第4話 推し神様の胸飾り(SIDE BL)
それは、窓を貫通する蝉の声が暑さに拍車をかけるようなある夏の日のことだった。
新太がいつものように仕事を定時で終え、ムシュカを学園に迎えに行った車の中。
髪をかき上げしゃらんと耳の飾りを鳴らす推し神様は今日もお美しいと、口の端を緩めながら帰路につく新太に、ムシュカが助手席から「そう言えば」と声をかける。
「ヴィナよ、来月は出張があるのであったな」
「ええ。また一週間くらいですけど、東京に」
「そうか、ならば此度は私も共に都へと行きたいのだが」
「へっ」
思いがけない提案に、新太は目をぱちくりさせ、ややあって「それは構わないですけど……」と戸惑いを隠せない声で仕事の心配を口にする。
一週間丸々休むだなんて大丈夫なのかと訊ねれば、出張があるのは八月だから問題ないのだとムシュカはうっそりと微笑んだ。
流石は、聡明なる我が生涯最推しの神様でありかつての主君である。こういう所は抜かりが無い。
「八月は下旬にある夏期講習日のみの勤務だからな、そこは気にしなくても良いぞ」
「あ、そうなんですね。……そう言えば、ムシュカ様と現実で旅行に行った事は無かったですね。前世でも、こちらにいらしてからも……」
「うむ。向こうでは私的な旅行が許される身分では無かったし、こちらに来てからはそれどころでは無かったしな。そもそもあの頃は、お主がいつまで経っても正室になると首を縦に振らぬせいで、二人で旅に出ることを許されなかったのだが」
「うっ……そ、その節は申し訳ございませんでした……なら、帰ったら新幹線の切符を買い増しましょうか。ホテルも確認取らないとですね」
(あーやっちゃった、これは失言だった……)
口を尖らせるムシュカの姿に、新太の背中には冷や汗が伝う。
かつて共に暮らした世界において、堅物で初心だった自分は思った以上に主君たるムシュカに鬱憤を溜めさせていたらしい。
あの頃は身分差故の頑なな拒絶を受け入れてくれた(しかし全く諦めなかった)ムシュカであったが、最近ではちょっとした出来事から、当時決して露わにしなかった忸怩たる想いを新太に訴えかけることも増えた。
それだけ心を許してくれているのは嬉しいし、前世とは言え自分の行いが全ての原因だから話を聞くのはむしろ義務であると新太は思っている。
ただ。
この後に待つのは間違いなく、年月を経て膨れ上がり拗れた想いを全部ぶつけるかのような夜のお誘いだ。
――つまり明日の朝は、全てを搾り取られた新太がへにょへにょの干物になるのが確定なわけで。
(ひいっ、ムシュカ様の目が完全に肉食獣になってる!! な、何とか夜までに矛先を逸らさねば……!)
これはまずいと馬鹿でかい身体を縮め、新太はまだ言い足りなさそうな麗しの君に「泊まりなら準備も要りますし、晩ご飯がてら買い物と行きますか?」とご機嫌を窺いながらハンドルを行きつけのモールへと切るのだった。
◇◇◇
ムシュカがあの織物により現代世界へと導かれて、もう四年になる。
未だ小さい頃から身に付けた王族らしい所作は抜けきらないし、かつての後遺症も残ったままではあるが、なんだかんだこの世界に馴染んだ青年は週三日の学食バイトに精を出し、新太との甘い生活を存分に堪能しているようだ。
二ー三ヶ月に一度、新太が一週間ほど出張に出ている間も、以前はブランケットと枕カバーに頼んで夢の中で毎日のように逢瀬を繰り返していたし。
寝具達を次の持ち主へと譲ってからはビデオ通話を繋いで……いや、これ以上思い出せば息子さんがすぐ元気になるから止めておこう。
何にしても、夜以外は穏やかな生活を送れているわけで。
当初は、あまりに異なる文明に目を白黒させていたムシュカも今やすっかり現代人らしくなったことだし、そろそろ泊まりがけの旅行というのも悪くない。
いや、推しと旅をするだなんて出張がご褒美になったではないか! 鼻血対策に今から血を増やしておかないと……
降って湧いたデートの誘いに、新太は少々どころではなく舞い上がっていた。
「東京は、とにかく美味しい店がたくさんあるんですよ! 出張で行きつけの店だけでも一回じゃ回りきれないし、いやぁ店の厳選が難しすぎる! あ、でも折角の東京ですし、ここは定番観光地も押さえておきたいですよね? 俺、昼間は仕事だから夕方からしかお付き合い出来ませんけど、一人でも回れるようにプランは作っておきますから!」
「ふふっ、楽しみにしておるぞヴィナ。お主が勧める店ならば、外れはないからな」
だから。
この見た目は美しく、だが中身は愛情深さを抉らせ(抉らせたのは大体自分のせいだが)恥じらいを異世界に置いてきてしまった残念な青年であることを、新太はすっかり忘れてしまっていたのである。
「時にヴィナよ、都に出た折には共にこの店に行ってみたいのだが……可能か?」
「ええと……ちょっと調べますね。多分大丈夫だと思いますけど」
いつもの膝枕を堪能しつつ、出張先で見つけた美味なる料理を実に幸せそうに語る新太に、これまたいつもと変わらぬ慈悲深い笑みを湛えたムシュカはスマホをそっと渡す。
そこには、ムシュカのお目当てらしき店の住所とマップが表示されていた。
ざっと確認した感じ、どうやら隣県の臨海都市らしい。職場から直行しても1時間くらいだろうか。
