第5話 一縷の曙光
ムシュカが神様としてヴィナに在りし日を思い起こさせる加護を授けた日から、二月が経った。
結果として彼は、ようやく業火と戦わなくて良い環境を手に入れたらしい。
「大丈夫です、次の職場はブラックじゃないんで!」と心底嬉しそうに話していた姿から察するに、彼がずっと相手をしていた災いは想像を絶する過酷さを伴っていたようだ。
確かに黒い業火など我が世界では聞いたことが無いなと、今日もムシュカは寝台の上に身体を横たえ、とろりと肌に絡むブランケットと戯れる。
窓から差し込む月明かりが東雲の織物をぼんやりと浮かび上がらせる様は、いつ見ても幻想的で……一体どこからが夢だか分からなくなってしまいそうだ。
「ん……ふふっ…………」
寝返りをすれば、肌を滑る感覚にふっと柔らかな吐息が漏れる。
この織物は実に触り心地が良いのだが、存分に心地よさを堪能するまでに夢の中へと誘われてしまうのが玉に瑕だ。
――ほら、こうやって首筋に触れる滑らかさにほうとため息をついている間にも……意識はミルク色の霧の中へとあっさり沈んでいって。
「……今日はどちらが……先に辿り着くであろうな、ヴィナ」
薄甘い眠気が、逢瀬を心待ちにするムシュカの身体を包み込む。
意識が途切れる瞬間彼の顔に浮かんだのは、幸福に満ちた、けれど……一欠片の物足りなさを含んだ笑みだった。
◇◇◇
あれ以来、二人は夢の世界にいる時間のほぼ全てを共に過ごすようになった。
一人静かに待つ時間も嫌いではなかったが、やはり少しでも長く側にいられるのは格別だなと、いつものように見えない尻尾を全力で振っている新太を愛でながらムシュカはテーブルに手をかざす。
……さて、今日の好物は「彼」を呼び覚ましてくれるだろうかと、小さな祈りを込めて。
「神様は今日も輝いてますね……はぁ、眼福……」
「ふふ、お主も変わらず元気そうで何よりだぞ、ヴィナ。ところで眼福なのは、私よりも目の前のご飯ではないのか?」
「そ、そんなことはっ!! ……いやぁ相変わらず美味しそうだなぁ……おっと涎が」
「全く、説得力の欠片もないではないか」
テーブルに広げられた料理を目にするなり、新太の瞳は「ごちそうばんざい!」と叫ぶ声が聞こえそうなほどキラキラと輝き始めた。
……いや、相変わらずこれはギラギラと言う方が正しいか。
ただ、最初の頃のような切羽詰まった空気は今は微塵も感じられない。新太の肌艶は健康そのもので、何より現実の世界でも純粋に食べることを楽しんでいるのが伝わってきて……ようやくあの頃のヴィナに戻れたのだなと、ムシュカの感慨もひとしおである。
「しかしお主、今は夢の外でもたらふく食べているのであろう?」
「はい! 昼休みも1時間きっちりありますし、社食でお腹いっぱい食べてますよ! いやぁ、3食ちゃんと時間を取って食べられるって素晴らしい……あ、でも夢の中は別腹ですから!!」
「確かに……音も消えぬしな」
「あはは、それは突っ込まない方向でお願いしたいなと……」
新太がこの空間に現れた途端に鳴り響く轟音――腹の音は相変わらずだ。
地響きまではしなくなったから、確かに現実の世界で食欲は随分満たされているのだろう。だが、それでも催促するように鳴り続ける音に、ムシュカはいつしか安心感を覚えるようになってきていた。
――ああ、例え現実で腹が満たされていても、きっとこの音が鳴り止まない限りはヴィナと会えるのだろうと。
(…………?)
ほっとした自分に少しだけ引っかかりを覚えながらも、ヴィナは「ほら、たんと食え」と今日の料理を差し出す。
皿に盛られたのは大量の串焼き肉だ。
「おー焼き鳥……と、牛串? 不思議な香りがするけど……」
待ってましたと言わんばかりに新太の手が串をつまみ、くんくんと鼻を鳴らす。
鼻腔を満たす香りはほんのり甘く、そして異国情緒溢れるスパイスで彩られている。どこかカレーに似た、けれどももっと鮮烈で透明な香りをどうやら胃はお気に召したらしい、空間に響き渡る音がひときわ大きくなった。
「カレー串焼き肉って感じかな……神様、これは?」
「ああ、それがソースだな。肉にたっぷり絡めると美味い」
手前の小ぶりな器には、赤みを帯びたソースが用意されていた。
ねっとりしたソースはこれまたスパイスがふんだんに使われ、更につぶつぶした具がたくさん入っている。
(……ちょっと辛そうかな)
今まで神様が振る舞ってくれた料理とは一変して、明らかに胃を試されそうな内容だ。
だが、以前もつ煮込みを見たときのような拒否感は生じない。むしろ食欲をそそられる香りに新太は自分の回復を感じつつ、大口を開けて肉にかぶりついた。
「んっ!? え、甘っ! いや辛っ!?」
口の中で弾けたのは、食べ慣れた醤油の甘辛さとは質が異なる、未知の世界だ。
南国を思わせるココナッツの甘味の後ろから、スパイスの辛さがどっと押し寄せてくる。けれど辛さの奥には不思議なうまみが潜んでいて、口の中が焼ける前に優しい甘さとソースの……これはピーナッツだろうか、香ばしさが舌に絡みついた。
「うっわ、辛い! でも甘くて美味しい……凄い、脳がバグる美味しさだ……」
もう一本、もう一本と新太の手が止まらない。
どうやら相当ソースがお気に召したのだろう、たっぷりと絡めては「うひゃぁ!」と辛さに悲鳴を上げ、水を飲みながら汗びっしょりで串を丸裸にしていった。
「この辛さは人生初めてですよ、神様!! 俺、辛いものはあまり得意じゃないのに……はぁっ、んまっ……これはいくらでも食べられちゃいますね……!」
「……そうか、それなら良かった。辛いのが苦手ならジュースはどうだ? 絞りたての果汁だぞ」
「あ、頂きます!!」
箸休めとして共に盛られた果実や餅米を囓りながら「やっぱり神様のご飯は、何だって美味しい」と喜ぶ新太の姿をいつもと変わらぬ微笑みを浮かべて眺めながら、しかしムシュカは小さな落胆を感じていた。
それは、王太子としては我が儘が過ぎるのかも知れない。けれど……自分だってたまには人として報われることを許されたいと、どこかで小さな自分が囁いているようだ。
(――辛い、か)
脳裏に浮かぶのは、あの最後の晩餐となった屋台で激辛米麺を幸せそうに啜っていた、愛しい人の姿。
ヴィナはその勇猛さのみならず食いしん坊でも名を轟かせていて、好き嫌いという概念自体辞書には存在しなかったが、中でも殊更激辛料理を好む人であった。
あの頃の彼は事あるごとに「ただ辛いだけではない、美味さを引き立てる辛さこそが至高なのです!」と何度も熱弁していた――
皿から漂う香りは、ムシュカにそんな思い出と、どうしようもない切なさを運んでくる。
そう、この程度の辛さで騒ぐほど、彼は辛みに対して初心ではなかったのだ――
(記憶が戻れば、辛いのも得意になるのか? ……いやむしろ、ここはショック療法をやってみるのもありか……)
確かにかつて愛した人は目の前にいるのに、何故か少しだけ手が届かなくて。
いや、まだ焦るときではないとムシュカは己に言い聞かせながら、新太に絞りたての果汁を提供するのである。
◇◇◇
新太の肌艶と現実世界での話から彼が完全に復調したと判断して以来、ムシュカは饗する料理の内容をがらりと変化させた。
つまり――養生を念頭に置いた食事から、ヴィナの好みの料理へ。その食いしん坊な魂の底に眠る記憶を揺さぶるような思い出の味を、彼は毎夜小さな期待と共に愛しい人の前にそっと差し出している。
もちろん、いくらかつての好物を食べたとは言え、そう易々と記憶が戻るとは思っていない。
だが毎夜の逢瀬で地道に味わい続ければ、きっといつかはあの頃のヴィナが戻ってくる――
何の根拠もない仮説を信じて、ムシュカはただひたすら愛しい人に食事を振る舞い、共に語り、笑い続ける。
けれど、いくら頭では分かっていたって……焦りはいつだって根底にそっと漂い続けているのだ。
(逢いたい)
今日も新太は満足そうに「はぁ、幸せ……」とため息をつき、ぽこんと膨れたお腹をさすりながらうっとりした瞳で自分を見上げている。
あれほど望んだスキンシップだって……いやまぁ、相変わらず膝枕が限度ではあるけど、いそいそとやってくるようになった。
それは実に嬉しい。彼の笑顔はあの頃と同じでムシュカの心に温かな灯りを灯し、真剣な顔つきはその背筋にゾクッとするような痺れをもたらしてくれるから。
なのに
(ヴィナに、逢いたい)
心はずっと、叫んでいる。
こんなに毎夜、四刻もの長きにわたり共に過ごしているというのに、かすかな、けれど切ない慟哭が止む気配は見当たらなくて。
(もしかしたら、私はどこかで不安を感じているのだろうか。例えば……元気になったヴィナがもうここに来なくなるのではないか、とか)
――本当の気持ちから目を背けたままでの理由探しは、ただ深みにはまるだけで。
結局自分に出来ることは「ヴィナ」の記憶が戻ることを願いながら、料理を用意することだけなのだろうと、ムシュカはその日を夢見ながら次の献立に思いを巡らせるのである。
一方
「……私は、何を望んでいるのだろうな」
無意識であったのだろう、ぽつりと漏れた言葉が耳に届き、神様の太ももでうたた寝をしていた新太はそっと薄目を開ける。
ぼんやりした視界に映る神様は、ここ最近……極稀にだけど、どこか寂しそうな顔を浮かべることがあって、実はちょっとだけ気にかかっているのだ。
(まぁ、神様だって心配事の一つや二つはあるのかもな……)
新太は知っている。
神様は自分が元気で美味しそうにご飯を食べる姿を、殊更に喜ぶことを。
推しに料理を振る舞われて、しかもそれを尊び堪能するだけで彼はあの麗しい顔に笑みを浮かべてくれるのだ。推す側としては最高どころか、むしろこの程度の推し方でいいのかちょっと心配になるレベルである。
だから
(……うん、俺がいっぱい食べれば、そして幸せになれば、きっと神様の心配も減るに違いない!)
