第4話 掴んだ転機
相変わらずここの殺風景さは変わらないなと、ムシュカは静かにソファに腰掛け、ただその時を待つ。
「……夢とはこんなものであったか……まあ、多少家具は増えたが」
当初だだっぴろい床が広がるだけであった空間には、この3ヶ月のうちに少しずつ物が増えていった。
それらはほぼ全てが、ムシュカの願いにより織物が作り出したものだ。
膝枕専用のソファに始まり、二人の距離が遠くならない程度の広さを持つテーブルに椅子、爪や耳のお手入れ用品にお昼寝用の毛布、洗髪台とふかふかのタオル、さらには裁縫道具と縫い方の教本まで……
例え現実には持って帰れなくとも、せめて夢の中では愛し子を整えてやりたいという、ムシュカの切なる願いがこれでもかと込められた品々ばかりである。
「それにしても、一国の王太子にボタンを付けさせる騎士は世界中探してもお主しかおらぬであろうな、ヴィナよ」
立派な胸筋に耐えかねて弾け、ムシュカの気合いによって何とか元の位置に納まったボタンは、きっとメイド達が見たら顔を顰める残念な出来であったであろう。
しかし自分で見ても「これはない」と首を振りたくなるざまだったというのに、彼はいたく感激し「大事にします! もう二度と洗いません!!」と涙を流して喜んでくれた。
流石に服は洗えと諭したが、次があれば洗うに耐えるだけの腕は身に付けたいと、愛し子がここに訪れるまでの時間にこっそり練習しているのは内緒だ。
そんな新太のための癒やし道具が並ぶ空間に、しかしベッドだけは頑なに置かれることがない。
……置けるわけがないだろう。正直ここまできても彼は何一つ思い出す気配がないのだ、共寝をしたところで記憶が戻るとは思えないし、何よりムシュカの我慢が効かない。
「……それにしても、今日は随分と来るのが遅いな」
ムシュカはひとりごち、白一色の空を眺める。
なんでも彼は、あまりの忙しさに寝る時間も惜しんで働いているらしい。特に最近は繁忙期も重なり、ここに滞在出来る時間は減る一方だ。
以前に比べれば随分と顔色も良くなったとはいえ、奴隷も真っ青の労働時間はなんとかならないものかとムシュカは心配しきりである。
そう、こういう不安は大体当たるもので。
「……神様ぁ…………お、遅くなりました……ぁ……」
「おお良く来たなヴィナ、ってどうしたのだ!? お主、いつもにも増してボロボロではないか!!」
「も、もう……だめ……無理、疲れた……」
「ヴィナーーっ死ぬなあぁっ!!」
無精髭を伸ばし目をしょぼしょぼさせた新太は、初めて会ったときよりも酷い顔色でやってきたかと思うと、ムシュカを認識するなりその場にぱたんと倒れ込んだのだった。
◇◇◇
「だから!! 腹が減れば飯は食えと言っただろう!! お主、最近は毎朝『こんびにめし』とやらを食べておると言っておったでないか!!」
「食べられる日はちゃんと、食べてるんですけど……今週は忙しすぎて……食べるくらいなら、寝たい……ぐぅ……」
「待てヴィナ、夢の中でまで寝てどうするのだ!! 良いのか? 今は貴重な……なんだったか、その『おしをめでる時間』とやらではないのか!?」
「はっ!! そう! そうです神様と折角いられる時間……なの、にぃ……」
「…………うむ、無理だなこれは」
推し活もままならぬほどの眠気に襲われ、床にうつ伏せで大の字になったまま動かない新太に、ムシュカはがっくりと肩を落とす。
働く者にまともな食事の時間を与えず、あれほど体力に自信があった凄腕の騎士をここまでやつれ果てさせるとは、一体異世界はどれほど恐ろしいところなのか。
三月も経つのに相変わらず謎の業火は消えないらしいし、最近では新たな「ねんまつしんこう」なる敵が現れたという。信仰が敵とは、本当に訳が分からない。
「ええいヴィナよ! こうなったら精の付くものを用意してやろう! これを食べて元気を取り戻すのだ!」
理解は出来ないが、少なくとも我が愛しの騎士がかつてこなしていたどんな過酷な訓練の後よりも疲れているだけことは、しかと把握した。
となれば、騎士団御用達の「どれだけ疲れていても、これを食べれば復活出来る」料理を振る舞うべきであろう! とムシュカはテーブルに手を差し出す。
ことん、とん……
「どれ、レンゲでスープを……ほれヴィナよ、口を開けい。スープならそのままでも飲めるであろう?」
「むにゃ……あーん……」
手ずから料理を差し出しても白目を剥いて「尊すぎて死ぬ」と叫ばなくなったことをちょっと寂しく思いながらも、ムシュカは湯気の立つ濃い色のスープを掬いそっと倒れている新太の口元に近づける。
すんすんと鼻を動かし、ご飯の存在を感知した新太は無意識のうちに口を開け「寝ながらでも飯は食えるのだな」と少々呆れ気味のムシュカの手によって少し冷まされたスープが口の中へと運び込まれた。
「ずずっ……んっ……うま……」
暫く口の中でスープを転がしていた新太の喉が、こくりと上下する。
ふにゃりと浮かべた笑顔は力なくて、それでも「かみさま……もっと、ごはん……」と食欲だけは健在なのだろう、新太は目も開ききらぬまま鼻をヒクヒクさせてお替わりをねだる。
そんな可愛らしい大男に「ほれ、せめて椅子に座って食べよ」とムシュカはため息をつきつつも、自分より二回りは逞しい腕をよっこいしょと持ち上げた。
◇◇◇
うん、神様が自分のためを思って精の付くご飯を用意してくれたのは分かる。
分かるのだが、今の自分の胃にこのようなこってりした物体はむしろ毒ではなかろうか。
「ええと、神様、これは……」
「うむ、もつ煮込みだ」
「ですよね!!」
ようやっと椅子に腰掛けた新太の目の前に置かれた器には、茶色い物体がたっぷりと盛られていた。
何の獣だろうか、骨の付いた部位も分からない肉がスープの中にゴロゴロと浮かんでいる。
見た感じ内臓とおぼしき物体や豚足に似た部位も混ざっていて、いかにも精がつきます! と言わんばかりのラインナップに新太は「うへぇ」と思わず口を押さえた。
「どうした、気分が悪いか?」
「あ、いや……神様これ凄く美味しそうな匂いはしてるんですけど、その、今の俺にはちょっと……胃が重くなりそうだなぁって」
スープだけならなんとか、と尻込みする新太に「食わず嫌いは良くないぞ」と最後の手段とばかりにムシュカは三枚肉を箸でつまむ。
