第1話 東雲の織物
「……あなたが、神か……!」
「…………はい?」
――どうやら私は、一介の王太子から神へと格上げされたらしい。
しかも、かつての恋人によって。
目の前に広がるのは覚えのない、殺風景な部屋。
そして己の前に跪くのは、どこかあの頃の面差しが残る、けれどもやつれ果てた愛しい人の成れの果て……とおぼしき男だ。
己を仰ぎ見る瞳は消耗しきった雰囲気とは裏腹に、キラキラと……いや、これはむしろギラギラと、と評した方がいいだろうか。とにかく輝いていて、どこか鬼気迫るものを感じさせる。
そうして、互いの間に置かれた湯気の上がるどんぶり二つと、こちらを交互に見やる彼の口からは、今にも涎が垂れそうな勢いで。
(これは一体、どういうことなのだ……!?)
「あっ、あのっ、これ、食べても……?」と恐る恐る、しかしどこか有無を言わさぬ口調で尋ねる屈強な男の腹から響く轟音に、ムシュカは目眩を覚え心の中で叫びつつも「…………たんと食え」と震える声を絞り出した。
◇◇◇
話は3ヶ月ほど前に遡る。
「ムシュカ殿下、本日もご機嫌麗しゅう。実は折り入ってお話が」
「ああカルニア公か。すまぬ今は少々急いでおってな、また後日にしてくれ」
「え、あ、はぁ……」
政務の終わりを告げる鐘の音が聞こえるや否や、ここ神聖クラマ王国の王太子であるムシュカ・クラマは足早に階下の詰所へと向かった。
艶やかな黒髪に王族の証である金色のメッシュと琥珀色の瞳を合わせ持つ青年は、目を輝かせ明らかに浮ついた様子で白と青を基調にし金の刺繍が施された装束をひらめかせ、王宮の廊下を軽やかに駆け抜けていく。
今日は朝から大量の書類に忙殺されていたお陰で、窓からこっそり訓練風景を眺めることも出来なかったのだ。すれ違う臣下への挨拶すらおざなりになるほど気が急くのも、致し方ないだろう。
先ほどまで視界を白くしていたスコールも上がり、年中変わることの無い焼け付く暑さを和らげてくれた。そう、まさに今日は、絶好のデート日和というやつだ。
「ヴィナ! 鐘が鳴ったぞ、今日はどこに食べに行くのだ!?」
「ちょ、でっ、殿下、しーーーっ!! そっそんな大声で、お忍びの予定を暴露してはいけませぬ!!」
「そんなもの、今更であろう! 第一、我が騎士団の面々がこの私を止めるとでも?」
バン! と大きな音を立てて王宮近衛騎士団の詰所へと突撃したムシュカは、扉が開くや否や意中の人に向かって満面の笑みを湛え、弾んだ大声で誘いをかける。
その視線の先にいたのは、近衛騎士団の装束を身に纏い銀髪を短く刈り上げた大男だ。
分厚い胸板に逞しい腕、長年剣を振るっていることが一目で分かるゴツゴツした手。その額には三本の太い傷跡が残り、彼が歴戦の勇士であることを物語っている。
ムシュカの声を聞くや否や、ギョッと目を丸くし唇に人差し指を立てた男は、その体躯からは想像も付かない気弱な口調で己が仕える主君であり恋人であるムシュカを諫める。しかし、数時間ぶりの再会にすっかり盛り上がっている彼の耳に、愛しい人の忠告はいつも通り届くことがない。
むしろ「お主も楽しみにしていたであろう?」と無邪気な笑顔で返されてしまえば、男は「そ、そりゃ、まぁ……」と真っ赤になってもじもじ俯いてしまう始末である。
「ということで、今日はヴィナと夕餉に出かけてくるからな」
「かしこまりました! というか殿下、俺ら本当は止めなきゃいけない立場なんですけどね!」
「止めたら副団長がしょげてため息ばかりつくようになるから、十日に一度だけならって目こぼししてるだけですよ!」
「ははは、分かっておる! では身代わりを頼んだぞ!」
「あ、ええとその、すみません……」
こやつは私と美味い飯がないとどうにもならんからな! とご機嫌なムシュカにバンバン背中を叩かれ、ヴィナは恥ずかしさでますます縮こまってしまう。
――これが「魔熊殺し」の二つ名を持ち神聖クラマ王国最強の武人と名高い王宮近衛騎士団副団長、ヴィナ・ヤーナイの素顔だなんて誰が信じるであろうか。
(全く、私の愛しい人は今日も可愛いものだな)
ムシュカは内心にんまりしながら「ほら、さっさと着替えて行くぞ」とその無骨な手をぎゅっと握りしめた。
◇◇◇
我が国の王位継承順第一位であるムシュカ王太子殿下は、奴隷上がりながら武において国内に並び立つもののいない、異国の風貌をした年上の偉丈夫に熱を上げている――これは、クラマ王国に住まう者なら誰もが知る公然の秘密だ。
婚姻において性別の区別のないこの国において、庶民のみならず王族や貴族が同性を伴侶に娶ることは珍しい事ではない。
だが、王位に最も近い者が正室に世継ぎを見込めない相手を選ぼうとするのは前代未聞の珍事で、しかも王太子は器量よし、性格良し、政務においても有能と非の打ち所のない青年ときたものだ。
お陰で、いつもは貴族としてお高くとまっている正室候補やその家の者が筋肉ダルマに振り回され王宮は大変なことになっているのだが、お家騒動も端で見ている分には実に痛快らしく、市井では良い酒の肴、娯楽の種と化していた。
「……で、今日は麺か。お主は本当に麺が好きだな、ヴィナ」
「いやぁ、米もパンも肉も魚も全部好きっすよ? ですが麺は別格! 毎日6食麺でも飽きませぬ! ずずっ……はふっ……うむ、やはりここの激辛米麺は魚の出汁が効いていて、ほのかな甘味と酸味の後に熱さと痺れが……はぁっ、喉から胃に落ちていく感覚が……くうぅ、実に美味い!!」
「それは美味いという表現なのか……? いや、確かにこの辛さは病みつきになるが」
「でしょう? きっと殿下はお気に召すと思ったんですよ!」
軽装で身分を隠し、城下を視察するという名目で街中に繰り出した二人は、活気に溢れた屋台街の一角で小さなテーブルを囲み、額に汗を浮かべふぅふぅと麺を啜っていた。
――残念ながら本気でお忍びだと思っているのは王太子だけで、ヴィナは麺に舌鼓を打ちつつもずっと周囲に目を光らせているし、街の人たちも気付かないフリをしながらそれとなく全国民公認のカップルを見守っているのだが。
(ほんっと羨ましい、あんな美しい王子様を独り占めなんてさ)
(ああやって二人で街にいらっしゃるようになって3年……そろそろ4年? だっけ。早く正式に結婚しちゃえば良いのに! まあお若い二人だし、夜はもうがっつり仲良くしているんだろうけど)
(いや、あの騎士様の体格じゃムシュカ様は大変そうだな)
(……何言ってるのよ、そこは王子様が騎士様を組み敷いているんじゃないの?)
下世話な噂をひそひそと囁く彼らの声が届くこともなく、二人はいつものように夕餉を堪能している。
喉を焼く辛さに滴る汗を拭いながら、ムシュカはそっと目の前の男に目を向けた。
(……はぁ、本当に……いい男だなお主は)
三杯目のおかわりを豪快に平らげる恋人の幸せそうな顔が、ムシュカはいっとう好きだ。訓練の時の獰猛な眼差しもそれはそれで背筋がゾクリとするほど美しいと思うが、こんな恍惚に満ちた顔で食べられる麺は幸せ者(?)に違いない。
だと言うのに、この男ときたら……ふと過る羨望に、ムシュカの口からはつい本音がポロリと溢れてしまう。
「あ、殿下。まだ陽も落ちていませんし、デザートも頼んでいいっすか? この尖った辛い麺のシメには、やはりさっぱり甘いものが」
「それもよいがヴィナよ。お主の目の前には、もっと美味しそうなものがあるであろう?」
「へっ? ああこのジュースも結構美味しいっすよね、絞りたてで」
「そうではない。私も来月には19になる。……なぁヴィナ、そろそろ食べる気は無いのか?」
「っ、ブフォッ!?」
頬杖を突きこてりと小首をかしげて誘う、麗しい恋人の真意に気付いたヴィナは、一休みとばかりに含んだ水を盛大に噴き出し、ゲホゲホとむせ込んだ。
どうやら運悪く、唐辛子が気管に入ってしまったのだろう。まともに息が吸えていなさそうである。
(ちょ、聞いた!? 今、ムシュカ様から誘ったわよ!!)