新太はそっと、更なる食いしん坊に磨きをかけることを誓い――彼らの思いは通じ合っていながら、どこかすれ違いを重ねていく。
◇◇◇
「今日もお疲れ様でした!」
「乾杯!!」
雰囲気のある照明がぼんやりと当たりを照らす中、チン、とガラスの音を立てたのは仕事帰りのサラリーマン一行だ。
陽も落ちていないのに酒が飲めるだなんて……いやそもそも飲み会なんて一体いつ振りだろうかと、新太は密かに胸をじんと震わせながら一気にビールを飲み干す。
充実した仕事の後の炭酸とほのかな苦みは、それだけで今日という穏やかな日を労ってくれているかのようだ。
「毘奈さん、業務には大分慣れました?」
「あ、はい。皆さんとても親切で……誰かが教えてくれるって、素晴らしい文化だなって」
「そ、そこから!?」
「あー……毘奈さんの前職って、この間報道されてた企業ですよね? ……あの、もしかしなくてもかなりヤバい現場だったんですか?」
「いやぁ、正直何がヤバくないかを探す方が難しいですね! 少なくともお昼休憩が1時間もあったり、明るいうちに職場を出たことは一度も……あ、夜明けならありますけど」
「う、うん。毘奈君いっぱい食べてね。今日はいくら頼んでもいいからさ!」
「転職してから、筋肉も一回り大きくなったんです!」と突き出しを頬張りながら力こぶを作る新太に、同僚達は「むしろその環境で、良く筋肉を維持出来てましたね……」と同情の視線を向けながら、新太の方にそっと料理の載った大皿を寄せる。
そんな小さな気遣いに(同じエンジニアとは思えない人たちだ……)とこれまた口にすれば皆から憐れまれそうな感想を抱きつつ、新太は山盛りの唐揚げに箸を伸ばした。
新太が転職した先は、中堅IT企業の社内セキュリティエンジニアポジションだった。
あの過酷な環境で何とか生き延びて身に付けたスキルと、退職後夢の中でも勉強し続けたことで無事取得出来た資格をひっさげ、顔を四角くして面談に望んだ新太を一発で採用してくれた人事部長は
「いやスキルセットも十分だし、真面目な好青年だし、何よりエンジニアらしからぬ体格が頼もしそうだったから!」
と、まさかの筋肉採用だったことを後に明かしている。
郊外のオフィスは、自宅から電車で3駅。通勤時間も大幅に短縮され残業も月に20時間以内、それでいて年収は1.5倍とまさに絵に描いたような転職を遂げた新太は、早速その食べっぷりの良さを見初められ、前職が前職だったのもあってか何かと理由をつけてはこうやって飲み会に連れて行かれるのである。
「あ、これ……美味しい」
「ふふ、毘奈君エスニック料理は未体験って言ってただろう? ここは珍しい料理が出てくるのに、何食べてもハズレがないんだよ」
「へぇ、確かにこっちの唐揚げも、チャーハン? もいけますね! ちょっとピリ辛で」
得意気に語る上司に相槌を打ちつつ、新太が手を伸ばしたのは目玉焼きの載ったチャーハンだ。
口に含むと香る魚醤とパクチーの香り、そしてピリッと舌を刺激する唐辛子が混ざって、炒め物なのに不思議としつこさを感じさせない。
半熟の目玉焼きを崩して一緒に食べれば、これまた優しい味変に心がほっと満たされていく……
(神様の料理に、似てるかも)
もしかしたら夢の中の推しは、このような料理を出す異国を起源とした神様なのかも知れない。思い返せばあの衣装も、どこか南国を思わせる煌びやかさだったものなとどこか納得しつつ、新太は豪快に米を口に運んでいく。
そこにかつての無機質さや、寂しさはない。心に余裕を持つ人たちとの食事は、どこまでも温かくて楽しくて、料理の味まで引き上げてくれるようだ。
(……でも)
美味しくて、幸せで。
なのに自分は、いつからこんなに欲深くなってしまったのだろう。
数ヶ月前には想像すら出来なかった境遇を手に入れてなお、新太の心に去来するのは――
「部長、今日のご飯も美味しかったです!」
「そうかいそうかい、僕も毘奈君の食べっぷりを堪能させて貰ったよ! いや、歳が行くと自分じゃそんなにたくさん食べられないからねぇ」
「もうー、部長! 毘奈さんの餌付けに嵌まりすぎ!」
笑顔で解散して、ほろ酔いで帰宅して、新太はしんとしたリビングの灯りを付ける。
光が満ちた途端その目に飛び込んでくるのは……この世で一番美しい夜明けを模した色。そして脳裏に浮かぶのは、夜よりも深い髪と夏の太陽のように輝く瞳を兼ね備えた、自分だけの推し神様。
「……なーんか物足りないんだよなぁ、神様のご飯じゃないと」
ネクタイを外す新太の口から、ぽろりと本音が溢れる。
どんな美食も夢の中で味わう料理みたく、まるで魂が震えるような歓喜と恍惚は与えてくれない。
……いいや、それは味のせいなんかじゃない。
きっと神様が差し出してくれて、隣にいてくれるだけで、今の自分はコンビニの冷たいおかかにぎりすら至福と感じると断言出来るから。
「推しって……恋なのかな……二次元に恋? ああでも、神様は二次元じゃないんだよなぁ……夢にしかいないけどさ……」
熱いシャワーで温かな時間を洗い流し、歯を磨いて穏やかな味を消し去る。
全ては神様の料理を存分に堪能し、あの麗しい笑顔を見るために……そんな信仰めいた思いは、熱狂的な推しなのか、はたまた――
「まぁ、どっちでもいっか! 俺が神様最推し生涯ラブなのは変わらないものな!」
筋肉で出来た脳みそに複雑な思考は無理だと、新太は頬を緩めながらベッドへとダイブする。
大柄な新太を受け止めたベッドは、実に不機嫌そうな音を立てるようになった。次の給料が入ったらもう少し丈夫で大きめのベッドを買おうと、新太は枕に顔を埋めながら決意する。
――このホームセンターで適当に買った枕も、枕カバーにふさわしい品に変えたいなと思いながら。
「ふふ……今日も神様の美味しいご飯が食べられますように……そして……」
今日も、明日も、愛しい神様が笑っていてくれますように――
それは魂に刻まれた想いか、それとも新たに芽吹いた感情か。
すぐさま寝息を立て始める神様の愛し子が秘めた、どこまでも一途な想いの源を知るのは、この不思議な寝具ばかりである。
◇◇◇
「無理を言って申し訳ありませんな、殿下。どうしても急ぎ耳に入れて頂かねばならぬ事態でして」
「とんでもない。元々先生に依頼をしたのはこちらなのです、どうかお気遣いなく」
国中に咲き乱れる花がその鮮やかな花びらを風に舞わせ始めた頃、応接間を訪れたパニニ老師の様子を一目見たムシュカに緊張が走る。
それほどかの賢人が纏う空気は切羽詰まっていて……間違いなく悪い知らせであろうと内心覚悟を決めつつ、ムシュカは茶をそっと口に含んだ。
今日の茶は東国のものだろう、淡い緑色とほのかな渋みが幾分彼の心を冷静にしてくれる。
「先般依頼を受けた寝具の、呪いを解く条件が分かりましてな」
「……かなり困難な条件なのですか」
「うむ、容易と言えば容易、だが困難と言えば困難……とでも言えばよろしいですかのう……ただ、解呪自体は実にシンプルなのです」
国中にある文献をかき集め、更には東国にまで赴き情報を探し集めたパニニが辿り着いた結論は、誤解を恐れず言うなら拍子抜けと言う言葉が最も適切だろう。
何せ過去に東国で同様の呪いを帯びた寝具は、己が見初めた者の願いが完全に成就し、更に新たな願いを叶えるにふさわしい者を見つけてしまえば、あっさりと離れていったというのだから。
この国においては、寝具に見初められた者の命が尽きるまで何をしてもその者から離すことが出来なかった、だからこそ呪いの寝具としてますます恐れられていた旨の記述が残っている。
まさに東国の例と一致しますなと、パニニは茶菓子を口に放り込み「東国の菓子はちと甘味が足りませぬのう」と少し不満げにぼやいた。
どうやらご老輩には、もっと分かりやすい甘さの方が喜ばれるようだ。ムシュカは頭の中のメモに記録しつつ「なるほど……であれば、それほど問題にはならないかもしれません」とすこし安堵した笑顔を見せる。
「少なくとも私の願いは叶っております。ならば、後はこの織物が新たな主人を見つければ呪いは解ける。万が一見つからずとも、私が夢の中に閉じ込められる危険はないでしょう。ご心配をおかけしました、先生」
「いやいや、むしろ解呪条件はそれほど問題ではありません。もっと……きな臭い動きがありましてな、今日伺ったのはそちらの報告が主ですから」
追加で出された甘いクッキーに舌鼓を打ちながら、パニニは本題に移ろうとする。
だが……いつもと変わらぬ笑顔でこちらを見つめるムシュカの表情に、どこか違和感を感じて。
(……気のせいであれば良いのだが)
念のために確認した方が良いかも知れない、そう感じたのは人生経験の成せる業か。
パニニは「ときに」と何気なくムシュカに尋ね
「殿下はこの織物に、何を望まれましたのかな? 差し支えなければ詳しく聞かせて頂きたいと」
「ええ、まあ先生がお察しの通りだとは思うのですが」
少し頬を染め、照れくさそうに笑いながら返された返答に
「どんな形であってもいいからヴィナと逢いたい、あの笑顔にもう一度触れて、言葉を交わして……共に食卓を囲みたいと願ったのです」
「!! …………殿下、それは…………それは、最悪の事態ではないですか!」
――己の胸騒ぎが間違いでなかったことを、絶望と共に確信するのである。
◇◇◇
「あ、あのっ、先生? 何か問題が……」
「問題どころではありませぬ……! いえ、今更殿下をお諫めしたところでどうにもならぬのは分かっておるのですが……ああ、あの野盗はなんというものを世に放ってしまったのだ!」
小柄な躯体から信じられない程の嘆きを上げて、パニニは天を仰ぐ。
その顔は蝋のように白く血の気を失い、ただ事ではない気配を察したムシュカは慌てて扉の向こうを確認した。
……人払いは老師の来訪段階でしておいた。盗み聞きをしている不届き者も見当たらなさそうだ。
ほっと胸をなで下ろしたムシュカは急須を手に取り、無言のままパニニの湯飲みに温かい茶を注ぐ。
――繊細な香気で心を落ち着けるには少々事は大きすぎるようだが、何も無いよりはましだろう。
「先生……お聞かせ願えますか。最悪の事態とは一体……私は、何かを間違えたのでしょうか?」
「…………酷な話になりますぞ」
少しトーンの低い声に、ゴクリとムシュカの喉が鳴る。
ふぅ、と大息をついたパニニは「願い方がまずかったのです」と静かに口を開いた。
「殿下のお気持ちは、このパニニも良く分かりまする。最愛の者を失った失意の最中、夢で願いを叶える織物などを手に入れれば、怪しかろうと手を出してしまうのは自然な道理、罪と責められるものではありますまい。ですが……殿下は『逢いたい』と願ってしまったのです。既にこの世を去った人の夢を見たい、ではなく、決して逢えない、逢えてはいけない人との再会を!」
「……しかし、実際私はヴィナと今でも毎夜夢で逢っております。確かに異なる世界に生まれ変わっていますから、少々あの頃とは異なる点もありますが」
「そう、そこなのです。殿下が毎夜夢で出会うその青年は、ヴィナ副団長そのものではない」
「そのものでは、ない……?」
「彼は例え魂が同じであれど、あくまでも既に世界を渡り……もしかすれば時すら渡り、新たなる肉体と心を得てどこかの空の下に生きる……残念ですが、いわば別人なのです」
「…………!!」
カチャン、と陶器の触れる音が、遠くで聞こえる。
(…………今、先生は……何と…………?)
