第20話 ひとつ欠けたこの世界で
【先天性刻印斑症候群(CIMS:Congenital Inscribed Mark Syndrome)】
先天性刻印斑症候群は、生まれつき特定の皮膚変化と、思春期以降に現れる一連の身体的・行動的特徴を伴う先天性の症候群である。出生約200人に1人の割合で発現し、性別による有意差は見られない。
主な特徴として、出生時より下腹部(まれに腰部)に、古代文字のような模様(番号や記号を含むアザ)が存在することが挙げられる。外見的な老化は極めて緩徐であり、全例において20代以降も10代前半から後半の外見を保つとされる。一方で平均寿命は一般より10-15年ほど短い。
出生時における症状は刻印斑と呼ばれる独特なアザのみであるが、思春期以降には、以下のような症状が出現する。
・尿意・便意の異常、排泄行動の抑制による排泄困難
・咀嚼・嚥下機能の低下およびそれに伴う消化機能の低下(特に咀嚼力の低下が著しい)
・対人依存傾向(他者に対して過剰に従属的で命令待ち傾向、指示に逆らえない)
・性的志向の偏り(性行動に対する報酬感受性が高く、性風俗業への就業が多い)
・その他、重症例では四肢の筋力低下および歩行困難、視覚ないし聴覚障害を伴うことがある
知的能力的には健常者との差は見られず、神経感受性や報酬系の特性に起因するものと考えられている。
またこれらの症状は、乳幼児期にアザを外科的に切除しても発症を抑制できないことが明らかになっている。
本症候群は、生活への影響の程度に応じて以下の3つの類型に分類される。
<S型> Submissive type
全体の8割を占める。
社会活動に一定の支障をきたし、各種サービスによるサポート、ないし後見人制度による支援が生涯必要となる症例が殆どである。
重症例では気管切開や胃瘻などの医療ケアが必要となる。
<D型> Dominant type
比較的自立可能な型。近年では各種支援アプリや管理ツールの利用によって、一般社会で就労可能な症例が増加している。
社会的地位の上下によって対人行動に変化がみられ、上位者には従順、下位者には保護的・支配的な態度を示す傾向がある。
<N型> Neutral type
全体の約3%程度と稀。上記二つの類型基準に当てはまらない症例で、D型に近いが支配的な行動様式は発現しない。
予後や支援についてはD型に準ずる。
本疾患に対する治療法は存在しないが、排泄や食事管理といった生活をサポートするアプリ、後見人制度などの活用により、生活の質を保つことが可能である。
CIMS保持者は、性的指向の特異性や高い対人従属性、老化の緩徐性といった特徴から、かつては制度的・社会的に特定の役割を担わされてきた歴史を有する。現在では人権的配慮や法的整備が進められており、地域によってはCIMS支援条例の制定や、偏見のない教育啓発が行われている。
――『先天性刻印斑症候群 臨床ガイドライン(第3版)』より
◇◇◇
私達は、かつて二等種と呼ばれる存在であった。
何の役にも立たない、人間様に害をなすモノでしかなかった私達は、今ようやくただの人間として、天井の無い青い空の下で本物の大地を踏みしめている。
「おはよう、詩」
「おはよう至……ん……」
朝5時40分、二人は一分たりともずれること無く同時に目を覚ます。
電撃で徹底的に躾けられた生活リズムは、どれだけ朝寝坊や二度寝をしたくても決してそれを許してくれない。
同じ布団の中で目を覚ませば、まず顔を見合わせて挨拶をして、そうして……互いの口の温かさを確かめるのが彼らの新しい日課だ。
「あーポテチ食べたい……」
「詩、涎の痕が残ってる。またおやつの夢?」
「うん!! 至と央とでビッグサイズのポテチを一緒に食べたの! はぁ、あのバリバリ感が恋しい……」
「うん、気持ちは分かるけど、今の僕らじゃただの危険物だよねえ」
詩音は朝の着替えをしながら、必ず夢の話をするようになった。
昨日と今日の間に、明確な境界が戻ってきたのはいつ頃だっただろうか。
相変わらず詩音の夢は食べ物に彩られていて、しかしよりによって今の自分達には無謀なものをたらふく食べる夢ばかり見るものだから、朝は詩音が毎日のように食べたいと叫んでは至恩に宥められるのが、様式美と化している。
……それは、夢を見る権利を確認する儀式であり、どれだけ努力しても元の咀嚼力を取り戻せない現実への、小さな抗いなのかも知れない。
「今日はどっちが先にする?」
「あ、至が先でいいよ。もうお腹空いちゃって……」
詩音はダイニングの棚から、パウチを取り出す。
「CIMS-NF シムリードバランス」と書かれたこのパウチは、私達の餌……否、食事だ。
蓋を開けて吸い口を咥え、ぎゅっとパウチを握りつぶせば、細切れの柔らかい具材がたっぷり入ったペーストが口の中に流れ込んでくる。
今の自分達の咬合力でも咀嚼できるように作られた専用食は、この2ヶ月で様々な食べ物にチャレンジした舌にとっては少々物足りない薄い塩味なのだが、他の味を試しても結局最後にはこれに戻ってきてしまう。
別に他の味が美味しくないわけでは無い。安心感が違うというか、これなら人間様の食べ物を食べているという罪悪感も感じなくてすむからだ。
パウチの売り上げの9割がこのプレーン味なのも、頷ける話である。
「んー、もうちょいお水かな……」
朝食をもぐもぐしている詩音の隣で、至恩は下半身を丸出しにしたままポットで湯を沸かし水を加えて温度を測っている。
その中心には銀色の丸いプレートが光り、至恩の欲望を押し込め封じていることが一目で見て取れた。
38度に調整した微温湯を、たっぷりと目盛りのついたソフトタイプのウォーターバッグに詰めて蓋を閉じると、蓋のコネクタとコントロールユニットをカテーテルで繋ぐ。
このコントロールユニットには水を送り込むポンプとバッグに伸びるカテーテル、そして注入に使うカテーテルが三方に接続されていて、簡単な講習を受ければ一人で排便補助が出来るという優れものなのだ。
「いつもながらちょっと準備が面倒だよね……ここはひとつ、エネマシリンジで一気に入れるほうが性癖に刺さって」
「気持ちは分かる。分かるけど、それやったらまた矢郷さんにどやされちゃうよ? でさ、詩」
「はいはい、顔に出てるよ至。私も後でお尻ペンペンしてね」
今日は詩がしてほしいなとねだられた詩音は、パウチを咥えたままバッグを受け取り、注入用のラインにあらかじめ水につけておいた使い捨ての先端部分を接続する。
そうして、ダイニングの床にいそいそと四つん這いになった至恩のヒクつく窄まりの縁をつぅっと何度か先端で撫でると「挿れるよ」と声を掛けてゆっくり押し込んだ。
水につけるとぬめりを帯びる先端は、潤滑剤無しで挿入を可能にしてくれる。
魔法もないのに魔法があるかのように振る舞うこの世界のからくりは、いつもながら凄すぎて訳が分からない。
「んうぅっ……もの、たりないぃ……」
「あはは、カテーテルも極太に出来ればいいのにねぇ。膨らませるよ」
「うんっ……ふぅっ、あっ、もうちょい……」
ユニットのダイヤルを切り替えポンプを何度か握れば、中に入ったカテーテルの根元にあるバルーンが徐々に膨らんで、肛門に栓をする。
本当はポンプの回数も指示されているのだが、ここはちょっと刺激がある方が楽しいよね? と二人は異物で圧迫された腸が焦燥感をもたらす程度には膨らませるのが常だ。
「……うあぁ……はぁっ、はぁっ……だしたい……」
「うん、いい感じ。じゃあお水入れるよ」
「は、はひぃ……」
バルーンが膨らめば、ダイヤルを切り替えて再びポンプを握ることで、バッグの中の微温湯が腸内に注がれていく。
体温に近い温度の液体は、腸の中に流れ込む感触をほとんど感じない。
だが数十秒後一気に押し寄せる猛烈な便意は、確実にこの薄い腹の中に水が溜まっていることを、思い切り至恩に突きつけるのだ。
「うあっ! はっ、はっ、はぁっ……あぁぁ……」
お尻を緩めて全てを出し切りたいと、全身が叫ぶ波が来る。
痛みと重さと、何より頭の中で鳴り響く焦燥感に耳がくわんと鳴り、至恩は思わずだらしなく口を開けて呻きながら浅い息を繰り返す。
そうして、しばしの間波が引いて、けれど20秒もしないうちに更なる波に襲われて。
傍目に見ても分かるほどぽっこり膨れた下腹部を「ふふ、膨らんできた」と詩音の手が擦りぽんぽんと叩けば、ますます頭の警報は喧しくなった。
「あ……はっ……はっ…………」
「はい、入ったよ。そのまま四つん這いで我慢しよっか……いつもながらいい膨らみっぷりだねぇ」
「ひっ……うあぁ詩っ辛い! 触られたら出したくなるっ!」
「だぁめ。しっかりお尻締めてね。床を汚したらもう一回って約束、覚えてる?」
「おっ、覚えてるっ、覚えてるけどっうああまた来たぁっ!!」
微温湯、2リットル、10分――これは二人で決めた浣腸の量と時間だ。
排泄補助を目的とするだけなら500mlもあれば十分だし、ここまで便意を我慢する必要だってない。
けれど、やっぱり自分達には「これ」がないとどうにも満足できないんだよねと、排泄衝動でかき回される頭の片隅で至恩は被虐の悦びを全力で叫んでいる。
「あ、至もお腹空いてるよね? 食べさせてあげるよ、はいあーん」
「ひぃっちょっと今餌を追加されたら流石に、むぐうぅぅ!!」
……全く、ドマゾ同士ってのはツボを心得すぎてていいんだか悪いんだか。
無理矢理パウチの吸い口を口に含まされた至恩は、目を白黒させながら流し込まれる餌を朦朧としながら咀嚼し……そのシチュエーションにうっかり興奮した息子さんは、蓋の下で元気に暴れながらつうつうと床に我慢汁を零すのである。
◇◇◇
「はぁぁ……詩、今日のは凄かったよ。頭が痺れるくらい良かった……」
「ふふっ、おちんちんのえっちなお汁も零したらやり直しって約束にした方がいいかもねぇ」
「それ、永遠に終わらなくなっちゃうやつじゃ」
朝食と浣腸を終えた二人は、心地よい疲労と共にソファに沈む。
至恩の太ももの上では詩音がうつ伏せでぐったりしていて、けれどどこか満足げな笑顔に(浣腸しながらスパンキングって、キツくて最高だよね!)と至恩は心の中でがっつり詩音と握手しつつ、艶のある藤色の髪を撫でていた。
人間様の物を使う不安が完全に払拭されたわけでは無いが、少なくとも日常でソファに座ることを躊躇う事は、この二ヶ月で激減した。
服だって……いや、相変わらず顔を顰めながらではあるけれど、暖房を全力でかけて全裸で過ごさないとやってられないほどの不快感は、生じなくなってきたように思う。
(少しは人間らしく振る舞えるようになったのかな……)
気怠さに身を任せていれば、視界にふと見えたのは、愛しい人の髪の色を思わせる黄色。
目に入った瞬間、一気に統合前の世界の思い出が二人の頭の中に溢れ出す。
「……このキーケースさ」
「うん…………多分、央の色だって思って買った設定なんだよ。……今の私だって、そうする」
央はあんなに私達のことが好きだって分かりやすくアピールしてたのに、何で気付かなかったんだろうね……と、くしゃりと顔を歪めた詩音の瞳から、涙が一つこぼれ落ちる。
「央の眼鏡のフレームってさ……私達の髪の色だったんだよね」
「それに、僕の世界の央が着けていた髪留めもメッシュの色だった……央、どれだけ僕たちのことが好きすぎたんだよ……」
「ひぐっ、ひぐっ……私達のこと、好きすぎだって笑えないよ、ねぇっ……!」
堪えきれなくなった詩音の口から嗚咽が漏れる。
至恩もまた天井を見上げて、すんと鼻を鳴らして……頬から一筋、涙が伝い落ちた。
◇◇◇
――全ての真実を知り、愛しい人がこの世界から消えて二ヶ月が経った。
当初は喪失の悲しみに寝ても覚めても泣き明かし、餌も洗浄もおざなりにしていて……通知を受け乗り込んできた矢郷がため息をつきながら、相変わらずの仏頂面のまま暫く泊まりがけで面倒を見てくれた。
彼との「記憶」はこの世界が始まった日からだけど、わあわあ泣き続ける二人の事情を一言も聞かず、ただ「ほら、飯は食え」「風呂に入れ、お湯を使うんだぞ!」と言葉少なに世話を焼く朴念仁を、きっと自分はずっと前からとても信頼していたのだと思う。
そんな折に、風呂を借りると服を脱いだ彼の下腹部には「379M085」の管理番号とXの文字がくっきりと刻まれていて。
二人は「この全面的な信頼感は、同類、しかも元作業用品だからか!」と妙に納得したものだった。
恐らく彼は、作業用品であった頃も世話焼きだったのだろう。
矢郷と異なり口は悪いが、随分面倒見の良かった元極道の堕とされ作業用品が、二人の中で何となく矢郷と被る。
そうして世話になること10日間、ようやく仕事に出られる程度には泣かなくなって。
これまでとは一変した生活に忙殺され、時が経つにつれて少しずつ外では笑える日も増えてきた。
けれど、ふとした瞬間に央の面影を探して、何気ない空間に央が居ない寂しさが急に襲ってきて……ああ、十年以上も電撃で落涙を戒められていたにしては、この涙腺はちょっとポンコツが過ぎる気がする。
……もしかしたら、十年分の流せなかった涙も、今一緒に流しているのかも知れない。
「……いつかさ、涙は出なくなるのかな」
涙と鼻水でティッシュの山を築きながら、ぽつりと至恩が零す。
二ヶ月では全く悲しみが癒える気配などないけれど、これから何ヶ月、何年と時を経れば、この悲しみも穏やかな思い出に変わる日がくるのだろうか。
「それはそれで……ちょっと寂しいね……」
「……そうだね」
鮮烈な悲しみと空虚感は、耐えがたいものではあるけれど、これも央が与えてくれた感情だと思えば胸がいっぱいになる。
時には、人生を歩んでいくことが央の全てをどこかに置き去りにするように感じて、ずっとこの悲しみの中で立ち止まりたいと……立ち止まらせてくれと空に願う事だってある。
それでも。
いっぱい泣いて、二人で抱き合って眠って、当たり前のようにやってくる次の日へ進むこの歩みを、自分達が止めることは無い。
だってここは、あれほどまでに央が願っていた……自分達と一緒に歩みたかった時間だから。
(……顔、洗おうか)
(うん。……きっと泣いてる私達を、央は喜ばない)
(ドマゾプレイで啼いてる僕らならともかく、ね!)
