第6話 泡沫の交わり
薄暗い廊下を、武装した二人の官吏がランプを掲げて歩いて行く。
その足音はどこにも響かない、いや、響かせない。
ここでは……人の気配など在ってはならないのだから。
等間隔に並んだ分厚い扉の向こうからは、時折声が聞こえる。
……否、それは声と言うにはあまりにも意味をなさない、ただの音と言った方が正確か。
官吏はのぞき窓からチラリと中の様子を見ては、手元の紙に何かを書き込んでいる。
「…………順調だな」
ようやく巡回を終え、控え室に戻った官吏は満足げに頷く。
その表情には途方もない安堵と、少しだけの哀れみが見て取れた。
「ん? ああ、新入りか」
「ええ。四六時中部屋をうろついては時折叫び声を上げるようになりました」
「確か今日で二週間だったな……はっ、元王族だろうがここの塔に来りゃ、皆同じさ。一月もすれば完全に頭がぶっ壊れて、生ける屍のできあがりだ」
さっさと壊れてくれないと、手間がかかるからな! と年長の官吏は大口を開けて笑う。
そうしてそんな上司に複雑な視線を向ける若者に「さっさと慣れないと、こっちが壊れるぞ?」と檄を飛ばすのだった。
「ここはただの幽閉用設備じゃないんだ。……ったく、お貴族様ってのはとち狂ってやがる!良くこんな残酷な仕打ちを考えたもんだな。これなら俺は、死刑の方がよっぽど幸せだと思うぜ!」
◇◇◇
(82……83……84…………)
ちゃり、ちゃりと纏わり付く金属の音を立てて、ムシュカは部屋の中をただ歩き続ける。
といっても、最低限の家具が何とか入る狭い部屋だ。10歩も歩かぬうちにその足はくるりと踵を返して、今来た道を戻らなければならないのだが。
(107…………108……)
頭の中で唱えるのは、歩いた数。
光を失った瞳でぼんやり足元を見つめて、一歩足を踏み出す度に数を増やして……いたはずなのに、ふっと空白が横切って、全ては水泡に帰して――
(…………いち…………に…………)
暫くぼんやり立ち止まったかと思うと、再び1から数を数え直す、その繰り返しだ。
――もう、何度数え直したのか、そもそも自分は本当に数え直しているのか、それすらあやふやだけど。
「…………まだ、昼か…………」
歩き疲れたムシュカは、ぽすりとベッドに腰を降ろす。
目の前に広がる風景は何も変わらない。何の装飾もない白い天井、白い壁、白い床、同じ木材で作られたであろうベージュのテーブルと椅子に白いシーツの掛かったベッド……この部屋に存在する色は、白とベージュと、織物の紺地だけ。
時計もないから、時間は格子の付いた小窓から見える太陽と月で把握するしかない。
……そう、この国の太陽と月がいる時間は一年を通してほぼ変わらないはずなのに、いつからか自分の世界は、月の何倍も長く太陽が君臨するようになってしまったらしい。
「……暇とは……誰とも触れあえないとは……まさしく拷問なのだな……」
敢えて言葉として刻まれたはずの音は、虚しく部屋の中に溶けていって……己の心にすら響かない。
ちゃり、ちゃり、ちゃり……
一定のリズムで鳴り続ける鎖の音は、少しだけ静謐の苦痛を紛らわせてくれる。
出来ればずっとこの音に縋っていたい……そう無意識に懇願するほど、心はこの何も無い世界を――自分という輪郭が奪われる静かな牢獄を、この上なく恐れていた。
――けれど、ムシュカは気付かない。
その鎖の音は、自らを戒める枷から、無意識に動く手首によって奏でられていることに。
「……私は……このまま、狂ってしまうのだろうな……」
絶望を纏った言葉に籠もる情感は、その事実には似合わぬほどうっすらとしたものだった。
◇◇◇
ムシュカがこの「新月の塔」に収容されて、二週間が経った。
日に三度の食事と三度のティータイム、そしてシャワーと着替え以外には何もすることのない……することのできない生活は、ゆっくりとしかし確実に、彼の精神を蝕んでいく。
「……扉はもう、開かぬのかもしれぬな」
ノブのない白い鉄の扉が閉じた日以来、ムシュカの耳が人の声を聞いたことは無い。それどころか、足音すらここには存在しないらしい。
部屋に響いたのは、食事を差し入れる盆の滑る音と、着替えのために扉の小窓に腕を差し出し手の鎖を外して貰う時を告げる、濁ったノックの音だけ。
週に一度あると言われた医師の診察こそ言葉を交わせるかと思っていたが、何のことはない、来訪すら告げず、扉に開いたいくつかの小窓を音もなく開けては、無言でざっと見た目を確認するだけのお粗末なもの――
そこに人としての血の通う何かは、全く存在しなかった。
あまりにも無為な昼の長さに耐えかねて、昼寝を試みたこともある。
けれどその先にあったのは、ヴィナがやってこないあの夢の部屋に一人佇むだけという別の意味の孤独で、それきりムシュカはどれだけ苦痛を感じようが……それ故に現実における己の輪郭があやふやになってすら、昼に夢の世界へ赴いたことはない。
――尤も、孤独な昼は太陽の下で彼が幸せに生きているという証拠であるから、知れた事自体は悪いことではなかったと思う。
カシャン
「…………」
差し入れられた茶と茶菓子の載った盆を、ムシュカは無表情のまま受け取りテーブルへと向かう。
ほかほかと湯気を立てる練乳と砂糖がたっぷり入った紅茶に、スパイスのきいたジャガイモがたっぷり入ったパイはきっと美味なのだろうが、最近では味すら世界から薄らいでいるようだ。
ただ、差し出されたものは口に放り込み、咀嚼し、喉を通す――ムシュカに残っているのはそれだけ。
そして……最近では、この味気ない食事に珍客が増えた。
『んぐ、んぐっ、ぷはっ……!! はぁっ、疲れた身体にはこの甘さが効きますな!! 殿下、このパイも絶品ですぞ!』
「…………」
隣で実に幸せそうに茶菓子を頬張り、眩い笑顔をこちらに向けてくるのは、近衛騎士団の装束に身を包んだ愛しい人。
相変わらず見ていて気持ちよくなるほどの豪快な食べっぷりに、ムシュカの頬も自然と綻ぶ。
こんな味も分からない狂いかけた自分が食べるよりも、彼が食べた方が余程茶菓子も喜ぶであろうとムシュカは皿を彼に寄せようとして……けれど、ふっと寂しい吐息を漏らして小さく首を振った。
「……お主はもう、この世にはいないであろう? ヴィナ」
悲嘆混じりの問いかけを投げたところで、彼は消えてくれない――そう、狂った心が作り出した幻の愛しき人は、食事の度にムシュカの所にやってきては、あの頃と変わらぬ笑顔を振りまいて……皮肉にも彼に現実という痛みを突きつけていく。
これは幻。
私は知っているのだ。
ヴィナは死んだ。そして毎夜夢の中で出会う『彼』は、かつて私が愛した……この幻の偉丈夫とは異なる存在なのだと――
「……呪いの寝具に、感謝せねばならぬな」
ムシュカは味のない色水を啜り、空虚な笑いをたてる。
そう、図らずとも道を踏み外した願いを立てたお陰で、この東雲の織物は事実を眼前に開陳してくれた。
それは果てしない絶望と痛みを今もムシュカに与え続け、その代わりに彼の足が狂気の世界に踏み出すのをすんでの所で押しとどめてくれている。
「…………にしても、食事の時だけ現れるとは……お主は幻すら食いしん坊なのだな」
気がつけば、外では雲の合間から月がそっと顔を覗かせていた。
一体いつの間に夜になったのであろうか。口の中に残る茶菓子の味も、先ほどまで食べていたものとは明らかに異なっている――
ああ、また一つ壊れたのだなと、ムシュカは心のどこかが剥げ落ちる音を感傷も無く眺め、ごろりとブランケットの上に寝転がった。
――夜は良い。
この織物のお陰で、何があろうが四刻だけは明晰で幸せなひとときを過ごせるのだから。
「……不思議なものだな」
焦点の合わない瞳が、すぅと瞼に覆われる。
その刹那、ムシュカの胸に過ったのは……暗闇にそっと差し出された蝋燭のような、ほのかな温かさだった。
(彼は、私がずっと願い続けていた『ヴィナ』ではない。分かっているのに……それでも、彼に逢うことを想うだけでこんなにも……胸が切なくて、温かいのだ)
◇◇◇
しゃらん……しゃらん……
いつもと同じ涼やかな装身具の音に、新太はぱぁっと顔をほころばせ、満面の笑みで「神様、じゃない殿下!!」と呼びかける。
「どちらでもいいと言っておろうに」と苦笑した様子で目の前に降り立つのは、いつもと同じ煌びやかな衣装に身を包んだ新太の推し神様だ。
穏やかに微笑むその顔色は決して悪くないが、日に日に瞳は濁り、力を無くしているのが明らかで。
しかし異変に気付こうが、新太はいつもと変わらず「はぁ、神様は今日も麗しいですねぇ……尊みに溢れているぅ……」とうっとりした表情で心の底からムシュカを褒め称える。
――かつて……前世を含めて長きにわたり、溢れんばかりに与えられた愛しい人からの賞賛をそのまま返さんがばかりに。
「ふふ……お主も変わらぬな、ヴィナ」
「はいっ! 神様がいれば俺はいつだって幸せですから! あ、尊死だけは気をつけていますから大丈夫ですよ!」
「う、うむ、相変わらずよく分からぬ概念だが、お主が笑顔だと私も嬉しいぞ。……今日も腹の音は立派だしな」
「ぐはっ……記憶を取り戻しても食いしん坊に変わりは無かった……」
諦めろ、地響きがしないだけましではないかとようやく心からの笑みを顔に浮かべたムシュカに(よし、今日も笑顔一つ頂きました!)と新太は心の中でガッツポーズを決める。
記憶が戻ろうが何だろうが、神様が自分の最推しであることに変わりは無い。ならば、自分がすることはただ一つ。