――別人。
その言葉が耳に流し込まれ、脳で理解を得た瞬間、ムシュカの世界が……色を失った。
「…………そん、な……」
ムシュカの震える手を見留め、パニニはぐっと唇を噛みしめる。
そこに浮かぶのは、この若く才気溢れる青年をお守り出来なかった悔しさと、これより先、非情な現実と向き合わなければならない彼への憐憫だ。
せめてこの織物を使う前に自分に一言相談して下されば――パニニの心はそんな意味のない後悔に襲われる。
けれども若き王太子を諫めるのも己の務めと、老師はぐっとムシュカを見据えた。
「どれだけ殿下が願っても、この願いが叶うことはありません。織物は『どんな形でも良い』という殿下の切なる祈りを叶えようと、よりによって異世界に転生した魂を引っ張ってきた――けれど一度肉の器を失い新たな世界に旅立った以上、それはもう『形が違えどヴィナである』とは言えない。……形も異なる、ただ魂だけがあの頃の記憶を持つ、誰かなのです」
「ですがっ! 私は確かに彼に逢っているんです、先生!! あの頃と変わらない体躯と笑顔を持ちどこまでも食いしん坊なヴィナと……! 先生の言い草では、まるで彼は赤の他人のようではありませんか!」
「…………殿下。お辛いでしょうが今一度、己の心を振り返って見なされ。……殿下が毎夜夢を共にしていた青年を、本当にあなた様は『在りし日の愛しい人』と躊躇わず断言出来ますかな?」
「っ……!!」
(信じたくない)
どうかそこには触れてくれるなと、傷を拡げられた心が肉の器に叫びを響かせる。
全てを否定するには、かすかに感じ続けていた違和感が、そして静かな意識の海から時折泡が弾けるように浮かび上がる言葉が障害となって。
『逢いたい』
けれども尊敬する師の言葉を受け入れるには……ムシュカの愛はどこまでも深く、そして孤独は果てしなく、絶望は今も――そう、あの喪失の日から変わらぬまま、現実に横たわったままだったのである。
(認めたく、ない……けれど…………ああ、ヴィナ……私はどうすれば……!!)
言葉もなく光を失った瞳から涙をはらはらと零すムシュカに、パニニはとどめとばかりに残酷な事実を告げるのであった。
「故に殿下。殿下の心からの望みが……織物への祈りが変わる奇跡でもない限り、殿下は生涯この寝具に捕らわれ……呪われた王太子のままなのです」
◇◇◇
「……すみませんでした、先生。取り乱してしまって……」
「いや……殿下、お一人になられたらちゃんと泣きなされよ。そうで無ければ、あなた様はまたあの頃の……ヴィナ副団長を失った暗闇の中に戻られてしまう」
「…………お気遣い、感謝します」
それからどのくらいの時間が経っただろうか。
既に外はとっぷりと日が暮れて、蝋燭の明かりだけが煌々と応接間を照らしている。
外から吹く風は少しだけ湿り気を帯びていて……ああ、今日は珍しく夜にスコールが来るらしい。
パニニもその気配に気付いたのだろう「急がないと帰れなくなりそうですな」と席を立ち上がる。
「本題の方はまた、出直した方がよろしいですな。まずは殿下のお心が整ってから」
「……いえ、訊かせて下さい先生。多分……整うなんて、いつになるか分かりませんから……」
「…………それもそうですな」
帰り支度をしながら、パニニは「我が息子のことはご存じですな?」と目を真っ赤に泣きはらし憔悴した様子のムシュカに尋ねる。
「ええ、弟サリムの教育係をされている……若パニニ師ですよね」とムシュカが意図をつかめず首を傾げれば、老師は声を潜め彼の耳元で囁いた。
「……先日、息子のところに調査依頼が来たのです。依頼内容は、王太子が愛用する寝具の詳細について。そして……依頼主はカルニア公の御曹司、ダルシャン殿」
「!!」
「親馬鹿かも知れませんが、我が息子は実に優秀な学者です。それに宰相派は件の事件で捉えた野盗の身柄を預かっている――真実に辿り着くのは時間の問題でしょう」
「つまり、呪いのことも、解呪条件もいずれ知るだろうと」
「……幸いにも織物にかけた願いを知るのは、私だけです。そして私は殿下の秘密を決して漏らしはしない……ですが、身辺には十分お気を付けなされ」
宰相家は代々、深謀遠慮に長けた者が家を大きくしてきた過去がある。
今回の一件も彼らにかかれば、権力闘争の道具として使われるであろう、その時王太子であるムシュカに火の粉が飛んでこない保障はない――
「何かあれば、いつでも馳せ参じますからな」と念押しして部屋を去るパニニを見送り、ムシュカは窓の外を眺める。
分厚い雲に覆われた外はいつにも増して不気味な黒さを醸しだし、ひやりとした風は雨の到来を告げていて……
「……いや、もう遅いであろうな」
静かに呟くムシュカの言葉をどこか肯定するように、やがて激しい雨音を響かせるのであった。
◇◇◇
初めはただの権力欲と、醜い嫉妬だった……その事を否定はしない。
だが今、謀略の原動力となりこの身を突き動かしているのは、そのような取るに足らない煩悩と感情論などではない。
そう、全ては、この国の繁栄と安寧のために――
「急な来訪を受け入れて下さり感謝します、ラグナス大公令嬢、レナ殿」
「……そのような堅苦しい言い回しはよした方が良くてよ? 余計に胡散臭さが増しますわ、ダルシャン」
「…………はぁ、仮にも敵陣に、それも本拠地に乗り込むのにいつもの軽口など叩けるわけがないでしょうが」
昼間の熱気もようやく落ち着いた夜更け、レナは珍しい客を応接室で出迎える。
「西国からの輸入品ですよ」と手渡されたオレンジ風味のショートブレッドに「……あなた、本当にお茶請けのセンスだけはよろしいですわよね」とレナはため息をつきつつ、侍従にコーヒーを用意させた。
淡泊な味わいの中に柑橘の香りがアクセントを添える軽食なら紅茶も捨てがたいが、夕餉の後の一杯はやはり練乳と砂糖をたっぷり効かせたコーヒーに限る。
「それで、何を企んでいるのかしら?」
「はぁ、全くレナ嬢は私のことを何一つ信頼していないらしい」
「当然ですわね。……まさかわたくしが何も知らないとでも思って? ムシュカを泣かせた男を、ショートブレッド如きですんなりと許せるはずがありませんわ」
言葉の端々に棘を混ぜながらこちらを警戒する言葉とは裏腹に、レナの手はすっとダルシャンの持参した茶菓子に伸びている。
良くこんなパサついた茶菓子を好むものだと内心呆れながらも、ダルシャンは「何も知らないのはあなたの方ですよ、レナ嬢」と口火を切った。
「そう、あなたはまだ何も知らない。今、殿下の身に何が起きているのかも……それが国家を揺るがしかねない大事件であることも」
「…………どう言うことかしら」
下らない話なら、そのお綺麗な顔にたっぷりコーヒーを浴びせてあげますわよ? とこめかみに青筋を立てて笑みを浮かべるレナに「おお怖い怖い」と肩をすくめおどけた様子を見せながら、しかしダルシャンの瞳は笑っていない。
これは確かにいつもの軽口で終わる話ではない――明らかに異質な雰囲気を感じ取ったレナの顔から、すっと笑みが消えた。
(こんな夜更けに、しかも政敵の家に堂々と乗り込んで密談……流石にただ事では無さそうですわね)
「いいですわ、話くらいは聞いて差し上げましょう」
「それが賢明でしょうね。……さて、どこから話すべきか」
「あまりまどろっこしい話は好きではないのよ、誰かさんと違ってね」
「……これは失礼。では、結論から」
すぅとダルシャンは目を細める。
そうして真っ直ぐレナを見据えたまま……昼間には決して出来ない世迷い言を口にしたのである。
「……レナ嬢。私と共に殿下を……いえ、呪いに取り込まれたムシュカを廃嫡させましょう」
◇◇◇
「な、にを……」
一瞬の冷たい静寂を切り裂いたのは、レナの怒号であった。
「っ、ふざけないで!! あなた、今自分が何を言っているのか分かっておりますの!?」
「当然です。私はいたって正気ですよ? 今日のコーヒーはあなたの好みに合わせたのか、練乳が随分多めだと分かるくらいにはね」
「なら余計に言葉を慎みなさい! 私的な場とは言え、反逆者を気取るならわたくしもそれなりの対応を取らせて頂きますわよ!!」
ガタン! と椅子の倒れる音が、静かな応接室に響く。
息を荒げ興奮にほんのり頬を染めたレナの気迫にも怖じ気づくことなく、罵声に顔を顰めたダルシャンは「だからどこから話すべきかと思案したのですよ」ともったいぶって首を振った。
こんな状況でもどこか優雅さを感じさせる所作は、余計にレナを苛立たせる。
いっそカップでも投げつけてやろうかと思わずレナの手がのびるものの、その先はダルシャンの思いがけない言葉で制された。
「……あのブランケットは、ただの安眠道具ではないのですよ」
「ブランケット……? ムシュカが使っている、封印庫にあったまじないの寝具の事かしら?」
「ええ、実はあれに関して少々気にかかることがありまして、独自に調査を行ったのです。……なにせ火にくべても燃えない、ハサミを入れても切れない布だなんて、少なくとも私は見たことも聞いたこともありませんから」
「…………あなた、本当に碌でもない事ばかりしてますわね……そんなだから、ムシュカに袖にされるのですわよ?」
おおかた夢で出会えるかつての恋人から心を離さないムシュカに焦れての行動だろうと、レナは大きなため息をつきつつも先を促す。
こんな状況で嘘をつくほど、ダルシャンは軽率な男ではない。まして政敵である自分に謀反の共謀を提案するくらいだ、その調査とやらの信憑性は高いのだろう。
――それに、いつまで経ってもその心が現実には向いてくれないムシュカの笑顔を思い起こし、彼女の胸がちりりと焼け付いたのも事実だから。
「最初は捕らえた野盗に話を聞いたのです。彼らはこの国の民ですが、首謀者は東国の魔法使い……ならば、盗品について何かしら話を聞いているのではないかと思いまして」
あのメイドを使った謀略が失敗した後、ダルシャンは密かに織物についての調査を進めていた。
国が管理する古文書を調べるにしても、封印庫に関する記録に触れるにはそれなりの権限を必要とする。噂に聞くにはあの寝具は東国のものらしいから、もしかしたらあの事件に関わった連中に聞く方が早いかもしれないと考え、改めて尋問を行わせたのである。
果たして、ダルシャンの読みは見事に当たっていた。
首謀者は野盗達に盗品の売買については特段の指示をせず、その利益も野盗達で山分けして良いとは言ったものの、この寝具に関しては決して自分では使うな、なるべく早く売りさばけと助言を受けていたらしい。
『東国にかつて存在した民族のまじないは、異民族には呪いになる。同じ東国の民であっても、夢に閉じ込められるものが後を絶たなかったからな』
彼の言葉に従い、野盗は早々に寝具を手放す。
結果としてその寝具を仕入れた露天商から足が付いて逮捕へと繋がったのは、どうにも皮肉な話である。
「夢に、閉じ込められる……」
「私も俄には信じられませんでしたがね。その後依頼した学者の調べによれば、確かにこの国の古い記憶にも、そして東国にも同様の事例が散見していたのですよ。――かつて戦利品としてこの国に渡ってきたあの寝具は、功を立てた貴族が所有していたそうです。ですが、寝具を使用した者が次々と倒れ、そのまま一度も目を覚まさずに命を落とす事件が続き……国は呪いの寝具として当然処分を試みたもののそれもかなわず、致し方なく封印庫で厳重に保管することとなった、と」
「ですが、ムシュカは閉じ込められてはいませんわよ。あれから毎日使っているにも関わらず、ちゃんと毎朝すっきり目覚めておられますわ。であれば、彼に呪いはかかっていないのではなくて?」
「正確には、呪いが不完全にかかっているというのが正しいですね。実際あのブランケットは殿下の傍から離すことが不可能なのは証明済みですし……そもそも呪いの内容はただ夢に閉じ込めることではない、寝具が見初めた相手の願いを夢で叶えるというものですから」
「!!」
(願い……まさか)
瞬間、嫌な予感と共にレナの脳裏に浮かんだのは、彼が寝具に願ったであろう、在りし日のヴィナの姿。
ダルシャンも恐らく同じ結論に辿り着いていたようで、少しぬるくなったコーヒーに口を付けながら「……叶わぬ願いをかけたと思われる以上、呪いを解く方法もないのですよ」とどこか残念そうに呟く。
「……呪いが解けない?」
「ええ。持ち主の願いが叶い、更に新しい持ち主を寝具が見つけること。この二つの条件が満たされない限り、殿下は死ぬまであの織物の呪縛に……幻の幸せに捕らわれたままです。正確な願いは分かりませんが、あの奴隷上がりに再会することを望んだのは間違いないでしょうから」
「あ…………」
「…………死んだ人間を蘇らせる方法は無い、そういうことです」
一気に説明を終えたダルシャンは、ふぅ、とため息を零す。
いつしか茶菓子に向かうレナの手も止まり、夜更けになっても止まない外の賑わいが嘘のように、応接室には重苦しい空気が流れていた。
「……」
「…………」
ほのかに部屋を照らす蝋燭の明かりが、小刻みに揺れている。
部屋に流れるのは、小さな衣擦れの音と、ため息と……そして時折コーヒーを啜る音だけ。
希望と、絶望と、躊躇いと……そんな渦巻く感情の反応を、一体幾度繰り返しただろうか。
「……それ以外に、方法はありませんの?」
静寂の中に響くレナの呟きは、決して疑問でも否定でもなく……ただの確認でしかなかった。
「残念ですが」と返すダルシャンの顔に浮かぶのも、決して喜色ではない。
――当たり前だろう、例え政略結婚であったとしても王太子として敬意を払っていた有能な青年の未来を、これから自分達は奪わなければならないのだから。
「生涯呪われたままの殿下を即位させることは、当然容認出来ません。確かに今はまだ夢から目覚めておられますが、いつ永久に夢という牢獄に捕らわれるかも分からないのですから。それに、呪われた寝具をそのままにしておくことも出来ないでしょう。寝具が呪いをかけるのは一度にただ一人と明記されていない以上、あれは一目の触れぬ所に厳重に……永遠に封印すべきものです」
「っ、ダルシャンあなた、それはいくらなんでも……!!」
「……レナ嬢。この国のことを真に思うならば、我々は非情にならねばならない。あなたが殿下をどう想っているのかはよく知っていますが……大公家と宰相家、この国を支えお守りする立場にある我々にとって、此度の事件は恋心などに振り回されていい問題ではないのです!」
「っ……!」
さあ、決断を。
そう無言で問いかけるダルシャンの目に映るのは、グッと拳を握りしめ大粒の涙を一つ零す、苦渋に満ちたレナの姿。
(ヴィナ、あなたはどうして……死してなおムシュカの心を手放してくれないの……!?)
