顔をして久瀬に問いかける。
 さっさと始末書を書いておこうとタブレットを開いた久瀬は、そんな少年にこれまで何度も繰り返してきた答えを返すのだった。

「何、大した理由じゃない。……あそこでお前らを見捨てるのは俺にとって正しくなかった、それだけだ」


 ◇◇◇


「しかしまさか二人が結婚するとは思わなかったっすね……あ、至恩さんこれ、結婚祝いっす。たいしたものじゃないですが」
「あ、ありがとうごじゃいましゅっ!」

 うだるような暑さを蝉の鳴き声が助長する夏のある日、SMクラブ「White Abyss」に一人の警官が訪ねてきた。
 汗だくの警官が「ちわっす、見回りっす」と声をかけた途端、待機室はぴしりと凍り付く――これもまた、いつもの光景だ。

 そんなキャスト達の異変にも久瀬は動じることなく、矢郷が出してきた冷たい麦茶を一気に煽り、茶菓子……というには随分な量の差し入れをいつものやる気の無さそうな顔でもぐもぐ頬張っている。
 いつもながらこの人の心臓はどうなっているんだ、と至恩は「あれ……食べてみても良いかな?」と明らかに無謀な挑戦を企む詩音を諫めつつ、ちらちらと久瀬を眺めていた。

(分かっちゃいるんだけどさ……やっぱり怖いものは怖いんだよね……)

 ここは統合された世界で、自分達はもう二等種では無いし、久瀬も調教管理部長ではない。
 同じ人という立場になったと頭では理解していても、長年植え付けられた人間様への服従心が消えないのと同様、央を悩ませる作業用品として浴び続けた塩対応の数々はふとした事をきっかけに頭の中を過って、今もあの頃の自分へと心を縛り付けている。

「うぅ……何でオーナーは平気なんですかぁ……ひぐっ、ごめんなさい、ごめんなさい、もう許して下さい……」
「お前こそいい加減に慣れろ、ナツ。すみませんね久瀬さん、いつもいつもこんな状況で」
「いや仕方ないっすよ。俺と平然と話せる矢郷さんがむしろ凄すぎるだけで」
「まぁ……俺はN型だし、詩音達と違って小さい頃から訓練も受けてますから」

 ナツに至っては、待機室の片隅でガクガクと震えながら……何故かディルドに向かって必死に謝っている。
 あの奇妙な行動は久瀬と相対したときにだけ出るんだよな、と首を傾げる矢郷に相槌を打ちながら(そりゃそうもなる)と、この世界で唯一統合前の記憶を持つ至恩達は互いに顔を見合わせるのだった。

 ――そう、自分は統合前の記憶を持っている。
 けれど、統合後の世界における「記憶」が始まったのは、この世界で二人暮らしを始めたあの日からだ。
 今、目の前で久瀬と矢郷が話しているこの自治区域に至恩達が来た頃の出来事は、あくまでも後付けで書き込まれた記録でしかない。
 そこに感情は付与されず、どこか感慨深げに語る久瀬の行動の意味も未だ分からないままだ。

 ……分からないけれど。
 統合の日に久瀬が初めて見せたどうしようもなく人間らしい慟哭と、自分を許さなくて良いと言い切ったあの言葉は、例え覚えていなくても彼を彼たらしめているように思う。

(みんな、そのまま続いているんだよね)
(うん……あの世界で歩みを止めてしまったのは、一人だけなんだよ……)

 矢郷から聞かされた久瀬の保護活動に思いを馳せ、確かに世界の統合は断絶ではないのだと、二人は小さな痛みを噛みしめていた。


 ◇◇◇


 しんみりしている二人の前で、矢郷達は相変わらず当時の話に花を咲かせているようだ。
 N型のCIMS自体が非常に希少で対応出来る後見人が同じN型である矢郷しかいなかったこと、二人同時の受け入れは初めてで、しかもあの頃はナツが一時的に不安定になることが多く多忙を極めていたこと……二人の記録にしかない話に、色と温もりが付け足されていく。