これなら仕事が終わってからでも行けますよと返し見上げれば、愛しの麗人は目を輝かせすっかりご機嫌である。
「ところで、これは何の店なんですか?」
「ああ、いつも世話になっているネットショップの実店舗だ」
「へぇ、ネットショップの……ん? 世話になってる……?」
ほら、と横から伸びてきた指が、ついと画面を撫で上げる。
スクロールしたその先に表示された内容に、新太は一瞬ぴしりと固まり……思わず「ですよねぇ!!」とがっくりした声を上げた。
――この世界に来てまだ四年にしかならない元王太子様が散々お世話になっている店なんて、心当たりは一つしか無いに決まっている。
案の定画面に表示されていたのは、何かとムシュカの琴線に触れる商品を取り扱っている、所謂大人のネットショップであった。
こういったサイトにありがちな淫猥さは……無いとは言わないけど、何も知らない女性でも呼び込めそうな清潔さと雰囲気を漂わせる、変わったサイトだ。
かつて、社畜時代にろくに調べもせず夜のお供を買っていた時には気付かなかったが、この店の主力商品は所謂BDSMと呼ばれる、ちょっとばかし特殊な世界のグッズだったらしい。
そんな危険な場所への入口となるチラシを、無造作にもベッドの下に置いていた自分が全ての元凶ではあるのだが……初夜のために初心者向け(?)のディルドなるものを手に入れて以来、この店から仕入れた神様の戦利品は増える一方だなと、新太は虚ろな瞳をリビングの一角に向けて、乾いた笑いを漏らした。
――ああ、今気付いてしまった。また新しいグッズが増えているではないか。
整然と棚に飾られたえげつない道具に混じる、手のひらサイズのピンクの玩具。あれが樹脂製の貞操具だなんて一目で分かってしまうほどの知見は、できることなら一生得たくなかった。
かくなる上は、自分の息子さんのために神様がご用意下さった物で無いことを祈るばかりだ。
「時折店の主にも相談に乗って貰っていたのだが、都に実物の店を構えていると聞いてな」
「それで、一度行ってみたくなったと……というかムシュカ様、相談って一体何を……? いや、いいです、きっと聞いたら尊さに鼻血を出して倒れるか、いたたまれなさで立ち直れなくなっちゃう」
「そう気を揉むでない、よりよい夫夫生活のためのアドバイスを貰っていただけだ」
「そういうことにしておきましょう。うん、絶対違うと思いますけど!」
まあ、折角だから実際の店を訪れたいというのもあるのだが……と思わせぶりなムシュカの様子に、前世から続く経験が新太の頭の中で警鐘を鳴らす。
――あの顔は、実にまずい。きっとなにか良からぬものに心惹かれて、ついでに新太を巻き込もうとする気配に満ちている。
(……うん、さよなら、俺の平和な出張)
心の中で覚悟を決めた新太に向かって、案の定推し神様は爽やかな笑顔を見せる。
そして
「ヴィナよ、この世界には乳に穴を開けて胸飾りをつける風習があるそうだな」
「神様、俺三十年以上この世界にいますけど、そのような特殊な世界に遭遇したことはありませんよ!」
さも当たり前のように、全く爽やかで無い知識を新太にひけらかしたのである。
◇◇◇
出張先のホテルから電車で1時間くらいの臨海都市にあるその店は、SMグッズに特化した店舗のみならず、ピアスや脱毛、刺青といった少々過激なサービスも展開しているらしい。
一体、この残念なお方が何をどう相談したのかは分からないし知りたくも無いが、とにかく悩める子羊……というには少々積極性が過ぎるムシュカに、店主はとんでもない提案をしてくれたようだ。
「店の主が言うにはだな、乳の穴は道具を揃えれば自力でも開けられるが、耳よりは難易度も上がるし人に開けて貰った方が綺麗に出来ると」
「はぁ……穴に綺麗とかあるんですかね……」
「何でもうまく開けると、感度も上がるらしくてな。これはヴィナも喜ぶであろうと、早速予約をしたのだが」
「そうですか、予約を……はあっ!? ちょっムシュカ様、よっ予約ってどう言うことですか!?」
「ああ、そう慌てるでない。ちゃんと日付は決まったら連絡すると、先方にも伝えてある。そこは仕事のあるお主の予定に合わせるに決まっておろう?」
「そう言う問題じゃ無いと思うんですけど!!」
……いや、店主だけに責を押しつけるのは酷であった。
相変わらず琴線に触れたときの行動力は凄まじいものがあるなと、新太はあんぐり口を開けたまま心の中で早々に白旗を揚げる。
ここで難色を示したところで、この残念な御仁は最初から「伴侶となったヴィナは、多少渋ろうが最終的には何だって受け入れてくれる」と確信しているし、実際受け入れてしまう未来が見え見えだから。
(はぁ、それにしても胸にピアスを開けるだなんて……また推し神様が歩く年齢制限コンテンツを強化する、つまり脳内エロスチルが増えて……はわわ……)
顔を赤くしたり青くしたり、ぶんぶん首を振って妄想を振り払い、かと思えば天を仰いで言葉にならない悲鳴を上げたりと、感情と煩悩の処理に忙しない新太の姿に「喜んでくれて何よりだ」とムシュカはすっかり満足げだ。
いや、喜んでいるわけでは無いと……新太に言い切れる筈が無い。
だって、例え変態方向であっても推しが自分のために何かをしてくれるだなんて、あまりに尊くて今すぐここに神殿を建てたい程なのだから!
