第2話 思わぬ邂逅
暦の上では秋だというのに、未だ強烈な日差しが照りつける9月のある日。
大通りから一本外れたオフィスビルの一室は、キーボードの打鍵音と幾多のため息に満ちていた。
「……あー、だめだ! やっぱり通らない……」
進捗が遅れに遅れひりついた空気の中、窓際に腰掛け黒いディスプレイに向かうのは、座っている粗末な椅子が可哀相に思えるほどがっしりした体格の青年だ。
雑に刈り上げられた黒髪、額の右側からは眉に向かって三本の太い傷跡が走っている。シャツが張り裂けそうな程分厚い胸板と相まって実に屈強な印象を与える青年は、しかし今は大きな体躯を極限まで縮こまらせて画面を睨みつつ、必死の形相でマウスを握りしめていた。
「おい毘奈、そっちどうなった?」
「っ、すみません!! 最後のテストがまだ通らなくて……」
「はぁ? 昨日からずっとそれやってるだろ、まだ終わってないのか!? 今日の14時には検証環境に上げないと、また社長からどやされるぞ!」
「うう……門脇さんお願いします、これ俺じゃ無理ですっ手伝って下さい……」
「無茶言うな、こっちも本番障害でそれどころじゃねえよ! 大体お前、もう4年目だろうが! そのくらい自分で何とかしろ!!」
「……っ、はい……すみません……」
通りがかった先輩は苛立った様子で怒鳴りつけるだけで、助けてくれる気配はない。そもそも誰かを教えサポートする余裕なんて、この職場には入職したときから一ミリたりとも存在しないのだ。
青年はがっくりと肩を落とし、くっきり隈が刻まれ淀んだ瞳を再び画面に向ける。
こういう煮詰まったときは、とかく機器の扱いに気をつけなければならない。ただでさえ目標未達で社長は苛立っているのだ、やらかせば待っているのは――
パキン
「!!」
コードを追うのにのめり込みすぎたせいだろう、つい力の入った右手から、嫌な音が聞こえてきた。
さっと顔を青くした青年が慌ててマウスをクリックすれど、案の定画面の矢印はびくとも動かない。
(あああやっちまった! やばいやばいやばい!!)
……有線だから意味が無いと分かっていても、怯える頭はついつい接続状態を確認してしまう。
「毘奈君、何をしてるんですか?」
「ひっ、し、社長! あのっ……その、これは」
「はぁ……またですか。これで今年何度目だと? 全く、これほどうちの備品を破壊する社員など前代未聞ですよ!」
「も、申し訳ありませんっ!!」
焦る背中にかけられた声に飛び跳ねて恐る恐る振り向けば、そこにいたのはこめかみに青筋を立てた、このベンチャー企業の若き社長だ。
途端に弾けるように席を立ち、直立姿勢で謝罪を叫ぶ青年に「そういう何の役にも立たない脳筋仕草はいりませんから」と彼は眉を顰め、最も聞きたくない沙汰を下すのだった。
「備品の損害は給与から引いておきますから、後で報告書をあげておくように。それと、さっさと不具合を解決して検証環境に上げて下さい。他のタスクも毘奈君のせいで止まっているでしょう? これ以上クライアントの機嫌を損ねないで欲しいものですね。――ああ、この件は今日の集客ネタに使わせて貰いますから、後でしっかり読んで反省しなさい」
◇◇◇
毘奈新太(びな あらた)26歳。
それなりの大学を卒業後、OBの誘いで入ったベンチャー企業に勤めること4年目の若手プログラマーである。
――まあ、そのOBは新太が入社して2ヶ月もしないうちに「飛んだ」のだが。恐らく自分は彼の交換要員、悪く言えば人身御供だったのだろう……そう気付いたところで、全ては後の祭りで。
「うぅっ、酷い書かれ方……いや俺が悪いんだよ、社長の言うとおりなんだけどさ……」
新太がようやっと業務を終え、報告書を出して帰途についた時には、時刻は既に23時を回っていた。
それでも今日は、馬鹿力でマウスを破壊したにしては良い日だ。なんたって駅まで歩いて行っても、終電に間に合うのだから。
家に帰るのは一体何日ぶりだろうと、どこか詰まったような頭でぼんやり考えながら駅への道を急ぐ新太は、いつもの癖でSNSを開いてしまい……止せば良いのに社長のアカウントを確認してしまう。
そこには、今日の新太のやらかしを晒し上げる投稿が載せられていた。
いつの間に撮影したのだろう、ご丁寧にもぼかしをかけた新太の後ろ姿と壊れたマウスの写真付きである。
『またうちの筋肉ダルマ君が備品を破壊。謝罪だけは立派になったけど仕事は相変わらずで、彼のせいでまた納期が1週間ずれ込み……こういう出来損ないでもそう簡単に解雇はできないのが、経営者の辛い所だよね』
『わかる、てかそれでも見捨てず雇ってあげてる社長さんえらい』
『うちならさっさと仕事取り上げて追い出してるわww』
『むしろそれでも会社にしがみつく筋肉ダルマ君がやべぇ、その筋肉使いどころを間違えてるだろ』
フォロワー数万人、業界でも毒舌で有名な社長の投稿には、次々と賛同のコメントが書き込まれる。
その辛辣さに新太はぐっと唇を噛みしめ「……もうやだ」と呟きながら、そっとスマホの画面を消してポケットにしまった。
◇◇◇
『間もなく……に…………の電車がまいります。……ですので……まで…………』
聞き慣れた音楽と共に、電車到着のアナウンスが流れる。
終電を待つ駅のホームは意外と混んでいて、陽気にはしゃぐグループと死んだような目で遠くを見つめるくたびれた社会人とが入り交じり、混沌とした雰囲気を醸し出していた。
外は夜になっても昼間の熱気が引かず、淀んだ空気にぐっしょり汗に濡れたシャツが纏わり付くお陰で余計に気持ち悪さは増すばかりだ。
ついでに、さっきから時折ぐわんと視界が回っている。アナウンスの音も所々言葉の意味が分からなくなっていて、これはいよいよまずいな……と消えかけた思考の片隅で新太は己の限界を感じていた。
(今日の俺、生きて家に辿り着けるのかな……)
188センチ92キロと周りから頭一つ飛び抜ける恵まれた体躯を扉近くの壁に持たせかけ、新太はぼんやりと興味も無い広告を見上げる。
さっきから明滅する視界は、電車の照明が切れかけているせいでは無い。一瞬意識が飛んでいるからだ。
(にしても、こんなに眠いのに……何で寝られないんだろう)
新太はここ数ヶ月、酷い不眠症に悩まされていた。
病院に通いたくても平日は毎日午前様、下手すればオフィスに寝袋で泊まり込みの生活ではどうにもならず、コンビニで買える睡眠ドリンクはいくら飲んでも効く気配がない。