「まぁ、生活訓練はゼロからだったから大変だったが、ナツに比べりゃ聞き分けも良かったし何より大人しかったからな。随分楽だった」
「矢郷さん、それは比べる相手を間違えてるっすよ」
「ああでも、あれはびっくりしたな。二人暮らしを始めた瞬間に無断外出して……元エリア39まで行ってしまったんだ。お陰で組長にこってり絞られた」
「は!? エリア39って、首都の近くっすよ! 良く二人だけで出かけましたね!」
「しかも詩音が欲望に負けてラーメンなんか食っちまったせいで、帰ってきて説教もそこそこに病院送りだったしな。食い意地の張ったCIMSなんて、ナツとは別の意味で珍獣だぞ」
「あはは……あの時はすみませんでした……」

 矢郷の語る二人の武勇伝に「しかしまた、どうしてそんなことを」と久瀬がこちらを向く。
 至恩達はエリア39が自分達の故郷であること、ただ生まれて間もない頃に大災害で水没したため記憶には残っていないこと、二人暮らしを始めたときに、一度は見ておきたいと思ってそのまま勢いでバスに乗ってしまったことをつれつれと話す。
 ふんふんと話を聞いていた久瀬は「それで、どうでした?」と何気なく二人に尋ねた。

 ――一瞬、二人の顔が強張ったことには、気付かれなかったようだ。

「…………何も、無かったです。本当に……何も……」
「……そっすか」

(お、怒られちゃうかな……)
(だだだ大丈夫だって! 久瀬さんは管理官様の記憶は無いんだし!!)

 心臓が痛いほど高鳴る中、あくまでも平然を装って至恩達は久瀬の様子を固唾を呑んで見守る。


『その穢れた力で歴史ある一族を滅ぼして、満足したか?』


 あの日、怒りを押し殺して放たれた問いかけに、二等種という地上とは関係の無いモノへと変貌していた自分は、答えを見出せなかった。
 統合後の世界で真っ先に向かった先がエリア39だったのも、きっとこの言葉が引っかかっていたせいだと思っている。

 そうして得た答えは、きっと「管理官様」の怒りと軽蔑を煽るだけだろうと思いつつも、久瀬からの問いかけに嘘はつきたくなくて。
 もっと寂しいとか何か思うかなって思ったんですけど……とやや言い訳がましくもごもごと呟いていれば、久瀬は意外にも「まぁ、そんなもんじゃないっすか」とあっさり受け入れてくれたようだ。

「大災害で水没したのって、赤ちゃんの時ですよね。両親との思い出もないなら、ルーツを知ったってので終わりじゃないすか? それでも見てみたくなったって事は、きっと記憶に残らずとも……温かい何かがお二人の中に残っているんすよ」
「……そっか、そうですよね」
「正直ね、俺がこの街で警察官として何とかやっていけているのも、同じようなものですしね」
「へっ」

(久瀬さんが……笑ってる?)
(え、初めて見た……管理官様の時にもなかったよ、こんな顔!)

 久瀬は小さく微笑みながら、そっと胸に手を当てる。
 それはまるで、何かとても大切なものを抱き締めるかのようで。

『自分に恥じない正しいことをしたならば、例え周りがそれを非難しようが堂々と胸を張れ』
「……え」
「俺の、ここに……いつからかも分からない、この言葉がずっとあるんです。温かくて、大切で……決して裏切りたくない、信念が」
「!!」

 どこで聞いたのか、誰かにかけられたのか、必死に記憶を辿っても全く分からない。
 けれど、この言葉とかつて言葉をかけてくれたであろう人の存在が、今自分をこの地で生かしあなた達のようなCIMSを保護する活動に繋がっている――そう語る久瀬の瞳は、とても愛おしい、けれど遠くに行ってしまった誰かを偲ぶかのようだ。

 その目には、覚えがある。
 だってそれは……あれから半年の月日が経っても、未だふとした時に互いの瞳に色濃く映るものだから。

「だから、きっと行ったことには意味があったんですよ。っと……もうこんな時間か。すみません矢郷さん、長居してしまって」
「ああ、見回りご苦労さまです。また飲みに行きましょう」
「そうっすね、今度こそ俺奢りますんで」
「……それは期待しないで待ってます」

 ぺこりと頭を下げて街の雑踏に消えていく久瀬を、二人は呆然と見送る。
 それは思いもかけない想い人との邂逅で、ああ、このままでは部屋の中には戻れない――

「――央、君の欠片は……こんな所にも残っていたよ……!」

 茜色に染まる空に向かって放たれた至恩の言葉は、少し震えていて。
 ぎゅっと隣で手を握りしめながら空を見上げる詩音の眦は、夕日に光っていた。

© 2026 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence