沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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19話 始まった世界と終わった■■■

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「……あるよ、服がいっぱいある…………どうなってるんだろう、これ……」
「ううっ、よく分からないけど早く着ようよ至、開けられたんだからきっと着てもいいんだって、ね!」
「う、うん……本当に大丈夫かな……怖いなぁ……」

 目が覚めて、知らない部屋と高い空、眩い太陽に仰天して。
 訳の分からない事態に混乱する二人の思考を断ち切ったのは、大きなくしゃみだった。

「へぶしっ!!」
「くしゅんっ!! ……な、何これ、身体が震える……」

 立て続けに二人でくしゃみを繰り返し、無意識のうちに震える身体を寄せ合って数分、二人はようやく気付く。
 ……あ、これは「寒い」という感覚だったのだと。

 環境適応訓練と称して極寒環境の中で素体を引きずり回していたときだって、ここまで寒くは感じなかったのに……と首を傾げながら、ともかく寒さを凌ぎたいと部屋を見回せば、この部屋のドアとは異なる扉が一つ。
 大昔の記憶をたどれば、これはこの部屋の収納の扉、いわゆるクローゼットというやつだ。

「だめだよ管理官様の許可無しに開けちゃ」「鍵がかかってないなら大丈夫だって!」と数分間の押し問答の末、あまりの寒さに折れた至恩がそっと扉の取っ手に手を掛ければ、あれほど恐怖したのは何だったのかと言いたくなるくらい扉はあっさりと開く。
 その中には、コートやジャケット、パンツがいくつかハンガーに整然とかけられ、下に置かれた引き出しには何着かのインナーが鎮座していた。

 これまたご丁寧に、服はオス用とメス用の両方を取り揃えてある。
 サイズとかはよく分からないが、身体に当ててみた感じ着れなくは無さそうだ。

「……服って、何枚着ればいいんだっけ……」
「温かくなるまで着ればいいんじゃないかな? あと詩、下着は着けないの?」
「ええー、貞操帯があるし下着は要らないんじゃ……あ、でも乳首のシールドが服に引っかかっちゃうからブラは……至、これどうやって着けるの?」
「それを僕に聞く!?」

 記憶にあるスポーツブラとは似ても似つかない大人の下着に目を白黒させながら、詩音はちょっと控えめな胸を至恩に手伝って貰いながら包み込む。
 胸の下で支えられている感覚……というか、ゴムで絞られているような感触は、拘束と似ていながら全く異なるもので、どうにも落ち着かない。
 どうせなら私もニプレスがいいなぁと、詩音は隣でシリコンの粘着パッドを胸に貼る至恩を羨むのである。

 至恩は至恩で「……服ってこんなに気持ち悪かったっけ……?」と顔をしかめながらスウェットに足を通していた。
 上はともかく、下はよく考えたら二等種として地下に隔離されて以来10年以上、何も身につけたことが無かったのだ。そのせいか、どうにも布の当たる感触がざりざりと神経を擦るようで非常に居心地が悪い。

「……着ても寒いね」
「うん……もしかしてこれも処分の一環なのかな……」

 もこもこに着ぶくれても、一定の気温に慣らされた身体はひたすらに寒さを訴え続ける。
 こうも急激な変化だと、二等種の身体でもついていけないものなのかなと妙なところに感心しつつ、二人は床に座ったまま向かい合わせになり、互いの肩に顎を載せた。
 首筋に触れる互いの熱が気持ちよくて、髪の毛の感触がちょっとくすぐったい……

 …………首、筋?

「……ん? ……んんん!?」
「んー? どうしたの、詩…………」
「至……これ、おかしいよ……無いの……」
「無い…………?」

 詩音の温かさに少しずつ緊張感が溶けて微睡みの心地よさに揺蕩う至恩が、何のことだろうかとぼんやりと聞き返す。
「寝てる場合じゃないよぉ」と焦った様子の詩音は、身体は至恩に預けたままむんずと彼の首の肉を指で思い切りひねりあげ、目を見開いて叫ぶのだった。

「首輪!! 無くなってるよ!!」
「痛ったあぁぁっ!! 詩っ首が! 首がちぎれちゃうぅ!!」


 ◇◇◇


「取りあえず、今分かったことを整理しよう……ううっ、まだヒリヒリする……」
「ご、ごめん至……あああ指の痕がくっきり残ってる」
「ちょっ詩、どれだけ力込めてつねったの!?」

 相変わらず身を寄せたまま、至恩は突然の襲撃に半泣きになりながらも自分と詩音の身体を隅々まで観察する。
 その結果は、これが夢で無ければおかしいと言わざるを得ないものだった。

「まず、首輪は無い」
「影も形も無いね。お陰でスースーする……」
「うん、寒い。後で首に巻くものが無いか探そっか。あと、これも消えてる」
「……無いよねぇ。でも管理番号は残ってたよ? 腰のもそのままだった」

 これ、と至恩が指さしたのは、詩音の手首だ。
 作業用品の証である、両手首足首にぐるりと刻まれていた黒い鎖のような刻印は、跡形も無く綺麗さっぱり消え失せている。
 何も無い手首というのがどうにも見慣れなくて、二人はさっきからくるくると手首をひっくり返しつつ「無いねぇ」「うん、無い」と何度も同じ言葉を繰り返していた。

 ……いやもう、繰り返していないと、このわけの分からない展開に頭がおかしくなりそうだ。

 ちなみにそれ以外の二等種らしい特徴はそのままだ。何なら、変態個体の証も。
 下腹部に黒々と刻まれた管理番号と等級記号、仙骨部の性感を制御するための刻印に変化は無く、胸には銀色のニップルシールドがキラキラと輝いている。
 そして、股間。至恩には見慣れた丸い銀色の覆いが、そして詩音には透明なドーム状のカップが、まるで何事も無かったかのように鎮座して、二人のいいところを完全に封じ込めていた。

 ただ、あの頭が焼き切れそうな渇望は随分落ち着いているし、いつものように床を汚すほど淫らな汁を滴らせてもいない。
 お陰で服を汚すことだけは無さそうだと詩音が安堵していれば「そういえば」と至恩が首筋をトントンと指した。

「……あのさ、鍵、無いよね」
「…………はっ!!」
「もしかしたらなんだけどさ、僕ら既に永久封印済みなんじゃ」
「ああなるほど……それで、ここに? でも、大改修後は作業用品としてこれまで通り使うって、管理官様は言ってなかったっけ」
「大改修ってかなり大がかりだし、もしかしたら経過観察? だっけ、様子見されているのかもね」
「待って、それじゃ服を着たのはまずかったんじゃ無いの!? 人間様の真似事なんて……」
「ふぁっ!?」

 詩音の思いつきに、ああこれは従順度を試すための検査だったのか!? と二人は顔を青ざめさせる。
 とにかくこのままではまずい。土下座の準備はともかく服を脱がないと! とパンツのウエストに手を掛けたとき

「ピンポーン」

 聞き慣れない音が、部屋の中に響いた。


 ◇◇◇


「…………え、今の、何の合図……!?」
「何だっけ!? こんな音聞いたことが無いよ! 餌じゃない、検分でも無い、転移だって……あわわわ……」

 必死に二人分の記憶を探ったところで、それらしき命令は思いつかない。
 どうすれば、と意味も無く辺りを見回していれば、再び同じ音が部屋に響く。
 と、同時にドンドンと何かを叩く音と男性の少々ドスの効いた呼び声が耳に届いた。

「天宮さーん、ホームセンターおおかみですー! ベッドのお届けに参りましたあ!」

 すわ命令かと一瞬身構えた二人が、その内容を脳が処理したのは一呼吸後であった。
 しかし全くもって予想外の内容に、彼らは顔を見合わせただ狼狽えるばかりだ。
 ――そんな言葉、二等種には二度と縁のないものの筈なのに!

「…………ベッド?」
「ど、どういうこと……? これも、検査っ!? 返事しちゃだめなやつかも!」
「でででもっ、人間様が呼んでるのに出ないのは、もっとまずくない!?」

 心臓が口から飛び出そうな程緊張しながら、至恩は震える手でドアノブを回す。
 これまた何の抵抗もなくあっさり開いた扉の向こうにはもう一つ広い部屋が広がっていて、どうやらドアを叩く音は玄関の方から響いているようだ。

「天宮さーん!」
「あ、ひ、ひゃいっ!!」
「いっ、いまいぎましゅっ!!」

 再度の呼びかけに、声が裏替える。多分身体は、20センチくらい飛び上がっていたと思う。
 ぎゅっと互いの手を握りしめて、恐る恐る玄関の扉を開ければ、初めてここで目覚めたときよりもっと眩しい光が二人を照らした。

「おはようございます、ホームセンターおおかみっす! ベッド、どこに入れます?」
「え、あ、あのっ、えっと」
「あー奥の部屋かな? んじゃ、ちゃちゃっと設置しちゃいますね! あ、これ矢郷の兄さんからっす。『どうせ買ってないだろうから押しつけてこい』って」
「あああ、あわわわ……」
「…………だめだなこりゃ。あー天宮さん、取りあえずリビングで寛いでいて下さい。おい、こっちでベッドメイクまで終わらせっぞ」
「あいよ! にしても今回の子達はまた随分おぼこいっすね。二人暮らしとはいえ、矢郷さんも良く許可したな……」

(えええ、つまり、何がどうなって)
(あわわわ……人間様と立って話してる……私、死んじゃう……)
(はうあっ!! ど、土下座土下座、ってもういないし!!)

 矢継ぎ早にかけられる言葉に、二人の思考は完全にショートしたまんまだ。
 配送スタッフはどこか手慣れた様子で、玄関で棒立ちになったまま瞬きすらしない二人を放置し、どかどかと部屋に上がり込むと奥の部屋に大きな荷物を運び込んでいる。
 暫くすればドリルやトンカチの音が部屋に響き始め、至恩はそのやかましさに思わず耳を塞ぐ。隣を見れば詩音も「イヤーマフが欲しい……」と耳に指を突っ込み涙目だ。

「……素体の叫び声なら、慣れているんだけどね」
「うん、この音は苦手。頭がキンキンするし……管理官様の指示よりはマシだけど」
「言えてる、あれは怖すぎるもん!頭の中に直接響かせるだなんて、よくそんなエグいことを考えるよね」

 これでは、音の発生源である部屋にはとても近づけそうに無い。
 そもそも先ほど話しかけてきた人間様も「リビングで寛いでいろ」と命じてきたのだ。ここは大人しくしていようと、二人はこれまたほとんど物のないリビング――見た感じ部屋は二つしか無いから、ここがリビングに違いない――の床にぺたんと座りこむ。
 一応リビングにはラグが敷かれ、ローテーブルと二人がけのソファが鎮座しているのだが、とても人間様の居場所に腰掛ける度胸はない。

 と、テーブルの上で何かがキラリと光を反射した。
 何だろうと二人は顔を見合わせ、恐る恐る近づいてみる。
 するとそこにはお揃いの黄色いキーケースが二つと同じ形のスマホが二台、タブレットが一台、男物の財布が無造作に置いてあった。
 更にローテーブルの横には、女物らしきバッグが置かれている。

「……鍵…………あ、これ……っ!」
「至の貞操具の鍵だよ! そっちはもしかして」
「うん、詩の貞操帯の鍵と……多分、家の鍵?」
「に、見えるよね……」

 キーケースを開けた二人は、見慣れた鍵の存在を確認し、慌てて鍵をお互いの南京錠に差し込んだ。
 果たして鍵を回せばカチンと小さな音と共に、南京錠が開く。どうやらこの貞操帯は永久封印を逃れていたようだ。

「…………ますます訳が分からない……」
「ホントだね……それにさ、このキーケース……何故か分からないけど」
「うん、僕のものって……分かるんだ」

 安堵と共に、二人は再び南京錠のつるを押し込む。
 きちんと施錠されていることを確認し、キーケースをテーブルに置いた至恩が次に手にしたのは財布だ。
 明らかに初めて見る財布の筈なのに、これを自分の財布だと認識している。まるで、目にしたとたん情報が頭の中に書き込まれるような感覚に戸惑いつつも中身を改めた至恩は、更なる困惑の渦に叩き落とされた。

「……ねぇ、詩。これ……読める?」
「…………読める。でも……こんな文字も、数字も、私……知らない……」

 財布の中には少しの現金とカードが2枚。
 一枚は地上に居た頃に持っていたIDカードにそっくりだ。至恩の顔写真と名前や生年月日、登録居住区が記載されている。

 ただ、決定的に違うことが二つ。
 一つは文字。IDカードの情報も、更に言うなら現金の印字も、二人の知る文字とは似ても似つかない文字や数字が用いられている。
 全く知らない文字の筈なのに、これまた不思議と読めてしまうのがなんとも気味が悪い。