そしてその鼓膜を揺るがすのは
「……あなたが……あなたたち宰相派が権力欲に溺れてヴィナを暗殺しなければ、こんなことにはならなかった! ムシュカは……ずっと幸せでいられたのですわ、たとえわたくしの恋が実らなくたって……そのほうが、ずっと……!!」
胸を抉るような慟哭を伴う、レナの同盟受諾の叫びであった。
◇◇◇
柔らかな日の光と小鳥のさえずりが、今日もまたこの魂を現実へと連れ帰ってくれる。
目を開ければそこには見慣れた天蓋が広がっていて、ムシュカは今日も無事目覚められたと、そっと安堵を覚えていた。
「……今日も暑くなりそうだな」
窓の外を眺めれば、眩い太陽と青々とした芝生、そして咲き乱れる花々が目に飛び込んでくる。
既に朝の訓練は終わったのだろうか、騎士団の姿は見えない。
「しかし昨夜もだめであったか……記憶を取り戻すのが、こうも難儀なものだとはな」
身支度を調えながら、ムシュカはひとりごちる。
パニニ老師との邂逅以来も、彼は少なくとも夢の中では何の変わりも無くかの人に出会い、思い出の料理を振る舞い、夜明けの別れが来るまで語り合う日々を送っていた。
相変わらず記憶の戻る気配は見られないが、あの青年の食べっぷりはどこからどう見ても在りし日のヴィナそっくりで……だから、ムシュカは一縷の望みをかけて彼を愛でつづける。
――記憶が戻れば、きっと……あの頃の『ヴィナ』に戻るはずだから、と。
「……いかんいかん、夢のことは夢で、だ。今日も政務はたんまりあるし、夕方には舞踏会も控えているからな」
ついつい切ない思考の渦に引きずられかける己を叱咤し、ムシュカは扉の方を向く。
そう、現実の自分は王太子。この国の王族として果たすべき責務を色恋で疎かにするなど、ヴィナが耳にしたら……あやつのことだから確実に土下座して正室指名を取り下げてくれと懇願するなと苦笑していれば、扉の向こうから声がかかった。
「殿下、ラシッドです。……入ってもよろしいですか」
「! …………ああ」
聞き慣れた、けれど少し硬い声に、ムシュカの顔が一瞬にして強張る。
一呼吸あけて「失礼します」の言葉と共に開いた扉の向こうにいたのは……王宮近衛騎士団長ラシッドを先頭に、4名の武装した団員達だった。
その沈鬱な表情に、ムシュカは全てを察する。
――ああ、とうとうこの日が来たのか、と。
「……殿下」
しばしの沈黙の後、騎士達はムシュカを取り囲む。
そして重い口を開いたラシッドに「よい」とムシュカはただ一言、許しを告げた。
「構わぬ。命じられたとおりにするが良い。……全て、承知の上だ」
「っ……殿下、申し訳ございません……!!」
振り絞るような声色に、ずきんとムシュカの胸が痛む。
己がこれから受けるであろう沙汰に、今更怖じ気づく事は無い。既に老師から忠告を受けた時点で覚悟はしていたし、また状況を鑑みればそうすべきだと、王族としての自分も判断を下していたから。
ただ、己を慕う者をこれからどれだけ悲しませるのかと思えば、申し訳なさが胸に溢れてくる。
「……殿下、手を後ろに」
「ああ」
言われるがまま手を後ろに回せば、ちゃり、と鎖の音が鼓膜を震わせる。
カシャン、カシャンと音を立てて手首に嵌められたのは、ひやりとした……金属の枷だ。
足元にしゃがみ込んだ団員が手にする枷を見るに、枷も鎖も銀で作られた特注とおぼしき代物。
……恐らくは、この身に取り憑いた呪いに何らかの効果を期待してであろう。
もしくは……この身体から呪いが誰かに移らないようにするためか。
「ラシッド。私はこれからどうなる?」
「……緊急の御前会議が開かれます。殿下には弁明の機会が与えられていますので」
「そうか。……とはいえ、既に話は決まっているようなものだろうがな」
「っ!! 殿下、申し訳ございません! 俺は……」
「そう気に病むなラシッド。お主はお主の責務を果たすが良い。……そうだな、私も王太子として『最後』の責務を果たそうではないか」
騎士に両脇を固められ、ムシュカは慣れ親しんだ部屋を後にする。
ちゃりちゃりと響く鎖の音が扉の向こうに消えた瞬間、寝台に広がっていた東雲を模したブランケットは、ふわりと淡い光を纏ったかと思うと……次の瞬間、跡形もなく消え失せていた。
◇◇◇
その姿が明らかになったとき、大広間に広がったのは動揺と困惑であった。
「なんとお労しいお姿……宰相家は血も涙もないのか!?」
「ダルシャン殿! いくら何でも殿下に枷を着けるなどやり過ぎでしょう!!」
大広間に連行されたムシュカの姿に騒然とする貴族達が、ダルシャンに突っかかる。
だが彼は顔色一つ変えること無く「これが必要な措置だからです、国王陛下にもあらかじめ許可は頂いています」ときっぱり言い放った。
「ダルシャンの言うとおりだ。儂が許可した」
「陛下!」
「……事が事である、なるべく早く済ませた方が良いであろう。事前の報告通り、確かに呪いの織物はムシュカから離れぬようだしな」
「!!」
その言葉に玉座の手前、赤い絨毯の中央に立たされたムシュカの足元に視線を移した貴族から、いくつもの悲鳴が上がる。
そこには、まるで持ち主を守るかのように深い紺色の織物が丁寧に畳まれた状態で鎮座していたのだ。
「そんな、さっきまでは何も無かったのに……!」
「いきなりだったぞ! 音も光も何も無かった、瞬きをした瞬間そこに現れたんだ!!」
「……これが呪いの力なのです。皆様にこの呪いが移らないよう、不敬は承知の上でムシュカ殿下には魔を封じる銀で作られた特製の枷を着けて頂いております」
「そう、言われると……しかしなぁ、もう少しやり方はなかったものか……」
(……ああ、本当に私は呪われているのだな)
ひそひそとその処遇の賛否が囁かれる中、足に触れる柔らかな感触にムシュカは今更ながらパニニの言葉を噛みしめていた。
これまで政務で部屋を離れたときに、この織物が空間を飛び越えてきたことはなかった。だから、話に聞いた呪いをムシュカが実感したのは今回が初めてだ。
そして――部屋を抜け出しここに姿を現したのは、自分が今夜帰る場所はあの部屋ではないことを、ブランケットは既に理解していると見るべきか。
(まあ、そうであろうな。この状況で私が部屋に戻れるはずはない)
自分でも意外なほど穏やかな心で、ムシュカは己を裁く人たちを冷静に見つめていた。
未だざわめきが収まらないながらも、カルニア公による「静粛に! これよりムシュカ王太子の王位継承権についての御前会議を執り行う!」との宣告により始まった会議では、事のあらましをダルシャンがまるで立て板に水をかけたかのように分かりやすく説明している。
その内容は既にパニニから聞かされていた話から逸脱したものでは無く、少なくとも表向きは、宰相家が権力欲しさに自分に靡かない王太子を廃嫡に追い込むという卑しい企みは感じられない。
――残念ながら聡明な息子と異なり、玉座の斜め前に座るカルニア公の表情には醜悪な権力欲が見え隠れしているのだが。
「それは……殿下に罪があるわけでは……」
「ええ、殿下は不幸な呪いに巻き込まれてしまった被害者に過ぎません」
呪いの説明が進むにつれ、ざわめきは収まり、空気は痛いほどの重さを伴っていく。
耐えきれず呟いた婦人の言葉に、ダルシャンは実に残念そうに首を振り、ですが、とムシュカの方に向き直った。
