第7話 愛し子と共に
夢と現の境目が壊れた私に、目覚めという言葉は存在しない。
心の形を失わせた部屋の色も、時折聞こえる何かの音も、すべては遠い世界の話。
私はただ、愛し子の幸せだけを祈って、ここに存在する。
抜け殻となった私をまるごと受け入れ尊んでくれる、あの夢の逢瀬こそが私にとって唯一の、そして全ての世界だ。
(…………あたたかい)
冷たい絶望だけが漂う永遠の微睡みに温もりを覚えたのは、初めてではなかろうか。
ああ、幸せな夢は愛し子の現れない狭間の永遠にすら、熱をもたらしてくれる。
(……大丈夫だ、ヴィナ。私は……必ずお主に会いに行ける)
どれだけ私が崩れ落ち、がらんどうの器だけが残ろうとも。
内側を満たす熱を辿れば、その先にはあの広い胸が、満面の笑みが、そして……私をまるごと包んでくれる圧が待っていることを、きっと私は命潰えるその瞬間まで忘れないだろう。
ほら、今だって……手を伸ばせばヴィナの感触が、熱が指先に感じられて……
(ああ……ヴィナ……)
――そうして私は、再び輪郭を無くす。
その先に待つのが木偶となった現実なのか、幻に微笑む刹那なのかは分からない。けれど……今はただ、この柔らかな微睡みのなかで愛しい人を想わせてくれと願いながら。
◇◇◇
「♪~♪~」
軽快なアラームが、朝の到来を告げる。
この時間はいつだって少しの切なさを新太に与えるけれど、待ち受ける現実に差す希望の暁光があるだけ良いじゃ無いかと己を鼓舞しながら、大柄な青年は今日もその瞳をゆっくりと開くのだ。
「……7時……あ、今日は振替休日だった……」
新太は寝ぼけ眼でスマホの画面を確認し、やらかした、と布団に逆戻りする。
いや、長く眠りについたからと言って神様といられる時間が延びるわけではないのだけれど、それでももうちょっと夢の余韻を味わいたかったなぁ……と眉を下げる新太の脳裏には、昨日初めて知った推しのあれこれが浮かんでは消えて、気がつけばへにょりと顔が崩れてしまう。
――いや、これは休日で助かった。こんな状態で仕事に行ったら「毘奈さん、恋人でも出来たんですか!?」と浮いた話に飢えた同僚達の餌食になるのが見え見えだ。
「…………細かったな」
天井にかざした手を開いて、閉じて……未だ消えない感触の残滓を染み込ませるように、新太はぽつりと呟く。
推しがあまりに尊すぎたせいだろうか、どうやら自分には神様が思った以上に大きく見えていたらしい。決して男性としては小柄ではないはずのムシュカの身体は、けれど筋肉の鎧で出来上がった新太にはそっと触れないと壊れてしまいそうなほどか細くて、それが余計に熱を滾らせて……
だめだ、これ以上思い出したら朝から鼻血の後始末に泣く羽目になると、新太は煩悩を払うように思い切り首を振った。
全くもってあの神様は、俺に対する攻撃力が高すぎる。昨日は良く尊死を回避出来たえらい! と自分を褒めていたその時
さら……
新太の肩に触れたのは、覚えのない感触だ。
「んん……? 何だろ……」
枕カバーにしてはさらさら滑り落ちてしまうような、艶やかな触り心地。
心なしかどこかで嗅いだことのあるいい匂いが鼻をくすぐり、不思議に思いながら何の気なしに腕を動かせば
しゃらん
「!!」
涼やかな音が、すぐ近くで鳴り響く。
(……え、どうしてここでその音が……? 俺、もしかして二度寝した!?)
休日だと確認したから、安心してそのまま眠りに落ちてしまったのだろうか。それにしては風景が変わらないなと首を傾げつつ、ごろんと寝返りを打った新太は――今度こそ、目を見開いたまま世界の時を止めてしまった。
「え……な…………っ!?」
見慣れた自室の、耐久度に不安のあるシングルベッドの上。
自分の隣に横たわるのは……粗末な麻の上衣を纏いすぅすぅと小さな寝息を立てて静かに眠る、新太の最推しの神様にしか見えない麗しき青年だ。
震える手がそうっと黒髪に混じる金色をすくい上げれば、甘い――そう、本当に愛しい人は何もかもが甘かった――唇から「ん……っ」と悩ましい吐息が漏れて。
(な、なっ、嘘っ! 俺のベッドに、かっ神様が寝てるだとおぉ!?)
唐突に顕現したあり得ない光景に固まること、十数秒。
筋肉で出来た脳みその考えることはやっぱり安直そのもので、震える新太の指は神様の白磁と見まごう頬を撫で……るのではなく
「ちょ、でっ、殿下! 起きてください!! あのっこれ、俺達今夢の中にいますか!?」
「いてててて!! なっ何をする!? 待て、落ち着くのだヴィナ! お主の馬鹿力で捻られては、頬が落ちてしまうではないか!」
「大丈夫です、美味いものを食わなきゃ頬は落ちません!」
夢か現かの判断には定番とばかりに、目をぐるぐるさせながら愛しい人の頬を全力でつねり
「つまり、私を食べると頬が落ちるのだな!!」
「たっ食べ…………あわわ……きゅぅ……」
「なっ、こら倒れてくるなヴィナ! お主の体重は私には受け止めきれぬ、きっ、筋肉の壁がああぁ……!!」
ムシュカによる苦し紛れの返す刀で、ばっさり理性を切り落とされたのであった。
◇◇◇
「うむ……これは夢ではないな!」
「そうっすね、いててて……あのう神様、もう現実だって分かったならほっぺはそろそろ解放していただいても……」
「いや、まだだ。お主の筋力は私の倍はあるであろう? この程度ではおあいこにならぬな!」
「ううっ、本っ当に申し訳ございませんでした……」
さっきから断末魔の悲鳴を上げるベッドの上で、状況を把握したムシュカは真っ赤に腫れた頬をさすりながらしばし周囲を眺め、思案し、そして「信じがたいことではあるが……」と戸惑いを隠せない様子でここが現実――新太の世界だと断言する。
その右手は今も、新太の頬をぎりぎりとつねったままだ。どうやら神様は寝覚めの一撃ですこぶる機嫌を損ねたらしく、愛し子が同じ赤さを共有するまで引っ張り続ける気満々らしい。
(やらかしてしまった……動揺していたとはいえ神様を傷つけるだなんて……けど、神様と一緒……はっ、これはご褒美では!?)