 そしてもう一つは

「至、私達の誕生日って、新暦3042年12月31日だよね」
「うん。流石に誕生日は忘れてなかったみたい。だけど」
「……この世界暦って、何……?」

 IDカードに表示された、知らない文字での情報。
 そこには至恩の生年月日が

『世界暦2342年12月31日』

 と、記されていた。


 ◇◇◇


「んじゃ、ここにサイン……あー名前ですね。お兄さんでもお姉さんでもどっちでもいいですから、フルネームで」
「天宮さん、暖房のリモコンはベッドサイドテーブルに置いてありますから。リビングの暖房はこれ、温度は22度に設定して、寒かったら適宜上げて使って下さい」
「てかさっき台所を確認しましたけど食べ物の気配ゼロじゃないっすか! コンビニでいいんで、ご飯買ってきて食べて下さいよ! あ、トイレはこっち、お風呂はここですから。毎日使わないと、矢郷さんの雷が落ちますぜ!」
「ははは、はひぃっ!!」

 ベッドを組み立て終わった厳つい男達は、矢継ぎ早に二人に指示を出してさっさと帰っていった。
 バタンと玄関ドアが閉まるなり「嵐みたいな人たちだったね……」と二人は呆然とソファのフレームに凭れる。
 腕に作業用品のような立派なタトゥーを彫り込んだ配送スタッフが「ソファに座った方が寒くなくていいっすよ」と言っていたけど、人間様の座るところに腰を掛けるのはどうにも足がすくんで恐怖に襲われてしまう。座っていいと許可を貰ってすら、身体が動く気がしない。

 とは言え、流石の二人もこの数時間に立て続けに降りかかった事態から、自分の身の回りに大変な異変が生じたことは察していた。
 大改修の処分どころではない、多分異変が起きたのは自分達だけで無く――この世界もだ。

「♪~」
「ヒッ! 今度は何っ!?」
「あ、す、スマホからだよっ、詩のスマホ!!」
「あわわっ誰から……ええと『やごうさん』……っ!?」

 スマホに表示された名前を口にした瞬間、二人の頭の中に新たな情報が一気に書き足される。
 記憶の洪水に目を白黒していれば、どうやらスマホは自動着信する設定になっていたらしくパッとスピーカー通話画面に切り替わった。

「……も、もしもしっ」
『おう、ベッドは無事に出来上がったか?』
「あ、はいっ。あのっ、シーツとかお布団とか……ありがとうございます『矢郷』さん」
『はぁ、やっぱり買って無かったんだな、その様子じゃ』

 スマホの向こうからは、抑揚の無い落ち着いた男の声が聞こえてくる。
 そう、彼は矢郷さん。この街に辿り着いた二人を匿ってくれた恩人で、勤め先のオーナーだ。
 自分達は今日、彼の家を出て二人暮らしを始めたばかり。次の仕事は年明けの5日から――

 まるでずっと前から知っていたかのように彼の情報は頭の中に定着し、お陰で詩音はときおりつっかえながらも、何とか話を合わせることが出来る。

「……困ったことがあれば、すぐに連絡しろ。野垂れ死なれてはかなわないからな」
「ひゃいっ、あ、あの、ありがとうごじゃいましゅっ!」
「おう。…………ま、お客以外と会うのは疲れただろ? 今日はゆっくり休めよ。それと寝る前に風呂には必ず入れ、分かったな」
「はひっ!!」

 最低限の確認だけを行い、通話はあっさりと切れる。
 謎の情報を手にしたとは言え完全にパニックを起こし、会話も挙動不審さ満載だったにも関わらず、声の主は終始落ち着いた様子だった。
 ……そう言えば先ほどの配送スタッフも、妙に対応が手慣れていた気がする。もしかしたら自分達のようなへっぽこ個体の扱いは経験があるのだろうか。

「もう今の通話で……今日は閉店だよぉ……」
「ど、同感……横に居るだけで心臓が壊れそうだった……」

 詩音は天を仰ぎ、へなへなと床に突っ伏す。
 床は身体の芯まで響くような冷たさだが、緊張に次ぐ緊張でのぼせきった頭には、むしろ心地がいい。
 このまま眠りにつきたいのはやまやまだが、そうもいかないと考えたのはお互い様だったのだろう、同じく疲れを隠せない表情で横に寝転がった至恩の手には、ローテーブルに置かれていたタブレットが握られていた。

「……多分、文字を見たらこの世界の情報が頭の中に入ると思うんだ、さっきの感じからして」
「だね。気になったことを片っ端から調べたら、今の状況は把握できそう」
「問題は二等種にこれが起動できるかだけど……いけるね」

 側面のボタンを押せば、ぱっと待機画面に切り替わる。
 覗き込めば勝手にロックが外れたから、確かにこれは自分達の持ち物なのだろう。
 これなら大丈夫だと、至恩は早速先ほど頭に書き込まれた自分達の職場の情報を調べることにした。

「ふぅん、SMクラブ……ドミナント、ってまさかのS側なんだ……」

 ブツブツと独り言を言いながらサイトの中身を読みふける至恩の隣で、詩音はじっと何かを見つめている。
 だがその視線の先は画面では無く、至恩の顔だ。
 暫くして熱烈な視線にさすがの至恩も気付いたのか「どうしたの、詩?」と尋ねながら頬をすりすりする。

「何か僕の顔についてる?」
「あのね、ついてるというか……今更気付いたんだけど」
「うん」

 すっと詩音が至恩の前髪をかきあげる。
 そうしてもう一度じっくり確認した後、明らかな異変を口にしたのである。

「……至、私達の髪、元に戻って……ううん、元以上にメッシュが減ってる」
「えっ!?」


 ◇◇◇


 1時間後。
 二人はようやく己に、そして世界に起こった異変を大まかに把握する。
 その全てが俄には信じがたくて、けれど最後には自分達が今まさに天井の無い空の下にいるという事実が、全ての疑念を払拭してしまうのだ。

「……ここは、かつて私達がいた地上。そして」
「何らかの理由で魔法を失った、いや、無かったことにした世界だ……」

 目の前に置かれているのは、二人のIDカード。
 二等種として人権を剥奪される前に持っていたカードとほぼ同じレイアウトで、文字と数字と暦は異なる、二人が人間であることを表す大切なカードだ。印字されている国の名前も記憶と相違ない。
 だが、12歳以上の国民が持つカードには必ず入っているはずのラインが――魔法登録時に測定される魔法の能力を表す色が、このカードにはどこにも入っていない。

 二等種だからラインがないのは当然か、いやそもそも二等種がこのカードを持てるはずが無いのにと混乱しつつIDカードについて調べた二人は、そこで初めてこの世界に魔法という概念が微塵も存在しないことを知るのである。
 恐らくメッシュがたった一筋の浅葱色を残して消失したのも、魔法がこの世界から消え失せたのと関係があるのだろう。

 記録によれば、この世界は21年前――世界暦2345年の12月に破局的大災害に見舞われて壊滅的な被害を受けた。
 その被害状況は至恩達が知る「大災害」とは比較にならないくらいの規模で、しかし地震の後陸地がまるごと海に沈むという災害の起こり方は、明らかに二人の魔法に合致している。

「災害は2年間。最初の災害でこの国はエリア14・39・47の3つが水の底に沈み、それからは規模こそ小さくなったものの定期的にどこかが水没していた……」
「で、2345年に最後の世界的な大災害。世界人口は災害前から2割減。この国は首都が壊滅、国土の約4割が水没し、20年以上経った今でも都市機能の復旧は進まず……政府の手が行き届くのは限られた地域だけだなんて」

 情報を確認する二人の間に、重たい空気が流れる。
 何も言葉を交わさなくても分かる。最早終末と呼ぶにふさわしい大災害、その引き金を引いたのは恐らく自分達。すなわち「昨日」の交合が原因に違いない。

「……止められなかったもんね」
「うん。何十回逝ったか……全部は覚えてないもの。最後の方はもうずっと降りられなくて……」
「だよね……僕も、良くあれだけ出して干からびなかったなって……多分、補充されていたんだよ、人間様の『恐怖』が」

 2日後に全てを忘れてしまうトモダチを互いの魂に刻みつけようとする、最初で最後の交わりは、これまでの人生で感じたことの無い悦楽と幸福を二人にもたらした。
 絶頂による精神的満足感を剥奪された身体は、停止電撃無しにはその動作を止めることが出来ない。いや、例え電撃があってもあの二人が一つに溶ける世界の中では、無駄だったかも知れない。
 それほどの歓喜に飲み込まれ、しかも何の不具合か停止電撃は一度たりとも作動せず……となれば、ここまでの被害拡大も頷ける。

「本当に名実共に、有害な二等種になっちゃったね……」
「でも、もう二等種は……いないんだけどね」

 交合の終わりは、実にあやふやだ。
 昨日の記憶を辿れば、どこか遠いところで人間様が「ここもじきに埋まる」と叫んでいた気がするし、その後全身に衝撃が走った気もしなくも無い。
 ただ、自分達はとにかく……ようやく一つになれた、そして互いの内側にトモダチの痕跡を残せた喜びに包まれていて、その行為を終えた記憶も無いまま、今日という訳の分からない日を迎えたのである。

 何にせよこの世界は、自分達の行為を基点として変貌した。
 この世界において魔法や魔力は、災害前からあくまでおとぎ話の世界でしかなかった。よって、魔法を発現しない劣等種である「二等種」という概念自体が存在しないのだ。

 そして世界のことを調べ回った二人の頭には今、世界のおおまかな「設定」と自分達の「生い立ち」が書き込まれている。
 まるで馴染みの無いこの世界の情報や己の背景は、身体に合わない装具を着けているような不快感をもたらすけれど、この情報無しに突然放り込まれた世界で生き延びるのは難しいだろう。
 こればかりは慣れるしか無いのだろうと、至恩は額に手をやりかぶりを振る。

 ……そう、慣れるしか無いのだ。だってこれは間違いなく、目の前に展開されている現実だから。

「昨日までも、今日も、どっちも等しく現実。僕はそう考える」
「正直今までのことは夢オチにしたくなるけど……無理だよねぇ、これがある限り」

 詩音は無意識に、管理番号が深く刻まれた下腹部をさする。
 夢であればどれほど良かったかと思う一方、全てを夢にされてしまうのもそれはそれで納得がいかなくて……何とも複雑な気分である。

 この世界に於いてたった数時間の内に、自分は寒さを感じ、当たり前のように服を着て、同じ人間として人間様であったはずの誰かと接した。
 夢であるならそろそろ醒めても良さそうなのに、この世界に根ざした感覚は積み重なるばかりだ。これはきっと、喜ぶべき現実なのだろう。

 翻って、これまでの世界を夢と断じるには、あまりにもこの身体は根深い記憶を残しすぎている。

 下腹部に残る管理番号は、自分が人権のじの字も有しない二等種であったことを、無言で突きつけてくる。
 記憶の隅に追いやられていた筈の寒さは激烈で、服の感触は違和感でしか無く、人間様への恐怖は未だ健在。そして植え付けられた従属心は、自分達の部屋にあるソファに座ろうとしてさえ身体を硬直させる。
 ――これほどのものを抱えながら、ただの夢や幻覚だと断じるのは無理がありすぎる。

「ほんと、分かったようで……肝心なことは分からないままだね」
「うん。なにせ世界が変わった理由がすっぽ抜けてるもん。……でも、一つだけは確実だよ」
「そうだね」

「「これまでの世界は終わった。そしてこの世界が……僕達が二等種では無い世界が、始まったんだ」」

 そう。
 少なくとも、自分達はもう「二等種」ではない。
 人間様により地下に閉じ込められ、全ての人権を剥奪され、ただのモノ、もしくは穴として使われる存在では無くなったのだ――

「にしても……二等種ではない、かあ…………」
「…………正直さ、突然言われても……変な感じだよねぇ……」

 二人に現実感は乏しい。あまりの展開に正直なところ心が追いつかない気がする。
 世界の変化を結論づけた時、二人の心の中に生じたのは人権を取り戻した歓喜でも開放感でもなく、なんとも言えない複雑な空虚感のみだった。


 ◇◇◇


 部屋に満ちた微妙な空気を破ったのは、腹から響く音だった。
 ぐうぅぅ、とけたたましい音を立てる腹に「……浣腸液は入ってないんだけどなぁ」と詩音は首を傾げる。

「でも、なんだかお腹がおかしくない? ……ちょっとムカムカするというか、力が入らないというか」
「そうなんだよ、さっきから気持ち悪くて」

 二人はどうにも鳴り止まないお腹を優しくさすってみる。
 しかし悪心は収まるどころか、段々酷くなってきている気さえする。
 どうしたものかと頭を抱えたその時、ふと人間様が……先ほどベッドを与えて下さった男性が口にしていた「指示」を至恩は思いだした。