「ほら、私が食べさせてやる」とにっこり微笑まれれば新太には断れるはずもなく「もう……神様ずるいですこんなご褒美」とちょっぴりにやけながら、ぷるぷるした肉の塊を頬張った。
「……あれ…………意外と、重くない?」
口の中でほろりと届ける肉は、脂のこってり感はほとんど感じずプルプルした感触だけを新太に楽しませてくれる。
よく煮込まれた肉を噛みしめれば、肉の甘味と共に舌をくすぐるスープは色からは想像も出来ないほど優しくて、ふと鼻に抜ける香りは……これは漢方だろうか、いかにも身体に効きそうな薬草を思い起こさせた。
どこかほっとする、知らないはずなのに懐かしい味。
……神様の料理はいつも新太の心を安らげ、胸を不思議な温かさで満たしてくれる。
「な? あっさりしているのに精が付きそうだろう? きつい労働の後の身体にはぴったりだ」
「ほんとだ、見かけで判断しちゃだめですね……あ、お揚げも欲しいです神様」
「ふむ、ほれあーん」
次はこっち、その次はあれ、と新太の指示に合わせて、ムシュカはせっせと肉を、野菜を、新太の口元へと運ぶ。
これを餌付けと言わずして何という? と複雑な気分に襲われながらも、幸せそうにご飯を頬張る姿は実に眼福だ。
今日は殊更やつれているとはいえ、最近の新太の顔には血色も戻ってきている。少なくともあっさり系とはいえもつ煮込みを食べられるくらいには、現実の彼も回復してきているのだろう。
(もう少しだな。6食とは言わずともせめて3食は食べられるようになれば、往事の覇気を取り戻すに違いない)
ここまで3ヶ月、随分かかったな……とムシュカは感慨深げに新太を眺める。
夢の逢瀬がどれだけ現実に影響を及ぼせるかは未知数であったが、少なくともこの夢に誘われることで彼は短時間ながら質の良い睡眠を得ている。
また、無意識に眠る食への渇望は、少しずつ過酷な世界に生きる彼の食事に影響を与えているに違いない。
夢の中で盛大に行われる愚痴吐き大会と、それに呼応するようにムシュカから浴びせられる全肯定の「お言葉」は、神経がすり減るような日常を多少なりとも癒やしている……と思いたい。
なにせこればかりは愚痴が一向に減らぬから、確かめようがないのだ。
(……そう、もう一息)
もう一息回復が見られれば、そろそろ彼の記憶を呼び戻せるであろう好物をたんまり馳走出来る――その日を思うだけで、胸が期待に躍ってしまう。
(お主が記憶を取り戻す日が楽しみだぞ、ヴィナ。その暁にはここで、私も共に同じ食事を囲もうではないか)
現実の世界では、ぼちぼち父王から正室選びの催促がかかっている。
ここでヴィナの完全な回復を見届ければ、私も腹をくくって身を固めよう。なに、私の心はお主だけのものだが、それは夢で叶えられれば十分。現実では王族としての責任を果たさねばならないのだから。
(きっと記憶を取り戻しても、お主はそんな私の決断を許すであろう? ヴィナ。その代わり……私が生涯愛するのはお主一人だ)
あれほど渋っていた割にはさっさと腕の中を空にし「あの、神様……おかわり……」とキラキラした瞳で見上げる愛し子に(……まるで猛禽の雛に餌をやっているようだな)と少々失礼なことを考えながらも、ムシュカは新たな椀をテーブルに出現させるのだった。
◇◇◇
「おい毘奈、昨日頼んだタスクは」
「もう実装終わっています。昨日の夕方にMRも出してレビュー依頼したはずなんですが……」
「は? ……うわマジかよ。それなら一言声をかけろよな!」
「あ、すみません……」
外は煌びやかなイルミネーションに彩られ、浮き足だった空気を作り出しているけれど、この古びたビルにはいつも通り淀んだため息だけが満ちていて。
いつも通り新太の進捗を確認した先輩エンジニアは、思わぬ返事に虚を突かれたのがどうにも腹立たしかったのだろう、ブツブツ文句を言いながら新太の成果を確認している。
まだ何か言いたげな様子を察した新太は「トイレ行ってきます」と慌てて部屋の外へと避難した。
「……何だろう、最近随分調子がいいような…………」
年末進行の煽りを食らった職場は、まさに修羅場という言葉がぴったりだ。
新太もここ2週間は寝袋生活だが、疲労の極致であった夜に神様が振る舞ってくれたもつ煮込みが効いたのか、多少顔色は良くなっている気がするなと鏡を覗き込む。
……いや、顔色だけではない。心なしか筋肉の張りと艶も良くなっているのではないだろうか。
ここしばらくは身体も軽いし、何よりミスが減った。コードも不思議とすんなり理解出来るし、明らかに仕事効率が上がっている実感がある。
やはり神様のご飯は効き目が素晴らしい。夢だというのに凄い効果だなと豚足の食感を思い出せば、途端にお腹がぐぅ、と元気な音を立てた。
「戻りました」
「……おう。さっきのレビュー問題無かったから、次のタスクもさっさと終わらせろよ」
「はい」
どうやら、先輩の苛立ちは収まっていたようだ。
新太は内心ほっとため息をつきつつ、小さなパイプ椅子にそっと腰掛ける。
備品を壊すような筋肉ダルマにまともな椅子など必要ないと与えられたパイプ椅子は随分ガタがきていて、下手に勢いよく座ったら座面が抜けそうでとても怖い。
モニタの黒い画面に向かえば、心なしか文字がぼやけて見える。
ああ、今日のボーナスタイムは終わってしまったかなとちょっと残念に思いつつ、新太はキーボードに指を伸ばした。
(いつも午前中は調子が良いんだよなぁ。でも、昼からは前と同じで……あれかな、神様のご飯もパフォーマンスを一日上げるのは難しいと……いやいや贅沢言っちゃいけない、半日でも元気に過ごせるようになったんだから!!)
コードを書き終え、キーボードを叩く指が止まる。
神様は恐らく自分の仕事をとんでもない災厄と闘う戦士と勘違いしているようだが、確かに頭の中だけはフルスロットルで目の前のコードと戦っているよな……と、疲れた頭はつい集中を途切れさせてしまって。
どうにも午後はいけない、このままではまた午前様になってしまうと頭を振ったとき、ふと新太の目に入ったのは今朝買ってきたおにぎり(おかか)だ。
食べようと思って袋から出していたのに、先ほどのトイレですっかり記憶からとんでしまっていた、代わり映えのない昼食に新太は手を伸ばす。
けれど。
(……ん?)