(というかあの言い方じゃ、あの騎士様まだ手を付けてなかったのかよ! あんなにお盛んそうに見えるのに、意外だ……意外すぎる……!)
ゲホゲホと真っ赤な顔で咽せるヴィナの様子に、周囲の民衆はちらちらとこちらを伺っているようだ。しかし、今日こそはと色よい返事を期待し鷹揚に構えるムシュカにとっては些末事である。
そのまま待つこと数分。成り行きをワクワクしながら見守る視線を浴びながら、ようやく落ち着いたのであろうヴィナはプルプル震えながらか細い声を上げた。
「……殿下ぁ……」
果たして背中を小さく丸めたまま涙目でムシュカと目を合わせた偉丈夫の顔は、耳まで真っ赤に染まっていて。
……これは唐辛子のせいではなかろう。全く、今日も脈なしかとムシュカは少々落胆を覚え、しかしそれも愛らしくてたまらないと口元が緩んでしまう。
「そ、その……あの、そういうえっちいのは……せっ正式な婚儀のあとに……」
「何を固いことを言っておるのだ? 今どき好き合っている若人が婚前交渉も無し、口付けすら交わさぬままとか、天然記念物にも程があろう」
「いやっそうは仰いますが……その、俺の心の準備というものもありまして……」
「ふむ、毎夜隣で見ている限り身体は準備できていそうなのだが」
「そっ、その突っ込みは勘弁して下さいっ! あ、ほらっ、あまり遅くなるとまたバレて叱られますよ! さぁ戻りましょう!!」
(え、もしかしてあの二人……まさかのキスすら未経験!?)
(というか騎士様、あの風体なのにあんなふるふる震えながら「えっちい」って! 何あのギャップ! ……はっ、まさか王子様はギャップ萌え)
(おいやめろ、流石に不敬だぞ! 聞かれたら騎士様に連行されかねない)
もうこれ以上赤く出来るところが無いくらい狼狽したヴィナは、慌てて立ち上がりムシュカのすらりとした手をそっと握る。
そのまま王宮の方へと駆けていく二人を、民衆は呆然と見送り……そして屋台街は新たな酒の肴が出来たとすっかり盛り上がるのである。
◇◇◇
「王太子殿下、また街へ出られたのですか? 護衛も付けずお忍びなど、万が一のことがあっては……」
「な、何のことだダルシャン? 私は街へなど」
「……『曙の森亭』の特製激辛米麺ですよね? その独特な柑橘と香草の混じった香りは」
「まさか店まで一発でバレるとは」
「むしろそれで、バレないとでも思っていたんですか!?」
美味しいご飯と、ヴィナの可愛らしい姿を存分に堪能して。
今日も良い夢が見られそうだと上機嫌でヴィナと共にこっそり自室に戻ろうとしたのに、どうしていつも彼はいの一番に嗅ぎつけるのだろうか……
そんなことをつれつれ考えながら、ムシュカはしおらしい顔を作ってヴィナと共に廊下で突如始まった青年の説教に晒されていた。
「いい加減お立場を自覚なさって下さい!」と憤るのは、先ほどすれ違った宰相カルニア公の御曹司、ダルシャンだ。
普段は理知的で物腰も柔らかい彼だが、度重なるムシュカのお忍びにはあまりいい顔をしない。当然ながら、そんな「悪い遊び」を教えたヴィナのことは蛇蝎のごとく嫌っているようで、さっきから言葉の端々に「お前さえいなければ」という想いが滲み出ている。
「まったく、殿下に現を抜かしてお忍びを止めるどころか率先して出かけるだなんて、騎士団の風上にも置けないですね! 我が国の次期国王に、お前のような奴隷上がり如きが目をかけられているだけでも業腹だというのに……事もあろうに正室の座を狙うとは、盗人猛々しいにも程がある!」
「すみません、ダルシャン様……」
「こらダルシャン、少しは言葉を慎め。そもそも、ヴィナを正室にと望んでいるのは私の方だぞ?」
「……申し訳ございません。しかし殿下、いくら何でも正室にこのような卑しい者を迎えるというのは、貴族としては承服しがたく……」
窘めるムシュカの言葉にも毅然と応戦するダルシャンの姿に、ヴィナの胸がチクリと痛む。
分かっているのだ、彼の言っていることは何一つ間違えていない。
――本来自分は、ここにいるべき人間では無いのだから。
(申し訳ありません、殿下……俺のせいで……)
『恋心に、罪などあるはずがない』
いつぞやか愛しい人がかけてくれた言葉をそっと握りしめ、けれどやはり俺はこの国にとっての咎人だと思うのですと、ヴィナは何度も謝罪の言葉を心で繰り返すのだった。
◇◇◇
ダルシャン・カルニア、23歳。
建国以来王室を支えてきた由緒正しい貴族らしく、艶やかな黒髪に混じる淡藤色が少年のような線の細い体躯と相まって女性と見まごう色香を醸し出しているこの青年は、王宮内の宰相派が白羽の矢を立てたムシュカの正室候補である。
……いや、候補であったと言う方が正しいか。
この国では、古くから大公派と宰相派が度々権力争いを繰り広げていた。
ここ数年も次期国王の権力を巡る争いが勃発していたものの、正室と側室の差はあれどちらからもムシュカに嫁ぐことはほぼ内定しているからだろうか、そこまで過激な動きはなかったのだ。
だが、3年前にムシュカが「ヴィナを正室にする」と宣言して以来、状況は一変する。
世継ぎを求められるのは当然だから、女性の側室を一人置くことは許容する。だが自分はヴィナ一筋だ、だからそれ以外の側室を置くことはしないと若きムシュカが言い放ったものだから、宰相派は大騒ぎ。
ダルシャンが正室になる望みは絶たれ、しかし派閥内には悲しいかな大公派に対抗出来る器量を持つ若い女性もおらず……結果として宰相派は、何とかしてムシュカを翻意させようとあれこれ手を尽くしてはいるものの、その成果は察しの通りである。
そのせいか最近では少々物騒な噂も流れてきているが、当の王族がムシュカの発言を支持しているのもあって今のところ大事には至っていない。
「大体、激辛麺などという身体に悪そうなものを殿下に勧めるとは、どう言う了見ですか!」
「め、面目ない……しかしあそこの米麺は絶品で」
「はぁ? お前、奴隷上がりの癖に貴族に意見をする気ですか?」
「ダルシャン、いい加減にしないか」
「ムシュカの言う通りですわよ! 男のヒステリーなんて見苦しいことこの上ないですわ、ダルシャン」
「!!」
悲しいかな説教はヒートアップするばかりで、これは当分終わらないなと二人が覚悟を決めたその時、後ろから凜とした声が響く。
はっと振り向けば、そこには目元が印象的なこれまた美しい女性が腕組みをして立っていた。
左胸に流された豊かな黒髪には鮮やかな緋色が混じり、凜とした佇まいに華を添えている。
小さな声で「……レナ様」と呟くヴィナを一瞥すると、彼女は「良いじゃ無いの、ムシュカにだって息抜きは必要よ?」とどこか勝ち誇った笑顔をダルシャンに向けた。
途端にダルシャンは苦虫を噛み潰したような顔でため息をつく。
「全く、思い通りにならないからって八つ当たり? そんなことをしたって、あなたが側室になることは出来ないわよ、ダルシャン」
「……たかが女に生まれたと言うだけで、随分余裕そうですね、レナ。こんな筋肉ダルマの奴隷あがりに正室を奪われて、悔しくはないのですか?」
「いつわたくしが正室の座を諦めたと? 正式な婚儀が終わるまでは、わたくしにだってチャンスはありますのよ? ね、ムシュカ?」
「いやその、私はヴィナ一筋「ありますわよね!?」あ、はい、ありますっ」
レナの剣幕に押されて思わずムシュカが首を縦に振れば、レナは「ほらね」と言わんばかりに鷹揚とダルシャンを咎めるのだった。
「家のためとはいえ、最初から正々堂々と戦う気のない卑怯者に用はありませんわ。いい加減ムシュカを解放なさい!」
◇◇◇
「助かった……レナ、いつもすまない」