『コンビニでいいんで、ご飯買ってきて食べて下さいよ!』
『矢郷さんの雷が落ちますぜ!」

「……あ」
「どうしたの、至?」
「詩、多分だけど僕達』

「お腹が空いてるんだ」
「…………ああ! 空腹ってこんなのだったっけ!?」

 …………

 ……

 それから30分後、二人は外へと足を踏み出していた。
 空腹にふらふらになりながらもすぐに出かけなかったのは言うまでも無い、どうやっても足が玄関ドアの向こうへと進んでくれなかったからだ。

 自分達はもう二等種では無いと複数の情報源で確認こそしたけれど、やっぱり人間様の指示は絶対で、それ以前に二等種として植え付けられた命令は骨の髄まで染みこんでいて……これは当分苦労しそうだ。
 いやむしろ慣れる日が来るのか? と、正直これから先に不安しかない。

「地図アプリがコンビニに連れて行ってくれるって、矢郷さんは言ってたけど……ホントに出歩いてもいいんだよね? しかも靴を履いて、二本足で外にだなんて……」
「だ、大丈夫! 矢郷さんも言ってたじゃん『いいから俺の言うとおりに動け、それで飯を買って食え!』ってさ!」

 困り果てた彼らの執った手段は、二等種なら常識の「人間様に命令して貰う」だった。
「そもそも頼んで……いいんだよね、二等種じゃないんだし!」と震える指で押した連絡先の主は「…………お前ら、二人暮らしはちっと早かったんじゃないか」とスマホの向こうでがっくり嘆息しながらも、シオン達のために簡潔な指示を出してくれた。

 この様子だと自分達は、同居中も散々迷惑を掛けていたのだろう。
 設定としては頭に刻まれても、この世界における自分達の記憶が始まったのは今日からだから想像でしか無いが、ともかく二人は玄関前で「ありがとうございます!」と土下座をして心からの感謝を口にするのである。

「にしても……外ってこんなのだっけ……」
「知らない街だしよく分からないよねぇ……でも、空は……ずっと高いよ」
「…………うん、天井が無い」

 寒空の下、二人は互いの手を握りしめてコンビニへの道を歩く。
 空はどこまでも青くて、高くて、見つめていると……鼻がツンとして胸がいっぱいになる。

 この気持ちが何なのか、二人にはまだ分からない。
 ただ、許されるならばこの切れ目のない世界の中で全力で叫びたいなとは思うのだ。

「今日は世界暦2365年12月30日。で、ここは行政区域9、エリア28……至、エリア28ってどの辺だったか覚えてる?」
「初等教育校で習った、うん、習ったけど……覚えてないや、帰ったら調べよっか」
「やっぱり覚えてないよね。ううっ、私達そもそも二人だけで買い物なんて出来るのかなぁ……あ、あれじゃない? コンビニって」

 スマホの案内とは実に便利なものだと感心しながら、二人はコンビニの扉を開ける。
 途端に流れる軽快な音楽に顔を顰めながら、そして「こ、コンビニってこんなのだったっけ……」と戸惑いを隠せない様子でキョロキョロと辺りを見回していれば、店員だろう女性が「いらっしゃいませ」とこちらに寄ってきた。

「何かお探しですか? ……あ、もしかしてコンビニでお買い物は初めて?」
「え、あ、はいっ!! あの……餌が……じゃない、ご飯が欲しいんです」
「ご飯ですね。ええと、後見人さんと連絡は取れるかしら」
「こうけんにん……? れ、連絡先を知ってるのは矢郷さんだけで……」
「ああ矢郷さんとこの子なのね! 二人とも同じ? 分かったわ、じゃあちょっと待っててね」

 矢郷の名前を出せば、店員は合点がいったようで早速自分のスマホを取り出す。
「藤色の髪の男の子と女の子が……ええ、食事のステージは……」と何やらよく分からない話をしているようだ。

 多分連絡先は矢郷なのだろう。また迷惑を掛けてしまったなと詩音は俯き、いつもの癖でぎゅっと至恩の手を握りしめた。
 互いの手を握りしめれば、いつだって安心できるから。

 ……が、珍しく至恩が手を握り返してこない。

「…………至?」

 不安になって隣を見れば、至恩は真っ直ぐ前を向いたまま固まっていた。
 その目は大きく見開かれ、唇をほんのり開けて、店員のやりとりをじっと見つめている。

 再び「至、どうしたの?」と少し大きめの声で尋ねれば、至恩は前を向いたまま、震える唇を動かし

「詩……あの人、二人って言った」
「え?」
「男の子と女の子って言った……詩が見えてる……」
「…………至?」

「そうだよ、ここは外なのに……僕は詩と一緒に居る……!」
「…………あ……!!」

 呆然と呟いた言葉で、詩音から全ての音を剥ぎ取り、その場に立ちすくませたのである。


 ◇◇◇


 思い返せば、最初からおかしかったのだ。

 ベッドの配送でやってきた男性達も、通話の向こうの矢郷も「二人暮らし」だと……この部屋には二人のシオンがいると認識していたじゃないかと、現実感の無いまま家に戻ってきた二人は『CIMS-NF シムリードマイルド』と書かれたパウチを口に咥え、中身を吸い出しながら本日最大の衝撃を受け止めていた。

 矢郷が指示したこの餌……ではない、ご飯はほんのり塩味が効いた、軟らかいつぶつぶが混じったペーストのようだ。
 感覚としては幼体の頃に散々出されてた白い餌に近い気がする。

「帰り道も、ずっと二人だって認識されていたよね……」
「うん、そもそも外に出ても至が消えないもん。いつもはさ、部屋の外に出たらパッて居なくなっていたのに」

 何だか不思議な感じだねぇと、詩音は至恩の肩に頭をもたせる。
 保管庫とは比べものにならない広さのリビングなのに、二人はずっと床に座って身を寄せ合ったままだ。その手はずっと互いを握りしめ、まるでこの奇跡が消えてしまうことを恐れているようにすら見える。

「……明日になったら、また別々になってたらどうしよう」
「そ、そんなことは……無いって言えないよねぇ……」

 脳天気が服を歩いていると言われるほどにはポジティブ思考全開であった二人も、流石にこんなご都合主義全開な展開の連続ともなると、素直には喜べないようだ。
「今日は寝たくないなぁ」なんて心配そうに呟く詩音を、至恩は無言でそっと抱き締めた。
 無責任に大丈夫だとは言えない。けれど、その気持ちを分かち合うこと位はできるから。

 それにしても、と至恩は考えを巡らせる。

 少なくとも自分の生活圏では、二人の世界は重なっていた。
 この家やコンビニまでの経路だけでは無い、昨日まで住んでいた(事になっている)矢郷の家、果ては職場すら二人を同時に認識していることは、先ほど見直した店のサイトで確認済みだ。

 順当に考えれば、自分の部屋……というか、自分達が共にあるエリアが拡大したのだろう。
 そしてどう考えても怪しいのは、昨日の交わりである。いや、これは直感だけど多分当たっているはず。

(ま、原因なんて僕の頭で考えるレベルじゃきっと分からないよね! そもそもここじゃ僕達にも世界にも魔法は無いし、二等種もいないんだから)

 とにもかくにも矢郷に言われたことだけは守らねばと、頭の片隅に燻る思考を一旦置いて、二人は風呂場でシャワーを浴びる。
 この寒さからして今は冬なのだろう、シャワーの水はキンキンに冷え切っていて「製品になった気分だね」と震えながら買った覚えのないボディソープを塗りたくり、洗い流すが否や水気を取るのもそこそこにベッドルームに駆け込んで、暖房のスイッチを入れた。

 矢郷はどうやら、ベッドリネンと一緒に寝間着まで用意してくれていたらしい。スウェットよりはまだ着心地のいい生地に袖を通し、意を決してベッドに乗ると勢いよく毛布を被る。
 すっかり冷え切った身体が温まるには少し時間がかかりそうだけれど、身体より先に心が柔らかく……二人が触れ合った部分からほどけていくみたいだ。

「……ベッドって、こんなに柔らかかったんだ」
「うん…………毛布ってふわふわだね」

 這いつくばらずに餌を食べて、自分の手足を使って洗浄をして、ベッドに寝転んだ――成体二等種には許されない行動を立て続けに行った心と体は思った以上に緊張していたらしい。
 じわじわと温かくなる布団の中、そしていつまで経っても飛んでこない懲罰電撃にようやく緊張の糸が緩んだのだろうか、一気に睡魔が襲ってくる。

 目の前を見れば、詩音はすでに船をこいでいる。
 何せ朝から気の休まる暇が無かったのだ、時計を見る限りまだ消灯には早い時間だが、たまにはこんな日もいいだろうと至恩もまた意識の落ちるのに身を任せ、ゆっくりと瞳を閉じた。

 ――この世界では、今日と明日の境目はあるのだろうかと思いながら。


 ◇◇◇


 ぱちり。

 いつものように、起床のベルが鳴る前に目が覚める。
 さっさと身体を起こさ無ければと寝返りを打った至恩は、慣れない感触に違和感を覚え……弾けるように起き上がり周囲を見渡した。

「…………ここ、は」

 カーテンの引かれた、夜明け前の部屋。
 ベッドサイドのテーブルに置かれた時計には「昨日」の次の日――世界暦2365年12月31日の5時40分と表示されている。
 隣には毛布を独り占めしてすぅすぅと寝息を立てる詩音。腰掛けているのはスプリングの効いたクイーンサイズのベッド。
 そして――真っ先に手を伸ばした首筋に金属は触れず、手首はまっさらなまま。

 ああ、ここはあの暗くて狭い保管庫では無い。この世界の明日が来たのだ――

「……明日……来たんだ……」
「詩、起きてたんだ」
「うん……変な感じだね、意識が落ちてすぐに次の日にならないだなんて」
「あ、そう言えば。それに電撃が無いって、嬉しいはずなのに……なんだか落ち着かないや」

 朝の寒さに身震いしながら、至恩は布団に逆戻りする。
 毛布は2枚いるよねと詩が抱え込んだ毛布の中に潜り込むと、どちらからともなくそっと唇を交わした。

 ……どうしようも無く幸せだった交合の影響なのか、はたまたそれ以前の実験のせいなのか、互いに舌を絡めることに今の二人は親愛以上の感情を見出せない。
 感覚がずれちゃってるよなぁと思いながらも、舌を合わせるひとときは手を繋ぐ以上に、二人を近づけて……安心させてくれる。

「ん……ぷはっ……あったかいや」
「うん……そろそろ起きよっか」

 ひとしきり互いを味わってベッドから降りたのは、まだ夜も明けきらない午前6時――二等種の起床時間だった。


 ◇◇◇


 さて、最初はどちらから言い出したのだったか。
 ただこの目で全てを確かめてからじゃないと、何となくこの世界に居てはいけないと思っていたのは、自分もトモダチも変わりが無かったらしい。

 それに何より――一体どこまで二人の世界が重なっていられるのか、確かめたくもあったのだと思う。

「…………で、俺に連絡も無く遠出をしたと」
「ひぃっ!! ごめんなさいごめんなさい何でもしますから許して下さいっ!!」
「はぁ……いいか、耳の穴をかっぽじって良く聞け。お前達がエリア28の外に出るときには、必ず後見人である俺に一言入れろ。無断で家出すると」
「家出すると……?」
「俺が身体にお絵かきしたり穴を開けた怖ーいお兄さんに呼び出されて、あんなことやこんなことを」
「「誠に申し訳ございませんでしたあっ!!」」

 エリア33にあるターミナル駅直結のホテルのロビーで、二人はフロントから取り次がれた電話機に向かって全力の土下座をかましていた。

(これは……やらかした……!!)
(にっ人間様の許可を得ずに行動だなんて、今日は何の懲罰が)
(お、落ち着いて詩! 僕達はもう二等種じゃ無い、懲罰は無いから!! ……説教はありそうだけど……)

 思い立ったが吉日とばかりに、すぐにタブレットで目的地までの経路は調べた。
 一日で辿り着けない場所だとは分かったから、コンビニで買い溜めた餌のパウチと着替えはクローゼットで見つけたリュックに詰め込んである。
 チケットの買い方は知らなかったけど、券売機の前で戸惑っていたら行く先々で親切な人たちが手伝ってくれた。

 エリア28の自宅から、タクシーと高速バスを使って2時間。エリア31にある港から、エリア33まで船で8時間。更に鉄道で移動してようやっとホテルに着いた頃には、夜の11時を回っていた。
「あの、ホテルに泊まりたいんですけど」と飛び込みでやってきた怪しい二人組に眉を顰めたレセプションの男性は、二人のIDカードをスキャンするなり慌ててどこかに連絡をいれる。