今日はその三角の佇まいが、妙に引っかかる。
そして……目の前にあの麗しい神様の、ちょっとだけむくれた顔が蘇る。
『そんな、何かをしながら食事をするなど……』
神様は、とかく食に厳しい。
ながら食べなど言語道断。食とは命の源であり、真摯に向き合ってこそ己の血肉に変わる、何より美味さを存分に堪能出来るのだといつも力説している。
その言葉の意味は、今の新太には何となく分かる。夜明けのコンビニで一人静かにご飯を食べた後は、確かに身体の調子が良い気がするから。
(……身体の、調子が良い……仕事も能率が上がる…………)
「あ」
ぼんやりおにぎりを見つめていた新太の中で、ようやく何かが繋がった気がして。
「先輩、俺ちょっと買い出しに出てきます!」
「え、ちょ、毘奈ぁ!?」
ガタッとパイプ椅子をひっくり返して立ち上がった新太は、先輩の怒鳴り声が耳に入る前にドカドカとビルの外へと飛び出していた。
◇◇◇
それから1週間後。
「……いただきます」
「…………」
「……ちっ…………」
相変わらず修羅場真っ盛りの職場で、栄養ドリンクやゼリー飲料片手に目を血走らせて画面に向かう同僚達が胡乱な視線を向ける中、新太は完全に手を止めて手を合わせ呟き、躊躇無く箸を手に取っていた。
目の前にあるのは、夜明けのコンビニで調達したそぼろ弁当とサラダチキンだ。
給湯室の電子レンジで温めた弁当をそっと開けば、コンビニ弁当独特の香りに混じって甘塩っぱいタレの香りがふわりと鼻をくすぐる。
(うう、やっぱり睨まれてる……でも……)
周囲の視線が痛いなと身を縮こまらせながらも、新太は温かい弁当を口に運ぶ。
針のむしろで食べる弁当の味はいつもより薄く感じるし、神様の料理に比べればやっぱり味気ない。それでも、冷たいおにぎりを食べるよりは……身体に血が通っていくような気がする。
(神様の言ったとおりだ。ちゃんと食べれば、力になる。……朝だけじゃなくて、昼も元気になれる)
ここに来て、ようやく新太は気付く。
確かに夢の中で味わう料理は絶品だ。美しい神様が授けてくれる、それどころか時には手ずから口に運んでくれる見知らぬ食べ物達は、確かにすり切れていた新太の心をほぐし、温め、満たしてくれる……それは紛れもない事実。
けれど同時に、いくら夢の中でお腹いっぱい食べても、現実の身体に力を与えるのは無理があるのだと。
――少し考えれば当然の話だ。残念ながら人間は、夢と霞で生きていくことは出来ないのだから。
からくりが分かってしまえば、事は単純だ。
善は急げとばかりにコンビニで昼食を調達し、周囲の非難はムシュカの言葉を何度も心で唱えていなしつつまともな昼食を取ったその日は、案の定自分でも驚くほど午後の仕事が捗った。
それ以来、新太は例え社長が目の前を通ろうが、食事風景をSNSに晒されようが、20分の昼食時間を全力で確保するようになったのである。
(前ほど社長にも叱られなくなったしなぁ……仕事のミスが減ったお陰かな? ホント神様がご飯の大切さを教えてくれたお陰だよ、最高すぎる俺の最推し)
神様ありがとうございます!と心の中で感謝を叫ぶ新太は、気付いていない。
彼への口撃が和らいだのは仕事でのミスが減ったためでもあるが、1日2食はきちんとご飯を食べるようになったお陰で己の本来持っていた覇気が見え隠れするようになったのが、大きな理由だということに。
記憶にはなくとも、魂に刻み込まれた騎士団副団長としての矜持とその豪傑さは褪せることがなく、ご飯というトリガーを通じて今も確かに「ヴィナ」を守り続けているのである。
◇◇◇
「ふぅ、落ち着くぅ……」
ペットボトルのお茶をずずっと啜りながら、弁当を平らげた新太が手を伸ばすのは鍵付きの引き出しだ。
嫌な音を立てて開いた引き出しの中には、書類と共に個包装の白い物体がいくつも鎮座していた。
「ふふっ、やっぱりシメはこれじゃないと……」
厳つい手で器用に包みを開け、中からぷるんと顔を出したおやつ――真空パックの一口ういろうを、新太はとても愛おしそうな瞳で見つめ、そっと歯を立てた。
一口で食べてしまうなど、実に勿体ない。だってこれは……どうにも出口のない灰色の世界に与えられた、神様との淡い繋がりなのだから。
「……神様の出してくれたぷにぷには、ほんっとうに美味しかったな……」
もちっとした食感とほのかな甘さが、新太の記憶を鮮明に呼び覚ます。
あれはいつだったか……新太が現実でしこたま説教された日に、地の底まで落ち込んだ姿を憐れんだ神様が「これで元気を出すが良い」と甘味の載った皿を出してくれたことがあったのだ。
四角いデザートたちは色鮮やかな緑と白の二層だったり、黄色かったり、はたまた何層ものレインボーカラーで彩られていたりと実に目に麗しかった。
――ちょっと食べ物とは思えない色も混じっていて、大丈夫かなと心配が一瞬頭をよぎったのは秘密だ。
かぶりつけばもっちりとした食感と鼻に抜ける甘い香り……多分ココナッツだろう、ミルク色の優しい香りとコクのある甘さが口中に広がる。
あれはまるで、鮮烈な日差しと青空が広がるビーチで寝転び、爽やかな風に吹かれているかのような恍惚に包まれるかのようだった。
あまりの美味しさに、確かに満腹を覚えていたはずの腹は現金にも容量を作り出したのだろう、再び夢の空間に轟音を響かせて「……なるほどお主もデザートは別腹か……」と神様が目頭を押さえていたっけ。
「にしても、ほんとありがたい……日持ちするから通販で手に入れられるし……」
神様のおやつの衝撃は新太にとっては相当なものだったのだろう。
どうしてもあのぷにぷにを現実でも食べたくて、けれど味だけではどうやっても見つけることが出来なくて。
やっぱり神様の世界の食べ物なんて現実じゃ食べられないよな……としょんぼりしていた時、たまたま社長が土産だと配ってくれたういろう。
何気なく口を付けた瞬間、新太は「これだ」と雷に打たれたような衝撃を受ける。
その日の夜は仕事もそこそこにネット上を調べ尽くし、ようやっと見つけたオンラインショップから真空パックのういろうをすぐさま取り寄せた。
以来、新太は神のおやつに似せた小さな白い塊を食後のデザートとして、それはそれは大切に堪能する日々を過ごしている。
「んぐ……ふぅ……」
小さなういろうは少し咀嚼すれば、するんと喉の方へと落ちていってしまう。
ほのかに口の中に残る米の甘さと香りは夢の中の甘露よりずっと淡く、上品な美味しさとともにどうしようもない切なさを新太に染みこませて。
(……何もかもが、淡いな)