(それにしても)
そんな興奮と不安で慌ただしい新太の心に、ふと違和感が過る。
いつものムシュカであれば、新太が仕事に精を出している間にちゃっかりピアスを開けてきて、ドアを開けた瞬間その姿で尊死させる位のことはやりそうなのに。
この御仁は一体どうして、今回に限って完璧なる作戦(?)を新太に暴露してしまったのだろうか――
何となく嫌な予感を感じつつも、新太が疑問を口にすれば「サプライズも良いと思ったのだが、店主に不思議なことを言われてな」とムシュカは小首を傾げる。
「なんでも、穴を開けるときにはご主人様と一緒に来店しろと言うのだ」
「ご……ご主人様、ですか……?」
「うむ。この世界の事はまだ熟知しておらぬが、恐らくこの国にも主従の契りを結んだ者がいるのだろうな」
「ええと、まぁ、そうかもしれない、ですねぇ……」
「とは言え、私には生まれてこの方主人などおらぬ。強いて言うならばかつての世界の主たる神くらいで」
「それは、実体があっても連れて行っちゃいけないやつですね!」
全力で突っ込みを入れる新太が、冷や汗を流しこめかみをひくつかせている事に、多分麗しの推しは気付いておられない。
そこでだ、とこの世界の常識を知っているようで知らないムシュカは、妙案とばかりに新太を巻き込むことにしたようだ。
「なれば、ここはかつての忠臣であり今は伴侶たるお主を伴うのが、最善手であろうと考えたのだ。と言うことでだなヴィナよ、ついてきてくれるな?」
「それはお願いじゃ無くて、確定事項って言いません? あと、前世とは言え要求されている主従が逆転しておりますが」
「なに、その程度は些細なことであろう。ああ、もし店主が求めるならばお主に跪くのもやぶさかでは無いが」
「推しを額づかせるとか、俺、罪悪感で海の底に沈みたくなるんですけど!!」
愛おしそうに頭を撫でる手のひらの下で新太はがっくり肩を落とす。
その顔つきから察するに、ムシュカの頭の中では既に全てが決定済みであろう。神様の強引かつ綿密な計画に、ただの信徒たる自分が横槍を入れる隙間は、一分たりとも無さそうだ。
(まあ、一人で行かせるよりは安全かもしれないか……)
いくらネットで散々やりとりをしている相手とは言え、怪しい店に単身乗り込ませるのは少々心配である。
いやこの場合の心配はどちらかというとムシュカ自身ではなく、先方や自分にとんでもない火の粉が降りかかる可能性の方なのだが――とにもかくにも新太が「じゃあ、水曜の夜なら」と同伴を承諾すれば、ムシュカは早速スマホで連絡を取り始める。
「ふふっ……楽しみだな、ヴィナよ」
「ほんっと、ムシュカ様は一体どこまで変態に、じゃない魅力的になったら気が済むんですかねぇ……」
「そんなもの、お主が私を骨までしゃぶり尽くしてくれるようになるまでに決まっておろう?」
「うぅ……俺、十分頑張ってるつもりなのにぃ……って待って下さいムシュカ様、ここで始めようとしないで、せめてシャワーを浴びさせて下さいっ!」
どうやら話がまとまったことで、神様は余計に熱が上がったらしい。
いそいそと服を脱ぎ、引き締まった肢体を愛し子に見せつけて唇をペロリと舐める姿は、いつだって一体どちらが受け入れる側なのか分からなくなるほど蠱惑的だ。
(あー、結局今日は搾り取られる運命……明日、目覚ましで起きられますように……)
新太の大きな身体を押し倒し、ムシュカの柔らかな唇が迫ってくる。
ほんのり赤らんだ頬と、幼子のように喜びを隠しきれないキラキラした瞳にくらりと目眩を覚えつつも、新太は「その日」を思って頭を抱えるのであった。
(にしても……ムシュカ様、一体どんなことを相談してたんですか!? それ、間違いなくムシュカ様がドマゾで俺が鬼畜なご主人様認定されてますよね! 俺そういう趣味は、これっぽっちも無いんですけどっ!!)