 そして10分後――矢郷の呆れ果てた声がスピーカーからロビーに流れる中、二人の男女が絨毯敷きの床に土下座をする現在へと繋がっているのである。

「ったく……もう少しその辺も教え込んでおくべきだった……いや、普通独り立ちした瞬間に遠出なんてするか……!?」とブツブツ独りごちつつ説教をかます矢郷に、二人は平謝りである。
 お陰でさっきから周囲の目がとても痛い。本当にいたたまれない。

 ――それでも、散々人間様から向けられた侮蔑と嘲笑と嫌悪、そして悪意剥き出しの視線に比べれば随分と穏やかだと感じてしまうのだが。

 たっぷり20分、説教を続けた矢郷は一瞬の沈黙の後重たい空気を吐き出す。
 懲罰とは言わずとも何かしらお仕置きがあるのか、そもそも連れ戻されるのかと二人が身体を跳ねさせれば「……で、どこに行こうとしている」と静かに尋ねられた。
「あ、えっと……エリア39へ」と詩音が正直に答えれば、向こうで息を呑む声が聞こえる。

「……お前らの故郷か。何をしにだ」
「わかりません。……ただ」
「…………」
「ただ…………この目で、確かめたくて…………」

 しばしの沈黙が、3人の間に流れる。
 ダメだ帰ってこいと言われるのかなと不安を募らせながら次の言葉を待つ二人に、しかし返ってきたのは「そうか」という短い肯定だった。

「……宿泊手続きはこっちでやっておく。いつも言ってるとおり、何かあったらすぐに連絡しろ」
「あ……帰らなくて、いいですか……?」
「ん? 何故帰る必要がある。お前らだって立派な大人なんだ、やりたいことがあるなら好きにやりゃいい。ただ、最低限ルールは守ってくれ」
「……すみませんでした……」

 電話を受付に戻せば、人だかりはあっという間に霧散していく。
 さっきとは打って変わって丁寧な対応になったホテルマンから鍵を受け取った二人は、矢郷の言葉を何度も心の中で反芻しながら部屋へと向かうのだった。

「……やりたいこと…………やって、いいんだ……」


 ◇◇◇


 そこは、見渡す限り一面の海だった。
 全てを飲み込み、消し去り……高い空を映すだけの、静謐がそこにはあった。

 朝早く、エリア7――水の底に沈んだエリア10に代わり首都となった場所だ――行きの高速バスは思った以上に人で溢れていて、二人はずっと互いの手を握りしめたまま1時間を過ごす。
 人間様の群れには、碌な思い出が無い。その視線がどうかこちらには向きませんようにと祈りながら2列のシートに並んで座るシオン達は、しかし餌の時間を知らせるメッセージに従いパウチを口に咥えれば、たちまちひそひそ声と好奇の視線に晒されて「もうやだ」「僕達何にもしてないのに」と目を潤ませる羽目になるのである。

「はあぁ……エリア28で乗ったバスじゃ、これを食べても別に見られなかったのに……」
「後ろのおばさんが巾着袋をくれてホント助かったよ……コンビニでパウチカバーを勧められたのって、こういうことだったんだ……」

 親切なご婦人のお陰で難を乗り越えた二人は、ドアが開くや否や我先にと飛び出しタクシーに乗り込む。
 落ち着きを取り戻しつつ15分、着いたところはエリア40と繋がる橋のたもとにある臨海公園だった。

「…………こっちが、エリア39だった方角かな……」
「……広いね……こんなに広かったんだ」

 遠くの空が紫紺に染まり始める中、二人は公園の一角に並んで立ち、じっと暗い海を眺める。
 周囲のざわめきすら吸い込むように深い闇と、かすかに聞こえる波の音は、二人の心に声なき声を届けるようだ。

 何も無い、どこまでも続く水面の下。
 ここには地上での……自分達がまだ人権の価値すら知らず無邪気に振り回していた頃の全てが、沈んでいる。

(2342年12月31日、エリア39で誕生。43年10月7日、最初の大災害により両親が死亡、1歳にしてエリア40の児童養護施設へ収容された孤児)
(初等教育校卒業後、規定により15歳で養護施設を退所。その後は日銭を稼ぎつつ各地を転々としてエリア28に流れ着き、後見人矢郷叶人により正式に住民登録される――)

((これが私達の、この世界での『設定』))

 頭の中に書き加えられた「自分」の設定はただの記録で、記憶では無い。
 そこにエリア39の風景や両親の顔は、含まれていない。……もっとも、当時1歳では例え記憶が用意されていても存在しなかったとは思うが。

 だからこの世界の設定に従えば、自分達がこの海に感じるものは精々名前しか知らない親の温もりを恋しく思う気持ちだけだっただろうに。

「……これが、私達の作り出した結果」
「うん。……僕達が性癖に突っ走った、その結果だね」
「そう言うと、どうにも締まらないけどね……」

 近くの献花台には、たくさんの花と水が供えられている。
 あれから20年以上の年月が流れても、いまだここで祈りを捧げ、涙に暮れる人の後は絶えない。

「……あ、日の出だ」
「…………初日の出だね」

 1時間くらいそうして佇んでいただろうか。
 二人の目の前で空が白み、水平線の向こうから眩い太陽が顔を覗かせる。

(……管理官様。僕の心にはやっぱり、何も無さそうです)

 至恩は水平線から昇る朝日に照らされた海を眺めながら、心の内を問うてきた管理官にそっと答えを投げかける。

 この風景を見ていると、どことなく胸に迫るものはある。ただ、この下に眠る両親を含む数多の命に対して、自分達の心は一ミリたりとも揺れ動かない。
 悲しみも怒りも嘆きも、己を虐げてきたものをいい気味だとせせら笑う気持ちも、ましてこの事態を引き起こした罪悪感のかけらすら、かつて二等種として加工された心には灯らないままだ。

 ――ただ、初めて己の性癖を存分に堪能した。その結果がこれだったという事実だけが、静かな海と共にここには揺蕩うばかりである。

「……行こうか、詩」
「うん。…………行こう、至」

 祈りを捧げ、あるいは新年を祝う人間様の喧噪に背を向け、二人は手を繋いでその場を後にする。
 全てはもう終わったことだ。過去は変えられず、そしてここに沈む思い出如きに未練は抱きようが無い。

 この海にあるものは、これからの自分たちには必要ない――

(もう、ここには来ない)
(かつて人間であった『私』の軌跡は……水底で眠っていればいい)

「「……さよなら」」

 ただ一言、振り返ることも無く。
 二人は声を合わせて、かつての痛みに別れを告げた。


 ◇◇◇


「そういやさ、僕ら昨日誕生日だったんだよね」
「暦が変わっちゃったから、何歳か分かんないけどね! あ、でもIDカードを基準にすれば」
「ええと、23歳……確か作業用品になってから3年くらいは経ってたし、もう23歳でいいや!」

 公園を後にした二人は、随分ご機嫌だった。
 胸のつかえが一つ取れたというのもあるし、丸一日掛けてやってきた遠方でも二人の世界が重なったままであることが実証されたからでもあろう。
 流石に外国までは分からないけど、こんな遠くまでやってきても二人で居られるなら少なくとも国内じゃずっと一緒だよ! と生来のポジティブさがここに来て花開いたようだ。

 そんな状態で、彼らは昨日が誕生日だったと今更ながら気付いたのである。

 二等種として捕獲されたあの日以来、誕生日という概念は存在したためしがない。
 強いて言うなら成体となったあの日は、自分が18歳になったことを知れた上に、成体二等種というヒトからかけ離れたモノに堕とされた……記念したくない日という意味で、誕生日の概念を適用してもいいかもしれないが。

 どちらにせよ、彼らにとって昨日は10年以上ぶりに迎えた本当の意味の誕生日。
 となれば、ここはパーッとお祝いをしたくなるよね! と早速プランを考え始めるのは最早必定であろう。

「帰ったらさ、コンビニにジュースとお菓子を買いに行こうよ!」
「ひえっ、お菓子なんて食べて……いいんだ、そうだよ二等種じゃ無いから食べられるんだ! うわぁ、お菓子ってどんな味だったか思い出せない……」
「僕も。ほら、央様が良く食べてたチョコのかかったポテチ、あれが食べてみたいんだよね!」
「分かる! あとさ、お酒飲みたい!! 成体だからお酒も飲めるし!」
「ちょ、お酒って人間様を凶暴にするヤバいヤツじゃん!! 僕ら、死なない!?」

 無意識のうちに封じ込めていた思いは、どうやら食べ物から最初に噴出したようだ。
 あれも食べたい、これも食べたいと涎を垂らしながら指折り数える詩音の姿は、地上に居た頃の彼女に戻ったようで至恩も思わず頬が緩む。
 じゃあ帰ろうか、戻ったら矢郷さんにも謝りに行かないと……とバスターミナルでチケットを買おうとしたその時、ふと目に映った行き先に至恩は心を奪われた。

「…………至?」
「……詩、ちょっと寄り道しない? あれ」
「ん? えっと……エリア40メインバスターミナル行き……あ」

 まさか、と途端に目を輝かせる詩音に、至恩は「決まりだね!」と満面の笑みで頷くのだった。

「行こう。誕生日のラーメンを食べに、さ!」


 ◇◇◇


 エリア7からバスで橋を渡って30分。
 スマホで調べた場所に向かえば、そのラーメン屋は二人の記憶と寸分違わない佇まいを残していた。

「うはぁ……ここの豚骨醤油ラーメンは絶品なんだよなぁ……だめだもう涎が」
「ラーメン大にトロ肉チャーシューと煮卵トッピング、締めに店主特製抹茶パフェ、ね!ラーメン屋なのにパフェを出す奇抜さが最高すぎて」
「ちょ、至分かってるぅ!! やっぱり私達『同じ』だよねぇ!」

 期待に胸を膨らませ、二人はがらがらと扉を開けて暖簾をくぐる。
「ぃらっしゃいませぇ!! 明けましておめでとうございやす!!」と威勢のいい親父さんの声が飛んでくる店内は、流石に元旦早々ラーメンを食べに来る客などいないのだろう、閑古鳥が鳴いていた。
 むしろ、元旦から店を開ける店主のやる気に感服である。そう言えば二人の誕生日である大晦日だって、3回に2回は開いていたような。

「2名様っすね、カウンターにどうぞ!」と通されて、ああ、ここでもちゃんと二人なんだと詩音は頬を緩ませている。
 ……いや、違う。あの緩みっぷりはそれ以前に、頭の中がラーメンで占拠されているせいだ。

「ご注文、何にしやすか?」
「あ、豚骨醤油大、トロ肉チャーシューと煮卵トッピング、食後に抹茶パフェで!」
「僕も同じのでお願いします!」
「あいよ! って……ちょっと待ったお客さんその、大丈夫っすか? ええと……そのパウチ」
「あ」

 注文を受けた店主が、開けっぱなしだった詩音のリュックの中身をチラリと見て心配そうに声を掛ける。
 そう言えばコンビニでも店員が矢郷に二人の食事について詳しく尋ねていたな、とふと思い出せば、新たに頭の中に書き足される情報が1行。

 現時点の咀嚼能力は、ムース食もしくは軟菜食。嚥下には問題が無い――

(……ムース? ええと、これってつまり)
(ラーメンやパフェはこの身体では推奨されない? ……ってこと、かなぁ……)
(ええええ、そんなここまで来て諦めるの!?)

