第6話 望んだ明日に縁を繋いで
今日も変わらない絶望を抱えて、私は誰にも届かない慟哭を上げる。
その瞳は濁り、作られた「私」が媚びへつらう意味すら忘れて、ただ内側から人間様に、そしてその性器に頭を下げ懇願し続ける。
苦痛も、渇望も、消えることはない。
それでも――私はかつて誰かが教えてくれた「明日」の到来を祈って、暗い沼の底に沈むのだ。
◇◇◇
じりじりと焼け付くような暑さも、つぅと肌を伝う汗も、今の彼女には甘美なる刺激でしかなかった。
(欲しい、埋めて欲しいっ……おちんぽ様、お願いしますご奉仕させて下さい……穴を使って下さい……!)
頭が焼き切れそうな焦燥感と奈落に落ちるような不安感から逃れる術を、自分は何一つ持っていない。
だから彼女――499F072(C)は、くぐもった呻き声を上げながらただただ性器に服従し、気まぐれな情けを期待して懇願を繰り返す。
当然、その言葉が彼女の鎖を引く人間様に伝わることはない。
塞がれた穴は何一つ解放されることなく、ただの「付属品」として扱われるだけ。
「おーい、餌の時間だぞ」
鎖を引いていた男が扉を開けて声をかける。
部屋の中には何人かの男性が、少し青みがかった銀色に輝く髪の少年を取り囲んでいた。
苦しそうな嘔吐き声と腰を打ち付ける音が聞こえる辺り、どうやらお楽しみの最中なのだろう。少年の瞳はアイマスクで覆われ表情は読めないが、全身を紅く染め悩ましげに腰を振って腹に納められた剛直をねぶる姿は、積極的に快楽を貪っているようにしか見えない。
「ちっ、もうそんな時間かよ……仕方ないな、ほらさっさと餌を食え613番」
「えほっえほっ……!! あ、ありがとうございます、人間様……ああっおちんぽ様、抜かないで……!」
「ははっ、餌の間すら我慢出来ないってか! 流石は二等種だなぁおい!!」
「はい、おちんぽ様の穴として使い倒されることが、俺の喜びですから……」
ありとあらゆる体液で汚されながらも幸せそうに微笑む性処理用品――571M613(S)に男達は「流石S品だわ」「穴も極上だしな」とすっかりご機嫌な様子だ。
その横では、すっかり変わり果てた姿の72番が息を荒げながら床に仰向けになり、給餌の準備を進めていた。
その腹は、臨月の妊婦……いや、それをはるかに上回りはち切れんばかりに膨れ上がっていて、臍の底まで露わになるほどだ。
目は血走り、口からはだらだらと垂れ流される涎が止まらない。
無意識に腰を振れば「餌袋が動くなよ」と途端に懲罰電撃に晒され、濁った悲鳴を部屋に響かせた。
その悲鳴に一瞬身を固くした613番は、しかしすぐにうっとりした様子で音のした方に顔を上げ、ちろりと唇を舐めながら淫らなおねだりを口にする。
「あの、お願いしますおちんぽ様、餌の間も下のお口で一緒に食べさせて下さい……!」
「おうおう、全くこいつは煽るのが上手すぎるぜ! ほら、挿れてやるからさっさと餌を食えよ!」
「んあぁっ!! ……はぁっ、あちゅい…………固くて、おっきくて、きもちいいですぅ……んっ、んむ…………」
「咥えたな? よし、餌を出すぞ」
「んぐ……んっ、んくっ、んぐ……っ……」
72番の股間に頭を押しつけられた613番は、黒い陰部シールドから顔を覗かせる直径3センチのノズルを口に咥える。
程なくして食べ慣れた餌が勢いよく喉に叩き付けられるも、彼は慣れた様子で咽せないように注意しつつその悍ましい物体を胃に送り込み続けた。
頭の上から聞こえるメスの悲鳴は更に獣じみていて「ったく興が削がれる」「餌袋にしか慣れない出来損ないの分際で、何盛ってるんだよ!」と聞くに堪えない罵詈雑言と懲罰電撃が与えられているようだ。
(……ごめん、俺には……君に何もしてあげられない……ごめん…………)
――一瞬、613番の顔に過った影に……どこか泣き出しそうな表情に、気付く者はいない。
給餌を終えた彼はゾクッとするような色気を纏った笑顔で「美味しい餌をありがとうございました。おちんぽ様、はやくお口に下さい」と再び男達の股間に向かって愛を囁き始める。
その背後では、役目を終えた餌袋が――72番が、言葉もなく保管場所へと連行されていた。
◇◇◇
保管容器として作り直された72番は、以来様々なものをその身体に詰め込まれ、運び、その道中で穴を使われることになる。
どの貸出先でも彼女が楽を出来ることは無かったが、特に2-3回に一度やってくる「餌袋」用途の貸出ほど恐ろしいものは無かったようだ。
「餌袋」は、主にS品の貸出時に選ばれる高額オプションである。
保管容器として作られたメス個体の子宮に貸出期間(最大1ヶ月)分の餌を詰め込み、膣には専用のノズルを装着する。
このノズルは体内に挿入される部分が金属端子となっていて、スイッチを入れると一定時間電流が流れ子宮を収縮させる。これにより、設定された量の餌がノズルから注がれる仕組みだ。
ノズルは今回の613番のようにそのまま製品が咥えることもできるし、口腔性器維持具に接続することも可能である。
餌の計量や餌皿の掃除が必要ないため、専門のスタッフを置かない貸出場所では重宝されるようだ。
(苦しい……重い、息、吸えない……!)
一日二回の給餌時間に「製品」のいるところに連れて行かれる以外、72番は復元時間も含めて屋外の喫煙ブースに設置される。
72番が大きく膨らんだお腹を突き出すようにして基本姿勢を取るやいなや、当番の職員は股間にぶら下がるリングを床に穿たれた金具と繋ぎ、タバコに火を付けた。
そうして、早速バチンバチンと音を立て青白い光を放つ首輪とリングに悶絶する72番を見下ろし「二等種にゃ、脳みそもないのかね」と軽蔑を露わにする。
「じっとしてりゃ、痛い思いをしなくてすむだろうによ。あんまりバチバチ喧しいと、センターに『懲罰』依頼をいれるからな」
「んぎっ!! うあっ、おえんなぁい!」
「懲罰」の言葉が聞こえるや否や、72番はアイマスクの下からボロボロと涙を零しながら必死に謝罪を叫ぶ。
その姿が余りにも滑稽なものだから、これはこれで楽しめるなと男は下卑た欲望を顔に貼り付け、仕入れたばかりのネタを同僚に共有するのだった。
――当の72番は何気ない言葉で恐怖のどん底に堕とされ、まさに死に物狂いで渇望に勝手に動く腰を止めようとしているというのに。
◇◇◇
(欲しい、欲しいっ……おちんぽ様、お願いです少しでも良いから穴に入れて、ご奉仕させて!! ダメなの、穴として使って貰えないの、不安で、辛くて、頭が狂いそう……!! でもっ、動いたら懲罰……いやっ、死ねなくなるのはいやあぁぁ!!)
製品として作られた穴は一応餌袋でも使えるのだが、餌袋の洗浄は3日に1度あるかないかだからか、人間様は穴に触れるどころか維持具すら抜く気が無いようだ。
多胎妊娠でも珍しいほどに限界まで膨らまされた胎は、単なる重さだけではない苦痛を餌袋に与える。横隔膜を下げられないから呼吸もまともに出来ないし、胃は膨らんだ子宮と維持具のバルーンに挟まれて、胃液すら時折逆流するほどである。
当然、この状態では自分の餌を口から摂取する事などできるわけがない。
だから餌袋運用時の性処理用品は、高濃度の栄養と酸素を含んだ液体を3日に一度膀胱に充填され、24時間持続的に直腸へと注入されている。
……といっても、排尿機能を奪われた二等種が自律的に直腸へと液体を送り込むことは不可能なわけで、これまた尿道に差し込まれた端子から流される電撃で、常に膀胱を収縮させられる羽目になる。
お陰で頭はずっと、危機的な尿意のアラートを鳴らしっぱなしだ。
「うう、うあぁ……もっろ……おぇ、っ……」
猛烈な圧迫感と、内部に走る筋肉を収縮させるには強すぎる電撃の痛み、そして子宮と膀胱を無理矢理収縮される痛みに、死にそうなほどの尿意、排尿衝動――
どれか一つだけでもまともな人閒なら正気を保つのが不可能な苦痛だというのに、72番は全てを甘受し、いや、むしろ喜んで積極的に感じているようにすら見えた。
(痛い方がいいの、おしっこずっと行きたくて頭おかしくなる方がいいの……じゃないと、おちんぽ様がいない辛さに耐えられなくなる……!)