ほぅ、とため息を漏らし、再びぬるいペットボトルに口を付けながら見回す職場のとげとげしさは、この淡さが思い出させてくれた神様の優しさに守られた身には、少しだけ遠く感じられる。
(夢より現実が淡く儚いだなんて……まるで今の自分みたいだ)
新太の心が、ポロリと自嘲を零す。
けれどそんな小さな染みは、すぐさま神様の堂々たるお姿から紡がれ続けている溢れんばかりの愛で、跡形もなく洗い流されたのであった。
『過酷な環境で戦い抜くお主を、私は素直に尊敬する。――お主はそれだけの価値がある男だからな!』
◇◇◇
王宮の中庭には威勢の良い子供の声と、それを指導する厳しくも温かい声が響いている。
騎士相手に木剣を振るうのは、黒に金色が混ざる柔らかな巻き髪を跳ねさせ、くりくりした琥珀色の瞳で相手を見据える少年だ。
カン、カンと剣のぶつかり合う音を立て、必死に騎士に食らいつく姿は幼いながらなんとも勇ましい。
「精が出るな、サリム」
「兄上!! あ、その袋は……!」
「ほら殿下、よそ見をしているとやられてしまいますぞ!」
「うわっ! ちょ、ちょっと待ってってばぁ!!」
汗だくで芝生に転がり込むサリムに、ムシュカは「随分剣さばきが上手くなった」とその奮闘を湛えながら、冷たい水と紙袋を手渡す。
一気に水を煽ったサリムが紙袋をそっと開ければ、そこには薄桃色のせんべいがぎっしりと詰まっていた。
「城下に出る用事があったのでな。稽古中にあまり食べ過ぎると、動きが鈍くなるぞ?」
「わぁい、ありがとう兄上!! ね、ジュナも一緒に食べようよ!」
「はいはい、殿下の仰せのままに」
(…………あのくらいの頃は、私もヴィナに随分鍛えて貰ったものだ)
兄の土産に目を輝かせたサリムは、指導教官と一緒に幸せそうにえびせんを頬張っている。
自分もかつてはああやって稽古を付けて貰っていたなと、少しだけ切なさの混じる郷愁に捕らわれていれば、横から「殿下もすっかりお元気になられましたな」と野太い声がかかった。
「久しいな、ラシッド団長。……ヴィナの葬儀以来か」
「そうですね。あれ以来殿下はこちらには近づかれませんでしたから……」
懐かしいですね、とサリム達を見つめるラシッドの瞳も、きっとムシュカと同じものを見ているのだろう。
「あの頃から殿下は、ヴィナにお熱でしたもんなぁ。気付いていなかったのは、あのにぶちんだけで……」と笑う声には、どうしようもない寂しさが滲み出ていた。
「べらぼうに強くて稽古でも手を抜くことを知らない癖に、終わった途端に芝生に土下座して顔を上げてもくれなかったからな……それにしても、正室に指名するまで全くこちらの秋波に気付かぬとは思いもしなかったが」
「指名されて第一声が『殿下、正気ですか!? はっ、まさかお腹が空きすぎて正常な判断が出来ないのでは!』でしたからなぁ! 色恋沙汰には本当に初心で……今も夢の中では変わらぬのですか?」
「…………そうか、知っているのだな」
ムシュカ王太子殿下の劇的な回復は、夢を伝って亡き恋人との逢瀬を叶える魔法のブランケットのお陰らしい――恐らくあの日レナとの会話を盗み聞いていた誰かが流した噂は、既に王宮中に広まっているようだ。
中には夢に耽溺して正室選びすら放棄していると陰口を叩く者もいるようだが、政務を精力的にこなし正室候補との交流の機会も少しずつ増えている今、国王がムシュカを諫めるような事態にまでは発展していないのが幸いか。
「まあ、夢の中でもヴィナはヴィナのままだな。相変わらず可愛らしいぞ? 手ずから料理を食べさせれば奇声を上げ、私の膝枕に目を白黒させたりだな」
「殿下、それはヴィナが二度死んでしまいますので夢の中とは言えお控え下され。……本来なら夢に現を抜かす事態はお諫めするべき立場ですが、正直あやつに会えるとは羨ましいものです。我らの夢に出てきてくれれば、夢に縋らねばならないほど殿下を悲しませおって! と全力で一晩中説教してやるのに」
「ぷっ、それだから出てこないのではないか?」
きっと貴族達の流す悪意を耳にしたのだろう、何かとムシュカの身を案ずる騎士団長に「なに、そろそろ正室選びも本格化させる」とムシュカは肩をすくめ、だが、と真剣な目つきですっと纏う空気を変えた。
……何かと忙しい立場である王太子が、ただ弟王子の訓練を見物しに来た訳では無いのは明白だ。ラシッドの表情にも自然と緊張が走る。
「まだあの事件の首謀者は、何も分からぬままか」
「ええ。既に野盗はボスである魔法使い以外は全員捕縛済みですし、盗品も一つを除いて全て取り戻せました。ですが」
「…………司法職の動きは鈍い、と」
ラシッドの報告に、ムシュカは苦い顔をする。
およそ貴族達からすれば、王族の至宝さえ戻れば面子が立つという考えなのだろう。騎士団の副団長とはいえ、奴隷上がりの犠牲者のためになど割く人員も時間も惜しいと思っているに違いない。
「確か司法職は、宰相派であったな」
「ええ。ですので大公派の実働部隊である我々騎士団とは長年折り合いが悪いですね。たかが騎士一人、貴族様とは命の重みが違うのでしょうよ。まして、ヴィナは……」
「そうだな。この動きの鈍さと普段の態度……それが全てだ」
ムシュカの腹の中では、首謀者の目処はあらかたついている。
己の正室という座を狙って権力争いに明け暮れていた連中には、ヴィナの存在はどうにも疎ましかったであろう。
そして……司法職への指図ができるだけの人物ともなれば、答えは既に出ているようなものだ。
だが、証拠がないと呟くムシュカに、ラシッドはグッと唇を噛みしめる。
「殿下のお役に立てず、申し訳ございません」と頭を下げるその顔には、悔しさがありありと滲んでいた。
「我々が捕縛した野盗は、既に司法職の管理下にあります。こちらから話を聞くことも難しく……何とか一人だけ、直接騎士団に自首してきた野盗は大公家の協力の下うち預かりとなっていますが」
「その者への尋問は?」
「行いました。パニニ老師も先日面会済みです。ただ、首謀者の名前は頑として語らず……いえ、語れないと本人は言っていましたね。なんでも口にした途端、命を刈り取られる魔法をかけられているとか」
「世迷い言を、と言いたいところだが……あの現場を見た以上、嘘と断じることは危険すぎるな」
あれほど立派な男のために、俺達は何の仇も取ってやれません、そう呟くラシッドの瞳は怒りに燃えていた。
まぁ落ち着けとムシュカは彼に水を差し出し、己も冷えた水をぐいっと飲み干す。
異世界にて生きていることを知っているとは言え、この世界から愛しい人を奪った連中を鷹揚に許せるほど、自分は人間が出来ているわけでは無いから。