「呪いが解けない以上、殿下をこのままにしておくのは危険です。まして、王位を継ぐなど言語道断。……殿下、正直にお答え下さい。あなた様はこの呪いの寝具に、何を願われました? そして……その呪いが解ける可能性はあると、お考えですか?」
「…………」
全ての視線が、ざっとムシュカに集まる。
不安と、恐怖と、悲しみと、怒りと……それでもまだこの有能な王太子を信じたいと願う心、数多の想いがない交ぜになった視線は痛いばかりで、言葉を発しかけたムシュカの喉を渇かせてしまう。
(ここで、糾弾すれば……私の正室たりえた人を殺めたのは宰相家だと宣言すれば……お主の仇を少しでも取れるだろうか、ヴィナよ)
そんなムシュカの心にふと忍び入るのは、愛する人を奪われた怒り。
もちろん、ここで彼らを非難したところで自分の処遇が変わることはないだろう。精々宰相家がこの事件の元凶として大々的に、しかし取り潰しにならない程度に粛清されるだけだ。
それでも最後に、人としてこのままならない想いをぶつけること位は許されようと耳元で囁く誘惑に、しかしムシュカは毅然と否を突きつける。
(いいや、それはこの国のためにはならない。あの椅子の上でふんぞり返っているカルニア公はともかく、ダルシャンは有能な男だ。権力欲はあれど、王家を毀損し国を傾けるような事はするまい)
「……殿下?」
「…………ああ。私は」
だから、ムシュカは戒められた身体をピンと張り、大きく深呼吸をして……全ての恨みを押さえ、真実を述べる。
――全ては、私が愛する国と民の為に。
「私はこの織物に、愛しい人との再会を……どんな形であってもいい、ヴィナと会いたいと願った。……だが、ヴィナはもうこの世にはいない。王族廟で眠る彼が起き上がることは……私の願いが叶うことは、二度と無いのだ」
「……そう、ですか。これで確定ですね。殿下は生涯呪いからは逃れられない」
見るに耐えない拘束を受けながらも気丈に振る舞うムシュカの独白に、両脇に控える貴族たちから小さな嘆きが上がる。
「どうして……」とすすり泣く声が耳に届き、前を向けば威厳と風格を保ちながらも眦が赤く腫れている国王と王妃の姿が目に入って……思わず泣きそうになる心を叱咤して、ただ真っ直ぐにムシュカは前を見据えた。
その姿に一瞬虚を突かれたのだろう、ダルシャンは意外そうな表情を浮かべるもすぐに冷静を取り繕い「では陛下」と判断を促す。
(私はヴィナとの再会を諦めてはいない。けれども……確証がない以上、私はこの願いが成就する可能性を語ることは出来ない)
沈黙を保っていた父王は改めて姿勢を正し、眼下に立ち尽くす憐れな息子の姿にぐっと唇を噛みしめると、その口を震わせながらゆっくりと開き
(良いのです、父上。それがこの国のためだと、私は理解しています)
「神聖クラマ王国国王、カヴィル・クラマの名において命ず。今このときをもって、ムシュカ・クラマの王位継承権を剥奪し、王族譜からの抹消を命ず。さらに呪いの散逸防止のため、生涯その身を『新月の塔』に隔離すべし」
「…………謹んで拝受いたします、国王陛下」
(私は、王族として生まれた身ですから――)
凜とした声で非情な勅命を広間に響かせたのだった。
◇◇◇
「いやしかし、お手柄でしたね!」
「まさか犬猿の仲で有名なカルニア家とラグナス家の次期当主が、協力して事件の解決に当たるとは! この国の未来は明るいですな」
「いえ、我々は国家安寧のため、当然のことをしたまでですよ。そうでしょう、レナ嬢?」
「……ええ。国を守る為なのです、王族であれど危険因子は速やかに排除するべきですわ」
――その後、塔へと連行されるムシュカを見送った国王は、すぐさま民に向けて宣告を発布する。
前王太子ムシュカ・クラマは、前王宮近衛騎士団副団長ヴィナ・ヤーナイ暗殺の心労から心を病み、心神衰弱状態と診断された。よって長期静養のため王位継承権を放棄し、王宮を離れることとなったと。
これによりムシュカの弟、サリム・クラマが新たに王太子に指名される。
任命式を終えて開かれた祝賀会では、貴族達が早速今回の立役者である二人を讃え、何とかおこぼれに預かろうと早速水面下の攻防を繰り広げていた。
「しかしこれで、お二人がサリム殿下と婚約されることは確定でしょうな」
「ええ、どちらが正室に選ばれても、お二人ならきっと殿下をしっかりお支えしてこの国をますます発展させること間違いないでしょう!」
「ありがとうございます。ですが、今はまず陛下をお支えせねばなりません。……いくら呪いのせいとはいえ、我が子にあのような処遇を下す心労は、いかばかりか」
「……まったくですな。いやはや彼には失望しましたよ。王族でありながら奴隷上がりの恋人への情に振り回されて、身を滅ぼすとは……」
ひっきりなしにやってくる貴族達に愛想笑いを浮かべ、祝いの席には欠かせない薔薇のシロップを水で割った飲み物が注がれた金杯を交わし、彼らの欲しい言葉を紡いで酔わせ……
ようやく彼らが茶番から解放された頃には、時は既に日を跨いでいた。
「こうも上手くいくとは……正直思ってもみませんでした。ムシュカの扇動による騎士団の反逆もあり得るかと、私兵を総員待機させていたのですが」
「ムシュカは、そんなみっともない男ではありませんわ。……全く、あんな見せかけの枷まで着けて、呪いを殊更に強調しなくたって!」
「念には念を、ですよ。ただでさえ彼は有能で人望も厚かった、同情から彼を庇おうとする者を少しでも排除するには、呪いの恐怖ほど効果的なものはありませんからね」
喧噪から離れバルコニーで夜風に当たりながら、二人は改めて杯を交わす。
城下の灯りは未だ消えることなく、あちこちから花火が上がっている。きっと民衆も不幸な青年を偲びつつ新たなる王太子の任命を祝っているのだろうと、レナはじっとその儚い光を見つめていた。
「……まあ、お互いこれからも仲良くやっていきましょう、レナ嬢」
「そうね。相手が変わっても正室の座は譲りませんことよ? ……それと、寝具ですけど」
「ええ。ブランケットはやはり、ムシュカに付いていったようです。塔から報告を受けています。市中に散逸した寝具は枕カバーを除いて全て回収し、封印庫に収蔵済み。枕カバーについては近隣諸国の協力も得ようかと」
「そうですわね。あんな危険な物、一刻も早く回収しなければ」
これ以上、犠牲者が出る前に……そんなレナの呟きは、夜風に紛れて空に消える。
(……ムシュカ)
勅命が下った後、ムシュカの身柄はすぐさま塔へと移送された。
大広間で騎士達に取り囲まれたまま出口へと向かうムシュカを、レナは扉の近くで見守る。
その顔は少し緊張で強張っていただろうが、決して気持ちを悟られてはならないと、ぐっと拳を握りしめたまま。
(何を言われても仕方が無いと、覚悟していたのに)
きっと自分を裏切った幼馴染みを、彼は罵倒などしない。
ムシュカはそういう人だ。いかなる時でも……会議においてさえ王族としての振る舞いを崩すことのなかった彼が、恨み言をぶつけるような無粋な真似をするとは考えにくい。
ただ王族という衣を剥がされた今、彼の言動を縛る物は何も無い。だから万が一自分への悪態をつかれても、それは甘受すべきだ……そんな思いを抱くレナの視線がムシュカと絡んだ瞬間、ムシュカは小さく目を見開く。
そして、すれ違った瞬間
「……レナ、すまなかった」
「…………!!」
事もあろうに彼は、この後に及んで自分を慮ったのだ。
(あなたは……どこまで王族なのよ……!)