家に帰ったところで、疲れた身体の悲鳴など知らぬと言わぬばかりに眠りは訪れず、ゴロゴロと無意味な寝返りを繰り返すうちに陽が昇り(……また会社に行かなきゃ)と絶望するだけ。
少しでも新太にまともな思考が残っていれば、根本的な原因は職場での多大なストレスと運動不足だと気付けただろう。だが、ただでさえ寝不足で鈍った頭に日中詰め込まれるのは同僚や上司の罵声と嫌み、そしてクライアントの怒号だけともなれば、己の置かれた状況が如何に異常か気付くことすら困難になるのは、想像に難くない。
(ああ……せめて飲みに行きたい……一緒に飲む相手なんていないけどさ……)
就職して以来、まともな休日も取れない生活のせいで、友人とは早々に縁が切れた。
恋人? そんなもの、学生時代からできたためしがない。ガタイこそ立派だが色恋沙汰となると途端に臆病になってしまうから、好きになっても声すらかけられないままで……意中の人が他の男とくっつくのを、何度愕然と眺める羽目になっただろうか。
強いて言うなら右手が永遠の恋人だが、それすらここのところはとんとご無沙汰で、そろそろ右手にすら振られそうな気がしてくる……なんて、もう重症がすぎる。
(とにかく、家に帰って……倒れるのは、それから…………)
一体俺はどこで人生を間違えたのだろうかと、新太は淀んだ心に問いかける。
そもそも進路を選ぶにしても仕事にしても、大したトレーニングをしなくても衰えることのない立派な筋肉を活かす方が良いだろうと周囲からは思われがちだが、残念ながら新太は運動神経がからきしで……つまりこれはいわゆる「見せ筋」でしかないのだ。
そんな見かけ倒しで要領も悪い自分は、どこに行っても結局同じ運命を辿るに違いない。それならあのコメントの通り、こんな自分でも見捨てずに雇ってくれるこの会社にしがみつくしか無いじゃないか――
弱り切った心と朦朧とした頭は、新しい思考の道を見つけられない。
どこか色を無くした世界を焦点も合わさず見つめながら、落ち込むばかりの思考を手放すことも出来ず電車に揺られていれば、不意にガクンと身体が揺れた。
「あ」
手すりを握っていなかった身体が、ぐらりと傾く。
あ、まずい。ここで倒れたらまた額の傷が増えてしまうと思うも、咄嗟に身体は動かなくて。
(ああ、こりゃ次の駅で降りて病院行きかな……)
痛みを覚悟しぎゅっと目を閉じた新太はしかし、次の瞬間がっしりとその身体を掴まれていた。
◇◇◇
「お、おい、兄ちゃん大丈夫か!?」
「え……はぇ…………?」
「急に倒れてきてびっくりしたぞ、気分が悪いのか? ほら、手すりに掴まれるか?」
「あ、えっと……掴まる……」
覚悟した痛みの代わりに新太に振ってきたのは、どこか心配げな男の声だった。
恐る恐る目を開ければ、そこには恰幅のいい中年男性が心配そうに新太の顔を覗き込んでいる。
「っ!!」
ようやく事態を理解した新太は、ピンと姿勢を正し「申し訳ございません!」と勢いよく叫んで頭を下げた。
その声は思いがけず大きかったのだろう、周囲の視線がざっとこちらに集まり、ひそひそと何かを囁く声が聞こえてきて……お陰で恥ずかしさに顔が上げられない。
目の前の男性も唐突な謝罪に目を丸くしていたが、やがて「いや、大丈夫ならいいんだ」と新太を慮るような優しい声をかけた。
「にしても兄ちゃん、随分疲れてそうだな。……ほら、あそこ席が空いたから座ろうか」
「いや、でも俺でかいから」
「いいって、また倒れたらまずいだろ? あとほら、これでも飲んで元気だしな」
「…………はぁ」
ちょうど大きめの駅に着いたところだったのだろう、一気に空いた席に新太は男性と並んで腰掛ける。
「確か持ってたはずだが……」とごそごそカバンに手を入れた男性が新太に差し出したのは、栄養ドリンクの小瓶だった。
「そのなりじゃ、こんなに遅くまで仕事だったんだろう? どこまで帰るんだ?」
「あ、終点……の3駅前です……」
「そうか、また随分遠くから通ってるんだな。えらいなぁ、毎日出勤して遅くまで働いて……頑張ってるんだな」
「…………あ……いや、こんなの普通ですし……」
ともかくありがとうございますと頭を下げ、新太はプルタブを開ける。
ぐいっと小瓶を煽れば、甘くて少し薬臭くて、なんともぬるい炭酸が胃の中を滑り落ちていった。
それでようやく、新太は気付く――今日「も」夕食を食べ損ねていることに。
(……今日は朝しか食べてなかった……昼はご飯なんて食べてたら、怒られそうだったからなあ……)
ごくごくと一気に飲み干せば、頭にじわんと血が通い始めるような感覚を覚える。
どこのメーカーだろうとラベルを見れば、なんのことはない、仕事中にも散々飲み慣れた栄養ドリンクだ。
……なのにどうしてだろうか、胸の奥でしゅわっと弾ける刺激がやけに胸に染みるのは。
『遅くまで働いて、頑張ってるんだな』
頑張っている。
そう、俺は筋肉しか取り柄がないエンジニアだ。けれど、これでも目一杯頑張っている――
「……っ……すんっ…………ううっ……」
小瓶を握りしめた拳に、ぽたりと涙が零れる。
胸の中に何かが溢れるようで、けれどその感情につける名前も思い出せぬまま、新太は男性が無言で差し出すティッシュで涙を拭いながら静かに嗚咽を零すのだった。
◇◇◇
「そっか、そりゃ大変だな……」
「ひぐっ、ひぐっ……すみません、見ず知らずの人にこんな愚痴を……」
「なぁにいいって、これも何かの縁だしな」
溢れた感情は押さえる術も知らず、気がつけば新太は名も知らぬ男性にこれまでのことを洗いざらいぶちまけていた。
正直、自分でもびっくりするほど言葉が後から後から出てきて止まらない。だというのに、男性は時折相槌を打ちながら静かに耳を傾けてくれる。
そうしてひとしきり話を聞いた彼は「そうだな、辛かったな」としみじみした声色でこれまた新太の心を震わせる。お陰で決壊した涙腺は、当分収拾がつかなさそうだ。
(うん……これでまた明日も仕事に行ける……頑張れる)
涙を拭いつつ、新太はこの思いがけない優しい出会いに心底感謝していた。
……残念ながら、彼の中に現状を変えるほどの力は残っていない。ただ、今日は乗り切れた、明日もなんとかしなければ、それだけであるのだが。
「ありがとうございます……少し、すっきりしました」
「そうかいそうかい、そりゃ良かった。まあこんな時間だけどさ、少しでも寝て明日も頑張れよ、兄ちゃん」
「あ……そう、ですね……」
「ん? どうした。まさか持ち帰りの仕事があるのか?」