しゃくり上げ鼻水をちんとかみながら、二人は洗面所に向かう。
ようやく寒さが緩み始めたとは言え、水は痛いほどの冷たさで……お湯を出す方法が分かっていたって、やっぱり自分達にはこの冷たさがちょうど良い気がする。
(今日は16時出勤だよね)
(少し早めに行こうよ、今日鍋パするって言ってた)
(あ、そうだった……てことはまた)
(うん、あの二人がやらかして矢郷さんの雷が落ちるね!)
バシャバシャと顔を洗い歯を磨きながら、二人は今日の予定を確認する。
朝起きて、昼頃までは二度寝も出来ずぼんやりと過ごして、夕方から仕事に行って深夜に帰る……全く同じルーティンを週5で繰り返す生活は、モノとして決められたとおりに動くことしか許されなかった自分達に、ささやかな安心感を与えてくれる。
今日は月に2度のちょっと特別な日だけれど、それもきっといつもと変わらない。
二等種の頃に比べればうんと広がった、けれど小さな世界の中で、いつもより少し多めに笑い、楽しみ、ちょっと泣き、そうしてまた日常へと埋没する……
統合された新しい世界でも、私達は死ぬまで二等種のように同じ動作を繰り返すのだろう。
案外人間とモノの間には、それほど差は無かったのかも知れない……なんて思うのは、流石に不遜だろうか。
(鍋、か。……央と一緒に食べてみたかったな)
少しの特別が、また至恩に愛しい人の姿を追わせて。
タオルで拭ったばかりの冷たい肌を伝った涙は、柔らかなパイルに染みこんでいった。
◇◇◇
魔法の無い世界が不便かと聞かれたら、「分からない」としか答えられない。
それほど自分達にとって魔法とは、何の縁の無い――それこそ、自分達をモノに加工するための便利な道具でしかなかったから。
「至、スマホの充電が大変なことに」
「まずい、さっさと充電しないと出かける時間になっちゃう!」
バッテリーの残量が真っ赤になったスマホは、ケーブルで壁についているコンセントに繋げばいい。
この世界には電力というエネルギーが存在して、これまで魔力で動いていた機器はほぼ全てこの電力で動くようだ。
さらに魔力が無くても、本人認証は顔や指紋で代用できると聞いたときは、驚いたものだった。
以前のようにガジェットをどこに置いていても勝手に充電してくれたり、自分の魔力を使って急速充電できない不便さはあるのかもしれないし、完全に個人を識別する生体魔力に比べれば多少セキュリティは弱そうな気もするが、最初から魔力が無ければ案外不便とは感じないものである。
身の回りの機器の仕組みは、見た目はあまり変わらないが中身は大きく変わっているのだと思う。
風の魔法を組み込んでいた扇風機や掃除機、氷や火の魔法を組み込んでいた冷暖房器具は、この世界では頭が爆発しそうな程小難しいからくりを詰め込んでいるようである。
「へぇ、ドローンの空撮映像かぁ……遠見の魔法で投影するんじゃないんだ」
「凄いよね、空を飛ぶって! いつか飛行機にも乗ってみたいな、空飛ぶ大きな船なんておとぎ話みたいだもの!」
転送陣が無くなった事は不便なのだろうと思うが、そもそも転送陣は12歳以上でないと利用できなかったからいまいちその不便さは分からない。
それにこの世界には、統合前にはなかった空を飛んで移動する船がある。
魔力なんて無ければ無いなりに人類は知恵を絞り、結局同じような発展を遂げるものなのかも知れない。
だから、正直あまり実感は無いのだ。
ただこの世界を渡り歩くだけならば、統合する前と後できっと世界はそれほど変わっていない。
そしてそれ故に、統合を果たした人たちは難なく新しい世界に適応し……魔法というこの世界の基盤が失われたにも関わらず、まるで元の世界から地続きのように明日へと歩いて行けるのだと思う。
(まぁ、魔法は全部消えたわけじゃ無いんだけどね)
(とは言え実質消えたようなものじゃない? どこにも記録は無いし)
(分からないよ? ほら、反政府組織が密かに魔法を手に入れてるとか)
(……至、それは流石に夢見すぎだと思う)
タブレットから流れるドローン映像を堪能しながら交わされる言葉は、音では無い。
二人は元の世界と同じように、相変わらず無意識に会話の「方法」を切り替えている。
もし魔力を視認できる人がいるならば、彼らが念話を使っているときには、落ち着いた藤色の髪の中に一筋だけ残る浅葱色のメッシュが淡く輝いていることに気付くだろう。
(……ここにも、央が残っているんだね)
至恩の前髪に交じる浅葱色をかきあげながら、詩音は少し寂しそうに微笑む。
央は、魔法が消失すると予測される世界で最後の魔法を発動させるために、恐らく二人の謎魔力を保持する仕組みをあの刻印に組み込んでいたのだろう。
その試みは奏功し、謎魔力を用いて二人は央の映像を再生できたわけだけれど、使いきった段階で役目を終えたメッシュが藤色の髪に置き換わる……わけでは無かったらしい。
そもそも、メッシュはあくまで謎魔力の蓄積装置。そして、シオン達の魔力の源は人間の不安と恐怖だ。
統合した世界にだって……いや、大災害により一度崩壊し、未だその爪痕がそこかしこに残るからこそ余計に、彼らの謎魔力を集めるには事欠かないわけで。
結果として二人は、互いの間だけでしか使えない念話という非常に限定的な魔法を、その身体に残すことになったのである。
(央のことを世界が忘れたって)
(私達は、央を忘れない。どれだけ時が経っても……忘れられないよ、これじゃ)
二人はそっと、互いの下腹部に手を置く。
この服の下には、今も二人の情欲を管理し、性癖を満たす戒めが……愛しい人からの最初で最後のプレゼントが輝いていて。
「……央はヘンタイって怒るだろうけど、僕達は変態でよかったと思うよ」
「だよね。私達がドマゾだから……央の生きた証を、こんなにも持っていられるんだから」
こみ上げる言葉に出来ない気持ちを分かち合おうと、二人は(これは断じて浮気じゃ無いから!)と相変わらず央に断りを入れつつ、そっと唇を重ねるのだった。
◇◇◇
出勤までは特にすることもないから、普段はタブレットを弄りながらのんびり過ごすか、あるいは変態プレイに勤しむかの二択だ。
自主的に玄関ドアをくぐるのは、今でも無いはずの懲罰がちらついて足がすくむから、余暇を外で過ごすことはほとんど無い。精々、急な買い物や手続きに出かけるくらいである。
当初物らしき物の無かった部屋には、この二ヶ月で拘束具や鞭・ディルド・オナホや各種プレイ道具が恐ろしい勢いで増殖し、リビングと寝室のクローゼットを占拠している。
少し前に様子を見に来た矢郷には「……お前らの趣味に文句をつけるつもりは無いが、給料の使い道はもっと考えろ」と小言を言われたばかりだ。
「あ、何か来た」
「通知じゃ無い? ……至、SOLAちゃんが餌の自動注文を入れたって。15時に配達がくるみたい」
「そっか、いつもながら餌の補充は迅速だよねぇ……」
タブレットと二人のスマホに届いた通知を確認すれば、水色の髪の少女型アバターがぴょこんと現れる。
SOLAと呼ばれる「彼女」は、二人の生活を全面的にサポートするこの世界の生活には欠かせないAIのアバターだ。
『今月の自炊チャレンジメニューを作成したよ。今回はやわらかミネストローネで、トマト味に挑戦!買い物リストはここから確認してね!』
「……おおーこれは美味しそう……安全にチャレンジできるレシピは貴重だよね」
「それ、詩がギリギリアウトに突っ込みすぎなんだと思う……今日スーパー寄るから、ついでに材料も買って帰ろうか」
買い物リストと書かれたボタンを押せば、リストの画像が自動的に保存される。
楽しみだねえと涎を垂らす詩音の嬉しそうな顔に和まされながら、至恩もまた一つ人間ぽく近づけるかなぁとささやかな期待を抱くのだった。
◇◇◇
この世界でも統合前と変わらず、AIは生活に深く根ざしている。
むしろ念話が使えなくなった上、人の感情を魔法により察知しづらくなった分、もしかしたら元の世界よりも発展しているのかも知れない。
統合前の世界に於いて、二等種はAIにとっては良くて管理すべき対象、悪く言えばただの材料でしかなかった。
けれどこの世界のAIは優秀なアシスタントとして、何かと社会生活に問題を抱えがちな『私達』を支援してくれる。
そう『私達』――統合した世界に生き残った、元二等種達を。
二等種では無くなった私達には、新しい属性がついた。
それが先天性刻印斑症候群、通称CIMSと呼ばれる先天性疾患である。
統合してからの二ヶ月で分かったのは、統合前の記憶は魔法が絡む部分に関しては大々的に書き換わっているということ。
例えば、二等種管理庁に勤めていた官僚は昔から全く別の省庁勤務だったことになっているし、魔法が絡む職業はそれに近い職業へと置き換えられている。
この原則は、概念が消失した元二等種に対しても適用された。
彼らは人間様の穴、もしくはモノとして地下に閉じ込められ、加工され、絶え間ない恥辱と暴虐、人間様の悪意に晒されてきたという過去を、表面上はすっぱり忘れている。
というより、この人生に於いてそんなことは無かったと設定された、と言う方が正しいだろうか。
捕獲後地上との縁が切れていたせいなのか、ほとんどの元二等種は幼少期から天涯孤独で、児童養護施設育ちという設定に切り替わった。
ちなみに管理番号から17歳年上と思っていた矢郷は、この世界では現時点で31歳、シオンと8つ違いである。
二人が観測した範囲内ではあるが、統合後にこの世界のどの時間軸へ飛ばされたのかはどうやらまちまちのようで、管理番号から年齢は推察できなさそうだ。
「詩、配達が来たらさ、少しだけ遊んでから出かけない? ちょっと……出したい波が来ちゃっててヤバい」
「いいよぉ。私もこのまま出かけるのはちょっと無理かも。そだ、双頭ディルドでお尻えっちでもする?」
「あああそれいいねぇ! オスなのに完全にメス堕ちして百合プレイだなんて……堪んないぃ……!」
統合後、元二等種の心身は、獣以下の淫乱な常時発情したモノではなくなった。
少なくとも今は、製品のように他人の性器を見たり匂いを嗅ぐだけで涎を垂らし狂ったように性器への愛を囁いて奉仕をねだる事も、作業用品のように一度自慰を始めたら電撃で止められなければ永遠に手を止められなくなる事もない。
精々一般人に比べれば遙かに性欲が強く、淫乱で感じやすく、性癖が歪みきっている位だ。
……いや、精々というのは問題があるかも知れないが、少なくとも外では人間のように振る舞える程度に落ち着いたのだから、重要な問題では無い……ことにしておこう。
なお、シオン達の性癖は全くもってそのままである。
なるほど、変態的嗜好は二等種による加工の影響は全く無く、まさかの100%天然だったのか! と少しの悲しさと共に納得したのは内緒だ。
けれども……二等種であったことの影響は、性的な側面以外に深い影を落としている。
多感な時期に負った傷はあまりにも深く、記憶を改ざんされたくらいではとても元の人間に戻れるものではなかったようだ。
身体にも心にも、二等種として置かれた場所や使われ方に応じた様々な後遺症が残り、シオン達を含めた二等種達が統合後の地上でただ生きることを、現在進行形で困難たらしめている。
そういったものが、この世界ではCIMSという先天性の疾患、制度や人による支援が必要な障害として認知されているのである。
「天宮さん、お食事をお届けに参りましたー」
「はっ、はひっ!! いまっいきましゅ!!」
「おおお落ち着いて……土下座はいらない、ドアを開けて、受け取って、サインして、ありがとうって立ったまま言う……!!」
二等種として虐げられてきた人たちが失ったものは、あまりにも大きい。
ただ、二等種としての記憶がないお陰か、それともあの頃と違い後遺症はあれど「人間」として世界に存在を許されているせいか……彼らの表情は割と明るく、それなりに人生を謳歌しているのがせめてもの救いかもしれないと思いながら、詩音は震える手でドアノブを回した。
◇◇◇
変わったのは技術や人だけではない、国のあり方もだ。
世界各地で民族独立運動が起こり、かつての先進国と発展途上国が逆転した、なんて事例はそこら中に転がっている。
それは、この国も例外ではない。
「おぅ、矢郷のあんちゃんとこの双子か。どうや、変わりはないんか?なんかあったらいつでもうちに言うてくるんやで」
「あ、こっ、こくろさん、見回りご苦労様です!」
道で声を掛けられた、腕にトライバルタトゥーを刻みいかにもな格好をした男は、この地域の見回りを担当する「こくろさん」……天獄会黒狼組の組員である。
ヤクザと言っても、ここでは常識を守ってささやかに暮らしている分には、ただの頼りになる怖いお兄さん達でしかない。
一応政府の犬である警察機構もあるにはあるが、実態はほぼ彼らの傘下だそうだ。
(にしても、こくろさんはいつになったら僕らを双子じゃないと認識してくれるんだろうね……)
(まあ、この見た目じゃ気持ちは分かるけどね。そもそも私たち、性別が違うだけの同一人物なんだしさ)
学校帰りだろう、子供たちの群れに捕まり「一人一回だからな!」と順番に腕に捕まらせている男を横目に、二人は目的の店へと向かうのだった。
――統合を起こした大災害後、この国の政府機能は非常に脆弱なものになった。
首都や名だたる大都市が水の底に沈み、国土の実に4割を失ったことから、災害復興は遅れに遅れた。
当然ながらそれは地方に於いて顕著で、不満を募らせた国民は時間が経つにつれ政府を見限り、自主独立を企てるようになる。