「……お主、反省しておるようには見えぬのだが」
「とんでもございません! ちゃんと反省してます! ほら、大人しくつねられてますし……えへへぇ……」
「…………これほど説得力の無い言い訳を、私は生まれて初めて聞いたぞ」
ともかく、と咳払いを一つ。
ムシュカは「理由はいくつかあるのだが」と推論を口にする。
「確かに昨日までの私は、壊れかけていた、否、もう壊れきっていたはずなのだ。夢と現の区別は付かず、全てが遠くてあやふやで、お主のぬくもり以外は何一つ私に届かなかった……嬉しいのは理解するが、そこでにやけるでない。溶けたかき氷のようだぞ?」
「んっ、すみません……んふふ……で、今はどうですか? その様子だと随分頭はしっかりしているみたいですけど」
「ああ。意識はまるで嵐が吹き荒れた後のように、雲ひとつなく晴れ渡っているな。身体もお主に触れれば」
「っ……」
「うむ、ちくちくした髭の感触も実に鮮烈だ。久しぶりのせいか、どうにもあらゆる刺激が痛く感じるが……恐らく私の心と体は、幽閉前の状態にまで戻っている」
「そっか……そっか、よかったぁ……!!」
何だかよく分からないけど、神様が元気になったのはめでたい! と喜びを全身から放ちながら飛びついてくる新太は、しっぽが付いていたらきっとちぎれんばかりに振っていたことであろう。
そんな恋人がどうにも愛おしくて、つい愛の言葉を耳に流し込んでやりたくなる。だが、今はいけないとムシュカは己を拐かす囁きを全力で押し込め、ようやく赤みを呈した頬から手を離し、指の痕をそうっとなぞった。
「で、もう一つの根拠がこれだ」
「……これ、って……もしかして」
「察しの通りだ。これこそがお主と出会うきっかけであり全ての元凶となった、呪いの織物だな」
ムシュカはベッドの端に追いやられていた、とろりとしたブランケットをすっと手に取り、新太の目の前で拡げる。
東雲の空を模した織物はその面積故か思った以上に荘厳で、思わず新太の喉がごくりと鳴った。
神様曰く、このブランケットは入手して以来長らく王宮の自室、ヴィナもよく知る寝台の上を定位置としていたらしい。
だが廃嫡と幽閉が決まるや否や、織物は当然のごとく新月の塔へと付き従い、洗濯もしないのにおろしたての清潔さと風合いを保ったまま、毎夜の逢瀬へとムシュカを誘っていたそうだ。
「しかし、初めて願いをかけたあの夜から今に至るまで、この織物が夢の中に現れたことは一度も無い。ただの一度も、だ。お主も目にするのは初めてであろう? つまり」
「……ここは現実、ってことですね。しかも俺の部屋にやってきたと言うことは……」
「お主の想像通りだろう、恐らく私は」
(まさか……かような奇跡が、起こるとは)
ムシュカがふと、言葉を切る。
そうして瞼を閉じ、ゆっくりと深呼吸を一つ。肺を満たすのは、明らかに知らない異世界の……そして新太の部屋の、どこか懐かしさを感じさせる香りだ。
こみ上げてくる思いに胸を震わせ、唇を噛みしめて、そうして眼を開けば……目の前には今にも泣き出しそうな、愛し子の姿。
(先生、私はヴィナの……過去の幻影では無い、新たな世界に生きるヴィナのお陰で、夢に囚われる事無く生きています。そして……)
心の中で恩師に感謝を告げながら、ムシュカは目の前の愛し子の手をそっと握りしめた。
――ああ、この手が私を掴んで、抱き締めてくれたから、私は今ここにいる。
「……あの交わりの最中、私は願いをかけたのだ。お主の……ヴィナの、いや、アラタの熱を現実でしかと感じたいのだとな」
「神、様……!」
「この織物は、私の魂が叫ぶ心からの祈りを聞き届けてくれた。影を追い求めるだけの叶わぬ願いは……過去の想いは上書きされ、私はこの世界に……ヴィナ、お主が生きる遙か遠く離れた世界に、見事渡ってきたのだ……!」
(今度こそ願いを過たず、呪いとなった願いを書き換え……そして、叶えたのです)
堪えきれず溢れた涙を、太い指がそっと拭う。
目の前の厳つい恋人は目を真っ赤にして、厳つい顔からは想像も出来ない大きな雫をボロボロと眦から溢し、「良かった……良かったぁ……!」と嗚咽を上げながら、最推しの神様をいつまでもその腕で包み込んでいたのだった。
◇◇◇
「ひぐっ……ひぐっ…………ふえぇん……」
「まったく、お主がここまで泣き虫だとは思わなかったぞ、ヴィナ……ぐすっ……」
「神様だってぇ……」
部屋に響く歓喜がすすり泣きに変わり、ようやく落ち着きを取り戻してきた二人は、ぐしゃぐしゃになった顔を見つめ合い、思わずぷっと笑みを零す。
こうしてずっと抱き合っていたいのはやまやまだが、服は涙と鼻水でドロドロだし、冷房も付けずに締め切った部屋でいるには7月の日差しは実に容赦がない。
何より、二人が腰掛けるベッドは先ほどから大変気の毒な音を立てていて、いい加減にしないとちょっとしたコントが発生してしまいそうだ。
「取りあえず服を何とかしましょっか」と新太はムシュカをもう一度だけぎゅっと抱きしめると、その場に立ち上がる。
離れるのは実に名残惜しいが、このままでは今日の寝床が床になること間違い無しだ。どうせ買い換える予定だったし、こうなったらダブルベッドにしようかな……と妄想で鼻を伸ばしながらTシャツに手をかけたところで、新太の動きがぴしりと止まった。
「ふぅ、確かに暑いな……ヴィナよ、窓を開けてもよいか? 風を……ヴィナ?」
視線の先にあぐらをかき、麻の上衣をぱたぱたと仰いでいるムシュカの首筋には汗がつぅと滴っている。
……いや、それも非常に美味しい、じゃない目に毒なのだが、大変なことになっているのはもっと下の話で。
「つ、つかぬことを伺いますが、神様」
「どうした? 随分怖い顔をしているぞ、ヴィナ」
「…………その、お召し物の、しっ下は……」
「下? ああ、履いているわけが無かろう。塔で渡された服はこの上衣だけだ、下着を着けたところで足枷を外すことはできぬし……む、そういえば夢でも無いのに枷が外れておるな。ふふ、足を自由に広げられることの、なんと素晴らしい事よ」
「うあああああフリーダムに広げないでえぇぇ!!」
丈が長いとは言え、上衣の裾は膝すら隠せない。しかも今の神様は、あぐらでゆったり寛いでいるわけで……
奇声を上げてすぐに目を逸らした自分を、誰か褒めて欲しい。
「うっひょおぉっ!! あわ、あわわ……お、落ち着け新太まずはタオルとクーラーだ、神様に滴る汗のオプションは尊さが過ぎて致命傷に」
「……前々から思っていたのだが、お主、昔に比べて随分と叫び声の種類が増えておらぬか?」
「ふっ、増えもしますっ!! お願いです殿下、そこはきちんと隠して下され!! うああそんな格好で窓際ダメ絶対!! ほっほらそのタオルケットで覆って俺が死ぬ前に早くぅ!」
「ぬ? ……ああ、裾がまくれているのか」
必死にあらぬ方向を向いたまま震える手で股座を指せば、どうやらムシュカはあられも無い痴態に気付いたようだ。助かった、これは早々に下着を手配せねばと一瞬気を緩めたことを、新太は数秒後に全力で後悔する。
「なに、別に私は気にせぬぞ? 大体男同士では無いか、昨日あれだけ散々見て置いて今更減りもせぬであろう? ほれ」
「!!!! ほ、ほっ、ほれじゃないですうぅぅ! 今! まさに! 俺の理性がゴリゴリ削られてますから!!」
「ははっ、まったく私の愛し子はどこまでも初心だな。そうだな、こうやって少しは耐性をつけた方がよかろう? 何せ……これからはずっと一緒なのだからな」
「……ひょぇ…………」
ムシュカの言葉に、そして裾をまくり上げこてりと首を傾げる美麗な推し神様に、再び新太は口をポカンと開けたまま静止する。
そう、神様がこの世界にやってきたと言うことは、これからはおはようからおやすみまで一つ屋根の下で過ごすわけで、つまり神様のうなじとか胸元とかきわどいところを拝謁するサービスイベントが常設されて――