「ええと……実は……」
穏やかな男性の雰囲気に、つい気が緩んだのだろうか。
新太はこの数ヶ月、自分が酷い不眠症に悩まされていることをぽつぽつと話す。
少ない給料を注ぎ込んであらゆる安眠グッズを試し、安眠系のサプリはレビューサイトが作れそうなほど飲みまくったけれど、それでも何一つ効果は無かった、正直お手上げなのだとため息をつけば「……そう言う問題じゃ無い気がするんだけどなぁ……」と男性は呟き肩を竦めた。
「え?」
「ああいや、何でも無い。そうかそんなに寝られないんじゃ、疲れも取れないよな。……そうだ、兄ちゃん良かったらこれを試してみないか」
「これ……? ええと、何でしょうこれは」
男性はまたもやカバンに手を突っ込むと、今度はビニール袋に包まれた何かを新太に手渡してきた。
どうやら何かの布らしい。折りたたまれた製品は深い紺色、厚さからしてハンカチにしては少々大きいように思う。
「枕カバーなんだ」と一緒に渡された名刺に書かれた名前は、疲れ目のせいだろうかぼやけて良く読めないが、肩書きに「寝具店」の文字が躍っているのだけは見て取れた。
「俺さ、寝具店を経営してるんだよ。といっても家族経営の小さな店だけどな」
「へぇ……社長さんなんですね。っと、すみません色々気安く話しちゃって」
「そんなこと気にしなくていいって! でだ、それは取引先から貰った枕カバーの試供品なんだけど、ちょっと面白い品でな」
「面白い……? というかこの『願いが叶う枕カバーって』」
「凄いキャッチコピーだろ? 胡散臭い事この上ないよな!」
モノはいいんだぜ? と男性に勧められ、新太は半信半疑で袋を開けてみる。
ぴっちりしたビニール袋から取りだした織物が肌に触れた途端「あへぇ……」と変な声が新太の口から漏れた。
「な、何これ……凄いすべすべというかつるつるというか……うわぁ、めちゃくちゃ気持ちいい……」
「そうなんだよ。何でも製法は企業秘密らしいんだがな、一応高級寝具ブランドの製造にも関わっているメーカーだから質は間違いない」
「分かります、この感触……いつまでも触っていられますね」
生まれて初めての感触に、疲労も相まってか新太のテンションはだだ上がりである。
「願いが叶うかどうかはともかく、これを枕にセットしたらそりゃ気持ちよく寝られると思うわ」という男性の言葉も頷けるなと、新太が無意識に頬ずりしていれば「それ、やるよ」と思いがけない言葉が彼から飛び出した。
「え、でもそれじゃ」
「試供品は一つじゃないから大丈夫だ。兄ちゃん、そんなボロボロになるほど寝られてないんだろ? なら騙されたと思って、ついでに願掛けでもして寝てみりゃいい。もしかしたら本当に良い夢が見られるかもしれんぞ?」
「ええー……」
頬ずりするほど気に入ってくれたんなら、枕カバーだって本望だろ! と笑いながら、男性は席を立つ。
その言葉にようやく自分の行動を自覚した新太は、真っ赤になりながら「あのっ、ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。
「んじゃ、俺ここだから。寝られたらまた教えてくれよな!」
「えっ、あのっ、ちょ」
電車の扉が開くなり、男性はじゃあな! と手を挙げてさっさとホームに消えていった。
慌てて席を立ち扉の向こうを見るも、既に彼の姿はない。なんて足の速い男性なのだろうか。
「…………怪しいけど……悪い人じゃなかったしな……」
諦めて新太は再び座席に座り直し、くたりとした紺の織物を眺める。
良く見ると片方の端はほんのり桃色がかっていて、まるで夜明けの空みたいだなと、学生時代に山の頂上で迎えた朝を思い出した。
「……朝、かぁ」
あの頃のような心に一点の曇りもなく、そして頭に霞の一欠片も無い朝など、一体いつから忘れてしまったのだろうか……
寂しげな表情で感傷に浸る新太を乗せて、電車は更に郊外へと走り去っていく。
――そんな電車をホームで見送る男の姿があったことなど、知る由も無い。
「やっと渡せた……ったく何日も家に帰れない生活とか、奴隷の仕事より酷いじゃねえか、この世界はよ! ああ、だがやっとだ! やっとこれで俺も、元の世界に戻れる……!!」
王子様、しつこいお告げの通り騎士様にはちゃあんと渡しましたぜ――
何かをやり遂げた充実感で様子で彼が拳をグッと握りしめた瞬間、構内に一陣の風が吹く。
次の瞬間、そこにいたはずの人影は誰の目にもとまらぬまま、静かに消え去っていた。
◇◇◇
「はあぁ……やっと帰ってきたぁ…………」
それから30分後。
ようやく1週間ぶりの我が家に辿り着いた新太は、靴も脱がずに玄関でパタリと倒れていた。
久々にネットカフェのシャワー生活から解放されたというのに、もう身体はバスルームまで行くだけの体力を残していないようだ。
(筋肉って、いくらあっても何も解決してくれないよな……)と少し悲しく思いながら、新太は布団に行く努力をあっさりと放棄する。
「あ、そうだ。せめてこれを敷いたら……」
このまま今日も夜明け頃まで冷たい床を感じて、少し眠れたかと思えばすぐにスマホのアラームで叩き起こされるに違いない。だが、せめて長く孤独な夜にほんの少しの潤いを……と、新太はカバンに放り込んであった織物をするりと取りだし、頭の下に敷いた。
……残念ながら薄い織物では、床の硬さを紛らわすには少々無理があったようだが、この際細かいことは気にしない。
「やっぱりするするで気持ちいい……ふふ、あーこれは安らぐぅ……」
こんな固い床の上ですら、頬に当たる蕩けるような感触にうっとりしてしまうのだ。安物とはいえまともな枕にセットして寝転がればどれだけ気持ちいいだろうと、新太の口元が久しぶりに綻ぶ。
(そういや、願い事が叶うとか言ってたっけ……願い事……んー、何も思いつかないな……)
男性の言葉を思い出し、暫く何か無いかと考えるも浮かぶものは見事になくて、新太は取りあえずこの織物の感触を堪能することにした。
大体、何かに希望を持つにはこの生活は少々過酷すぎるのだ。すり減った心は自ら感受性を封じ込め、絶望を防ぐために期待という概念を捨て去ってしまうから。
(ああ、でも……)
とその時、新太は不意にすぅ……っと意識がどこかに引き込まれるような感覚を覚える。
そしてこれが入眠の感触であったすら思い出せぬまま、大きな身体は一気に夢の世界へと沈んでいった。
(たまには……まともなご飯も食べたいな……)