果たして、誤解は解けるのか。
――むしろ麗しの神様がこの世界に更なる混沌をまき散らさないことを、新太はただ祈るばかりである。
◇◇◇
「うわぁ、入口からもう怪しい雰囲気……」
「そうか? これはこれで趣があって良いと思うが」
「いや、俺流石にこの手の店は初めてですし、ちょっと入るのに勇気が……ってもう呼び鈴押してるし!!」
そうして迎えた出張の日。
仕事を終えた新太とすっかり東京見物を楽しんだムシュカは、電車で隣県の臨海都市に向かう。
雑居ビルの地下二階、エレベータを降りた先に飛び込んできた目的の店「Jail Jewels」の看板は、いかにもな雰囲気を漂わせていた。
なんでも来店は完全予約制らしく、今日はムシュカ達以外の客はいないらしい。
それが救いなのかむしろ危険なのかも分からないまま、呼び鈴の残響がかき消されそうなほど心臓をかき鳴らして新太が呆然と立ち尽くしてれば、ガチャリと扉の開く音と共に「いらっしゃいませ」と人の姿が現れた。
「18時半に予約の鞍馬様ですね、どうぞお入り下さい」
「うむ。ほれヴィナよ、何を突っ立っておる。さっさと中に入らぬか」
「はひぃ……もう、どうしてムシュカ様はそんなに堂々としていられるんですか!」
店にはどこか不釣り合いな、作務衣を纏った体格の良い店員に続いて中に足を踏み入れれば、革とオイルの嗅ぎ慣れない匂いが鼻をついた。
冷房がしっかり効いて肌寒いくらいの店内は、間接照明でほんのり薄暗く……だからだろうか、新太には所狭しと置かれている商品全てがどこか凶悪に映る。
――いや、実際に玩具と呼ぶには躊躇いを覚える品物ばかりではあるのだが。
「ふむ、なかなかしっかりした檻だな。こちらは拘束具か、なるほど画像で見るのとは全く雰囲気が違う。ほう、これは……拷問器具か? いやしかし、この程度の棘では少々手ぬるいようにも思うが」
「ムシュカ様、それ、そう言う意味の実用品じゃ無いですから!!」
なんてこったいと、新太は早速店に来たことを後悔していた。
何せムシュカ御用達のネットショップは、確かに拘束具や鞭といった過激な商品も多数扱ってはいたけれど、一応一般的なアダルトグッズの店らしき品揃えを展開していたのだ。
いくら実店舗がBDSM専門店とはいえ、まさか扉を開けたら両隣に拷問椅子とどう見ても人を入れる気満々の檻、極めつけにアイアンメイデンが並んでいるだなんて、あのサイトを見た一般人に想像しろという方が無理であろう。
「ほう、あれはディルドか? あれほど長いものは経験が無いが……ヴィナよ、この世界はまだまだ私の知らぬ物で満ち溢れておるな! いやこれは実に楽しい」
「お願いですからムシュカ様、それ以上明後日の方向に飛んでいかないで下さい!」
一方ムシュカはと言えば、店に入るなりぱぁと目を輝かせ、未知の道具にすっかり心を奪われているようだ。
推しの笑顔は新太の幸せ。喜んで下さるのは何よりなのだが、できればこれ以上御身に過激な年齢制限コンテンツの追加は控えて頂きたいのも本音である。
……そう、健気に頑張っている己が下半身を労るためにも。
「……ん? これは……ドレスか?」
だというのに。
この好奇心旺盛な麗人は、当たり前のように新たな性癖の地平を切り開いてしまうようだ。
今度は、店の片隅にある真っ黒なマネキンに――何故這いつくばり手足を纏められているのかは考えないことにした――着せられた純白のドレスに興味を惹かれたらしい。
「ほう、このような店には珍しい可憐な衣装だな。布も上等だし、縫い目もしっかりしておる。いつもの店で売っている服とは随分仕立てが違うな」
「そ、そうなのですか? 俺にはさっぱり違いが……」
流石は元王族、既製品とオーダーメイドの違いは一目で見抜いたのだろう。
ムシュカが質の高さを褒めつつ「しかしこのドレスは四つん這い専用の形であるかな」と首を傾げていれば、先ほど案内してくれた作務衣の店員がどこか嬉しそうに「あ、それは」と口を開く。
「これはヒトイヌ用のウエディングドレスなんです。……その、僕の作品で」
「なんと、お主がこれを作ったのか。若いのに素晴らしい腕前であるな……お主、名前は?」
「あ、志方幸尚(しかた ゆきなお)と申します。ここの職人で、衣装とかオーダーメイドの拘束具やグッズを手がけていまして……」
「なるほど、それはいつか世話になりそうだな。……ところで幸尚殿、ヒトイヌとは何であろうか」
「ええと、プレイの一種と言えばいいですかね……」
(はっ、それは聞いちゃいけない予感しかしない!)