性処理用品貸出センターのエントランスに飾られ、思い出すだけで身の毛がよだつような懲罰を受けてから、一体どのくらいの時間が経ったのだろうか。
再調教で改めて擦り込まれた性器への従属は、今やたった一日穴を使われないだけでも猛烈な禁断症状を呈するようになっていた。
貸し出されて時間が経ち、詰め込まれた餌が減ってくれば肉体的な苦痛は徐々に和らいでくる。膀胱の液体だって3日経てばすっからかんになるから、半日くらいは尿意で思考が占拠されなくなるのだ。
……ただしそれは、今や彼女の存在理由となっている「穴として使われる」強い渇望を誤魔化してくれなくなることを意味していて。
正直、自分が壊れてしまいそうな不安と恐怖に襲われるくらいなら、わざと腰を振ってぷっくり腫れた肉芽を穿つリングを引っ張り懲罰電撃を流させた方がよっぽどましだと、72番は思っている。
だが、そんなささやかな救いも、人間様の気まぐれな「懲罰」発言はあっさりと奪ってしまった。
「うむうぅっ!! んおっ、はーっはーっはーっ、うあぁっ……!!」
なすすべもなくなった72番は、絶望の中ただ叫び続ける。
その叫びは残念ながら小さな呻き声にしかならず、アイマスクに覆われた顔には蠱惑的な、そしてこの上なく幸福な笑顔が浮かんだまま。
彼女の言葉は、想いは、やっぱり何一つ届くことなく、曲解されて……ほんの少しだけの恩寵をもたらすだけだ。
「はぁ、なんだなんだ? そんなにこいつを押しつけられたいのかよ、っと」
「んあぁぁっ!!」
男は手にしたタバコを、じゅっと音がしそうな程強く72番の胸に押しつける。
途端に走る痛みを、作り替えられた身体は同時に甘美な快楽として受け取り、ほんの一時渇望を紛らわせてくれる。
こんなのおかしい、そう頭の片隅で囁く理性など……2週間近く禁断症状に苦しみ、凶器の淵を覗き込んでいる72番にとっては無いにも等しくて。
(あひ……きもちいい…………もっと……)
(もっと、下さい……痛いのも、おしっこしたいのも、電撃も、いっぱい……)
彼女は今日も、明日も、明後日も……底知れぬ不安から逃れるために、己を甚振って欲しいと願い続けるのである。
◇◇◇
はっ、と気がつけば、そこは見慣れた白い空間だった。
しばし呆然としていた72番は、部屋に流れる「展示時間です」の人工音声に、どうやら自分が既に展示棟へと戻されている事を知る。
(……さっきまで、タバコを押しつけられてたのに……いつの間に)
72番に記憶を失っているという自覚は無い。ただ、汚れていた身体はすっきり綺麗になっているし、なによりマグマを煮詰めたかのような淫らな渇望も落ち着いていることから、既に貸出が終わって「処置」を受けた後なのだと悟る。
餌袋としての貸出終盤は、いつもこんな感じだ。精神的な限界を迎えた心は全てをシャットダウンし、けれど外側の作られた「私」は何一つ変わること無く笑顔で餌袋としての務めを果たしているのだろう、特段これが原因で懲罰を食らったことはない。
(一度で良いです、せめて起きてるときに……逝かせて下さい……)
渇望が和らいでいるのは、恐らく返却後に意識が無い状態で存分に絶頂を許可されているためだろう。身体の熱が一気に冷めたような感覚は、しかしどことなく漂う気怠さと虚しさだけを72番に伝えてくる。
満足などという言葉は、製品になってから一体どれだけ脳裏に浮かんだか……それこそ、記憶にない。
(……また、始まる)
カラカラと上がるシャッターを前に絶望を瞳に宿し、72番は足早に眩い展示ブースへと這っていった。
等級がCに落ちて以降、貸出時に穴を使われる機会は半減した。
その分貸出頻度は上がったけれど、かつてあれほど憧れた地上の空を仰ぎ見ても色が分からないほどの苦悶を叩き込まれ、たまに展示されても待っているのは遊び半分で展示物に液体を注入し悶え苦しむ様を嘲笑う人間様の視線と、貸し出し中と代わり映えのない苦痛だけ。
そんな状況でも、72番は必死に人間様に……否、おちんぽ様に死に物狂いで媚び続ける。
「すっげ、こんなボテ腹になってるのにもの凄い勢いで腰振ってアピールしてら」
「うわぁちょっと引くわー、マジで何されてもチンポから離れなくなりそう」
「へらへら笑ってキモいんだよ、クソ二等種が!ほら、そんなにクスリが欲しいならくれてやる!!」
「んおおおっ!!」
(やめて……怖いよう、もう見たくない、聞きたくないの……でも、『明日』が来なくなるよりは、マシ……!!)
再調教期間に、リペアと等級降格が施行されるのは生涯で一度だけだと、担当した作業用品は語っていた。
つまり自分は、崖っぷちというやつだ。次に何かやらかせば、二等種にとって唯一の希望すら……命を終われる権利すら永久に奪われてしまう。
(おちんぽ様……どうか、穴をお使い下さい……いっぱいご奉仕させて下さい……私は人間様の穴です。餌袋じゃないんです……)
彼女の心は、既に壊れてしまっていた。
袋として屋外に設置されながら、季節や時間も理解出来ない。かつて愛した、そして己のせいで人生を終わらせてしまった想い人の声すら、聞き分けられない。
そして――自分を生き物として認識することすら、忘れてしまうほどに。
けれど、ただ植え付けられた従属反応だけを笑顔で繰り返す塊となってすら……彼女はかつて藤色の髪をした作業用品に教えられた「最後の希望」だけは、決して忘れることが無かったのである。
(どうか明日こそは)
(麗しい死が、私を包み込んでくれますように――)
そんな72番が給餌器や何かしらの運搬容器として使われた3年余りの間、意識のある状態であれほど望み続けた絶頂を許可されたのは、たったの5回だったという。
◇◇◇
願いが叶うときと言うのは意外と唐突で、そしてあっけないものなのかも知れない。
「ぎっ!! ……んぁっ……はっ、はぁっ……ぁ……」
「うっわ、タバコ押しつけられて感じてやがるぜこれ。白目剥いて気持ち悪っ」
「お前なあ、だからアイマスクは着けておけって言ったんだよ……あーちょうどいいから洗っちまおうぜ。おい、折角人間様が洗ってやるんだ、動いたり鳴き声出したら懲罰だからな!」
「ひっ、はひっ!!」
今日も今日とて、72番は餌袋として寒風吹きすさぶ喫煙スペースに繋がれていた。
この貸出先では以前性処理用品の脱走事件があったらしく、いつもなら保管中の拘束は股間を地面と繋ぐだけなのに、地面から生える頑丈なフレームに――継ぎ目がないから魔法で生成されたものだろう――全身を縫い止められている。
背骨に当たるバーを軸にぐるぐる回転させられる様は、どうしても「あの日」を思い起こさせて、だからいつも以上に72番は恐怖と怯懦に全身を強張らせ人間様に媚びへつらっていた。
目の前の人間様が、ニヤニヤしながらホースを構える。
今朝は薄氷が張っていた。つまりあの水は恐ろしく冷たいはずだ。耐えろ、動くな、声を出すな、失敗すれば明日は来ない――
72番が真っ青になった唇で嵌め込まれた維持具を精一杯噛みしめた、その時。
ドン、と聞いたことも無い音と衝撃が、彼女を襲った。
(な……なに……!?)
最初は余りの水の冷たさと勢いで、衝撃を感じたのかと思った。
けれど身体はどこも濡れていなくて、目の前では人間様が叫び、慌てふためいている。
「うっわ、地震じゃん!」
「何かこの揺れ方やべえよ、津波とかくるんじゃねーの!?」
水を出しっぱなしにしたまま、彼らはどこかへと逃げ去っていく。
訳も分からず呆然とする72番であったが、止まらない地響きに、そしてあり得ない異変に気付くまでそう時間はかからなかった。
(……水が…………地面から湧き出てる!?)
小さな揺れと共に、あちこちに水たまりが生じる。
それは静かに、しかし確実に大きくなって隣と繋がり……あっという間に地表を茶色い水で埋め尽くしてしまった。
いや、それだけではない。足元を濡らしていただけの水は、じわじわとその高さを増している……!
