第3話 甘露の逢瀬
――夢で麗しい神様に出会ったあの日から、どのくらい経ったのだろうか。
あの頃はまだ残暑と言うには厳しすぎる暑さが続いていたが、最近ではめっきり朝晩が冷え込むようになったから、一月くらいは経っているのかな……と新太はぶるりと身体を震わせながら、オフィスの床に置いた寝袋の中に潜り込む。
時間は午前2時半。パソコンの電源を落とせば、部屋の中は耳鳴りがするほどの静けさに包まれた。
埃の匂いがここは職場だと突きつけてくるのがどうにも不愉快で、新太は無意識に顔を枕カバーに擦り付ける。
「ホントいつもさらさらだな……一体どんな加工をしてるんだろう。洗えなくても毎日新品の手触りが続くだなんて、メーカーが分かったら仕事着も下着も全部替えたいくらいだよ」
頭を包み込むように敷いた枕カバーが、するりと頬をくすぐってくる。
あれから新太は毎夜、どこにいようが眠るときにはこの不思議な織物を枕代わりにして眠るようになっていた。
ちょっと枕カバーに手を合わせてから横になれば、その感触をじっくり堪能する間もなく意識は夢の世界に吸い込まれ……そして、どんな悲惨な一日も洗い流してくれるようなキラキラした時間が訪れるから。
「それにしても、この間のもちもち平麺海鮮焼きそばは絶品だったな……あんな真っ黒のソースを絡めてるのにあっさり薄味なの、脳がバグりそうで……はぁ、思い出すだけで涎がぁ……」
正直あれから、自分がどうやって現実で生きてきたのかはほとんど思い出せない。
そもそもここ数ヶ月は、ずっとこんな感じだ。この身体に満ちた深い霧は晴れず、時折気まぐれに頭の線が繋がるのか断片的なシーンを意識で知覚するだけ……
まぁ相変わらず冷たい床を寝床にしている惨めさを見るに、クビにはならない程度の仕事はこなしているのかなと、推測するばかりである。
ただ、そんな中でも。
綿飴のような夢の中で美しい神様から授けられた、名前も知らない不思議な、けれどどこか懐かしさを感じさせる料理の味だけは克明に覚えている。
……自分は元来、あんな夢に見るほど食い意地が張っていたのだと、新太は改めて自覚する。食べ物に頓着する心は、とうの昔にすり切れたと思っていたのに。
「ホント、凄いものを貰っちゃったな……お陰であれからぐっすり寝られるようになったし……いつか、お礼を……」
夜明けの色合いを持つ織物をくれた男性とは、あれから一度も遭遇していない。
もらったはずの名刺は多分あの日の帰り道で落としてしまったのだろう、どこを探しても発見出来ず、終電に乗っても彼の姿はどこにも見当たらない。それではと織物の製造元を調べようにも、試供品だからか枕カバーにはタグすら付いていなくて、実は不思議な織物を貰った段階から夢だったのでは? と疑いたくなるくらいだ。
「……まぁ、またでいいや……」
急速に遠ざかる意識に、新太は穏やかな高揚感に包まれあっさりと思考を放棄する。
今日はどんな美味しい料理に出会えるのだろう……そんな期待を胸に抱いたのを最後に「神様」の待つ場所へと旅立つ新太の顔は、あの頃と変わらずやつれ果てたままだった。
◇◇◇
しゃらん……しゃらん…………
聞き慣れた金属の装飾品が奏でる音は、逢瀬の始まりを告げる合図。
意識が浮上する感覚を覚えれば、新太は逸る心を宥めそうっと瞼を開く。
そうすればいつも、青と白を基調にし金糸の刺繍を施した煌びやかな衣装に身を包んだ絶世の美女……いや、美男子が爽やかな笑顔で自分を出迎えてくれるのだ。
「来たか、ヴィナ」
「はいっ神様! 今日も最っ高に美しいです!!」
「ふふっ、当然だ。何たって私はお主だけの神様だからな」
鷹揚に答える神様の声は威厳に満ちていながら涼やかで、思わずため息が漏れてしまう。
自分が男の声に惚れそうになる日が来るとは思いもしなかったが、どこもかしこも自分の好みを具現化したような神様から出る声なのだ、自覚がなかっただけで自分は男性もいけるクチだったのだろう。
(……だめだ、これ以上見つめてたらあらぬところが元気になってしまう)などと不遜なことを考えながらも目を離せない新太を、神様――ムシュカはこれまたじっと見つめ返す。
そうしてむぅと眉間に皺を寄せ「……お主はまったく……」と新太とは別の意味のため息を深々と零した。
「ちゃんと寝て……一応寝てはおるか、ここに来ているのだからな。だがその顔色を見るに、今日も『ぜりいいんりょう』とやらで食事をすませたな?」
「……えへ」
「えへ、ではない。どうしてお主は、腹が減っているにも関わらず飯を食わぬのか……」
お陰で今日も床が揺れているぞ? とムシュカはやれやれといった様子で首を横に振る。
そう、さっきからこの白い空間の中には立派すぎる腹の音が響き渡っているのだ。
少し口をとがらせ仁王立ちでこちらを見下ろす神様に、新太は顔を真っ赤にして「も、申し訳ございません……」とその場に土下座しぺこりと頭を下げた。
――だが、ムシュカは気付いている。
この男、口ではとてもしおらしいが、この件については全く反省をしていないということに。
それが証拠に俯いた口の端は少し上がっていて、今にも涎が垂れそうなのが見え見えだ。もう頭の周りに期待という名のキラキラした物体が飛んでいるようにすら感じられる。
(ご飯を楽しみにしてくれるのは実にありがたいが……ここで食べるだけではお主の血肉にはならぬと思うぞ、ヴィナよ)
「まぁよい」とムシュカが苦笑すれば、新太は勢いよく己の推し神様を見上げる。
その顔にはくっきりと「ごはん はよ」と書かれているようで、何とも餌付けのしがいがある愛し子よと独りごちながら、ムシュカは「ほれ、たんと食え」と床を指し示した。
◇◇◇
ことん、ことん……
ムシュカの声が聞こえたかのごとく、先ほどまで何も無かった床に突如料理が出現する。
今日は赤い皿が3枚。ほかほかの湯気が新太の鼻をくすぐり、とたんにその顔をにやけさせた。
「あは、今日は鶏料理ぃ……」
真っ先に新太の目を惹いたのは、骨ごとぶつ切りにした茹で鶏だ。
低温でじっくりと火を通すことで、ふっくらと柔らかく茹で上がった鶏肉が、皿の上に鎮座している。そこに鶏のゆで汁とごま油を混ぜた醤油だれがたっぷりかかっていて、途端に甘じょっぱい香りが部屋中に広がった。
その艶やかさだけでますますお腹が空きそうだと、この一月すっかり神様の料理に魅せられてしまった新太はゴクリと喉を鳴らす。これはご飯が無限お替わりになる未来が確定したも同然だ。
一方隣の皿を見れば、今日のご飯はほんのり色が付いていて、しかもゴルフボール大の団子状になっているではないか。
「へぇ、おにぎりみたいなものかな……」
「あ、こらヴィナ」
どれどれ、と新太は米団子を一つ口に放り込む。
団子状だから餅米なのかと思ったら、どうやら普通のご飯だったようだ。噛みしめれば団子は口の中でほろりとほどけ……次の瞬間、かすかな塩味と共に濃厚なうまみと香りが新太の脳を直撃した。
「っ、これ……鶏スープで炊いたご飯なんだ! そりゃ美味いよな!」
思わず感嘆の声を上げた新太は、目を輝かせて再度皿に手を伸ばす。
が、その手はムシュカにより「まったく、行儀が悪いぞ」とあえなく制された。
「えっ、神様?」
「…………そうだな、知らぬのも無理はない。ヴィナよ、それは手で食べる物では無いのだ。こうして」
「あ、ちょ」
「団子を潰して、茹で鶏のソースを絡めて食べる」
貸してみよ、とスプーンとフォークを手に取ったムシュカは、ヴィナの目の前で団子を潰し茶色いソースをたぱりとかける。
そうして茶色を纏ったご飯をスプーンに掬うと「ほれ」とヴィナの口元に差し出した。
「え」
「この方がもっと美味い。ほら、口を開けぬか」
「は、はえっ!? ……あ、あーん……」
(えええ嘘だろ、かっ神様が手ずから俺の口にご飯を、そんなあーんってどうしよう俺こんなの食べたら尊さで爆散するんじゃ!?)