そう、推しを最高の笑顔にするための活動である。
「して……本当に構わぬのか? ヴィナ、お主今は辛いものは得意ではないと言っておったであろう」
「いやぁ、ものは試しかなって! 殿下にお仕えしていた頃の俺は激辛こそ至高、いつか辛さの極みを殿下と分かち合いたいと思っていたみたいですし、もしかしたら記憶と共に食べられるようになったかもなって」
「…………お主、何気に恐ろしいことを考えておったのだな……いや、私もお主のお陰で激辛料理の魅力を知れたのは事実だが、流石に胃や腸が焼けるような強烈さは次の日が大変すぎてどうも……夢の中だけに留めておいた方が良いぞ?」
冷や汗を流すムシュカの手に合わせ、とん、と二つ音を立ててテーブルに現れたのは、見目だけでその辛さが伝わってきそうな濃厚スープの米麺――かつてのヴィナにとっては最期の晩餐となった、曙の森亭の特製激辛米麺である。
香草と柑橘で和らいだ気分にはなるが、濃厚な魚出汁に混じるのはちょっと鼻がひりつくスパイスの香り。旨みと辛みの相乗攻撃が唇から胃までを焼き尽くす、少々冒険心を必要とする美食に二人は思わずゴクリと喉を鳴らす。
「確かにこんな見た目だった記憶が……何かあの頃より辛そうに感じるけど……」
「そうなのか? 私には全く同じ物に見えるが……その辺も異世界に行くと変わるのかもしれんな」
「ま、まあ、食べてみましょっか」
頂きます、と両手を合わせる仕草を不思議そうに眺めるムシュカに「これも今の世界の作法なんですよ」と説明しつつ、新太は箸で麺を掬い、ふぅっと息を吹きかけてほろほろになった魚の身とともにずるんと啜り込んだ。
「あ、うま」
口に含めばふわりと広がるのは、濃厚な魚の旨みと香草の爽やかさ。
大丈夫、これなら食べられるし結構美味しい、そう感想を口にしようとした次の瞬間
「っ、辛っっっっっっら!!! ちょ、みっ水っ、神様っ水おおぉぉ!!」
「なっ、そこまで悶絶するほどであったか!? 待て、ここは水より甘いもののほうが……何がよいかのう……」
「ひいぃぃ何でも良いんで早く下さい神様っ、舌が! 口が! 消化管が焼けただれるううぅ!!」
…………新太の口から上がったのは、まるで黒い煙が立ち上りそうな熱い絶叫だった。
◇◇◇
「うぁ……し、死ぬかと思った……ずずっ……」
「すまない、ヴィナ……せめて普通の激辛米麺にするべきであったな……」
「そこは殿下が謝るところじゃないですって! 俺が食べたいって言ったんですし。ただ」
「ただ?」
「多分俺の世界の肉体は、恐らくクラマ王国の『辛い』に耐えられるようには出来ていないかと」
「なんと……異世界とは身体の作り方から異なるというのか……」
慌てたムシュカにより召喚された大きな椰子の実に穴を開けストローを差し、ようやっと激辛の爆撃から解放された新太は、お詫びとばかりにこれまたムシュカが差し出したデザートを幸せそうに頬張りながら「結構味が淡泊なんですよね、今の世界は」と落胆を隠せない神様を一生懸命慰めていた。
濃厚なココナッツミルクに、角切りの芋と随分小ぶりなタピオカのようなつぶつぶがたっぷり入ったデザートは、口に含む度に広がる優しい甘さとほんのり効いた塩気が、焼け野原となった新太の消化器を優しく生き返らせてくれるかのようだ。
これなら俺の世界でも大人気になると思いますよ? と言いながら2杯目を平らげる辺り、その言葉に嘘はなかろうと確信しつつ、ムシュカは異世界のご飯事情に耳を傾ける。
「淡泊とは、味が薄いということか?」
「あー、直接的な……例えば甘いとか辛いとか、そういうのは薄いかな。ただその分、素材の味とか、出汁の味とかが複雑に絡み合った美味さが味わえるんです」
「ほう……想像もつかぬな……しかし異国どころか異世界の料理か、それは是非とも味わってみたいものだ」
お主が美味いという料理なら間違いは無い、と微笑むその瞳は、けれどやっぱり落胆と寂しさを纏わせている。
分かってはいる。そう、あの時……全ての記憶を取り戻したときに腹の底まで分からされたのだ、彼は過去のままのヴィナではないと。
それでも――
「……殿下」
「!! っ、あ、すまない、また」
新太の優しい呼びかけに、ムシュカははっと物思いから解放される。
そして、ああまたやってしまったと謝罪を口にすれば、新太はこれまたいつものように「謝るのは無しって約束しましたよね、殿下?」にっこり笑って、すっと右手を上げた。
その先にあるのは、かつて散々新太が神様に愚痴を聞いて貰い、全肯定のシャワーを浴び続けた寝心地の良いソファだ。
(神様があの時俺を全力で助けて下さったから、今の俺があるんだ。……今度は俺が推しとして、心のスパチャを送りまくる番)
「しかし……ここのところ毎夜ではないか」と戸惑いを隠せないムシュカの手をそっと握り、新太は今日も、この麗しい神様の復活を支援できる喜びに打ち震えながら、赦しの場所へと彼を誘うのである。
「ほら、今日も謝ったって事は必要ですから。さ、懺悔の時間をやりましょう!」
◇◇◇
最初はいつだったか、壊れかけた心ではもう、思い出せない。
ただ、どんなに辛い環境にあろうが……例えこのまま心が崩れてしまうことが確定していようが、最後の最後まで愛し子にかける笑顔は絶やすまいと気合いを入れてこの夢の中に飛び込んだある日。
涼やかな音と共に現れたムシュカを一目見た瞬間、新太は両手をがっしり握りしめて叫んだのだ。
「殿下、俺は心から神様に笑って欲しいと思ってます! だから……ずっと神様が俺をいっぱい許して認めて応援してくれたみたいに、今度は俺がいっぱい懺悔を聞きますから!!」
手首を包む大きな手は熱くて、ちょっと痛いくらいで。
その真剣な表情はあの頃と何も変わりが無く、それでいてあの頃にはなかった直截な感情表現がムシュカの胸をすとんと射貫いて――気がつけばその日は、子供のように泣きわめきながら幽閉の辛さを、そして『ヴィナ』を失った悲しさを朝まで語り続けたものだった。
あれ以来、彼は何かと理由を付けてはほぼ毎夜のごとく、自分をあのソファへと誘う。
昔のヴィナのような、どこまでも生真面目で切羽詰まった感じはなく、むしろ自分の懺悔を聞くのが嬉しいとどこか舞い上がっている様にすら見える分、こちらの罪悪感は少なくて助かっているのだが
「…………いつも思うのだが、やはりこれは逆ではないのか?」
「いやぁ……もうこの体勢がしっくり来すぎちゃって……」
……どうやら自分は、少々この青年の餌付け方法を間違えたらしいなと、ムシュカは下から見上げる曇りなき眼の眩しさに、少々目眩を覚えていた。
そう、上からではない。誰がどう見ても下からだ。
記憶を戻すきっかけとなった今際の際を思い起こさせる膝枕は、彼の中でこの上もない衝撃であったのだろう。もはや自分との間では、膝枕と言えばどんな立場になろうが「神様が、俺を、膝枕して下さる!」という様式美を確立してしまったらしい。
ちなみに先日悪戯心を出して「たまには私を膝枕してみぬか?」と誘った途端、彼は在りし日のヴィナを彷彿させるほど見る間に耳まで赤く染めて「か、か、かみしゃまを、ひじゃまくりゃあぁぁ!?」と奇声を発した挙げ句鼻血を出してしまったから、今のところ逆パターンは諦めている。
――あくまで今のところは、だ。いつか必ず見上げる立場を堪能させて貰う。
「……分かっているのだ。お主はあの頃のヴィナではない、新しい人生を生きるヴィナなのだと……ぐすっ……それでも、お主に在りし日のヴィナの欠片を感じれば安堵を覚え、異なればどこか落胆してしまう自分が……ひぐっ……なんと未練がましいことよ……ううっ、ぐすっ……」
「んー、でもそこまで前世の俺が殿下の心を縛り付けちゃったんでしょ? 殿下は何一つ悪くありません、むしろ神様がここまでのめり込まないと気付かなかった、あんぽんたんでおにぶちん騎士な俺のせいっす!!」
「……お主、自分のことなのに良くそこまで酷い言い草をするな……」
「いやもう、今は記憶だけでなく、神様目線で前世の俺を知ってますからね!! ……俺はここで出会ったときから神様一筋、そして推しの全てが尊い派ですから!」
とつとつと語って、ぽろぽろと涙を零して、そのうちにいつもムシュカは魔法が解けたかのように、今を表す……粗末な麻の上衣と銀の枷に囚われた姿に戻ってしまう。
あまりにも変わり果てた姿に新太の胸は痛むけれど、そんなことで推しの魅力は一ミリたりとも減りはしない。
「現実ではな、もう……記憶すら保てないのだ。昼は信じられないほど長く、亡者のように狭い部屋をうろつき、まともに数も数えられぬようになった。最近ではあれほど待ち遠しかった食事も……味がしなくてな」
「そっか、殿下はそんな過酷な世界で戦っているんですね……頑張ってますよ、十分」
「…………! っ、だが、戦うと言っても本当に……ただ彷徨うだけだ。心を蝕まれるのを留めることすらままならず……今はまだこうやってお主を感じられるが」
震える指が、新太の短い髪をかき上げる。
「この感覚も、お主と食べる料理の味も、いつか分からなくなるかも知れない……怖いのだ、そんなことになればまた、お主から笑顔が消えてしまうのではと……!」と再び大粒の涙を零すかつての主君に、ああ、この方はあの頃と何も変わらぬまま俺を愛し続けてくれているのだと、新太は切なさの中にどうしようもない喜びを感じてしまう。
(比べてごめん、って謝ってくれるってことは……神様、俺が過去のヴィナでなくても……って、うぬぼれちゃっていいですか……?)