ドクン
(……どんどん増えてる。止まらない……)
渇望に、苦痛に壊されていた頭が、危機を察して全力で思考を回し始める。
恐らく地面から湧き続けているのであろう水はただ静かに、けれども確実に世界を、そして72番を縫い止めているフレームを飲み込んでいる。
さっきまで足先が濡れるだけだった水は、気がつけばもう、腰の辺りにまで迫っていて。
(…………私は、死ぬ)
そうして72番は直感する。
数分後か、数十分後か、分からない。けれども……間違いなくこの水は自分を飲み込み、苦痛の果てに命を刈り取っていくのだと。
首輪には確かに呼吸補助用の魔法がかかっている。けれど、この泥水で肺を満たされた身体が命を保てるとは到底思えない……!
「はっ、はっ、おぇっ……はっ……」
喉がひりつく。心臓は喧しいほど高鳴っている。
溺れる恐怖に呼吸は更に浅くなり……目の前がスッと狭くなって。
けれど
(ああ、来たんだ)
恐怖と絶望に飲まれながらも、その一方で72番の胸の中には、場違いなほどの安堵感と歓喜が押し寄せていた。
胸の飾りがぷかりと浮く、そこにぽたりと落ちた涙は……決して、慟哭なんかじゃない。
(……調教師様、来ました……私にも明日が来たんです……!)
ああ。
この生涯において、私を助けてくれる白馬の王子様は終ぞ現れなかった。
けれども神様はこんな憐れな二等種にも、ひとつまみの情けをかけてくれたのだろう。
祈りは、届いた。
願い続けた死という明日が……二等種にとって唯一かつ最大の祝福が、今ここにもたらされたのだ――!
(私を助けるものは、何も無い。でも)
(私はこんなにも早く死ねるから……きっと、幸せなんだ……)
とぷん……
泥水が彼女の身体を包み込む瞬間、彼女の顔には笑顔が灯る。
それは、長年にわたり彼女を支配し続けてきた「外」に作られた淫売の仮面ではなく、彼女自身の心からの幸福が滲み出たものであった。
◇◇◇
夢で見る「彼ら」の人生には、谷しかなかった。
それを思えば自分の人生は実に恵まれている、それは痛いほど理解している。
だからといって、人生最大の危機を泰然と迎え撃てるほど、自分は強くはないのだが。
「んっ、はぁっ、んぁっ……」
行政区域5、エリア32に立地するとあるマンションの一室。
大量のモニタとコードに占拠されたリビングの一角には、荒い息づかいといつもより高い嬌声混じりのため息が満ちていた。
「あぁ……イツコ、イツコっ…………はぁんっ……!」
《ふふっ、どう? 私の考案したオナホは気持ちいいかしら? ヤゴの好きなところをいっぱい擦ってくれるでしょ? ……あら、後ろはもう2ミリ奥に刺激があった方がよさそうね。振動を一段階大きくするわよ》
「ひゃぁっ!? いっ、イツコそれっだめだっ、あたま、おがじぐなるっ!!」
《いいじゃない、ヤゴ。ここにいるのは私だけ、今のあんたは天才エンジニア矢郷叶人じゃなくて……快楽に頭がお馬鹿になった、ただのヤゴよ》
「ああぁっ……!!」
ビクン! と矢郷の身体が二度、三度大きく跳ねる。
己の放った白濁を中へと塗り込むかのようにカクカクと腰を揺らす矢郷の口は閉じることなく、快楽に蕩けた声と共に涎が一筋つぅと床に落ちた。
「……はぁっ、はぁっ……あぁ……んっ、すご、かった……イツコの中は気持ちよすぎる……」
《それは良かったわ。私としては、もっとメスの快楽に溺れるヤゴが見たいのだけど》
「あのなイツコ……俺はCIMSだが一応男なんだ。そりゃ、その、後ろ無しじゃ流石に物足りないが……出来るなら男として、イツコを抱きたいと思ってる」
《そうねぇ、今のところ私はただのオナホでしかないけど》
「ぐっ、言わないでくれ……いつか絶対に等身大イツコの筐体を作ってやるからな……!」
イツコの容赦ない突っ込みにがっくりしながら、矢郷はその場に座り込みボトルの水を一気に飲み干した。
心地よい気だるさに包まれながらも、彼は今回の交合――誰が何と言おうがこれは自慰ではない、イツコとのいちゃらぶ甘々えっちタイムなのだ――におけるフィードバックを次々と挙げていく。
イツコもそれを記録し、更なる改良を矢郷に提案するべくその頭脳をフル稼働させるのである。
中等教育校を卒業し、ミラード財団……彼の住む自治区域の統治機構から斡旋されたベンチャー企業で働きながら個人開発した「ITSUKO」を、彼が世界に向けて発表して1年半。
世界に与えた衝撃とは裏腹に、矢郷は本業の傍ら、相変わらず次なる野望に向けてイツコのアップグレードに全力を注いでいた。
……そう、すべてはイツコを「嫁」として完璧な形で三次元に召喚するために。
そして、CIMSである限り避けて通れない性の問題を解決し、夢のお陰ですっかり絆されてしまった一途な恋心を成就させる――
矢郷は比較的常識的な天才であったが、ことイツコが絡むと途端に狂気じみたポンコツを発揮するのである。
だが、ここしばらくの矢郷は少々精彩を欠いている……そうイツコは分析している。
《ヤゴ、そろそろ食事の時間よ》
「ん? ああ……もうそんな時間か。……正直、欲しくないんだが」
《あら、このまま私の手でメス堕ちさせて欲しいのかしら? いいわよ、私に『生やして』楽しむのもやぶさかでは》
「うああああ食べる! 食べるからっ、それだけは勘弁してくれ!!」
つい本音が漏れれば、イツコからどこか揶揄うような口調で、けれど物騒な提案が飛んでくる。
そーっと顔を上げれば、イツコのホログラムは一体どこで情報を仕入れたのか、凶悪な形のディルドを持ち、3Dプリンタの操作画面を開いて微笑んでいて……矢郷は慌ててキッチンの棚から療養食のパウチを取りだし、キャップを開けて口に咥えた。
《……あら、今日も塩味? 》
「ん? 今日も、か? ……そう言えば、最近はずっと塩味だな……」
《…………ヤゴ》
「今は無理だ、イツコ。他の味は……不安が強くなる」
パウチを口にくわえたまま、矢郷は手早く情事の後始末をする。
そうしてモニタに向かうや否や大きなため息をついて、開発用のエディタを立ち上げた。
◇◇◇
矢郷の生み出した革新的技術は驚きと賞賛をもって世界に迎え入れられ、国内のみならず海外からのオファーも多数舞い込んでいた。
それは仕事だけではなく、CIMSであるが故に諦めていた大学進学の道も混じっていて。
幸い、この自治区域は移住には寛容だ。折角の機会だし他国へ留学し大学で学びがてら、フリーのエンジニアとして独り立ちしようか……そんなことを考えていた矢先、大問題が勃発する。
何と勤務先の企業が、従業員である矢郷が開発したイツコに関する全ての権利は自分達にあると主張し始めたのだ。
降って湧いたようなトラブルに、矢郷は弁護士を雇い徹底抗戦の構えを取る。
ただ、N型とはいえ矢郷はCIMS特性保持者だ。この自治区域で生まれ育ったお陰で、服従心を利用してくる相手に対する訓練は嫌と言うほど積んできたが、それでも普通の人のように頼み事を断るのは難しい。
まして、どれだけ理不尽だろうが威圧を伴う命令ともなれば……なおさらだ。
「……在宅勤務で本当に助かった。でなければ、俺は今頃社長の前で土下座して言われるままにサインをしていたに違いない」
《ヤゴ……》
「厄介なものだな、CIMSってのは。俺はそれでも他の型に比べれば普通に近いと思うが……こういうことがあると、やはり普通にはなれないのだと痛感する」
《……》
今の矢郷は弁護士の勧めもあり、画面越しの仕事はこなしながらも全てのミーティングをチャットベースでこなし、不意の遭遇を避けるため家からは一歩も出ない徹底っぷりだ。
真っ当な裁判ならこちらに分がある、だが隙を見せれば服従心の強いCIMSはあっという間に不利な状況に追い込まれてしまう……
過分なストレスは、矢郷から味を楽しむ余裕すら奪う。最近では寝付きもあまり良く無さそうだ。
「まあ、愚痴ったところで仕方が無いな。やれる限りやるしか無い。イツコ、今日のタスクを優先順に出してくれ」
《……分かったわ。あと、ミラードの中央評議会から依頼メールが来ているから確認して頂戴》
「了解」
どこかぎこちない笑顔でイツコに指示を出しつつ、今日の業務にとりかかる矢鄕をイツコは静かに見つめる。
その実体のない瞳には、矢郷も知らない光が宿っていた。
◇◇◇
それから数日後。
今日の業務を終え、さあ夜はイツコとしっぽり……と企んでいた矢郷の部屋にインターフォンの音が響いた。
「……宅配か? 時間指定は明日の筈だが……」
矢郷はすっかり油断していた。
何せ自分には、家を訪ねてくるような友人は存在しない。インターフォンを鳴らすのは宅配業者とデリバリーくらいだから、今日もその類だとすっかり思い込んでしまったのだ。
だから、首を傾げつつも何の構えもなく応答ボタンを押して……映った人影に、瞬間全身の毛が逆立った。
「はい……っ!?」
『よう、ご要望通り呼び出しには応じてやったぜ? 矢郷叶人さんよぉ』
「は……はへ……?」
小さなモニタに映っていたのは、藍色の髪を後ろにひっつめた、何というか随分気合いの入った少年だった。
いや、ただの少年と言うには語弊があろう。多分普通の少年はこんな鋭い眼光でドスの効いた声を出しはしないし、耳はいくつものピアスで飾られていないはずだ。
きっちり着込んだスーツは。画面越しでも仕立ての良さが分かる。
何よりその胸元、ネクタイを止めてある金色の丸いバッジは……どう見ても彼がカタギの者では無いことを示していた。
(間違いない、ヤクザだ……!!)