「……」
「…………」
さぁっと中庭に風が吹き抜ける。
すこし埃っぽさと湿り気を含んだ匂いは、スコールの到来を告げているかのようだ。
「…………なに、私なりのやりようもある」
「殿下」
「お主は早まるなよ? ……我が国の宝を、私はこれ以上失いたくない」
「っ……もったいなきお言葉にございます……!」
(直接の糾弾は叶わない。立場上、証拠もないのに動くことは無理だ、だが)
(……私とて権力の重さは分かっているのだよ、カルニア公)
遠くで聞こえ始めた雷鳴が、訓練の終わりを告げる。
えびせんの袋を抱えてご機嫌の幼き弟の手を取り「邪魔したな」と微笑みを残して去って行くムシュカの背中は、静かな決意と怒りを滲ませていた。
◇◇◇
特段変わったことはない。少なくとも傍目には、そう見えているだろう。
だがダルシャンは、ここしばらくのムシュカに対して拭いきれない違和感を抱き続けている。
「お招き頂きありがとうございます、王太子殿下。殿下に置かれましては本日もご機嫌麗しく……」
「堅苦しい挨拶は良い、ダルシャン。折角西国の華麗なる演奏が楽しめるのだ、気を楽にしたほうがよいぞ」
「は……」
王宮では親睦会と称して、度々非公式の演奏会や鑑賞会、舞踏会などが開かれている。
とくに王太子であるムシュカが参加する催し物は、実際には正室候補達が交流を深めムシュカの心を射止めようと競い合う、華やかながら陰謀渦巻く場と化していた。
「素晴らしい演奏でございましたね、殿下」
「そうだな、我が国にはない音色だが実に耳に心地よい。……そう言えばお主が王宮を訪れたのは久々だな、フラン嬢」
「あっ、はっ、はい! 申し訳ございません殿下、何度もお誘い頂いていたというのに……」
「いや問題はない。ニールス伯の屋敷は辺境、それも南方の小島であろう? むしろ頻繁な誘いで気を遣わせてしまったな。そうだ良ければこの後、茶会でもどうだ?」
「ありがとうございます、謹んでお受けいたします!」
辺境伯の垢抜けない令嬢は、思いがけない茶会の誘いに頬を染めながらムシュカと共に広間を後にする。
「今日は彼女なのね」「まだヴィナ様を喪った傷も癒えないでしょうに、どの婚姻候補にも機会を与えて下さるなんて……流石ムシュカ様ですな」とその行動を好意的に捉える若い男女達の語らいの中で、ダルシャンはいつもと変わらぬ笑みで相槌をうつものの、その内心は穏やかでない。
(なぜ、あんなイモ臭い辺境伯の娘には声をかけるのに、私には声をかけてくれないのか……いや、遠方からの参加者を優先したといえばその通りなのだが……)
国王からの催促もあってか、最近ではこのような催しも事件前と変わりない頻度で開かれるようになった。
まだムシュカの口から正室候補の言葉は出ないものの、ようやくこの日が帰ってきたかとそれぞれの家を背負った若人達は、和やかな振る舞いの裏で早速駆け引きに明け暮れている。
「でも、きっと正室になられるのはレナ様ですよね。俺は側室に選ばれれば十分役目は果たせますからいいですけど」
「そこはもう少し夢と自信をお持ちになられては? と言っても、レナ様の美貌には敵いませんものね。何より、幼馴染みというのは大きいですわ」
「そうそう、殿下もレナ様とは非公式な茶会を度々設けておられるそうですよ。私などはここでお声をかけて頂けるだけでもありがたい身分だというのに、本当に羨ましい……」
(…………!)
小耳に挟んだ情報に、ダルシャンは胸の辺りが焼け付くような感覚を覚える。
確かにラグナス大公家の令嬢であるレナは、その関係性故かあの奴隷上がりが存命の頃からムシュカが私的な茶会に誘うことは多かった。勿論その場には必ず奴がいたから、ダルシャンとしては呼ばれなくてせいせいしていたくらいだったが。
(いや、やはりおかしい)
それにしても、あまりにも自分には声がかからない、そうダルシャンはこっそり歯噛みする。
婚姻候補は一人二人ではない。十数人もいれば、個人的な茶会の順番が回ってくるまでに時間がかかってもおかしくはないが……あれが消えて以来、ムシュカから声がかかったのはこういった催し物の誘いだけではないか、と。
(……これは父上に相談をしておくべきか)
談笑で賑わう広間の隅、ダルシャンはムシュカの消えた扉を見つめる。
その手に握られたグラスは、少しだけ水面が波立っていた。
◇◇◇
違和感を告げられたカルニア公の第一声は「まさか、バレたのか」であった。
普段はこの国の政治の中枢を担う宰相としてふんぞり返っている彼がこれほど動揺するのは、我が父ながら情けないものだとダルシャンは眉を顰め、目の前であたふたする男を心の中で軽蔑する。
「いや、バレるわけがない! 『あの件』については内々で捜査を終了させろと指示をしておいたはずだ。犯人は捕まり宝物もほぼ全て元通り収蔵された、それで王宮は問題無いとな!」
「父上、雇った魔法使いからバレた可能性もあるのでは?」
「あやつにはたんまり口止め料を積んであるのだ、今頃は東国で悠々自適の生活だろうよ! それに、野盗達には自分を雇った人間の事を話せないようにやつが魔法をかけてある。大公家にまんまと出し抜かれたあの野盗が死んでいないなら、我々の名前は一言たりとも出ていないはずだ」
「……ですがこの扱いを見るに、恐らく殿下は何かしら勘づかれておられると考えるのが自然でしょう。そして……密かに我々宰相派を正室候補、いや婚姻候補からも外されている可能性が高いです」
「な……っ!!」
あの後、ダルシャンはもしやと思って他の宰相派の息がかかった若者達にさりげなく尋ねてみたのだ。
そして残念なことに、懸念は見事に当たっていた。親睦を深める会が事件後に再開して以来、ムシュカと二人きりでの茶会に呼ばれたものは、一人もいなかった――
その事実を告げれば、今度こそカルニア公は顔を白くして「……何と言うことだ」と呆然とした声で呟いた。
「それとなく探りを……入れてはこちらの立場が危うくなる。ダルシャンで籠絡しようにも、未だ夢のなかの奴隷上がりに現を抜かしている殿下が、疑いをかけている相手に振り向くことなどあり得ない……!」
「ではどうしますか、父上。…………踏みにじられた雪がお気に召さぬなら、新雪を求めるのも一つかと思いますが」
「っ!! 滅多なことを言うものでは無いぞ、ダルシャン!! それこそ我々を排除した証拠もないのに弟王子を担ぎ上げるなど、自殺行為も甚だしい! そもそもムシュカ殿下は有能で性格も良く、民からの人気も絶大だ。余程のことがなければ、追い落とせるわけがなかろう!」