――意識が暗転する瞬間、あまりにも不憫な願いを心の奥底でそっと囁きながら。
◇◇◇
夢の中でもくたびれたシャツを着たままというのは、どうにも落ち着かないものだ――
そうぼやいてようやく、新太は自分が夢を見ている……あれほど焦がれた眠りの世界にいることに気付く。
「あれ、俺もしかして……寝れた!? え、あの枕カバー本当に効果があった!?」
ガバッと起き上がると、そこは見たこともない部屋だった。
いや、これは部屋なのだろうか。扉もなければ壁もない、ただ白い空間が延々と続いているだけである。
気温は温かくも寒くもなく、さっきまでべたついていたシャツの気持ち悪さも感じないから間違いなく夢の中だろう。
それにしても、ここの空虚さはまるで今の自分みたいだなと、新太は力なく自嘲する。
いざ夢の中に飛び込んでさえ、現実の続きのような格好をしているのだ。思い切って空の一つでも飛べれば多少気は晴れそうなのに、世の中そこまで上手くはできていないらしい。
「……しかし、どうすっかな……夢の中でまでやることを考えるってのも変だけどさ……」
参ったなぁ、とその場に座り込みポリポリ頭を掻いていれば、突如しゃらん、と涼やかな音がどこからか響いてきた。
「……? 何の音だ?」
しゃらん……しゃらん…………
まるで金属が触れ合うような、軽妙でありながらどこか荘厳さを感じる音は、少しずつこちらに近づいてくるようだ。
新太は辺りを見回し、耳を澄ませ、そして
「っ、上!?」
しゃらん……
はっと音のする方を見上げれば、そこには
「……ヴィナ」
「…………!!」
艶やかな黒髪に金色のバイカラーが輝き、どこまでも澄み渡った琥珀色の瞳を持つ美しき人が、白と青を基調にした豪奢な衣装に身を包んでこちらを見つめていた。
「…………うわぁ……」
現実の続きのような寂しい夢かと思ったら、これまたとんでもないものがぶち込まれた、そう新太は目を丸くする。
ふさふさとしたまつげに大きな瞳、くっきり弧を描く細い眉。肩まで伸びる少し癖のある髪は手入れが行き届いていて、夢の中でも良い香りがしてきそうだ。
小さな桜色の唇は何とも蠱惑的で、胸に当てられた手はすらりと細く……よくまあここまで自分の好みを詰め込んだキャラを作り出したものだと、我ながら感心してしまう。
(……俺、相当欲求不満なのかな……いや目の保養というか最高すぎるけどさ)
少々股間が危険な気もするが、何せこれは夢だ。ご無沙汰な息子さんが元気になっても何も問題はあるまい! と開き直ってその姿を穴が開くほど見つめていれば、どこもかしこもキラキラと輝いているように見える目の前の人は、どこか恐る恐るといった様子で「ヴィナ、か……?」と新太に話しかけてくる。
その声が存外低くて、ようやっと新太はこの麗しき人が男性であることに気付くのだ。
(えええ、こ、この容姿で男ぉ!? 見た目が俺の好みど真ん中なのに男だなんて、ちょっと夢の中まで屈折しすぎだろ、俺!!)
「……ヴィナ?」
「え、あ、はっはいっ! そうです毘奈ですっ! あ、ええとお兄さんは……どちら様ですか?」
「…………!!」
見た目から察するに、目の前の青年は外国人設定なのだろうか。新太を名字で呼ぶ音もどこか響きに舶来の雰囲気が漂っていて(どうしよう、俺の好みが俺にも分からない)と少々混乱を覚えつつ、取りあえず名字を呼ばれた新太はおずおずと彼に名前を尋ねる。
だが、その言葉を聞くなり青年は愕然とした表情を浮かべ「そんな……!」と今にも泣き出しそうな声をあげた。
「えっと、あの、もしかしてどこかでお会いしましたっけ? あれ、夢の中だからかな……すみません俺、最近物覚えも悪いから忘れてしまっているのかも」
本当にすみません、と大きな身体を縮こまらせてぺこぺこ謝る新太を、目の前の青年は言葉もなくただ悲しそうに見つめるのだった。
◇◇◇
確かに願いは叶えてくれた。
だがこんな残酷な形で結実するのならば、いっそ叶わない方が良かったかも知れない――
ムシュカは目の前で困ったげに謝り続ける青年の様子に、足元が崩れるような絶望を覚えていた。
意識が浮上し瞼を開いたとき、飛び込んできたのは白一色で出来た不思議な空間に佇む男の姿だった。
それを一目見るなり、ムシュカの胸がどくんと高鳴る。
(ヴィナ……!!)
床に座り込んでいたのは、今は石棺の中で永遠の眠りについているはずの、愛しい人。
相変わらずの立派な体躯に、額から眉にかけてくっきり刻み込まれた三本の――幼いムシュカを守り抜いた傷跡も記憶と変わりない。
一方で、あの日彼の命を奪った額の傷はどこにも見当たらず、それが少しだけムシュカを安心させる。
生前は淡く輝く銀色だった髪は、今はほんのり茶色がかった黒一色に染まっていて、夢の中とは言え彼はずっと焦がれていた黒髪をようやく手に入れたのかと、ムシュカは胸を詰まらせた。
(それほどまでにお主は、我が国の民となりたかったのだな……私の隣に堂々と並び立つために……)
ああ、いつも顔を真っ赤にして、小さな声で紡がれていた忠義と思慕を混ぜ込んだ言葉が懐かしい。
確かに奥手ではあったけれど、彼は彼なりの形で精一杯自分への愛を表現してくれていた――ふと甘やかな日々を思い出せば、ムシュカの眦に涙がじわりと滲んだ。
だが、同時に奇妙な違和感を感じたのも事実で。
(それにしても夢の中だというのに、どうにも元気が無さそうだな……随分とやつれているように見える)
確かにヴィナは剣を持たねばどこまでも内気で奥手な青年ではあった。
だが、それにしてもなんというか……ここまで覇気を失うことはなかった気がする。
良く見れば張りのあった肌はくすみ、目の下にはくっきりと隈が刻まれ、明らかな疲労の後が見られるではないか。
黒髪に艶がないのは短髪のせいかもしれないが、ともかく愛しい人の様子がおかしいことは間違いない。
(それに……)
そして、ムシュカは嫌な予感を覚える。
何故彼はこの私が呼びかけたというのに、いつものように頬を染めはにかみながら「殿下」と返してくれないのだろうか……?
試しに「ヴィナ?」とその名を呼べば、屈強な青年は「はっ、はい!」と慌てて返事を返すから、少なくともこの者の名前がヴィナであることは間違いないのに……そう思った次の瞬間、ムシュカはヴィナに似た青年から語られる事実に、文字通り言葉を失った。
「お兄さんは……どちら様ですか?」
「……な…………!!」
ああ、何と言うことだ。
私の愛しき人は、よりによって記憶を失っている……!!