「……か……神降臨、おそる、べし…………」
「今度はぴたりと止まってどうしたのだヴィナ、ってまた倒れるのかお主は! ああもう、そのままでは鼻血に溺れ死んでしまうぞ横を向けい!!」
なるほど、推しとは適度な距離から尊さの欠片を拾い集めてちょうど心地よくなるようにできているものだと、俺は今学んだ。
三次元に降臨した推しは、まさに最終兵器。命も墓も無限にあったところで足りやしない……
ムシュカに聞かれたら「お主の言うことはちんぷんかんぷんだな」と首を捻られそうな心の叫びを残して、新太は無理矢理二度寝を決め込まされるのである。
◇◇◇
「……これはまた、どうにも着慣れぬ薄衣だな……どうしたヴィナ、天を仰いで」
「神様、今日の俺は最推しに何度殺されれば落ち着くんですかね」
「それを私に聞くな。……ふふっ、見てみよヴィナ、ぶかぶかで肩がずり落ちそうだ。それに……石けんとヴィナのいい匂いがする」
「だ、か、ら!! そうやって無自覚に俺を尊死させないで下さいっ!! もうっ、服を買ったらすぐに着替えて下さいよ!」
「それで良いのか?……お主の身体はこれを望んでおるようだか」
「うああああ!! 殿下ともあろうお人が、そんな所をマジマジと見ちゃダメですうぅっ!!」
このままでは埒があかない、そう判断した新太は手持ちのシャツとパンツ、そして真顔で突撃したコンビニで手に入れた下着をムシュカに押しつけることで、何とか連続尊死の危機を脱する。
だが、代わりに展開された包囲網は……いわゆる彼シャツというやつだ。誰だこんな概念を考えた奴は天才か! と一目見た瞬間もう一度床と友達になりかけたのは、ムシュカには内緒である。
残念ながらこの神様は、我が主君であったころから無自覚に……それどころか意識的にも人を煽るのが非常にお上手であらせられたのだ。念願叶って思いを遂げたところでこの様子では大人しくならなさそうだと、新太は大きなため息をつきながらアクセルを踏んだ。
「おお……街が川のように流れていくではないか! 馬車よりずっと速いのだな、くるまというのは!」
「高速道路ですしね。下道だと馬車と大して変わらないっすよ」
「ふむ。しかしこれほどの速さで走るなら、獣も寄りつかなくて安心だな」
「……神様、この世界には魔熊のような人食い獣はそうそういませんから……」
表面上はすっかり元に戻ったように見えるものの、やはり幽閉の後遺症は残っているようだと、時折顔を顰めているムシュカの姿に新太はそっと心を痛める。
ただでさえ精神崩壊の危機にさらされていた上、この世界はかつて彼が愛した国とは比べものにならないほど刺激の種類も量も多い。暫くは自宅でゆっくり過ごしてもらうのが良いだろう。
――なにせ、彼の帰る場所はもう、ここにしか無いのだから。
「しかし……このような札一枚で身分を証明するとはな。鏡も無いのに姿が映っているのはどうにも慣れぬ」
「それ、まだ動かないからましな部類ですよ。動く姿を切り取ったものもこの世界にはありますから」
「なんと……夢で市を見た時にも感じたが、この世界のからくりは魔法より凄いのではないか?」
ひとしきり外の風景にはしゃいで疲れたのだろう、助手席にくたりと凭れるムシュカがポケットから取りだしたのは、本来あるはずの無いこの世界の身分証明書……ムシュカの運転免許証である。
そこには、免許証でありながら輝くような写真写りの良さを発揮しているご尊顔と共に、彼のこの世界における情報が書き込まれている。
「鞍馬 ムシュカ 衣織……このややこしい線の塊が読める感覚は、どうにも不思議でならぬ」
「そういうものなんですね……文字の画数は多いですけど、音は殿下の名前も残っているし、何より『いおり』って名前は麗しい神様にぴったりだと俺は思いますよ」
「ふむ……包み、織りなすという意味だったか。まさに、あの織物に導かれてここに渡って来た身を表すかのようだ」
まるで最初からこの世界に存在していたかのように、ムシュカの来歴は子細に作られていた。
ご丁寧にも免許証と共にテーブルの上に置かれていた書類によれば、ムシュカは東南アジア系の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、幼い頃に事故で両親を亡くし母方の祖父に育てられた事になっているらしい。
その祖父も既に鬼籍に入り今は天涯孤独の身。そして……新太のアパートで二人暮らしをしている。
リビングの本棚には明らかに見覚えの無い受験用参考書が並んでいたから、ムシュカは大学を目指しているという扱いになっているようだ。
確かにそれなら無職でも言い訳は立つなと、新太はチラリと助手席に目をやる。
(……あ、穴は開いたままなんだ)
かきあげた髪の合間から見えた耳にはなんの飾りも見当たらなくて、新太は少しだけ寂しさを覚える。東雲の織物は、残念ながら耳飾りまではこの世界に連れてきてくれなかったようだ。
そう言えばクラマ王国では老若男女問わず耳飾りをつけるものが大半で、美しい装飾を施した耳飾りを自慢し合っていたものだったなと、懐かしい記憶がふと頭を過って。
「……あの、殿下」
飽きもせず免許証を眺めるムシュカに、新太は前を向いたまま声をかける。
できるだけ平静を装って、けれどやっぱり耳は見事に赤くなっていて。
おや、とこちらを見つめる神様の視線に心臓を高鳴らせながら、カラカラになった喉を震わせ――だってこれは推しとしてじゃ無い、恋人としてだから――蚊の泣くような声で、けれどムシュカの耳にはっきりと届くように告げたのだった。
「その、耳飾りを……買いましょう。向こうの世界みたいなデザインは無いかも知れないし、俺の給料じゃ高価な物は難しいですけど……殿下の耳で涼やかに鳴る、素敵な耳飾りを……今度は俺から贈らせて下さい」
「……お主…………そのような嬉しい言葉は、出来れば私の目をしかと見つめて言って欲しいのだが。あと、当然お主と揃いの飾りであるな?」
「運転中に脇見したら事故りますよ? それとお揃いは、職場に着けていけないから……って分かりました! お揃いのにしますから仕事に行くときは無しってことで、そっ、そんな可愛い顔でむくれてもだめなものはだめなんですってばぁ!!」
◇◇◇
「どうしてこの世界の服は、どうにもつまらぬものばかりなのだ!?」と嘆く神様を全力で宥めすかしながら服を一揃い購入し、モールをはしごして散々歩き回り手に入れたあの頃よりは少し小ぶりの、けれど揺れる音の涼やかな耳飾りを早速揃いで着けて。
花のような笑顔を綻ばせる神様の美しさに尊すぎると目眩を覚え、同じ物が己の耳を飾っている嬉しさと(いや、この世界で俺みたいな大男がこんなしゃらしゃらした耳飾りを着けるのは、さすがにダメだろ!!)という恥ずかしさで新太の魂が半分くらい抜けた頃、二人はようやく帰途につく。
この国の暑さは、常夏の国で生まれ育ったムシュカにもどうやら厳しいものらしい。確かに全方位から押しつぶされるような暑さに加え、吹けば吹くほど不快感の増す湿った熱風の波状攻撃など、あの国には無縁だったな……と遠くなった日々を思い出しながら、二人はクーラーの効いた部屋ですっかり伸びていた。
敷物も敷かない床に寝転がるのは、あの頃を身体が覚えているからだろうか。タイルの床ならもっと気持ちいいんだけどなと残念に思いつつもフローリングをゴロゴロ転がっていれば、不意に「……ヴィナよ」と服の裾を引っ張られた。
……気のせいだろうか、その声色は随分と、固い。
「ん? どうしました神様。あ、スコーン用のクロテッドクリームとアイスティーのお替わりは冷蔵庫に」
「それは後で頂こう、そうではなくてだな……お主、あれはもしや」
「……枕カバーですね。多分、神様とお揃いの」
「そこはお揃いであってはならぬであろう!!」
(少しは動揺を覚えぬのか!? まったく、変なところで剛気なままだな、お主は!)