内心パニックになりながらも、麗しき推しがその清らかな手で差し出してくれたものを断るなど出来るはずも無く、新太は顔を真っ赤にしながらおずおずと口を開ける。
そうしてぱくりとスプーンにかぶりつき……次の瞬間、これ以上無いほどに目を見開いた。
「っ…………なんだこれ……ほっぺが落ちてしまう……!」
凝縮された鶏のうまみを閉じ込めたご飯に、これまた鶏ベースのほんのり甘い醤油だれが絡まる。
噛めば噛むほど、肉を食べているわけでもないのに鶏の風味がじわりと染み出てきて、鼻に抜けていく鶏と醤油の香りに脳が蕩けてしまいそうだ。
確かに茹で鶏自体も極上の一品だ、柔らかな肉を噛みしめた時にほんのり感じる甘味が堪らない。そう、堪らないのだが……まさか鶏肉を目にして、ご飯がメインディッシュだと断じる日が来るとは。全く世界は広い、そして神様の料理はとんでもない。
「ああ、今日の疲れが洗い流される……もう俺、幸せすぎてここの床のシミになっちゃう……」
「溶けてしまうのはどうかと思うが、お主が幸せだと私も嬉しいぞ、ヴィナ」
「ううぅ、何と勿体ないお言葉……神様っ俺もう一生あなたに付いていきますっ! 俺の最推しの座は永久固定です!!」
「……う、うむ……ここは喜んでいいところなのだな……?」
いつも通り鶏飯団子と茹で鶏を実に美味そうにせっせと頬張る新太を、ムシュカは穏やかに微笑みながら眺めている。
(鶏飯団子の食べ方すら覚えていないのに……食べっぷりはあの頃のまま、か)
例え記憶が無くなっても、そして過酷な異世界の生活に晒されても、この魂から食事への情熱は決して失われていないようだ。
少しずつでいい、どうか現実の世界でも食を楽しみ元気になって欲しい……そう切に願う気持ちは、初めて夢の中で出会った日から変わることが無い。
だが、今日はムシュカにとって少々特別な日になってしまった。
何たって
(……しかしあのヴィナが……私が差し出したご飯を素直に『あーん』しただと……!?)
生前終ぞ叶わなかった望みが一つ、あっさりと叶ってしまったのだから!
共に過ごしていた頃のヴィナは、それはそれは奥手な青年だった。
婚前交渉は言うに及ばず、ありとあらゆるスキンシップを「殿下にそのような畏れ多いことはできませぬ」「俺の心の準備がまだ……」と頭のてっぺんまで真っ赤にしながら生娘のように涙目で拒むほどには、初心で堅物な騎士様だったのである。
……敢えて清廉だったとは言うまい。そんなヴィナとて人並みの欲は持っていることを、ムシュカは同じ床の中で何度も目撃しているのだから。
(神相手なら、ますます不敬であろう?私の感覚ではもっと遠慮をしそうに思えるのだが……いや、ヴィナの世界では神と人とは思った以上に近しいものなのかもしれぬな)
王太子と近衛騎士、生まれながらの王族と奴隷上がりという圧倒的な身分差は、いくらムシュカが気にしていないと諭したところで、かつてヴィナの心に知らず重くのしかかっていたであろう。
しかし皮肉にも記憶を無くすことでそんなくびきから解き放たれ……た筈なのに、神と人間というもっと圧倒的な身分差を自ら築き上げ、なのに照れながらも心から嬉しそうに神様の「慈悲」を堪能する姿に(なるほど確かに異世界とはよく言ったものだ、常識がさっぱり分からん)とムシュカは混乱を覚えながらも、うっかりすれば顔が緩みそうなほどの歓喜を胸に抱き「お替わりはいるか?」とヴィナに尋ねるのだった。
◇◇◇
「はぁ……食べたぁ……」
あの後結局3人前の鶏飯団子と茹で鶏をペロリと平らげた新太は、いつものようにその場でにごろんと横になろうとする。
現実世界において身体を横たえられるのはわずかな睡眠のひとときだけだが、ここではどれだけ食っちゃ寝しようが新太を咎める人はいない。夢を見れる時間は案外少ないのだ、少しでもダラダラして推しを眺めながら英気を養わねば!と姿勢を崩したその時「おや」とムシュカが声を上げる。
「珍しいな、ヴィナ。こちらの皿は食べぬのか?」
「……あ、ええと…………」
ムシュカが怪訝そうに手で示したのは、手つかずの赤い皿だ。
そこには山盛りのもやしが、先ほどの茹で鶏と同じ色をした醤油だれに浸かっている。
それを見るなり、新太は少しばつの悪そうな顔をして少しばかり逡巡し「実は」と口を開いた。
「その……俺、もやしはちょっと……」
「なんと、お主がか!? というかお主、好き嫌いなどあったのか!」
「あ、いや、基本的には何だって美味しく食べます! 食べるんですけど……もやしってなんというか、シャキシャキでもへにょへにょでもない、妙な食感じゃないですか。しかも水っぽくて味気ないし……これだけは昔から苦手なんですよ」
説明しながらその感覚を思い出したのだろう、新太は露骨に嫌そうな顔を見せる。
初めて見る表情にムシュカは(お主、食に対してそんな顔も出来たのか)と妙な感慨を覚え、しかしはてと首を傾げた。
「どうもお主の話すもやしは、私の知るこのもやしとは別物に聞こえるのだが……」
「え、そうなんですか……?」
「うむ、まあ一口だけでも食べてみぬか? このまま食べずに冷めてしまうのも勿体ない」
「う……」
神様の口調は穏やかだが、どうにも抗いがたい圧を感じる。それに……苦手と吐露したときのちょっとだけ寂しそうな顔が、何だか気になって。
これは食べないという選択肢は無さそうだなと悟った新太は「一口だけですよ」と念押しして、再び箸を手に取った。
(……どう見てもただのもやしだけどなぁ……ちょっと太短いくらい……?)
ええいままよ、と意を決した新太の口に、タレを纏ったもやしが吸い込まれていく。
あのなんとも言えない食感の記憶が脳裏に蘇るも、恐る恐る歯を立ててみれば……その食感は覚悟したものとは全く別物だった。
シャクッ
「…………え?」
歯触りの良い食感が、小気味よい。
自分の知るもやしとは別物だ、いやこれはもやしの定義が変わってしまうと感じるほどみずみずしくて、妙な臭みも感じられない。醤油だれと絡めれば、これまたご飯とは違った食感のお陰か、同じ味の筈なのに飽きずに食べられる。
見た感じ、恐らくこれはさっと湯がいたもやしにタレをかけただけのシンプルな料理だろう。素材が良ければ余分な調理は要らぬとは、よく言ったものだと思う。
「……もう、一口……」
口の中からもやしが消えれば、自然と箸が皿に伸びる。
タレを滴らせ艶めくもやしは妙な色気すら感じられて、まるで「食べて」と新太を誘っているかのようだ。
シャクッ、もぐもぐ……ごくん……
「神様」
「ん?」
「…………鶏飯団子のお替わりを下さい」
「そ、それは良いが……お主もう団子は3人前を平らげておるぞ? そんなに食べては腹が」
「夢の中なら食べ過ぎはありませんから!! ああもう、ご飯がメインディッシュかと思ったらまさかの伏兵ですよ、このもやし……まさに神の名を冠するにふさわしい!!」
「あ、ああ……ほら、お替わりの団子な」
新太の剣幕に押され、ムシュカは慌てて新たな皿を床に出す。
(それにしてもお主の世界は、少々神を安売りしすぎではないのか……?)