その瞬間、レナは全てを理解した。
恐らくムシュカは、かなり早い段階からこの結末を予測していた。そして、呪いの性質故に抗うことが困難であることを理解し……この国のために全てを受け入れると腹を括っていたのだと。
(最後くらい……わたくしの前だけでも、ただの人に戻って欲しかった……!!)
「レナ様、帰りの馬車のご用意ができました」
「ありがとう、すぐ行きますわ」
従者の呼びかけに応じたレナはダルシャンに別れを告げ、王宮の外へと向かう。
今日の空は雲一つ無く、月明かりのお陰で外は随分と明るい。
……まるで、今日という日を祝っているかのように。
「……」
ふと月のある方を見上げれば、目の端に移ったのは細長い塔の姿。
新月の塔と呼ばれるその建物は、国家反逆罪を犯した政治犯のうち身分の高い者を幽閉するためのものだ。入れば死ぬまで出られない、そして収容者に呪いが散逸したところで大した問題ではない――そういう意味では呪いの隔離にはうってつけだろう。
ああ、彼もまた、この明るい月を眺めているのだろうか。
あの塔には、月を眺める窓はあるのだろうか。
いや、そもそも彼は――今日もこの賑やかな世界を照らす月を眺めることなく、幻の恋人に耽溺しているのだろうか。
「…………頑張って、忘れますわ」
塔を見つめながら、レナは誰にも聞こえないようにそっと呟く。
それは己の人生のほぼ全てをかけて愛した人と、そんな鮮烈な恋心を持った自分への、決別の狼煙。
「それがこの家に……大公家に生まれた私の定め。この国のためにわたくしは生きますわ……あなたの選択と同じように」
だからどうか、偽りの幸せであっても、あなたの残りの人生が穏やかであらんことを――
「……さよなら、ムシュカ」
レナの乗った馬車は、塔とは逆の方向にある屋敷へと向かっていく。
……外をじっと見つめるレナの肩は震え……握りしめられた拳に、ぱたりと熱い雫が落ちた。
◇◇◇
ちゃり……カチャ……
格子状に区切られた月が覗き込むのは、簡素な居室。
狭いベッドに木製の椅子とテーブルが一つずつ、備え付けの棚と共に床に固定されている。
衝立で区切られた向こうにあるのは、申し訳程度のシャワーブースと便器……そんな狭苦しい空間の中に響くのは、銀の枷とこれまた銀で作られた特製の食器の音だけ。
「……幽閉の身であっても、食を疎かにはさせぬ……我が国の良さをこのようなところで実感するとはな」
前に付け替えられた手枷を鳴らしながら、ムシュカは遅めの夕餉にありつく。
ここに来るまで身に付けていた礼装は全て取り上げられ、代わりに与えられたのはここ「新月の塔」で収容者に支給される生成りの麻でできた裾の長い上衣だけだ。
『下着? そんな物はありませんぜ。殿下……じゃなかった、ムシュカ殿の足枷は週に一度の診察時以外、外すことを禁じられてますからな、下着など着けようがないでしょうが』
『朝と夕の水浴びと着替えの時には監視の上で手枷を外しますから、ここでの生活に支障は無いでしょう。……どうせ死ぬまでこの部屋からは出られませんし』
収容後じろじろと身体を舐め回すように眺め下卑た笑いを向ける看守達には、さしものムシュカも声を荒げかけたのだが、それより早く塔への護送を担当した騎士団が剣を抜きかけ一触即発となったお陰で怒る機会すら逃してしまったな……とムシュカは鎖を鳴らしながら麺を啜る。
「ほぅ……美味い。ここの魚団子は味が濃いな……」
透明なスープに魚のすり身団子がいくつも浮かんだ麺は確かに美味だが、個人的にはこの黄色い小麦の麺よりは平たい米麺の方が好みだなと、ムシュカは独りごちる。
だが、こんな状況でも美味い料理が食べられる事が保障されているだけでありがたいと、供された麺はスープの一滴まで飲み干した。
「うむ……美味であった」
誰に言うでもなくムシュカは感謝を独りごち、じゃらじゃらと音を立てて扉の方へと向かう。
食べ終わった食器は食事の配給と同様、鉄の扉の下部にある隙間から廊下に返しておけば回収される仕組みらしい。
扉にはドアノブが存在せず、更に外から二重の鍵で施錠されているから自分で開けることは不可能だし、何より足枷から伸びる鎖は両の足首を戒めるのみならず、部屋の中をギリギリ移動出来る長さの鎖で床と繋がれているから、例え扉が開いたとしてもここからは出られない。
死ぬまでここから出す気は無い――そんな無言の圧力が、じわじわとムシュカの心に染みを作っていく。
「政務も、会食も、運動の時間すらも取れない……何も出来ぬというのも、なかなか苦痛なものだな。書物の差し入れも禁じられているとは意外だった」
これではむしろ夢の中に耽溺しろと言っているようだと口にしかけ、ムシュカはさっと顔色を変える。
……言っているようだ、ではない。
むしろこの塔の統括責任者であるカルニア公は、廃嫡されたとは言え王族であった証――黒髪に混じる黄金のメッシュと琥珀色の瞳を持つ「不穏分子」を完全に夢に閉じ込め、物言わぬ木偶にしてしまいたいのだろう。
「呪われた元王族など……ただの災い、邪魔者に過ぎぬ、か……」
反論の余地がない、とムシュカは一人寂しく自嘲の笑みを浮かべる。
だが、そんなところまで彼らの思い通りになるつもりはない。確かにこの身はありとあらゆる物を失い、その手に残されたのは愛し子の待つ夢へと繋がる呪われた寝具だけだが、だからといって人としての矜持まで捨てた覚えはないのだから。
「それに……きっと……」
腰を下ろせば粗末なベッドはぎしりと嫌な音を立てる。
この際身体を横たえられるだけでも良しとせねばと、己を慰めながら外を眺めるムシュカの目に映るのは、煌々と輝く月ではなく……あの大広間で向けられた、数多の失望と悲しみの眼差し。
そして
『失意の最中、夢で願いを叶える織物などを手に入れれば、怪しかろうと手を出してしまうのは自然な道理、罪と責められるものではありますまい』
『殿下は不幸な呪いに巻き込まれてしまった被害者に過ぎません』
――耳に届くのは、あくまでもムシュカをただの不幸な人として扱う彼らの哀れみを帯びた言葉だ。
「私は、願いをかけたことを後悔はしていない……だが、王族という立場を鑑みれば軽率ではあったな」
内省の呟きを聞き届け、呼応するかのようにぼんやりと光るブランケットに、ムシュカはそっと手を伸ばす。
その手触りは初めて触れたときから変わらぬ滑らかさと心地よさを保ち続けていて……いや、今日は何故だろうか、この長い一日を何とか生き延びた自分を慰めてくれるようにすら感じられる。
「それでも……いや、こうなった今だからこそ、私は……」
この部屋には時を測るものが無いが、月の位置を見るに普段ならばもうとっくに夢の中にいる時間であろう。
あまりヴィナを待たせては悪いなと、ムシュカはその身をそっと横たえ、ぎゅっと織物を抱き締めた。
地位も、家族も、友も……全てを失った今、私はヴィナの記憶という最後の願いに賭けたい――いや、信じたいのだ。
「……笑顔を、忘れぬようにせねばな」
あの愛し子の笑顔を二度と曇らせないためにも、自分は「神様」であり続けなければならないのだから……
――どこか切羽詰まった祈りを胸に携え、今日もムシュカは織物によって夢の中へと誘われる。
◇◇◇
「あ……れ……? 珍しいな、神様……今日は寝坊かな? いや待て、この場合は起きたまま寝てないから……起坊……?」
いつものように万全の身支度を調えて夢の中へと飛び込んだ新太は、しかしかつて無い事態に戸惑いを覚えていた。
確かに前の職場を退職して以来、きっちり8時間の睡眠を取るようになった新太と神様の現れる順番が前後することは幾度もあったが、それでも新太が5分も待たないうちに神様はあの涼やかな音と共に降臨するのが常だ。
そのはずなのに……今日は待てど暮らせど、神様の来る気配がない。
「もう2時間……何かあったのかな、神様……」
こんな時、夢というのは不便だ。SNSで近況を確認することも出来ないし、何より自分は推しへの直接的な連絡手段を持たない。
……いや、それは持っている方がおかしいとは思うけど。
大丈夫かなぁ、と新太が不安そうに白い空を見上げたその時「ヴィナ」と囁く声が、後ろから聞こえた。
いつもと変わらぬ穏やかな呼びかけに、ああ、やっぱり今日の神様は何かイベントでもあったのかも知れないと新太はすんなり納得し、満面の笑みで「神様!」と振り返って
ちゃり……
「!?」
そのまま、ぴしりと凍り付いた。
「……ん、どうした? ヴィナ。ああ、今日は随分待たせてしまったな、すまない」
「あ、いえ……だっ大丈夫です! 俺だって以前は、神様を散々お待たせしていましたから!」
そこに静かに立っていたのは、確かに見知った神様だ。
艶やかな黒髪も、アニメに出てきそうな金色のメッシュも、全てを見通す琥珀色の瞳も……そして煌びやかな青と白の装束も何一つ変わらない、新太の推し神様。
けれど……推しだからこそ、新太は気付く。
(…………音が違った、それに)
神様の降臨時に鳴り響く筈の、細い金属の装身具が擦れ合う清らかな音は、今日は随分と濁っていて……まるでその身を戒める鎖か何かのようで。
いつもと変わらぬ微笑みで「腹が減ったであろう、まずは食事にせねばな」と右手をすぅと挙げるその姿は、いつも通りしなやかで、穏やかで……けれど、明らかに何かがおかしい。
そう、今日の神様はまるで在りし日の……消耗しきった心に気付くことすら出来なかった、自分そっくりではないか――
「……ヴィナ?」
気がつけば新太の手は、そっとテーブルに伸ばされたムシュカの手首を握りしめていた。
思いもかけない行動に戸惑いを隠せない神様の顔を覗き込めば……眦は赤く腫れ、頬には明らかに新しい涙の痕が残っている。
ドクン
(……いけない)
胸の奥で、何かが鳴り響く。
このままではいけない。いつものように美味しくご飯を食べて、他愛もない話を楽しんでも、今日の神様はきっと心から笑えない――!