 何てことだ。人間様への従属心が残っているのは当然としても、まさか自殺と他害防止のために顎の力を弱められ、長年悍ましい餌を啜り続けた弊害がこんな所で出るだなんて! と二人はショックを隠しきれない様子で顔を見合わせる。
 ここは諦めた方がいい、頭では分かっているけど……

『お前らだって立派な大人なんだ。やりたいことがあるなら好きにやりゃいい』

 ……このタイミングで、矢郷の言葉が都合良く再生されるくらいには、目の前のごちそうを諦めきれない。

「…………ど、どうしよう……」
「うう……折角来たのにぃ……食べたいよぉ……」
「あー…………分かった、ちょっと待ってな兄ちゃん達」
「へっ」

 未練がましくメニューを眺めながら俯いていた詩音の姿に、店長は少し考え込んだ後「今日は客なんて来ないだろうしな、特別だぜ」と言いながら厨房へと戻っていく。
 そして待つこと10分。「あいよ、豚骨醤油トロ肉煮卵入り、お待ち!」と器を二人の目の前に置いた。

「流石に大盛りはやめとけ。後でパフェも食べるんだろ? あ、パフェの団子は入れられないから、それは勘弁な!」
「…………!!」

 器に盛られたのは、いつものラーメン……に見えて、少しだけ見た目が違っていた。
 麺は柔らかめに茹でた上に少し長めの短冊状に刻んであって、歯でかみ切らなくても上手くほどけるように配慮してある。
 具材も全て細かく刻んである上に、スープは明らかにいつもよりとろっとしていて、口の中で麺や具材がまとまりやすいよう工夫されているようだ。

「レンゲで少しずつ掬いながら食べるんだぞ、ああ、水はとろみがいるか?」
「あ、飲み込むのは平気です…………その、ありがとうございます……」
「おう、ごゆっくり。んじゃパフェも改造しますかねぇ!」

 ご機嫌な店主は次の注文に取りかかりながら、チラチラとこちらの様子を窺っているようだ。
 思いがけない提供に戸惑いながらも、懐かしい記憶を呼び覚ます香りに口の中には涎が溢れ……二人は「いただきます」とそっと手を合わせ、じっくり煮込まれたチャーシューと刻んだ麺を掬って口へと運んだ。
 途端に口の中に広がる味は、最初はただの衝撃にしか感じられなかったが、二口、三口と食べ進めるうちに興奮が収まってきたようだ。舌がすっかり忘れていた味覚を感じ、脳へと記憶を運んでくる。

「……これ、覚えてる…………」
「うん…………あの頃と同じだ……」

 滑り込むように口の中に入ってくるラーメンは、今の至恩達の咬合力でも十分飲み込める状態まで咀嚼できる。
 複雑に絡み合ったスープと麺の香りを感じて、ほんのり甘いチャーシューと煮卵を舌で転がし、ゴクンと飲み込めばお腹に……そして心にじんわりと温かさが満ちていく。

 甘い、しょっぱい、美味しい……温かい……

 どれも、二等種には決して許されなかった人間様の味と温度。
 羨ましいと思う気持ちすら叩き潰され、地上の思い出と共に忘れ去られていた感覚が……大好物を前に、実に10年ぶりに日の目を見ることを許される。

「……ひぐっ……ぐすっ……美味しい…………美味しいよ、詩……」
「ひっく……うん……至と、一緒に……並んで食べてる…………!」

 いつしか二人は、ぼろぼろと大粒の涙を零し鼻を啜りながら、一心不乱にレンゲを口に運んでいた。


10年ぶりの誕生日


 ああ、これほどまでに僕達は人権を取り戻したかった。
 自由に呼吸し、二本足で歩き、味覚を刺激するものを食べ、そしてトイレで用を足し、温かいお湯で身体を清めて柔らかいベッドで眠る……
 そんな最低限の生活を願う気持ちまで奪われて、モノとして作られた事に感謝することを当たり前だと擦り込まれてさえ、心の奥底にはずっと……性的な渇望にすり替えられた「生きたい」という叫びが残っていたのだ。

 そしてこれほどまでに、私達は一緒にいたかった。
 小さな箱庭のような世界だけじゃない。扉の向こうでも……このどうしようもない世界の中で見つけた小さな美味しいを、嬉しいを、楽しいを共に抱き締め、分かち合いたかったのだ……!

「…………ほら、兄ちゃん達。お待ちかねのパフェだぜ」
「すんっ、ずずっ……あ、ありがとう、ごじゃいましゅ……」
「んでティッシュな! ほら、ちゃんと鼻かんでから食えよ、折角の特製パフェなんだからさ!」
「うええぇん……ありがとうおじさん……!!」

(ああ、あまりの絶望に何も見えなくなっていたけれど)
(もしかしたらあの水底に沈んだ街にも……こんな小さな優しさがあったのかもしれない)

 相変わらずチラチラと様子を窺い口元に笑みを湛えた店主の姿に、二人は23歳にしてようやく、央以外の人間様の優しさを知る。
 ――食べやすいように、けれど見た目は華やかに作られたパフェの味は、涙と温もりの味がした。


 なお。
 この1時間後、二人はバスターミナルのトイレで盛大にフルリバースする羽目になる。
「やっぱりラーメンは刺激が強すぎたのかな」「私達には早すぎたね」と顔を青ざめさせながらも彼らはどこか嬉しそうで。

 いつかあの頃と同じ形のラーメンを食べに来れるようになろうと、指切りで約束を交わすのだった。


 ◇◇◇


「央様を探そうと思うんだ」
「賛成。やっぱり央様に会いたいよね」

 帰りの船の中、まだ胃の気持ち悪さを覚えながら上段のベッドに寝転んでいた至恩は、胸に秘めた想いをこれまた下段のベッドで唸っていた詩音に告げる。

 あの日、自分達が初めての交合に脳を焼かれぶっ飛んでいた時に、保護区域の中で何が起こっていたのかを二人は知らない。
 多分自分達がいたのは調教棟の地下深くだろうし、そんな場所が何かで埋もれていたのであれば、恐らく保護区域全体が壊滅的な被害を受けていたはず。となれば、魔法の無くなったこの世界に二等種に関わっていた人間様が生き残っている可能性は、非常に低いように思う。

 ただそもそも、あそこで確実に災害に巻き込まれ死んでいたはずの自分達は、こうしてピンピンしているのだ。その辺の法則はさっぱり謎だが、それまでの災害はともかく、最後の大災害に関しては何らかの謎の力が働いて生きているかも知れない……
 こんな時こそポジティブ思考の出番だよねと言わんばかりに、彼らは無理矢理希望を捻り出し、次の方向を定めるのである。

 ただ探すにしても、一体どうやって、という問題は残るわけで。

「そもそもなんだけど、私達保護区域がどこのエリアの下にあったか分からないんだよね」
「うーん……何か昔の記録が残って……る訳がないか、この世界には二等種なんて存在しなかったんだから」
「取りあえずは行政区域Cから? でも、尋ね人ってどうやって探すんだろう」

 それと、探す方法が見つかってもあと一つ、とんでもない問題が残っている。
 他の人から見れば些細かも知れないけれど、自分達にとっては重大すぎる問題が。

「……もし生きていたとしてさ。今僕らの世界は重なってるわけで」
「うん」
「その、央様は……男の子と女の子、どっちの姿で生きているんだろう」
「…………はっ!!」

 昨日この世界のことを調べていたときに、ふたなりという種族が存在することは確認済みだ。
 そして至恩と詩音が同時に一つの世界に存在している以上、同一人物である央は当然ながら一人しか存在しなくなるわけで。
 これは大変な事になった……と詩音は頭を抱えるのである。

「どうしよう……央様が女の子になってたら……うん、大丈夫! 央様が女の子でも私は愛せる」
「いやちょっとまって!? それじゃ僕ら、央様を巡ってライバルになっちゃうんじゃ!」
「…………至でも央様は渡せないかなぁ。ごめんね、ここは男らしく諦めて」
「何で僕が諦めるの前提なのさ!!」

「大体僕の央様のほうが、可愛いし知的だし責め方のキレがあるし」「私の央様の方が格好よくて優しくて、ついでにゴミを見るような目はゾクゾクするもん!」と、当人達が聞いていたら速攻で懲罰電撃をお見舞いしていそうな掛け合い繰り返すこと30分。
 不毛な争いは「じゃあ、卒業アルバムを見ようよ! あれを見れば一発で分かるはず!!」という詩音の提案により幕を閉じたのである。


 ◇◇◇


「やっぱりあったよ、それも2冊。多分至と私の分」
「うわ、懐かしい……けど、出来れば見直したくは無かったな……」

 自宅に辿り着いた日の夜、二人はベッドの上で少し色褪せたアルバムを前に、緊張した面持ちで座っていた。
 相変わらずソファには座れないが、ベッドは幼体時に使っていたお陰なのかソファよりは抵抗なく乗れるようで、彼らはこの世界の生活4日目にして床の冷たさを回避するには寝室に籠もればいいと学んだ(?)らしい。

 二人が初等教育校を卒業したのは、二等種として捕獲される3日前。
 だから二人は、初等教育校を卒業しながら二等種として地下に収容されたいう、ちょっと珍しい経歴を持っている。
 ちなみに実際には捕獲時点で卒業は取り消されているのだが、捕獲以後の地上の話を彼らが知ることは今後も無い。

「うわぁ……我ながら酷い顔をして写ってる……」
「いやあぁ至見ないで、こんな不細工な私見られたくない!」

 ページをめくれば、この世は地獄だと言わんばかりのどんよりした雰囲気を纏って集団の隅に立っている、いかにも苛められっ子ですと言わんばかりの男児と女児が嫌でも目に入る。
 当時を思い出せばこの表情もさもありなん……と蘇る数々の暴虐の記憶を振り払うように時折頭をぶんぶん振りつつ、二人は集合写真の下に書かれた名前を一つずつ確認し始めた。

 二人のアルバムには、どちらにも同じクラスに至恩と詩音、二人が並んで写っている。まさかこんな所でも二人の世界の重なりを感じるとは思わなかった。

「鍵沢、鍵沢…………ん? あれ、いない……」
「こっちもいないよ。もしかして……この世界だとクラスが違ったのかなぁ……」

 ところが、肝心の央が見つからない。
 何度同じクラスの集合写真を見直しても央の名前は載っていなし、写真にも金髪にグレーの瞳を持つ想い人の姿はどこにも写っていないのだ。
 もしや同じクラスというのは覚え違いだろうかと首を傾げつつ、念のために他の2クラスも目を皿のようにして探したものの結果に変わりは無くて、二人はがっくりと肩を落とした。

「……あれかな、央様は夏休みで首都に行っちゃったからアルバムには載ってない?」
「でもそれは、魔法登録だよね? 魔法の無いこの世界じゃ、そのイベントは起こってないと思うんだよねぇ……」
「じゃあ、別の理由で転校?」
「…………分からないや。頭の中にも何も出てこない……」

 この4日間、何かを調べる度に頭の中に追加されていたこの世界の「設定」が、今回は何一つ増えない。
 確かに央の記憶は二人の中に残っている。幼い頃からつい最近の人間様としての央まで、何一つ忘れているものは無いと自信を持って言えるくらいには、誰よりも強く焼き付いた記憶だ。
 けれどそれは、あくまでも二人の世界があの小さな部屋でのみ重なっていた頃のものでしかなくて。

(……嫌な、予感がする)

 詩音の背中に、冷たい汗が流れる。
 言葉には出さない。口にしたら、現実になってしまいそうな気がするから。
 同じ事を考えているのだろう至恩も、グッと唇を噛みしめたまま無意識に詩音の手を探していて、詩音は大丈夫だと返す代わりにそっとその手を握り返した。

「……アルバムはしまおうか」
「だね……もう十分」

 二人はそっとそれぞれのアルバムを閉じる。
 そしてクローゼットに戻そうとケースを手に取ったとき、ひらりと何かが宙を舞った。
 その正体に気付いた瞬間、二人の顔が「げっ」と真っ赤に染まる。

「あ……嘘でしょこんな所に……」
「まさかこんなものまで残ってたの!?」

 ベッドの上に落ちた、二つの封筒。
 それは初等教育校6年の夏休みに二人で書いた、央への告白大作戦だった。
 中等過程に進学したら告白する! と決めて、二人でああでもない、こうでもないと脳天気に計画を練っていたその全てが、この白い封筒の中には詰まっている。

「………………うわぁ……」
「と、とんでもないものを見つけちゃったね……」

 どうしよう恥ずかしくて死にそうと叫びつつ、しかし二人は躊躇鳴く封を切る。
 それは、央に繋がるものなら何だって今は調べなければならないという、無意識の行動だったに違いない。
 うあああと奇声を上げながらも二人は中に入った一枚の便せんを開いて、かつての自分達が残した黒歴史を確認しようとした。

 ……した、はずなのに。

「…………あれ?」
「作戦……じゃない……?」

 そこに書かれていたのは、たった1行。
 こんなこと書いたっけ、と首を傾げつつ、二人はその短い言葉を読み上げる。
 ……まさに今の願いに繋がるが故に、ちょっとばかし重い気持ちを込めながら。

「「……央、会いたい」」

 二人の声が唱和する。キュッと胸が切なくなる。
 口にすれば余計に会いたくなるねぇと、詩音がしみじみ零そうとした次の瞬間

「!! 至、髪が……!」
「え、光って……詩も光ってる……!!」

 たった一筋だけ残った浅葱色のメッシュが、突然眩く輝き始める。
 何かこんな風景、以前見たことがある気がする……と既視感を覚えながらも、あまりのまぶしさに二人は目を閉じて、瞼の向こうに広がる輝きが収まるのを待ってから、恐る恐る目を開いた。

 そうして…………目の前に広がる光景に、声を失った。

「え……な…………央、様……!?」
「ど、どうなってるの……!?」

 ベッドの上に呆然と座り見上げる二人の目の前。
 そこにはキラキラとした輝きと共に

《……やあ、シオン》

 少し透けた央のホログラムが、展開されていたのである。


 ◇◇◇


「な……な……っ」
「…………はぇ……?」

 嬉しさよりも当惑の方が遙かに上回って、言葉が出てこない。
 二人は目の前に映し出された央に条件反射で土下座して、それからもう一度おずおずとその姿を見上げるのである。