そんなムシュカの疑問は、さっきまでの嫌がりっぷりが嘘のように鼻息荒くご飯ともやしをかき込む新太の勢いですっかり吹き飛んでしまった。
◇◇◇
(まさか私が、恋人によってもやしと同列に語られる日が来るとはな。父上が聞いたら目を回してひっくり返りそうだ。……にしてもヴィナよ、お主がもやしを嫌いなはずがなかろう)
すっかりもやしを神に祭りあげてしまった新太を複雑な心境で見守りながら、ムシュカは心の中で独りごちる。
その表情は、まさかこんな所で『ヴィナ』の名残を強く感じるとは思わなかったと、どこか感慨深げだ。
(なんと言ってもそのもやしは、元北国領――ヴィナ、お主の故郷の名産なのだから)
クラマ王国の首都は美食の街として名高いが、それは新たに得た領土の食文化を貪欲に取り込み続けた結果であろう。
今新太が堪能しているもやしも、その一つ。元は北国領であったヴィナの故郷は名水の里として有名で、この清らかな水でしか育たない特別なもやしをクラマ王国伝統のタレで和えた料理は、瞬く間に近隣諸国から観光客が押し寄せる名物となったのだ。
つまり、ただでさえ食いしん坊で、そのうえ極上のもやしを食べて育ったであろうヴィナがもやしを嫌うはずがない。
そう……「美味いもやし」なら。
(全てを忘れているようでも魂に記憶は刻まれていて、現実の世界にも影響を及ぼしている、か……きっと異世界のもやしはヴィナの舌に、いいや、魂に合わなかったのだろう)
彼は決してヴィナであった頃の記憶を、そしてムシュカと過ごしたあの日々を、忘れてはいない――
この一月の間毎夜繰り返された逢瀬でヴィナの片鱗を何度も見出す度、ムシュカの心には少しずつ何物にも代えがたい安心感が、そして愛おしさが積み重なっていく。
私の愛しい人は、確かにここにいる。
今は食という形でその欠片を拾い集めて、彼をただ癒やしているだけだ。
だが、今はそれで十分。心配せずともこの逢瀬の果てに、きっと私達は再びあの頃のように心を通わせるようになると、私は既に確信しているから。
(そうだ、お主は本当に美味いものを、もっとたくさん知っているのだぞ? ……たんと食え、そしていつか……共に想いを交わしながら、同じテーブルを囲もうぞ)
いつしか空間に鳴り響く轟音は収まり、今度こそ「ごちそうさまでした……幸せぇ……」と恍惚の表情を浮かべて床に転がる新太。
彼が過酷な世界で止めてしまった足を一歩踏み出す日は、もうそこまで来ている。
◇◇◇
「しかしまさかヴィナよ、まさか鶏飯団子を手で食べるとは思わなかったぞ……」
「あはは……いや、お昼が食べられる日はおにぎり片手に仕事してますし、ついいつもの調子で」
「ふむ、お主の世界には手で食べる料理があるのか。それならまあ、ってお主今何と言った……!?」
「え、ああおにぎりですか? 普通の三角おにぎりですよ?」
「そうでは無い、お主まさか……ご飯を食べながら仕事をしているのか!!」
たんまりご飯を堪能した後は、大抵床に座り込み、もしくは寝転んで、とりとめも無い話をしながら過ごすのが日課だ。
最初の頃は美食の余韻に浸っていたのか、はたまた言葉を発する気力も無かったのか、ただ無言で転がっていることが多かった新太であるが、最近ではムシュカの問いかけにも少しずつ答えるようになっていた。
お陰で、愛しい人が暮らす異世界の過酷さも段々明らかになってきて、その度ムシュカは愕然とするのであるが。
「そんな、何かをしながら食事をするなど……ヴィナよ、それはあまりにも食を冒涜しているのではないか?」
「す、すみません……でも、ご飯で仕事が中断する時間も惜しくて」
「とはいえ一日の中では、ほんのひとときであろう? 命の源たる食をそのように粗末に扱って、力など出せはしまい。全く、我が国では奴隷であっても半刻の食事時間は決して欠かさぬと言うのに……」
食こそ命。ヴィナほどではないが、クラマ王国の国民は一日3回の食事に朝と昼と夜のティータイムは欠かさないのが基本である。
誰かと共に語らうもよし、一人静かに味わうもよし、だがそれはあくまで美食を堪能するという前提があってのこと。そんな仕事をしながら機械的に詰め込むものを、彼らは食事とは見做さない。
(……思った以上にお主の世界は修羅の国のようだな、ヴィナよ)
相変わらずやつれた顔も、元々剣を持たなければ気弱だったとは言えあまりにも低すぎる自己評価も、恐らくは異世界の過酷さに晒されたためであろう。
こうなれば現状を洗いざらい喋らせて、彼を心身共に健康にする方策を練らねばならない――
どこか戸惑いを隠せない新太の前で決意を新たにしたムシュカは、やおら彼に向き直り「ヴィナよ」と静かな声で呼びかけた。
ガラッと変わった雰囲気に、慌てて起き上がった新太の背筋がピンと伸びる。
――そう、折角今の自分はヴィナの「神様」なのだ。これを利用しない手はない。
「お主、他に私に懺悔することはないのか?」
「へっ」
「人が神にすることと言えば懺悔であろう? なに、私はお主を責めぬ。ただお主の罪を全て聞き届け、許すだけだ。ほれほれ、何でも良いからこの私に話してみよ」
「ええと……そんな急に言われても心の準備が……」
「そんな、準備を万端に整えて喋るものでもなかろう? ……ああ神に語りかけるには安らぎも必要であるか、それは配慮が足りなかったな」
何かを思いついたのだろう、ムシュカがその場で立ち上がる。
そうして小声で「……まじないの織物よ、ここに居心地の良い長椅子を作ってはくれぬか?」と試しに唱えてみれば、どうやら願いは聞き届けられたらしい、目の前にでん! と立派な3人がけのソファが降臨した。
「うぉっ!」
「うむ、良い大きさだ。座り心地も問題ない。……ほれ、ヴィナここへ」
「え……こ、ここ……?」
「何をしておる。ここだここ、私の太ももに頭を載せるが良い」
「…………」
ソファの端に腰掛けたヴィナは、ぽんぽん、と己の太ももを叩きながらにっこり微笑んで新太を誘う。
その光景に新太の頭が完全に思考を止めて、身体が固まって、十数秒後。
「へああぁぁぁ!? ひっ膝枕ああぁ!?」
推しの供給過多にオーバーヒートを起こした、新太の素っ頓狂な叫び声が部屋に響き渡ったのは、言うまでも無い。
◇◇◇
そう、これはその、神様から誘われたもの。だから、こんな大男がたおやかな美青年の膝を枕にして甘えても、罰は当たらない……!