「いいですわよ、このくらい! あんな顔だけが取り柄の男に、ムシュカの時間を奪う権利など与えてなるものですか!」
「殿下もいい加減目を覚まして下さい!」と捨て台詞を吐いて去るダルシャンを見送り、王宮の小広間へと移動した3人は温かい薬草茶を手に穏やかな時間を過ごしていた。
窓の外はとうに陽が落ちて、柔らかな月明かりが部屋の中に差し込んでくる。蝋燭のオレンジの光がゆらめく空間は、さっきまでのとげとげしいやりとりを洗い流してくれるかのようだ。
「ぬ、これは……美味いな」
「そうでしょう? 東国から取り寄せた一級品ですの。お茶好きのムシュカならきっと気に入ると思って」
「ああ、確かにこれはよい。異国の薬草の香りが口に広がって……ほのかな甘味が心を落ち着けてくれる」
「ふふ、良かったですわ」
ついでにわたくしを正室にすると宣言して下さってもよいのですわよ? とにっこり微笑むレナに、しかしムシュカは何の悪気もなく「だが、私が一番愛しているのはヴィナだぞ?」と返す。
そんなことは分かっていると言わんばかりにむくれてこちらを睨み付けてくるレナの視線は、薬草茶の効果すら打ち消してしまいそうで、ヴィナはどうにも居心地の悪さを感じつつ温かい茶を喉に流し込んでいた。
「まったく、ムシュカもなんでわたくしという美女が傍にいながら、こんな色の薄い髪の男を好きになったのだか……少々趣味が悪いですわよ?」
「レナ、それは」
「分かっていますわ! 異国の生まれであれ、今のヴィナはれっきとした王国民。……それでもこのくらいはいいでしょう? だって、わたくしは幼い頃からずっと……そう、ずーっとムシュカが大好きだったんですもの!」
ぽっと出の男に愛しい人の心を奪われたら、文句の一つも付けたくなりますわ! と愚痴る彼女のかんばせは、その心根と同じでいつだって美しい。
レナはどこまでも正直だ。ムシュカへの想いを素直にぶつけ、かと言って婚姻に政略の面があることも認めた上で、堂々とムシュカを振り向かせようと振る舞う姿は、ガタイばかりが立派な自分より余程男らしいと、ヴィナは内心引け目を感じるばかりである。
レナ・ラグナス、17歳。
彼女は王宮二大派閥の片割れ、大公派のボスであるラグナス大公の一人娘である。
年の近いムシュカとは幼い頃から共に過ごすことが多かった、いわゆる幼馴染みという奴だ。
周りが長じるにつれムシュカを敬称で呼び習わすようになっても、未だ彼女だけは一国の王太子を呼び捨てて憚らない、そしてそれが許される立場でもある。
少々気が強く、幼い頃はしょっちゅうムシュカを泣かしていたというだけあって、未だムシュカはどこか彼女には頭が上がらないらしい。
とは言え、一人だけ側室を迎えるならばレナしかいないと、口にこそしないもののムシュカが思っているのは明白で。
――そう、だからムシュカの隣で正室として微笑むのは、こんなむさ苦しい大男より彼女の方がふさわしいと、誰もが思うに違いない。
「……なに、辛気くさい顔をしてますの? 折角のお茶がまずくなりますわよ!」
「っ、す、すみませんレナ様」
「大方、わたくしのほうがムシュカにはふさわしいと勝手に落ち込んでいたのでしょう? ええ、その通りだとわたくしも思いますわよ! なのに、これほどムシュカに愛されていながらうじうじと……その筋肉は飾りですの!?」
「うぐ……」
そんなヴィナの気持ちを見透かしたかのように、レナはずけずけと容赦なく彼の心を抉ってくる。
「そんな、俺はただ……」と大きな身体を一生懸命小さくしてもごもご言い訳をするヴィナをレナは「情けなど無用ですわ」と一刀両断し、飲みきったカップを少々乱暴にテーブルへと置いた。
「先ほども話しましたけど、わたくしはまだ諦めていませんわよ! わたくしは正々堂々とあなたからムシュカを奪い返しますから!」
「……あのう、レナ? そこに私の気持ちは」
「そんなもの、力尽くでこちらを振り向かせてあげますわ!」
「ひっ、レナはやっぱり鬼嫁候補……」
「!! あっ、殿下それは」
地雷を踏みに行ってます、とヴィナが止めようとするも、時既に遅し。
とてつもなく嫌な予感がしながらそーっと顔を向けたテーブルの向こうでは
「……ムシュカ? 誰が鬼嫁、ですって……?」
「うああああ悪かったすまない許してくれ、レナあぁぁ!!」
……美しいかんばせに青筋を立て、背に修羅を背負った大公令嬢が拳を構えていたのだった。
◇◇◇
「レナ様のように自信満々に振る舞える日は、俺には生涯来ない気がします」
「どうしたいきなり、と言うかあれは自信満々というのか……?」
ようやっとレナの怒りを静めることに成功し、這々の体でムシュカの部屋へと辿り着いた二人は、さっさと湯浴みを済ませ清潔な夜着に身を包んで立派な寝台にその身を横たえていた。
洗い上がりのシーツは肌に心地よく、枕元で炊かれる香の甘やかな香りと相まって、眠りに誘われるまでの二人にいつも穏やかな時間を与えてくれる。
大の男が二人寝転がっても窮屈さを感じない大きな寝台は、ムシュカが15で成人を迎えた日に設えられた……そう、正室と過ごすためのものだ。
隣に迎え入れられるのは宰相派が推すダルシャンか、それとも大公派のレナか……様々な思惑が交錯する中、成人の儀を終えたムシュカが唐突に王宮近衛騎士団の副団長を拝命し市民権を得たばかりのヴィナを正室に指名したあの日からそろそろ4年、彼は毎夜この寝台に呼ばれ未来の王たるたおやかな青年と夜を共にしている。
――残念ながら周囲が期待し貴族達が危惧するような夜は、一度も訪れたことがないのだが。
王太子の隣などあまりにも恐れ多くてまともに眠れなかった日々が、今となっては懐かしい。
3年かけてその熱量にすっかり絆されてしまった今、洗い上がりのムシュカの香りはどうにも心臓と股間によろしくないなと、ヴィナは時折脳内にやってくる悪魔の囁きを全力で振り払いながら、先ほどのやりとりを思い出してぽつりと呟く。
「……俺も、殿下やレナ様のような美しい黒髪を持っていれば……少しは男らしくなれたのでしょうか」
「ヴィナ」
「どれだけ訓練して強くなっても、この見た目は変えられません。毛染めをしても艶のない髪など、みすぼらしいだけで……どう足掻いても俺は、『この国の民』にはなれない」
「ふむ……見た目は十分男らしいと私は思っているぞ?」
これもな、とムシュカの指がそっとヴィナの額に触れる。
刈り上げた銀髪の生え際から右の眉に向かって走る三本の傷跡をなぞれば、ヴィナの口から「んっ」と小さな吐息が漏れた。
「あの時のお主は、鬼神と見まごうほどの強さであった。幼き私が胸を撃ち抜かれてしまうほどに、な? ……だから胸を張れ、ヴィナよ。誰が何と言おうとお主は一国の王となる男にふさわしき伴侶だ」
「……恐縮です、殿下」
ヴィナの両親は、元北国の領民だ。色素の薄い髪は北国の民特有のものである。
この国では異国との戦いで得た領土の民を等しく奴隷として扱う。
と言っても、別に鎖で繋がれているわけではない。市民権を持つこの国の民のような安定した仕事には就けず、奴隷用に提供された長屋で暮らし危険を伴う仕事で日銭を稼がなければならないけれど、少なくとも飢えることはない。
ヴィナも例に漏れず、その恵まれた体躯を活かして傭兵家業に勤しんでいた。当時から剣の筋はよかったらしく、故郷ではちょっとした有名人だったようだ。
そんなヴィナに転機が訪れたのは、16歳の時。
仕事を終えた帰り道、巨大な獣に馬車が襲われる現場に遭遇した彼は、勢い討伐に奮闘する身なりの良い兵士達に混じり、額に傷を負いながらも見事な剣さばきで荒れ狂う獣――当時首都で恐れられていた「魔熊」と呼ばれる人食い熊にトドメを刺した。