「大丈夫です。俺は神様がどうなっても、それこそ俺のことが分からないくらい壊れたって、死ぬまで推し続けます! そう、俺は推し一筋ですから!!」
「……ああ、本当にお主は……愛いな……ところで」
「はい」
「前々から思っていたのだが、その推しとか一筋というのは、つまり私を愛していると言うことなのか?」
「…………愛、してる…………ひょえあぁぁ!? えっあっあのそのおっ俺が神様をあああ愛してっぐはぁっ!!」
「待て、どうしてそこだけは前世のもじもじヴィナのままなのだ!? いや、むしろ悪化しすぎであろう、また鼻血を出しおって!!」
神様、転生で人生経験を積んだお陰で愛されることには少し慣れましたし、推すことはできるようになりました。けれど、残念ながら愛の表し方については経験値が一ミリも増えておりません――
目を白黒させる新太の鼻に紙ナプキンを詰めながら、記憶のせいでどうにも中途半端に増えたヴィナの面影に(そこはもう少し積極性を育てて置いて欲しかったのだが)と複雑な気持ちを抱き。
(まあ……私が壊れても、お主の笑顔が失われぬのならそれで十分……私のせいで若き命を散らせてしまったのだ、今の人生ではずっと笑顔で、末永く幸せに過ごして欲しいものよ)
けれど未だ過去を手放しきれない今の自分には、この距離がちょうど良いのかも知れないと、喪失の絶望が落ち着く前に壊れていきそうな心を抱いたままムシュカは力なく笑うのだった。
◇◇◇
「なーんかさ、毘奈君最近ちょっと変わったよね」
「えっ、そ、そうですか?」
「うんうん変わった! なんだろう、前より逞しくなった気がする」
「何でも頼れそうな雰囲気が滲み出てるよな、確かに毘奈さんって見た目も頼もしいし、仕事の覚えも早いもんなぁ」
「あ、ありがとうございます……きっとこの職場のお陰です!」
今日も今日とて、新太は仲間と楽しく業務に励んでいた。
正直、作業量だけなら前の職場とあまり変わりは無い。だが、困れば必ず誰かが手を差し伸べてくれる環境と、なにより食事時間を含む規則正しい生活が保障されているお陰か、仕事の能率は飛躍的に上昇したと思う。
(……それだけじゃないよな。きっと『ヴィナ』のせい)
ログ分析のパターンを自動化するタスクを終え、新太はんんっと伸びをする。
時計を見ればちょうど良い時間だなと引き出しを開ければ、そこには変わらず白いういろうがちょこんと鎮座していた。
(記憶が戻った影響は、現実にも出るんだな……神様が分かるのは当然としても、確かに自分でもちょっと変わったと思うし)
小さなういろうのパッケージを剥く、ゴツゴツした指。筋がくっきり見える筋肉質な腕。
見せかけだけは立派で、どんな過酷な環境でも衰えない謎の筋肉の有用性など考えたこともなかったけれど、記憶が戻った今は……あの方を全力で守り抜くためのものだと知れたせいか、ちょっとだけ誇らしさを感じている。
(何か武道でも習ってみようかな……いや、筋肉を育てれば今の神様をお守り出来るわけじゃないけどさ……)
温かい緑茶を啜りながら、ういろうを一口。
あの頃は夢と繋がる甘さで現実を鼓舞するために欠かせなった半透明のもちもちは、今では業務の疲れを癒やし、推しの事を想い……今日も彼が陽の当たる時間に壊されず無事過ごせますようにと祈る時間と化していた。
――ああ、あの頃の神様も、こんな風に政務の合間に自分を想ってくれていたのかと思うと、嬉しすぎてその場に崩れ落ちそうだ。
(でも……凄いな。まるで運命の人みたいだ、最推しが前世の恋人だなんて!)
そりゃ一目で神にも認定するし、推しがどうなろうが死ぬまで推し続ける熱量も沸いてくるよなと、新太はにへらと笑いながらマグカップに口を付ける。
……しまった、まだ一気に飲むには少々熱かった。これは舌を焼いてしまったか。
「えへ……推しが運命……」
ヒリヒリする舌をチラリと出したまま、幸せに惚けている新太の脳裏に次々と浮かぶのは、神様と過ごした夢のような(夢だけど)日々だ。
神様手ずからご飯を食べさせて貰って、推しの膝で寛ぎ、特等席からあの麗しいご尊顔を拝受する……何と尊いことか……と悦に浸っていれば、ふとムシュカの声が頭の中を駆け抜けた。
『その推しとか一筋というのは、つまり私を愛していると言うことなのか?』
「…………ぶふぉっ!!」
突然の一撃に、新太は思わず鼻から茶を噴きそうになる。
ひとしきりむせ込んで、ようやく上げた顔は……絶対誰にも見られてはいけないくらい、真っ赤に染まっていて。
(え、いや、これは推しの感情……でっ、でもっ、確かに『ヴィナ』の愛してると俺の推しへの気持ちは似てて……あれ、もしかして俺の推し活、ただの求愛行動……?)