「そ……んな…………」
思わず漏れた悲嘆の声を、どうやら青年は「どこかで会ったのに自分がうっかり忘れてしまった」とまぁ間違いではないが少々ずれた解釈をしたらしい。
「ほんとすみません」と米つきバッタのようにぺこぺこと頭を下げる姿に、余計に涙がにじんでくる。
「ほんっとうに申し訳ございません!」
「い、いや、忘れたものは仕方が無い……そう謝らずとも良いから」
「で、ですが……」
「……いいのだ。それでも逢えただけで私は…………」
震える声はそれ以上の言葉を紡げず。
ムシュカは何が起こっているのか理解出来ない青年の前で、はらはらと涙を零すのである。
◇◇◇
「心配をかけたな、もう大丈夫だ、ヴィナ」
「その本当にすみません……俺のせいで……」
「いや、お主が気にすることではない」
記憶は失っているとは言え、折角ヴィナに逢えたのだ。
このまま泣き暮らして朝を迎えるのは勿体ないと己を叱咤したムシュカは、もう謝っていないと居心地が悪いと言わんばかりの表情を崩さないヴィナに向かって「……それで、お主は息災か?」と無理矢理笑顔を作って尋ねた。
「え、あ、そうっすね……息災って元気ってことですよね? あーまぁ、生きてます」
「……生きてる?」
「いやぁ、もうこれ夢だからぶっちゃけますけど! 毎日毎日午前様で、今日は久しぶりに家に帰れたんです! でも玄関で力尽きちゃって……あ、お風呂入ってないから臭いかな? すみません、こんなよれよれで」
「午前様……? ああ、夜更けに仕事が終わったと。ヴィナはなにか、大変な仕事をしているのか?」
「そんな立派なものじゃないですよ、ただのバックエンドエンジニアです。ああ、俺大学だと文学部で民俗学専攻だったからプログラミングはド素人で……なのに研修もそこそこに現場に放り込まれて以来、ずっと炎上案件要員っすよ! はぁ、明日も不具合調査からとか頭が痛い……」
「え、炎上……? 『ばっくえんどえんじにあ』とやらは随分過酷な仕事なのだな……」
近況を聞きたいと話を振れば、青年は堰を切ったように仕事の愚痴を語り始める。
どうやら彼は死してなお職務に邁進している……にしては、なんだか悲壮さを纏っている気がしなくもない。
なにより、彼の話している言葉が半分以上分からない。何なのだ、そのぷろぐらみんぐというやつは。燃えさかる業火でも相手にしているというのか。
(あの世にしては随分とリアリティがありすぎるというか……まるで知らない世界の話のようだ……ん? 知らない世界……?)
まだまだ話し足りないとばかりに蕩々と語り続ける新太にふんふんと相槌を打ちつつ、ムシュカは子供の頃に習った昔話を思い出していた。
――数百年前、まだクラマ王国に魔法を使う民族がいくつか残っていた頃は、彼らが騎士団の一員としてこの国を守るのに尽力していたらしい。
そんな彼らは、何と時や場所どころかムシュカの世界には存在しない摩訶不思議な場所……いわゆる異世界を自由に行き来していたという。
(確か、死して魂となった人間は、ありとあらゆる世界に行くことが出来るし、その全ての記憶を魂に宿している、だったか……おとぎ話だと思っていたが)
彼らのような特異な民族だけでなく、人は皆死ねば眼前に広がる数多の世界から、次に行くべき場所を見出す。そうして表向きは全ての記憶を忘れた身体で新たな生を得て、再び新たな記憶を魂に刻み込むことを繰り返す……
この話を聞いたとき、生まれ変わりはともかく異世界などあるわけがないと、幼いムシュカはレナと共に一笑に付した記憶がある。
だが、改めて目の前の青年を見れば、とてもおとぎ話と切り捨てることは出来ない。何せ、明らかに奇妙な点がいくつも目に付くのだ。
(窮屈そうな薄い布を纏い、首からペラペラの飾り布をさげる……このような衣装、私の知る世界には存在しない。それに、あの左腕に嵌めた腕輪……なんだあののっぺりとした皮? は。丸い黒い石? にも何かが光って……んんん? あれは文字、なのか? また珍妙な形をしている……)
ワイシャツにネクタイ姿で、左手にはシリコンバンドのスマートウォッチを身に付けた新太の姿に、しばし熟考したムシュカはある結論を出す。
恐らく愛しいヴィナは、あの廟で命を散らした後自分の知らない世界へと魂を渡らせたのだ。そうして新しい世界に降り立つに当たり、姿形こそ似せたもののかつて自分と過ごした世界の記憶は魂の中に封印したのであろう、と――
(ああ、お主は『ヴィナ』だ。夢ではない、どこかで生きているヴィナなのだ……!)
目に力は無く光も消え失せそうな、消耗しきった形ではあるが、それでも愛しい人は決して夢が見せる都合の良い幻ではない。
新しい命を得て、自分の知らない世界に生きる……現実に存在する人であるのだと確信したムシュカの瞳から、また新しい涙がこぼれ落ちた。
「あ、あの……」
「大丈夫だ、目にゴミが入ったようでな」
(それにしても……このやつれっぷりは気になるな。下手な奴隷よりも消耗しているように思うが……一体お主は今、どんな世界に住んでいるのだ?)
袖でそっと涙を拭い、何事もなかったかのように振る舞いながら、ムシュカはそっと胸を痛める。
延々と続く愚痴の内容を鑑みるに、今のヴィナは確かに「生きている」だけでとても息災とは言えない状況にあるらしい。一体何が彼の身に起きているというのか……そう思案しかけた時
ゴゴゴ……
突如、謎の地響きが殺風景な空間に響き渡った。
◇◇◇
「な、何だ? 地震か? 地滑りか!?」
不穏な轟音と振動に、さっとムシュカの顔色が変わった。
ここは夢の中だ、例え災害があっても死ぬことはないだろうが苦痛を味わうのは本意では無いと、緊張をかんばせに浮かべ辺りを見回す。
だが目の前の青年は何も動じることなく、いやむしろどこかしょんぼりした顔で「はぁ……」と何十回目かの大きなため息をつき
「腹減った……夢の中でも腹って減るんだな……」
予想外の言葉を放って、ムシュカをその場に凍り付かせた。
「……な…………ヴィナ、い、今のはもしや……」
「え? ああお恥ずかしい。俺の腹の音です。ちょっとお腹が空きすぎているから聞こえちゃいましたよね? すみません」
「いやいや! 普通腹の音は地響きを起こさないであろう!? そんな轟音など、初めて聞いたわ!!」
生前共に過ごしていた頃にも聞いたことが無いような空腹を訴える音に、ムシュカは唖然と固まっている。
まさか異世界では空腹の音すら違うのか? と訝しむヴィナの心配をよそに、新太は「そりゃ一食じゃなぁ……」と寂しそうに腹をさすった。
――今、何か聞き捨てならない単語が聞こえた気がする。
「……いっ、しょく?」
「はい……ほら、今日も忙しかったって話したでしょ? 朝コンビニでゼリー飲料を買って食べたきりですよ。ああそうだ、帰り際に親切なおじさんからもらった栄養ドリンクを飲んだから、正確には二食」
「飲み物は食事に数えて良いものでは無いであろう!!」
何と言うことだ、と思わず声を荒げたムシュカの顔がたちまち青くなる。
正直に言おう。愛しい人が記憶を無くして現れたときよりも、今自分は衝撃を受けている。
それもそうだろう、生前は「一日六食が基本、あまり食べると腹に肉が付くから、お替わりは三杯までで控えめにしている。あ、デザートは別腹で」と突っ込みどころ満載の食生活を謳歌していたあのヴィナが、たった一食しか食べてないとぬかしたのだから!