そうしてさっさとその場を立ち去ろうとしたヴィナを、馬車の主……二人の王子を連れた国王妃は引き留め、半ば強引に王宮へと連れて行った挙げ句即日王宮直属の近衛騎士団への入団手続きを取ってしまったのである。
『そっ、そんな、奴隷の俺が騎士団になんて恐れ多いです! それに俺、働かないと幼い弟妹が』
『騎士団に入団して5年勤めれば、市民権も得られるぞ? 給与だって十分に出るし、今の傭兵生活に比べればずっと安定するはずだ。何よりこの食の都と名高いクラマ王国の首都で、好きなものをたらふく食べたいとは思わぬか?』
『あ、それなら入団します』
『はやっ! さっきまであれほど入団を渋っていたのは、何だったのだ!?』
――そして、思いがけない入団から6年後。
奴隷身分故の偏見に晒されつつもめきめきと頭角を現したヴィナは、若干22歳にして史上最年少の王宮近衛騎士団副団長に任命され、同時にあの馬車の中でヴィナの勇士に一目惚れしてしまったクラマ王国の王太子、ムシュカによる正室指名を賜ることとなる。
……これほどの幸運に恵まれながら、しかしその生まれ故か奴隷身分から解放されムシュカの寵愛を受ける今でも、剣を持たない時の彼はどこまでも気弱で、奥手で、そしてただの食いしん坊な男のまま。
いつか自分の言葉がただの恋に浮かれた惚気ではない、正当な評価だと分かって欲しいものだと心の中で溜息をつきながら、今日もムシュカはどこまでも自信のなさげな恋人の言葉に耳を傾ける。
「市民権を得たとは言え、色の薄い髪は……この国では異邦人、奴隷の色ですから。俺を良く思わない貴族様の気持ちは……分からなくはないです」
「全く……貴族連中の髪色信仰は度が過ぎているからな」
困ったものだと首を振るムシュカの輝く髪にヴィナはふと手を伸ばしかけて、慌てて拳を握りしめる。
黒を基調とし、差し色がその美しさを引き立てる――法的に定められずともこの黒髪こそがこの国の民たる証と認識される世界で、銀髪のヴィナは殊更目を惹く異分子だ。そんなものが次代の王の隣に立つなど、穢らわしいと公言してはばからない貴族は少なくない。
もっとも当の王族は、王妃と幼き王子二人の命を救った英雄たるヴィナを正室に迎え入れることには、ムシュカが世継ぎのため側室を娶ることも約束している以上何の問題も無いという立場を当初から崩していない。
だから本来は今すぐ婚儀を執り行っても問題はないのだが、そうもいかないのが王宮というところである。
「……ヴィナ、私に触れても良いのだぞ?」
「いけません、殿下。御身は大事にされねば」
「全く……私が良いと言っておるのに、お主のその奥手っぷりはどうにかならぬのか?」
やれやれといった様子で、ムシュカはヴィナの頭をくしゃりと撫でる。
一目惚れした男に大手を振って愛を告げられるようになってもうすぐ4年、この偉丈夫は未だ褥を共にするどころか、額への口付けすら恐れ多いと固辞してしまう。
……本心ではどうしたいか、隣に寝ていればバレバレだというのに。
(まぁ、4年かかって手を繋いでくれるようになっただけ進展か……もう少し貴族共が大人しくならねば婚儀もままならぬし、ちょうど良いかも知れぬな)
「そろそろ寝るか」と燭台の明かりを消せば、すぅと眠気が二人を包み込む。
闇に溶ける意識の中で「次のお忍びは……何を食べに行く?」とムシュカが尋ねれば、隣からぼんやりした、けれどどこか嬉しさを隠せない声が返ってくるのだった。
「そうですね……次は東通りの翠玉飯店で……魚団子麺を、一緒に…………」
◇◇◇
いつもと変わらない夜は、けたたましい叫び声によってあっさりと破られてしまう。
……それが全ての始まりだなんて、あの時には思いも寄らなかったけれど。
「失礼します、殿下!! ほっ、宝物庫に賊が侵入いたしました!」
「!!」
夜もとっぷり更けた頃、夜勤の騎士団員が緊張した声色で寝室のドアを乱暴にノックする。
その声に何事かと目を擦りながらムシュカが身を起こせば、隣でぐっすり眠っていた筈の偉丈夫は既に戦装束に身を包み、眼光鋭く厳しい顔つきで「状況は?」と部下に尋ねていた。
「どこの宝物庫だ? 離れか、地下か」
「そ、それが……王族廟の……」
「っ、封印庫か! あそこは王族以外が中に入ることは出来ないはずだ、一体どうやって」
「分かりません。ただ見張りの者が言うには、入口には誰も近づかなかった、突然内部の侵入者感知機構が作動したと……」
「なんだと……!?」
その報告に、ヴィナの顔が強張る。
王族のみが開けられる扉以外に、封印庫に入る手段はない。そう、通常の手段ならば。
しかしヴィナの頭には幼い頃、両親に聞かされた話がよぎっていた。
この世界には不可思議な術を用いる戦闘民族が各地に点在している。
ここ南方に位置するクラマ王国ではとうの昔に消滅しているが、北国には数年前までその末裔が生存していたし、東方のとある国には今でも魔法と呼ばれる術を使う一族が残っているらしい。
彼らは千里を一瞬で見渡し、あらゆる障害をすり抜け、鍛え上げられた鋼すら飴のように溶かす恐ろしい技を使うのだと――
(……嫌な予感がする)
首筋にチリチリとした感覚が走る。
これはきっとただの賊ではない。あの魔熊などとは比べものにならない相手だと、ヴィナの直感が警鐘を鳴らしていて。
「招集は」
「既にかけております!」
「分かった、行くぞ」
いつもの気弱さはどこへやら、瞳に獰猛な光を灯し足を踏み出したヴィナの背後から「待て」と声がかかる。
振り向けばそこには、夜着にガウンを羽織ったムシュカが「私も行く」と立っていた。
「いけません、殿下。相手はかなり危険な賊です。殿下にもしもの事があっては」
「だが、封印庫の内部に賊はいるのだろう? あそこは王族の瞳がなければ、何人たりとも扉を開けることは出来ぬ。……瞳を持つのは父上と私、弟のサリムだけ。なら、ここで扉を開けに行くのは私が適任だ」
「…………分かりました。ですが、扉を開けた後は必ず身を隠して下さい」
御身は必ず俺達騎士団が守り抜きますから。
そういって伸ばされた手は、いつもより力強かった。
◇◇◇
「扉が開いたぞ、逃げろ!」
「賊め、逃がすかっ!!」
地下にある王族廟の更に奥まった所。
ムシュカにより封印庫の扉が開けられるや否や、騎士団は一斉に内部へとなだれ込んだ。
そこにいたのは、ありふれた格好をした野盗が6人。大した武器も持たず、手に宝物を抱えて部屋の奥へと走っていく。
「はっ、そっちは行き止まりだぜ!」と若い団員が剣を振り下ろした次の瞬間、目の前を走っていたはずの野盗の姿がまるで煙のようにすぅと消えてしまい、ガン! と床を叩き付ける音だけが部屋の中に響いた。
「きっ、消えた……!?」
「怯むな、残りを捕まえろ!」
怯える団員に活をいれながら、ヴィナは(やはりか)と冷静に状況を把握していた。
敵は間違いなく、珍妙な術を使う。だがそれを使ったのは先ほど消えた野盗ではない。フードの端から見えていた髪の色は黒に淡い緑が混じる――この国の民らしい特徴を帯びていたから。
(東国の民は、差し色のない純粋な黒髪……恐らくそいつがボスだ。こいつら野盗の動きは戦い慣れていない、つまり雇われの目くらましに過ぎない)
野盗の相手を部下に任せ、ヴィナは暗がりに目を凝らす。
確か言い伝えによれば、魔法を使う民は術を発動するまでその場から動けないはず。見つけてしまえばこちらのものだ。
(……しかし、何故封印庫に? 東国の宝を取り戻しにでも来たのか? それにしては雇われ連中があまりにお粗末すぎる……)
神経をとがらせ、周囲を見回し、しかしその思考は止まることなく。
そしてヴィナはある結論に達する。
――この宝物庫を開けることが出来るのは、王族だけ。