「…………忘れよう、うん、一旦これはペンディング!!そう、どっちにしても俺は神様が心から笑ってくれればそれでいい、OK?」
だめだ、どうやら今日は少し『ヴィナ』としての意識が強く出ているようだ。
そんな「あーん」とか、膝枕とか、あれが求愛だったなんて認定したら鼻血は必須、仕事が手に付かなくなる!! と、新太は慌てて煩悩を全力で振り払いキーボードに手をかけた。
◇◇◇
その夜。
今日は夕食を手作りし……毎度ながらちょっとよく分からない物体(味はいい、そう、味だけは!)をたらふく食べた新太は、ビール片手にまじまじと枕を眺めていた。
「やっぱり……お前、神様が言ってた呪いの寝具ってやつだよなぁ……」
ホームセンター出身の枕にかけておくにはあまりに勿体ない、上質な枕カバー。
不思議な男性から貰ったこの織物が夜毎頭を包むようになって以来、新太の人生は見事に好転した……まさに売り文句通り「願いの叶う枕カバー」が、実は呪いのかかった品かもしれないだなんて、正直今でも信じられない。
だが、虚ろな瞳からはらはらと涙を零す神様の口から語られた特徴を完全に満たした――東雲の空を流し込んだような深い紺色に桃色のグラデーションが見事な、恐ろしく触り心地の良い織物を前にこれまでの経験を重ねてしまえば、別世界の話だからと断じることは出来そうにない。
『絶対に叶わない願いをかけてしまったのだ……あの時の私には避けようがなかったし後悔もない、ただ……生涯解けぬ呪いのせいで、父王や母君、レナ、パニニ老師にラシッド……あまたの人たちに悲しみを負わせてしまった。それを思えば、心を壊される罰を受けても致し方あるまい』
『そんな……その、呪いを解く方法は無いんですか?』
『心からの願いが変わるという奇跡でも起きない限り不可能だと、先生は仰っていた。今のところは問題なく夢から醒められているが、いつ夢に閉じ込められるかもしれぬとも』
『そんな……!』
夢で願いを叶える、不思議な織物。
寝具が見初めた者の願いが叶い、次の持ち主が見つかるまでは決して側を離れないと神様は言っていたっけな、と新太は昨夜の話を思い起こす。
「お前、俺に付いてきてたっけ?」
「…………」
「……って聞いたところで、流石に返事はしないか……」
側を離れないとは言うけど、少なくとも突如職場に現れたことはなかった筈、と断じかけて、新太はふと気付く。
……よく考えたら前職の頃は、家に帰れるかどうかも分からない生活だったから常に鞄に入れて持ち歩いていたっけなと。
今は毎夜ここで寝ているから、枕カバーだって移動する理由がない。そりゃ、付いてくるもなにも確かめようがないわけだ。
「『叶う願いをかけていれば、呪いはいつか解除される』だっけ。……俺のかけた願いって、そもそも何だったかなあ……あの頃の記憶は曖昧なんだよな、神様とご飯以外」
なぁ、覚えてね? とつんつん枕を突いたところで思い出せるはずもなく。
少なくとも自分は毎朝元気に目覚めて仕事に行けているから、まあ大した問題は無いだろうと新太は結論づけ、つまみに手を伸ばす。
……時間は21時過ぎ。記憶によれば、王国ではそろそろ夜のティータイムの時間だ。
恐らく塔に囚われた神様も、今頃は月明かりの意味するところすら分からぬまま、幻となって現れるかつての自分と共に味のわからない飲みものを喉に流し込んでいる筈。
「……悪化、してるよなぁ」
ここ数日の逢瀬を思い出し、新太はぼそっと独りごちる。
記憶が戻ってそろそろ20日。夢の中のムシュカは常に気丈に振る舞ってはいるが、最近では目の焦点が合わなかったり、時折電池が切れたかのようにぼんやり目を開けたまま、ピクリとも動かなくなるときが増えた。
夢の中でさえこれなのだ、恐らく現実の神様はもう、限界を超えている――
「どんなお姿になったって、俺はずっと神様の推しだけどさ……でも、異世界じゃ励ましにもいけないよな。連絡も取りようがないし……」
助けたい、守りたい。
そう本能が叫び続けるのは、きっと「ヴィナ」の魂が震えるからだ。
心からの笑顔を見せて欲しい、幸せになって欲しい。
そう願うのは「新太」として、あの麗しい神様を尊び続けているからに違いない。
手を伸ばすには、遠すぎる。
今となってはどこにあるかも分からない、そもそも時間軸だって同じかどうか定かでない世界に住む神様に自分が出来る事なんて、精々夢のなかで楽しませるくらいで――
「……あ」
その時、新太の頭の中に稲妻が走る。
――あるじゃないか。自分にしか出来ない、愛しい人を喜ばせる方法が!
東雲の織物に目をやり一瞬躊躇したものの、パン! と頬を両手で叩いて気合いを入れた新太は、むんずと枕を掴む。
そしてあぐらの中に立てて「なぁ、呪いだか願いだかどっちでも良いんだけどさ」と真剣な面持ちで話しかけるのだった。
「……でさ、これなら今の神様でもきっとびっくりして、楽しくて、美味しいと思うんだ。……お前が本当に願いの叶う枕カバーだというなら、この『神様を元気にしようツアー』を夢の中で実現させてくれ。後は、俺が頑張って神様を笑顔にしてくるから、さ!」
◇◇◇
最後に太陽と月を知ったのはいつだったか、もう、思い出せない。
全てが朧げで、途切れ途切れに明滅するもやのかかった世界の中、ヴィナと過ごすひとときだけが輪郭を伴い……私に命を吹き込んでくれる。
カシャンと何かが鳴る音と、己を「かみさま」と嬉しそうに呼ぶ声。
私はずっと、その二つだけを楽しみに崩れかけた心をかき集め、どこかを揺蕩い続けているのだ。
けれど、何故だろうか。
騎士としてのヴィナと、異なる世界のヴィナ、私に途方もない安寧と幸せの味を教えてくれるのは、後者の——私がかつて求めていた方ではない、ヴィナだけであるのは……
ちゃり、ちゃり、ちゃり……
今日も規則的な何かの音が、遠くから聞こえてくる。
「……ヴィ……ナ……」
どこかで聞いた言葉が、喉を震わせる。
分からない、何も、分からない。
ただ……胸の中に灯る温かさは……まだ、消えていない……
月の光も差し込まない暗闇に覆われた部屋の中、粗末なベッドに腰掛けたままのムシュカが、そっと胸に手を当てる。
その瞳は既に、何も映していない。その唇は渇き、口の端には一筋の涎が伝い、ぼんやりと開かれたまま。
(……ヴィナ…………)
何かの呪文のように、認識出来ない言葉を呟いたその時、ふわりと腰の下に敷かれたブランケットが淡い光を放ち――
「…………ぁ……?」
次の瞬間、ムシュカは知らない洪水に巻き込まれた。
◇◇◇
「な……え…………!?」
眼前に叩き付けられた光景に、ムシュカの瞳孔がキュッと縮む。
それは、最早自分と同一化したのではないかと思うほど単調な白い壁や天井ではなく、ましてほどけた記憶の欠片にあった気がする懐かしい城下の風景でもなく――見知らぬ、何かだった。
けたたましい音、音、音。
黒い石畳のようなものが無限に敷かれた地面を、馬のない奇天烈な形をした……あれは車輪が付いているから馬車だろうか、謎の物体が恐るべき速度で通り過ぎていく。
青い空の下に林立するのは、どこまでも高く伸びゆく樹木……ではなく、石とガラスで出来た面妖な建物だ。
色とりどりの看板が明滅し、それどころか喋っている。
右を向いても、左を向いても、色と音と光が溢れかえっていて、ムシュカの全身を撃ち抜いていく――
「ひ……っ……!!」
その衝撃に苦痛と恐怖に顔を歪めたムシュカは、咄嗟にその場にしゃがみ込み、ぎゅっと目を閉じて耳を塞いだ。
分からない、これが何なのかはまったく分からないが、ここは私を傷つけるだけの地獄に違いない――!
頭の中に錐を打ち込まれ、のみで削られ、錆び付いたのこぎりをぎこぎこと引かれるような形容しがたい不快感に、ムシュカはただ打ち震えることしか出来ない。
(あ……うぁ……いや……いやだ…………)
恐慌状態に陥った、光の灯らない瞳から、涙が一筋つぅと流れる。
ああ、私が壊れる――そう確信を抱いたその時、ムシュカの唇から溢れたのは
「……ヴィナ…………!!」
――意味は分からないが、温もりを覚えた、音の連なり。
「ヴィナ……ヴィナ、ヴィナ……」
何度も、何度も、世界から取り残され消えかけた欠片が、音を放つ。
……一体幾度、それを繰り返しただろうか。
震える身体にふと影が落ち、それにムシュカが気付く前に、柔らかさと温かさがそっと彼を包み込んだ。
「ぁ…………?」
「神様!! 大丈夫ですか! うわー駅前はヤバかったか、スタート地点はもうちょっと静かなところにするべきだったなあ……」
恐る恐る瞼を開ければ、そこには短く刈り上げた黒髪の生え際から額に三本の傷を刻んだ青年が、心配そうに自分を見下ろしていて。
ああ これは ぬくもり
「……ヴィナ」
「はい! ほんとすみません、ちょっと喧しかったですよね! ああでも、もう大丈夫です。俺が一緒にいますし、ここは車にだけ気をつければ安全ですから!!」
「…………ヴィナ……」
「……はい、神様。あなたのヴィナはここに……ずっといます」
優しい眼差しで微笑む青年の熱が、じんわりと恐怖を溶かしてくれる。
気がつけばムシュカは譫言のように「ヴィナ……ヴィナ……」と繰り返しながら、己を抱き締める胸に頭をもたせていた。
◇◇◇
「……様…………神様?」
「っ……!?」
はっと気がつけば、周囲の景色はがらりと変わっていた。
「……ここ、は……」
「あ、神様ちょっと戻ってきました? んー……でもまだぼんやりかな……」
「ヴィナ……」
「はい、俺はヴィナです。えっと、細かい説明は後でするんで、取りあえず食べましょ!」
「たべ、る……?」
先ほどよりはマシになった喧噪の中、どうやら自分はどこかの食堂で食事を摂ろうとしていたようだ。
目の前に座るのは、先ほど謎の状況で自分を包んでくれたぬくもり――そう、彼はヴィナだ。私がかつて愛した……そしてその幸せを誰よりも願う愛し子だと、泥のような頭がようやくピースを一つ繋ぎ合わせる。
「……ヴィナ……私は……」
「大丈夫です。神様は今日も麗しい、俺の最推しの神様のまんまですから!! あ、来た来た」
状況を尋ねようと口を開きかけたその時「お待たせしました-!」と威勢の良い声と共に、ことん、ことんと目の前に大きな鉢が置かれる。
途端に鼻をくすぐるのは……まろやかな、けれど全く記憶にない不思議な香り。
「……んん? 白いスープの……麺?」
鉢の中を覗き込んだムシュカが目をぱちぱちと瞬かせる。
そこに盛られていた麺料理は、これまでムシュカが味わってきた多種多様な麺のどれとも異なる、まさに謎の物体であった。
クリーム色の濁ったスープから少しだけ顔を覗かせているのは、黄色い麺だ。
だが、見慣れた麺よりはずっと細い。というか、このような細さの麺など見たことがない。一体どうやって作っているのであろうかと、味より先に製法が気になってしまう。
表面を彩る具も、不思議なものばかりだ。
見慣れた形の三枚肉や半分に割れたゆで卵、どっさり載せられたネギはともかくとして、短冊状の茶色い物体は生姜にしては少々柔らかそうに見えるし、黒い細切りの食材も初めて見る。
謎の黒い紙に至っては、それは口にして良いものなのか? と疑問しか浮かばない。
これはラーメンって料理なんですと、新太は戸惑いを隠せないムシュカに、すりおろしニンニクの入った容器を渡す。
良く見れば彼の鉢にはたっぷりとニンニクが入っていて、なるほどヴィナがそうするならきっとその方が美味いと、ムシュカの手は自然と容器を手に取っていた。
――そうだった、ヴィナは何よりも食べることが、そして美味しいものが大好きで……その気持ちの良い食べっぷりを見ているだけで、こちらまで幸せになって自然と頬が緩むのだ。
「じゃ、伸びないうちに食べましょ! ……いただきます」
「…………」
いつものように手を合わせ、箸を片手に額に汗を浮かべながら豪快に麺を啜るヴィナ。
「かーっ!! やっぱここの豚骨は濃厚で美味い!!」と満面の笑みで叫ぶ様を見ていたら、くぅ、と腹の中から音が聞こえるのを感じて。
(……私の腹も、鳴るのか)
その思考が泥の中から浮かび上がるのと、ヴィナに手渡されたフォークで麺を掬い、そっと口に含むのはほぼ同時だった。
「ん…………ん? ……んんっ!?」
歯に触れるのは、知らない麺の硬さ。
こんなに細いのに、今まで食べたどの麺よりも芯のようなものを感じて、けれど噛み切れないわけではない。
もぐもぐと噛めば小麦だろうか、ほんのり甘く香ばしい香りが口の中に広がっていく。
そして
(知らない……何だこの、ふくよかで獰猛でありながら、どこか優しさを纏った美味さは――!!)