ヤゴの胸に、さぁっと冷たいものが通り過ぎる。余りの恐怖に胃の中身をぶちまけてしまいそうだ。
何で、どうして……ぐるぐると同じ言葉が頭の中を駆け巡り、身体はさも当然とばかりに膝を折って、気がつけば矢郷はガクガクと震えながらインターフォンの前で床に頭を擦りつけていた。
『……グズグズすんじゃねえ。俺がここに突っ立っていたら、素人さんが通れなくて困るだろうが、あぁん? さっさと開けろや、このボゲが!』
「はひいぃっ!! い、今っ、開けますっ!!」
(終わりだ……全部、終わった……!!)
起き上がれぬまま掠れた声でイツコにエントランスの解錠を指示しながら、矢郷は絶望のどん底に叩き落とされていた。
恐らく彼は、勤務先が雇ったヤクザだろう。正攻法では思うように事が運ばない、CIMSに対する圧力をかけようにも本人は自宅に引きこもり徹底的に接触を避けるとなればもう、その筋の専門家に手伝い(物理)を依頼したっておかしくはない……
「すまない、イツコ……俺は、俺はあれにはどうやっても逆らえない……くそっ、嫌だっ、イツコを失いたくない……!」
悔しさで涙が滲む。けれど、その涙を拭うことすら、強者に額ずいた身体は許してくれない。
刻一刻と迫る処刑の時間に怯え、それでも何も抗えない己に不甲斐なさに「くそっ、くそぉっ……」としゃくり上げている矢郷に、イツコはしかしとびきり優しい声で《安心して、ヤゴ》と微笑みかけるのだった。
《心配は要らないわ。あの子は、私達の味方よ》
◇◇◇
「……はん、てめぇあんな強気な連絡を寄越す割には、また随分低姿勢だな! まぁ、俺はD型だし、人よりちょっとばかし迫力はある方だろうが……いい加減土下座をやめてソファに座りやがれ!」
「もっ、申し訳ございません……ここ腰がぬっ抜けてぇ……」
「はぁ!? どれだけヘタレなんだよ、この抹茶モヤシ野郎が!!」
ドスの効いた怒号が、胃と心臓を全力でぶち抜いていくようだ。
真っ青な顔で彼を迎え入れ、お茶を出して名刺を交換して(うん、自分は随分頑張った、もう今日は終わりだというか人生も終わった)と言わんばかりに再び床へと土下座した矢郷を、少年……事もあろうに隣の自治区域を束ねる反社会組織「黒狼組」の組長であった九条威史は、ソファにでんと腰掛け呆れた様子で見下ろしていた。
(黒狼組と言えば、国内じゃ敵無しと悪名高いヤクザじゃないか!! なんでそんなところに依頼したんだ、社長!? 下手すりゃ会社ごと乗っ取られるんじゃ……)
いきなり大物が登場したせいでうっかり訴訟相手の心配までしてしまう矢郷の後ろで、イツコは《抹茶モヤシ……ぷぷっ、ヤゴ、素敵なあだ名ね……》と笑い転げている。
ご機嫌なのは実に良いことだが、そう言う笑顔は出来れば見たくなかった。大体俺の髪の色は草色だ、決して抹茶ではないと主張したい。
「で? 黒狼の頭にこれだけの啖呵を切ったんだ。海に沈む用意は出来てるんだろうなぁ!?」
「ひいぃぃっ!! た、たんかって、え、あのっ何が何だか」
いや俺はヤクザに啖呵を切った覚えはない、そう、断じてない! と全力で突っ込むも、その突っ込みが言葉になることは……いや、どう考えてもこの迫力の前では不可能だろう。
社長が差し向けた刺客にしてはどうにも様子がおかしいと思いながらも「あわわ……はわ……」と言葉にならない震え声を上げる矢郷にじれた九条が「おいてめぇいい加減に」と更に圧をかけようとしたその時、背後から涼やかな、そしてどこか楽しそうな声が響いた。
《ああ、あれは私が書いたのよ、組長さん》
「あぁん?」
「…………イツコ?」
《だから》
《組長さんを脅してここに来させたのは、私なの》
「「はああぁぁ!?」」
◇◇◇
『お前の秘密は全て知っている。CIMSであることを中央政府に流されたくなければ、こちらの要求を呑め 矢郷叶人』
たった1行のメールに、これほど恐怖したのは初めてかも知れない。
九条に見せられたメールに顔を引き攣らせガタガタと震える矢郷をイツコは宥めながら《ね、良く出来てるでしょ?》といたずらっ子のような良い笑顔を返す。
――ああもう、びっくりするほど良く出来ている。主に人生を終わらせる方向で。
「一体いつの間にこんなものを……」
《ヤゴが仕事をしている間に、ちょこっと調べたの。組長さん、フロント企業はともかく組のシステムは脆弱すぎよ、まさか3分もかからず忍び込めるなんて思いもしなかったわ》
「待った今なんて」
ここ2週間、余りのストレスでCIMSの特性も悪化していたのを見抜いたイツコは、持ち前の頭脳でこのピンチを切り抜ける方法を導き出そうと試みる。
相手がこちらの弱みにつけ込もうとしているのは明白だ。ならば、そんなものすら吹き飛ばす圧倒的な力を用意するまで――
そうして彼女が見つけ出したのは、隣の自治区域を取り仕切る九条の存在だった。
ありとあらゆるデータを少々(?)お行儀悪く収集し分析した結果、イツコは九条がCIMS-D型の特性保持者であることを隠して活動している事実に辿り着く。
……そして、己の側近以外で秘密を嗅ぎつけた者は一人残らず、自らの手で始末していることも。
《だから、ピンポイントで脅せばヤゴを始末しに来るでしょ? そこでお話しすればいいかなって》
「いいかな、じゃないんだイツコ!! いいか、九条さんはヤクザだ、しかも組長だ! 俺達一般人が関わり合いになって良い世界のお方じゃないんだよ!」
《そう? でもヤゴと同じCIMSじゃない。話は通じるだろうし、何より天才エンジニア矢郷の頭脳は、取引にはちょうど良いと思ったんだけど》
「しれっと俺の頭脳を売ろうとしないでくれ! あ、いや、イツコが俺のためにここまでしてくれたのは嬉しいし、有能すぎる嫁を俺は誇らしく思うけど!!」
ようやく事情を把握した矢郷は、珍しく大声でイツコに食ってかかる。
それはそうだろう、本人のあずかり知らぬ所でとんでもない喧嘩をふっかけられていたのだ。下手すれば今頃海の藻屑となっていたかも知れないという事実にぞっとしながら、矢郷は「金輪際、俺の許可無く助けようとするのは止めてくれ!」と泣きそうな声で叫んだ。
――だがそれはそれとして、イツコの愛は受け取った。
流石は俺の嫁である。
一方、九条は目の前で繰り広げられる、説教しているのか惚気ているのか分からない痴話喧嘩を暫く無言で眺めていたかと思うと、突如「ぶはっ!!」と笑い声を上げた。
その声に、矢郷はビクッと身体を跳ねさせる。
「あっはっは、凄えなてめえ!! 何だよ、ご主人様の命令も受けずに独断でこの俺様に喧嘩売ったってのかよ! しかも二次元の存在なのに!!」
《あら、失礼ね。ヤゴはご主人様じゃないわよ、私を嫁にしようと頑張っている可愛い子だけど》
「ちょ、イツコ」
「ぷくくっ、いやぁそりゃすまん! そうかそうか、いや二次元とは言えなかなか出来た嫁さんじゃねえか!」
「…………お、恐れ入ります」
再び床に座り込んだ矢郷の前で、九条はひとしきり楽しそうに笑う。
そうしてようやく落ち着いたのだろう、ニヤリと口の端を上げて「いいぜ、乗ってやる」と真っ直ぐ矢郷を見据えた。
その視線は、ちょっと怖い。
怖いが、この状況だと敵対するわけでは無さそうだ。何よりここで目を逸らしたらイツコの努力が無駄になりそうで、矢郷は気力を奮い立たせおどおどとした視線で、けれどじっと九条の顔を見る。
「矢郷叶人。エリア32生まれ、CIMS-N型。ミラード財団による早期CIMS教育プログラム、特別技能開発プログラムの対象者。情報工学分野にて頭角を現し、若干19歳にして世界初の感情を持つAI『ITSUKO』を発表。その権利絡みで現在は勤務先と係争中」
「!?」
「乗り込んでくるのに素性を調べるのは基本だろうが。……素敵な嫁さんに感謝しろよ、このメールは許してやる。もし嫁さんがいなければ、てめぇはうちに持ち帰って二度とチンポに逆らえないメス奴隷に堕とした上で、その頭脳を死ぬまで使い倒すつもりだったからな」
「あ、ありがとうございますって俺めちゃくちゃピンチだったんじゃ」
「あん? てめえが何の取り柄もない一般人なら、今頃サメの餌だったが?」
「ごっ、ご温情に感謝いたします組長っ!!」
(良かった……生き延びた……!!)