そして、このような騒ぎがあったときにやってくる王族は、現国王でも、まだ幼いサリム王子でもなく、今まさに正室争いの渦中にいるムシュカ王太子だと――
「っ、目的は殿下かっ!!」
ぞくり、と背中に嫌な震えが走る。
いけない、いくら団員達の守りがあるとは言え、魔法の前では無力にすぎない。まずは殿下を安全な場所にお連れせねばならないと、ヴィナは慌てて宝物庫から飛び出した。
「! どうされました、副団長!?」
「ここは任せる、私は殿下を王族用の防護室へお連れする! 敵は恐らく東国の魔法使いだ、黒髪のやつに気をつけろ!」
「はっ!!」
この王宮には、北国遠征の際に術から王族を守るために作られた小部屋がある。
王族廟とは繋がっていないから一度地上に出なければならないが、それでもここに留まり続けるよりはムシュカの安全が確保出来る、そうヴィナは判断する。
「ヴィナ」
「大丈夫です、殿下。あなた様は命に替えても、お守りいたしますから」
「…………命には替えないでくれ」
「……善処します」
ああ、これほどまでに俺は殿下に愛されていると、ヴィナは胸にこみ上げるものをぐっと堪える。
こんな状況でなんと不埒なことを……とは思うけれど、一介の奴隷に過ぎなかった自分に有り余るほどの愛を与えて下さったこの方をお守りしながら生涯添い遂げるというのは、きっと幸せなことに違いない。
(許されるなら……明日の夜は、その手の甲への口付けを……願っても良いだろうか)
そのためにもまずはこの場を乗り切らねばと、ヴィナの無骨な手が少し震えるムシュカのすらりとした手を握りしめる。
そして「殿下、行きましょう」とヴィナが扉に背を向けた、その時。
パシュン
小さな、空気を圧縮したような音が、真っ直ぐにヴィナの頭を貫いた。
◇◇◇
「あ…………」
「……ヴィナ…………?」
ぐらり、と目の前の景色が揺れる。
どこかでドサリと音がして、視界が紅く染まって、身体から力が……いや、身体と世界の境界が、溶けていく――
「……!! ……ナ! ヴィナ!! しっかりしろ、ヴィナっ!!」
遠くから、愛しい人の声が聞こえる気がする。
その声色は悲嘆に溢れていて……ああ、俺は愛しい人になんて声を出させてしまったのだと、薄れ往く意識の中でどこかがズキンと痛んだ。
何が起こったのか、詳しく把握はできない。
ただ一つだけ確信したのは……自分はここで、間もなく命を落とすと言うことだけ。
(申し訳、ございません、殿下……)
ヴィナは最後の力を振り絞り、右手を天に伸ばす。
もう、これで身体が動いているのかすらよく分からない。けれど伸ばした手はがっしりと握りしめられ、なんだろう、ぽたぽたと熱い何かが滴っているような感覚を覚える。
(ああ……けれど、これでいいのかも知れない)
薄れ往く意識の中、ヴィナの脳裏によぎったのは愛する人の行く末だ。
この国にとって、自分の存在はどこまで行っても異分子だった。
自分が騎士団に入らなければ、魔熊を討伐していなければ、あの時首都に仕事に来ていなければ……王宮にいらぬ混乱を招くことだってなかったに違いない。
ここで、自分の命は潰える。
きっとムシュカのことだ、暫くは自分を想って涙に暮れることだろう。
だが、彼の傍にはレナがいる。何よりムシュカはまだ若い、時が経てば喪失の痛みも和らぎ、あの素敵な女性と結ばれ国王として立派に役目を果たすに違いない。
権力のためとは言え、ダルシャンもきっとムシュカの力になってくれよう。
(十分です。俺は、十分愛された。……幸せだったのです、殿下)
少しでも愛しい人を悲しませたくなくて、ヴィナは必死に笑顔を作ろうとする。
どうかあなたの瞳に映る最期の自分が、幸せに見えますようにと祈りながら。
ああでも、出来ることなら。
もう一度だけ、あなたと共に屋台で美味い飯を食べたかった――
そんな小さな願いを小さなため息にのせ……ヴィナの鼓動は、永遠に時を止めた。
◇◇◇
今日もこの国は、脳天気なほどに晴れ渡っている。
身を焦がすような鮮烈な日差しは、それでも私の止まった時を動かすほどの力を持たないようだ。
「……ムシュカ、いつまでもここにいては皆が心配しますわ。そろそろ戻りましょう」
「…………先に戻っていてくれ、レナ。私は……ヴィナの、側にいる」
「ムシュカ……」
王宮の地下にある王族廟には、死を思わせる香の煙が立ちこめていた。
歴代の王族が眠る廟の隣、従者の間に並べられた真新しい石棺に縋り微動だにしないムシュカの姿に、レナはぐっと唇を噛みしめる。
そうして努めて明るい声で「仕方ないですわね、ムシュカの気が済むまでわたくしも付き合いますわ」と隣に腰掛けるのだった。
『ムシュカ王太子殿下を守り抜き殉じた忠義の騎士、ここに眠る』
王宮近衛騎士団副団長、ヴィナ・ヤーナイの葬儀は、賊から未来の国王たるムシュカを守り抜いた英雄として盛大に執り行われた。
奴隷上がりでありながらも国の為に尽くした英傑の殉職に、そして何よりムシュカの正室候補として仲睦まじい姿を市井に見せていた奥手な青年のあまりに早すぎる幕引きに、王族はもとより多くの国民も涙に暮れたという。
二度も王族を救ったというその功績を讃えられ、ヴィナの亡骸は王族廟に安置されるという異例の名誉に預かることとなる。
彼の家族には王宮から十分な弔慰金と特例として市民権が付与され、また王宮広場には近々英雄ヴィナの像が建立される予定だ。
――どれだけその栄誉を讃えようと、彼の笑顔はもう、戻ってこないというのに。
(ヴィナ……)
あの日、己の腕の中で息絶え急速に熱を失っていくヴィナの姿が、何度もムシュカの脳裏で再生される。
王太子という立場上皆の前で取り乱すことも許されず、震える手でそっと開いたままの瞼を閉じたその時の感触は、ずっとこの手に残ったままだ。
「……ここならどれだけ泣いても問題ないですわよ」
「…………無茶を言わないでくれ……レナに虐められたわけでもないのに」
「そこまで言うならこてんぱんに叩きのめしてあげましてよ?」
軽口を叩いてくれるレナの心遣いはありがたい。
けれど、この石棺のように冷たく凍り付いた心は、そんな優しさも拒絶してしまう。
――何より、ヴィナは自分を守って死んだのではない、その事実がムシュカの胸に重くのしかかっていた。
あの時、ヴィナの頭を貫いた空気の刃のような魔法。
あれはムシュカを庇って受けたものではない、最初からヴィナを狙っていたことに気付いたのは、恐らくあの時扉の傍に潜む賊の姿を捉えていたムシュカだけだろう。
それが証拠にヴィナが凶刃に斃れた後、賊は宝物庫を荒らすことも、そして「暗殺に失敗した」ムシュカを再び狙うこともなく、あっさりとあの不可思議な術を用いてその場から消え失せたのだから。
実際に宝物庫から盗まれていたのは数点だけ。それも、特段高価な品物でもない……野盗の立場からすれば「おいしくない」ものばかりであったことも、ムシュカの推測に確信を与えていた。
そして、ヴィナが命を狙われる理由など――一つしか無い。
「私の、せいだ……」
「ムシュカ?」
「私が…………ヴィナを、愛してしまったから……正室にしたいと願ってしまったから、ヴィナは……!」
「…………ムシュカ……」
ああ、王宮のドロドロした権力争いに巻き込むには、彼はあまりにも気弱で奥手な青年だったのに。
若く身勝手な己の想いがもたらした結果を悔いたところでもう、彼は……
「……ヴィナ……っ……」
ぱたり、ぱたりと熱い雫が冷たい石棺を濡らしていく。
どれだけ呼んでもあの照れくさそうな返事は返ってこず、その熱を伝えることも、もう出来なくて。
(ヴィナ、ヴィナ……置いて行かないでくれ……私を、一人にしないでくれ……!)