当たり前のように寝具の存在を認めてしまった新太に、ムシュカはがっくりとその場に崩れ落ちる。
あの頃の記憶は定かでは無いのだが、壊れゆく中で毎夜行われた懺悔のひとときに、呪いの寝具についてはかなり詳細な話を新太に伝えた筈だ。なのにどうしてこの男はこうも平然としていられるのか。
そもそも寝具は一体どこから現れた? と思考を回し始めて、はたとムシュカの手が止まった。
――脳裏を掠めたのは、老師が呪いの解呪方法を報告しに来たあの日の会話。
唯一騎士団預かりとなっていた野盗が、パニニによる聞き取りの際にムシュカへの伝言を言付けていて……世迷い言をと一蹴するには妙な符号を感じた彼から、参考までにと聞かされていた話が、ムシュカの中で再生される。
『あの野盗なのですが、実は妙なことを口走ってましてな。殿下の言いつけ通り、あれは意中の人にちゃんと渡したと伝えて欲しいと』
『……あれ、とは?』
『そこは話す気がなさそうでしたな。殿下に話せばすぐ分かるの一辺倒で……更に、もう二度とあんな世界はごめんだ、これからは心を入れ替えて真面目に働くとも。殿下、あの野盗に何か密命でも託していたのですか?』
『いや、それはない。絶対にない。だが……ううむ、さっぱり分からぬな……?』
何が分からぬだ大馬鹿ものめと、ムシュカは過去の自分を全力で張り倒していた。
言いつけ云々はともかくとしても「意中の人」「渡した」「あんな世界」――よくよく考えればおかしいどころか、心当たりしか無いではないか。
(大体いくらこちらが強く願ったからと言って、ああも都合良く毎夜毎夜夢にやってくるなど、冷静に考えればおかしな話だ。それこそ……お主が望んででもいない限り……!)
「もしやと思うのだが」と前置きして、けれどその心は完全に確信を得て、ムシュカは新太に揃いの枕カバーの出所を尋ねる。
果たしてその返答は予想通りで。
「あー、あれは電車の中で貰ったんです。寝具店を経営しているって親切なおじさんから、栄養ドリンクと一緒に」
「おじさん」
「はい。俺、あの頃激務も大変だったんですけど、何より不眠症で死にかけてたんです。で、おじさんが試供品だっていう願いの叶う枕カバーをくれて……いやぁびっくりするほどよく眠れたし、推しは出来るし、しかも神様からいただくご飯は絶品だしでもうその日から手放せ無くなっちゃって」
「お主、それは見事なまでに枕カバーに呪われているでは無いか!!」
今度こそ悲嘆を含んだムシュカの叫びが、部屋を震わせた。
◇◇◇
「何と言うことだ……私だけならいざ知らず、ヴィナにまで呪いをかけるとは……お主は何ともないのか? 夢に取り込まれてしまったりはしないのか!? ああ、全くあの野盗は何てことをしてくれたのだ! ……はっ、今からでも織物に願えば、あのうつけ者を成敗しに行くくらいは」
「落ち着いて下さい殿下、俺は無事ですし、ちゃんと願いは全部叶ってますから大丈夫です!」
途端に色を無くしたムシュカがこめかみに血管を浮きだたせ、真顔でがしっとブランケットを握りしめたものだから、新太は慌てて起き上がり神様をぎゅっと抱き締める。
……あ、今「んぎゅ」ってヤバい呻き声が神様の口から漏れた。どうにもこの筋肉の御し方は難しくてかなわない。
「えほっ、えほっ……文字通り抱き潰されるかと思った……頭は冷えたが肝も冷えたぞ……」
「申し訳ありません……で、でもっ、俺本当に大丈夫なんで! 枕カバーに頼んだ願い事は3つとも叶ってますから!」
「待て、お主よりによって願いを3つもかけたのか!? 知らぬとは言え何と豪胆な」
「あ、最後の一つは呪いのことを聞いてからでしたけど」
「…………お主はもう少し、脳みそに筋肉以外の何かを詰め込んだ方がよいと思うぞ、ヴィナよ」
呆れ果てた様子のヴィナの膝に寝転んで、新太はとつとつと話す。
枕カバーをくれた男性には何度もお礼をせねばと考えたもの、名刺は見つからず、織物にも手がかりは無く、更に何度終電に乗ってもついぞ出会うことが無かったそうだ。
――恐らくは新太に織物を渡した後、そのまま元の世界へと戻っていったのだろう。野盗の心を入れ替えさせるほどの悲惨な世界というのも、当時の新太を鑑みれば一目瞭然だ。
そして、肝心な願い事。
「叶ったと思っていたら全然叶っていなかった……などという実例もあるのだぞ、お主の目の前に、な!」と実感たっぷりに説教した上で3つの願いを聞き出したムシュカは、またまたその場に突っ伏すこととなる。
……ただし今度は、あまりの愛おしさに悶絶しながらだが。
「ええと、最初は『まともなご飯が食べたい』でした」
「…………なんという現実的かつ切実な願いよ……それでは魚団子麺を出した私を神認定するのも、無理からぬ話であるな」
「なので、その日のうちに願いは叶っちゃって。その後は毎回『神様の美味しいご飯が食べられますように』ってお祈りしてから寝てました!」
「うむ、お主はきっとどれだけ生まれ変わっても、未来永劫食いしん坊のままだな」
自分を失っていくムシュカを何とか助けたくてかけた二つ目の願いは「神様を元気にしようツアー会場を、夢の中に作って」だったという。
街の再現範囲からコース設定まで、恐ろしく具体的な願いにちょっと引き気味のムシュカに「AIあるあるなんです、こういう要望は細かく伝えないと誤解されちゃうんで」と新太は分かりやすく説明し……たものの、異世界にやってきて数時間の神様には些か難しすぎたようだ。
「う、うむ。まあとにかくお主の願いは間違いなく叶えられたことだけは理解したぞ!」
「すみません、説明が下手で……それで」
三つ目は、と最後の願いを口にしかけた新太は、一瞬言葉に詰まり……不意に目を逸らす。
――愛しい人の目を真っ直ぐ見据えて愛を語れる日は、まだまだ自分には遠いようだ。
「……そっ、その、えっちいことをしてるときに…………ずっと神様といたいですって」
「ヴィナ」
「おはようからおやすみまで、そして夢の中でも……朝は一緒に軽くトーストとコーヒーですませて、朝のお茶を飲んで、お昼は食べに行って、ついでにカフェにも行って、夜は一緒に家でご飯を食べて、甘いお茶でも飲みながらいちゃいちゃして」