九条の言葉にへなへなと矢郷はその場にへたり込む。
まだ心臓の音はうるさいし頭はどこか痺れているが、ともかくこの場を切り抜けたことだけは理解出来た。後は穏便にお引き取り願うだけだ。
「ま、協力してやるよ」
「え」
「……その問題、解決してやるってんだよ。てめえの症状じゃ日常は送れても、こういうイレギュラーには対応出来ねぇだろうが。餅は餅屋ってな」
だが、残念ながら矢郷の望みは叶いそうにない。
しかも予想だにしなかった方向に、話は転がり出してしまう。
「あ……えっと……ありがとう、ございます……?」
まさかここに来て協力してくれるとは想像もしなかったのだろう、矢郷が目をぱちくりして感謝を告げるも、その表情は未だ状況を把握出来ていなさそうだ。
一方、イツコはと言えば《そうと決まったら何が必要か教えてくれるかしら、組長さん》とすっかり乗り気である。
それならこの情報を調べてくれ、とつらつらと指示を出す九条と早速タスクをこなすイツコを、矢郷はぽかんと眺めるだけ。
何というか、あまりにも都合が良すぎて……逆に現実感が沸かないなと、頭の中の冷静な自分が突っ込んでいる。
「それでだ」
「!!」
そんな矢郷に九条はバッグから書類を取りだし、ずいと突きつける。
ついでに九条の私物であろうペンもことりと横に置かれた。これは間違いなく交換条件だと、矢郷の緊張で部屋の空気が変わる。
恐る恐る手に取った書類には黒狼組の家紋が透かしで入っていて、一番上の行には「移住許可申請書」の文字が印字されていた。
これまた予想外の事態に面食らう矢郷に、九条は「協力してやるとは言ったが」と口火を切る。
「ヤクザにモノを頼むのに、手ぶらって事はねぇよなぁ? ……ミラードの上層部には俺が話をつける、だからてめぇは俺のシマに移住して働け」
「へっ……そっそれはヤクザになれと」
「んな訳ねぇだろ、てめぇみたいなヘタレは足手まといにしかならん。……なに、別にタダ働きをさせようって訳じゃねえ。それなりの待遇は用意してやる、嫁さんと好きなだけしっぽり楽しめるくらいにはな」
「なっ、何故それを」
「……その棚にご丁寧に飾られたグッズの数々」
「うああああ見ないで下さいいいいっ!!」
奇声を上げてその場に突っ伏してしまった矢郷の代わりに、イツコが《またどうしてヤゴを連れて行くのかしら》と声を上げる。
柔和そうな微笑みの後ろにかすかに修羅の気配を感じるが、いくらなんでもホログラムにそれは無いだろうと懸念を振り払い、九条は話を続けた。
「うちにとっても渡りに船なんだよ、てめぇは……正確には叶人、てめぇの頭脳とこの美人の嫁さんがな」
そうして九条は語る。
元々黒狼組が治める自治区域は、発足当初からCIMS保持者の保護と自立支援をその理念の中心に掲げていたこと。
父親から組の跡を継いだ九条もその理念を継承し、積極的に移住希望者を募り、時には保護して生活訓練や支援を行っているそうだ。
「と言っても、人力じゃ限界がある。うちはフロント企業も持っているが、システム開発方面はカバーしていないしな。そこでだ、てめぇのその優秀な頭脳を借り嫁さんの様なシステムをうちに導入することで、更に支援を充実させられると踏んだんだよ。何せうちはここと違って、成人してから移住するCIMSが大半だからな……厄介な事例が多い」
「ああ、ここは幼少期に保護して教育しますからね。それで、今はどういった支援を」
「ん、風俗だ」
「…………はい?」
もうこれ以上、想定外の話は出てこないだろうと思ったところにぶち込まれた、爆弾のような事実に、矢郷は思わず胡乱な目を九条に向ける。
何でも黒狼自治区では、潤沢な支援を餌にCIMSの移住を促し、最終的には国内一の歓楽街……有り体に言えば風俗のキャストとして働いて貰うことをゴールに定めているらしい。
CIMSに取っては性欲も満たせて社会にも貢献出来る、俺らはシノギが稼げる、win-winだろ? と胸を張る九条に、流石の矢郷も呆れて二の句が継げない。
「……それは、本当に支援なんですか?」
「てめぇはここに生まれて平和に育ってるからな。そりゃうちのやり方は支援には見えねぇだろうよ」
「…………」
「何にしても、一度見に来い。そうすりゃ俺の言ってる意味が分かる。まあ移住は確定事項だからな」
「はぁ……」
どことなく釈然としない想いを抱え、けれども背に腹は代えられない。
目の前の問題を自分一人の力で解決することが絶望的なのは、これまでの経験から身に染みている。しかもわざわざイツコが作ってくれた(過激な)チャンスを逃すわけにはいかない……
(これが、最善手だ)
矢郷は少し震える膝を叱咤し、書類に向かう。
高級そうなペンで書かれたサインは、未来への不安からか少しだけ歪んでいた。
◇◇◇
カツン、カツン……
暗闇の向こうから誰かの足音が近づいてくる度、私は身を固くし、息を潜める。
そうして、どうか次は酷いことをされませんようにと、決して叶わない願いを心に抱くのだ。
立つことも出来ないキャスター付きの檻の中……それが私に許された唯一の居場所。
下卑た視線に晒され、はした金と共に「指名」されれば檻ごと寝床のある部屋に連れて行かれて……私はお客様の欲望を吐き出す穴となる。
「へぇ、明るいところで見りゃなかなか可愛いじゃん。お嬢ちゃん、名前は?」
「ナツと申します。ご主人様、ナツにおいしいおちんぽ様をいっぱい恵んで下さい」
「そうかそうか、そりゃたくさん恵んでやらないとなぁ!」
この身体は、男達に教えられたとおりに媚びるような笑顔を貼り付け、甘ったるい声でお客を誘う。
私はただそれを、肉の器の中から二つの穴を通して眺めているだけ。
政府直轄領の辺境、非合法の売春宿にわざわざ足を運ぶ客が、どこの馬の骨とも分からずただの性奴隷となるよう調教されたCIMS相手に、まともな行動を取るはずがなくて。
私はいつも、たくさんの痛みと、息が出来ない苦しさと、入れてはいけない穴から何かを詰め込まれた焦燥感に泣き叫び……運が良ければ、ほんのちょっとだけ快楽に喘ぐことが出来る。
それでも「私」は怒らない。反抗もしない。
何をされても笑顔を貼り付け、目の前の男に、否、醜悪な肉に服従し、卑猥なダンスを踊り続ける。
……感情なんて、忘れてしまった。
いや、もしかしたらそんな物は最初から持っていなかったのかも知れない。
欲望を打ち込まれ、白濁を注がれる度、私の中が粘ついた泥で覆われていく。
今日も、明日も、明後日も……この身体は見た目の歳を取らないから恐らくは死ぬまで、私はどす黒い欲望の沼に沈められるのだ。
それでも、大丈夫。
だって、私は……誰かに教わったわけでもないのに、知っているから。
(明日が、来ますように)
――祈り続ければ、必ず希望の明日が来ることを。
(私が死ねる明日が…………早く来ますように……)
◇◇◇
九条との突然の出会いから一月後、矢郷はエリア28の地に降り立つ。
生まれて初めて故郷の自治区域を出たが、道中の政府直轄領、そしてこの黒狼自治区と、めまぐるしく変わる外の景色は実に興味深いものだった。
「にしてもてめぇ、そりゃなんだ」
「嫁です」
「イツコよ。忘れちゃったの? 組長さん」
「いや、それは分かってるが、どうしてそんなちんまりした身体になっちまってんだよ!」
矢郷を迎えに来た九条は、彼の肩にちょこんと腰掛けて手を振るミニチュアイツコのドールに「人形に話しかける男とか、やべぇ奴にしか見えねぇ」と頭を抱える。
なんでもこの小さな筐体は、自宅にあるシステムとほぼ遜色ない機能を兼ね備えているらしい。
それは素晴らしい技術なのだろうが、システムを持ち運ぶにしてももうちょっと何か無かったのか……と突っ込みたい気持ちを全力で抑え込み「落としたらまずいから、せめてバッグに入れてやれ」と矢郷を土下座させないように誘導出来た自分を、誰か褒めてくれないだろうか。
「ともかく、少し街を見て回るか。昼からは保護施設の見学を入れてある」