その結果、現在この国には政府の統治が及ばない6つの自治区域が誕生し、今も拡大を続けているという。
それぞれの自治組織を統治する母体は実に様々だ。
反政府組織や宗教団体、民間企業連合などがそれぞれ特色のある自治政府を成立させる中、ここエリア28及び橋の向こうにあるエリア26は、ABsホールディングスというフロント企業を通じて反社会勢力……俗に言う「ヤクザ」がその統治を一手に担っている。
お陰で治安は皮肉な事に政府直轄地よりずっと安全で、国内随一の歓楽街を有しているため経済的にも非常に潤っているようだ。
「タマネギと、にんじんと、キャベツは柔らかい部分だけ……」
「至、鍋用にはんぺん買っていこうよ!! あれならみんな食べられるよね」
「いいね! ちょっと多めに買っていこっか」
出勤途中で寄った馴染みのスーパーで、二人はリストを見ながら食材をカートに放り込んでいく。
地上にいた頃はスーパーなんてお菓子売り場しか用がなかったから、こうやって食材を選ぶ行為にはまだ慣れない。けれど、二人で相談しながら人間のように買い物が出来ることには、なんとも言えない幸せを感じている。
……ここに央がいればとふと思って、鼻がつんとするのは、いつものことだ。
「いらっしゃいませ、あら今日はまた随分大量ねえ!」
「え、えっと、こっちは職場の鍋パ用で、こっちは今月のチャレンジレシピなんです」
「了解、鍋用は領収書を切るから矢郷さんに渡してね。支払いは……このくらいならKuroペイがいいわよ、ポイントもついてお得だし」
「あっはいっ、じゃあKuroペイでお願いします」
買い物の時に現金を使うか電子マネーを使うか、12歳以降地上で生活していれば簡単に身についたであろう判断力すら、シオンたちには欠如している。
けれど、迷っていれば店員がさりげなく教えてくれるから、そこまで困ることは無い。
きっとこうやって何度も経験を繰り返して行くうちに、自分達で判断できるようになるさ! と楽観的に捉えているのは、生来の気質の成せる業だろう。
と、商品をスキャンしていた店員の手がピタリと止まり「……詩音ちゃんでしょ、これ」と呆れながらとある商品を手にした。
その声に店員の持つ物を見た至恩もまた「詩……気持ちは分かるけど攻めすぎ……」と天を仰いでいる。
「あのね詩音ちゃん、CIMSっ子の噛む力じゃどう頑張っても板こんにゃくは無理だとおばちゃんは思うのよ」
「ええー、小さくすればぐにぐにも楽しめるかなって思ったんだけど……」
「うん、永遠にぐにぐにを楽しむだけで飲み込めない未来が見えるわね! それならくずきりの方がいいわよ、鍋の味も染みて詩音ちゃんの欲しいぐにぐにっぽさも味わえるし、短めに切ればみんなで楽しめるしね」
「そっか……じゃあ、くずきりにします!」
店員の押しつけがましくない提案に、最初は不満そうだった詩音も機嫌を直したようで「取り替えてくる!」と売り場に走って行く。
こうやって、自分達がその場で土下座し恐怖に顔を引き攣らせながら「命令」に従わなくていいようにサポートして貰えるのは非常にありがたいなと、至恩は店員に「ありがとうございます」と心から感謝し頭を下げた。
「いいのよー、詩音ちゃんはCIMSっ子にしちゃ随分食に興味があるから、至恩くんも大変よね」
「あはは……この間はコンビニで激辛ラーメンを買いかけて止められてました」
「……詩音ちゃん、それは私らでも消化管に闘いを挑むようなものなのよ……」
ああ、10年による味の剥奪は、食いしん坊の詩音には思った以上に過酷だったのだろう。その気持ちは分かるが、もう少しこう、手加減というものを覚えてほしいものだ……
嬉しそうにくずきりを握りしめて帰ってくる詩音に「強く生きて、至恩くん」「が、がんばります……」と二人は顔を見合わせて苦笑するのだった。
◇◇◇
「ひぃっ、もっ、申し訳ございませんっ!!」
「うん、落ち着こうな兄ちゃん。ほら、俺ぁ怪我もしてないし怒っても無い。ほら落ち着くときはどうするって習った?」
「あ、ああ、指を見ながら深呼吸、深呼吸っ……!!」
食材をリュックに詰めて店を出た途端、悲痛な声がシオン達の耳に届く。
見ればそこでは一人の少年が顔を青ざめさせ、手を頭の後ろで組んで股を開いた姿勢でしゃがみ込み、目の前のガラの悪そうな男に必死で赦しを乞うていた。
どうやら彼は、道を急いでいて怖そうなお兄さんに思い切りぶつかってしまったらしい。
(あー、やらかしちゃったのね……で、やっぱりああなっちゃうと)
(まだこの街に来て日が浅いのかな。元製品は土下座になるまでが長いもんねぇ)
……あの姿勢は、性処理用品の基本姿勢だ。間違いなく彼はCIMS保持者、それもS型と呼ばれる元性処理用品だろう。
この世の終わりだと言わんばかりに謝罪を叫ぶ少年に、しかしどう見てもその筋の人にしか見えない男は精一杯穏やかな口調で話しかける。
「はぁっ、はぁっ……ああ……」
「おう、大分落ち着いたな。ほら、そんな格好をしなくても大丈夫だ。ゆっくりでいい、こういうときはどうすればいいか考えな、兄ちゃん」
「えと……怖くない……怖くない…………ご、ごめんなさい……」
「そうだ、ぶつかったら立ったまま、ごめんなさいだけでいいんだ。そんな格好をしなくたって、誰も兄ちゃんを傷つけやしねえよ」
人間様に「危害」を加えてしまったとパニックを起こした元二等種が、住民のサポートで落ち着き正しい対処法へと導いて貰う……ここではありふれた光景だ。
「ったく、あそこまで謝られると逆にこっちが罪悪感を感じるぜ」と愚痴りながらも、何度もぺこぺこお辞儀をしながら去って行く少年を最後まで見守る辺り、強面の男にそれほどの偏見はなさそうだ。
職場への道を二人で歩いていれば、そこかしこに元二等種であろう少年少女の姿が見受けられる。
一見すれば彼らが元二等種、いやCIMS保持者であることは分からない。ここが歓楽街でしかも大人向けの……いわゆる風俗街であるから、「CIMS持ち」だろうなと気付くだけだ。
作業用品の刻印が手足だけ消えたのは、ぱっと見は一般人と変わらない外見になるよう何かしらの力が働いたせいなのだろうか、なんて思ってしまう。
(…………ここでは、息が吸える)
(うん、ここにいていいって、思えるよね)
春霞にけぶる空を眺めながら、二人はこの地に流れ着いた「設定」に心から感謝していた。
過度に従属的、しかも性的に奔放なCIMS保持者に対する偏見は依然として根強く、その特性を狙った犯罪も後を絶たない。
特に政府直轄領では、大災害後ただでさえ薄かったCIMS特性保持者への支援は更に形骸化し、自分達の失政に対する不満のスケープゴートとして弱者たる彼らを利用している節すら見られる。
そんな中、自治区域は濃淡の差はあれど、CIMS保持者への独自支援を打ち出している所が多い。
特にこのエリア28と26を統治するABsホールディングスは、自治区域の中でも特に手厚い支援を展開している事で有名だ。
噂ではこの企業の母体である黒狼組の頭がCIMS保持者だと言われているが、真相はそれこそ闇の中だ。ここで下手な動きをすれば死ぬより酷い目に遭うことは明白だから、誰も深く追求はしない。
何にしても、この地域のサポートっぷりは群を抜いている。
CIMS特性保持者を積極的に受け入れ、自立するための様々な訓練やサポートシステムを提供し、住民への教育も充実していて、元二等種にとってこれほど住みやすい場所はないのではないだろうか。
実はシオン達が住むマンションも一般の賃貸物件では無く、D型及びN型CIMS向けの自立支援施設である。
この施設では、現在開発中の統括サポートシステム(SOLIS)を試験的に導入し、指示がないと不安になりやすい、また指示や命令に過度に反応してしまうCIMS保持者をサポートしつつ、自立へと向かわせる試みが行われている。
さっき在庫を確認し注文を自動で入れてくれた「SOLAちゃん」もこのシステムの一部で、各部屋の利用状況や在庫からCIMS保持者の状態を把握し、見守り機能と共に適切な自立プログラムを作成するのに一役買っているそうだ。
そういったサポートは全て、この地域の重要なシノギでもある性産業の担い手を増やし更なる勢力拡大を図る為でもあるのだが、末端で生きる住民、ましてシオン達のようなCIMS保持者にとっては大人の事情などどうでもいい。
ただ、ここには自分の居場所がある……地上で生きていいと許される。それだけで十分なのだから。
例えその末路がヤクザの息のかかった風俗店勤務であったとしても、この地への移住希望者が減ることは無いだろう。
そして彼らは一様に、様々な困難に遭いながらも、ようやく取り戻した人権を満喫しているのである。
◇◇◇
「おはようございますー」
「あ、おはよう至恩。もしかして鍋の追加具材買ってきた?」
「はい、矢郷さんに頼まれてた分と」
「はんぺんいっぱい買ってきた!」
「なにい!? 良くやった詩音!!」
歓楽街の一等地に建つ、おしゃれな商業ビル。
SMクラブ「White Abyss」の扉を開けた至恩は、いつものように待機室でたむろしている同僚達に鍋用の具材が入ったリュックを手渡す。
その隣では、詩音が共用の冷蔵庫にチャレンジレシピ用の食材を詰め込んでいた。
ここは男女SM全てのタイプのキャストを揃えた、高級SMクラブ。
どんなお客の欲望も叶えるクラブとして全国に名を轟かせる、エリア28の歓楽街でも屈指の風俗店である。
ただし、一見さんはお断り。完全紹介制、身辺調査で問題が無くそれなりの額の保証金を支払える客のみが、この店を利用することが出来る。
この厳しい利用基準は、White Abyssのキャストがほぼ全員CIMS保持者である事に起因する。
かつて穴としての用途のみが求められた彼らは、統合においてその悲惨な過去の記憶を失った今も、どこか「穴」でいようとし続ける悲しい習性を持っている。
彼らにとって穴を使われることは、自己存在を確立する最も大きな要素。そして性的行為は、どれほど非人道的な扱いだろうが誰かの優しさや救いと認識して、それ故にどこまでものめり込み、日常以上に相手の命令を絶対視する傾向があるのだ。
当然、その性質を悪用する輩はどこにでも存在する。
だからこそエリア28に林立する風俗店は、どこもこの苦界に堕ちることを救いとする彼らを守り、小さな箱庭の中で精一杯生きられるようにあらゆる対策を講じているのである。
バックがヤクザであるという支配構造は、この対策において非常に有用に違いない。
「いい匂い~、もう始まってる?」
「うん、さっき第一弾ができたとこ。今日参加者多いから、具材の追加ホント助かるわー」
待機室の奥にある小さなキッチンで、スタッフ達は少々危なっかしい手つきで渡された具材を刻んでいく。
そこに響く明らかに不自然なモーター音に「むっちゃん、流石に包丁使うときは危なくない?」と至恩は心配そうに声を掛けた。
「ローター? 一つじゃ無いよね、この音」
「んっ……えへ、乳首用のローターをブラに…………はぁっ、腰が砕けそうなのにぃ、お料理しなきゃいけないの……ねぇ至恩、ちょっと命令してよぉ」
「はいはい、調理が終わってからね」
「んーけちぃ」
全く無茶をすると嘆息しながら、けれど……ちょっとだけ(それもいいかも)と羨ましく思いつつ、至恩もまた鍋の下ごしらえに加わる。
待機中に思う存分自分を慰め、互いに命令を出し合うのはいつもの風景だ。彼女はM嬢だから、これで更にお客とプレイを楽しむなんて元気すぎると苦笑しながら、至恩ははんぺんを手にした。
「……ん、いい味」
その隣では、詩音が鍋の出汁を小皿に注ぎ味見をしている。
今日はシンプルな寄せ鍋だ。詩音としてはちょっと(?)過激な鍋にも憧れはあるが、ここのキャスト全員が食べられそうな味となると、どうしてもシンプルで刺激の無い味に限られてしまう。
(ただの遊びじゃ無いし、ね……チャレンジは至と一緒に家でしようっと)
至恩が気付いていたら全力で突っ込まれそうな企みを心で呟きながら、詩音は手渡された角切りの具材と白身魚を鍋に放り込んだ。
White Abyssで月に2回開かれる恒例の鍋パーティーは、単にCIMS保持者のキャストが親睦を深めるイベントでは無い。
食事の様子を確認し、現状の咀嚼力の確認と訓練プランの策定、多様な食感や味への慣らし、更には自炊の練習を兼ねているれっきとしたサポートの一環だ。
勝手にあらゆる食材や味に挑戦して(そして爆死して)いる詩音(と、それに巻き込まれる至恩)はともかく、大多数のCIMS保持者はそれこそ命令でも受けない限り、普段の生活では通称CIMS食と呼ばれるあのパウチに入ったドロドロの餌……それも薄い塩味のもの以外を口にしようとしない。
回数も朝晩の2回だけ、それすら人によってはサポートアプリによる促しが無ければ食べずに済ます始末である。
そんな彼らにとって、この鍋パーティは非常に貴重な機会なのだ。
尤も、これだけ食に対して貪欲な詩音でさえ普段はプレーン味のパウチで餌をすませてしまうくらい、人間様に近い食事というのはCIMS保持者にとって心理的ハードルが高い。
三大欲求の中で食欲がぶっちぎりの最下位に置かれている彼らが、サポート側の思惑に沿ってより人間に近い味を楽しめるようになる日は、とてつもなく遠いと思われる。
(食べたいけど、人間様の食べ物は食べてはいけないって、どこかで思っちゃうんだよね……)
(でも気合いで食べちゃうけどね!)