頭の中がぐるぐるしながらも、無理矢理作った言い訳を何度も繰り返し「これは明日尊死してもおかしくない」と興奮に震えながらその太ももに頭を置いたのが、30分ほど前。
適度な硬さと張りのある太ももに(これは悪くない、いやむしろ至福)と心の中でグッと親指を立て、促されるままに口を突いて出た新太の世界の話は、当然のごとく職場の愚痴ばかりで……今や短く刈り揃えた頭を撫でられながらとりとめも無い話を聞いて貰う、ちょっとしたカウンセリングの時間へとすり替わっていた。
何せ一つ愚痴をこぼす度に、この神様は自分が本当に欲しかった言葉を自然にかけてくれるのだ。そりゃ数ヶ月、いやこの4年間溜めに溜めた職場への不満が溢れ出しても致し方あるまい。
「なんと、最初から誰も仕事を教えてくれぬと言うのか!? それでどうやって仕事が成り立つのだ?」
「もう気合いと根性ですよ! 訳も分からず調べて作って、一応動くけど多分もっと良いやり方があるんです。でも、そんなことを教えてくれる人はいなくて……」
「……なんという扱いなのだ……お主は立派だぞヴィナ。よくぞそんな環境で死なずにここまで耐えてきたものだ」
「でも……今日だって散々社長に怒られたんですよ。4年も経つのに無能が過ぎるって……」
「それは、教えることを放棄した者が言って良い台詞ではないな。そもそも、私のヴィナが無能なはずがあるまい! 不遇な境遇から功を立て、自らの道を切り開いた騎士をここまで粗末に扱うとは、お主の雇い主は節穴であろう! まったく、ここに連れてこれたなら私が三日三晩説教してやるというのに!!」
「え、ええと……? ありがとうございます……?」
(騎士……? 何かよく分からない言葉が混じってるけど、神様が褒めて下さってるからまぁいいか)
職場での扱いを愚痴れば、麗しい神様は我がことのように憤慨してくれる。
本当に悪いのがどちらかなんて、もうこの際どうでも良い。ただ、推しが全力で自分を肯定してくれている、その事が何よりも嬉しくて堪らない。
「私は悔しいぞ、ヴィナ」と心底歯がゆそうな表情を見せた彼は、やおら額に手を伸ばす。
そうして右眉に向かって刻まれた三本の太い傷跡を、そっと指でなぞった。
――何故だろうか、そこに込められた熱は、決して新太の不遇を嘆いているだけではない気がする。
「これとてお主の強さを表す勲章であろう? 私を守りぬいた」
「……え?」
「……っと、いや、なんでもない。とっともかく、これもお主が戦ってきた証であろう? 戦傷は男の勲章だ、そんな傷を負うほど過酷な環境で生き延びてきたお主を、私は素直に尊敬する」
「ええと……そんな尊敬だなんて……」
「当然だ、お主はそれだけの価値がある男だからな!」
どこか愛おしげに額の傷を撫でる神様のかんばせは、いつも通り美しくて……けれど何故だろう、ちょっとだけ胸が締め付けられる。
……それは多分、過分な評価と盛大な勘違いのせいだ。
(すみません神様、それ、俺が戦ってきた相手はただの疲労と睡魔でして……なんて言えないよなあ……)
まるで獰猛な獣と戦って負った傷にしか見えない、三本の傷跡。これがあるお陰で見た目のごつさに凄みが加味されて、変な輩に絡まれないという意味では非常に役立っている。
……しかもその傷の正体が、立ったまま意識を失いあちこちにぶつけた結果(×三回)であることは神様ですら見抜けないことが、まさに今証明されてしまった。
「うむ、自信を持つが良いぞヴィナ。お主は誰が何と言おうと強くて賢い男だと、私はよく知っている!」
きっとここで出会うずっと前から自分を見ていて下さったのだろう、己の好みを煮詰めて出来上がったような神様に断言されて、新太は(どうしよう、あまりに都合が良すぎて逆に恥ずかしくなってきた)とムシュカの膝で内心悶えながら、すり切れた心に温かな何かが流れ込んでくるような時間を過ごすのである。
◇◇◇
一方、うっかり『ヴィナ』の話を暴露しかけたムシュカは(危なかった……!)と心底胸をなで下ろしていた。
これはいけない。ノリで膝枕を提案してしまったが、愛しい人の重みを感じながらチクチクする黒髪を撫でる穏やかな時間は、どうも恋心が暴走してうっかり在りし日の彼を盛大に語りたくなってしまう。
(……気をつけねば。これほどやつれたヴィナに、余計な負担をかけてはならない)
涙ながらにブランケットに願いをかけたあの日、ムシュカは静かに誓った。
全てを忘れてしまった愛しい人の記憶は、必ずや胃を掴むことで取り戻してみせると。
今だってその気持ちは変わらない。何なら今すぐにでも思い出してほしいと願うのは、恋人としては当然であろう。
だが残念ながら、ムシュカはどこまでも王族だった。そして今は、愛し子の神様でもあった。
絶大な権力を持つが故の自制と、民への献身を幼い頃から叩き込まれた彼にとって、優先すべきは己の恋心より弱り切った愛しい人の健康となるのも無理からぬこと。
(今の状態で記憶を取り戻せば、きっと新しい世界を歩むヴィナを混乱させ、苦しめてしまう。……まだ、良いのだ。お主が現実で本当の笑顔を取り戻すまで待つくらい、造作も無い)
だから今は、時折鼻を啜りながら延々と己の境遇を語り続ける愛し子に、最大限の祝福を与えよう……
ムシュカは、かつて奴隷身分であったときとは比べものにならないほど悲惨な環境を知る度(ヴィナよ、いくら憧れの黒髪を欲していたとは言え……もう少し転生先は考えるべきではなかったのか?)と諭したい気持ちを抑えながら、ただ彼を肯定し続けた。
――まあそれはそれとして、ムシュカの内心は穏やかな笑顔とは裏腹に、すっかりフィーバータイムに突入していたのだが。
(ま、まさか……『あーん』を受け入れるに留まらず、あのヴィナが私に触れているとは!! それも膝枕だぞ、膝枕!! くうぅ、今日は何という素晴らしい日なのだ! そうだ、そのままとっとと私を思い出して襲ってくれても良いのだぞヴィナ! あ、いや、しかし下手に記憶が戻れば、またもじもじヴィナに戻ってしまうのでは…………はっ、今私は何てことを!!)