麺に絡んだ豚骨スープの風味が口の中を満たし、鼻を駆け抜け、泥濘んだ脳をかき混ぜる。
その味は決して鮮烈ではない。辛味も、甘味も、塩味さえも食べ慣れた料理と比べれば実に淡く……なのにどこにも物足りなさがない。
いや、それどころか……美味さが波のように何度も打ち寄せてきて、その度に私が形を取り戻していく――!
「はふっ……むぐ……はぁっ、ふーっふーっ……ちゅるっ……」
ムシュカは一心不乱に麺を、具を、スープを口に運び続ける。
額にはほんのり汗が滲み、生気の無かった顔には赤みが差して、ときおり「……はぁ……っ……」と吐息を漏らしながら、けれど食べることを止められない。
(美味い……そう、これは美味い、だ。……だが、私はこの美味さを…………言葉に、出来ない……!)
ほんのり甘い豚の角煮が、シャキシャキのネギが、半熟の煮卵が、あらゆる角度からムシュカに旨みを差し出してくる。
得体の知れなかった生姜もどきは随分歯ごたえのある食材で、噛めば噛むほどその塩気と共に広がる味が、まろやかなスープにちょっとしたアクセントを加えて――
「…………ヴィナ……」
「んぐっんぐっ、はぁっ、んっ……どうしました? 神様」
「……美味い…………美味いのだ……ああ、そうだ」
……そうだった。
ここは全てを失った自分にただ一つ残された、色の付いた夢の中。
目の前で汗だくになりながら「美味いっすよね? 良かったぁ、神様なら絶対好きになると思ったんです!」と無邪気な笑顔を見せる青年は、この夢の中でしか逢えない、かつて私が愛した青年の成れの果て。
そう、こんな壊れかけた私すら神様と尊び、その幸せを、心からの笑顔を願ってくれる、私の愛し子、私のヴィナだ――
「ヴィナ……お主と食べるものは、何だって……何だって美味いに決まっている……!!」
ぽたり、ぽたりとテーブルに涙が伝う。
一粒溢れる度に、ムシュカを覆っていた霧が晴れ……ようやくムシュカは、自我崩壊の危機から己を取り戻したのである。
◇◇◇
「ヴィナ、その……すまなかった。無様なところを見せてしまって」
「え? 大丈夫っすよ! ラーメン美味かったって言ってくれただけで俺はもう……はぁあ幸せが過ぎる、推しとこの味を共有出来た喜びで今なら空も飛べそうな気が」
「夢とは言え、お主の筋肉は空を飛ぶようには出来ておらぬぞ、やめておけ」
ムシュカの突っ込みにええーと口を尖らせながらも、新太は実に嬉しそうだ。
ここしばらくはずっと濁ったままだった瞳にようやく光が灯り、先ほどまでとは一転して神様らしさを取り戻した推しに大いなる安堵を覚え、ついでに(やはりこの作戦はいける!)と心の中でぐっと拳を突き上げている。
「それはそうと……ここは夢ではないのか?」と時折顔を顰めながら辺りを興味深そうに見回すムシュカを、途中で耳栓でも買ってきた方がいいかな? と案じつつ、新太はこの状況の種明かしを始めた。
「実はこれ、俺が作ったんです」
「作った」
「はい。ほら、夢の中だと服装も自由に変えられるでしょ? てことは、応用したら夢の中の景色も変わるんじゃ無いかなって思って」
「ふむ」
「なので俺の住んでる街を……今、俺が生きている世界をそのまんま作ってみました!」
「いやいや、応用と言うには少々規模が大きすぎではないか!?」
新太が思いついた「神様を元気にしようツアー」――それは全てを奪われた塔の中に閉じ込められその心がいつ崩壊してもおかしくない神様に、夢の中でこれまで食べたこともない美味しいものをたっぷり食べさせることで、美味しい幸せを思い出し元気になって貰おうという、実に食いしん坊の発案らしい企画であった。
とはいえ、元王太子であるムシュカの知らぬ美食など、彼の世界には存在しない。
強いて言うなら庶民的な美食は王族には無縁――だったのだが、お忍びと称した街歩き(とヴィナによる熱いプレゼン)のお陰で、ムシュカの頭と舌には古今東西の屋台飯からジャンクフードまで、ありとあらゆるレパートリーが記録されてしまっている。まったく、我が前世ながら愛情が食に飛び抜けすぎだ。
「で、思ったんです。……殿下の世界を食べ尽くしたなら、ここは一つ俺の世界の味を知らしめるべきだって!」
「結局食に走るあたり、お主はやはりヴィナであるな……」
「ぐっ……で、でも美味しかったし!! 神様、俺のことも分からなくなるくらいおかしくなってたのに、ラーメン一つで元通りになったし! この作戦は大成功っすよ、ついでに神様も食いしん坊認定ですね!お揃いばんざい!!」
「半分以上はお主のせいだがな!」
軽妙な掛け合いに何とも言えない心地よさを感じながら、すんでの所で己の心をすくい上げてくれた新太に、ヴィナは心から感謝する。
そして……こんな時間は「ヴィナ」とは決して取れなかったと、ふと昔を思い起こすのだ。
(……神様とは呼ぶが……今の私とお主は随分と近いところに並び立てているらしい)
覆しようの無かった身分差と、それ故の自尊心の無さ。
ヴィナはその命を散らす瞬間まで、恋人でありながらそれ以上に忠臣であった。
だが……転職を遂げてからの新太に、その面影は微塵も見受けられない。
ああ、こうやって人は数多の世界を渡り歩き、命を繰り返しながら育っていくものやもしれぬと、ムシュカはなんとも言えない感慨にそっと胸を震わせる。
……震わせているのはそれだけが理由ではないという事実にも、薄々気付きながら。
けれどもう少しだけ見定める時間が欲しいと、愛し子の笑顔を眺めながら、神様はそっと祈るのである。
それにしても、とムシュカは少し怪訝な顔で周囲に目をやる。
気のせいか、それとも久しぶりの喧噪ゆえだろうか、どうも周囲の人に見られているような気がしてならない。
それを新太に零せば、彼は「はっ!!」と何かに気付いたようで途端に両手で顔を覆ってしまった。
「……やらかした…………神様の服……」
「服? いつもの装束だが……特段変わったところは無さそうだぞ?」
「いやその、服のデザインがそもそも問題でして……殿下、周囲を観察して下され」
「…………何とも面妖だが味気がない装束ばかりだな。はっ、もしやここは奴隷達の街」
「いやまぁ社畜という意味では奴隷みたいなものですけど、これがこの世界の一般的な服装なんです! なのでその、神様の服は……コスプレみたいというか……あとその美しい金色のメッシュも……」
「なるほど、この上なく目立っていると」
すみませんと平謝りで近くの服屋に駆け込もうとする新太を「よい」とムシュカは引き留める。
けれど、と大柄な身体を丸めてどうにも落ち着かない様子の愛し子に、ムシュカはどこか生き生きした様子で「この方がむしろ、慣れておるからな!」と微笑みかけるのだった。
「実はな、見られれば見られるほど頭の霧が晴れるようなのだ。そう、視線を浴びると気分が良くなって……むしろ昂ぶってくるからな!」
「ちょ、神様しーーーっ!! その言い方は誤解を招きかねないですからっ、大声で言っちゃダメです、あっ、やばいお巡りさんが見てるっ! ね、ほら神様っ、あっち行きましょうあっち!!」
◇◇◇
一度人気の無い路地に逃げ込み視線をやり過ごした後、「お主の世界の市が見たい」というムシュカと共に商店街を練り歩き、異世界の技術に目を白黒させる神様の姿を悦に入りながら堪能して。
休憩がてら入ったカフェで、新太は迷うことなくクレープを注文する。
ここのクレープは他の店よりクリームが多くてしかも美味しいと、当然(実食で)リサーチ済みだ。
クロテッドクリームをあれほど愛していた殿下なのだ、きっと気に入るに違いないと選んだメニューは案の定ムシュカの舌に革命を起こしたようで「こんなに柔らかくてしつこくないクリームなど、初めて食べた!」といたくご満悦な様子だ。
(よかった。このまま神様が、少しでも長く笑っていられますように…………!)