ムシュカの率直な賛辞に、すっかり気を良くしたのだろう。
先ほどまでどこかおどおどした様子だった幸尚と名乗った青年は、途端はにかむような笑みを浮かべ、蕩々とヒトイヌなる概念について二人に語り始めた。
……話が進むにつれてムシュカの瞳は輝き、新太の目が死んでいくのはまあ、お約束であろう。
(いやいやいや! それはダメでしょ! ムシュカ様めちゃくちゃ真剣に聞いてますけど、そんなことをしたら監禁されていたときのトラウマが蘇るんじゃ無いですか!?)
大体トラウマに触れる可能性が無かったとしても、誰が好き好んで伴侶でもある推し神様の手足を折りたたみ、自由を奪って黒い何かでその美しさすら閉じ込めてしまいたいだなんて不敬なことを考えるだろうか。
いやまあ、ここはそういう高尚な変態趣味を持つ方々の集まる場所なのだろうし、何より目の前の気弱な青年は考えたんだろうな……と、まるでその衣装を大切な誰かに着せたかのように頬を染めて語る彼の姿を、新太はなんとも言えない表情で眺める。
そして案の定「ひらめいた」と言わんばかりの顔でこちらを向いたムシュカ様の後光に胸を射貫かれ(これ、いつか絶対やらされるやつだ……)とがっくりするのであった。
「なるほど、ヴィナよ」
「だめです」
「……まだ何も言っておらぬではないか」
「言わずとも分かります! ムシュカ様もそれを着て、俺に愛でてもらいたいって思ったんでしょ! そんな、麗しの推しを酷い目に合わせながら着飾るだなんて……萌えで尊死するか罪悪感で腹を切る未来しか見えないんですけど!!」
「お主の思考はいつもながら複雑すぎやしないか……? ふむ、確かに心の準備も必要であるな。幸尚殿、新たな知見に感謝する。しかと覚えたぞ」
「だから覚えないで下さいってばぁ!!」
◇◇◇
「どうぞ、粗茶ですが」
「あ、ありがとうございますっ……」
すったもんだしつつも漸く奥の事務室へと通された二人は、部屋の一角にあるソファに並んで腰掛けていた。
濃いめに煎れた緑茶と、柚子の効いたあんこを巻いた和風ロールケーキは実に相性が良い。
どうやら菓子がお気に召したのだろうムシュカは、早速お茶を出してくれた幸尚と話が弾んでいる。
どこに行ってもあっさり人の心を掴んでしまうのは、やはり元王族故だろうか。
(んもう、こっちはそれどころじゃ無いんですけどね! 何でムシュカ様は平然といられるんですか? ここ、やっぱりヤバい店っぽいんですけど!!)
その横で、新太は魂が抜けそうになりつつそっと室内を見渡していた。
確かに事務室らしい備品と応接セットこそあるものの、部屋の片隅には大量のベルトがついた開脚台が鎮座しているし、何故か奥にあるシャワーブースには扉が無く、天井からは頑丈そうな鎖がぶら下がっている。
良く見たら壁にも丈夫なフックがいくつも埋め込まれていて、ああ、確かにここはただ物を売るだけの店では無いのだと改めて突きつけられた気がした。
と、ガチャリと扉の開く音が部屋に響く。
途端「ひぃっ」と思わずソファから飛び上がった新太の背後から「お待たせしました」と凜とした、女性にしては少し低い良く通る声が、ヒールの音と共に近づいてきた。
「ごめんなさいね、帰り際に急患が来ちゃって。本日は遠いところようこそ」
「いや、こちらこそ無理を聞いて貰って感謝するぞ、チカ殿」
二人が立ち上がり振り返れば、そこには腰までありそうな長髪を一つに束ねた女性が妖艶に微笑んでいた。
年の頃は……四十路くらいだろうか。ノースリーブのトップスにカーディガンを羽織ったいまいち年齢の分からない彼女に勧められ座り直せば、すっと名刺を差し出された。
その小さな紙面に目を向けた新太が、ぴしりと顔を凍り付かせる。
「Jail Jewels店主の塚野です。本日の施術を担当させて頂きます」
「鞍馬・ムシュカ・衣織だ、本日はよろしく頼む。ああチカ殿、こちらは我が伴侶の」
「あわわ、びっ毘奈新太ですっ! …………あの、この、みっミストレスって……」
「……ふふっ、そのままの意味よ? 趣味で女王様をやってるの」
「趣味……? 趣味って何だっけ……」
塚野から渡された名刺にはたった二行
「Jail Jewels owner Mistress CHIKA」
とだけ書かれていて。
ただのショップの店長かと思いきや、いきなり投下された核爆弾級の情報に新太の頭は完全にフリーズしてしまった。
……当然のごとく、ムシュカは動じることも無く「二足のわらじであるか」と感心しきりである。その堂々たる気質を、ほんの少しで良いから自分の恥じらいと交換して欲しい。