「具体的にも程があるし、そもそも食べることばかりでは無いか」
「ぐっ……ともかく! 神様と現実世界で一緒に過ごしたい、そう願ったんです。そしたら……起きたら隣に神様が寝ていて、これは夢かと手が勝手に頬に」
痛かったですよね、とすまなさそうに頬に添えられる手をそっと包み込んで、ムシュカは「……本当に愛されておるな、私は」と感極まった様子で呟く。
そして、途端に目を白黒させ「あ、えっと、そのっ」と挙動不審になる愛し子の姿を愛でながら、改めてあの頃を思い起こすのだ。
――分かっている、つもりだった。
堂々と愛を囁き、力尽くも辞さぬとばかりに正室に指名し、共に過ごす中でヴィナから向けられた感情もまた自分と同じであることは明らかだったから……例え言葉として聞くことが叶わずとも、いつまで経っても関係が進展せずとも、自分達は相思相愛であると信じて疑わなかった。……いいや、そう思い込んでいたのだ。
けれど、振り返れば己の直截な愛情表現は、不安の裏返しでしか無くて。
だからこそ余計に、失ったときの絶望は深く――そして、ついにはかける願いを誤ったのだろう。
「何にせよ、お主の願いは全て叶ったという訳か。世界を渡り、新しい命を生き……お主は私が過去に立ちすくんでいた間に、随分と成長したのだな」
「そ、そうでしょうか……神様がいなければ俺、社畜としてすり切れて今頃電車に飛び込んでいたかも知れないのに」
「なに、私の助けがあったとは言え運命を切り開いたのはお主自身だ。……自信を持つが良い、お主は私の愛するヴィナなのだから」
そう、新たな世界で「推し」なる概念を身に付けた愛し子は、その気持ちを素直に伝える力を得た。
生来の食いしん坊と、推し神様の尊さ故に獲得した恐ろしく具体的な妄想力――かつてのヴィナと今の新太が持つ二つの特質は、この織物にかける願いを呪いに変えさせない原動力となるのみならず、己を苦境から救い出してくれた神様の絶望すら打ち砕いたのだ。
――だからもう、私が彼の愛を見失うことは無い。
真っ直ぐに打ち込まれた愛し子の温もりは、きっとこの身が潰えるその日まで、私を満たし続けるから。
「最後は二人が、それぞれの寝具に同じ願いをかけた。だからこそ、世界を越えて共に同じ空の下に立つという奇跡が起こったのやもしれぬな」
新太の無事を確信したムシュカの口から、安堵が漏れる。
もしかしたらこの寝具は、最初から全てを見通していたのかも知れない。
野盗が何の因果かこの世界に飛ばされ、枕カバーをヴィナに渡すという役目を負わされたのも、まるでムシュカが願いのかけ方を間違うことを察していたかのようにすら感じられて。
「……実に不思議な織物よな。願いが叶うにしては少々苛烈だが」
「呪いと断じるには……ちょっと美しすぎますね」
二人が見つめる先では、東雲を模したブランケットと枕カバーが静かに佇んでいる。
――気のせいか、今日は夜明けを映す桃色の差し色がひときわ鮮やかなように見えた。
◇◇◇
「……お主の腹の音は、意外と大人しかったのだな」
「いやいやあれは夢ですから!! そんな、俺がお腹を空かせる度に震源地になるとか、それこそ呪いレベルじゃ無いですか!」
「ふむ、地震を起こすとなると最早神の所業であろう。……神同士、お揃いになれるぞ?」
「神様ったって、それじゃ俺、ただの祟り神じゃないですか……」
相変わらず容赦の無い太陽が少し西に傾き空の色を変え始めた頃、新太の腹から響く音にどことなく安心を覚えたムシュカは、そういえば、と台所を指さした。
「お主、確か前の仕事を辞めてから自ら料理を作り始めたと言っておったな」
「あ、はい。と言っても、そんな凄いものはとても作れませんけどね。今の俺はあの頃より不器用というか、この筋肉に振り回されっぱなしで」
「ふむ……だが作れるのであろう? ならば、是非味わってみたいものよ」
「ほげ」
思いもかけないムシュカの希望に、思わず新太の口から謎の言葉が漏れる。
ご冗談を! と顔に当惑の文字を貼り付け目を剥いた新太に「本当にお主の反応は……いや、比べてはならぬがあの頃よりずっと多彩で興味深いな」と実に楽しそうな笑顔を向けた神様は、しかし残念ながら先ほどの勅命を冗談で終わらせる気はないらしい。
「いや、ほんっとーに大したものは作れませんからね!! 後でこんな筈じゃ無かったなんて嘆かないで下さいよ!」
「案ずるでない、お主が作るものが不味いはずが無かろう? ……その食いしん坊を満たせるだけの味は保障されているようなものだからな」
「めちゃくちゃ説得力がありますけど、何だろうこの悲しさ」
渋々と言った様子で、新太はエプロンを手に取る。
そうして一人用の小さな冷蔵庫を開けると「……あ、これなら作れるかな……」と食材を調理台の上に並べ始めた。
「二人で住むなら、冷蔵庫ももう少し大きい方がいいですね。食器も……流石に全部外食じゃ、俺の給料が消えてしまうし」
「ふむ……お主に全て厄介になるわけにもいかぬしな。私も何かするべきだろうが……」
「神様は取りあえずこの世界に慣れてからにしましょう。感覚、まだしんどいでしょ? 大丈夫です、俺頑張ってご飯作りますからっていてっ!」
「ヴィナ!?」
とんとんと小気味よい音を立てていた新太が、突然悲鳴を上げる。
何事かと駆け寄れば、ぎゅっと人差し指を押さえたその端からじわりと血が滲んでいた。
「大丈夫です、良くあることなので」と冷静に傷を洗い、救急箱から絆創膏を取りだして処置する所作は実に手慣れている。確かに昔は小さな傷など日常茶飯事であったしなとその様子を眺めていたムシュカであったが、ふと違和感に顔を顰めた。
「……お主、先ほどまで包丁はどちらの手で持っておった?」
「え? 右手ですけど……流石に利き手は昔と変わらないですよ」
「うむ、そうであるよな? ならば何故お主『右手の人差し指』を切っておるのだ?」
「…………何もしてないのに切れるんですよね」