真っ赤な顔でダン! とテーブルを叩くカルニア公に、ダルシャンは(耄碌したな)と冷ややかな目を向ける。
数百年にわたり政治の実権を握ってきた、いわば権力闘争のプロとも言える家に生まれながら、この男は少々思慮に欠けるらしい。
はぁ、と首を振りわざとらしくため息をついたダルシャンは、目の前で頭を抱える己が父から早々に権力を譲り受けようと密かに画策しつつ、一つの切り札を提示するのだった。
「……策はありますよ、父上。我々カルニア家がこれまで通り、王族の姻戚として権力を握る良い方法が。私にお任せ下されば父上にご満足頂ける、いえ、それ以上の結果を残して差し上げましょう」
「ただし……成功の暁には、私に宰相職を譲って頂くことが条件ですが、ね」
◇◇◇
一方その頃、夢の中では相変わらず新太がムシュカの振る舞う料理に舌鼓を打っていた。
「はぁ、この汁なしもつ煮込みも絶品……汁ありの煮込みより少し重いけど、それでもいくらでも食べられる味付けですね」
「そうであろう? ほら、お主がいたく気に入った緑と白のぷにぷにも用意してある。今日もたんと食って英気を養うがよい」
「はあぁ神様ホント……尊い、これぞ神……!!」
「ハハッ、褒めてもお替わりしか出ぬぞ?」
たらふく食べて、神様の太ももを堪能しながら「懺悔」をして。
この幸せな時間に語る言葉が、いつからか職場の愚痴ではなく成果報告になっていることにきっとこの愛し子は気付いていないのだろうなと、ムシュカは今日もちゃんと昼ご飯を食べたと律儀に報告する愛し子が、どうにも可愛くて仕方が無い。
その体躯は相変わらず布で覆われたままだが、往事の張りを取り戻している様に見えて……ああ、ようやくここまで元気を取り戻せたのかと胸がいっぱいになる。
そんな中、何気なく新太が口にした問いかけ。
これが彼の世界を大きく塗り替えることになるとは、このときはどちらも気付かなかったのだ。
「そういえば神様って、眠るんですか?」
「ん? ああ、お主と同じだぞ。夜になれば眠り、朝になれば起きる」
「そうなんだ……あのっ不躾な質問ですけど、神様って毎日どのくらい寝ているんですか?」
はて、どう言うことかと首を傾げながらも「……四刻といったところか」と答えれば、新太は目をぱちくりさせている。
「ええと、それは何時間……?」と妙なことを言っているから、恐らく互いの世界では時間の数え方が異なるのであろう。
しかし問われたからには答えてやらねばならぬ、とムシュカは頭を捻る。
「……そうだな。例えば昨日は、ここにいる間の半分はお主を待っておった」
「はんぶん……な、半分っ!?」
「その前も半分だったな。一番酷いときはお主がここにいたのは半分のそのまた半分であった」
「ひえぇ神様まさかの八時間睡眠!? いや推しをお待たせしている自覚はあったけど、まさかそんなに待ちぼうけを食らわせるだなんて、俺は何と罪深い事を……!!」
どうやらムシュカの意図を見抜いたのだろう、頭の中で睡眠時間を異世界の単位に換算した新太の顔には、まるで「痛恨の極み」と書いてあるようだ。
申し訳ありません! とぺこぺこ……したくても膝枕に埋もれていて出来ないのがちょっともどかしそうな新太の髪を撫で「しかしどうしたのだ、急に」と訊けば、新太はちょっとだけ頬を染めて「そ、そのっ」と少しつっかえながら話し始めた。
曰く、最近の新太は夢で食べられるご飯が楽しみすぎて、そして少しでも長く神様に会いたくて、何とか睡眠時間を増やそうと努力をしているらしい。
「推しとして、神様をお出迎えするのが本来の形ですから!」と鼻息荒く語る新太であったが、いくら夢と現実のご飯効果で仕事の能率が上がってきたとはいっても、やることは一向に減る気配がないわけで。
「何とか4時間……ええと、神様の半分の睡眠は確保しているんですけど、これ以上は……この仕事では限界かもなって思って。はあぁ、何とかしてもっと寝られるようにならないかなぁ……そうすれば今の倍は神様といられて、美味しいご飯もたくさん食べられるんですよね」
「うむ、一緒にいる時間は延びるだろうが、流石に食べる量は増えぬのでは……?」
「大丈夫です、別腹がありますから」
「そんな便利な別腹があってどうする」
いや、気持ちは実に嬉しいぞ? とムシュカは穏やかな笑みを湛え、頭をよしよしとなでてやる。
内心? そんなもの聞くまでも無いだろう。何故このまま自分を押し倒してくれないのか、もどかしさで叫び続けているに決まっている。
だがそんな様子はおくびにもださず、脳内が盛り上がった王太子はしかし何とかして睡眠時間を増やしたいと策を練る新太の様子を冷静に見つめ……ああ、これは背中を押さねばと即断した。
「そもそもヴィナよ、視点を変えてみればどうなのだ」
「えっと、視点……ですか?」
「うむ。お主さっき、今の仕事ではこれ以上寝られないと言っておったであろう? それなら話は簡単ではないか」
「え」
目をぱちくりする太ももの上の愛し子に、ムシュカは「愚直さもお主の愛すべき良さだがな」と笑いつつ、しかし背筋を整えて威厳たっぷりに宣託を授けるのであった。
「ヴィナよ、お主はまずその過酷な環境から離れようと努力するべきではないのか?」
◇◇◇
「へ…………?」
思いもかけない言葉に、いきおい新太の思考が停止する。
今、神様は……一体何を仰ったのだ? と、頭の中でリフレインする言葉を拾い集めること数十秒、ようやくその言葉の意味を理解した新太は「……そんなこと、考えたこともなかった……」とどこか呆然とした表情で思いを吐露した。
「そっか、転職……でも、自分のような人間を雇ってくれる所なんて……」
「何を言う、お主はそのような傷を負いながら、まともな睡眠も食事も得られぬ過酷な環境で、災いを相手に戦ってきたのであろう? しかも最近では、その実力も上がってきたと言っておったではないか。ならば、その腕を活かしてより安全な仕事を選ぶのは当然ではないか?」
「ええと、いや神様……うん、まぁ確かに過酷ではあるからそれでいっか……」
相変わらず微妙にかみ合わない会話に苦笑いを浮かべ、けれども神様の言うことも一理あると、新太は心の中で大きく頷く。
――冷静に考えれば、こんな辛い思いをしてずっとこの会社で働き続ける必要など、どこにもなかったのだ。
自分の仕事は、決して求人の少ない職種ではない。超絶ブラック企業とは言え業務経験も4年以上あるし、かつて自分をこの会社に誘った先輩のように逃げたって、何の問題もない。事実、その先輩が「飛んだ」罪によってコンクリに詰められたという話は聞かないのだから!