こうやって彼の知らない味を夢の中でたくさん振る舞えば、もしかしたら現実の世界で心が壊れるのを防げるかもしれない。もし防げなくとも、少しでも楽になれればと、新太は早々に次のプランを頭で練っていて……ふと思い出した大切なことを、目の前の神様に告白する。
「ずっと黙ってた、というか俺も記憶が戻って気付いた事なんですけど」
「うむ」
「……今の名前は『ヴィナ』じゃないんです」
「な……何だと!?」
クレープを握りしめたまま呆然と「し、しかしお主、最初から『ヴィナ』と呼べば反応しておったではないか!」とムシュカが突っ込めば「いや、その……発音が似ていたので……」と新太は少々照れくさそうにぽりぽりと頭を掻いた。
――その顔は久しぶりに見た気がする。
だが、記憶にある表情よりも不思議と愛らしさが増して……何とも胸が温かい。
「ぶっちゃけですね、良く聞けば違うんですけど……神様の発音だからお洒落なのだと思ってました」
「お主は時々、脳みそをどこかに置き忘れてきたかのような発想をするな、ヴィナよ……して、本当の名前は何というのだ?」
ええと、と新太がポケットを探れば、固い物が手に当たる。
まさかスマホまで再現されるとはと少し驚きつつ、新太はメモアプリを開いて人差し指ですすっと小さな画面に文字を綴った。
『毘奈新太』
「…………何ともややこしい文字じゃな」
「ですよね。これで『びな あらた』と読みます」
「ヴィナ、アラタ……」
「あーやっぱり、発音はそうなっちゃうんですね。で、今の俺は毘奈が名字、新太が名前なんです。ヤーナイに当たるのが毘奈、ヴィナに当たるのが新太、ってことですね」
「! なるほど……つまり、お主はヴィナと呼ばれて自分の名字を呼ばれたと」
「ですね。お陰でなんの違和感も感じられませんでした!」
「それは確かに……いや、少しは感じた方が良かったのでは……? お主、ヴィナが混じっている割には少々繊細さが吹き飛んでいるような」
(しかし……そうか、名前も違ったとは……本当に別人であるのだな)
呆れながらも胸に過るのは、過去が遠くなっていくちょっとした寂しさ。
けれど……悲しくはない。ただ、どこか懐かしい思い出としてそっと宝箱の中にしまわれるような、そんな穏やかさが余韻のようにムシュカの中に響いている。
「ならば今後は、アラタと呼ばねばならぬな……もぐもぐ……ふぅ、しかし本当に天国を模したような味だな……これほど柔らかでとろけるようなクリームを堪能出来る逸品は我が国にもなかった、流石お主の選ぶ料理は絶品だな、アラタ!」
ムシュカは二つ目のクレープを小鼻を膨らませて頬張りながら、上機嫌でうんうんと頷く。
知らなかったとは言え、名字で呼ぶようなよそよそしさを彼に味わわせていたのは実に申し訳なかった。これからは親しみを込めてアラタと呼ぼう、そう決めて顔を上げれば……そこには、見たこともない顔をしたまま完全に時が止まってしまった新太がいた。
「……アラタ? ……おーい、アラタ、どうしたのだ!?」
「…………いけません、殿下……その呼び方は……」
「ぬ、発音が悪いか? すまない、呼び慣れぬものでな。ちゃんと練習して」
「そ、そうではなくて」
何故か新太は、胸を押さえたまま天を仰ぎ、微動だにしない。
ただならぬ様子に「どこか調子が悪いのか?」とムシュカが身を案じた次の瞬間
「だめです殿下、その呼び方は俺が死にます! いや、もう死んだ! 骨は拾って下され!!」
「何なのだ一体? アラタお主、実は重い病に冒されているのか? しかし名前を呼ばれるだけで死に至る病など、私は聞いたことが無いぞ!」
「うああああいけませぬ!! 神様の口からその名前で呼ばれたら、尊死するに決まってるじゃないですか!」
「そっ、そう言うものなのか!? 異世界は珍妙なことが多過ぎであろう!!」
……その後、30分ほどかけて新太はムシュカに現代社会の推し概念をそれはそれは懇切丁寧に説明し、その勢いにちょっと引いた神様は渋々これまで通りの呼び方を続けると約束する羽目になったのである。
「なるほど、それが尊いという概念だと……」
「ええ、ですから神様は存在そのものが尊くてですね……頭のてっぺんから足の先まで俺の理想をこれでもかと詰め込んだ、そう、俺専用尊さの権化、最終兵器なんです!」
「ううむ、いまいち理解は出来ぬが切実さは伝わった。して、ヴィナよ」
――ただし、とんでもない威力を誇る爆弾と共に。
「……ヴィナよ、お主……今も私を愛しておろう?」
「!? な、でっ、殿下ちょっいきなり何をぶっ込んで」
「良いかヴィナよ、そのような珍妙な言葉を使わずとも、普通に愛を語って良いのだぞ? シンプルに『好き』でも、お主の言葉から紡がれるのであれば私は十分嬉しいのだから」
「はへっ!? ……あわわわそんな俺が殿下をしゅ、しゅきって言うだなんて……尊さが過ぎて畏れ多いです申し訳ございませんっ!!」
「だから!! お主はなぜ相も変わらず私を恋人と認識した途端に、もじもじヴィナに戻ってしまうのだ!?」
過去の影から今の君へ、推しへの熱情から素直な愛へ――
彼らの想いは少しずつ違った軌跡を描きながら、距離を縮めていくのかも知れない。
◇◇◇
「ほう、ここは串焼き肉の店なのか! しかもなんと様々な部位を取り揃えておるのだ……肉団子まで串になっておるではないか」
「正確には焼き鳥っすね。こっちは全部鶏肉。ここが豚肉、で、こっちに変わり種が」
「うむぅ……この店内に漂うなんとも言えない香ばしさのお陰で、どれも美味しそうに見えるぞ……何と罪作りな煙め!」
新太の世界をそのまま持ってきたと言うだけあって、今日の夢では時間の流れが空に映るようだ。
空が茜色に染まる頃、二人は新太が行きつけだという焼き鳥屋へと足を運んだ。
目の前に広げられたメニューの多さにまるで子供のようにはしゃぐムシュカを見ていると、新太の中に遠い記憶が……王宮で「ヴィナ」として彼に出会った頃の日々が色鮮やかに蘇る。
(……全く気付いてなかったわけじゃないんだよな『ヴィナ』は。ただ、主君たる少年が奴隷身分である自分に恋などしてはならない、一時の気の迷いで終わらせなければ……って必死だっただけで)
しゃらん、と涼やかな音を立てるお揃いの髪飾りは、ヴィナにとって生涯の宝物だった。
だが、よそ者の奴隷風情が幼い恋心に応えることなど到底許されない――
だから万が一にも不遜な気持ちを抱かぬように、彼はこの耳飾りを己への戒めとして常に身に着け続けていたのだ。
(ま、それが余計に殿下の恋心に火を付けちゃったんだよなぁ……そりゃそうだよ俺、贈り物を好きな人がずっと身に付けてくれてたら、脈ありって思われるに決まってるじゃん!)