グッと噛みしめた口から漏れる小さな悲嘆の声は、夜の帳が落ちる頃になっても止むことが無かった。
◇◇◇
ヴィナの死がもたらした心の傷は、時が経っても薄れるどころかますますムシュカの心を、そして身体を蝕み続けていた。
口の悪い貴族に「奴隷風情が王族に残した呪い」とまで言われるほど、その状況は深刻だったのだ。
「おはようございます、父上……」
「ムシュカ……やはり、今日も寝られなかったのか」
「分かりません…………ただ、枕が冷たくて……寝台が広くて、夜が永遠に続くようでした……」
「そうか……ああ、無理はしなくて良い。執務はこちらで何とかする、お主はとにかく身体を労りなさい」
「ムシュカ、新しい香を手に入れたの。今夜はこれを試してみなさいな。そうそう、レナからも薬湯の葉を預かっているわ。後で煎じて寝所に持って行かせますから」
「ありがとうございます、父上、母上……」
ヴィナを喪って3ヶ月。
あれ以来、ムシュカは眠ることが出来なくなっていた。
広い寝台は隣に眠る愛しい人の消失を突きつけてきて、夜通し涙が止まらなくなる。それではとソファに横たわったところで、冴えきった頭は疲れを訴えているにも関わらず、すぅと眠りに落ちる感覚が生じる度今際の際のヴィナを脳裏に叩き込んで、無理矢理残酷な現実へと引き戻されるのだ。
当然ながら王宮は何人もの高名な医師にムシュカを診せ、世界中から眠りに効くというありとあらゆる物を取り寄せて試している。
だが、あれ以来ムシュカがまともな眠りを得た日は一日たりとも無い。
限界が来れば気絶するように倒れ、それも1時間もせずに目覚めてしまうお陰で、みるみるうちにムシュカはやつれ、目の下は落ちくぼみ、ヴィナを偲んで廟に籠もり涙を流す以外は日がな一日ぼんやりと窓辺に座ったまま過ごすようになっていた。
「殿下、お加減はいかがですか……」
「…………私の前に顔を見せるなと言っておいたはずだが? ダルシャン」
「っ……申し訳ございません、ですが」
「おい、この者をつまみ出せ」
「殿下どうか話を……っ!」
更にヴィナの暗殺を一人確信しているムシュカは、いつの頃からか正室候補であった者達を一切近づけないようになっていた。
状況的にも、正室争いをしていた者達の中にあの東国の魔法使いを雇った者がいる事は明白だ。だが、それが誰だか調べるほどの気力も無い今、ムシュカに出来ることは全ての疑わしき者との交流を絶ち、金輪際婚約の話は受け付けないと突っぱねることくらいだった。
あれほどヴィナを疎んでいたダルシャンは、その性格を鑑みても犯人の可能性は高い。
いや、あの夜レナに勧められた茶は東国のものであった。東国との繋がりがある彼女も犯人の可能性がある――
荒みきった心は、猜疑心を際限なく膨らませる。それが余計に心の負担となり、ますますムシュカを眠りから遠ざけていたのである。
◇◇◇
そんなある日のこと。
ムシュカは在りし日のように身分を隠して、お忍びで夕暮れの城下町へと足を運んでいた。
正直、ヴィナとの思い出があまりにたくさん残る場所へ行くのは気が進まなかったのだが「王太子という身分が邪魔をして、喪失をまともに悲しむことが出来ないのが問題だ」と判断した医師の強い勧めにより渋々街へと繰り出したのである。
「……ああ、我が国の空はこんなにも高かったのだな」
3ヶ月ぶりに見上げる空の青さに目を細めながら、ムシュカはそっと呟く。
その肌は青白く透き通るようで、手首は一回り細くなっていて、こんな姿をヴィナが見たら狼狽して大変だろうな、とふと思えば、また一つ涙が頬を伝った。
「…………そうだ、今の私はただの一般人……好きに泣いても良いのか」
ぐっと涙を堪えかけて、ムシュカは医師の言葉を思い出す。
『今の殿下に必要なのは、思い切り悲しみを味わえる場所です。街の中では殿下に気付く者などいませんから、存分に彼との思い出の場所を巡って、泣いてくればよろしい』
とは言え、思い出の場所と言われても急には思いつけない。何より寝不足の頭にそのような思考をしろなど、あまりに酷な話だ。
これはどうしたものかとぼんやり考えながらムシュカは当てもなく通りをふらふらと歩いていたが、ふと鼻をくすぐる刺激的な香りに自然とその足が止まった。
「……あ」
振り向けばそこにあったのは、独特な柑橘と香草の香りが漂う、行列の出来た小さな屋台。
魚の出汁が良く効いていて、甘味と酸味が舌をくすぐった後に王宮では決して味わえない熱と痺れをもたらす猛烈な辛さが、唇から胃までを駆け抜けていく――
「…………ヴィナ」
あの日の愛しい人の食べっぷりを思いだした瞬間、ムシュカの足は行列の最後尾へと向かっていた。
◇◇◇
「はい、次ー……!? え、あ、えっと、兄ちゃん何を頼むんだい?」
「……特製激辛米麺と、ローズシロップのかき氷を」
「あ、あいよっ!」
お忍びだと思っているのは、相変わらずムシュカだけのようだ。
久しぶりに顔を見せた、しかし以前の面影が感じられないほどにやつれきったムシュカの姿に、店主は一瞬顔を強張らせるも慌てて「何も気付いていない人」を装う。
それは行列に並んだ民衆も、屋台の前を通り過ぎる人たちも同じで、皆一様に変わり果てた王太子に胸を痛めつつも、決してそれを表に出さずただそっと成り行きを見守っていた。
「お待たせ、ごゆっくり!」
「……ありがとう」
ムシュカの目の前に、大きなどんぶりとガラスの器に盛られたかき氷が置かれる。
ほかほかの湯気は、吸い込むだけで鼻がチリチリと焼けるようだ。
かぐわしい香りはすっかり忘れていた食欲という概念を思い出させ、けれどこんなに薄かっただろうかとムシュカの心に小さな疑問を灯した。
……あの時の香りは、もっと鮮烈だったように思う。もしかしたら味が変わったのだろうか。
「まあ、何にせよ熱いうちに頂くか……」
ムシュカはフォークを手に、たっぷり魚のスープが絡んだ米麺を口に運ぶ。
そう言えばヴィナは麺を食べるときには、いつも箸を使っていた。何でも箸で麺をつまみ豪快に啜った方が、よりうまみを感じられるのだと言っていたっけ。
次に来るまでにはもう少し箸の使い方を練習しておこうと思いつつ、口の中にちゅるりと滑らかな麺を迎え入れれば、途端に魚の風味が口いっぱいに広がった。
(ああ、そうだ。こんな味だった……)
一口、二口。
口に運ぶ度に、濃厚な魚出汁が、爽やかな柑橘類と香草の風味に混じるほのかな甘味が、そしてそれを追いかけるように猛烈な辛さが口の中で、喉の奥で弾けていく。
焼けるような熱さに「はぁっ」と思わず吐息を漏らし、口の中が痛くて痺れているというのに次のうまみが恋しくなって、汗だくになりながらも麺を運ぶ手が止められない。
(美味しい)
一体いつ以来だろうか、口に運ぶものの味を感じたのは――
フォークですくえなくなった麺も、スプーンで拾い上げて。
小さな魚の身も、もったいないとばかりに全てを口に入れて、咀嚼して、飲み込んで。
あの時は残してしまったスープすら、今日は惜しい……
「ぷは……っ……!」
焼けるような吐息を空に放ち、ムシュカはとん、と空になったどんぶりをテーブルに戻した。
途端、夢中で食べていたときには聞こえなかった街の喧騒が、一気に鼓膜を揺らす。
そして、その向こうに
『きっと殿下は、お気に召すと思ったんですよ!』
そう満面の笑みで幸せそうにこの麺の美味さを語る、在りし日のヴィナの姿が見えた気がして――