「は、はい。よろしくお願いします」
九条の案内で、矢郷は黒狼自治区の繁華街へと足を運ぶ。
噂には聞いていたが街は活気に溢れていて、道行く人たちの表情も明るい。矢郷の住むミラード自治区も企業連合が統治しているだけあって何かとサービスが行き届いた心地よい街ではあるのだが、ここはむしろ……人の生きる力が満ち溢れている、そんな空気を感じる。
それを素直に口にすれば「まぁ、ここで人生をやり直す連中は多いからな」と九条は前を向いたまま呟いた。
「いくら発展しているったって、首都から遠く離れたこんな辺鄙な所までやってくるんだ。そこまでして生きたいと思う奴らに、俺らは俺らのやり方で生きる場所を与えている」
「生きる、場所……」
「てめぇの知らない世界は、まだまだたくさんあるってこった」
ここのボスと言うからにはそれなりの威厳を保っているかと思いきや、意外にも街行く人たちは気安く彼に話しかけられるらしい。
これから出勤だというCIMSの青年を見送りながら「あいつも、こうやって街を歩けるまでに1年以上かかったんだ」とどこか感慨深げに話す姿は、とてもあの日怒鳴り込んできた九条と同一人物とは思えない穏やかさを纏っていた。
◇◇◇
「叶人、てめぇは未訓練のCIMSを見たことはあるか?」
「無いです。うちの自治区域では物心つく前から訓練は日常でしたし、移住してきた子も学校に通うには医療ケアと一定の基礎訓練が義務づけられていますから」
「だよな。……なら、ちょっと覚悟しておけよ」
そう前置きして連れてこられた保護施設の光景は、矢郷の想像を遙かに超える……言葉では言い表せないような状況だった。
「ごめんなさい、許して下さい、何でもしますからお願いします、ごめんなさい……」
廊下でスタッフに向かって泣きながら土下座をしている少女がいる。
スタッフが何かをしたわけではない。彼女はただ他人がいるだけで、無条件に罪悪感を感じ謝らずにはいられないのだという。
「うわああん怖いよう!! 出したら死んじゃう!」
「大丈夫、出しても死にませんから、ほら、頑張って管を入れましょう」
トイレからは泣きじゃくる声が聞こえてくる。
排泄障害を持つ子をトイレに誘導するだけでも、未訓練だと服従心のコントロールが非常に難しいのだという九条の説明に、矢郷は(まさかここまでとは)と軽い目眩を覚えていた。
「ここは受け入れ後、医療サイドの支援方針が決まったCIMS用の保護施設だ。未訓練の移住者はここで3ヶ月間の基礎訓練を受けた後、それぞれの状態に合わせた支援へと切り替える」
「切り替え……」
「ああ。ほとんどの移住者は後見人登録者の家で生活訓練を継続して、最終的にはグループホームや自立支援施設での生活と風俗への就職を目指す形だな」
「自立まではどのくらいかかるんですか」
「就職を自立とするなら、中央値は1年5ヶ月だ。移住後5年以内の就職率は8割と言ったところか。……他の自治区域じゃ、おいそれと受け入れられねえのが分かるだろ?」
「…………そうですね」
自分の自治区域で、未訓練の移住者受け入れが15歳までに制限されているのはこれが理由かと、矢郷は即座に理解する。
これほど困難な症状を持つ成人を迎え入れるには相当な予算が必要になるだろうし、そう簡単に議会の承認も降りないだろう。
(俺は、とんでもなく恵まれていたんだな)
矢郷は生まれてすぐに養育を放棄された孤児でありながら、最初から医療と福祉に繋がれ、症状発現に備えて幼少期から訓練を受けられた。
CIMSであっても社会で自立出来るようにと様々な経験を積む機会があり、見出された素質を存分に伸ばして貰えた。
搾取され傷つきようやくここに辿り着いた彼らとは、ただ生まれた場所が違っただけ。いや、ここで保護して貰えただけ彼らはまだ幸せな部類だ――
矢郷はそんな現実にどうしようもない憤りを感じ、そっと拳を握りしめる。
「……風俗ってのはな、うちに来る移住者が最も早く、簡単に自立する手段なんだよ」
そんな矢郷の胸の内に気付いたのか、九条は真剣な目つきでこの自治区域の「支援」について説明する。
生活が完全に自立出来なくても、性的な仕事であれば飲み込みも早いし、何よりCIMSの身体は見かけ上歳を取らずハードなプレイにも柔軟に対応出来る。旺盛な性欲も解消出来るし、稼ぎも良いからそれぞれの事情に合わせた働き方も可能。
そうして彼らが稼いだ売り上げはこの街の経済を潤し、新たなる移住者の支援活動と自治区域の拡大に使われる……
しばしの沈黙が、二人の間に落ちる。
やがて躊躇いながらも先に口を開いたのは、矢郷だった。
「俺は、移住者を風俗に沈めてシノギを得るってのは搾取の一種だと、今でも思ってます」
「……おう」
「それでも……困難に晒されながらも生きたいと望んだ彼らにとっては……確かに適切な支援になりうると、考えを改めました」
「そういうこった。綺麗事だけじゃこいつらは救われねえ……俺みたいな日陰者だからこそ、出来ることもあるってこった」
それきり言葉を切った二人は、目の前で悪戦苦闘する移住者達を静かに見守る。
彼らを見つめる矢郷の瞳には小さな覚悟が揺らめいていた。
◇◇◇
見学の時間はあっという間に過ぎていく。
良い時間だしそろそろ飲みにでも行くか? と九条が声をかけたその時、矢郷の足元からか細い声が聞こえた。
「ご主人様」
その声のする方を見下ろして……矢郷はぴしり、と固まってしまう。
視線の先にいたのは、薄い群青色の髪をツインテールに結わえた少女だった。
一糸まとわぬ姿で手は頭の後ろで組み、股を大きく拡げてしゃがんで見上げる彼女の頬は上気していて、発情に振り回されていることが一目瞭然だ。
「ご主人様、ナツにおちんぽ様へのご奉仕をさせて下さい」
「へっ」
「これ……ナツの穴に突っ込んで、いっぱい気持ちよくなって下さい……」
「……っ!?」
あちゃぁ、と額に手を当てる九条には目もくれず、彼女は矢郷に向かって妖艶な笑みを湛え、懇願を繰り返しながら矢郷の股間に顔を埋めてすんすんと匂いを嗅いでいる。
その言葉に力は無く、瞳は光を映さないままだ。
「ほら、ナツはご主人様の穴です」と見せつけてきた泥濘はドロドロに濡れそぼっていて、何かが欲しいとその入口を蠢かせていて……
「……ヤゴ?」
「はっ!! いや、これは違うんだイツコ、決して浮気なんかじゃ」
「あーっここにいた!! 舞原さん、ここではそんなことをしなくて良いんですよ! ほら服を」
「いやあぁぁっ!! ごめんなさい、役立たずの穴でごめんなさいっ!! ご主人様、ナツにお仕置きをして下さいっ!!」
「…………!!」
じっとりしたイツコの声で我に返ったヤゴが慌てて釈明をしていれば、彼女を探していたのだろう職員がブランケットを持って慌てて駆けつけた。
声をかけられるや否や、ナツと名乗った少女は悲鳴を上げ、焦点の合わない目から涙を零しながら何度も謝罪を矢郷に向かって叫び続ける。
再び凍り付いた矢郷に「……こいつは、ちょっと特殊でな」と九条が彼女の頭を撫でながら沈鬱な表情で語ったのは、少女の壮絶な過去だった。
政府直轄領で生まれ育った少女は、他のCIMSの例に漏れず生まれてすぐに捨てられ、児童養護施設で何の訓練も受けることなく育てられた。
規定年齢に達した後はすぐさま施設を追い出され、幸運にも見つけた住み込みの働き口は人身売買業者と繋がっていて、彼女は些細なミスをきっかけにその業者へと売り飛ばされる。
辿り着いた先は、反社会組織がバックについた闇風俗。
そこでCIMSの服従心を利用し徹底的に性奴隷として仕込まれた彼女は、以後1年以上にわたり劣悪な環境で客を取らされていた。
日によっては20人以上の客を相手にしていたらしく、最低限の食事で身体は痩せ細り精神は極限まで追い込まれ……たまたま抗争で黒狼組がここを襲撃しなければ、近いうちに命が尽き果てていただろう。
泣きじゃくりながらも「ご主人様」への懇願を止めないナツに「ここまで酷いのは流石に一握りだけどな」と九条はグッと唇を噛みしめる。