――お守りせねば
何かに突き動かされるように、新太は「神様」と手を握ったままムシュカを見つめる。
その強い眼差しに胸が跳ねたムシュカの気持ちも分からぬまま、彼はまっすぐに、彼の心を射貫くのである。
「神様……何か、悲しいことがあったんですか?」
◇◇◇
「…………!!」
一瞬泣きそうな表情を作ったムシュカを、新太は見逃さない。
当然だ、推しが落ち込んでいるなんて状況を許せるほど、こちとらヤワな推し活をしてきたつもりはないのだ。
……美味しく食べていただけだろうが! という心のどこかからの突っ込みは、当然聞こえなかったことにする。
(ヴィナが教えてくれた通り、ここでは元の装束を再現出来た筈なのだが……顔に出てしまったか)
しくじったなと冷静に状況を判断し、新太を安心させようと口を開きかけたムシュカの弁明は、しかし「あのっ!!」とひときわ大きな新太の声でかき消された。
「その、神様……俺に何か、できませんか?」
「……ヴィナ?」
「俺……ずっと神様に助けて貰ってばっかりで。神様がいなければ、俺はこんなに元気になれなかったし、あのクソみたいな会社だって辞められなかった。全部、全部神様がいたから……そして美味しいご飯がたくさんあったから、今の俺があるんです」
「うむ、そこでさりげなくご飯を入れてくる辺りは、やはりお主だな」
「だから俺もっ!! 神様のお役に立ちたいです!! 推しを笑顔にしてこその推し活ですから! 夢じゃグッズも買えないしスパチャもできませんけど、俺っ神様が元気になるならなんだってします! いやマジで、命かけられますから!!」
「…………!!」
ぎゅっとムシュカの手を両手で握りしめ、真剣に推しへの愛を語り続ける大柄な青年。
異世界の概念だろう言葉も混じっていて全ては理解出来なかったが、ムシュカにもこれだけは断言できる。
『あなた様は命に替えても、お守りいたしますから』
――やはりお主はヴィナだ。
私のために命を捨てることも躊躇わない、勇猛で、色恋にはとことん初心で、そして食いしん坊な……私のヴィナなのだと。
「…………全く、命には替えるなとあの時言ったであろうに……」
「……神様?」
「いや、何でも無い。それより」
ツンと鼻が痛くなるのを、ムシュカは必死に堪える。
震えそうになる声を整え、深呼吸を一つ。
(全てを失う最後の最後まで私は、王太子としての矜持を保ち続けた自負がある。だから、せめて夢でならば……許されるであろうか)
「ヴィナよ」
「っ!!」
ムシュカはそっとヴィナの手を取り、ソファへと誘う。
そしていつもの定位置に腰掛けると
(今だけは……使えるべき主君でも、お主の語る推し神様とやらでもない、ただのムシュカとして在ることを……!)
「…………では今日は、食事の前に私の話を聞いて貰えるか?」
「……はい!!」
少しだけ寂しそうな笑顔で、ただ一人の人としての小さな甘えを、愛し子の魂にねだるのであった。
◇◇◇
「……なるほど、こうなるのか」
「ええと、神様……?」
「ああいや、何でも無い。さて、どこから話したものか……」
そう、確かに自分はヴィナをソファに誘った。
誘ったが、まさかそれが当然であるかのようにいそいそと膝枕に寝そべり、顔に『やっと推しのお役に立てる、ばんざい!!』と書いてあるかのようなキラキラした眼差しで見上げられるとは思わなかったと、ヴィナは内心天を仰いでいた。
(いやいやお主、いくら何でも餌付けされすぎであろう!? あの魔熊さえ屠る猛獣のようなお主が、これでは牙を抜かれた狼、いや馬鹿でかい犬ではないか!! …………いやまぁ、その、これはこれで悪くはないのだが……)
ああ、さっきから心の声が喧しい。
思いもかけない触れ合いに愛しさが暴走し歓喜する己と……ヴィナはそんなことをしないとどこか歯がゆさを感じている己が、両側からがなり立てているようだ。
「さあ神様、いつでもどうぞ!」と期待を瞳に浮かべるヴィナがちょっとだけ眩しくて、ムシュカはこほん、と咳払いをしどこか遠くを見つめ……やがて、静かに口を開いた。
「……これはな、遠い遠いどこかにある、青き空と焼け付く太陽、そして慈悲深く輝く月を持つ神聖なる王国の王太子と……食いしん坊な騎士の話だ」
ムシュカは遠い日に王太子たる少年の命を救った、勇猛果敢な男との出会いを語る。
精鋭揃い騎士達に混じって剣を振るう一介の傭兵は、しかし明らかに頭一つ抜けた実力で三本の傷と引き換えに見事魔熊と呼ばれていた獣を打ち倒し、奴隷身分でありながら近衛騎士団にスカウトされたこと。
すっかり彼の勇姿に心を奪われた少年は、以来6年にわたりこの騎士に剣術の指南役を命じ、積極的に恋心をアピールするものの、周りが同情するほど彼にはさっぱり……そう何一つ届いていなかったこと。
「少年は、それはそれは涙ぐましい努力を続けていたさ。何かと理由を付けては騎士のところにやってきて、おやつを持参し、時にはプレゼントも贈っていた。まぁ、王太子とは言え子供の用意する物だ、他愛ない耳飾りであったが」
「……その騎士さん、いくら何でも鈍すぎません? 耳飾りも喜んで着けてたんですよね?」
「ああ、殿下から賜った大切な耳飾り、絶対にはずしません! とかぬかしたくせにな!」
「ひどすぎる」
15で成人の儀式を経た後、振り向かないどころかこちらの気持ちに気づきもしない鈍感な騎士に業を煮やした王太子は、一計を案じる。
ここまで告白を繰り返してもさっぱり理解に辿り着かぬと言うならば、逃げられない形で突きつけてやるしかない、と――
「だから王太子は、彼を未来の正室に指名したのだ。当然、公式の場で、な!」
「うわドラマチック……これで流石に王太子様の想いは届いたと」
「届いたと思うか? こやつはな、開口一番己が君主に向かって『まさかお腹が空きすぎて、正常な判断が出来ないのでは!?』と抜かした挙げ句、厨房に早めの昼餉を取りに行ってしまったのだぞ!」
「……俺、王太子様がめちゃくちゃ気の毒に思えてきました……」
そうだろうそうだろう! と大きく頷きながらムシュカの声が紡ぐのは、それからのもどかしくも甘やかな日々だ。
王太子という強権を遺憾なく発揮してアプローチを続けること3年あまり、端から見ればとうの昔に絆されていて、しかも毎夜同じ寝台で寝ているというのにやっぱり髪の毛一本触れられない初心すぎる騎士は、ようやくちょっと照れながらも手を繋いで城下に出かけられるくらいまでは進展したらしい。
(…………神様の、恋人、かな?)