「う……あ……ひぐっ、ひぐっ…………!!」
ぽたり、ぽたり。
涙の粒は後から後から溢れ出て、留まることを知らず。
小さくしゃくり上げていた嗚咽は、いつしか通りに響く慟哭へと変わる。
「何故だ……命になど替えるなと言ったはずだ、ヴィナ……! お主の好物がここにあるのだ、何故一緒に食べてくれない!? 美味いぞ、お主が教えてくれたとおり、ここの米麺は本当に美味い! 美味いのに……お主と食べた方が、もっと、ずっと美味かったっ……!!」
ムシュカの心を凍てつかせた檻が、ぱりん、と音を立てて崩れ落ちる。
押し込めていた想いが、思い出の味と共に溢れ出して、ああ、こんなもの止めようがないじゃないか――
「うわあああっ……ヴィナっ!! ヴィナーーーっ!!」
力の限り叫ぶその悲しみの雄叫びを耳にした民衆は、知らぬ顔をしながらそっと涙を袖で拭うのだった。
◇◇◇
「……ごちそうさま、店主。美味かった。その……うるさくて、すまない」
「気にしなくていいですぜ、兄ちゃん。人間誰だって泣きたいときはあるんだし」
少し気まずい顔で店主に声をかければ、思いのほか優しい言葉を返されて、またムシュカの瞳に涙がにじむ。
どうやら一度決壊した想いというのはそう簡単に押し込められるものではないなと、ムシュカは時折涙を拭いながら街中を散策していた。
「にしても……見事に飯屋の思い出しか無いな、ヴィナよ……」
通りを見渡しても、ヴィナの笑顔が蘇るのは食べているときのものばかりだ。
あそこのパイは具が多くて食べ応えがある、あの店の汁なし麺は卵をオプションで付けると最高に美味しい、こってり甘いものが欲しければここのデザートがおすすめ……
確かにここは美食の街として有名だし、ヴィナはなにより美味いものを愛する男だったから当然と言えば当然なのだが……あまりにも食に偏りすぎていて今更ながらちょっと呆れてしまう。
「……あ、ここは」
そんな中、ムシュカが見つけたのはありふれた屋台。
翠玉飯店と手書きの看板を掲げたその店は、次のお忍びでヴィナが行こうと言っていた店だ。何でもここの魚団子麺が絶品らしいと、以前ヴィナが力説していたのを思い出す。
「…………いや、流石にもう食べられぬな。ヴィナのように1食で3杯も食べたらお腹を壊してしまう……それに…………」
だが気にはなるものの、きっとこの店に入ることはないだろう、そうムシュカは寂しそうに微笑む。
今のムシュカが欲しいのは、美味しい料理では無い。それを幸せそうに食べるヴィナの笑顔だから。
そしてそれは――二度と手に入らないものだから。
「っ……ヴィナ…………」
ああ、だめだ。あまりの悲しさにこれ以上足が進まない……
再びこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、ムシュカは天に向かって嗚咽をあげかける。
しかし、その時
「……ちょっとそこの兄ちゃん、辛いならいいもんを見ていかないかい?」
ムシュカを誘う声が、唐突に背後から響いた。
◇◇◇
「……え……わ、私か?」
「そうそう兄ちゃんだよ兄ちゃん、そんな往来に突っ立って泣いてないで、こっち来な。いいもんみせてやっから」
「は、はぁ……」
悲しみに暮れていたムシュカを無理矢理現実に引き戻したのは、道ばたで敷物を広げ雑多な商品を並べている男の声だった。
ブロンドの髪に色素の薄い肌、そして薄いグレーの瞳はヴィナの故郷より更に北方の民のものだ。王国の移動販売許可証を首から提げている辺り、どうやら彼は異国からこの地を訪れた旅の露天商なのだろう。
並べられた商品は王宮で上質なものを見慣れた身には少々物足りなく感じるが、なかなかどうしてセンスがいいなと、呼び声に応じたムシュカはすっと露店の前にしゃがみ込んだ。
「ふむ……これがいいものか? 確かにこのマグカップはなかなか味がある。シンプルな模様だがその分形が引き立つし、何より飲み口が滑らかだ」
「お、兄ちゃんなかなか分かるクチだな! それは東国から仕入れてきたものさ。あそこの品物はデザインはともかく、機能美に溢れているのが特徴でね」
「ほう、東国、か……」
東国という言葉に、ムシュカの胸の奥から黒いものがじわりと滲み出る。
だがこの露天商に罪はない。大方往来で嘆いている若者を元気づけようと声をかけてくれたのだろう、ここは素直に好意に甘えようと彼の話をふんふん聞きながら商品を眺めていたムシュカだったが、ふと違和感を覚える品物が混じっていることに気付く。
(……この燭台…………どこかで)
傍らに置かれた銀の燭台は、東国のものらしくシンプルなデザインながら不思議な魅力を醸し出している。
だが、ムシュカが気になったのはそこではない。確かに自分はこの燭台を以前見たことがある……そんな気がするのだ。
寝不足で疲れているせいかもしれないと思いつつも、ムシュカが露天商に何気なく「店主、この燭台はどこで手に入れたんだ?」と尋ねれば、思いもかけない返事が返ってきた。
「ん? ああそれは持ち込みだな。俺のように行商人をやってるって客が東国から品物を大量に仕入れたから買ってくれないかと頼み込んできたやつだ」
「ほう……いや、これもなかなか素晴らしい。是非その行商人にも会ってみたいものだ、これはいつ頃仕入れたものなのだ?」
「ええと、確か3ヶ月くらい前だったか……ちょっと前に王宮で事件があっただろ? 俺は旅の者だから詳しくは知らないが、これを仕入れた頃にそんな話を小耳に挟んだ覚えがある」
「ふむ、3ヶ月も前だと会うのは難しいか。いや失礼、なかなかの目利きだと思ったものでな」
(……見つけた)
よもや、このようなところであの日に繋がる手がかりを掴めるとは。
王宮に戻ればすぐに報告を上げようと密かに決意しつつ、表向きは更なる手がかりを得ようと商品を眺めるムシュカの企みには気付くこともなく、露天商は「そうそう、それより」と背後に置かれた大きな木箱から、何かを取りだした。
「兄ちゃん、その様子だと失恋でもしたんだろ?」
「っ、ま、まぁそんなところだ……」
「だよなぁ! いや、兄ちゃんがひでぇ顔して泣いてるの見てるとさ、こっちまで昔のことを思い出して……何だか悲しくなってきてさ。そんな兄ちゃんにはこれ」
「……これ?」
「ああ、東国名物、願いの叶う寝具だ!」
「…………はい?」
ほら、と露天商が手にしたのは、どうやらブランケットのようだった。
紺を基調とした淡い光沢のある布地に、桃色のグラデーションが美しい。まるで夜明け前の空を織り込んだような色だなと、ムシュカは勧められるがままにその織物を手に取る。
ブランケットは思ったよりも重さを感じず、肌を滑る感触は滑らかで……これは明らかに手が込んでいると分かる逸品だ。
それにしても願いが叶うとは一体、と首を傾げていれば、露天商は東国の風習について話し始める。
何でも東国のとある地域には、婚姻の前に数日間夜を共にし、無事最後まで勤め上げれば婚儀を行えるという慣習が今でも残っているそうだ。
婚儀を控えた恋人達は、恋が無事に成就することを願ってその日のために特別な寝具を仕立て、まじないをかけて儀式に挑むという。
「兄ちゃんは知らないかもしれないけど、東国ってのはまじない文化が盛んなんだよ。まぁ、ほとんどは気休めだけど、時々本当に効果のあるまじないがかかった道具が流れてくることがあってさ」
「これは、その類いだと」