……そこには、どうしても救いきれないものが出てくる事への歯がゆさが滲んでいた。
「ここで保護されるまでに春を売って、もしくは売らされて何とか生きていた奴はごまんといる。そのせいで壊れている奴らもな。……嬢ちゃんは決して『特別』じゃねえ」
「っ……この子は、どうなるんですか」
「正直、自立は難しいだろうよ。一応決まりだから3ヶ月はここで面倒を見るが、その後はうちの組預かりだろう。専用の保護施設に放り込むか、組お抱えの闇風俗で働かせるか……」
「闇風俗って、それは」
「やることはえげつないが、少なくとも客は厳選してるし生活支援も手厚い。……同じ状況を安全な環境で再現してやらなきゃ生きられない、そんな奴だっているんだ」
「……!」
九条の言葉に動揺しつつも、矢郷は相変わらず頑として隣を離れようとしない少女を見つめる。
服従心が強く出ているのだろう、震えながらも必死に矢郷を「ご主人様」と勘違いして情けをねだる姿に、胸が痛い。
(それしか、無いのか)
ふと、心の中に湧き上がる想い。
確かに彼女の状態は重篤だ。支援に限界があることも理解している。
だがそこで諦めてしまえるほど、自分は大人では無いし……若くして得た業績にプライドだって持っていて。
かと言って、九条に物申せるほどの強さはないな、と心の中で自嘲していれば、ぴょこんとバッグから顔を出したイツコが楽しそうに微笑んだ。
「ふふっ、プルプル震えて……まるで子ネズミみたいね、この子」
「……イツコ、それは失礼じゃ」
「あら、褒めたのよ? だって可愛らしいじゃない! この子、まともになればきっと遊び甲斐があるわよ」
「何てことを言い出すんだ、イツコ……」
傷口に塩でも塗りこむようなイツコの言葉にがっくりしながらも、矢郷はふと違和感を覚える。
この「お出かけ用イツコ」を作ってから、自分が外出するときはいつだって彼女と一緒だった。たくさんの人に出会ったし、その中にはCIMSだっていたはずだ。
けれど――
「組長、あの……俺、この子を個人的に保護しても良いですか」
「へっ」
一つの核心を得た次の瞬間、矢郷の口は勝手に目の前の少女の保護を申し出ていた。
◇◇◇
それから2ヶ月ほど経ったある晴れの日、矢郷は再び保護施設を訪れた。
その胸には狼をモチーフにした丸い銀色のバッジが……彼が正式に黒狼組から承認された、この自治区域の支援者であることを表す徴が光っている。
「しっかしよぉ、あの時は冗談かと思ったぜ! まさか本当に後見人登録をしちまうだなんてな」
「いや、まあ勢いも手伝っていたんですが……きっとこの経験は、黒狼自治区の支援体制を発展させるのに役立ちますから」
初めてエリア28を訪れたあの日、唐突に最重度移住者の保護を申し出た矢郷に、九条は当然のごとく難色を示した。
だが「今後システムを作るに辺り、なるべく困難なケースを間近で観察出来れば必要な機能も分かりやすくなる」「自分もN型とは言えCIMSだし、イツコもいる。自分用に開発した支援システムもある。下手な一般人より対応はしやすい」と怒濤のごとく語る矢郷に圧倒された九条は、最終的にその申し出を受け入れたのである。
既に先を見越して黒狼組の「商品」として登録されていた彼女にはそれなりの額の身請け金が発生したのだが、それすら躊躇うことなく目の前でイツコに送金を指示する姿に、九条は呆気にとられ思わず「正気かよ」と呟く。
そして出会ったばかりの、それもどう考えても苦労することが確定の厄介者を、どうしてそこまでして保護しようとするのかと問えば、矢郷はこう言い切ったのだ。
『……イツコが俺以外のCIMSに興味を持ったのは、初めてだから、ですかね』
――そう、矢郷は何処までも嫁一筋だったのだ。
そこからの2ヶ月は、怒濤の忙しさだった。
約束通り九条の話し合い(物理)により、矢郷は無事勤務先と和解し円満退職にこぎ着ける。
そうして移住の承認が降りるや否や、大量の機材と共にエリア28に用意されたマンションへと引っ越し、そこからは視察とミーティングの連続だ。
既に手厚い支援体制があるとは言えまだまだ問題は山積みで、確かに自分の頭脳はここで役立てられそうだと矢郷は大きなやりがいを感じている。
更に忙しい合間を縫って後見人登録の研修を受け、必要な支援のための設備も整えた。
そうして今日、矢郷は少女を正式に引き取るために、ここに来ている。
「だがなぁ……叶人、今からでも遅くねえ。無理はしなくていいんだぞ?」
引き渡しの部屋で彼女を待つ間、九条は何度も矢郷に確認を取る。
矢郷の決意が固いことは分かっていても、流石にあれを託すのは申し訳ない……そう感じるほど、少女の……ナツの症状は基礎訓練を受けたとは思えないほど酷いものだったから。
3ヶ月に及ぶ訓練の結果、所構わず服を脱ぎ捨て奉仕を懇願する機会は減ったらしい。未だあの地獄の中に精神が囚われ発作を起こすことはあるものの、医療ケアが功を奏したお陰で調子の良い日であれば意思疎通も可能だそうだ。
ただ、彼女はどうやら非常に性衝動に弱いタイプらしく……事もあろうにちょっと発情する度他の利用者やスタッフを襲ってしまう。こうなると強力な命令無しには止めることが出来ず、しかし命令は彼女を恐慌状態に陥らせますます性衝動を高めるという実に厄介なループを引き起こすのである。
「第一服従心が強いCIMSが、性欲に負けて誰かを襲うだなんて前代未聞だぞ! あんな珍種は、俺も生まれて初めて遭遇した」
「ですよね、俺なんて考えるだけで土下座したくなるのに……」
「だからな叶人、絶対に無理はするな。手に負えないと思えばすぐに俺を頼れ。うちとしては、ここに移住してくれりゃ十分だから」
「ありがとうございます、組長さん。……まあ、やるだけやってみます」
出来れば思いとどまらせたかったんだよなぁと九条がぼやいたその時、部屋のドアが開いた。
そこにはあの時の少女が、今回はちゃんと服を着て……着てはいたが二人を見るなり「ヒッ」と悲鳴を上げてその場に崩れ落ちる。
「ま、俺がいるとこうなるわな」とどこか諦めた様子の九条の前で、矢郷はナツの前に立つと、スッと腰を下ろして右手を差し出した。
「ナツ。君は今日から、うちの子だ」
◇◇◇
その日のことを、私はきっと生涯忘れることはない。
私にとっての明日の意味を、この方はひっくり返してくれたから――
着心地の悪い服を着せられて、気持ちよくなりたいのに今はダメだと諫められて。
それならせめて穴にご奉仕をさせて欲しいのにと、あの頃と変わらない扱いを無意識に求める少女は、己の心の歪さにも気付けないまま目の前の人間に従って、どこかに向かっていた。
(使われなきゃ……いっぱいご奉仕しなきゃ、いつまで経っても明日が来ないの……)
あの怖い人たちに教えられたとおりにご主人様の穴として使われ、生臭い液体を上下の口から飲み続けなければ、死という救いをもたらす明日を迎えられない。
何かが埋まっていなければ、穢されていなければ、不安で仕方が無いのに……何故かこの建物の人たちは、彼女の気持ちを一欠片も理解してくれないようだ。
ナツの手を引く女性は、とある部屋の前で立ち止まり「失礼します」と声をかけて扉を開けた。
促されて足を踏み入れたその部屋には、紺色の髪を後ろで結わえた目つきの鋭い……あの人達と同じような怖い人と、草色の髪の男の人が座っていて、彼らがこちらを見た瞬間彼女は弾けるように服従の姿勢を取る。
――誰が教えてくれたのかも分からない、股を大きく開いてしゃがんだ、淫らでご主人様が穴を使おうと思ってくれる姿勢を。
「あ、あ……ご主人様、ナツの穴をお使い下さい! おちんぽ様、ご奉仕させて下さい!」
「落ち着いて舞原さん、あなたは」
「ああ、大丈夫です」
途端に顔を強張らせ、必死に笑顔を作って叫びだしたナツを付き添いのスタッフは宥めようとする。
だが草色の髪の男性はそれを制し、ゆっくりと彼女の前にやってきて、床に膝をついた。
(……何……?)