「むにゃ……かみさまぁ……」
すっかり喋り疲れたのだろう、夢の中でまで眠りに落ちる新太の穏やかな顔に向かって、ムシュカは一人「すまないヴィナ……私はお主と愛し合いたいばかりに、記憶など戻らなくてもいいのでは? と思ってしまった……本当にすまない……」と懺悔を繰り返すのであった。
◇◇◇
「ふあぁ……もう朝かぁ…………」
聞きたくないアラームの音に顔を顰めながら、新太はもぞ、と寝袋から這い出してくる。
少し肌寒さを感じる季節のお陰で寝起きのべたつきは随分ましになったが、流石に昨日と同じ格好ではまずいだろう。
「……寂しいな」
まだ夜も明けきらない6時前、新太はロッカーに常備してある着替えと洗面道具を片手に、商店街のネットカフェへと向かう。
どこもかしこもシャッターが閉まった通りに靴の音を響かせると、まるで世界の全てから拒絶されているような気分になって、眦にじわりと涙が浮かんだ。
――そう言えば、寂しいなどと言う感情を感じたのは、いつ振りだろうか。
「あ、先に朝飯も買っておくか……昼は……どうすっかな、今日も食べてる時間は無さそうだし」
イートイン付きのコンビニに人の温もりを感じるのは流石にどうかと思うと自嘲しつつも、新太は吸い込まれるように店内へと足を踏み入れる。
真っ直ぐに向かうのは、ゼリー飲料のコーナーだ。ずらりと並ぶカラフルなパッケージが目を惹くが、正直腹に入れば皆同じ、味の違いなど感じたこともない。
「……味……ああ、昨日のもやしはほんっとうに美味しかったなぁ……」
手に当たったものを適当にかごに放り込もうとした新太の手が、ふと止まる。
あれほど苦手だった食材の美味しさを知り……いや、夢の中とは言えこの一ヶ月間、毎日のようにたらふく美味いものを食べ続けたせいだろうか。何故か今日は、この手軽な朝食が妙に色褪せて見えて。
『何かをしながら食事をするなど……ヴィナよ、それはあまりにも食を冒涜しているのではないか?』
(そんなこと、考えたこともなかった)
暫く逡巡した後手を引っ込めた新太は、店内をのしのしと移動する。
その足が再び止まったのは、弁当のコーナーだ。
普段は食べる時間が無いからと見向きもせず、ときおりおにぎりに手を伸ばすだけの場所。
(……神様のご飯は、いつだって楽しい)
新太は無言で、新製品と銘打った弁当をかごに入れる。
特に美味しそうとか、食べたいとか何かを感じたわけではない。ただ、何となく――試してみたくなったのかも知れない。
「…………」
何故か彼のちょっと憤慨した言葉が、どうにも耳から離れなくて。
気がつけば新太は、かごにおにぎり二つとサラダ、そしてペットボトルのコーヒーを追加し「温めますか?」と事務的に尋ねる店員に「弁当だけお願いします、あとお箸を」と小さな声で答えていた。
「ふぅ……」
温め終わった弁当を手に、新太は店の片隅にあるカウンターの一席に腰掛ける。
窓の向こうには少しずつオレンジに染まる空が広がっていて「あの織物の方が……ずっと綺麗だな」とひとりごちながら、弁当の蓋を開けた。
――目の前で湯気を立てるのは、なんの変哲も無いコンビニ弁当だ。神様の用意して下さる料理とは香りも、きっと味も何もかもが違う、ある意味では今の自分にぴったりの食事。
それでも。
(……向き合えば、こんな食事でも楽しくなるのかも知れない)
道行く人に見られるのはちょっと恥ずかしいなと思いながらも、新太は大きな身体を丸めて、そっと手を合わせ
「……いただきます」
ちょっと歪に割れた割り箸で、パサついた米を口に運ぶのだった。
この日以来、夜明けのコンビニで温めた弁当とサラダを頬張り、白む空をコーヒー片手にぼんやり眺めるのが新太の日課となる。
相変わらず昼は食べたり食べなかったりだったが、少なくともあのアルミパウチの棚に新太が手を伸ばすことはなかったという。
◇◇◇
「すまなかったな、レナ。何度も足を運んでくれたと母上からは聞いていたのだが」
「いいですわよ。あんなことがあれば……あらゆるものを疑いたくなる気持ちは、痛いほど分かりますもの」
一方、ムシュカの体調はあの日を境に一気に軽快へと舵を切った。
ブランケットのお陰で、毎日床に入れば悲しみを感じる間もなく夢の世界に誘われ、気がつけば鳥のさえずりと朝日が新しい日の到来を告げている。
あの露天商の語った寝起きの効果を実感するには、19歳の身体は少々若すぎたようだが、それでも当たり前の眠りを取り戻したムシュカの顔には精気と笑顔が戻り、一月経った今では以前ほどではなくとも政務もこなせるほどの回復をみせていた。
身体の回復は、心も共に癒やしてくれる。
ようやく貴族との謁見を拒まなくなったムシュカの元に最初に訪れたのは、お気に入りの紅茶とスコーンを携えたレナだった。
スコーンにはクロテッドクリームが欠かせないでしょ? と彼女が持参したのは、城下でも人気の高い天才パティシエが作る限定品である。
「ふぅ……茶葉の香りを邪魔しないほのかな甘さ、やはり私はこのくらいがいい」
「ほんっとうにムシュカは昔からクリームが好きですわよね。見張ってなければあっという間に瓶が空っぽになってしまうくらい」
「レナだってジャムを一瓶食べ尽くして、何度も侍従に叱られただろう?」
「あ、あれはまだ幼かったからですわ! 今はそんなはしたない真似、絶対にしませんもの!!」
むきになる大公令嬢に、ムシュカは実に愉快そうに笑い声を立てる。
もう、と頬を膨らませながらも、レナはどこか嬉しさを隠しきれないようだ。
だからここ数ヶ月の行いを詫びるムシュカにも「元気になったのなら、それで良いですわよ」と余裕を纏った満面の笑みを返した。
「その、レナは……大公家は、あの事件には」
「関わっていませんわ。……とわたくしがいくら言ったところで、ムシュカは信じられないでしょう? 言葉には証拠がありませんし」
「それはそうだが」
「ですから、わたくしは声高には主張しませんの。全ては司法職が明らかにしてくれますわよ」
「……そうか、気を遣わせるな」
「当然ですわ、こう見えてもわたくしは未来の正室ですもの!」
「…………本当にお主は……何も変わらぬな」
苦笑いを浮かべながら、ムシュカは紅茶に口をつける。
穏やかな時間を彩る香気は、嗅ぎ慣れたはずなのにどこか懐かしく、切なさを伝えてくるようだ。
恋心を隠すことも無く、ムシュカがヴィナを正室に指名しようがお構いなしに、真っ直ぐその気持ちを真っ直ぐにぶつけてくるレナの一途さとそれでいてさっぱりした性格は、いつもながら側にいて心地よい。
きっと私がヴィナに向ける恋の形は彼女をどこかなぞっていると、どうやっても応えられない想いに少し申し訳なさを感じていれば「それで」とレナがずいと身を乗り出した。
「噂には聞きましたわ、何でも驚異的な回復は不思議な織物のお陰だとか……そんなにぐっすり眠れますの?」
「うむ、あれは凄いぞ。ブランケットにくるまった瞬間に夢の中だ、眠ったことすら自覚が無い。ただ」
「ただ?」
「何故か効果があるのは私だけのようでな……父上や母上も試してみたのだが、まあ普通に眠れただけだと」
「陛下や妃殿下はお元気だからではないですの?」
「そうかもしれぬな……つまりまだまだ私にはあの織物が必要と言うことか」
よき夢も見られるしな、とどこか遠くを見つめながら話すムシュカの姿は、傍目から見れば往事の……ヴィナが存命だったころと変わらない。
だが、レナはそんな様子にどうにも拭いがたい違和感を覚えていた。
(確かに元気にはなられましたわ。けれど……あれほどヴィナを想って憔悴されていたにしては、少々吹っ切れるのが早すぎやしなくて?)