「正確には三足よ。本業はここの店主、バイトで医者、趣味でSMバーの女王様ね」
「まってこれ以上属性を足さないで、てか明らかに一つだけ種類がおかしくないですか!?」
情報量について行けない新太の横で、二人はさっさと話を進めていく。
手渡されたタブレットには、これまで塚野が手がけてきたであろう、胸の先端を様々な太さの金属で貫かれた画像がずらりと並んでいた。
……もう横から薄目で見るだけでも胸が痛い気がして、新太はそっと豊かな胸筋を手のひらで覆い隠す。
「鞍馬さんが希望しているアクセサリーを着けるとなると、あまり細いのはお勧め出来ないわね。うちは基本的には12Gで開けるのよ、これが見本ね」
「うむ、私の胸でもこの太さを開けられるのであれば、問題はないが」
「後で一応チェックするけど、メールで頂いた画像を見た限りでは大丈夫そうよ」
「ちょっと! ムシュカ様さりげなくなんてものを提供しているんですか!!」
トレイに乗せられた針に新太がギョッとした顔をすれば、塚野はどこか楽しそうに……そう、舌なめずりでもしそうなほど嬉々として、手順を説明する。
ああ、確かにこの人は女王様だ。隠しきれない嗜虐の炎が、瞳の奥にちらついている。
それでもムシュカは臆することも無く――多分彼女の気質に気付いてはいるのだろうが――話に耳を傾け、タブレットの画像をじっくり観察し「ヴィナよ、バーベルとリング、どちらが好みだ?」と話を振ってくる。
本当にこの推し神様は強すぎる。そして、出来れば自分に判断を委ねないで頂きたいと「ムシュカ様のお好きな方で良いです……」と半泣きになりながら答えれば、塚野は少し意外そうな顔でこちらを見た。
「……毘奈さんは、ご主人様なのよね?」
「ほぇっ!? あ、あわわそのっ、俺別にそういう趣味はなくて」
「趣味も無いのに、伴侶にピアスを開けさせるの? まあファッションとして捉えるのも、分からなくは無いけど」
「あっ、開けさせてないですっ!! それはムシュカ様が俺を誘うために勝手に予約を」
「…………貞操具も買わせてたのに?」
「着けさせられたのは俺の方です! ムシュカ様が、野獣になった俺に激しく抱かれたいからって……はっ今のは聞かなかった事に!!」
頭のてっぺんまで真っ赤になりながら、新太は涙目で叫ぶ。
その言葉に背後では幸尚が茶を噴き出し、目の前の塚野はポカンと目を瞬かせた。
ただ一人、全ての元凶であるムシュカだけはしゃらんと揃いの耳飾りを鳴らし「うむ、我が愛し子は放って置くとすぐ私を宝物のように扱うからな!」と、平常運転のままうんうん頷いている。
「…………それは、想定外だったわ……まさか本当に、より良い夫夫生活のためだったなんて」
ややあって、当惑を滲ませながら塚野がぽつりと呟く。
そりゃ、あれだけ「専門的な」物ばかり買いあさっていりゃ誤解もするよなと、新太は「ムシュカ様はいたって真面目で本気なのです……方向性はともかく……」と肩を落とした。
「つまり、鞍馬さんはドマゾではない、と」
「ん? ああ、被虐嗜好という意味か? いや、私はヴィナが毎日私を一つ残らず食べ尽くしてくれれば満足なだけだが」
「なるほど、好奇心がご自身では無く周囲を滅ぼしているのね……」
気の毒にねぇ、と塚野は新太を慮る。
けれど、その視線は明らかにちょっとした愉悦を含んでいて。
「まあでも、ドマゾと付き合ううちに目覚めた子も見たことがあるから、いつかあなたも目覚めるのかもね」
「ぶふっ!」
「ちょ、塚野さん!!」
「ふふっ、幸尚君も最初はさめざめ泣いていたのに、今や立派なご主人様だものねぇ? ほら、鞍馬さんがドマゾじゃなくてもやっていることは似たようなものだし……毘奈さんもその方が幸せになれるんじゃない?」
「全力でお断りさせて頂きます!!」
実に不穏な未来予想に、新太は「もうやだ俺は優しくしたいのにぃ……」と机に突っ伏すのだった。
◇◇◇
それから15分後。
事務所の隣にある処置室で、ムシュカは処置台に全身を拘束されていた。
……当然のごとく、その身体には一枚の布も纏っていない。
「こ、ここまで拘束する必要があるんですか……?」
「ふふっ、特に希望は無いって話だったでしょ? なら私の趣味でやらせて貰おうかと思って。お医者さんごっこは性癖ど真ん中なのよねぇ」
「……お医者さんなのにお医者さんごっこって、どういうことなの……?」
ムシュカの傍に座り、不安そうに手を握る新太の視線の先には、テキパキと準備を進める塚野の姿があった。