「そんなわけがなかろう! まさか、その包丁が呪われているのではないのか!?」
……そう、この段階で嫌な予感はしていたのだ。
だがヴィナのことだ、あれほどの剣さばきを披露していた豪傑が刃物の取扱いに苦戦することなどあり得ないと、不安を振り払ったというのに
「……あ、手の皮剥いちゃった」
「はい?」
「あっ野菜茹でないと、ってあっちいぃっ!!」
「待てヴィナ、そんな勢いをつけて投げ込めば湯が跳ねるのは当たり前であろう!」
「だってお湯が怖くて……遠くからだしちゃんと投げないと入らないかなって」
「そういう問題ではなかろうて!」
……どうやらこの男、不器用なのは恋だけでは無かったようだ。
恐らく筋肉を全力で使い倒す事にばかり長けて、繊細な動きを教え込む努力を疎かにした結果だろう。
飯が出来るまでの1時間は生きた心地がしなかったムシュカが、この新たな世界でまず己が為すべきは生活の糧を得ることでは無い、料理を覚えることだ! と密かに決意するのも無理からぬ事である。
「ふぅ……出来ましたよ神様! ……って、大丈夫ですか? 起きてるの、疲れちゃいました?」
「い、いや……ヴィナよ、次に買い出しに出たときには私にもその布を買ってくれ。これが毎日続くなど、私の心臓が持たぬ」
「布……エプロンをですか? え、まさか手ずから料理を!? 殿下、刃物は存外危険なのですよ! それにそんな食事のために殿下の手を煩わせることなど」
「既にお主の調理が私の心を煩わせていることに、気を配ってはくれぬか!?」
ぐったりした様子のムシュカをまあまあと宥めながら、新太は手にしたどんぶりをとん、とテーブルに置く。
フォークを受け取ったムシュカは、ほかほかと湯気を立てるその中を覗き込み「これ、は……!」と言葉を詰まらせた。
大きな鉢に、淡く澄んだかぐわしいスープ。
金色の海を泳ぐのは、半透明の平たい米麺だ。
その上にそっと添えられているのは、親指と人差し指で作った丸よりちょっと大きい、すり身らしき団子で……
「……お主……これは……!」
「ええと、流石に翠玉飯店の再現とはいかないですけど……どうぞ、召し上がれ」
かつて愛し子に振る舞い、新月の塔で流し込み、そして取り戻せなかった過去のヴィナを思って涙と共に啜ったあの魚団子麺が、そこに佇んでいたのだ。
◇◇◇
「お主、またどうしてこれを……?」
怪訝な顔で尋ねたムシュカに、新太は「その、全部美味しかったんですけど」と俯き頬を染める。
「神様の料理は何だって美味しくて、幸せで……あの夢の中で食べるのが一番美味しいのは分かっていたんです。でも、少しでも現実で神様を思い出したくて……」
「ヴィナ……」
始まりは、ういろうだった。
夢の中で食べた、緑と白の層でできたこってりもちもちした甘さの菓子に比べれば、実に儚くほどけてしまう甘さではあったけれど、それでも当時のすり切れた新太には命綱に等しい、推し神様との繋がりだったのだ。
それから環境が変わって、自ら鍋を振るうことも始めて。
けれどその度に思い出すのは、子供の頃から食べ慣れたこの世界の味では無く、神様の絶品料理ばかり。
だが、夢の料理などどこを探してもレシピが見つかるはずは無い。どうもこの世界におけるエスニック料理が近そうだというところまでは気付いたけれど、とてもあの味を再現することは出来なくていつも断念していたそうだ。
それでも。
壊れかけた心を癒やしてくれた初めての麺だけは、どうしても諦めきれなくて――何とか少しでもあの幸せを、感動をこの胸に灯らせたいと新太が手に傷を負いつつ試行錯誤した結果が、今二人の前で湯気を立てている。
「…………お主の気持ちは、実にありがたい」
ポツポツと語られた由来に、鼻の奥が痛くて、視界が滲んでしまいそうだ。
溢れそうな想いを必死に堪えながら、ムシュカは「しかしな、ヴィナよ」とフォークを手に取った。
「確かに麺は同じだが……いや、少し細いか……?」
「あ、それは輸入食品店でフォーを買ってきたんです。細めですけど食感もかなり近いですよ」
「ふむ、まあそれは良いとして……この魚団子は大きすぎないか。しかもやたら黒い」
「あー……それは鍋用のいわしつみれでして。色に拘ってイカ団子とかタコ団子とかも試してみたんですけど、何か物足りなかったんですよね……」
「で、青菜はどこへ」
「ちょっと高くて……取りあえず葉っぱなら良いかなって、茹でキャベツを」
「それは明らかに別物であろう!」
全力で突っ込みを入れながらも、ムシュカの手は迷い無くつみれへと伸びる。
ふぅふぅと冷ました団子を一口かじれば、口の中に広がるのは濃厚な赤身魚の旨みと、ほのかな塩気だ。
食べ慣れた白身魚の団子のような弾力は無く、歯を立てれば容易くほろりとほどけ、しかし口の中での存在感は圧倒的な強さを誇るからだろうか、少しえぐみのある青菜よりはあっさりしていて甘味も感じられるキャベツを合わせたくなる気持ちも理解できる。
「ずずっ……んん? この味は……」
「鰹出汁のスープです。醤油と塩で味を調えてて……その、この国の麺料理を参考に」
「…………うむ、断言するぞ。これは完全に別の料理だ、似て非なる、どころか似ているところが麺しかない」
「ですよねぇ……」
食べ慣れない醤油の風味は、しかしこれはこれで魚との相性が非常に良いらしい。
一口啜る度に広がる淡い塩気と澄んだ魚の旨みが、心と体をじんわりと温め、ほぐしていく。
「…………はふっ、はふっ…………ずずっ……はぁ……っ……」
「神様、その……すみません。お気に召さなければ何か別のものを」
「いいや……良いのだ、これで。むしろこれが良いのだ……ヴィナ、お主が作ったこの珍妙な麺料理が……」
心配そうにこちらを伺う新太に笑いかける神様の瞳から、ぽたり、ぽたりと鉢の中に涙が落ちる。
「まったく、これではヴィナの味を穢すでは無いか」と鼻を啜りながら、ムシュカはただ、一心不乱に愛し子から供された麺料理を口に運ぶ。
(ああ……古今東西あらゆる美食を口にしてきたが、これほど胸に迫る料理を私は食べたことが無い……!)