「えいようどりんく」なる飲み物を二食目にカウントしようとしたということは、おそらく一食目の「ぜりいいんりょう」とやらも碌な食べ物ではあるまい。
そりゃ六分の一……いやいや十八分の一の食事量では、腹だってストライキを起こして地響きぐらい発生させるに違いない! と多いに納得したムシュカは「お主はなんという……貧しい生活を送っているのだ……!」と思わず天を仰いだ。
しかしどうもこの愛しい人の成れの果ては、己の不幸にすら鈍感になっているようだ。
「いや、一応給料はそれなりっすよ? 貯金も出来てますし……まぁ今月は備品を壊したからちょっと減らされますけどそこまで貧しくは」
「そうではない! ヴィナよ、お主にとっては食こそ人生の幸福度を上げる源ではなかったのか!?」
「そりゃまぁ、お腹は空きますし食べたいとは思いますけど……でも最近はもう慣れちゃって、食欲も前程じゃないんです。なんでこの筋肉が維持出来ているのか、自分でも不思議なくらいで」
「…………!!」
(これは、だめだ)
鳴り止まない腹をさすり「まいったなぁ」と首を傾げる新太の前で、ムシュカはぷるぷると拳を振るわせ心の中で盛大に突っ込みを入れる。
仮にも王宮近衛騎士団の副団長を務め、魔熊殺しの二つ名にふさわしい豪傑として名高かったヴィナが、一体どう言う了見かは分からぬが、まともな食事も摂らずにやつれているなどあっていい筈がない。いや、異世界の者達が許しても、私は絶対に許さない! と。
(ああ、夢の中では何の意味も無いだろうが、それでもせめて何か、まともな食べ物を……ヴィナが愛して止まなかった我が国の美食を与えてやりたい……!)
思わずムシュカが願ったその瞬間、ことん、と下から何か音が聞こえてきて。
「……ん?」
「…………え……?」
同時に床を見た二人の目の前には
「…………きしめん?」
「っ、これは…………!!」
ほかほかと湯気を立てる二つの白い大ぶりな鉢が、かぐわしい香りを漂わせでんと鎮座していたのだった。
◇◇◇
「…………」
「………………」
突如現れた食事に、呆然と佇む静かな時間が流れる。
ムシュカはその場にしゃがみこみ、一体何がと鉢の中身を確認して……思わず「あぁ」と感嘆の吐息を漏らした。
それは、麺料理だった。
淡い金色のスープの中に浮かぶのは、平たい米の麺。鼻をくすぐる香りは魚介のうまみがたっぷり含まれていることを感じさせて、けれど主張は激しくなくてほっと心を安らげてくれる。
そこに混じる香ばしさを演出するのは、振りかけられた揚げ玉ねぎ。彩りで添えられた茹でた青菜やネギと共に、白い麺とのコントラストが実に目に鮮やかだ。
そして、主役とばかりにいくつも麺の上に鎮座するのは、親指と人差し指で丸を作ったくらいの大きさを誇る、白い魚のすり身で作った団子である。
ムシュカにとっては見たことがある料理……どころではない。
まさに今日、夕餉に通りがかった時にはきっと生涯口にすることはないと寂しさと共に諦め、しかし願いが叶うならば亡き恋人と共に味わいたいと涙を落とした一品で――
(これは……翠玉飯店の、魚団子麺……!)
あの柔らかな織物を抱き締め、ふぅと意識が吸い込まれる瞬間に脳裏に浮かんだ料理が、今、まさに目の前に並べられている。
ああ、まさかこのような形で願いが叶うとは。
たとえ記憶を失っていたとしてもヴィナはヴィナだ。ちょうど腹も空かせているようだし、ここはひとつ共に故郷の味を堪能し、幸せなひとときを過ごそうではないか――
感動に涙をこらえながら、ムシュカは「ヴィナよ」と目の前で俯く青年に声をかける。
「…………」
だが、何故か青年は俯いたままで。
良く見ると拳を握りしめ、少し身体を震わせているようで。
もしや、腹が減りすぎて気分が悪くなったのかと心配したムシュカが「ヴィナ?」と声をかければ、ようやく彼はその顔をゆっくりとムシュカの方に向け、そして
「…………あなたが、神か…………!!」
「……はい?」
まるで漆黒の絶望の中に一筋の光を見つけたかのように、感極まった声を上げたのである。
◇◇◇
「え……その、神……?」
突然の神宣言に、ムシュカは頭が真っ白になる。
そんな、人を神と倣わすなどあまりにも不敬であろう……ムシュカは思わず全力で突っ込みかける。
だが、目の前で目をキラキラと輝かせ「いやもう夢の中で神降臨とか! しかも俺の好みドストライクの神様だなんて、何これ至福の極み俺得すぎるヤバい」と謎の言葉を口走りながら涎を流すかつての愛しい人を見れば、あからさまに否定するのも少々忍びないと、ぐっと言葉を飲み込んだ。
……いやそれにしても、まず神を見て感動して流すべきは、涎ではなく涙だと突っ込ませてはくれないだろうか。更に言うならその瞳が輝いて見えるのは、どう見ても神との遭遇で感動に震えたからではなく、美味しいご飯を目の前にギラついているだけであろう。
「はっ!? そうか、神様だから名乗らなくても俺の名前を知っていたんですね! うわあああ俺は神様に愚痴を聞いて頂くだなんて、なんて畏れ多いことを!!」
「いやちょっと、待てヴィナ」
「それでその神様、こっ、この美味しそうなご飯は……あれですか奇跡とかなんかそんなので腹が減った俺に恵んで下さろうと慈悲を」
「話を……いや無理だな、もうそれで良いわ!」
だめだこりゃ、腹から地響きを起こすほど飢えたヴィナがよりによって好物の麺料理を目の前にして、まともな理性など保てるわけがなかった――
実にヴィナらしいなと心の中で苦笑しつつも、いきおい神様認定されてしまったムシュカは複雑な心境ながら(まあヴィナがいいならそれでいいか)とあっさり説得を諦める。
「あのう、神様……一応確認なのですが、その、このご飯は俺が食べても…………」
「……もちろんだ、たんと食え」
「!! あ、ありがとうございます神様! このご恩は一生忘れません頂きますっ!!」
すい、と一緒に出てきた箸を差し出せば、彼は勢いよくその箸を掴み、親指と人差し指で挟んで手を合わせ深々とお辞儀をする。
これは異世界の作法だろうかと訝しむムシュカの前で、器用に箸を握った新太は大口を開けて、ずずっと麺を一気に啜り込んだ。