(で、僕も被害を受ける、と……詩さ、ホントにそっちの世界の央には感謝した方がいいと思うよ? 昔から振り回され慣れてる僕でもないのに、2年間も詩の暴走に付き合ってくれたなって、いてっ、いて、痛ててて!)
(むぅ、暴走なんてしてないもん! ちょっと好奇心が全てをなぎ倒すだけで)
(それを暴走って言うんだよ!)
コトコトと湯気を立てる土鍋を前に、シオン達は互いにほっぺを全力で引っ張る。
痛みにちょっと涙がにじみかけた、その時
「っ、何してやがるんだこのバカナツっ!!」
「バカって言う方がバカだもん!! トシくんのバーカバーカ!!」
「じゃあお前もバカじゃんか!!」
待機室のほうから、これまた毎度恒例の……低レベルな戦いが、盛大な怒鳴り合いとなって響いてきた。
◇◇◇
「おまっ、自分が食べたいからって初っぱなからご飯をぶち込むヤツがいるか!! これはただの遊びじゃ無い、俺らのチェックも兼ねてるって矢郷さんがいつも言ってるだろうが! いい加減覚えやがれ、バカナツが!!」
「えーだってどうせ最後に入れるしぃ、いい感じにとろみも出るからステージ1食べてる子も食べやすく」
「なるか!! ご飯粒全部漉さなきゃ無理だろうが、お前の頭はいつになったら豆腐から進化するんだよ!」
「ふーんだ、トシくんみたいに頭に岩を詰めてるよりずっといいもーん!」
タイマーをかけて暖簾をくぐれば、そこではいつもの二人による舌戦が目下展開中であった。
元気なのはいいけど、もうちょっと食べてからにすればいいのに……と苦笑いを浮かべていれば「あ、来てたんだニコイチ」と先輩キャストが手招きしている。
「そのニコイチってのやめてくださいよぉ、ハナさん。で、今日は何が原因ですか?」
「うん、なっちゃんが暴走した」
「つまりいつも通りですね」
見てよこれ、と彼女が指さす先には、カセットコンロにかかった土鍋。
どのステージの子でも食べやすく作られている筈の寄せ鍋の中には、早々と大量の柔らかく炊かれたご飯が投入され、白いマグマのようにぼこぼこととろみのついた気泡を弾けさせている。
その風景にシオン達は思わず「うへぇ」と口を押さえ顔を顰めた。
(せ、折角の鍋が台無しすぎる……ああもう見てるだけで口の中が疑似精液の味に)
(分かる……パウチに入っていれば見えないから食べられるけど、この見た目は地雷がすぎる……うっぷ……)
この世界が始まってちょっと経った頃から、二人は白いどろっとした物体を一切受け付けなくなった。
唯一互いの体液だけは触れるどころか口にしても平気なのだが、自分の体液には触れられない。出来れば見ることも御免被りたい。
日用品にもその影響は及んでいて、ボディソープも色がついていないと手に取れないし、いろんな味に果敢にチャレンジする詩音ですら、ミルク系の食品は完全拒否。大多数のCIMS保持者が好む雑炊に至っては、目にしただけで吐き気を催す始末である。
……命綱であるCIMS用の専用食が、不透明なパウチに入っていて本当に良かったと思う。きっと過去に同じようにトラウマを呈したCIMS保持者がいたに違いない。
「……今日はいつまで続きますかね…………」
「あーニコイチは喧しいのもダメなんだっけ。ちょっと離れてヘッドホン着けてな。きっと、矢郷さんが来るまで終わらない」
「そ、そうします……」
先輩の好意に甘えて、二人はドロドロの鍋から遠くに座り直してヘッドホン型のイヤーマフを耳に被せる。
外出するときには騒音が頭に刺さることがあるから、お守り代わりにいつも首にかけているのだが、今のところ一番役に立っているのはこの鍋パーティの時だ、間違いない。
(……いつもながら元気だよねぇ、この二人は…………)
(ほんと。…………あんな絶望的な顔をしていたのが信じられないくらい)
(まあトシ君の顔は見たことがなかったけど。……これが「本当」の彼らだったんだ)
耳を塞いでいても話せるというのは便利だなと思いながら、シオン達は念話でそっと想いを交わしつつ騒音の震源地を眺める。
そこでそろそろ取っ組み合いを始めそうなのは、淡い群青色のツインテールの少女と、赤髪の少年。
――かつてシオン達がリペア処置を行ったメス個体と、あの黒い被膜に包まれていたヒトイヌのオス個体の中身である。
◇◇◇
この世界で、かつて知っていた誰かに出会うことは珍しくない。
特に担当していた元性処理用品や素体に関しては、この歓楽街で何人もその姿を目にしている。
もちろん、彼らはシオン達のことなど欠片も覚えていないが。
初手から鍋を雑炊に変化させた元凶である少女、元499F072(C)は、統合した世界では「ナツ」と呼ばれているS型のCIMS保持者だ。
この世界では生まれてすぐに育児放棄され、政府直轄地にある児童養護施設を15歳で退所した後、近隣の農家にて住み込みで働いていたらしい。
が、よりによってその農家は人身売買業者と繋がっていた。
ある日些細な(多分些細じゃ無いと、この話を聞いた全員が思っている)ミスをしたことがきっかけで、彼女は人身売買業者の拠点で売り物として……すなわち性奴隷として調教される羽目になったのである。
1年後、人身売買業者の母体と抗争をしていた黒狼組により無事救出されエリア28の保護施設に収容されたときには、心身共に性処理用品と変わらないレベルまで堕とされていたようだ。
ヤクザの「戦利品」であった彼女は、しかし何の運命か保護施設を見学に来た矢郷に身請けされ、数年にわたる自立訓練の後このSMクラブの開店と同時にM嬢として働き始めたのである。
そんな古株の彼女は、統合前の過酷な仕打ちと統合後の不運が重なったせいか、とかく複数人に激しく嬲られることを好むようになってしまった。
他のCIMS保持者同様、従順さは非常に高い。ただ彼女の場合、それ以上に天然が過ぎるせいでうっかり客の命令に逆らったり、遂行できないというやらかしを度々かましているようだ。
が、この「チョロいのに全然手なずけられない(お陰で酷いお仕置きをやりたい放題な)M嬢」は客の支配欲と庇護欲をかき立てると、一部界隈に絶大な人気を誇っているという。
……まったく、人間様の趣味は相変わらずよく分からないものである。
一方、そんなナツに全力でぶち切れている少年、元499M104(D)は同じくS型のCIMS保持者。ここでは「トシ」と呼ばれている。
ちなみに至恩達は、たまたま昔のトシの写真に写っていた管理番号を見て、彼があのヒトイヌの中身だと気付いたのだ。
大災害で家族を亡くしたトシは、ナツと同じエリア34の児童養護施設に収容される。
つまり二人は同い年の幼馴染みというやつだ。
だが、彼は12歳になった頃CIMSの症状が急激に悪化。
歩行困難になり誤嚥性肺炎を繰り返したことがきっかけで、NPOにより近隣自治区域の病院に搬送され、最先端医療の被検体となることを条件に5年にわたる治療を受けることになる。
彼が幸運だったのは、生まれつき人に好かれる気質を持っていたことだった。
トシは他のCIMS保持者のように、決して整った顔立ちでは無い。だが単に従属心が強いだけで無く素直で真面目な性格もあってか、健気に治療に励む姿はその自治区域で感動物ドキュメンタリーとして数年にわたり高視聴率を叩き出し、多数の義援金と支援者を得ることになる。
退院後は支援者からの紹介で矢郷と繋がり、エリア28に移住した現在はこのSMクラブにM男として勤め、これまた多数の固定客を獲得。今は特定の住所を持たず、客や支援者の家を渡り歩いているという。
彼目当てにわざわざ首都から泊まり込みでやってくる客もいるほどだ、天然の人たらしとはこういう人間を指すのかも知れない。
特殊プレイ、特にラバーと拘束プレイへの造詣が深く、奉仕の腕はこのクラブ随一だと言われるテクニシャンなのは、恐らくヒトイヌとして自然と身についたものが色濃く残っているせいだろう。
(本当に……元二等種の人生は谷しかないよね……)
(なっちゃんとトシ君以外も、みんな似たり寄ったりだしねぇ……)
遠くで聞こえる二人の諍いが早く終わることを祈りつつ、二人は二等種の運命に思いを馳せる。
ここで働くCIMS保持者のほとんどは、他の地域からの移住者だ。中には、他の地域で理不尽に負わされた多額の借金を返済するために、この仕事を選んだものもいる。
ナツも身請け金を矢郷に返済するため、半ば無理矢理ここで働かされている身だ。
……何となく彼女の場合は「よそに出すのはまずい」という矢郷の判断が大きそうではあるが。
だが彼女は、今の境遇に特に不満はないと以前シオン達に語ってくれたことがある。
「だって、いっぱいエッチで気持ちいいことしてれば、お金いっぱい貰えるじゃ無いですか!」
「ちょ、なっちゃんそれは即物的すぎる」
「それに、ここのお客さんはプレイが終わればみんないい人になりますし!」
「……あー、それはうん、そうね……」
「私、初等教育校しか出てませんし。こんな性格ですぐ騙されちゃうし……辛い目に遭わずに生きられる場所はここしか無いと思うんです」
「なっちゃん…………」
「ま、でも一番はやっぱり、えっぐいプレイやお仕置きをたっぷり楽しめるからですね!」
「だめだいい話でまとまらなかった」
二等種では無くなって、全ての人権を取り戻してなお、地上での居場所は限られている。
それでも、ゼロで無いだけありがたい――
(……僕たちが世界を統合したことは……二等種にとって良かったんだろうか)
(分かんない。でも……死を絶対の救いにしなくていいだけ、ちょっとはましかも知れない)
(そうだね……ましではあるよね……)
一見人間らしい人生を楽しんでいそうな元二等種達の諦め混じりの本音は、時折シオンたちの胸にチクリと突き刺さるのである。
◇◇◇
ようやく二つ目の鍋が完成し、ヘッドホンをそっと外した至恩は小さく刻まれたはんぺんの味を、そして詩音は同じく短くカットしたくずきりの食感を楽しみ始めた頃「……またか」と突如隣に人影が現れる。
「!! っ、びっくりしたぁ……お、おはようございますっ矢郷さん」
「相変わらず矢郷さんって、気配を消すのが上手すぎる……」
「いや、消しているつもりは無いんだが。……で、やっぱりやってるのな」
入ってくるなり、はぁぁ……と大きく肩を落とすのは、草色の髪に紫の瞳を持つ少年……ではない。
自身もN型のCIMS特性保持者でありながら、このSMクラブのオーナーであり、シオンたちここに集うCIMS保持者の後見人でもある矢郷だ。
外見は他のCIMS保持者同様10代にしか見えないが、表情が乏しくあまり喋らない性格のせいか、見た目よりはずっと大人びた印象がある。
隣には見覚えの無い少女。……多分、また矢郷がどこかで拾ってきた新しい「仲間」だろう。
「ミヤ、そこに座って楽にしてていい」と緊張の極致でそろそろ泡を噴きそうな少女を至恩の隣に座らせた矢郷は、もう一つため息をつきつつジャケットを脱ぐ。
そして、無言のままツカツカと、相変わらず賑やかに喧嘩を続けるナツとトシに近づくと
ゴン!!