やっぱり鈍感ではあったなぁ……と遠い目をしながら、やってきた店員にいつもの癖で「生ふたつ」と言いかけて、ふと新太は我に返った。
「……ええと殿下。殿下は今、おいくつになられましたか?」
「歳か? 今の日付が分からぬからなんともなのだが……塔に護送された時は19であった。確か6月の中頃であったような……」
「暦は俺の世界と連動していそうですね、ならウーロン茶二つで」
「ウーロン茶二つ、承りました-!」
歳が関係あるのか? と首を傾げるムシュカに「この世界には、大人にならないと飲めない物があるんですよ」と早速届いたウーロン茶のジョッキを片手に、新太は説明する。
――クラマ王国は数多の美食に溢れる世界であったが、何故か酒という概念だけは存在しなかった事に今更驚きを覚えつつ。
「さけ……大人の飲み物……それは美味いのか?」
「うーん、美味しいかというと……いや、ちょっと殿下の知ってる美味しいでは言い表せないですかねぇ。ふわふわ気持ちよくもなりますし。あ、うずらは少し冷まさないと火傷しますよ」
「あちっ! はふっはふっ、もっもう少し早く言って欲しかったのう……それにしても、何故こんなに味が薄いのに美味なのだ? これは塩と胡椒だけであろう!? 美味いの概念がひっくり返ってしまうではないか!」
「ですよね! でも、殿下はまだその一端しか知らないんですよ?」
これで一端というのか!? とムシュカは心底驚きながら、次々と運ばれてくる焼き鳥を頬張る。
見慣れた串焼きより一回り大きい肉達が刺さった串は、確かに甘塩っぱいタレと炭火の香りも素晴らしいのだが、何より肉が絶品だ。こんなに柔らかく、しかも噛めば噛むほど肉汁が中から溢れてきて口の中を優しい甘味で満たす肉など、王族であった自分でも食べたことがない。
「なるほど、淡泊だが美味い……素材そのものの旨みが、これほどまでに慎ましやかに、だがはっきりと主張をする料理、まさに異世界の美食であるな」
「見た目は似ているのに全く別物で、脳が混乱する」と幸せそうに口に運びながらも、ジョッキに並々と注がれふわふわの泡が今にも溢れそうなビールに興味津々のムシュカを「お酒はこの世界じゃ二十歳になってからなんです」と窘めれば、神様は音がするくらいがっくりと肩を落とした。
「……私は既に大人であろうが……15で成人して何年経ったと……」と文句を言っている辺り、新たなる概念を味わえなかったのが心の底から残念だったのであろう。それはそれは未練たっぷりの視線が、じっとりこちらに絡みついてくる。
(この世界基準なら、神様も十分食いしん坊だな……)
殿下だってクラマ王国の民だ。よそ者だった俺ですらあれほど食に魅せられた国に生まれ育った者が、知らない味に興味を惹かれないわけが無い。
新太はこの作戦の成功を確信して、困ったげに笑いながら「神様」と優しい声で語りかけた。
――この作戦は、今日で終わりではない。むしろこれが始まりなのだと告げるために。
「今回は無理ですけど……二十歳になったらまた、ここに来ましょう」
「!」
「それに、これだけじゃないです。俺の住む国は、クラマ王国に負けないくらい美味いものがいっぱいあります。それこそ無数に、俺の人生全部かけたって食べ尽くせないくらいに……!」
「ヴィナ……お主……」
「だから俺、何回でも夢にこの街を作ります。大丈夫、神様が現実でどれだけ壊されたって、俺が美味しいご飯で何度でも元気にしますから! だから……明日も、明後日も、ずーっと……俺はここで、殿下と逢いたいです!」
「っ…………!!」
魂が壊れて抜け殻になっちゃっても、しわしわのおじいちゃんになっても、俺の最推しの座は永久に神様のままですから――
(……ああ、そうだな。お主はお主だ。ヴィナだが……私の愛し子、アラタだ)
にっこり笑って「約束ですよ」と差し出されたのは、ゴツゴツした小指だ。
何でもこの国には、大切な約束を交わすときには互いの小指を絡めてまじないを唱えるのだという。
「お主が業火渦巻く修羅の国であっても、この世界を選んだ理由がよく分かった。……憧れた黒髪と、美食を共に満たすなぞ、これほどお主にぴったりの世界は二つとあるまい」
「あー、業火については……いいや、またいつかちゃんと説明します」
「ああ」
(……ああ、またいつか。……どれだけ心が朽ちようとも、私は必ず毎夜お主に出会い、お主の幸せを永久に祈り続けることをここに誓おうぞ、ヴィナ)
言葉にならない数多の気持ちを込めて、ムシュカはそっと白魚のような小指を新太に絡める。
その眦には、この夢に飛び込んできたときとは輝きを異にする涙が光っていた。
「ゆーびきりげーんまーん、嘘ついたら針千本飲ーますっ、ゆーびきった!」
「ちょ、ちょっと待てヴィナ!? なんだその地獄のようなまじないは!! いや、ちゃんと来る、何があろうともお主には会いに来るぞ! 来るが、罰として針を千本も食べるとは特製激辛米麺のほうが余程優しいではないか! やはりこの世界は修羅か!? 修羅なんだな!!」
「あー……いやぁ、異世界交流って意外と大変っすねぇ……」
◇◇◇
夢の中とは言え、ちゃんとお腹はいっぱいになるらしい。
そう言えばいつもは新太に与える事を優先していて、ここまでたらふく食べたのは初めてかも知れないなと、ムシュカはすっかり陽の落ちた街を新太と仲良く手を繋いで散策していた。
……もう、その横顔に照れを見出せない事への寂しさは感じない。
目一杯の笑顔と優しさで自分を受け入れてくれる新太は確かに私の愛し子だと、きゅうと胸が甘い痛みを覚えている。
問題があるとすれば、ここで昔のように直截な愛を囁けばたちまち真っ赤になって、しどろもどろのヴィナが出来上がってしまうことくらいか。
(……いいや、そこもいつかお主は育つのであろう?)
王国とは比べものにならないほど明るい夜を通り抜け、二人の足は住宅街へと向かう。
それはムシュカの希望で、新太にとっては心臓が夜空に打ち上がりそうなほどの大変な事態だということに、この神様は全く気付いていない。
「あの、神様……ほんっとうにいいんですか? 俺の家に来るだなんて」
「むしろ何の問題があるのだ? まだ夜明けのあらあむとやらも鳴らぬし、慣れたとは言え喧噪の中は疲れるから少し休もうと言ったのはお主であろう」
「いや、それは確かにそうなんですけどっ! そんな前世にも無かった突発リアイベは、いや夢だけど、とにかくっ心の準備という奴が」
「……お主の世界の概念は、時々訳が分からぬな……」
そうして歩くこと15分、郊外のありふれた単身者用アパートの2階。
階段を上がりながら「……どうにも嫌な予感がするのだがな」と顔を強張らせるムシュカの懸念は、見事的中する。
「殿下、ここで靴を脱いで下さい。えっと電気電気……あれ? 今日は枕カバーが光ってないな……流石に夢には再現出来なかったのか」
「……な…………!?」
ムシュカの国は、未だ蝋燭と小さなランプを灯りとして使うような世界だ。だから月明かりがあれば、灯りなどなくとも部屋の中は十分見渡せる。
そして彼の国は人口に対して国土は広く、土地も安い。庶民だろうが、風が通り抜ける広々とした住宅を持つのが常識で。
――つまり扉が開いた瞬間、目の前に飛び込んできた風景にムシュカが叫ぶのも、後から思い返せば致し方なかったのだ。
「お主、やはりこの世界でも奴隷身分だったのではないか!!」
「へっ」
「へっ、ではない!! ああ、何と狭苦しい家なのだ! これでは私が幽閉されている塔と何の変わりも無い! 一体お主、どんな業を積めばこのような部屋に詰め込まれるのだ!?」
「いやこれでも1DKだからそこまで狭いわけじゃないんですよ、この国じゃ……ほら、電気着けたら広く見え」
「うぎゃあぁぁ!! 目が、目が焼ける!! なぜ家の中に突然太陽が出現するのだ!? やはりここは修羅の国っ」
「おっ落ち着いて下さい神様! あわわ……だめだこの文明差、俺の脳筋じゃ埋められない!!」
突然の太陽(偽)は、どうやらようやく正気を取り戻したばかりのムシュカには、少々どころでなく刺激が強かったようである。
すったもんだの末、月明かりで過ごすことになった新太は「俺、ブルーベリーたくさん摂った方がいいかな……」とぼやきながら手探りで探し出したジュースをムシュカに振る舞うのであった。
◇◇◇
「きっとな、現実の私が壊れるのはもう、防ぎようがない」
「神様……」
いくら神様と一緒とは言え、暗闇のリビングで向き合っていては会話もままならず。
シングルベッドに大男と二人、どう考えても無茶だというのに「ベッドとは共に寝るものであろう?」と当然のごとく誘われてしまった新太は、夢のベッドの耐久度に賭けてそっとその身を横たえる。
……胸元に埋まる神様の美しい髪が時々顎をくすぐって、素数を数えていないといろんな意味で切なさが天元突破してしまいそうだ。
そんな新太の内なる葛藤に気付いているのかいないのか、時折広い胸に頬を擦り付けながらムシュカは静かに語り始める。
その表情は落ち着いていて……それだけに、新太から見れば痛ましさが際立っていた。
新月の塔に幽閉された者が生きたまま解放された例は、あの塔が完成してから百余年、一度たりとも記録にない。
ここでどれだけ正気を取り戻したとしても、夢から醒めた途端に……いや、正確には醒めることも出来ずに、あの身体はただ機械的に食べ、息をするだけの人形と化す。
――もしかしたら既にそうなっているのかもしれない、それすら今の自分には知覚出来ない可能性は高いのだから。
「……っ…………」
抱き締める太い腕に込められた力が、少し強くなる。
その圧力すら愛おしいと胸に迫るものを感じつつ、ムシュカは「大丈夫だ」と穏やかな笑顔を新太に向けた。
「約束は守る。どれだけ壊れようが、お主のことが万が一分からなくなろうが……私は必ずここに来る」
「……はい」
「お主と同じなのだ、私も。……どんな私であれ生涯推し続けると言ったお主の気持ちは、きっとどんな私であってもその存在だけでお主を幸せにできる、そのことがたまらなく嬉しくて……お主が愛おしくてしょうがない、私の気持ちと変わらないのであろう」
「…………!!」
(……殿下、俺は…………!!)