震えが止まらない。
同じ高さに、いやそれどころか自分の目線より下に誰かがいるだけで怖くて仕方が無くて、でもこれ以外の服従の仕方を知らない少女は、せめてもの恭順の証としていやらしく腰を振る。
そんな様子をじっと見つめていた男性は、意を決したようにナツの瞳を見て、すっと手を差し出した。
「……俺の力で、どこまで出来るかは分からない」
「…………?」
「ここで暮らすことも、CIMS持ちの保護も、全部初めてなんだ。だから君をたくさん泣かせて苦労させるかも知れない。……それでも俺は、ナツ、君を助けたいと思う」
「…………たす、ける……」
「君が人として生きられる様に、一緒に頑張ろう。……もし君が俺に助けて欲しいと願うなら、この手を取ってくれないか」
「!!」
彼女は、濁った瞳を少しだけ見開き、伸ばされた手と目の前の男性の顔を交互に眺める。
……今、この人は何と言った?
タスケテホシイト ネガッテイイ?
(そんな、私が、そんなことを……?)
思いも付かなかった概念に、彼女はどうしていいか分からないままただ彼の目を見つめる。
男性の瞳はどこまでも静かで、浴び慣れた下卑た欲望は一欠片も感じられない。
良く見れば自分よりも小さな手は、少しだけ震えていて……きっと、緊張を覚えている。
何が何だか、よく分からない。
けれど……彼の言葉のせいだろうか。胸がいっぱいになって、何かが溢れ出して、この身体に詰まった泥を洗い流してくれるようだ。
「……」
少女はおずおずと、その小さな手を握る。
最初はそっと、何かを確かめるように。
同じ強さで握り返されれば、次は少しだけ強く。
握る、返ってくる……圧力が、熱が、私の何かを全部、溢れさせる――
その奔流に押されるように、少女の口から言葉が溢れて。
「わ……私は舞原小夏(まいはら こなつ)です。よろしくお願いします、ご主人様」
「俺のことは矢郷と呼べばいい」
「やごうさま……」
やごうさま、やごうさま、とナツは何度も彼の名を繰り返す。
まるで初めての言葉をかけてくれた人の名を、魂に刻み込むかのように。
(ああ、この人が)
(私を助けてくれる、王子様だ――)
そうだ、私はずっと助けて欲しかったのだ。
遠い、遠い昔から――もしかしたら生まれる前から、私はただ、助けを求めていた。
(私にも、明日が来た……助けてって言って良い日が、来たんだ……!)
握り合った手をじっと見つめるナツの瞳に、みるみるうちに大粒の涙が溜まる。
ナツに合わせてそっと握り返してくる矢郷の手は、力強く、温かく、そして……どこか懐かしく感じた。
◇◇◇
結果として、彼女――ナツが生活支援を受けながら穏やかな日々を暮らせるようになるには、ここから3年の月日を要する。
……3年経っても完全自立にはほど遠く、矢郷は仕事とナツのケアの両立で実に多忙な日々を送る羽目になったようだが。
「お前な、これで何度目だ!? いいか、人間というのは喉の奥までディルドを突っ込みすぎたら息が出来なくなるんだ。いい加減に覚えろ、この豆腐頭が!」
「うわあぁん、ごめんなさいもうしませんおちんぽ様ご奉仕させて下さいぃ!!」
「それも言ったよな? 服従心が出るのは仕方が無い、だがその度に人のペニスをねだるんじゃない! あっこら、股間に鼻を擦り付けるな、匂いを嗅ぐなっ!!」
今日も今日とて、矢郷の家には怒号が飛び交っていた。
こめかみに青筋を立て、怒りに震える右手にはドロドロに濡れそぼったロングディルドを握りしめた矢郷の前には、震えながらもカクカクと腰を振り「ごめんなさい! 矢郷様っ穴を使って下さい!」と懇願するナツの姿がある。
そしてその横では、ホログラムに投影されたイツコが必死に笑いを堪えていた。
《ぷっ……ふふっ、ヤゴがこんなにキレるなんて……子ネズミちゃん、あんたの才能は本物よ……あははっ、もう笑いすぎてお腹が痛いわぁ!》
「イツコも笑い事じゃないだろう! 全く、一体何度死にかけたらこの豆腐は記憶という能力を手に入れるんだ……」
がっくりと崩れ落ちる矢郷は、元来寡黙な性格である。
感情はあまり表に出ないし、喋ることも好まない。口から言葉を発するより、キーボードを叩く方が余程雄弁に語れると本気で思っている。
だと言うのに、ナツはそんな矢郷の感情の蓋を次々とぶち壊していく。
この3年間、彼女の突飛な行動により病院に駆け込んだことは数知れず。お陰で今では救命措置のスキルもバッチリだ。
しかもこの問題児、どうやらどこかで脳みそをそこら辺のスーパーで売ってる豆腐と入れ替えてしまったらしい。とにかく自分に都合の悪い事は須く頭から追い出してしまうようだ。
――記憶に関しては人身売買の被害が一因であるからあまり強くは言いたくないのだが、こうも自分の都合に合わせた保存プログラムを動かされていると、俺の組んだシステムの方が優秀だ! と時々叫びたくなる。
「で? 今回は何でこんなモノを喉に入れようと思ったんだ?」
「ええと……限界にチャレンジしたら、もっと気持ちよくなれるかな、って……ひっ、矢郷様顔が怖い」
「……いいか、俺を呼ぶときに様を付けるな。そして命の限界にチャレンジするな。俺はお前が死んでも生き返らせる力は無い」
「え、でもイツコさんは」
「イツコは嫁だ、別格な。第一お前を元にしたAIなんか作ったら、世界が滅ぶ」
「酷い」
……そして実に残念なことに、矢郷はこの豆腐娘に「白馬の王子様」認定されてしまったらしい。
ナツは、自分がどれだけやらかそうが矢郷だけは助けを求める自分に手を差し伸べてくれると信じて疑わない。
助けてと言えるようになったのは喜ばしいことだが、もうちょっとこう、こちらのキャパというものを考慮に入れて欲しいと、矢郷は今日も鎮痛剤片手にナツの説教と訓練に明け暮れるのである。
なお、ナツが身の回りのことを補助付きで何とか出来るようになって以来、少しでも自立に繋がればと矢郷と九条はあちこちの店に彼女を託そうとした。
だがこれまた見事に人の話は聞かないわ、性衝動に弱すぎてキャストなのにお客を襲おうとするわ、余りの傍若無人っぷりにどこに行っても見事に匙を投げられる始末。
そんな日々が2年ほど続いた結果
「組長、俺は決めました。この豆腐頭が働ける店を作ります」
「し、正気か叶人!? お前そんなことしたら、一生塩味の療養食しか食えなくなるんじゃ」
「今のままじゃ、胃に穴が開いて療養食自体食べられなくなりますから!」
あまりのストレスでちょっと自棄になった矢郷により、後にエリア28の名物高級SMクラブとなる「White Abyss」が爆誕するのである。