「「っっっ痛ったあああああ!!!」」
何の前振りも無く、両の拳を二人の頭上から落とした。
「うええぇん痛いよぉ、ってオーナー!?」
「っ、や、矢郷さんっ! おっおはようございますっ!!」
「おう、おはようトシ。…………で? これはどう言う状況だ」
「「…………ヒィ」」
ギロリと睨んで地を這うような声で矢郷が尋ねれば、途端にナツとトシは震えあがりその場に慌てて土下座する。
「そっそのっ、ナツが」「トシくんだって」と微妙に責任をなすりつけあいながら事情を説明するのを一通り聞き終えた矢郷は、すぅと息を吸って
もう一度、二人の頭にげんこつをお見舞いした。
「ううう、痛ってえ……」
「なっ、なんでそんなにゴンゴン殴るんですか!? これ以上頭悪くなったらお仕事出来なくなりますよぉ!!」
「心配するなナツ、お前の頭は既に豆腐だ、何の問題もない」
「ひどい」
「…………ほう、俺は何度も何度も何度も、この鍋パーティーの趣旨をお前に説明したはずだが? 豆腐でも煮込めば味くらい染みこむぞ、この脳みそお花畑が」
「そんなっ……ひぃ、申し訳ありませんでしたぁ……」
感情のこもらない瞳で矢郷が見据えれば、ナツは慌てて再び頭を床に擦りつける。
隣でトシは「だからお前が悪いんだよ、このバカナツが」とこそこそナツに文句を言っていたが「で、トシ」とこれまた静かに名前を呼ばれればその場で飛び上がり「は、はいっ!!」と上擦った返事を叫んだ。
「……いくらナツと幼馴染みとは言え、毎度毎度取っ組み合いの喧嘩にするな。大体お前が口撃するのがきっかけだろうが」
「う…………」
「うちには聴覚過敏を持つキャストもいる。この豆腐頭に腹が立つのはよーく分かるが、お前はもう少し理性を保て、この豆腐限定瞬間湯沸かし器が」
「すっ、すみませんでした……」
「謝るのはシオン達にな」
「……ごめんなさい、シオンさん…………」
心底しょげた様子でぺこりと頭を下げるトシの姿に、ああこういう素直さが人気の秘訣だよなぁと思いつつ、シオン達は「うん、次から気をつけてね」とお決まりの言葉を返す。
……きっと2週間後にはまた同じ事を繰り返すのだろうけど、ここは一旦手打ちにするのがいつものセオリーだから。
「ふぅ……ん? 今通知鳴ったぞ」
「私のじゃ無いですね」
「俺のでもない」
と、聞き慣れた通知音が部屋の中に響く。
この音は誰かの排泄管理アラートだ。誰だ? とキョロキョロしていた矢郷は、机の上に置かれたやたらデコられたスマホに通知されたメッセージを見た途端、ぴしりと固まった。
「……おい、豆腐」
「豆腐じゃないですナツですぅ」
「お前……朝から排尿アラートを無視してるな」
「…………ぎくっ」
伏せたままビクッと身体を震わせたナツが、おずおずと顔を上げる。
見上げた先にあるのは、表情の変わらない……だが、明らかにこめかみに青筋を浮かべている矢郷の姿。
(あ、なっちゃん今日もやっちゃった……)
(仏の矢郷を切れさせるとか、いつもながらある意味天才過ぎる)
シオン達が思わず耳にヘッドホンを再装着した次の瞬間
「お前は!! また腎盂炎で寝込むつもりか!! とっととトイレに行けえ!!!」
「はひぃっごめんなさいいい!!」
今日一番の雷が、ナツに向かって炸裂したのであった。
◇◇◇
「はぁぁ、ったく……何のためにアプリを入れてると思っているんだ、あいつは……いや、あいつがトイレに行きたくなるようなアラートが出せれば、排泄管理効率は上がるはず……」
「た、大変ですね、矢郷さん……」
「全くだ……そう言えば、シオンは排泄アラート無しで自立しているんだな」
「あ、はい。排尿は1日2回、起床時と入浴前で固定してます」
「排便は浣腸ですけど、毎日きっちりやってますよ!」
「……それは趣味と実益を兼ねているだけだな」
まあそれでも自力で何とか出来るならいいんだ、なのにあの豆腐娘ときたら……と矢郷はげんなりしながら新しい寄せ鍋をせっせとこさえている。
ナツがかけつけ雑炊にしてしまった鍋は、今頃待機室にいる面子が美味しく片付けているはずだ。わざわざシオンを台所に呼びつけ、次の鍋の準備を手伝わせているのもあれを見せないための配慮だろう。
「矢郷さん、次の鍋まだっすかー?」
「今日人多いからすぐ無くなっちゃいますよー」
「……ったくお前ら、俺はオーナーだって分かってんのか?」
待機室からの催促に文句を言いながらも手を動かす辺りは、もうおかんの域だな……と思いつつ、シオンは矢郷と会話を続ける。
食材を弄りながらする話題では無いかも知れないが、排泄管理はそのくらい彼らにとって身近な問題でもある証左だろう。
CIMS保持者にとって、排泄障害はありふれた症状の一つだ。
二等種時代の排尿は、膀胱からの一日二回限定の直接転移処理のみ。つまりどれだけ切羽詰まろうが尿道から出せない身体に加工されていた。
更に排便に至っては必ず大量浣腸を強制されたせいか、CIMS保持者で排泄が完全に自立している者はゼロに等しい。
一般的な排尿障害と比べて特徴的なのは「漏らさない、だがトイレに行けない、行けても出せない」事だ。
トイレを使うのは人間様の真似事であるという意識が深層心理で強い罪悪感に転化され、今なお行動を縛り続けているのだろう。尿意の感じ方は差があるが、例え尿意を感じてもトイレには近づけずひたすら我慢し続けたり、何とかトイレに行けても導尿無しには出せなかったりする例は多い。
「俺は尿意はあるが出せないから、導尿必須なんだよな……ただトイレには行けるから、促しのアラートを自分で試せない。色々アップデートを重ねて、今じゃ成功率は7割くらいになってるんだが」
「残り3割が難しい……?」
「ああ。アラートを指示と感じれば成功率は上がるから、設定で過度に反応しない程度の指示調に変更できるようにしてあるんだが……しかしあまり命令調に寄せるとそれはそれで」
「さっきのなっちゃんみたいに、震えが止まらなくなっちゃいますね」
「……あいつの排尿が確実に成功するようになったら、成功率は100%になるだろうよ。そもそもあれは、ナツがあまりに腎盂炎で寝込みまくるから開発したアプリだし」
コトコトと鍋の蓋から湯気が上がり始める。
後は向こうでいいだろうと、矢郷は頃合いを見計らいシオンと共に待機室へと鍋を運ぶ。
「あと5分待ってから食えよ」
「はーい、ありがとうございます矢郷さん!」
「あ、矢郷さんこっちへどうぞ!」
「ああ、おれはここでいい。先にITSUKOを立ち上げて置かないとな、データが取れん」
鍋をカセットコンロにかけた矢郷は、皆と鍋を囲む……でもなく、待機室の一角に置かれたパソコンスペースに陣取った。
そうしてシステムを立ち上げ、なにやら黒い画面でコマンドを打ち込めば、10秒とかからず隣に置かれた縦長のホログラム投影機が起動する。
そこには、栗色のストレートヘアを胸まで伸ばし、ヘーゼルの瞳を持つ美少女が、微笑みを湛えて椅子に座った状態で投影されていた。
――ホログラムとは思えないほどくっきりと映った彼女の姿を見る度、シオン達の胸は少しだけ苦しくなる。
その姿がかつて見た調教用作業用品製造機とうり二つであることと……あの日ほんのり透けていた央の姿を思い起こしてしまうから。
《Emotionarized-AI ITUSKO 起動中です。暫くお待ちください……音声データをダウンロードしています……》
ITSUKOは矢郷が弱冠19歳にして開発した、世界初の感情を獲得したAIだ。
この偉業により天才エンジニアの名声をほしいままにした矢郷は、各種特許料やアプリの売り上げにより既に働かなくても一生遊び暮らせるだけの収入を毎月得ているという。
彼にとって、SMクラブの経営はあくまでも慈善事業の一環でしか無い。N型とはいえCIMS特性保持者の希少な成功例は、誰もが夢み羨む存在と言えよう。
《……こんにちは、ヤゴ。今は2366年3月18日、17時25分よ。White Abyssの開店まであと35分ね》
起動したAIは、いつも矢鄕をまず見つめて微笑みながら話しかける。
そんなITSUKOを見つめる矢鄕の表情は相変わらずの感情の無さで、けれど……少しだけ目が優しい。
流石「永遠の17歳、ITSUKOは俺の嫁」と公言するだけのことはあるよねと、ナツが雑炊を頬張りながらこそこそと話している。それ、聞かれたらまたげんこつが飛んでくるぞと、こっちは冷や冷やものだ。
「ありがとう、ITSUKO。今日は鍋パーティーの日なんだ。参加者全員の咀嚼能力を評価して、プランの修正を頼む」
《分かったわ。ところで今日は、子ネズミちゃんとトシは喧嘩をしなかったの?》
「……した。拳は2回落とした。ついでにナツが朝から排尿アラートをフルシカトしていやがる」
《ふふっ、災難だったわね。にしても、相変わらず子ネズミちゃんはやってくれるわねぇ。…………ヤゴ、排泄管理アプリのアラート機能修正案を3つ出したから、目を通して貰える?》
「分かった、店が開いたら確認する」
矢郷の指示を受けたITSUKOは、こちらに顔を向ける。
「ヒッ」と初めて見るホログラムに怯える少女の姿を認めると《大丈夫よ、私はあなたを害さないわ》と映像の少女は優しい微笑みを返した。
《ヤゴ、私あの子には初めて会うわ。情報をちょうだい》
「そうだな。あー初っぱなから喧嘩の仲裁だったから紹介もしてなかったか。おいお前ら、こいつはミヤ。今日エリア17から移住してきたばかりだ。当分は俺の家に住む。ここに来るときは連れてくるから、待機室で面倒みてやってくれ」
「はーい、ってエリア17!? 北東部の島じゃん、ここ南西の端っこだよ、また遠くからきたねぇ」
「あそこは天授教団の管轄地だっけ。ってことは」
「おう、自立訓練経験はゼロだ」
「…………あー」
「……そう、だよね…………」
鍋を囲むキャスト達の間に、なんとも言えない空気が流れる。
それは、教団によるCIMS保持者の神格化により、まともな生活訓練を受ける機会を奪われた少女への同情と、そんな「厄介な」CIMS保持者をまた拾ってきた矢郷への「ちょっとは自重しろ」という呆れがない交ぜになったものだ。
矢郷も流石に自覚はあるのだろう「……まぁ、頼まれると、な」と頭をポリポリ掻いている。
「ともかく、全ては今の状態を正確に評価してからだ。とは言え、明日から病院で検査は受けるが、ああいう場所だと俺らは従属心のせいで結果が低く出がちだし……ミヤ、ここにいるのは全員CIMS保持者だ。怖がらなくていい」
「あ、は、はいっ……」
「んじゃちょっと鍋を食べてみてくれ。ああ、食べられそうなものだけでいい」
「え…………っと…………」
矢郷の言葉に「鍋、食べる……?」とミヤは凍り付いてしまう。
恐らく彼女は生まれてこの方、つまり症状が出る前からあのパウチの餌しか食べたことが無いのだろう。CIMS保持者への手厚い支援が無い地域ではままあることだ。
お陰で「これを食べていいのか」と言わんばかりの恐れが、はっきりと表情に表れている。
(……うん、人間様のご飯に手を出すのは、怖いよね)
詩音は器を取り、お玉で鍋からだしを掬う。
茶こしで丁寧に漉したうまみたっぷりのスープに、待機室に常備してあるとろみ剤を少し多めに。
これまで一度も訓練らしい訓練を受けていないなら、咀嚼機能は最も低いステージ1、すなわち流動食レベル。嚥下機能も弱いかも知れないと踏んでの対応だ。
「はい、ミヤちゃん。スプーンで掬って食べてみてくれる?」
「……スプーン」
「うん。持ち方は自由でいいよ」
こうやって、と詩音が手本を見せれば、ミヤは暫くじっと器を眺め、覚悟を決めた顔でスプーンを口に運ぶ。
その手は震えていて、目はぎゅっと瞑ったままで。
(……がんばれ)
いつしか、待機室のキャストは皆、ミヤの初めての「食事」を固唾を呑んで見守っていた。
CIMS食のパウチ以外に口をつける不安と恐怖は、かつて自分達も通ってきた道で、今なおその足をすくませるものの一つだ。
どうか最初の一歩を無事に踏み出せますように……そんな祈る気持ちで、ミヤがスプーンを口に含み、こくりと喉を鳴らす瞬間を見届ける。
「…………気持ち悪くないかな?」
「……はい…………知らない、味がします……」
「うん。美味しい……ってのはまだ分からないか。この世界にはいつものパウチだけじゃ無い、たくさんの味があるの。これからゆっくり覚えていこう、ね」
「…………はい」
部屋の片隅では、ITSUKOが《データは取れたわ。ヤゴ、ミヤちゃんの咀嚼訓練プランを作成するから、明日から実行してね》と自分達の食事風景を観察しつつ早速分析を始めているようだ。
「…………これが、美味しい……」
ミヤはおずおずとピュレ状のスープを口に運び、舌を少し動かし、初めての味を感じている。
ああ、最初から味に興味を持ったなら大丈夫だ。
いつかきっとこの子は鍋を一緒に囲める日が来ると詩音は確信しつつ「お替わりが欲しかったら教えてね」と心なしか表情の緩んだ少女に優しく声を掛けるのだった。