いつも穏やかな笑顔だけを浮かべていた神様が、これだけくるくると表情を変え……何よりどこかうっとりした様子で彼のことを語るのだ。これはただのおとぎ話ではない、神様自身のことなのだと新太は悟る。
正直ちょっとだけ胸は痛むが、推しに恋人がいるからといって幻滅したり、まして推しをやめるほど自分は薄情では無い。むしろ神様を笑顔にしてくれる存在なら、いつでもウェルカムだ。
だというのに。
「……だがな、そんな日々は突然終わりを告げたのだ」
楽しげに語っていたムシュカの顔に、ふと影が落ちる。
何かを堪えるようにぐっと力を入れ……耳鳴りがするほどの静寂が、二人を包み込む。
一体どのくらいそうしていただろうか。
ようやく覚悟を決めたのだろう、ムシュカの震える唇が……初めて「あの日」を紡ぐ。
いつものように同じ寝台で眠りについた直後、王族で無ければ出入り出来ないはずの宝物庫に忍び込んだ賊。
それを捕らえようと王族廟に乗り込んだ騎士を……賊の魔法が射貫いたのだ。
ただ真っ直ぐに、後頭部から額にかけての一撃。誰が見ても……すぐ目の前でその瞬間に立ち会った王太子すら確信するほどの、致命傷であった。
「…………」
「神様…………」
みるみるうちにムシュカの瞳に涙が溜まっていく。
ああ、麗しい顔に涙はふさわしくないと新太が無意識に伸ばした右手を……ムシュカはぐっと力強く握りしめた。
「神様……?」
「だから……だから私は言ったのだ、命には替えないでくれと……!」
「……!」
ぱたり。
熱い雫が……新太の拳に、いくつも降りかかる。
『ヴィナ、ヴィナ! しっかりしろ、ヴィナ……!!』
(……?)
自分に向かって叫ぶ、神様の声が頭の中でリフレインする。
……否、違う。
だって神様は今、俺の手を握りしめて咽び泣いているではないか――
「……ヴィナよ。私は……神様などではないのだ」
「神様じゃ、ない……?」
「私は……ただのムシュカだ。お主とは異なる世界に生きる……今や王族ですらない、呪いに見初められた人間に過ぎない。……なあ、私の愛した誇り高き騎士『ヴィナ』よ」
「!!」
どうか、その記憶をそろそろ、取り戻してはくれまいか――?
しゃらん
ため息のように儚く、か細く、けれど切なる神の願いが夢の世界に響き渡ったその刹那、新太の耳にどこかから聞き慣れた装身具の音が飛び込んでくる。
毎夜聞き慣れた、神様が夢に降臨する合図となった、涼やかな金属の音。けれど
……そうだ、俺はこの音を知っている。
この夢で神様と会うずっと、ずっと前から――
『どうだ綺麗だろう、ヴィナ! これな、動くとしゃらんっていい音が鳴って、かっこいいんだ!』
『そうですね、殿下。しかし鍛錬の時には、お外しになって下さい。怪我をしては危のうございます』
『むぅ、折角ヴィナとお揃いにしたのに……大体ヴィナは、いつも着けているではないか!』
『当然です、主君たる殿下から賜った耳飾りを外すわけにはいきませぬからな! それに……俺は着けたままでも怪我をしないくらいには、強いですよ?』
『ちぇー、今日こそ一本取ってみせるからな!!』
(ああ、俺は……『俺』の笑顔は……)
脳裏を埋め尽くす記憶の奔流に突き動かされるように、新太はそっと肩を震わせる神様の……ムシュカの拳を大きな左手で包み込む。
その胸は張り裂けそうなほど痛くて、申し訳なさに自然と涙が溢れて。
(俺の、最期の笑顔は……殿下に届かなかったのか……!!)
王族ですらない、呪いに見初められた――彼の言葉の詳しい事情はまだ分からない。
ただ目の前に開陳された現実に、新太は愕然とする。
「…………っ……ヴィナ……私のヴィナ……」
ちゃり、と震える度に小さく囀る鎖の音。
あの見慣れた壮麗な衣装は跡形もなく、眼前に広がるのは粗末な麻の上衣を纏い、両手を銀の枷で戒められた、かつて生涯お守りすると誓った……最愛の君。
――そう
このような痛ましい姿に堕とされるほど、己の死はこの麗しいお方の心を奈落に縛り付け、道を誤らせてしまったのだと!
「…………ません……」
「……ヴィナ?」
「申し訳、ございません……殿下…………!」
「!!! ヴィナ、お主、記憶が……!?」
(ああ、やっとだ、やっと帰ってきた……私のヴィナ……!!)
懐かしい呼び方に、見開かれたムシュカの瞳からは更なる涙が溢れ出す。
感動にうち震え、愛しい人の頭をかき抱き快哉を叫ぼうと万感の思いを込めてムシュカが「ヴィナ」と甘やかな声と共に手を広げたその瞬間
「殿下に涙を流させ、心を縛り付け、かようなお姿にしてしまうなど……このヴィナ・ヤーナイ一生の不覚でございます! かくなる上は腹を切ってお詫びを!」
「ちょっと待て、私は命に替えるなと言ったであろうが!!」
――相変わらず色恋沙汰にはとんと疎いこの困った男は、とんでもないことを口走りおったのである。
◇◇◇
「はぁっ、はぁっ……こんの大馬鹿者がっ!! 誰が記憶を取り戻した途端に、命を粗末にしろと言った!!」
「うう……申し訳ございません……だって、そんなお姿を見てしまえばつい罪悪感が」
「姿? どういう……はっ! いつの間に元の姿に!」
すったもんだして「お願いしますうぅ腹を切らせて下されぇ!!」と叫ぶヴィナを全力で制止したムシュカは、息を切らしぐったりと床に突っ伏していた。
その横ではヴィナがあの大きな身体を全力で小さくして、床に伏せたまま顔を上げようとしない。
これはどうにもならぬな、とため息をついたムシュカは「……ともかく食事にするか」とその掌をテーブルに向けた。
……その瞬間、さっきまで大人しかった腹の音が響き始める辺り、記憶の有無に関わらずヴィナの食い意地は変わらないようだ。
「あ、ええと、殿下……?」
「……次に共に食べるのはこれだと、決めておったであろう? ……まぁ、お主は最初にここで食べているがな」
「!!」
「まぁそもそもあの時は、私の分まで食べられてしまったがな!」
「ぐっ……記憶がなかったとはいえ、本当に申し訳ございません、食いしん坊で……」
ことん、ことんと鉢の音がテーブルに響く。
「さっさと座らぬか」と新太を誘うムシュカの前には
「……翠玉飯店の、魚団子麺」
ほかほかと湯気を立てる、かつて約束した屋台の料理がでん! と鎮座していた。
「…………ふぅ……」
「……うん……美味い……やはりこの料理は神……」
静かな空間に、ずるずると麺を啜る音が響く。
怒濤の一日の締めくくりにはこのくらい優しい味がありがたいと、ムシュカはフォークで麺を口に運びながら、時折新太の姿をじっと眺めていた。
「ん? どうされました、神様……じゃなかった、殿下」
「……ふふ、なに、別に呼びやすい方で良いぞ」
「すみません……すっかり神様呼びが板に付いてしまって……なるべく殿下って呼ぶようにしますから……」
「気にせぬというに」
それにしても実に意外だったな、とムシュカは目を真っ赤にしてふふっと笑みを浮かべる。
そうして、きょとんと首を傾げるヴィナの口元に付いた薬味を指で掬うと「いや、記憶を戻す方法がな」と実におかしそうに語るのだ。
「あれほど直接愛を囁いてもさっぱり響かなかったお主の記憶を、正攻法で取り戻せるとは思わなくてな。とにかく好物を食べさせれば食いしん坊なお主のことだ、きっとヴィナとしての自分を思い出すだろうと」
「ああ、なるほど……でも、全然思い出せませんでした。いや、神様のご飯は現実世界で食べるどのご飯よりも美味しかったですけど!」
「そう言って貰えると嬉しいがな。まさか今際の際の再現で思い出すとは、随分遠回りをしたものよ……ははっ……」
腹の底から出てくる笑い声が、部屋にこだまする。
「まったく、笑いすぎて涙が出てきてしまったではないか!」と文句を言いながらも、その笑い声が止むことは無い。
――その涙も、乾くことはない。
「……殿下」
「…………あははっ……ひぐっ……はは……っ!」
(先生、あなたの仰る通りでした)
笑い声を響かせるムシュカの中で、一つの言葉が何度も繰り返される。
『殿下に涙を流させ、心を縛り付け、かようなお姿にしてしまうなど……このヴィナ・ヤーナイ一生の不覚でございます! かくなる上は腹を切ってお詫びを!』
(……我が国に、いや、我らの世界に、詫びるときに腹を切るなど言う珍妙な慣習を持つ者は、存在しない……!)
髪の色以外の姿形は、あの頃と変わらず。
魂に刻まれた記憶も、今や取り戻された。
そう、条件は整った。だから彼は確かに私の愛するヴィナである、筈なのに。
世界を超え、時を渡り、新たな命として生まれ知らない世界に立つ彼は、あの時のままの……甘く優しい時間を過ごした大柄な青年ではない。
「……ひぐっ……」
「…………殿下……」
そう、確かに願いは叶った。
だがその果てに得たものは、確たる喪失の慟哭だなんて、なんとこの世界は残酷なのだろうか。
(知りたく、無かった……ああ、けれどもう、私は認めざるを得ない)
私の愛した王宮近衛騎士団副団長、ヴィナ・ヤーナイは、もうこの世にはいない――
「あのっ殿下、そろそろ……」
「…………おお、もうそんな時間か。……なに、そんな不安そうな顔をするでない。大丈夫だ……うむ、また明日もここで待っておるぞ、ヴィナ」
「はい。……明日こそ神様に、じゃない、殿下にいっぱい笑って頂きますからね!」
「……ああ」
しんみりした空気を纏った夢の中に、夜明けを伝えるアラームが鳴り響く。
彼が何かを言葉にする度、追い求めていた影はさらさらと崩れ落ち……また一つ、ムシュカの嘆きが頬を伝う……
「……夢から醒めるとは、これほどまでに胸が軋むものだとはな……」
現実世界に戻る新太の背中は、自分の知らない希望の光を携えていて。
――それはまるで、目を背けていた事実を煌々と照らし、全てを受け入れよとムシュカを叱咤する、一縷の曙光のようであった。