終ぞ叶わなかった最期の約束をベースに、ムシュカが与えた愛を形にするべく不器用な手つきで作られた、違う世界を纏った聖餐。
二つの文化が入り交じった味は、何もかもが記憶と違って、けれどそのどれもがヴィナという人を、そしてこれからの二人を表しているようで――
「ああ……これは、我らの新たなる門出にふさわしい」
ため息と共に溢れた言葉は、新太への最大の賛辞と未来への歓喜に満ちていた。
◇◇◇
「美味であったぞ、ヴィナよ。今度は私にこれの作り方を教えてくれるか?」
「それは構いませんが……本当に良いのですか? その、こんな魚団子麺でも……しかも神様にご飯を作らせるだなんて……」
「何を言っておる。お主が一生懸命考えた料理なのだぞ? それにな、私は確信している。少なくとも己の肉体を把握している分、お主よりはまともに包丁が使えるはずだと」
「ひどい」
珍しくおかわりをしてスープまですっかり平らげ、ベッドに座って外を眺めるムシュカの隣に、少ししょんぼりした様子の新太が腰掛ける。
「どうぞ、神様」と差し出された金属の筒に首を傾げていれば、新太が「そっか、缶は無かったっけ」と思い出しつつ、プルタブを開けた。
ぷしゅ、と小気味よい音を立てる缶に、ムシュカは興味津々のようだ。
「この世界では瓶だけで無く、薄い金属の筒や透明な樹脂にも飲み物を詰めるんです」と渡された缶はまるで氷のように冷たい。
「なんと、よく冷えた飲み物よ……台所にあったあの箱に仕掛けがあるのか?」
「ええ。冷蔵庫って言うんです。冷たく冷やすことも、凍らせることも出来るんですよ」
「……本当にここは異世界なのだな……珍妙なからくりだらけで、目が回りそうだ」
飲んでみて下さい、と優しい声で促され、ムシュカは缶に口をつける。
そうしてぐいっと煽った瞬間、その琥珀色の瞳をまんまるにしてぱちぱちと目を瞬かせた。
「な……なんだ、これは!? 口が、喉が弾けて、痺れて、焼けるようだ!」
「あ、あっちには炭酸も無かったっけ……それじゃダブルでびっくりですよね。……神様、これがお酒です」
「おさけ……ああ、あの夢の中で出てきた、ふわふわの泡が乗った黄色い飲み物か!」
「あれとは別の酒ですけどね。多分シュワシュワした感じと喉の焼ける感じは同じですよ」
不思議だ、実に不思議だと感心しきりで、ムシュカは一口、また一口とチューハイを口に含む。
どうやら口の中で弾ける刺激と、喉を焼く感覚が気に入ったらしく「激辛で無くとも喉と胃が焼けるというのは、実に面白い」とすっかりご機嫌だ。
しかし、確かあの時は年齢が足りぬと言われたはずだがと怪訝そうに愛し子を見上げれば、新太は悪戯っぽく笑ってスマホの画面を開いた。
「……暦は違いますけど、1年が365日なのはクラマ王国と同じなんです。で、今日は7月7日…………二十歳の誕生日、おめでとうございます、殿下」
「なんと……そうであったか。ん? 待て、つまり昨日はたった一日の差であの『びいる』とやらを飲めなかったのか!? くう、一日くらい容赦してくれても良かったであろう!」
「一日だろうが決まりは決まりですから。それに」
「それに?」
「……それに、少しでも未来に楽しみがあった方が、神様が壊れなくてすむかなって」
「…………それを言われると、言い返せないでは無いか……」
二人で肩を寄せ合い、ちびちびとチューハイに口をつける。
こんな穏やかな日を共に過ごせるとは、数ヶ月前には想像だにしなかったなと胸をじんと熱くさせる新太の目に映るのは、ベッドの上で淡い光を放つ寝具達だ。
「……俺、この織物は呪いなんてかかってないと思うんですよ」
幻想的な風景を前に、ぽつりと新太は呟く。
チラリとこちらを見上げるムシュカの眦はほんのり赤く染まっていて、どうやら初めての酒に少し酔っているらしい。
そのなまめかしさにゴクリと喉をならしつつも、先を催促するような視線に新太は言葉を紡ぐ。
「多分だけど、織物は願いを叶えていただけなんです、ずっと」
「……そうなのか? にしては、随分多くの者が夢に閉じ込められたと文献にあるのだが」
「それなんですけど……神様の話を聞く限り、それって閉じ込められたんじゃ無くて、自分から出てこないだけなのかなって」
元々この寝具は、恋愛成就のためのまじないがかかっていた。
夫婦となる儀式に臨む二人を見定めに来た神様に楽しい夢を見せ、機嫌を良くして婚姻の許可を得ることを目的としたまじないは、いつしか持ち主の願いを夢を通じて叶える力を得る。
「恋愛成就の願いが叶うと知っていたなら、きっとこれを手に入れた貴族が願うことも、恋愛がらみだったと思うんです。……今も昔も、あの国の貴族に恋愛の自由はありませんでしたから」
「それは……そうだな。王族はまだしも、貴族にとって婚姻は完全に政略であるから」
数百年に及ぶ歴史の中では、きっと諦めきれない恋心に翻弄された者もいたことであろう。
彼らが偶然にもこの寝具を知り、願いをかけ……夢の中でなら永遠に意中の人と幸せに過ごせると知ったとき、果たして恋心が確実に報われない現実に戻ろうとするであろうかと、新太は問いかける。
暫く静かに思案していたムシュカは、やがてかぶりを振り「無理であろう」と断言した。
その瞳に映るのは……己がせいで貴族故の悲嘆に堕としてしまった、利発な幼馴染みの震える拳。
――謝ったところで、彼女の傷は消えない。そもそも二度と会うことは叶わない。
だからせめて、彼女が穏やかな人生を全う出来ることをムシュカは生涯祈り続けるだろう。
「私は王族であった。王太子として我が国を、そして民を守り導くという宿命を背負っていた。そう、だからこそ私は夢でお主と出会い、どれだけ幸せな時間を過ごそうとも……現実を捨てることだけは出来なかったのだ」
「ええ。殿下はそう言う方です。恋心で己の責務を放棄するようなことは考えつきもしないと、俺はよく知っています。そんな殿下だから……えーと、その……騎士として命がけでお守りしなければと」
「……そこは、早くはぐらかさなくて良くなると嬉しいのだがな。しかし……それならばヴィナ、お主は何故夢に囚われなかったのだ? 確かに、お主が願ったのは恋の成就ではなかったが、推しを愛でるというのも似たようなものであろう?」
もっともお主は、出会ったときこそ疲れ切っていたが元は勇猛果敢な戦士だからなと隣を見れば、意外にも新太は気まずそうな表情をしていて。
どうしたのかと問えば「いや、俺の場合はそもそも……」と俯き実に恥ずかしそうに真実を告解する。
「……ほら、俺ブラック企業の社畜でしたから」
「しゃちく」
「あの頃は……その、逃げるって選択肢自体が俺の中に無くて……仕事するか死ぬかの二択だったというか」
「一体何をどうすれば、かような奴隷以下の扱いが許されるのだ、この世界は!」
ただ、そうでなくとも夢に閉じ込められることは無かったと、新太は語る。
確かにこの世界にも、異世界や魔法、夢で願いが叶うと言った話は古今東西に数多存在する。だが、それはあくまでも物語、フィクションの世界の話なのだ。
だから、夢で願いが叶おうがそれはあくまで夢の話、現実には何の影響も及ぼさない――
「もしこの世界もクラマ王国のように、現実にまじないや魔法が存在していれば違ったかも知れませんけどね」と笑う新太に、ムシュカは「まじないが存在していれば、お主の受けたような酷い扱いも多少は無くなるのではないのか?」と嘆息する。
ただ、その一方で少しだけ安心したのも事実だ。
この先新太が織物によって、夢に閉じ込められることは無い。
そして……今はベッドの上で静かに佇む二つの寝具が、いつか次の願いを叶えるべき持ち主を見つけたとしても、この世界に生きる者ならばきっと夢に閉じ込められることなく、その願いを叶えられるのでは無いかと。