「転職する……俺が、あそこを、辞める……!」
途端開けた思考に、新太の胸がどくんと高鳴る。
そうして、今更ながら思い知るのだ。自分はあの環境の中で知らず知らず消耗し、人としてまともな感性と思考を失う程にまで追い詰められていたことを。
一度気づきを得れば、もう元の狭まった思考の渦には戻れない。こうなったら一刻でも早く退職届を出そう、幸いにも貯金はあるから転職活動をする間くらいは生きられると、希望を得た頭はフルスロットルで次の行動を策定する。
(ああ、その顔だ。戦いに赴く勇猛な騎士の顔……私の愛したお主の形を、ようやくお主は取り戻そうとしているのだな、ヴィナ)
ある意味では、記憶が戻っていなくて良かったかも知れない、そうムシュカは安堵しつつ愛しい人のかんばせをうっとりと見つめる。
その視線に、思考モードに入ったヴィナは気付かない。いや、気付かなくていい。この顔は――とても彼の敬愛する神様がつくっていい表情ではないのだから。
いかんいかん、と頭を振って暴走しそうな恋心を沈めたムシュカは、何とか気を逸らそうと「しかし、お主の世界には随分酷い雇い主がいるものなのだな」とずっと心に秘めていた小さな怒りを零す。
これほど有能且つ剛気な男を使い潰しても、それを罰する機構すらないとは、何とも救いのない世界ではないかと嘆きすら込めて。
「……罰する……?」
「当然であろう? 人は料理では無いのだ。その能力を、尊厳を、そして良心を貪り尽くすなど言語同断! 我が国ではすぐさましょっ引かれて鞭打ちの刑となるであろうに」
「あ、罰するとこなら……あるんじゃないかな。鞭打ちよりは優しいけど、一応……」
「あるのか!! ならばヴィナよ、どうして今まで黙ってそのような悪人に付き従っていたのだ!?」
「いやぁ、なんというか……どこか人ごとで、自分が労基署に駆け込むなんて思いつきすらしなかったから……」
SNSじゃ散々見ていたのになぁと、へらりと笑う新太の顔を見た瞬間、ムシュカの中で何かがぷちんと音を立てて切れる。
次の瞬間、ムシュカの手はがっと新太の頬を掴み、その美しいかんばせをグッと近づけて
「ヴィナよ、これは神からの命だ。次にここで会う時までに、その『ろうきしょ』とやらに雇い主をしょっ引いて貰え」
「ええと労基署は警察じゃないからしょっ引くのはちょっと、って待って次に会うまで!? それ明日って事ですよね! そんな急に仕事を休んだら周りに迷惑かけるし、なにより労基署になんて報告したら他の人たちに嫌がられるんじゃ」
「悪人を征伐するのは当然であろう!! 迷惑? 仕事に支障? そんな私のヴィナともあろう者が、一時の痛みを恐れて剣を引くなどあり得ぬであろう! ともかく、次にここで会った暁には、私に善き報告をもたらすのだ!!」
「ひょえぇぇ、神様無茶振りが過ぎるぅ!!」
……ちょっぴりこめかみに青筋を立てながら、笑顔で初めて神としての勅命を下したのである。
◇◇◇
「年の瀬のこの忙しいときに、突然の午前休とは随分度胸がありますねぇ、毘奈君」
「最近ちょっと仕事をこなせているからって、調子に乗ってないか? あの程度、誰でも出来て当たり前なんだよ!」
「お前のせいでまた進捗遅れたんですけど-。どうやって取り返すの? 向こうさん、カンカンだよ?」
朝一番に上長へ「すみません、急用で午前休を頂きます」と告げるや否やスマホの電源を落とした新太が昼過ぎに職場に足を踏み入れれば、待ってましたとばかりに社長の机の前に連れて行かれる。
幹部達で新太を取り囲み怒号を飛ばす異様な環境でも、同僚達はこちらを見ることもなくやつれきった顔でモニタに向かっていて、ああ、自分もあの枕カバーを手に入れ神様に出会わなければ今もあの中にいたのだと、つきりと胸が痛んだ。
「私も鬼ではありません、言い訳ぐらいは聞いてあげましょう。穴を開けた分の損害賠償は請求しますがね」
ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる社長は、きっと久々にインプレッションの稼げるネタが出来たと目算を立てているのだろう。
こんな形で承認欲求を満たす醜悪さに沸いてくるのは、怒りではなく、むしろ憐れみであることに新太はちょっとした驚きを覚えながら(いける)と心の中で確信した。
(大丈夫だ。俺はこんな奴らに、これ以上食い物にはされない……!)
新太は鞄から、茶色い封筒を取り出す。
行きつけのコンビニで手に入れた何の変哲も無い封筒には、新太の体躯にはあまりにも不釣り合いな丸っこい文字が三つ。
「……社長、俺」
震える手を振り上げ、ドン!! と音を立てて机に叩き付けられたのは
「…………俺、この会社辞めます」
A4のコピー用紙にボールペンで書かれた、新太の退職届であった。
◇◇◇
「……はぁ? 何を言っているんですか?」
突然の音と思いもしない宣言に、一瞬にしてオフィスの中は凍り付く。
その沈黙を破ったのは、目の前で鼻を鳴らす社長だった。
「辞められるわけがないでしょう? これまで散々うちに損害を与えておいて、今辞めたらあなたの担当していた仕事はどうなるんですか? 当然全て損害賠償を請求させて貰いますよ?」
社長は何の躊躇いもなく、封筒をその場で破り捨てる。
「ほら、さっさと机に戻って仕事にかかりなさい。迷惑料は給与からしっかり引かせて貰いますから」と背を向けた社長に、新太は再び少し震える声で「……いえ、俺は辞めます」と淀みなく繰り返した。
「ふざけんなよてめぇ、今まで社長がどれだけお前みたいな出来損ないを守りながら雇ってくれてたと思ってんだ!」
「お前みたいな奴、辞めたところでどこにも拾って貰えねえよ。この業界、広いようで狭いんだぜ? 悪い噂を立てられて路頭に迷いたくないだろう?」
怒号、罵声、善意に見せかけた悪意の集中砲火が、新太を襲う。
この男は図体こそデカいが、非常に気が弱い。こうやって脅して、追い詰めて、ちょっと優しい顔を見せてやればすぐに退職を撤回する――そんな想いが透けて見えるようだ。
(うう……怖い……けど、神様は言ってた)
散々飼い慣らされ隷属を教え込まれた心が反応して、悲鳴を上げる。
今すぐにでもその場に土下座して謝りたい、そんな恐怖と不安が新太を支配する。
だが、新太は引かない。引けるわけがない。
だってこれは、あの麗しい神様から与えられた勅命なのだ。
そして
『私のヴィナともあろう者が、一時の痛みを恐れて剣を引くなどあり得ぬであろう!』
あれほどの信頼と親愛を寄せて下さっている最推しの言葉を、俺は絶対に裏切らない――!
「っ……」
ぐっと拳を握りしめた新太はこちらを振り返った社長を睨み付ける。
その視線は初めて見る鋭さと獰猛さに溢れ、立派な体躯からは例えようのない威圧感が立ち上っていて……社長はおろか、彼を取り囲んでいた幹部達も思わず言葉に詰まる。
そのまま新太は社長を見据えたまま静かに、ゆっくりと口を開いた。
「……退職届は、内容証明郵便で別途郵送済みです。破いたところで無駄です、俺はここを辞めます」
「は……?」
「それと…………今朝、労基署に行ってきました。これまでの勤務状態のメモと、給与明細と……SNSの投稿を全部プリントアウトして、動画も保存して提出済みです」
「!!」
これも、と新太は胸ポケットからスマホを取り出す。
その画面は録音アプリのもの。今のやりとりが全て記録されたことを表す証拠に、さっと社長の顔が青くなった。
「何てことを……これまでの恩を忘れたのですか!」
ヒステリックに喚き散らす社長の言葉には、一切答えない。
ただ淡々と、まるで目の前の敵を確実に追い詰めるように、新太は言葉の刃を突きつけていく。
「労基署で教えて貰いました。退職に伴う損害賠償は、俺の勤務実績から見るにまず請求出来ない、判例上も例外的だと」
「っ……」
「有給はこの4年で利用したのは、今日の半日だけ。法律上、俺にはこれまでの繰り越し分と合わせて、29日半の有給が残っています。ですので、退職日は今日から29日後……何の問題もありませんよね」
「そ、そんな勝手が通ると思っているんですか!? 引き継ぎもなしで」
「退職日までは有休を消化します、一切出社はしません。私物は今日持ち帰りますので、必要書類は全て郵送で送って下さい」
「ちょ、話を」
「では」
一方的に全てをまくし立てた新太は、くるりと踵を返す。
後ろに立っていた幹部達をぎらりと睨み付ければ、彼らはヒッと小さな悲鳴を上げて新太のために道をあけた。
「……」
「…………」
(言った……言ってやったぞ……!!)