いや、もしかしたら自分の前だから無理をしているのかも知れない。ムシュカはどこまでもレナを含む国民を大切に想う王太子で、噂によれば不眠の原因もその肩書き故に悲しみを素直に出せなかったせいだと言うでは無いか。
これでも自分は幼馴染みで、正室となる女(予定)なのだ。少しは素のムシュカを出してくれても良いのに……とどこかもどかしさを感じつつも「もう織物が無くても、寝られるのではなくて?」と紅茶に口を付けたレナだったが、続くムシュカの言葉に、その手がぴくりと跳ねた。
「いや、あれは手放せぬな。何せあのブランケットに包まって眠れば……夢でヴィナに逢えるのだから」
◇◇◇
「……どういう事ですの?」
少しばかりトーンの落ちた問いかけに、多分ムシュカは気付いていない。
それほど分かりやすく舞い上がった面持ちで、彼はこの一月の間続く泡沫の逢瀬を語る。
曰く、東雲を模した織物と共に眠った夜には、必ず夢にヴィナが出てくるそうだ。
夢の中の愛しい人はまるで今も生きているかのように振る舞い、ムシュカは毎夜彼と夢の中で食を堪能し、生前よりちょっぴり積極的になった彼との触れ合いを楽しんでいるという。
「ふふ、昨日は膝枕をしたのだ。あのヴィナが真っ赤に頬を染めながら、私の膝に頭をもたせたのだぞ! いや、あれは実に眼福であった、終ぞ叶わなかった夢が叶ったのだからな!」
「そう……ええ、それは良かったですわね」
「それにな、この間は……」
(……ああ。ムシュカの心は……何も癒えてはいない)
回復した? とんでもない! とレナは彼の様子に愕然とする。
蕩々と語るムシュカの瞳はあの頃のように輝いていて、真っ直ぐで……けれど、その先に自分は映っていない。
いや、レナだけではない。今のムシュカの瞳にはきっと何の現実も映っていないのだ――
部屋の中は通り抜ける風のお陰で涼しいのに、背中には嫌な汗が伝う。
これではいけないと、レナはかつてない危機感を覚えていた。
ムシュカはもう19だ。成人して4年あまり、本来ならば既に正室を娶っていてもおかしくない歳なのだ。
だからいくら正室候補であった恋人を失ったとはいえ、政務に復帰するほどの回復を見せている以上、そろそろ正室選びの話が再燃してもおかしくない筈。なのに、一向に王宮から声がかからなかったのはこれが原因かと、レナは彼の様子にはっきりと確信した。
彼は未だ、ヴィナの死を乗り越えられず。
それどころか夢に逃げ込み、あれほど頑なに守り続けた王族としての責務すらおざなりにしかけている。けれどあまりに変わり果てた姿が衝撃だったのだろう、再び絶望のどん底で憔悴させてしまう危険を冒してまで、彼に進言する者はいないと見た。
「……ムシュカ」
ならばと、レナは真剣な面持ちでムシュカを見据える。
ここで未来の王を諫められなくて、何が正室候補だ。これほど聡明でよき王となるであろう幼馴染みの足を止めてはいけないと。
「レナ?」
「ムシュカ、あなたの気持ちは痛いほど分かりますわ。けれど……それは夢でしかありませんの」
「…………レナ」
「どれだけ愛しくたって、死んでしまった人には二度と会えない。二度と触れることは……叶わない」
「……」
「ムシュカ、目を覚ましなさいな。ええ、わたくしだって鬼ではありません、夢を見るなとは言いませんわ。それがあなたの心を安らげているのは、事実ですもの。けれど夢は夢、ヴィナのことは思い出として胸にしまって現実と向き合うべきです。この国の民のためにも……!」
静かに、けれどきっぱりと、レナはムシュカを窘める。
勿論その裏に、自分が正室の座におさまり、大公家の影響力を維持しなければならないという下心がないわけではない。ただ、それ以上に……夢に捕らわれたままのムシュカがあまりにも不憫で、そうして情けなくて。
(あなたは、民を置き去りにし夢に逃げ込むような弱い人ではありませんわ。ええ、わたくしはよく知っていますもの!)
切なる願いを込めた言葉が、光の差し込む小広間に響く。
だが、ムシュカの口から零れ落ちたのは、レナが求めた王太子としての彼ではなく――ただ一人の、恋に溺れた迷い子の慟哭だった。
「……今の私にとっては、ヴィナと逢える夢こそが現実なんだ、レナ」
「ムシュカ……!」
「すまない。王族としての務めを忘れたわけではない、だが今の私は……あの穏やかな逢瀬があるから、この現世に命を繋ぎ止めていられる」
「…………そう、ですのね……」
どうか今だけは、私を王太子ではないただ一人の男として過ごさせて欲しい――
そう言い残して部屋を出るムシュカの後ろ姿を、レナはただ、見守ることしか出来ない。
(……そんな顔、わたくしは一度も見たことがありませんもの)
少しだけ寂しそうで、けれどどこか覚悟を決めたような彼の本当の気持ちはレナには計り知れない。
だが、これだけは言える。もし同じ境遇に自分が立たされたときに、愛しい人に会える夢に拘泥しないと言い切れる自信は、レナには無いと。
「お願いよヴィナ。早くムシュカの心を解放してあげなさいな……」
レナの祈るような呟きは、静かに閉じた扉に吸い込まれて消えていった。
◇◇◇
(事実を話したところで、理解はされまい。……レナには申し訳ないが、今はヴィナが最優先なのだ。なにせ世界を違えたとは言え、ヴィナは確かに生きているのだから……!)
茶会を終えたムシュカは、あらためてヴィナの神として振る舞うことを決意する。
せめて織物の効能を試して貰うことが出来るのであれば、レナには話が通じたかも知れない。だが、あの露天商が語ったまじないの力は、何故かムシュカにしか働かないらしい。
それならば多少の誤解が生じたとしても、緊急性の高いヴィナの回復に専念したい――
「しかし、あの露天商は自分で試したと言っておったな。もしかしたら、効果の発動にも条件があるのか……? うむ、調べてみるのもひとつだな」
なんにしても、今は目の前の政務を終わらせねばと、ムシュカは頭を切り替え執務室へと急ぐ。
……その背後には、彼の姿をそっと伺う影があった。
「殿下が回復されたのは何よりだが、よりによって奴が夢に出てくるだと? まったく……どこまでも目障りな奴隷上がりが」
名前を口にするのも汚らわしいと言わんばかりに眉をひそめるのは、レナと同じくムシュカの正室候補であり、宰相家の御曹司でもあるダルシャンだ。
その女性と見まごう相貌をぐっと歪めた彼は、茶会の席に控えていた侍従から聞き出した話に、すっかり機嫌を損ねていた。
「政務に復帰されて2週間になるのに、一向に正室選びの声が聞こえてこないと思ったら、まさか殿下が夢であやつに拐かされていたとはな……これでは父上が大枚はたいて東国の魔法使いを雇ったのが、水の泡ではないか!」
ムシュカがあの奴隷上がりの粗暴な騎士に心を奪われ、実質的に宰相派を権力の座から遠ざける宣言をして以来、彼らは何とか王太子を翻意させようと奔走してきた。
貴族達の賛同を取り付け、正式な婚儀の手続きを遅らせ、ダルシャンはそれまで以上にムシュカに接近し阿る……だが婚儀こそ阻めたもののムシュカの心が変わることはなく、事態を重く見たカルニア公はとうとう「実力行使」を決断したのである。
結果、ムシュカの正室選びは見事に振り出しへと戻った。
――だがあれから4ヶ月もたつのに、白紙のまま事態は動く気配がなくて。
ようやく貴族との謁見も再開したと聞いて様子を探れば、事態はとんでもない方向に転がってるではないか。
「これだから野盗を装うのはやめろと進言したのに……しかもよりによって、奴らは封印庫の宝物に手を付けただと? そんなもの、碌な事が起きないに決まっているであろう!」
ダルシャンはカツカツと靴の音を廊下に響かせ、王宮の片隅へと向かう。
あまり強引な手段は取りたくないが、仕方がない。王太子殿下におかれては、さっさとあの穢れた男の誘惑を振り払い、王族としての勤めを果たして貰わなければならないのだから。