「……この世界であれば、寝具達も呪いなどと言う不名誉な扱いを受けずにすむのかもしれんな」
「まぁ、願いのかけ方を間違えなければって条件はありますけど……」
「それは我らが伝えれば良い。何ヶ月後か、何年後かは分からぬが、この寝具を託すべき人に、な」
(そうか、これは決して呪いの寝具では無かった。……呪いにしていたのは、人の都合だったのだ)
念のために遺言状も作るべきだなと笑うムシュカの顔は、ようやく『呪い』という名の束縛から解き放たれどこか晴れやかであった。
◇◇◇
「……月が綺麗だな」
「…………そうですね」
「不思議なものだ、世界は異なるというのに太陽と月は同じように青い空にあって、人は同じような形をして、変わらぬ土の上で命を営んでいるとは」
格子の無い窓から眺める月明かりは、部屋に穏やかな夜をもたらしてくれる。
新太の肩に凭れ空を眺めるムシュカの瞳もまた、月のように煌々と輝いていて……ほんのり染まった頬がなんとも艶めかしい。
知らず使う言葉すら煽りになるとは、推し神様は天然の大量破壊兵器だなと高鳴る胸の鼓動を感じながら、新太は少し掠れた声で「神様」と愛しい人をそっと抱き寄せ、語りかける。
「月が綺麗だという言葉は、この国では愛を告げる意味を持つんです」
「……ほう。修羅の国だとばかり思っていたが、なるほどどうして雅やかな感性を持つ国でもあるのだな」
「いやあ、流石に修羅ばかりでは……ない、はずです、多分……」
自信がなさ過ぎるぞ、と頭をもたせたまま、ムシュカが笑う。
だが、そこに少しだけ固さを感じた新太が不安げに問えば、しばしの沈黙の後「……少々、怖くてな」と珍しく気弱な声色が返ってきた。
「先ほどからどうにも、頭と身体がふわふわしておってな……」
「ふわふわ……ああ、神様酔ってるから。さっきのお酒のせいです。始めてだしちょっと強かったですかね」
「……なるほど、酒とはふわふわするのか。…………出来れば夜に飲むのは茶の方がよいな。どうもこのおぼつかない感覚は……心が、私が壊れていくときに似ていて、少しだけ……すまない」
「っ、考えが足りず申し訳ございません! あ、ええと、どうしよういっぱい水を飲めば」
「よい」
「!」
台所に水を汲みに行こうとした新太の裾を、ムシュカはそっと引っ張る。
「むしろ傍にいてくれ」と見上げる瞳が不安げに揺れていて、新太はすぐにでも抱き締めたい気持ちをぐっとこらえ、再び隣に座り直した。
ギィ、と嫌な音が部屋に響く。
どうか今は大人しくしていて欲しい、壊れるのは二人が座ってないときにしてくれと願いながら。
「……神様」
「大丈夫だ。……それに、お主は私がどうなろうが、生涯推し続けてくれるのだろう? それなら……案ずることなど何も無い」
「っ……!」
しゃらん、と小さな音が、髪をかき上げたムシュカの耳元から響く。
既にこの方は王太子では無い。けれども生まれ持った輝きは今も色褪せることなく、これほど不安げな笑みを湛えていてすら、その威厳と気品を失わない――
「……ヴィナ?」
新太は無言で、ベッドから立ち上がる。
そしてかつての主君に向き直ると、すっとその場に跪き、右の掌を取った。
「……この国は、法的に同性婚を認めておりません。ですから……俺はここで、正式に殿下が望む関係になることは出来ないんです」
「……そうか」
「ですが」
生涯をかけて、この美しい人を守りたいと思う、ヴィナの忠義と。
生涯最推しとして、神様を笑顔に、幸せにしたいと願う新太の気持ち。
――二つが混じり、ようやくそれは愛という形を為して、その唇から零れ落ちる。
「殿下。ヴィナ・ヤーナイ王宮近衛騎士団副団長改め、毘奈新太……生涯殿下をお守り申し上げまする」
「……ヴィナ」
「あなた様は永遠に俺の推し神様です、殿下……!」
月明かりに照らされた単身者アパートの一室で、壊れかけたベッドと空調の音を背景に生涯の誓いを立てるとはなんとも自分らしいと心の中で苦笑しながら、新太は静かに、しかしはっきりとムシュカに永遠の愛を誓った。
――ああ、二つの人生を丸ごと注ぎ込んだ勇気を使い果たしたのだ。
あまりの緊張と恥ずかしさで、とてもでないが顔を上げられない。
(ヴィナ、お主という奴は……)
どれだけの時間が経ったのだろう。
やがてムシュカの唇が開き、呼びかけられた名前は……喜色とともに相も変わらぬ自信を伴っていた。
「うむ。実にお主らしい婚姻の誓いではあるが……一生に一度のことなのだ。もう少し……そうだな、甘い言葉を囁いてはくれぬか?」
「あ、甘い!? あわわわ……え、ええとっ、おおおお慕い申し上げておりまする、殿下っ!」
「ぬぅ……亀の如き歩みであるな。ふむ……では私の名を呼んでみよ。少しは甘い雰囲気が出るかも知れぬ」
「な……なま、え…………そっそれだけはご勘弁下さい殿下! そんなっ、俺如きが神様の名前を口にするなど、畏れ多くて地球の反対側まで埋まってしまいます!!」
「いいや、そこは譲らぬ! どうしてもお主が呼ばぬと言うなら」
「……呼ばぬと言うなら?」
途端、瞳を悪戯っぽく輝かせ口元をにこりと微笑ませたかと思うと、ムシュカはがばっと新太を抱き寄せる。
「へっ」
そして耳元で発するのは、本日最大級の、全身を貫く一撃。
「……アラタ、愛してるぞ」
「は……はへ…………!?」
「ほれ、良いのか? お主が呼ばぬなら、私がお主をアラタと呼び続けるぞ? ほれほれ『とうとし』とやらをしてしまってもよいのか? ア・ラ・タ?」
「うわああああお慕いしておりますです申し訳ございませんでしたムシュカ様ああぁ!!」
「…………様はとれぬか。ふふっ、まあ及第点だな」
高い笑い声を上げて、ムシュカはぽふりとベッドに横たわる。
そうして、顔色を赤くしたり青くしたりと忙しく未だパニックから抜け出せない新太に向かって手を広げ
「……ほれ、頑張って言えた褒美だ。たんと食え」
ちろりと唇を舐めて、新太の理性を吹っ飛ばした。
「ぐっ……昨日の今日だから俺は優しくしたいんですけどね! もう無理っ! いただきます!!」
「なんの、この程度でくたばるほど私はやわでは無いわ! ふふっ、こちらも存分に味わうとしようぞ!」
恋に溺れた若き二人の甘い熱情が、部屋を満たす。
そんな初々しい二人を、二つの寝具はそっと包み込み……
次の瞬間
「むにゃ……ムシュカさまぁ……」
「んん……ヴィナ…………あいして、る……」
深い深い眠りの国へと、全力で誘ってしまったのであった。
◇◇◇
今日も外は朝から、焼け付くような日差しが照り付けていて。
耳をつんざく蝉の声が、ますます暑さを助長するようだ。
「…………朝、ですねぇ……ムシュカ様……」
「いかん……これはゆゆしき事態だぞ、ヴィナ! この織物め、やはり呪いであろう! このままではどうやってもヴィナと熱を交わせぬではないか!!」
「いやまぁ、おやすみ三秒だったお陰で夢の中ではたっぷり交わせましたし、ムシュカ様も体力を消耗しなくてずっとお元気で……うっだめだ鼻血が」
「お主はそれで良いのか? 私は腰が痛くなろうが声が枯れようが、現実の熱が欲しいのだが!?」
待ち望んだ現世での交わりは、忠実に職務を遂行する二つの寝具によって見事阻まれて。
次の日、ムシュカが「側を離れずとも使わねば大丈夫であろう!!」と鼻息荒く仕事終わりの新太を連れ出し、新たな寝具を一揃い購入したのは言うまでも無い。
郊外にある単身者アパートの一室。
何の変哲も無いありふれた寝室には、真新しいダブルベッドが、今日も主達の帰りを待っている。
――そしてその壁には、今も東雲の空を模した上質なブランケットと枕カバーが飾られ、次の出番を静かに待っているという。
――神様は愛し子を餌付けしたい 完