「希望があれば、ボンデージでもナース服でも応じるわよ」と言っていたこの御仁は、ムシュカが「チカ殿のやりやすいようにして頂ければ」と口にした途端目を輝かせて、幸尚に処置室の準備を指示したのである。
そうして部屋にやってきた塚野は、紺のスクラブ上下を身に付けていた。
髪はひとまとめにしてディスポの帽子に押し込め、マスクの紐を頭の後ろで結んでいる。
幸尚が用意したステンレスのカートには青色の布が敷かれ、その上では消毒器具やピアッシングの道具が物々しい雰囲気を放っていた。
「ピアスを開けるだけならここまでは要らないけど、折角だし楽しませて貰うわよ」と塚野は台に戒められたムシュカの胸の飾りに手を伸ばす。
右手には、紫の極細マーカー。これで針を刺す位置に印をつけるそうだ。
「ん……っ……」
「へぇ、女の子と変わらないくらい敏感じゃない。大きさも十分よ、というかそのままじゃ擦れて大変じゃない?」
「ふふ、んっ、ヴィナが丹精込めて育ててくれたからな」
「ムシュカ様っ、そんな盆栽を育てるような言い方はよして下さい」
「事実では無いか。まあお陰で時折気持ちよさに腰が砕けそうになるが、仕事には支障も無いし、何より艶が増して我が愛し子が喜ぶからな、鼻血を出しながら」
「ほんっと、いろんな意味で破壊力がありすぎねぇ鞍馬さんは……そうだ、幸尚君が作ったメンズブラも取り扱っているから、良かったら買って行きなさいな。仕事中に何かあっても困るし、夜のお誘いにも効果的でしょ」
「ふぁっ!? つつつ塚野さん、それっ俺の死亡フラグが増えちゃうんですけど!」
しかし本当にドマゾではないのねと、塚野は消毒鉗子を手に取りながらちらりとムシュカの股座に目をやる。
服を脱ぐよう指示すれば、恥じらいのはの字もなくゆったりした衣類をさっさと脱いでしまった(しかも下着は履いていなかった!)このどこか高貴さを漂わせる残念な御仁の中心は、いまだほんのり兆した程度だ。
この店に来るような客はほぼ全員が、処置台に全裸で拘束した段階で塚野が煽るまでも無く股間を期待に膨らませ、それを鼻で笑えば歓喜の涙を伝わせる。
だというのに、ムシュカと来たら本物の手術室と変わらない設備に目を輝かせ、傍に用意された凶悪な道具達にすっかり興味津々だ。
この様子では、いつものように煽ったところで顔を歪めることも無さそうだと、塚野はちょっとだけ失望を覚える。
(……ま、その代わりがいるからいいけど、ね)
そう、あくまでちょっとだけだ。
男を泣かせて楽しむのは、なにも貫かれる本人で無くたって問題はない。
「一応確認ね、今回は両方の乳首に12Gのピアッシング。麻酔はしない、バーベルタイプのピアスを装着する、良いわね?」
「うむ、よろしく頼む」
「ええ。じゃあ今から、これが鞍馬さんの胸を抉るわ」
「ひっ!」
手術用の手袋を身に付けた塚野が、トレーから針を摘まみ、二人の前にかざす。
途端に悲鳴を上げて喉を鳴らしたのは、ムシュカ……では無く、その隣で紙のように白い顔をした新太の方だ。
なぜだろうか、先ほどサンプルで見せられた針よりずっと……凶悪な光を放っている気がする。
こんな太い針、見たことない……と震えながら呟けば、塚野は実に満足そうな顔で「良く見てなさいな」と、トレーに置かれた別の針を手にする。
「これが今回、ピアッシングに使う針ね。12G……といっても分かりにくいか、内径は大体2㎜くらいかしら」
「にっ、2㎜!? え、肉が抉れませんか、これ!」
「まだ12Gなら大丈夫よ。いきなり10Gを開けると、流石に乳首の肉が削れちゃうわ。で、こっちは16G。耳のピアスなんかはこのゲージが一般的よ」
「それでも太く見えるんですけど……俺、こんなぶっとい針で開けたっけ……?」
「ピアッサーを使ったんじゃ無いの? あれだと針の太さまでは実感出来ないわよねぇ」
更に、もう一本。
塚野が手にした針は、これから使う針とは比べものにならないほど細い。
「ほら、ちゃんと見ていなさい」と恐怖で目を瞑った新太を諫めると、彼女は12Gの針の穴に、すっと細い針を通した。
ちゃりん……
軽快な金属音を立てて、細い針がトレーの上に落ちる。
耳に響く音が背中に冷や汗を伝わせ、トレーをまじまじと眺める新太に塚野がマスクの中でにぃと口の端を上げた気がした。
「この針は22G、一般的に病院で採血に使われる針よ。……今から鞍馬さんに開けられる穴の大きさが、何となく想像ついたかしら?」
「…………っ!!」
(そんな……あんな、太い物が、ムシュカ様を貫くだなんて……!)