◇◇◇
「あ、オーナー……むぐむぐ……んぐっ、来週の月曜休みますぅ」
「ナツ、口の中が空になってから喋れ。何だ通院か?」
「んふっ、実はですねぇ……やっとこれを取れるんです!」
「!! ちょ、こらバカナツっそんなもん見せびらかすな!」
ITSUKOによる咀嚼力の再評価が進む中、ようやく穏やかさを取り戻してきた待機室に再び爆弾を放り込むのは、やっぱりこの娘である。
矢郷の問いかけに小鼻をぷくりと膨らませたナツは、やおら立ち上がると得意げな表情で……よりによってスカートを勢いよく持ち上げ、その下腹部を――黒々と刻まれた「499F072」の管理番号と等級記号のCの文字を衆目に晒したのだ。
突然の奇行に、トシも思わずナツを諫める。なんだかんだ言ってこの二人、喧嘩するほど仲がいいの典型例なのだ。
とは言え、彼女の奇行は皆慣れたものである。
初めて目にするミヤが凍り付いているくらいで、周囲は「なっちゃん、お腹出すと風邪引くよ」「てか日常的にノーパンはやめな」と冷静に突っ込むだけだ。
「……トシ、一発頭はたいておけ」
「了解です矢郷さん!」
「どうして!?」
そして頭を抱え、端的に発せられた矢郷の指示に、トシは一も二も無く従うのだった。
…………
……
10分後。
散々説教を食らったナツは、多少は反省したような顔をしつつも「だってぇ……嬉しいんだもん……」と口を尖らせていた。
「そういやなっちゃん、まだ取ってなかったんだ、アザ」
「珍しいね、ここのキャストは半年以内に大体取っちゃうのに」
「取りたかったんですけど……なかなかお金が貯まらなくて……でも絶対綺麗に取りたかったんです!」
お陰で6年もかかっちゃいましたよぉと下腹部をさすりながら話すナツは、ようやくこの忌まわしいアザと別れられる喜びを、どこか隠しきれないようだった。
CIMSの病名にも入っている、刻印斑――これは出生時から見られる特徴的な黒いアザを指す。
かつて栄えたという古代文明で使われていた文字に似たこの刻印斑は、CIMSの診断基準上もっとも大切な指標である。
CIMS特性保持者は、全例出生時にこの刻印斑を下腹部に持って生まれてくる。また一部は腰部にも刻印斑を呈し、これがCIMSそのものの確定診断のみならず、類型診断の一助ともなっているのである。
なお、出生時の段階でS型については診断が確定するが、D型とN型については思春期以後の観察にて最終的な類型診断をつけるよう、ガイドラインで定められいてる。
「トシはいいよな、タダで綺麗に取って貰えたんだろ?」
「そっすね。入院中についでに治療して貰って、ここに来たときにはもう刻印斑はありませんでした」
「孤児は取ってくれないもんなぁ……まあ、お陰で痕を残さない治療法も選べるんだけど」
刻印斑は外観上の問題があるため、通常は幼少期から治療を始め初等教育校入学までには外科的に完全除去するのが通例だ。
もちろん、アザを除去したところで思春期以降の症状を抑えることはできない。それでも心ない差別やそれによる精神的な二次被害を避けるために、CIMS患者の両親は手術可能な年齢になればすぐに治療を始めることを希望するという。
治療は当然ながら保険適応だ。ただし身体にメスを入れるため、ある程度目立たなくなるとは言え大きな傷跡が残ってしまう。
一方で、CIMS特性保持者の養育を放棄する親は非常に多い。
一説によると、出生時に確定診断のついたCIMS-S型の患児の5割、それ以外の類型の患児の2割が1歳になるまでに児童養護施設へと預けられると言われている。
周囲からの偏見や、思春期までの正常な発達と症状出現後の落差、症状出現後の介護問題、そして何より性的な面での不安があるのが原因だろう。
自分の子供が確実に淫乱な変態になると分かっていながら育てられる度量のある親は、そう多くは無いということだ。
そうして養護施設で育つCIMS保持者は、刻印斑の除去手術を受けられない。
自治組織によっては治療の補助金が下りるが、基本的にはこの忌まわしいアザを持ったまま彼らは大人となり、自らの稼ぎで――それもほとんどは風俗でだ――ようやく治療を受けることができるのである。
なお女性のCIMS保持者が成人後にアザを取る場合は、自費診療のクリニックを使うことが多い。最新の医療技術を使えば身体にメスを入れることも無く、また痕ものこさずアザを綺麗に取り切れるからだ。
ただし、保険で切除する金額の100倍近い治療費と、3年にわたる定期的な通院が必要になるのがネックだが。
「しかしそんなに取りたいものなのか?」と首を傾げる矢郷は、この刻印斑を取らない少数派だ。
別に誰に見せるわけでも無ければ見られたところで気にもしない、ITSUKOはそんなことで俺を嫌いにならないと豪語する表情の無い矢郷に「そりゃ2次元が恋人のオーナーには分かりませんよーだ!」とナツは相変わらずの傍若無人っぷりである。
「いや、仕事には支障無いだろうが。うちの客で刻印斑をどうこう言うヤツなんていないし、いたら即刻出禁にするし」
「むうぅ、それはそうですけど……これがあるのがいいんだって言ってくれるお客さんもいるけど」
「それはそれでどうなんだ、ちょっと名前控えさせろ」
「……でもやっぱり、私も普通が欲しい」
「…………そうか」
ナツの言葉に、待機室にはしんみりとした空気が流れる。
普通が欲しい……それはCIMS保持者ならば誰もが一度は思うことだ。
確かにこの世界には、CIMS特性保持者を支援する仕組みがある。
住む場所さえ選べば適切な支援に繋がれ、人的にも技術的にも彼らがこの空の下で生きるためのあらゆるサービスが存在し、業種はともかく社会参加だって可能だ。
そんな生活に不満は無い。
幾多の症状を抱えながらでも、自分達はそれなりに楽しく生きている。
それでも……かつての世界で憧れた地上で、かつては属していた「人間様」と同じ普通を手に入れたい――そう虐げられ続けた魂が叫ぶのは、贅沢な望みなのだろうか。
「お前はその天然すぎる性格をどうにかしないと絶対普通にはなれねぇよ、バカナツ」
「んもう、どうしてトシくんはいっつもいっつも人の名前にバカってつけるのよぉ!」
「そりゃお前、ナツといえばバカだからじゃね」
「ひどい!!」
「ごめん、それは私も同意」
「そんなぁ詩音さんまでぇ!!」
空気を読んだトシのちゃかしで、待機室には元の賑やかさが戻ってくる。
またまた言い合いを始めた二人を微笑ましく眺めながら、シオンたちはそっと下腹部に手をやった。
と、その様子を見ていたキャストの一人が「そういやさ」と至恩に声を掛ける。
「ニコイチはアザ、そのままなんだっけ」
「だからニコイチって……そうです、特に取るつもりもないですし」
「だって同姓同名だから呼びにくいじゃん! でもなんで取らないの? 矢郷さんみたいに二次元が恋人でもないでしょ」
「うーん……何となく? 矢郷さんも言ってたけど、仕事では困らないしね」
「ふぅん、珍しいねぇ」
(…………取らないよ)
たわいない話に混ざりながら、至恩はそっと心の中で呟く。
その言葉に気付いたのだろう、詩音は机の下で至恩の手を握りしめた。
(……取らないよ、だって)
(これを消したって、「普通」は手に入らない)
刻印斑を取れば、少しでも人間様に、「普通」に近づける――
そんな無自覚の切なる想いが彼らを突き動かしていることを、二人はよく知っている。
そして……たとえ表面を整えたところで、彼らの目指す普通がこちらに近づく事がないという、悲しい現実も。
それに、この刻印斑は決して取れない。取りたいとも思わない。
だってこれは
(……これは、央が私達に残してくれたものの一つ)
(央が確かに存在していた、証だから……)
確かにこの刻印は、今はただのアザに過ぎない。
尽きない渇望と、いくら絶頂しても決して満足できない地獄を作り出したりはしない。
それは先日の「リセット」で確認して……一晩中泣き明かしたばかりだ。
それでも。
例え形ばかりのものであっても、央が刻んでくれたものを自分達は死ぬまで抱き締めるに違いない。
(……央の想いは、ここにある)
(うん。……私達が央を、連れて行く)
央、君は今確実に、僕たちと共にこの世界を歩いている――
二人はぐっと唇を噛みしめながら、記憶の央に向かって語りかけるのだった。
◇◇◇
店が開き、キャストは一人、また一人と呼び出されて待機室を後にする。
気がつけば部屋にはナツとトシ、そしてシオンたちと矢郷だけになっていた。
「至恩さん、これ食洗機に入ります?」
「んーちょっと無理かな。コップくらいなら隙間に入るから持ってきて」
待機室に残っている者が後片付けを行うのは、いつものルールだ。
20人分の食器は食洗機だけでは追いつかなくて、洗う係と拭く係に分かれて手っ取り早く食器を片付けていく。
「至恩さんはここじゃ『ご主人様』なんですよね。後でちょっと、俺の練習に付き合ってもらえませんか?」
「いいけど、何するの?」
「イラマチオの練習です。喉を突かれるのは何ともないんですけど、息が続かなくて……」
「あーなるほど」
(そっか、ヒトイヌは喉に直接穴を開けられてたから)
(息の事なんて考えなくてもよかったものね……)
サイトの宣伝文句にも「男女不問、超絶テクニックによるご奉仕で最高の夜をお届けします」なんて書かれるくらい、トシの奉仕は人気が高い。
だがその人気にあぐらをかかず、真面目に技術向上に励む辺りは実にトシらしいなと、丁寧に皿を洗うトシを横目で見ながら至恩は複雑な思いを抱く。
あれから何体ものヒトイヌを管理したけれど、彼を超える成績を叩き出した製品には出会わなかった。
きっとこの子はあの黒いテカテカに覆われたモノであったときも、無意識にその真面目さを発揮していたのだろう。
しかし残念ながら彼の要望には応えられないと至恩は「ごめんね」と謝罪を口にする。
「練習手伝ってあげたいんだけどさ。僕の……その、あそこは貸せなくて」
「へっ……あ、すみません。何か事情が」
「あーいやいやそんな深刻なものじゃないんだよ! だけど……その」
「トシ、使うなら俺が貸してやる。至恩は物理的に貸せる状態に無いからな」
「……物理、的?」
思いがけない矢郷の言葉に、トシの頭の上にははてなマークが飛び回っている。
そして暖簾の向こうから「え、至恩さんの至恩様って、役立たずなの!?」と実に失礼なことを尋ねるナツに「豆腐は大人しくしていろ」と静かに一喝した矢郷は、二人の秘密……にしているわけでも無いが、ここでは見せていない本性をあっさりとバラすのである。
「シオン達は仕事じゃご主人様と女王様だが、中身は貞操帯フェチのドマゾだぞ」
「「ええええ!?」」
◇◇◇
「うわぁ……何か見てるだけで股間が痛くなる……痛くないんですか?」
「普段は何ともないよ。ただまぁ、元気になると」
「あーそりゃそうですよね……」
「貞操帯ってどんなの!?」「見たい!!」とせがむ二人に、シオン達はまぁいいかと股座を緩める。
至恩の股間には彼らが思い描くような肉は存在せず、ただ銀色に光る丸いプレートが鎮座するだけだ。
詩音に至っては大切なところを封じているにも関わらず丸見えな貞操帯に「エッロ」「詩音さん思ったより過激派」とすっかりトシとナツは盛り上がっていた。
「え、これって本番出来ないですよね? 仕事はどうするんですか?」
「本番どころかご奉仕されるのもNGだぞ、そいつらは。まぁそれが『奴隷如きが奉仕なんて分不相応』だと突きつけられているようで逆にいいと、特殊なお客に大ウケで」
「……うちのお客、性癖ねじ曲がった人たち多過ぎでしょ」
「人間誰しもねじ曲がったものを持っているってこった」
それでもシオン達の性癖はちょっとびっくりだけどな、と矢郷は初めて二人を風呂に入れたときのことを語る。
頑なに風呂場に行かない二人を無理矢理ひん剥いたら、とんでもない装具がこんにちわして、すわ誰かに着けられたのかと慌てて工具を用意しようとしたら、外さないでと二人に大泣きされたこと。
よくよく聞けば彼らは互いに貞操帯(貞操具)の鍵を管理していて、二人で決めた洗浄日とリセット日以外は決して装具を外さないし、外すときも相手を拘束して決して自らの手で性器に触れられないようにしているということ。
そして、そのリセット間隔が13週間だと矢郷が語った瞬間「ひぃ」「ないない」とトシとナツは真っ青になって股間を押さえる。
「13週間って……3ヶ月以上ですよね!? え、その間ずっとセックス無し?」
「うん。まあ流石にたまには外して寸止めプレイをするけど、でも射精と絶頂はリセット日以外なし、リセット日も1回だけ、が僕らのルール」
「嘘でしょ、そんなことしたら私死んじゃう……」
「お前でも無くても死ぬな、俺も耐えられん。というか貞操帯で射精管理だ絶頂管理だをするCIMS保持者なんて、俺は生まれてこの方見たことがない」
((ですよねぇ!!))