「……何が、起こったんだろう…………」

 もう訳が分からないとまるで顔に書いてあるかのような至恩に「多分、これだよね」と詩音は便せんと自分の髪を……未だ光を放つ浅葱色のメッシュを指し示す。
 これまでに身につけた魔法の知識から察するに、この便せんに書かれた言葉は魔法発動の呪文。そして光り輝くメッシュは、あの世界では謎魔力の蓄積媒体だった。
 だからこれは、一筋残ったメッシュの魔力を使って央のホログラムを表示する魔法が発現したものと考えられる。

 ……いや、そもそもどうしてこの組み合わせで央が出てきたのかは、全く分からないのだけど。

 どちらにしても、央の姿が見えたことで二人は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「良かった、央は女の子の格好のままだった」と至恩が安堵の笑みを浮かべて話を進めようとすれば、その言葉を聞いた詩音が「え」と目を丸くした。

「……至、央様は男の子の格好をしてるよ?」
「へっ!? そんなこと無いよ、ちゃんと女の子の格好をしてるってば!」
「いやいや…………んん? もしかして」
《あーあー、ええと先に言っておかないとキミたちの事だしね。この映像はキミたちの知る央の姿で見えるはずなんだ。だからつまらない諍いはしないでおくれよ》
「「うわ見抜かれてる!!」」

 まるでこちらの様子が分かっているかの口調だが、残念ながらこれは通信ではなく記録映像のようだ。
 その事に少しだけ失望を覚えるけれど、これで央に繋がる手がかりが出来たと二人は喜びながら、続きの再生を待つ。
 映像に映っている央は、気のせいだろうか……あの見慣れた人間様然とした風貌と言うより、かつて地上で共に学んだ頃の優しい表情を浮かべている気がする。

《いやぁ、壁に向かって話すって変な感じだね! キミの反応が見られないだけでこんなに話にくいだなんてさ》

 ポリポリと頭を掻きながら、けれど央は淀みなく話し始める。
《ああ、一応こう言うのは時系列が大事だよね。ちゃんと記録しておかないと》と最初に現在日時を入れる辺りは、やっぱり根は真面目な研究者なのだろう。

《今は3065年12月29日、22時31分。ほんの30分ほど前に、キミがディルドとオナホを使った疑似セックスでアヘりながら電撃で寝かされたところ。いやもう、僕が知る限り最も無様なキミを見ちゃった気がするよ……ああいや大丈夫、軽蔑はしてないから安心して》
「うああああやっぱり!! そんな人生最大の無様っぷりを央様に見られるとか!」
「死ぬ! ホントに死ぬ!! 安心なんて無理っむしろ殺してえぇぇ!!」

 ……ああ、優しい央様は絶対気のせいだ。
 だって目の前の少し透き通った央様は、自分達が恥ずかしさに悶絶する姿が見えているかのように意地悪な笑顔を見せているのだから。
 いや、もちろん悪くは無い。悪くないどころか、それでこそ僕らがご主人様と(勝手に)定めた人間様だよね! と、二人は久々に被虐心を刺激されてちょっとご満悦である。

 ひとしきりニヤニヤと見えないはずの二人を眺めていた央だが、暫くすると《あまり時間も無いし、本題に入ろうか》と声のトーンを落とした。
 その変化に、うっかり変態モードに突入しかけた二人の表情も一気に真顔へと引き戻される。

《これをキミが……いや、キミたちが見ているって事は、きっとボクの予測は当たっているんだと思う。二人がずっと一緒の世界の居心地はどうだい?》
「!?」
「へっ、ずっと一緒の世界……?」

(……どういうこと? まさか、央様はこの未来が見えていた……?)

 初っぱなから二人の世界の重なりを指摘され、至恩と詩音は思わず顔を見合わせる。
 そんな二人の様子など見えていないかのように――実際見えていないのだろうけど――映像の央は話を続けている。

《実はタイムリミットの前に、終わりが来ちゃったんだ。久瀬さんに……じゃないや、調教管理部長に感づかれた。ボクが気付いたのは2週間ほど前、研究室のデータに侵入の痕跡が残っていてね》
「!!」
《とは言え、下手に動けば自ら墓穴を掘っちゃうし、こちらとしては静観しているしかなかったんだよ。その結果……3日前に彼は、ボクとキミに関する報告書を二等種管理庁のトップに送りつけた》
「…………」
《それで今日の、今から2時間くらい前かな? キミの正式な処分と、ボクの判決が下ったのは。ああ、判決ったって欠席裁判だよ。全てはボクの知らない所で決まっている……だから、明日早々にもボクとキミたちは重犯罪者として拘束される。これは今までの国の動きから見ても間違いない。詳細は分からないけど……まあ、最悪の事態を想定しているよ》

 淡々と語られる央の予測を、二人は神妙な面持ちで聞き続ける。
 そう、央の予測は当たっていた。この記録の次の日、朝一番に二人はいつもと違う部屋に転送され、永久封印と大改修を含む処分の宣告をうけて保管庫に格納されたのだ。
 そして、恐らくは央も……

(無事、だったんだろうか)
(既に二等種に堕とされていたのかな……)

 その先に待ち受ける運命に、救いなど無い。
 央だってそれは重々承知の筈だ。けれど、映像の想い人は表情を崩すことなく……そして二人が思いも掛けない言葉を口にした。

《だから、ボクは賭けに出たんだ。そして……これをキミが見ているのなら、ボクは賭けに勝ったんだよ》
「…………掛け?」
「勝った、って……どういうこと?」
《と言っても俄には信じがたいよね。いやぁ、方向だと様子を見ながら内容を調整できないから、ほんっとやりにくいね……そうだなぁ、まずはボクのことを聞いてくれるかい?》
「はっ、はいっ……というか聞くしか無いよね」
「それはそう。これ、止め方も分からないし……」

 映像の央が置かれている状況からは、想像もつかない言葉。
 そして自らの目で確認したわけでも無いのに「勝った」という言葉の意味。
 正直、央の話の意味は一端すら掴みきれないよ……と二人の当惑は深まるばかりである。

 とはいえ、この映像は二人が思っている以上に今回の騒動を雄弁に語ってくれるはずだ。
 二人はいつものように身を寄せ合い、期待と不安を胸に手を握りあったまま「僕達に理解できる話でありますように」と祈りつつ、相変わらず穏やかな笑顔を浮かべる央を見上げるのである。

 ――そうして、央による長い長い独白が始まる。
 キミはボクの話なら日付が変わったって聞き続けるよね! だってボクのことが大好きなんだから! とにっこり笑った央の表情は……ちょっとだけ寂しそうだった。

《初めに言っておくと……知っていたんだ、全部。12歳のあの時から、キミがどうなるのかを……だからボクは、あそこの区長になった。まあ、少々強引な手法ではあったけどね!》


 ◇◇◇


 12歳の夏休みは、希望と絶望をごちゃ混ぜにした混沌に放り込まれたような気分だった。

 魔法登録を終えた央は、そのまま中央政府職員の付き添いのもと、首都へと移動する。
 ふたなりは例外なく12歳を迎えた段階で形式だけの魔法登録を行い、専門の教育のために首都へと移り住むことは半年以上前から両親に聞かされていたから、特に不安は無かった。
 むしろ憧れの首都に住めるという喜びと、特別な教育を受けエリート街道を歩めるという期待に胸を膨らませ、央は両親に別れを告げて意気揚々と首都へと向かう高速鉄道に乗りこんだのである。

 新しい住まいは12歳の子供が住むとは思えないほど豪華だし、身の回りの事は全て政府関係者が整えてくれるとあって、央はまさに幸せの絶頂だった。
 唯一、故郷に残してきた家族や友人に連絡を取れるのは半年後だというのが、寂しかったくらいか。

 だがその数日後、飛び級での大学入学に先駆けて特例で実施される半年間の成人基礎教育の場で、央は絶望のどん底へと叩き落とされる。

「…………二等種……? 魔法が使えない、有害なモノ……!?」

 央とあと二人、魔法登録の成績が極めて優秀だった特別選抜生が参加する基礎教育の場には、一体の性処理用品が運び込まれていた。
 スーツケースから取り出された裸のメス個体はだらだらと蜜をこぼす股を開けっぴろげにしてその場にしゃがんだまま、ずっとこちらの股間を物欲しそうに眺めている。
 その様子に子供達が思わず不快感を示せば「ああすみません、不適切な動作ですね」と教官は顔色一つ変えずにそのメス個体の懲罰電撃を作動し、くぐもった悲鳴を上げさせたのである。

「見て分かるとおり、これは人間ではありません。ただのモノ……いや、穴です」
「穴……」
「これから半年間、皆さんはまだ未成年で利用は出来ませんから、私達教官が使うのを見学しながら学んでいただきます。性処理用品は完全な無害化処置を受けているとは言え、危険性はゼロではありません。ご自身の身を守るためにも、二等種の扱い方をしっかり覚えて下さい」
「は、はい……」

 本来18歳で成人をした後に学ぶ、二等種の概念と取扱方法――それをたった12歳で教えられた央のショックは大きかった。
 いや、ショックを受けたのは央だけでは無かった。
 そもそも思春期を迎え性というものに興味を抱き始める年頃の子供に、人間の悪意をぶつけるためだけの性奴隷、いや奴隷ですら無いモノの存在を知らせるなど、狂気の沙汰であろう。

 とはいえ、大学に入学すれば周りは成人ばかり。
 若者社会の中で活動する以上、どうしても二等種に触れる機会は出てきてしまうし、そうなれば若く才能ある彼らが二等種如きに堕落させられる危険も出てくる。
 だからふたなりを含む特別選抜生は、手厚いメンタルケアを受けながら早い段階でこの知識を学び、扱い方を覚え……そして頭のいい彼らはたった半年で大人顔負けの「人間様」になるのである。

《……けれど、ボクは本当の意味では人間様にはなれなかった。いや、もちろん表向きは二等種を虐げる人間様を演じ続けたよ。けれど……人間様になんてなりきれないよ。だってボクは、シオンの未来を知ってしまったのだから!》

 二等種という概念を知ったその瞬間、央の脳裏に浮かんだのはシオンの顔だった。
 わずか5歳にして魔法を発現していた央は、幼馴染みだったシオンの潜在魔力が微塵も感じられない事に、早くから気付いていたのである。

《シオンがこんなモノになって、人間様に媚びて無様に腰を振るようになるだなんて考えたくも無かった。けれど……ボクは無力だ。キミを助けるどころか、この事実を先んじてキミに知らせる手段すら無い。成人基礎教育を終え、かつ同学年の子供が全員12歳を超えるまでは一切外部との連絡は取れなくてね。……あの頃のボクには文字通り、絶望しか無かったよ》

 二等種の教育を受けたことにより、シオンがどこに連れて行かれるのかは分かっていた。
 行政区域C、エリア22。この国の西の端にある広大なエリアの下に、保護区域C――12月生まれのシオンが収容される施設がある。
 だが、分かっていたところで自分には何もできない。ただあのメス個体のように淫乱なモノとして加工されていくシオンを想って、涙に暮れるだけ――

 表向きは首都の大学に通い充実した生活を過ごす一方、一人になれば絶望のそこで嘆くだけの日々を、一体どのくらい過ごしただろうか。
 ある日、央は大学の飲み会(と言っても央に飲めるのはジュースだけだが)で先輩から思いがけない話を聞く。

 ――懇意にしてるOBが、性処理用品を買ったらしい。S品という貴重な製品に大枚をはたいた酔狂な彼が、ホームパーティに誘ってくれたのだと――

 性処理用品は個人で買い取れる。
 もちろん購入するにはあらゆる条件をクリアする必要があるが、最もハードルとなる金銭面と素行調査については、ふたなりであればフリーパスだ。
 実際その外観からどうしても恋愛に消極的になりがちなふたなりが、旺盛な性欲を発散させるために性処理用品を買い求めるのはままある話らしいと知ったとき、央は間髪入れず決意する。

 そう、シオンを、買おうと。


 ◇◇◇


《……二等種の運命から、キミを救うことは出来ない。ボクの知るシオンとは変わり果てたモノになってしまうのも分かっている。それでも……ボクはキミを手元に買って最後まで飼う、そう決めたんだ。二等種になる前から散々虐められてきたキミを、更に人間様の醜悪な悪意に晒すだなんて、ボクには耐えられなかった》
「…………央様」
《と言うわけで、ちょっとばかし他人を蹴落としたり、手を汚してきたんだよね!》
「えええ……それ、そんな笑顔で話していいことなの!?」

 何としてでも、シオンを買う。
 ……そう決断してからの、央の動きは速かった。

 手を差し伸べられなくても、自分が買い取れる状況になるまで近くで見守ることが出来ると踏んで、ほとんどの特別選抜生が希望する魔法省ではなく、二等種管理庁を就職先として選んだ。
 あらゆる伝手を駆使して保護区域Cに関わる人間のあら探しをし、ちょうど区長の汚職を見つけたのをこれ幸いにと大々的に告発して失脚させ、新しい区長として潜り込んだ。

 今後融通を利かせるためにも内部で良好な人間関係を築いておくべきだと、当時不遇な立場に置かれていた調教管理部長の久瀬にも近づいた。
 ……まぁこれに関しては、思った以上に久瀬がいい奴だったので、結果的に公私ともに長い付き合いとなったわけだけど。

 ともかくこの立場なら、定期的にシオンの様子は報告で確認できる。そして頃合いを見計らって「予約」しておけば、狙いの品は簡単に手に入る筈だ。

 ――そう、その筈だったのに。

 まさかあんな想定外を起こすとは思いもしなかったよ、と映像の央はきっとシオンが土下座して居るであろう辺りを見下ろし、口を尖らせる。

《最大の誤算は……シオン、キミが超弩級のヘンタイだったってことだよ!!》
「へっ!?」
《大体何なのさ、性処理用品が解釈違いって!! ドマゾのヘンタイならそれらしく、穴となることを喜んで尻尾振って調教されちゃえば良かったんだ!!》
「えええ、そんなひどい……」
《お陰でボクの計画はおじゃん! だって、買取が出来るのはS品からD品までの性処理用品だけ。X品の作業用品は無害化に失敗した不適格個体、地上に出せない有害品だから、買取なんてありえないんだよ!!》
「「…………はっ!!」」

((そりゃそうだ、不良品が買えたらまずいよね!!))