「ああ。行商人曰く、この寝具を使って眠りにつけばどんな願いも夢を通じて叶うんだと! それこそ意中の人と両想いになれたり、逢いたい人に逢えたり、とか」
「……!!」
それは、と尋ねるムシュカの声は、自分が思った以上に掠れていた。
な、お前さんにはぴったりだろう? と畳みかけてくる露天商は、きっと何がムシュカの琴線に触れたのか、気付いていない。
そしてムシュカの様子に商機を見出したのだろう、ちなみに兄ちゃんにぴったりの効能もあるんだぜ? と露天商はそっと声を潜める。
「……こいつを使うとだな」
「…………使うと?」
「何があっても恐ろしく眠れる」
「へ?」
夢で願いを叶える寝具だから、寝て貰わないと始まらないんだろうなと露天商は話しながら、早速ブランケットを梱包し始める。
まるでもう、ムシュカがこれを買うと確信したかのようだ。
「兄ちゃん、その様子じゃまともに寝てないだろ? 願いが叶うかどうかは俺には分からんが、少なくともよく眠れるのは間違いないから、まじない自体は嘘じゃねえよ。俺も検品兼ねて試してみたが、ガチでおやすみ3秒、目が覚めたときには肩こり頭痛眼精疲労もすっきり、いや身体が軽いったらもう!」
「……俄には信じられぬな」
「まあ騙されたと思って試してみなって、安くしといてやるからよ! そうさな、3万ルピでどうだ?」
「たっか!! いくら何でもぼったくりではないか!?」
「とんでもない! まじないのかかった品なら、この値段でも掘り出し物さ! ……ただその、ここはまじないより食い気の国だからか、どうも分かってくれる客が……」
「当たり前だ。ブランケットなど、5千ルピもあればそれなりのものが買えるであろう? お主、実は商才が無いのでは無いか!?」
「ぐふっ、痛いところを……」
頼むよ兄ちゃん、俺を助けると思ってさ! と途端に泣きそうな顔になって頭を下げる露天商にため息をつきつつ、ムシュカは麻の紐で持ちやすく纏められたブランケットを改めて眺める。
確かにものは良い。このデザインも、まるで絶望の中に差し込む一筋の光のように映ってどうにも心に染みるものがある。
怪しげな効能の話はともかく、これほど繊細かつ上質な織物であれば1万ルピは下らないだろう。ただ先ほどの燭台のこともあるし、実はこれも宝物庫から盗まれた品の一つかもしれない。ならばここで買い上げて置くのが得策だ。
それに今の自分は何をしても眠れない、医者も匙を投げているような状態だ。このような怪しい商品にでも縋りたいと思うのは、自然なこと――
いつしかムシュカは、その織物を手に入れる言い訳をつれつれと頭の中に並べていた。
己の使うお金は、民草の働きによるもの。そう、私的な我が儘でこんな出自の分からないものを明らかに法外な値段で買うなど、本来許されるはずが無い身分だから。
けれど、どんなにもっともらしい理屈を考えたところで……それを欲する理由は一つしか無くて。
(……夢でも良い、逢えるかもしれないなら)
「分かった、それならその燭台と一緒に買おう」
「!!」
(私はその可能性に、賭けたい)
「あ、ありがとよ兄ちゃん! ああ燭台の代金はいい、いやぁこれでようやく赤字が解消する!」
「お主はこれを機に、もう少し需要と供給というものを考えて仕入れることを覚えた方がよいぞ?」
「ははっ、違いねぇ!」
途端に上機嫌になった露天商に金貨を3枚渡し、ムシュカは足早に王宮へと向かう。
その瞳には、数ヶ月ぶりに小さな希望の光が灯っていて、先ほどの慟哭を見かけた民衆達は幾分ほっとした顔で彼の後ろ姿を見守るのだった。
――そんな王太子を「ありがとよ、兄ちゃん!」と手を振り見送った露天商が、次の瞬間真顔になって呟いた言葉に気付く者はいない。
「良かった、何とか渡せた……これでもう、織物を王太子に渡せと夢で脅されなくてすむ……!」
◇◇◇
「……やはり宝物庫の所蔵品でしたか」
「うむ。確かにその燭台も織物もかつて封印庫で見たことがあるな。カルニア宰相から報告された、先の賊による被害品リストにも記載されておった。しかし、眠りを誘うまじないの品とは……そのような話は先王からも聞いたことがないがのう」
「そうですか……」
「まあ、宝物庫にあったものであれば出所に間違いはないじゃろう。ムシュカが気に入ったというなら自由に使うがいい、少しでも眠れる可能性があるものは試してみるべきじゃ」
「ありがとうございます、父上」
王宮に戻ったムシュカは、早速事の顛末を国王に報告する。
今頃は、あの露天商にも騎士団による聞き込みが行われているであろう。これで真犯人が見つかるかも知れないと、王宮の誰もが期待を抱いていた。
……喪った命は返らずとも、犯人が捕まり裁きを受ければ王太子の気持ちも安らぐであろう、と。
一方相変わらず憔悴はしているものの、出がけより幾分目に力が戻ったように見えるムシュカの帰還に、父である国王は随分安堵した様子だった。
本来、何があっても持ち出し禁止とされている封印庫の所蔵品をムシュカが使いたいと申し出た時、渋る宰相を宥め寝室からは持ち出さないという約束であっさり許可を出したのも、我が子にようやく訪れた回復の兆し故だろう。
「……美しいな」
湯浴みを終えたムシュカは、寝台の上でブランケットをそっと広げ、ほうとため息をついた。
一人で使うには大きすぎる東雲の空を模した織物は、夕暮れの城下で見たときには気付かなかったが、暗闇の中でほんのりと光る糸を織り込んでいるらしい。
手元の蝋燭を消せば、月明かりと相まって何とも幻想的な風景が閨の中に広がる。
確かにこれは、まじないがかかっているのかも知れない。
あれほどこの寝台は広くて冷たくて寂しかったのに、今日はどこか……この繊細な織物が在りし日のような温もりと懐かしさを呼び起こすのか、不思議と心が穏やかになるから。
「さて……しかし願いを叶えるとは言っていたが、どうすればよいものか」
腕の上をするりと滑る蕩けるような感触を楽しみながら、ムシュカはひとりごちる。
そうなのだ、確かに露天商からまじないの効果は聞いたけれど、そもそもこの織物に願いを込める方法を自分は知らない。
恐らくあの露天商は東国の知識も豊富そうだったから、そのくらいは知っていて当たり前だと思っていたのだろう。
「……ああ、気持ちいいな」
迷った末、ムシュカは寝台に腰掛けたまま織物をたぐり寄せ、そっと抱き締める。
柔らかな風合いが頬を撫で、不意に愛しい人の手を思い出して……鼻がツンと痛くなるのにも、すっかり慣れてしまった。
「なあ、まじないの織物よ……どうか、私の願いを聞き届けておくれ」
震える小さな声で、ムシュカは腕の中の織物に向かって思いの丈を吐露する。
どんな形であってもいい。夢の中で、ヴィナと逢いたい。
あの笑顔にもう一度触れて、言葉を交わして……そして
「もし叶うなら……翠玉飯店の魚団子麺を、共に食べたいのだ……」
……同じ味を共に、分かち合いたいと。
「どうか……愛しい人に、逢わせてくれ…………」
頬を伝う雫が、織物の上をつるりと転がる。
そうしてその熱い想いが布に染みこんだ、その時。
「…………ん……ふぁ……」
ふわり、と身体が何か白いものに包まれるような感触に襲われ、意識がすぅと下に引き込まれ
ぱたん……
いつものようにヴィナの最期を思い出すこともなく、小さな音を立てて寝台の上に倒れ込んだムシュカは、幼子のような穏やかな顔ですぅすぅと寝息を立てていたのだった。