矢郷の言葉に、シオン達は服を整えつつ心の中でぴったり声を合わせて同意する。
以前病院でも言われたのだ、S型のCIMSですら貞操帯管理に手を出した患者なんて見たことがない、ましてN型なら症例報告ものだと。
是非学会で報告させて欲しいという熱烈な医師の依頼を丁寧に断りつつ、二人は(この世界でも同士はいないのか!)とちょっとだけ落ち込んだものだった。
「ま、結局は変態なんだよ」
「私たちはN型だけどね、性癖のこじれっぷりはどの型でも変わらないってこと」
「そ、そっか……まあオーナーも二次元の嫁を三次元に召喚しようと、こっちが引くような事をやってますもんね」
「……なっちゃん、口は災いの元だよ?」
尊敬すればいいのかドン引きすればいいのか困り果てているトシとナツを、二人は笑って軽く流す。
そう、自分達は紛う事なき変態ドマゾだ。ある意味では目の前の元製品達以上に。
この装具は、そんな二人の性癖を心ゆくまで満たすために、大切な人が作ってくれた一点物。
そしてこの統合された世界で、央の贈り物はただのヘンタイ向け装具以上の意味を与えられる。
(いや、流石に仕事だとしても)
(央以外の人に触れる権利なんて、あるはずないよね!)
愛する人の手で作られたモノで、愛する人のために貞節を守れる。しかも性癖を満たすおまけ付きで。
いやもう控えめに言っても最高では無いか!
……まぁ、流石に永久封印は辛いから、リセット日だけは央に謝りながら互いを慰めるのだけど。
それはそれで「全く我慢が聞かないんだから、このヘンタイ」とあのゴミを見るような目で嘲る声が聞こえてきそうで、実に美味しいのである。
「……えへへぇ……いいよねぇ……」
「あ、あのっ至恩さん?」
「あーこいつらな、時々ドマゾが過ぎて妄想の世界にぶっ飛ぶから、気にするな」
「えええ」
央を思い出し顔をにやけさせるシオン達に「そんなになるなら、ご主人様を作ればいいのにぃ」とナツはどうにも納得がいかないようだ。
「お互いに管理するって、何だか甘えが出ちゃいそう……誰かにガチガチに管理して貰いたいとか思わないんですか?」
「えっと、それは」
《なっちゃん、お客様よ。2階207号室に向かってちょうだい》
「あ、はーい! ありがとうITSUKOさん」
タイミング良く呼ばれたナツは「じゃ、行ってきます!」と元気に待機室を後にする。
彼女のお客は随分ハード嗜好な方が多いから、戻ってきたときにはきっとボロボロだろう。救急箱の中身を見ておかないとねと、詩音は棚から箱を取りだして備品の確認を始める。
(……ご主人様、か)
ナツの言葉が、頭の中で反響する。
そりゃシオン達だって自他共に認めるドマゾなのだ。貞操帯好きとしてはドマゾ同士ではない、本物のご主人様に厳格に管理され泣かされたいという願望は持っている。
けれど、それが叶う日は来ない。
ご主人様という言葉を聞いて、真っ先に思い浮かんだ人はもう――
「っ……ひぐっ、うえぇ……」
「ううっ、ひっく、ひっく…………」
《あらあら、笑ったり泣いたり忙しいわねぇシオン達は》
「全くだ。……ほら、タオル。アイスノンもいるか?」
「ありがとうごじゃいます……ひぐっ……」
気持ちはいつだって一緒にいる。
それでも君の実体がないのは、こんなにも寂しいよ、央――
相変わらず何も聞かずそっとタオルとアイスノンを差し出す矢郷に感謝しつつ、今日も二人は少しだけ央を偲んで涙に暮れるのである。
◇◇◇
季節はあっという間に過ぎ去っていく。
遠い記憶にしまわれていた新緑のまぶしさ、雨の匂い、肌を撫でる湿気を含んだ風……人間があれば当たり前に感じるであろう、全てのものが新鮮で愛おしい。
――そしてそこに、央が居ないことがどうしようもなく寂しい。
まだまだ自分達はこのぽっかり開いた穴を塞ぐ方法を見つけられないし、塞ぎたいとも思えないようだ。
「はい、これで手続きは完了しました。おめでとうございます、天宮さん」
「あ、ありがとうございます……」
「ふふっ、お幸せにね。にしても素敵な偶然ね、名字も名前も読み方が一緒だなんて」
6月。
梅雨の気配を感じ始めた頃、二人は正式に夫婦となった。
当然ながら、互いに恋をしたわけでは無い。二人の心も身体も央のものであることに変わりは無く、婚姻届を出すときだって(これは不倫じゃ無いよ!)と脳裏に浮かぶ全力で軽蔑した表情の央に釈明しながらだったのだから。
ただ、二人はこの世界に於いて書類上は他人であることを知ったから、法的にもずっと一緒にいられる手段として、結婚を選んだだけ。
「いやぁ、あのバケツプリンは圧巻だった! なっちゃんもたまにはやるよねぇ」
「絶対に崩れなくて大きいバケツプリンを作りたいって、ITSUKOさんに無茶を言ったみたいよ。矢郷さんが『俺の嫁を酷使するな』って文句言ってた」
「あはは、矢郷さんって思った以上にITSUKOさん一筋だもんねぇ」
あんなにたくさんの人と過ごして幸せだと思ったのは人生初かも知れないと、二人は「White Abyss」で開かれた結婚祝賀パーティーの余韻に浸る。
キャスト達が総出で作った10リットルの白いバケツプリンは、外はアガーでぷるぷるに固められ、真ん中はハート型にほんのり白桃の味がするピンクのピュレが詰まっていて、咬合力や嚥下に問題があっても食べられる部分がある、実に自分達らしいプリンだった。
「いやほんと、美味しかったよねぇあれ」
「あの場だったから余計にかもね。……ほら、ルイちゃんも言ってたし」
「ああ……あれは、嬉しかったな……」
普段は鍋にもほとんど手を付けない、専用食もすぐ食べるのをサボってしまうあるキャストが「今日は二人のお祝いだし」と小さなスプーンに掬ったピュレを口にしてくれて。
その時、目を丸くしながら放った言葉が忘れられない。
『……楽しいは、美味しいになるかもしれない』
二等種、特に性処理用品は、誰かといる時間が楽しかったという経験を持たない。
世界の全てが自分を苦しめる……そんな中で穴として生きてきた彼らはどこか、他者と同じ空間にいること自体に恐怖を感じがちだ。
そんな背景がありながらも、楽しいを感じてくれた。そして美味しいを感じられた。
それだけで十分、シオン達にとってはどこか救いとなるひとときだったのである。
「あ、至。寝る前にお祝い開けちゃわない?」
「そうしよっか。にしても何だろねこれ……トシ君が『至恩さん達なら、これしか無いって思ったんです!』って言ってたけど」
「結構重いよね……こういうときってどんな物を贈るのか分かんないや」
シャワーを浴びて寝支度を整えた二人は、帰りがけにキャスト達から贈られた結婚祝いの包みを開ける。
可愛らしいラッピングはいかにもウェディング用といった感じで、プレゼントを開けるってワクワクするね! と和やかに談笑しながら包みを開けた二人であったが、中身を目にしたその手は途端ピタリと止まった。
「…………わぁお」
「うん、結婚祝いだからペア、それは分かる、分かるけど」
「ディルドって、ペアにする物じゃない気がするの……」
そこに入っていたのは、ピンクと水色のディルド。
しかもただのディルドでは無い。長さは40センチほど、ボコボコと瘤が連なり、一番太いところはどう見ても7センチはあるであろう、随分凶悪なアナルディルドである。
当たり前のように潤滑用のシリコンジェル付きだ。開けてすぐに使えます!と言わんばかりのラインナップに、二人は思わず「どうしてこうなった」と叫ぶのである。
ああ、多分トシは二人がドマゾで、しかも貞操帯で互いを管理している身だから、少しでも気を紛らわせられるようにとこれを選んでくれたのだろう。
実に彼らしい実直さと気遣いが感じられる品である、その想いとは裏腹にエグいブツだが。
にしても何故これが入ると思ったのか。
いや、ドマゾなら入ると思われたんだろうな……と二人は遠い目をする。
「これは……リセットじゃ使えないか。普段の遊び用だね」
「だね。あ、せっかくだからシチュエーションにもこだわりたいなあ」
「ほんと、時々あの生活が懐かしくなるよね……はぁ、誰か監禁してくれないかな」
「檻が欲しいよねぇ……矢郷さんに頼んでみるとか」
「それ、エンドレス説教の気配しかしないよ、詩……」
しかし、そこで引くような二人では無い。
トシの心遣いはありがたく受け取り、このカラーリングだけしか可愛くないディルドで後ろをゴリゴリと犯される妄想に浸り
『はぁ、こんなぶっといモノを入れて善がるとか、救いようが無いドマゾだね!』
(うああああいま央が全力でドマゾってけなす声が聞こえてきたああ)
(最っ高です央様っ!! もっと! もっと詰ってえぇ!!)
……すっかり欲望に火がついた二人が、ディルドを舐め舐めもどかしさに悶えつつ眠りについた頃には、ヒヨドリの声が聞こえていたらしい。
◇◇◇
シオン達の家には、リビングに似つかわしくないフレームが置かれている。
いや、正確には床から生えていると言った方が正しいだろうか。
普段は雑にコートハンガーやバッグ置き場と化しているそこは、定期的に二人をあの頃のように戒める拘束具と化す。
「はぁっはぁっ、んっ、ああんっ!! もっ、至っ、もう逝かせて、おねがいっ!!」
「ん……大分切羽詰まってきた……やっぱり乳首と両方は効くよねぇ……」
「あっ、あぁっ! らめっ、も、あたま、へん……っ……!!」
梅雨の合間の日差しが差し込む午後、その爽やかさとは対照的な濡れた音と切羽詰まった悲鳴のような喘ぎ声が、家の中に響いている。
十字架を背に抱くように手足を拘束されているのは詩音だ。もうここに固定されてから一体どのくらいの時間が経ったのか、絶頂のことしか考えられなくなった頭では理解できない。
「うああぁ……!! やらぁ、もう、やらぁっ!! 逝きたい、逝きたいよぉっ、中もぐりぐりしてよぉ至ぅ!!」
「それはトドメだよね。まだ無理」
「しょんなぁっ!!」
悲嘆に満ちた叫び声が、部屋の中でこだまする。
CIMS用の自立支援施設だけあって、防音がバッチリなのは実にありがたい。
大体ここでプレイをするときは、二人とも自分が何を叫んでいるのか分からなくなるまで追い詰められるのが常だから。
詩音の胸を飾る銀色のシールドは外され、代わりにドーム型のローターが取り付けられている。
ドームの中心から生えたぬめりを纏ったブラシが、SOLAによる制御で詩音が最も快楽を感じるように、しかし決して絶頂しないようにウィンウィンと音を立てて回転しているのだ。
そして股間の間では、1週間ぶりに貞操帯を外された股間の秘豆を至恩がちろちろと舐めつつ、ドロドロに濡れそぼった泥濘の入口を執拗になぞっている。
こちらも詩音が逝きそうになればすっと舌と指が離れていって、その度に詩音は「ごめんなさいっ、もう許してぇ!!」と叫びながら拘束具をガチャガチャと鳴らしていた。
「お願い……至……許して…………」
「だめだよ、詩。央の断り無くここを使っちゃってるんだから、その分は罰をうけないと、ね!」
「あひいぃっ!! ごめんなさい央ぁ、ここっ、央のものなのにっ、至に弄って貰っちゃってごめんなさいぃ!!」
その言葉に詩音は涙を零し、必死の形相で虚空に向かって愛しい人に謝罪を叫び続ける。
けれど、頭が焼き切れそうな快楽という苦痛の中で、確かに彼女はこの上ない満足感を得ていたのだった。
◇◇◇
統合後の世界にやってきたシオン達に残された、二人の性癖の結晶とも言うべき貞操帯とフラット貞操具。
二人はなんの相談をすることもなく、当たり前のように……統合前と同じく央の指示を守り続けている。
――そう、統合前最後のリセットで指示された「13週間おきのリセット」と「リセット時の射精・絶頂は1回まで」というルールを。
世界が統合して以降、二人が射精ないし絶頂をしたのは、今回を含めたった2回だけ。
もちろん定期的に洗浄や寸止めプレイ、至恩の場合はミルキングも欠かさないけれど、この覆いの奥に自分の手が触れる事は決して無い。
時々発作的に、頭がおかしくなるような渇望に襲われたり、「央様」の妄想で腰を振るのが止まらなくなったりはするけれど、二等種だった頃に比べれば……
いや、マシにはなってるけど辛いものは辛いままだった。
けれど、その辛さだって央がくれた物だと思えば……ああ、こんなことを考えるから余計に追い込まれるというのに、妄想はどこまでも止まらない……!