「っ、熱っ!! えほっ、えほっ……」
「……ヴィナよ、料理は逃げぬからもっと落ち着いて食え。火傷をするぞ?」
「あ、はいっ……ふーっ、ふーっ、ずずっ…………」
ムシュカに嗜められた新太は、再び麺を箸ですくい取り、口へと運ぶ。
ツルツルした平たい麺はきしめんかと思ったが、良く見るとほんのり透けているようで、これはむしろフォーに似た米粉の麺であろう。
エスニック料理は食べたことがないんだよなと思いつつも、ちゅるりと麺を啜った新太は、その衝撃に思わず目を見開いた。
「……う……美味い…………っ!!」
鼻の奥をくすぐる優しい香りは、嗅ぎ慣れた魚系の出汁を思い出させ、けれど香草の香りと相まって経験の無い爽やかな風味をもたらしてくれる。
麺は思ったよりも軽く、疲れ果てた胃に染み渡るようだ。これなら何杯でもおかわりが出来そうだと思いながら、新太はズルズルと音を立てて端麗なスープと米麺のハーモニーを楽しむ。
「はぁ、っ……」
ほう、とうっとりした表情でため息を漏らした新太が次に箸を付けたのは、麺の上に浮かぶ大きな団子だ。
白身魚のつみれだろうか、鍋に浮かんでいるやつに似ているなと歯を立てれば、思ったよりぷりんとした弾力があって、柔らかな麺との対比が実に食べていて心躍る。
噛めばじわりと魚のうまみがシンプルな塩味と共に口の中に拡がり、時折散らされたネギと揚げ玉ねぎの香気がアクセントを効かせ、喉を通り過ぎればもう一口、二口と箸が止まらなくて……
「んふっ……ずずっ……ふっ……美味い…………ああ、もうちょっと……」
「…………ほら、こちらも食べろ」
「え、でもそれは神様の分では」
「良いのだ。お主がたった一杯の麺で、満足出来るはずがないだろう? 気に入ったならもっと食べるが良い」
「っ、んじゃお言葉に甘えて……」
ああ、こんな優しい美味しさを味わうのはいったいいつ振りだろうか。
幼い頃食卓を彩った母の料理のようでいて、けれどそれ以上に溢れる懐かしさが胃の中に、そして胸にじわじわと染みこんでいく……
「すんっ……美味い…………ひぐっ、はぁっ……美味いっ…………」
「……うむ、美味いな…………」
ずずっと何かを啜り込む音と、新太の恍惚のため息だけが、静かな空間を満たしていく。
折角の美味が塩味でかき消されるのが勿体なくて、新太は必死に涙を堪えながら温かい魚団子麺をじっくりと味わうのだった。
◇◇◇
「はあぁっ……んまかった……!! こんな美味しい食べ物、生まれて初めて食べたぁ……」
「そうか、それは……うん、良かったな、ヴィナよ」
「はいっ!! 神様の料理は絶品でした……あーもうまだ舌と胃が幸せすぎる……」
蕩けた顔を天に向けて素直な気持ちを吐息に載せ、うっとりと呟く新太の姿に、ムシュカの胸は締め付けられるように痛んでいた。
二度と見られないと思っていたあの食べっぷりを、そしてやつれているとは言え幸せそうな笑顔を見られたことは素直に嬉しい。叶うならばもう一杯くらい用意したいし、なんなら食後のデザートもおまけしてやりたい気分だ。
だが
(そうか、生まれて初めて食べた、か……お主は本当に私のことを、共に過ごしたあの世界を、何も覚えていないのだな)
改めて突きつけられたのは、どうしようもない現実。
新しい世界で生を営むならば過去の記憶など何の役にも立つまい、ましてあんな悲惨な最期など……覚えていない方がいいに決まっている。
だからこれでいいのだ……そう理性はムシュカを慰めるけれど、愛する人を喪うのみならず、忘れ去られることがこんなにも辛いだなんて――
そんなムシュカの沈鬱な気持ちなどつゆ知らず、新太は幸せそうに「神様、ありがとうございます」と頭を下げる。
上気した頬とうっすら汗ばんだ額、そして何よりムシュカを魅了した笑顔が在りし日の愛しい人の姿と重なって……ああ、ときめきと共に痛みを味わう複雑な感覚なぞ、死ぬまで知りたくなかった。
「これでまた明日からゼリー飲料一食生活でも生きていけます!」
「いや、そこはまっとうに食べようとは思わぬのか!?」
「……それは、神様に頼まれても無理なんで!」
「そう易々と諦めないでくれ!!」
いいんです、こうやって夢の中で美味しいものが食べられれば俺は十分です、とどこか寂しそうにはにかむ姿は、実にヴィナらしい。
まったく、お主は生まれ変わっても自信という概念を見失ったままなのかとちょっと悲しくなったとき、不意に見知らぬ音楽が空間の中に流れてきた。
「~♪~~♪」
「……げ、これは目覚ましのアラーム……」
「あらあむ……?」
「あ、えっと神様、俺もう起きなきゃいけないみたいです」
「!!」
この音は複雑ながらも幸せな時間の終わりを告げる合図だと知り、ムシュカの顔がわずかに曇る。
そんなムシュカを見上げた新太は「あのっ神様」と少しどころでなく期待を滲ませた瞳で……可愛らしい願いを口にした。
濃い灰色の瞳は今度こそ、キラキラと輝いている。
「その……神様、できればまた夢に出てきて欲しいです……それで美味しいご飯を食べたいな、なんて……」
「…………」
(……お主、ご飯がかかるとチョロいのは相変わらずなのだな)
かつて胃袋を全力で掴んで振り向かせた恋人は、どうやら今回もたった二杯の魚団子麺ですっかり「神様」に絆されたらしい。
そんなにチョロくて大丈夫か?と心配を覚えつつも、ならばとムシュカはもったいぶった咳払いを一つ。
そうして新太の前に仁王立ちになり
「よいぞ、お主の願いは聞き届けた。明日もまた夢で逢おうでは無いか」
王太子として身に付けた威厳をたっぷり纏って、堂々と愛しい人の求める「神様」を演じたのであった。
◇◇◇
「…………本当に眠っていたのだな」
「約束ですよ! 俺、楽しみにしてますから!!」と叫びながらすぅと消えていく――恐らくは彼の現実へと引き戻されたのだろう――新太を見送り、一息つけばふわりと意識が浮かび上がるような感覚に襲われて。
ムシュカがぱちりと目を覚ませば、そこは見慣れた寝台の上だった。
ゆっくり起き上がる身体から、するりとブランケットが滑り落ちる。肌を撫でる滑らかさは、このままもう一度寝台に寝そべりたくなる心地よさだ。