自分を見上げる優しい眼差しは、いつ再び輝きを失うか分からない。
そして既に壊される恐怖を、そしてそこから正気を取り戻す苦痛を知りながら、それすらも甘受して逢瀬を誓う言葉を口にすることがどれだけ恐ろしいことか、新太は身をもって知っている。
――世界の全てが灰色になって、逃げ場がないほど狭まった絶望の谷に、今一度突き落とされるだなんて……新太なら考えただけで恐怖で叫んでしまいそうだから。
そして、実際穏やかに見える笑顔とは裏腹に……ムシュカの身体は少し震えているのだから。
だから
(この方に……ぬくもりを……明日を生きる、灯火を……!)
新太は決意する。
今こそ、前世の頃にも出せなかった全ての勇気を振り絞るときだと――
「……? どうした、ヴィナ」
もぞもぞと背中を向けた新太に気づき、ムシュカはいつもと変わらない優しい声をかける。
そっと広い背中に触れて、その温かさを味わって……ああ、今日は随分と心臓の音が喧しい。そういえばこんな夜も――当然ながらその後は何も無かったけれど――幾度も越えてきたなと少しだけ懐かしさを覚えた、その時。
「…………殿下」
背中を通して聞こえた、小さな、くぐもった音は
「……夢であれば……あなた様と熱を交わすことを、許して頂けますか……?」
「…………っ、ヴィナ…………それ、は……!」
幾年もの間、ムシュカが待ち続けた――生まれて初めての瞬間を告げたのだ。
◇◇◇
「………………」
「…………」
エアコンの音だけがそっと響く部屋の中、静かに時は過ぎていく。
(あああ!! 言ってしまった! というかよく考えたら、このタイミングで何てことを!! 神様今それどころじゃないよね! うわあぁぁ俺のバカああぁ!!)
沈黙は、見事なまでに新太の思考を暴走させているようだ。
だめだこれ、土下座して謝らなきゃと冷や汗だらだらで口を開きかけたその時「ふふっ」とどこか愉快そうに笑う声が背中に響いた。
「……あ、え、っと……」
「ヴィナよ」
「はひっ!!」
「そういう事はな、ちゃんとこっちを向いて、私の目を見つめながら言うものだ」
「あっはっはいっ!! って、えええええ!!?」
てっきり断られるものだと思い込み、謝罪の言葉を必死に頭の中で反芻していたところに、これである。
流石殿下、最初から致命傷しか与える気が無い! と新太は半ば涙目でもそもそとムシュカに向き直る。
変わらぬ笑顔で新太を見つめる神様は、月明かりに照らされていつも以上に幻想的で、それでいて煌々と輝く琥珀色の瞳は艶やかに濡れていて……
新太の中にぞくりと、何かが走った。
「……耳まで真っ赤では無いか」
「っ、そっ、そりゃ真っ赤にだってなりますっ!! あっでもっその俺、こんな時にとんでもないことを」
「何を言っておる。またとない食べ頃であろう?」
「ひょえぇ!」
お主も知っての通りだ、私はずっと、散々、呆れかえるほど言い続けてきたであろう? と悪戯っぽく笑うムシュカの鼓動も……これまでに無く痛い。
(私が受け入れたいのは、この熱だ)
あわあわと言葉を失っている新太の手をそっと取り、ムシュカは己の胸に押し当てる。
――どうか、この想いが真っ直ぐに伝わりますようにと願いを込めて。
(……そうだ、私が欲しいのは……アラタ、お主の温もり)
「ほれ、分かるであろう? ……私はいつだって食べ頃だ。お主の目にもずっと美味しく見えているであろうに」
「あ、あわ、あわわわ……」
「騎士に二言は存在せぬよな? ヴィナよ。……ここまで待たせたのだ、さぁじっくりと味わうが良い!」
「ちょ、そんなときだけ騎士ワード出すの反則です神様ぁ!!」
泣きそうな声を上げながら、しかし瞳を閉じたままこちらを見上げるムシュカの意図など分からないはずがなく。
新太はそっとその肩を抱き寄せ……柔らかな口付けを落とした。
……ある意味、期待通りの場所に。
「はぁっ、はぁっ……あわわわ……やった……やってしまった…………!!」
「……ヴィナよ」
「はひいぃっ!!」
「この後に及んで、誰が額への軽い口付けで満足出来ると?」
「うわああ申し訳ございませんっそんなでっ殿下のくくく唇なんてそっ想像しただけで」
「待て、そこは気合いで鼻血を出すな!!」
まったく、これからも毎夜逢うのにそれでは埒があかぬ! とムシュカはぎゅっと新太の右手を握りしめる。
そうして人差し指を立てると、そっと己の口元に持っていって
ぷにょん
「――――!!!」
「ほれ、ここだここ。月明かりでも見えるであろう? ふふっ、心は壊れても食事だけはきちんと摂っておるようだからな。柔らかくて美味しいぞ? ああ、愛しい人の唇とは甘露のようだとも聞いたことがある」
「あ……あ…………」
「…………美味そうであろう? お主のためだけの味だぞ? ……ほれ、がばっといかぬか、がばっと」
「………………」
その瞬間
ぷつん
新太の頭のどこかで、何かが切れる音がした。
「っ!!」
ぎしり、とベッドが鈍い音を立てる。
仰向けで縫い付けられたムシュカが見上げるその先には……まさに獲物を屠らんと言わんばかりの獰猛さが見え隠れする、あの頃の彼を彷彿とさせる新太の真剣な眼差し。
(ああ、やっと……やっとだ。…………いや違うな、ここからだ……)
「……殿下、お覚悟を。……いただきます」
「うむ、たんと食え。ふふ、存分に味わおうぞ!」
(ようやく私は……ヴィナを……アラタを愛して、受け止めて……本当の意味で恋人になれる……!)
温かく、柔らかい感触が、互いの唇に触れる。
初めてのキスは、瞳に宿した猛獣の気配とは打って変わって、とても優しくて、甘やかで……そして、香ばしい醤油の香りと懐かしさを纏わせた温かさに溢れていた。
◇◇◇
胸の奥に、そして身体の芯まで、熱が灯る。
強く、激しく、けれどどこまでも優しく……時々臆病になれば、焚きつけて。
(熱い……)
(一つに、溶けてしまいそうだ……)
甘やかな声と互いの息遣いが、世界を塗り替えていく。
境界が壊れていくのはあんなにも怖かったはずなのに、新太との境目がなくなる感覚はこれまで知らなかった心地よさと至福を、心に、脳に、そして魂の奥底へと注ぎ込んで。
(夢ですら、これほどまでに温かくて、胸がいっぱいになるのだ)
歓喜の涙を零しながら、ムシュカは真っ白な世界の中で、ただ、願う。
(愛しい人の温もりで満たされる……何と幸せな事よ。ああ、ヴィナの……いや、アラタの温もりを現実の身体で感じられたら、どれだけ幸せだろうか!)
その全てを味わい、貪り、余すところなく己が血肉となれと言わんばかりに、溢れんばかりの気持ちを――もう、ごまかしはしない。これは間違いなく愛だ――叩き込みながら、新太もまた祈りを込める。
(ずっと、ずっと……夢だけじゃなくて、現実世界でも殿下といっぱい美味しいご飯を食べて、俺の部屋で一緒のお布団に入ってあのそのあわわわ……とにかく! 俺は神様と寝ても覚めてもずっと一緒にいたい……!)
――いつしか彼らの願いが変わっていることに、気付いたのは……そんな二人をそっと見守る、東雲を模した寝具達だけ。
「はぁっ……ヴィナ、愛してる……ヴィナぁ……っ……!」
「っ……殿下…………!!」
過去は流れ去り、未来は雲を掴むように不確かで。
だからどうかこの「現在」が永久に続くようにと祈りを込めて、二人は夜明けの合図がが届くまで、ただただ互いの熱を交わし続けたのだった。