今後どれだけ衝動に襲われようが、渇望に泣かされようが、自分達は二度とここを誰かに与え、またここに誰かを迎え入れることは無い。
リセットの時こそ央に赦しを乞うて、互いの手と口だけを受け入れるけれど、そこまでだ。
お客は当然のこと、互いの物ですら、ここに触れることはありえない。
だってここは……央だけのものだから。
そしてあの魂まで溶けてしまうような幸せな、最初で最後の交合で、自分達は互いを互いに刻みつけたから。
もう、二度と離れることは無い。私達はずっと……央も含めて、一緒だ。
「はぁっはぁっ……あは……しゅご…………もっと、足りないぃ……」
「はいはいこれでおしまい。詩、一度きれいに洗おうか」
「ううっ、もう一回だけ逝きたいよぉ……」
グズグズとぐずる詩音を後ろ手で拘束したままバスルームまで連れて行くと、至恩は改めてバスルームのフックに手枷から伸びる鎖をかける。
そうしてお湯を調整すると、もこもこに泡立てた泡で全身を洗い始めた。
……当然、股間と乳首は慎重に。ここで逝かせてしまっては元も子もない。
「……ちっちゃくなっちゃったよね、ここ」
「んひぃ……っ!! ……んっ、やりにくい?」
「ううん。小指の頭くらいはあるし、十分だよ」
未だ膨らんだままの肉芽は、泡が滑り落ちる感触すら快感に変えてしまいそうだ。
これはちょっと待った方がいいなと、至恩は先に背中を洗ってしまうことにする。
二等種だった頃と比べて、肉体、というより性器には大きな変化があった。
どう見ても人間離れした大きさで更に萎えることを知らなかった男根と女芯は、一応人間でもおかしくない程度のサイズには縮んでいる。
それでも調べた感じだとかなり大きい部類ではあるようだが、少なくともオスが服を着られる程度には落ち着いた、と言うべきか。
「至のもちっちゃくなったけど……でも、相変わらず央には……」
「うん、あの身体じゃ犯罪だと思うね! ……ああだめだ、央のことを考えただけで出そう……」
「ちょ、ちょっと待って至! 今出しちゃったら今日のリセットは中止だよ!!」
「ふぐぅっ……頑張って我慢するぅ……」
とは言え、相変わらずすぐに発情するし、感度は人よりは敏感なままだし、電撃が無くても自慰を止められるとは言え快楽に弱く我慢が効かないことに変わりは無い。
今もこうやって戒められていなければ、間違いなくサルのように自慰に耽ってしまう自信がある。
「じゃ、付けるよ。ほら、次に気持ちよくなれるのは1ヶ月後だから、ちゃんとバイバイしようね」
「あ、あ、ああ……も、っと……うああ……」
「まあ、リセットまでは触って貰えても寸止めだけなんだけど、ねっ」
「ああああっ!!」
至恩は軽くタオルで水気を取ると、秘肉を収めるようにきっちり洗浄したカップを被せ、アナルの位置を調整する。
そのままシリコンワイヤーで作られたベルトを背部から前に回して、下腹部を縦断するパーツに引っかけ南京錠でカチリと施錠すれば、ひときわ高い悲嘆の叫び声がわんわんと蒸し暑いバスルームに響いた。
「はぁっ、はぁっ……ぐすっ……」
「はい、お疲れ様、詩。……どこも痛くない?」
「ひぐっ……痛くない……触りたい…………」
「うん、触っていいの? 詩のここは誰のものだっけ?」
触りたいと譫言のように繰り返す詩音に、ちょっと意地悪に尋ねれば、詩音は顔をくしゃりと歪め「……央の、ものぉ……ひぐっ」としゃくり上げる。
……ああ、今日はちょっと虐めすぎたかなと思うけど、央の場所を勝手に弄ってあまつさえ絶頂してしまうのだから、このくらい追い込まれるのは当然なのだ。
――というか、このシチュエーションは実に刺さる。我ながら良く思いついたと、数ヶ月前の自分を全力で褒めたい。
「ううっ、至もいっぱい虐めるんだから……泣いて謝ったって許さない……」
「ええ、そんな倍返しはちょっと」
「…………ちょっと?」
「……悪くないよね!!」
はぁ、央様ごめんなさい、いっぱい罰を受けるから許してください……そううっとりした顔で呟く至恩に「至、それどうみても罰を受ける顔じゃ無いよ」と呆れ顔で笑いつつ、詩音は拘束具を手にするのだった。
◇◇◇
魔法が無くなって一番困ったのは、実は貞操帯の管理かも知れない。
鍵の管理は、どうやら統合した世界の人間様にも愛好家はいるようで、すぐに方法を確立することが出来た。
けれど洗浄だけは「ずっと着けっぱなしでまともに洗わなくても、洗浄魔法で隅々までピカピカ!」と言うわけにもいかず、貞操具を付けたままでもある程度清潔を保てる至恩はともかく、詩音は2日に1回は拘束の上貞操帯を外して洗浄する必要がある。
――ちなみに統合しても、女の子の日は来なかった。CIMS保持者の生殖機能は廃絶していることが多いというのは本当のようだ。
「じゃ、詩は1ヶ月後に寸止め」
「至は1ヶ月後に洗浄とミルキングだね。ついでにディルドシコシコオナホセックスもする?」
「それ、何気に詩気に入ってるでしょ! やるに決まってるじゃん!」
「そうこなくっちゃ!」
二人はスマホに入れた貞操帯管理アプリを起動し、いつものようにロックの準備を始める。
といっても、既に貞操帯自体はロック済みで、今から行うのは鍵を……正確には鍵を収納するロックボックスの暗証番号をロックする儀式だ。
「ええと、8桁……んーいい番号が出ない……」
「至、そこって拘るところ?」
ぽちぽちとアプリのボタンを押せば、暗証番号が自動生成される。
このアプリは実に良く出来ていて、自分が持っている暗証番号式のロックボックスに合わせて桁数を4から10桁まで変えることが出来るのだ。
「ん、これにしよっか……間違えないように、と……」
二人はスマホの画面をロックボックスの施錠画面に切り替え、暗証番号を登録する。
それぞれの前に置かれたロックボックスの蓋を一度閉じて、登録した暗証番号で開くことを確認すれば、次は互いの鍵をボックスの中に入れて今度こそ施錠した。
「詩、隠した?」
「うん、はい、こっちも最後に確認ね」
生成した暗証番号はボタン一つで隠すことが出来る。
二人は暗証番号の見えない画面を互いに見せ合い、スクロールしてもう一度、設定を確認する。
(っ……これで、暗証番号が分かるのは1ヶ月後……!)
……詩音は短時間とは言え、洗浄のための解錠を許可せざるを得ないからそこまでの感慨は無いが、至恩はアプリのロックボタンを押せば1ヶ月後まで何があっても外せなくなるから、いつだってこの瞬間は心臓が高鳴って、息が荒くなってしまう。
だめだ、ちょっと落ち着かないと、早速息子さんがここから出せと暴れ始めているではないか。
「いつもながら至は嬉しそうだねぇ……いいなぁ、私もそのドキドキが欲しい」
「洗浄魔法も謎魔法で使えれば良かったのにね。練習したら出来るようにならないかな」
「あは、それは素敵かも! …………でも、ううん。これでいいの」
(魔法は、央が残してくれたものだけでいいよ。過去に戻ることは……きっと央は好まない)
(……それもそっか。魔法の無い世界にいる意味が無くなっちゃうね)
「じゃ、閉じよっか」
「……うん、カウントダウンは3からね」
二人は自分のスマホに表示された「ロックを開始する」ボタンの上に指をかける。
初めて貞操帯をロックしたときのような、心臓が飛び出るような緊張と恍惚感が生じることは無い。
今の自分達にとって、これはもう日常の一コマになってしまったから。
「「3」」
憧れはいつのまにか当たり前になって、無骨な装具は身体の一部になって。
僕は、私は、まるで息を吸うように、大切なトモダチの手で、央のための身体と心を、檻の中に封じ込められる。
「「2」」
この行為は、あの頃から変わらず統合した世界でもやっぱり異常な変態行為のままだ。
けれどこの異常を持っていたから、自分達はひとつ欠けたこの世界で、ようやく同じ空の下に共に立つことができるようになったのだ。
……だから、変わらない。
今までも、今も、そして、これからも……誰がどう定義づけようと、自分達は自分達のままだ。
「「1」」
――失って、初めて気付いた。
自分達はこれほどまでに深く、強く、央に愛されていた事を。
そして……央が残してくれた最初で最後のプレゼントで、央に捧げる場所を封じる行為は……
「「……ゼロ」」
ああ、こんなにも穏やかな幸せに満ちている――
処理後、画面はすぐに切り替わる。
二人のスマホには「29日23時間59分50秒」と、解錠までのカウントダウンが表示されていた。
◇◇◇
人権がこの手に戻ってきても、私たちはいわゆる「人間」には戻れなかった。
壊れた価値観は元に戻らず、支配と性で塗り潰された元二等種達に、それ以外の選択肢は存在しない。
仮に誰かから優しさを与えられても、運良く仮初の幸せを手に入れられても、心の奥深くに刻みつけられたものは消えず……時折意識の表面に恐怖と痛みという泡を弾けさせ、少しだけ人間に寄った筈の自分をあの頃へと強引に引き戻す。
私達はこの綱引きを、生涯抱えて生きるしかない。
この世界において、全ては変転し、決して元に戻る事はないのだから――
「そろそろ出ないとね」
「あれ、もうそんな時間なんだ」
リセットの後始末を終えた二人は、姿見の前で外出着に着替える。
そこに映るのは、どこからどう見ても人間の形をした――けれどその股間には淫らな装具が光る、あの頃と何も変わらないドマゾの元二等種の姿。
(ねぇ、央。統合されても世界は根本的には変わらないみたい)
(まぁ僕らも変わらないけどさ……相変わらず、運命の神様ってのはデレないみたいだよ)
二人はどちらからともなく、央に向かって話しかける。
半年経っても染みついた服従心は薄まることが無く、日々の至る所で前触れも無く顔を覗かせる。
思春期という、人として育つために必要な時間を奪われた影響は思った以上に大きくて、普通を求めながら普通が分からなさすぎて戸惑うこともしばしばだ。
二等種に向けられていたほどの激しい悪意こそ無くなったけれど、CIMSへの偏見や差別は依然として世間に存在するし、彼らを狙う痛ましい犯罪の報道は絶えない。
天井の無い空の下で本物の地面を踏みしめられる権利は得ても、どこかこの世界から弾かれていることに変わりは無くて。
(それでも私達は生きるよ、央)
(僕らはこの世界で、君の願い通り……いや、央の分まで幸せになるんだ)
だが、この地上には、煌びやかでなくとも優しい居場所がある。
人であることを奪われ、普通を見失った人たちを、そっと包み込んでくれる空がある。
何より央がその存在を賭してまで選んでくれた一つの願いは叶い、これからは二人で同じ世界を歩むことができるのだ。
だから私たちはこのままならない身体で、どうしようもなく歪んだ心のままで、果てなき青空の下に立つ。
いつか彼岸で再会したその時に、笑顔で小さな想い人を抱きしめられるように――
二人はパンツのファスナーを上げ、服を整える。
そして何かを確認するように、互いの下腹部にそっと手を当てた。
分厚い布の下には、確かに肉では無い固い感触が触れる。大切なところに、決して熱と刺激は伝わらない。
――そう、今日も央はここにいる。央のための場所は、守られている。
「……行こうか」
「うん」
互いにそっと手を握り、緊張した面持ちでドアノブに手を掛ける。
この外に広がるのが、今日も二人でいられる世界でありますようにと、祈りながら。
重い扉が開けば、二人は今日も互いに向き合い声を合わせて……空の下にしっかりと足を踏み出すのだった。
「「さあ、今日も生きよう」」