部屋の中を見回せば、気のせいだろうか、いつもより少し広く鮮明に見える気がする。
どうやらあの露天商の言うとおり、この織物は確かに願いを叶え眠りを与えるまじないを有していたらしい。
「なるほど、身体が軽いな……」と歳にそぐわぬ感想をぽつりと漏らしつつ、ムシュカは身支度を調える。
久々に眠れた事を報告すれば、きっと父上も安堵されるであろう。たった一晩でこれほど回復するならば、執務に戻れる日もそう遠くは無いに違いない。
外は既に陽が昇り、かしましく囀る鳥達は抜けるような青空を謳歌している。
ああ、今日も暑くなりそうだとムシュカが窓辺から中庭を眺めれば、そこには朝の訓練に励む近衛騎士団の姿があった。
――ここから彼の姿をそっと眺める時間は至福だった。
あの大柄な銀髪の体躯が見られない寂しさは消えないが、不思議と今、ムシュカの心は落ち着いている。
それはきっと夢とは言え、そして異世界に旅立った姿とは言え、ようやく愛しい人との再会を果たせたからだろう。
「……はぁ、終わってみれば何と短い逢瀬よ……」
あまりにもたくさんのことが一気に起きて、全てを飲み込むにはまだまだ時間がかかりそうだ。
だが、少なくともヴィナは生きている。現の世界では触れられない、遠い遠い彼方であっても、彼は確かにあの頃の面差しを残したまま、今日も見知らぬ大地を踏みしめていることを、自分はもう知っているのだ――
「…………」
いつもの正装に着替えたムシュカは、ふと後ろを振り返る。
寝台に広がる紺色の海は、気のせいか陽が昇っているというのにほんのり輝いているようだ。
つい何かに引き寄せられるように、彼の手がその柔らかな織物に触れる。
そうしてたぐり寄せた布をぎゅっと胸に抱き締め、ムシュカは覚悟を決めた顔で「……まじないの織物よ、どうか願いを聞き届けておくれ」と囁いた。
そこに昨夜のような悲嘆は混じらない。
ただ、静かな決意と愛しさが、言葉と共にあふれ出すだけ。
「永遠にとは言わぬ。ヴィナが……私の愛しい人の名前と魂を継いだあの青年が、私の知らぬ世界で往事の笑顔を取り戻せるその日まで、どうか夢で逢わせてほしい」
己のあまりにも素直すぎる愛故に、あの屈強な騎士は命を奪われた。
そうして何の因果か、精悍な面持ちが嘘のようにやつれ果て精気を失うような過酷な世界の片隅で、かつて愛しい人であった魂は今も必死に生きている。
そんな彼に願われたのだ。今こそこの命を救ってくれた彼の恩義に報いる時だと、ムシュカはとつとつと腕の中のブランケットに語りかける。
「ヴィナが望むのであれば、私は神にもなろうぞ。例え命に替えても……いや、それはだめだとヴィナに言った手前、私が誓って良いことでは無いな……ともかく、命さえあれば何に替えても彼を救ってみせる」
そう、まずはあの青年を癒やし、健康な心身となるよう導くところからだ。
あの頃のように食べる喜びを思い出させ、幸せそうな笑顔を取り戻し、そして何より――
「ムシュカ様……そろそろ朝餉の時間でございます」
「ああ支度は出来ている、すぐに向かおう。……良い知らせを早く父上に報告せねばな」
扉の向こうから遠慮がちに声をかける執事に返事をし、ムシュカは部屋の外へと足を踏み出す。
明らかに昨日までとは異なる様子の王太子に思わず目を見張る執事と共に、広間へと向かうムシュカの胸には、もう一つの願いと決意が鳴り響いていた。
「……どうか織物よ、かの者が愛した料理をたんまり夢にもたらしておくれ。その魂に眠る私との記憶は……愛するヴィナは、私が胃袋を通して取り戻してみせるから」
◇◇◇
「……にゅぅ……起きたくない…………」
一方、築20年の1LDKのアパートでは、延々と鳴り響くスマホのアラームを無視した新太が昨夜行き倒れたままの姿で、玄関に敷かれた枕カバーにすりすりと頬ずりを繰り返していた。
こんな格好で寝てしまったというのに不思議と身体は軽く、節々の痛みも感じない。これももしや、神様の美味い飯のお陰か? との思いが頭を過れば、あの胃にも心にも優しい麺料理の味が口の中に蘇ってくる。
「あんな美味しい麺……初めて食べたなぁ、どこの国の料理なんだろう……」
ようやっと観念して起き上がった新太は、スマホを見るなりゲッと顔を顰め、慌ててバスルームへと駆け込む。
あと15分で家を出ないと、確実に遅刻だ。流石に二日連続のSNS晒しは御免被りたい。
「いやぁ、良い夢だったなぁ……神様は超美人だし、ご飯は美味しいし……あの顔で男ってのは反則だよな、いやでも神様だから男も女もないのか……?」
時間をチェックしながら、新太は清潔なシャツに腕を通す。今日はいつもより頭の霧が晴れている様に感じるのは、気のせいだろうか。
よく考えれば、一度に4時間以上眠れたのは久しぶりだな……とカバンを手に玄関に向かえば、そこには紺色の織物が鎮座していて、途端新太の頭の中に電車でのやりとりが駆け巡った。
『騙されたと思って、ついでに願掛けでもして寝てみりゃいい。もしかしたら本当に良い夢が見られるかもしれんぞ?』
「……まさか、な?」
流石にあれは宣伝文句だよなぁと思い直しつつ、新太は枕カバーを拾い上げカバンの隅に押し込んだ。
効能はともかく、この織物の触り心地は文句なしに快適だ。こんな気持ちの良い枕カバーで寝れば、荒みきった心も少しだけ癒やされるに違いない。そして家に帰れるかどうかは分からない以上、持ち歩くのが無難だろう。
「うわー、今日も良い天気……嬉しくない……秋はどこに行ったんだ、秋は」
よいしょと玄関を開ければ、朝から身を焦がすような日差しが照りつけてくる。まだまだ秋は遠いらしい。
新太は数ヶ月ぶりに空をまともに眺めた自分に気付くこともなく、いつもより少し軽い足取りで駅への道を急ぐのだった。
「……ふふっ、また夢であの美人の神様に逢って……極上神様料理を食べたいな……はぁ、良い楽しみが出来た……!」
――人知れず顔をほころばせる新太の口からポロリと願いが溢れ出たその瞬間、カバンの奥底で東雲の織物が淡く光を放ったことを、彼はまだ知らない。