 央曰く、成人基礎教育においても不適格個体である作業用品については一切の言及がないという。
 一般には完全に秘匿され、その存在すら地上から抹消されたモノ、それが作業用品だ。央自身も不適格品を表すX等級の存在を知ったのは、久瀬と調教管理部の「お掃除」に精を出していた頃らしい。

 ぷんすかとあの頃のぶっ飛んだ変態行為を列挙し文句を垂れ流す央に、シオンは「ええと、あの、すみませんでした……」「そんな央様が購入してくださるだなんて、知っていたら……いや、知っていてもやっぱり解釈違いはちょっと……」と、平身低頭謝っているんだか言い訳をしているんだか分からない有様である。

《ともかく!! ボクはあの不良品のリサイクル加工のお陰で、二度目の絶望を味わったんだよ!! もうこれでキミをここから連れ出す方法は無くなった、作業用品として酷使され壊される姿を見守るしか無いってね!!》
「「ご、ごめんなさい……」」

 それでも、製品として穴を穿たれ悦ぶだけの人格を植え付けられたモノよりは、ましかも知れない――
 央は幾度となく己に言い聞かせ、久瀬と交渉して「研究素体」としてシオンを常時観察できる体勢を整える。
 出来ることと言えば、作業の様子や保管庫での変態っぷりを見守るだけ。もしかしたら久瀬を通じて少しくらいの関与は出来るかもしれないけれど、精々その変態性癖を満たす手助けをするくらいだろう。

《でも……それだけでも十分だった。十分だと思っていた。あの貞操帯を与えたときのキミの幸せそうな顔を見たら、胸が詰まって泣きそうになったよ。こんな形でしかキミは幸せを得られないのか、って》
「……央様」
《まぁ、後から振り返ればこんな形どころか、キミらがドマゾらしく勝手に明後日の方向に幸せを発掘しにぶっ飛んでいくきっかけを、ボクは与えてしまったんだけどね!! 貞操帯が無ければキミのヘンタイ度合いも多少マシだったかと思うと、悔やんでも悔やみきれないよ!!》
「げふっ!!」
「そ、それを言われると痛い……!」

 再び怒りを爆発させる央のホログラム。
 けれど、その語気は突然静かなものに変わるのである。

《……そう、貞操帯が無ければ……災害も起きなかった。あのまま……キミのドマゾっぷりに全力で突っ込み眺める日々が、続いていたのに》


 ◇◇◇


《あの大災害と、キミの告解。それが今のキミ達に繋がる最初のきっかけだ》

 央は、これまでシオンに隠していた事実を語る。
 シオンが災害とリセットの関係に気付くずっと前から、シオンの魔法が発現している事に気付いていたこと。
 同時に二等種にしかその効力を示さない首輪は、シオンの特異性故か中途半端に効力を失っていて、それを直接確認、隠蔽するためにあの日久瀬に無理を言って検分を変わって貰ったこと。
 そして――シオンの口から災害との関係性を知り、並行世界の概念が証明されていく中で希望を抱いたことを。

《この世界のどこにも存在しない、並行世界の概念。全てが同じなのにキミだけが性別が違う、いわゆる特異点である世界の存在――自分達の常識にない現象を解明すれば、そこにもしかしたらキミを、そしてキミの友達をこの境遇から救える道があるかも知れないって、当時のボクは考えた。ああ、何の根拠も無かったよ? けれど、研究者としての直感かな……災害と並行世界の研究は、きっととんでもない事実をもたらすはずだと確信していたんだ》

 残念ながら、これまで変えられた肉体と脳を元に戻すことは、如何に有能な魔法使いである央であっても不可能だ。
 首輪の機能は部分的に残存し、餌から薬剤も常時投与されているから、シオンたちの心身が回復する可能性はほぼ無いと言っていい。
 それでも、この研究の末にシオンがまっとうな幸せを掴む道があるならやるべきだ……そう判断した央は、災害とシオンとの関係を完全に秘匿する。

 ……露見すれば身の破滅が待つと知っていても、一度諦めたはずのチャンスが巡ってきたにも関わらず見過ごすだなんて、今の央に出来るはずが無いのだから。

《ま、そういうわけでボクはキミたちをモルモットにしたってわけ。ああ、ちなみに首輪は直ってなかったんだよ》
「え?」
《いやぁ、流石にあんな先人の叡智の結晶みたいな首輪には、ボクでも干渉は無理だよ! だからカモフラージュために、キミのうなじに直接首輪と同じ機能を刻み込んだんだよね》
「……はい?」

 央の言葉に、二人は慌てて互いのうなじを確認する。
 そこには確かに、髪の毛で隠れるように小指の爪くらいの刻印が施されていた。
 あの分厚い金属の首輪に装填されている魔法をたったこれだけの刻印で代用するとは、本当に央は優秀な魔法使いなのだと二人は改めて感服する。

《ちゃんと合図や停止電撃も復活してたし、首輪が直ったように見せかけられてたでしょ? ちょっとばかし手が滑って威力が激増したけど、案の定1年くらいで慣れたし問題は》
「「それは大ありだったんですけど!!」」

 ……いや、今の感服は取り消そう。
 いつからだったか懲罰電撃ですかと言わんばかりの威力になった合図は、てっきり央の保護者状態だった久瀬による塩対応の一環かと思っていたのに、まさかこんな身近に伏兵がいただなんて!

「あのさ、詩……もしかしなくても央様って人のことをヘンタイって言いながら」
「うん、私達が変態行為に勤しんで泣くのを楽しんでいたよね……」

 その後も各種実験におけるシオン達の痴態を嬉々として――人間様らしくではなく、純粋に楽しそうに語る姿に、二人は「やっぱり同士だったんじゃん!」「ポジションが違うだけだった!」と次に会ったら盛大に突っ込んでやろうと心に決めるのである。


 ◇◇◇


《ああ、何だか自分語りが過ぎた気がするね……まあそういうわけで、キミをモルモットとして振り回すのは実に楽しかったよ! まぁ、キミだってヘンタイとしてボクを散々振り回したんだからおあいこだよね!!》
「とうとう楽しんでたって認めちゃったよ、央様」
「なんだろう、この釈然としない気持ち……」
《さて、そろそろ次の話に移ろうか。今のキミが……いや、キミたちが一番知りたがっていることだろうね》
「……!」

 ひとしきりシオンを悶絶させた央の口から、とうとう核心が語られる。
 二人はゴクリと喉を鳴らし、思わずその場に正座した。
 ……その手に、互いの温もりと拍動を感じながら。

《説明は後でするとして。キミ達の魔法は、ただ災害を起こす魔法ではない、というのがボクの出した結論だ。――これは二つの世界を統合する魔法なんだよ》
「……世界、統合?」
「何だかスケールがおかしくなっちゃったね……」

 魔法の全容解明の発端は、シオン達の願いだった。
 いや、願いと言っても彼らがいつも叫び、時にはAIをフリーズさせるという珍事を引き起こしている変態極まりない願いでは無い。
 この場合はもっと深い……自分でも気付いていないほど心の奥底に根ざした、根源的な願いを指す。

《人生で最初に発動する魔法は、そういった無意識の願いを叶えるものが大半だ。だからキミたちの場合もそうだろうと安直に考えたんだよ。災害魔法だなんて、家では冷遇され学校では虐められ、挙げ句の果てに二等種として捕獲されて、人権を剥奪された……世界の全てが敵であるキミたちにはぴったりじゃ無いかって、ね》

 だがそれでは絶頂をトリガーとすること、そしてわざわざ並行世界の感情を魔力源とすることに納得のいく説明がつかない。
 更に言うなら、絶頂から絶頂までの間隔が短ければ短いほど、災害規模が大きくなるのも不自然だ。
 どこかで思い違いをしている……そう推論した央は、区長に就任してからこれまでのシオンに関する記録を全て洗い直すという力業に出た。

 そしてその結果、辿り着いた結論こそか「世界を統合する魔法」である。

《最初の大災害時のリセットは、それ以降と決定的に異なる点がある。一つ、連続絶頂であること。そしてもう一つ、キミたちがお互いを刺激し、同時に絶頂している事だ》
「……あ、言われてみれば……」
「連続絶頂はそれからもしてたけど……確かに、リセットは自分でしていたもんね」
《この魔法の発動条件は、正確には絶頂だけじゃ無い。互いに刺激を与え合い、同時に、そして連続で絶頂すること。それにより世界を崩壊させ……いや、二つの世界を一つにする。まるでキミたちが性交で一つになるようにね》
「「な……っ!!」」

 ずっと、一緒にいたい。離れずに、共に傍に。
 キミたちの本当の願いは、人間様やこの世界への恨みなんて陳腐なものじゃない。世界から刃を向けられたキミたちの、ささやかすぎる幸せを求める祈りだったんだ――

「…………」
「…………うそでしょ……」

 あまりにも意外な事実に、二人は言葉を失う。
 そんな素朴な願いのために、自分達は世界を破滅的災害に巻き込む魔法を発動したのかと、無意識とは言え己の為した業はあまりにも重くて……喉が渇いて、胃が痛む。

 ――けれども、一方で思うのだ。
 確かに自分達の願いはとてもささやかだけれど、人類史上一度も観測されていない別の世界を統合させなければ叶わないという意味では、確かにこれだけの犠牲を払ってしかるべき壮大な祈りであったのだろうなと。

 一体この気持ちをどうすればいいのだろうか……
 呆然とする二人の前で、ホログラムの央は淡々と語り続ける。

 これほど大きな魔法を行使するとなれば、恐らく人の恐怖から生まれる謎魔力のみならずこの世界そのものが有する膨大な魔力も間接的に用いられるであろうと推察される。
 世界が有する魔力は天然資源のようなものだ。それを使って二つの世界の統合を成し遂げた後、枯渇した魔力が復活するには少なく見積もっても数千年を要するだろう。

 そして世界そのものが魔力を失った以上、この世界の魔法体系は意味をなさなくなる――つまり魔法は世界から消える可能性が高い。

《世界は一つになり、魔法は消える。魔法が消えれば二等種なんて概念は存在しなくなる。そしてキミたちはずっと一緒に居られるようになる……まぁ、統合時の破局的災害で世界の形や人口は激変するだろうけどね。キミにとっては考え得る限り最良の展開になると思うよ。そして……これが、ボクが描いていた永久封印以外の災害を止める根本的解決法なんだ》

 元々、二人以外の要素は全てが一緒だった世界なのだ。
 おそらく個人という単位では、統合したところでその個人が変質することは無い。全く同じものを重ねただけなら、きっとその人は統合前と同じ人のまま新しい世界を生きることになる。

 二等種に関して言うならば、そもそもそんな概念自体が無くなる、または元から無かったことになる以上、地下に閉じ込めておく必要はない。
 結果として二等種は統合と同時に全ての人権を取り戻し、地上を再び歩けるようになるんじゃないかなと、央が語る未来は央にしては随分楽観的だ。
 それは央にも自覚があるらしく『キミの脳天気ポジティブが移ったみたいだね』なんて笑っている。

《だからさ、シオン。キミたちは自分を責めないで》
「……央様」
《確かにこれは、キミたちの個人的な願いだ。けれど、その願いが変態性癖と混じり合った結果、図らずとも世界から二等種を解放することになったのだから》
「……何か凄くいいことを言ってるはずなのに、言い方が」
「央様、よっぽど僕達の性癖がねじ曲がったのが嫌だったんだろうね……」

 何だかなぁと至恩は苦笑しつつも、央の気遣いが身に染みる。
 今の状況を手放しで喜べるかと言われたら、答えはNoだ。あの慰霊碑に刻まれた人の数を思えば、とてもそんな無邪気な気持ちにはなれない。
 それでも央様が責めるなと言うなら、僕たちはそれに従うだけだ――

(…………ん?)