纏わり付くような視線を感じながらも、新太は無言で私物を纏めていく。
洗面用具に着替え、寝袋、マグカップに携帯用カトラリーセット、自前のキーボードとマウス……そして、机の中に残っていた大切なういろう10個。
大学時代に使っていた登山用のリュックに全てを詰め込み、よいしょっと背負ってのしのしと入口まで足を運んだ新太はやおら後ろを振り返る。
そうして突然の事態に色を失った社長たちと、この後に及んでも無言で画面に向かい続ける同僚であった人たちを一瞥し
(さよなら、食われるだけだった俺)
「……お世話になりました」
深々と一礼して、その場を後にしたのである。
後日、この会社には労基署の調査が入り、社長は書類送検される。
SNSのアカウントには謝罪文が掲載され、その数日後にはアカウントも閉鎖されたらしい。
その後の顛末までは分からない。ただ伝え聞いたところによると、新太に引き続いて退職した後輩は後にこう語っていたという。
「あの時の先輩の背中は、まるで歴戦の猛者のようだった」と――
◇◇◇
それからの新太の行動は、早かった。
夢で無事戦果を報告した(それはそれは神様は我がことのように喜んで下さった、推し冥利に尽きる!)次の日からは、早速ネットで転職情報を収集し始める。
何よりも優先すべきは三度の食事時間と八時間の睡眠時間と定め、希望が叶う職種を見つけてからはひたすら資格勉強の日々だ。
「また随分と分厚い書物だな。これを全部学ぶのか」
「はい、神様と過ごす時間を確保するならセキュリティエンジニアの方が良さそうだと思って……一応バックエンドやってた経験も活かせそうですしね」
「うむ、お主の話がまるで呪文のようだな!」
参考書を開いたまま寝落ちしたときは、夢の中にまで何冊もの本が付いてきていた。
寝落ちするときですら無意識に枕を用意している俺えらい、流石推しの力は凄いとちょっと感心しつつも、寝ながら勉強出来るのはありがたいとばかりに新太はムシュカの隣に腰掛け、一心不乱にページをめくる。
もちろん、勉強は神様の料理をたらふく食べてからである。
(仕事を辞めたと報告を受けてから、がらりと雰囲気が変わったな……まったく、惚れ直してしまうではないか)
勅命を果たして以降、新太の中では何かが覚醒したらしい。
本人にはあまり自覚が無いようだが、かつて「魔熊殺し」の二つ名を掲げ王宮に仕えていた頃の覇気が戻ってきた。お陰でムシュカは、毎夜勉強に励む真剣な眼差しを眺めては心のときめきを押さえるのに苦心している。
「……えっと、神様?」
「ふふ、頑張るお主は実に美しいな。流石は私のヴィナだ」
「ほえぇっ!? あわわ、そんな推し神様からなんという勿体ないお言葉を……!! ああ、もう俺ここで萌え死んでもいいや……」
「ぬ、勉強の邪魔をしたか? それはすまない、あまりにお主が光り輝いてみえたものだからつい、な」
「うああぁ輝いているのは神様の方ですぅ!! ああ、浄化の光で覚えた知識まで洗い流される……」
「待てヴィナ、そこは洗い流してはならぬだろう!!」
しかしその前髪はどうしたのだ? とムシュカは浮き足だった心を隠すように新太の額に手をやる。
これまで「ばりかん」とやらで自ら整えていた髪を専門の者に整えて貰うようになって、ますます魅力が上がったと思っていたのだが、今日の前髪はなんというか……ちょっと縮れていて焦げ臭い気がするのだ。
すい、と短い毛を指で弄べば、新太はとたん顔を真っ赤にして「いやその、恥ずかしいんですが……」と身体を小さくする。
「実は、思い切って自炊を始めまして」
「自炊……ほう! 自ら料理を作るのか! それは立派な心がけだな。時に、お主の作る料理はいつもの『こんびにめし』とやらよりも美味いのか?」
「うーん、正直コンビニのほうが美味しいかも……でも」
「でも?」
「何だかその方が、食べるのが楽しいんです。今日はフライパンから火柱が上がって、髪の毛が焦げちゃいましたけど」
「…………お主、あれほど業火と戦っていたときは平気だったのに、料理では炎に焼かれるのか……」
熱くはなかったのか? 怪我は? と心配そうに額を撫でるムシュカの手はすべすべで、推しからの突然の供給に新太は目眩を覚えながらも「だだ大丈夫ですっ!」と歯を見せて満面の笑みを浮かべる。
――照れながらもあの頃には決して見せなかった類の笑顔に、ムシュカが悩殺されていることにも気付かずに。
「はぁ……ほんっとうにお主はどこまで魅力を上げるつもりなのだ……」
「えと、神様?」
「いや何でも無い。ほれ、集中が切れたのならここらで茶でも飲まぬか? 今日は紅茶とスコーンを用意しておるぞ」
「ありがとうございます、オレンジのマーマレードたっぷりでお願いします!!」
◇◇◇
そんな甘やかで穏やかな日々が、一体どのくらい続いただろうか。
現実の世界では季節がそろそろひとつ巡ろうかというある日の夜、いつものように自分と同じタイミングで夢の中に現れた新太の姿に、ムシュカは目を丸くして立ちすくむ。
「お主……それは……」
「あ、凄い! ちゃんと指定すれば夢の中の衣装も替えられるんだ!!」
そこに立っていたのは、ビジネススーツをかっちりと着こなす新太であった。
かつて身も心もボロボロになっていた頃に来ていた物と同じとは思えないシワのないシャツと、瞳の色に合わせたダークグレーのジャケットにスラックス、どこか無機質に見える服に彩りを与えるネクタイ。
見事な筋肉を覆い隠してしまうのは少々勿体なく感じるが、愛し子曰くこれは彼の世界における戦装束なのだそうだ。
「神様、明日俺面談に……新しい仕事を決めに行ってきます。それで……その、神様の加護を頂ければ百人力かな、って」
堂々たる体躯をやっぱり自信なさげに丸めながら、新太はもじもじとムシュカを見下ろす。
そんな姿に、在りし日のヴィナの姿が重なって、つん、とムシュカの鼻に痛みを与えた。
――ああ、この痛みは久しぶりだが、あの時とは全く色合いが違う。
「ヴィナよ、今のお主には私の加護などもう必要ないであろう? 何と言ってもお主は私の愛し子、この神が唯一認めた男なのだからな。だが……うむ、望まれれば与えるのも神の努めか」
ちょっとしゃがんでくれるか? と請われるままに、新太はその場に跪く。
彼の目の前に立ったムシュカはすっと真剣な表情を浮かべ、少し緊張を含んだ期待の眼差しで見上げる新太の額に、そっと指を触れさせた。
「我が加護よ、この勇猛なる騎士の身を守り給え」
言葉と共に指で織りなすのは、武運の加護。
……かつて王太子として幾度もヴィナに授けた加護を、今再び愛しい人に与えられる喜びをぐっと噛みしめ、ムシュカは万感の思いを込めて新太に言葉を託すのだった。
「次に会う時を楽しみにしておるぞ、ヴィナ。お主は私の認めた男だ、必ずや善き知らせをもたらすに違いないからな!」