「失礼、王太子殿下の部屋付のものはこちらに?」
使用人詰所の扉を開けたダルシャンは、先程までの不機嫌が嘘のように柔和な笑みを湛え、談笑していたメイド達に話しかける。
突然の貴族、それも美人と名高い宰相家の御曹司の登場に、詰所はわっと沸き立った。
「あ、あのっ、私が担当しておりますが……」
「そうか、実は折り入って頼みたいことがあるんだが」
「はっ、はいっ! なんなりと」
「ここで話すのも憚られるから、場所を変えても? ああ、すまないがこのことは……他言無用で」
「もちろんでございます!」
「邪魔したね」と手を上げ出て行く二人の後ろ姿を追った詰所の面々は、扉が閉まるなり大騒ぎである。
これはとうとうダルシャン様が殿下にアプローチをかけられるのだろう、レナ様を出し抜くには実力行使も辞さないと言うことか――暢気に沸き立つ彼らは、別室に連れて行かれた部屋付のメイドが顔を青ざめさせていることなど、何も知らない。
「少々寝不足になるかもしれんが、このまま夢に絆されるよりはマシだ。殿下にはさっさと正室選びに本腰を入れて貰わないと、な」
震えるメイドに金貨の入った袋を握らせその場を去って行くダルシャンの表情は、どこか鬼気迫るものがあったと彼女は後に語っている。
◇◇◇
しかし、それから数日後。
ダルシャンは金貨の袋と共に、思わぬ知らせを受けることとなった。
「ダルシャン様、私にはもう無理でございます! お願いします、お金はお返ししますしこのことは決して誰にも話しませんから、どうかこれ以上はお許しを……!」
「……よい、もう下がれ」
真っ青な顔で頭を下げるメイドを憮然とした顔で見送ったダルシャンは、扉が閉まるなり「どういうことだ!?」と声を荒げた。
その手には青筋が浮かび、思惑を覆された怒りに身体の震えは止まらない。
「信じられぬ……何をやっても処分出来ない布など、聞いたことが無い!」
忌々しげに吐き捨てながら、ダルシャンはぎりと綺麗に切り揃えられた爪を噛むのであった。
――恐怖で顔を引き攣らせた涙目のメイドが語ったのはこうだ。
あの日、ムシュカを惹きつけて止まない織物の処分を命じられた彼女は、後ろめたさを感じつつも金貨の誘惑には勝てずムシュカの寝室へと足を踏み入れた。
そうして洗濯物を回収するフリをしてブランケットを持ち出し、確かに焼却炉に放り込んだというのだ。
「なのに! 次の日お部屋の掃除に参りましたら、あれが……寝台の上に戻っていたのです!」
「それは誰かが拾って持ち帰ったのではないのか?」
「それも考えました。だから次の日は麻袋に詰め込んで焼却炉に入れたのです。けれど、結果は同じで……」
何度繰り返しても、織物は寝台に戻ってきてしまう。それも、灰だらけの中に放り込んだというのに新品同様の美しさで、だ。
それならばと裁ちばさみでバラバラにしようと刃を入れれば、布地の感覚は無く。
どれだけ力を入れようが、まるでそこには何も無いかのように刃は布をすり抜けてしまう――
「うそ、でしょ……なんで……なんで糸一本切れないし、煤すら付かないのよ……!!」
目の前で火にくべても燃えることなく、泥水につけても汚れることなく。
そうしてほんの一瞬、目を離した隙に……それどころか瞬きをした瞬間に、あの織物は目の前から消え失せ、ムシュカの寝室へと戻ってしまうのだ。
王宮には昔の名残か、魔法やまじないと呼ばれる不思議な力を持つ道具はいくつか残っている。だからメイドも市井の民ほどそういった品への抵抗感はない。
だが、いや、だからこそ、彼女は寒気と共に確信したのだ。
――これは人が触れてはいけない、何か恐ろしい呪いのかかったブランケットだと。
「……推測には過ぎないが、しかし……万が一、本当に呪いのかかった品であれば……殿下が危険だな」
ひょんな事から発覚した事態に、ダルシャンは策を巡らせる。
ここであの忌々しい織物の秘密を暴きムシュカの正気を取り戻せたならば、殿下の気持ちはともかく国王はその功績を讃えるであろう。そうなれば正室の座も近づくというものだ。
幸いにも我がカルニア家は文官を束ねる宰相職を担っている。宝物庫の資料も簡単に手に入れることが出来るであろう。
それにもし、万が一殿下がこのまま夢に耽溺していれば……
「……いや、今はよそう。まずは、これのことを調べねば……」
奴隷上がりに現を抜かしている事以外は、あの方は未来の王として十分な資質を持っておられる。軽率な判断はこの国のためにはならないとダルシャンはかぶりを振り、善は急げとばかりに屋敷へと戻るのであった。
◇◇◇
「随分顔色がよくなられましたな、殿下」
「ありがとうございます、パニニ老師。先生におかれましてもご健勝で何よりです」
「ほっほっ、堅苦しい挨拶はよして下され殿下。今の私はただの隠居じじいに過ぎませぬ」
ある日の夕方、政務を終えたムシュカが廊下を歩いていれば、懐かしい呼び声が後ろからかかる。
振り向けば、そこにはムシュカの教育係であったパニニ老師が杖を片手に手を挙げていた。
「国王陛下からお呼びがかかりましてな。息子が西国に行っている間サリム殿下の教育係を仰せつかったのですが、いやはやこの歳ともなるとやんちゃ坊主相手の2時間の講義は身体に堪えて」
「何を仰いますか、まだまだ背筋もしゅっと伸びておられるではないですか。先生には私が即位した後もご指導を賜りたいと」
「それは気合いを入れて養生せねばなりませぬな……ところで陛下から、何か殿下が相談したいことがあると伺いましたが」
「ええ、実は先生に調べ物をお願いしたいのです」
ムシュカはパニニを自室の応接間に誘う。
そうして「父上との約束で、この部屋からは出せぬのですが」と東雲の空を模したブランケットを彼の眼前に広げた。
「ほう、これはまた……見事な織物ですな。この織り方は東国の逸品と見ました」
「流石先生ですね、一目見ただけで見抜くとは」
「なぁに、こんなものは知識があれば誰でもできますぞ。して、これが何か」
実に良い品ですなとじっくり織物を眺めるパニニに、ムシュカは「これは内密に願います」と前置きし事の顛末を簡単に説明する。
元は封印庫にしまわれていたこの寝具は、先般の賊により市井へと流出したところをたまたまムシュカが買い戻したものだ。
これを手に入れて以来、あれほどムシュカを悩ませていた頑固な不眠症は完全に鳴りを潜め、しかも毎夜のように亡き恋人の夢をみるという。
「夢とは言いましたが……生きておるのですよ」
「生きて……? それは一体」
「恐らくは先生が以前教えてくださった、こことは違う世界で……ヴィナは新しい命として生きているのです」
「…………ふむ」
だが、この不可思議な体験が出来るのはどうやらムシュカだけらしい。
正確には、これを売りつけた旅の露天商は類い希なる安眠効果を体験しているはずだが、彼は既に騎士団による取り調べを終えこの地を去ったそうで、改めて確かめることも出来ない。
しかも、この寝具に関する記録は何故か王宮内には残っていない。少なくとも数百年前からあの封印庫にあるのは確実だが、詳しいことは王族の口伝にも残っていないと父王からも聞いている。
だから、どうすれば他の者にも同じ体験ができるか、そもそもこれはどういった謂れの品なのかを極秘で調べて欲しいのだと、ムシュカはパニニに頭を下げた。
「神に誓って、私は嘘も妄言も言っておりません。だが、こんな世迷い言をはいそうですかと皆に受け入れて貰うのは到底無理でしょうから……先生のお力をお借りしたいと」
「なるほど、事情は分かりましたぞ。私に頼むのは……貴族の余計な追求を受けないためですな」
「……今、王宮は私の正室選びで何かと不安定です。気をつけるにこしたことはありませんから」
少し時間を頂けますかな、とパニニはゆっくりと立ち上がる。
そして手を添え老師を見送る若き王太子を見つめ、それで、と静かに口を開く。
「殿下は事実を知って、どうされるおつもりで?」