 話は終わったのだろうか、映像の央は自分達を見下ろしている。
 その表情は終始穏やかで……けれど、やっぱりどこか寂しそうで。

(何かが引っかかるんだよなぁ……)

 央が自分達を助けるために尽力してくれたことは十分理解したし、感謝している。
 この世界が一体何で、どうしてこうなったのかも納得した。

 それでも、何かを見落としている気がして「詩、あのさ」とこの疑惑を共有しようとした至恩は、隣に座り込んでいる詩音の異変に気付く。

「……詩?」

 ほんの数分前まで暢気に話していたはずの詩音は、顔を青ざめさせ涙を浮かべて央を見上げている。
 握りしめられたままの手はいつの間にか冷たくなっていて、一体何が、と至恩が戸惑いを覚えたその時。

「…………それじゃ、央様は……同じだけど全く同じものじゃなかった、央様はどうなるんですか!?」

 悲鳴と紛う切なる慟哭が、部屋の中に反響した。


 ◇◇◇


「……どういう事、詩?」

 詩音の叫びの意味が分からなくて、至恩は訝しげに彼女の顔を見つめる。
 だが、その震える唇が開く前に、目の前のホログラムが《……それで、なんだけど》と再び言葉を紡ぎ始めた。

《もしかしたら気付いているかも知れないけどさ。魔法を発動した張本人であるキミたちは当然ながら統合した世界で生きられる。世界中の人たちも、理論上はこれまでと代わらない存在のまま、新しい世界で生活を営めるはずだ》
「そう、そうです!! でもっ、央様は」
「……詩?」
《ただし、それはあくまでも二つの世界で全く同じであった存在だけ。双方の世界で何かしらの差異があった存在は……もしかしたら微細な違いなら吸収されるかも知れないんだけど、基本的には統合が上手くいかず、消滅する》
「え」


《例えば……望む性別として魅力的に見えるようになる魔法を発現するほど、初恋のキミ達に好かれたくてしょうがなかった、そのために男装と女装という全く正反対の生き方を選んだボクのように、ね》


(…………央が……消える…………?)


 央の言葉に、至恩の世界が止まる。
 隣で泣きじゃくる詩音の声が、やけに耳について……ああ、心臓が、痛い――

《だからさ、ボクは最後まで足掻いていたんだ》と語り続ける央の声も、遠い。
 何故これは夢では無いのかと、頭の中でぐるぐると回り続ける思考、背中を伝う汗、その全てが現実を否定しようとして――けれど、当の央がそれを許してくれない。

 央は災害発生から半年ほど過ぎた頃には、シオン達の魔法の本当の原因と目的に、そしてその後世界と自分に起こるであろう事態に気付いていたという。
 シオンの「望み」だけなら、今すぐにでも叶えられる。だが、そうすれば自分は消滅する。死ぬ、ではない、恐らく存在自体が最初から無かったことになってしまうのだ。

《ボクの願いは二つ。キミたちが同じ世界を歩むこと、そして……ボクがキミと同じ時間をこれからも歩むこと。真実に気付いた日から今日まで、ボクはこの二つを同時に叶えるためにずっと……ボクが消えずに統合する方法を探し続けていた。残念ながら、ボクの実力では間に合わなかったみたいだけどさ》

 二つの願いを同時に叶えることは出来ない。
 それを悟った央に……迷いは無かった。

《だからボクは賭けたんだ。ボクの願いだけを叶える永久封印ではなく、キミたちが処分されるまでに願いを叶える条件を満たす……そう、君の大好きなその貞操帯を外してでも、二人がセックスをする可能性にね》

 そのためにわざわざ性処理用品の性交画像を流し、寸止めの渇望に喘ぐ頭に性交への興味を焚きつけた。
 まさか貞操帯を着けたまま性交の真似事をするとは思わなかったが、これはこれで良い機会だと、ディルドとオナホを使って更に欲を煽ってみた。

 そして――二人が電撃により強制的な眠りに落ちたその後。
 央は昔と変わらない寝顔を見せる二人の額に、魔法を刻んだのだ。
 ……央が初めて覚えて最も得意とする、触れた相手が対象に対して異性としての魅力を感じる魔法を。

《キミたちさ、不安になるとすぐ手を繋ぐ癖があるんだよね。そうで無くてもやたらベタベタしてるみたいだし……どうしてそれだけ発情に頭を焼かれていながらトモダチ相手に欲情しないのか、不思議で仕方が無いんだけど……ともかく処分を言い渡され拘留されたキミたちは、確実にそこを自分達の部屋と認定する。そして、不安から身を寄せ合う。……二等種にとって異性の魅力はすなわち発情直結、後は言わなくても分かるよね》

 シオンを通せば、隣り合う世界にも央の魔法は届く――それはあのヒトイヌプレイで舌を絡めた実験で実証済みだ。
 結果、央の企みにまんまと嵌まった二人は、そんなこととはつゆ知らずあれほど他者への管理に拘っていた筈の貞操帯を己の手で外し、一つになったのである。

(……全て、この日のための計画だったんだ)
(最初からずっと、央様は私達のために……!)

 溢れる涙が止まらない。
 止めてくれるはずの電撃は、どうやっても作動しない。
 その事実が……央がもうここに居ないことを改めて突きつけてくる。


《最後に……君たちが自分たちの意思でセックスする事を選んでくれて、身勝手だけど良かったと心から思ってるよ》

(……最後だなんて、言わないで)

《どうか、魔法のない世界で普通の人として幸せに暮らして欲しい。統合による世界の設定改変というか辻褄合わせは恐らく起こるだろうから、記憶とか知らない物が増えているとか、きっと色々起こって戸惑うと思うけど……大丈夫、慣れるよ、キミたちならきっと生きていける。だって……シオンだもん》

(そんな、央様のいない世界で生きていけって……そんなこと出来ないよ!)

《君たちが何であれ、僕は初めて会った時からずっとシオンが……ボクとは違う、周りに媚びることもなく虐められようが孤高を貫く強いキミが、大好きだったんだ》

(違う、違うよ央様)
(僕たちはそんなに強くなんか無い……!)

 央の告白と共に、再び光が満ちる。
 目の前のホログラムが、少しずつ薄くなって、崩れていく――

「待って央、お願い」
「央、行かないで!!」

 二人が思わず央の名前を呼び、同時に手を伸ばした瞬間

《シオン》

 央が笑顔で名前を呼び返し、眩い光が部屋の中を包み込んだ。


 ◇◇◇


 とおくから なつかしいこえが きこえてくる
 とても たいせつな いとしいひとの こえが




 ――今、ボクは人生最大の恐怖を覚えている

 だって、明日か明後日か……とにかく近いうちにボクは消えてしまうんだよ? 怖くないわけが無いさ
 でも、それ以上に悔しいんだ
 世界中のみんながキミと同じ統合した世界に生きられるのに、どうして、どうしてボクだけが君と同じ時を過ごせないんだって……!


 ぽたりと、涙が小さな手の甲に落ちる。
 ぼんやりと机だけを照らす灯りの中、央は堪えきれず、嗚咽を漏らす。

 だが、泣いている時間は無い。
 この魔法だけは確実にシオン達に届けなければ、きっと彼らは自分を延々と探し続け……その歩みを止めてしまいかねないから。


 どうやら二つの願いは、一つしか叶わないらしい
 神様ってのはほんっとうに意地悪だよね

 てもいいんだ、ボクはこれでいい
 キミたちが、やっとまっとうな幸せを掴めるというなら
 キミをモルモットにしてから二年間の思い出を抱きしめて、ボクはキミの背中を押す


 央は再び、保管庫スペースへと向かう。
 作り上げた術式が灯った人差し指が向かう先は、シオンのうなじだ。
 首輪の代替用に刻まれた刻印に術式を組み込み、統合後の世界で二人が自分に会いたいと呼べば魔法は同時に発動し、映像記録が一度だけ再生されるように……

 ――出来るだけのことはした。後はもう、シオン達の選択に任せるしか無い。


 あ、そうだ! 言い忘れてたよ! !

 ボクは処女で童貞だから!
 シオン以外なんて、ボクには考えられないに決まってるじゃ無いか!
 ……まぁ、こんなふたなりなんて気持ちの悪い身体じゃ、キミと結ばれるだなんて過ぎた望みだと思っているけどね

 キミは前後不覚になってたから、気づいてないと思うけど
 さっき、シオンって声を掛けたら小さかった頃のように「央」って呼んでくれて……嬉しかったんだ
 最後の最後にやっと、あの頃の関係に戻れた気がするよ

 新しい世界ではその全てが、キミと、キミのトモダチの存在を認めるだろう
 その世界がキミに何を向けるのか、未来に歩けないボクには分からない
 けれど、少なくともキミはボクの言葉を抱きしめなくても、生きていけるよ

 ねえシオン、どうか忘れないで
 ボクがこの選択を……愛する人の願いを叶えたことを、心の底から誇りに思っていることを
 だからキミは、自分を責めなくていいんだって――


 最後にもう一度だけ、寝顔を見つめて。
 央はすっくと立ち上がり、精一杯の笑顔で別れを告げた。

「じゃあね。バイバイ……大好きだよ、シオン」


 ◇◇◇


 気がつけば、二人はベッドの上に倒れていた。
 慌てて起き上がるも、既にホログラムの映像は消え失せていて、仄かに魔力の残滓だけが感じ取れる。

「……便せん! 詩、便せんを!」
「っ、もう一回……お願い、央……!」

 二人は再び便せんを手にして、声を合わせる。
 何度も、何度も会いたいと、央に呼びかける。

 けれど、答えは返ってこない。魔法は発動しない。
 二人の気付かないところで、うなじに刻み込まれた小さな刻印はそっと、その姿を消す。

 いつしか呼び声には涙としゃくり上げる声が混じり、二人だけの空間を悲しみで満たしていった。

「君がいない世界で、幸せになれだなんて」
「そんなの、あんまりだよ……私達、両想いだったのに!!」

 自分は二等種だから。それ以前に、できそこないだから。
 だから誰かに愛されるなんて事はあり得ないのだと、当たり前のように信じていた。

 思い込みは、視界を曇らせる。
 央の想いをようやく受け止めた今、思い出す全ての出来事に、央のシオンに向けた切ないほどの恋心が溢れていて、これに気付かなかった自分の鈍さ加減には……ああもう、嗚咽しか出ないじゃないか!

「ひぐっ、ひぐっ、央っ……うわああんっ……!!」
「やだよお! 消えないでよ、一緒に居てよ、央……!!」

 涙に暮れる二人の脳裏には、かつて毎朝のように唱え続けた宣言が、そして教育と称して叩き込まれた言葉が響き渡る。


 ――私達は二等種、何の役にも立たない、人間様に害を為すだけのモノです
 ――いいですか、二等種に恋をした人間は必ず破滅を迎えるのです……


 魔法が使えるようになった頃から、自分達は本当の意味では二等種では無いのかも知れないという期待混じりの想いは、ずっと心の片隅にあった。
 けれど断言する。自分達は間違いなく、二等種であったのだと。
 だって自分達は、一番失いたくなかった人にとって確かに有害で、恋により破滅へと追い込んでしまったのだから!

 この手で君を終わらせてしまっただなんて
 神様、この世界はどこまで残酷なのですか――

「央っ、答えてよ、央……!!」
「お願い! 姿を見せて、声を聞かせて……!!」

 ――その日、願いを叶え愛する人を失った、かつてモノであった二人の慟哭は、空が白み始める頃まで止むことは無かったのである。



補足 統合前後の国土変遷

統合前
  • 番号はエリアを示す
  • 同じ色相のところがひとつの行政区域
    • うち明度の低いエリアの地下に保護区域が存在
  • 首都はエリア10(行政区域1)

統合前

統合後
  • かつて保護区域が存在したエリアは全て水没
  • 海路(紫)と高速道路(緑)がメイン、鉄道は一部地域で限定的に復旧している
  • 自治区域は6つ。それぞれ特色のある組織が支配権を握っている

統合後

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