「……どうもしません、ただ」
虫の知らせを感じたのだろう老師の問いかけに、ムシュカは淀みなくその意志を露わにするのである。
「ただ、王族としての務めを果たす前に少しだけ時間を頂きたいのです。我が儘は承知ですが、せめて名も知らぬ世界で足掻く愛しい人が笑顔を取り戻すまで、ただ一人の人として生きる許可がほしい……私が望むのは、それだけなのです」
◇◇◇
それから2週間の月日が流れた。
相変わらず昼間は政務に励み、貴族を初めとした国民との謁見に望み、疲れた身体を寝台に横たえた後は愛しい人との逢瀬を堪能して英気を養う。
最近では「こんびにめし」なる朝餉を取るようになったと報告してくれた新太の顔色は多少改善が見られていて、確かな手応えにムシュカのサポートにも力が入る。
さて今日はどんな料理を食べさせようか、そうだ食後は膝枕からの耳掃除に挑戦しても……と神様特権を存分に活かす計画(妄想)に一人にやけていれば、執事からパニニの到来を告げられた。
「どうでしたか、先生……その様子だと、あまり芳しい結果では無さそうですが」
「そうですな。殿下に今すぐ害を及ぼすというわけではないですが……少々困った事が発覚しまして」
息子が西国から持ち帰ったという、蜜のたっぷりかかった焼菓子を片手に茶をすすりながら、パニニは厳かに語り出す。
「……この品は今から遡ること600年前、我が国が東方の小国との戦いで得た戦利品でしてな」
いくつもの魔法を使う民族がこの国に住んでいた当時、クラマ王国は領土拡大のため盛んに隣国との戦争を繰り返していた。
そんな折、遠征の最中で立ち寄った今は名前もわからない小国。その戦力差は圧倒的で、早々に白旗を揚げた国の長から献上された品々の中に、この寝具は混ざっていたのだそうだ。
「元はブランケットだけで無く、分厚い敷布に掛け布団、寝所を覆うカーテンが一式になって献上されたようですな」
「ええ、宝物庫から盗まれた品にも、敷布と枕カバーの記載がありました。敷布はブランケット同様取り戻しましたが、枕カバーの行方は未だ分からないままです」
「なるほど……もしかすると、どこかで主を見つけてしまい返そうにも手放せなくなっているのかもしれませぬ」
「……どう言うことです?」
あの露天商が語ったとおり、これは東国のまじないがかかった寝具であった。
ただしそれは記録によると安眠効果などと言う俗な物では無く、いわゆる恋愛成就のまじないであったという。
かつてその地には、愛する二人が夜をにし異国の神により認められることで婚姻が成立するという文化が存在していた。
夫婦となろうとするものは新しい寝具を作り、そこにまじないをこめて閨を覗きに来る神を歓待したのだそうだ。
神に極上の夢を見せて良い気分にさせ、二人の仲を認めて貰う――本来この寝具に込められたのは、そんな恋人達の切なる願いであった。
「ですが、この寝具は……知らぬ国に連れ去られ異国の神の怒りを買ったためか、この国に辿り着いた頃には既に呪いを帯びていたのです」
「呪い、ですか」
「ええ。一度寝具に見初められれば、条件を満たすまで絶対にそのものの元から離れることはない。そして見初めた者を夢の中に閉じ込めてしまうのだと、古文書には書かれておりました。何をしても目を覚ますことは叶わず、かといって憔悴することもなく……そのまま歳を取り自然と命が尽きるその日まで、こんこんと眠り続けたと」
「なっ…………!」
あくまで伝説です、真実とは限りませんと、パニニは顔色を悪くしたムシュカを宥める。
「現に殿下はこの一月半、明晰な夢を見ることはあっても毎日それはそれはすっきりとお目覚めになられていますし、その点で心配は無いと思いますぞ」とパニニが冷静に説明すれば、ムシュカも幾分落ち着いたのだろう、不安を振り払うかのように甘ったるい菓子をぬるい茶で流し込んだ。
「それでは、私の場合は特段問題は無いと」
「いえ……ここからが問題なのです」
調査を行うにあたり、パニニは試しにこの織物を部屋の外に出してみようと、部屋付きの使用人に依頼をかける。
だがその話を聞いたメイドは即座に顔を引き攣らせ「それだけはお許し下さい!」とパニニの前で取り乱し叫んだという。
聞けばこの織物を部屋から持ち出し焼却や裁断を何度も試みたものの、一度たりとも成功せず勝手にこの部屋の寝台へと戻ってしまったのだそうだ。
「勝手に持ち出して燃やそうと……何のためにそんなことを? いや、そもそもそのような狼藉、ただの使用人が判断出来るものではない……」
「酷く怯えておりましたので、詳しいことまでは聞き出せませんでした。ですがあの娘の話が事実であるならば、ムシュカ殿下、あなたは既にこの織物に見初められて……いや、呪われておられる」
「!!」
幾多の者を夢の中に閉じ込めた寝具は、呪われた宝物として封印庫の奥深くにしまい込まれる。
そうして数百年の時が流れ――今ではその危険を語り継ぐ者もいなくなり存在すら忘れ去られていた織物が、賊の手により持ち出されムシュカの元へと辿り着いたのは……果たして偶然か、それとも。
「完全に安全とは言えませぬが、今の状態が続くならば取りあえずは問題は無いでしょう。呪いの対象となった殿下以外が、この織物の効果を受けることはないでしょうからな」
「それは……まあ良かったと捉えるべきですかね。下手に体験出来た結果、夢の中から出られなくなっては一大事ですから」
「まったくですな。それと、呪いを解く方法ですが……古文書の記載から条件があることは分かっておるのですが、その詳細まではまだなんとも」
「いや、これほど短期間でそこまで分かっただけでも十分です、先生。感謝します」
ふかふかと頭を下げつつそう言えば、とムシュカは随分前に騎士団から報告を受けた話をふと思い出し口にする。
封印庫に押し入った賊の一人が王宮に自首してきたのだが、何でも盗んだ寝具のことで殿下にお話ししたことがあるから謁見を願いたいと、何度も訴えていると――
ただ、当時の消耗しきったムシュカを得体の知れない男に会わせるわけにも行かず、結果的にその話は流れてしまったのだが、もしかしたら何か手がかりをもっているかも知れないと話せば、パニニは「ならば、私が会って話を聞いてきましょう」とすんなり快諾した。
「お願いします。その者は騎士団預かりになっていますから、恐らく先生が政争に巻き込まれることは無いと思われますが」
「ほほっ、なに、この老いぼれをどうこうしたところで、貴族共の権力拡大には何の役にも立ちませぬ……おや、もう良い時間だ。今日は孫に、市で土産をせがまれていましてな」
長居しましたな、と王宮を後にしたパニニは、夕方の城下をのんびりと歩く。
あちらこちらから良い匂いが漂っていて、これはついつい財布の紐が緩みそうだと孫の顔を思い浮かべながら店先を眺めるパニニの心には、先ほどから消えない憂いが燻っていた。
(……嘘は言っておるまい。若き恋を応援もしてやりたい。あの子は賢い子だ、それ故に……幼い頃から王族としての責務を背負って当然と、己の事を後回しにしがちじゃったしな)
ムシュカが夢の中で逢えるという異世界の「ヴィナ」を語る様相は、パニニも初めて見る年相応の若者らしさに溢れていた。
正室を娶り、そして国王の座に着けば叶わないであろうひとときの安らぎを、貴族達は許さずとも事情を知る自分だけは……今だけは見守って差し上げたいとも思っている。
だが、相手は何と言っても記録に残るだけで20人近い人間を夢に閉じ込めた呪いの織物だ。なぜだかムシュカは今のところ夢に閉じ込められる気配は無さそうだが、この先も同じ状況が続くとは限らない――
「閉じ込められずとも、溺れれば同じですぞ、殿下……どうかそのような怪しきものに、取り込まれなされるな」
パニニは喧噪の中、歩いてきた道を振り返る。
夕日に照らされた王宮はいつも通り輝いて、けれどどこか胸騒ぎを覚えるような茜色に染まっていた。