「あ……ああ……」
どくん
新太の心臓がひときわ大きな音を立てる。
喉の奥がカラカラに乾いて、嫌な痛みを訴えている。
なんだか息がしづらくて、目の前で「よく分からぬが太いのだな」と平然としている己が推し神様の姿もぼやけて見えて……
「……チカ殿、そのくらいにしてやってはくれぬか。ヴィナは逞しき身体こそ持つが、心根は繊細で優しき男なのでな」
ふいに、冷たくなった手をぎゅっと握られる。
新太がおずおずと見上げれば、そこにはいつもと変わらぬ微笑みを湛え、けれど……在りし日の王太子としての威厳を纏わせ塚野を窘めるムシュカの姿があった。
がらりと雰囲気を変えたかつての主君に塚野は一瞬虚を突かれ、そしてふっと笑みを浮かべる。
「……あなたの方が余程ご主人様らしいわね、鞍馬さん」
「なに、今の我らに主従はない。我が愛し子とヴィナの推し、ただそれだけだ」
「そうね。……羨ましいわ、対等に関係を作れるだなんて」
……一瞬、塚野の瞳に過った感情が、何を表しているのかは二人には分からなかった。
カートの上から先が視力検査の輪のようになった鉗子を取った彼女は、ムシュカの胸の飾りをその先端で挟んで固定する。
そうして走る痛みに少し顔を歪めたムシュカに「痛かったら叫んで良いわよ」と声をかけ、ぴたりと太い針の先端を乳首の側面に当てた。
「毘奈さん、これ以上は煽らないからせめて良く見ていなさい。あなたのために鞍馬さんは身体を張るんだから……怖くても目を背けるのは無しよ。同意したわけでは無くても、この行為を止める気はないんでしょ?」
「っ、はい……」
涙目のまま、新太は口を引き結び顔を上げる。
相変わらず「ムシュカ様ぁ、俺っ怖いです……」「何を言っておる、ただ針を刺すだけでは無いか」と図体に似合わぬ気弱なやりとりを交わしてはいるけれど、その目はじっと尊い伴侶を見つめていて。
――彼らの過去は知らない。けれど、一見好奇心旺盛で暴走気味に見えるこの麗人の行為は、決して無計画に伴侶を振り回すための物では無い、そう塚野は見抜く。
(恐らく、これほど全力で愛されていてもまだ足りないのね、鞍馬さんは。……ふふっ、なかなか面白い子達が来たじゃないの)
きっと彼らとの付き合いは長くなる。
自分達の世界からは近いようで遠い、そしてこの店の客層からはちょっと外れた関係の二人が、一体どう変わっていくのか……店主として見守るのも悪くないと心の中で独りごち、塚野は針を持つ手に力を込めた。
「……ぐぅ……っ……」
「む、ムシュカ様ぁ……」
「だい、じょうぶだ……何、初夜に失敗して挿れるも抜くも出来なくなったときよりは、痛くない……!」
「あれと比べちゃダメですってば! というか、この状況でとんでもないことをバラさないで下さい!!」
ぷつり、と皮膚が切れる音が聞こえた気がする。
そのままグッと押しつけるように進む先端が敏感な場所を深く抉る痛みと不快感に、流石のムシュカも歯を食いしばり呻き声を上げた。
それでも、今にも倒れそうな顔で見守る伴侶を慮ることを忘れないあたりは、大したものである。
「……はい、針はもう通ったわよ。ピアスを押し込むからもう少し頑張りなさいね」
「うむ。ふぅ……ふぅっ……んっ、何とも変な感じであるな……」
「これだけ敏感なら、痛みが引いたら暫くは大変かもね? ああでも、鞍馬さんの目的は達せられると思うわ」
「そうか、それは楽しみだ」
(ああ、片方できた……ええと、目的……? なんだったっけ……目の……前が……)
「ヴィナよ、ほれ左は終わったぞ、なかなか綺麗であろう?」と笑顔で話しかける推しの嬉しそうな声が聞こえた途端。
全身からふっと力が抜けて、視界が暗くなって……新太の記憶はそこで途切れた。
◇◇◇
あやふやだった境界がすっと明確になって、眩しさを感じる。
「ん……」
「……あ、目が覚めました? 気分は悪くないですか?」
目の前に広がるのは、白い天井。
自宅とは違う色合いに新太がぼんやり違和感を覚えていれば、ぬっと人影が光を遮った。
「えと、俺、一体」
「……毘奈さん、鞍馬さんのピアッシングが片方終わったところで倒れちゃったんです。頭は打っていなさそうでしたけど、大丈夫そうです?」
「多分、大丈夫です。お手間をかけてすみませんでした……はっ、ムシュカ様は!?」
漸く頭の霧が晴れてきた新太が、慌てて事務所のソファからガバッと起き上がる。
途端にふらりと身体が揺れて顔を顰めれば「まだ寝てた方がいいですよ」とソファに戻されてしまった。
随分可愛らしい柄のブランケットをかけ、介抱してくれていたであろう青年……幸尚はすまなさそうにぺこりと頭を下げる。
「塚野さんが調子にのり過ぎちゃって……申し訳ございませんでした」
「あ、いえ、お気遣い無く……俺も、そう言う店なのをよく分かってなかったですし」
「…………塚野さん、特に医療処置では地が出やすいみたいで。いつもはピアスを開けるお客さんを煽って楽しむんですけど、その、鞍馬さんは」
「ああ、まぁ……ムシュカ様、どれだけ煽られても『そうだな』って笑って平然としていそうですものね」
気にしないで下さいと何とか笑顔を作るも、幸尚はどうにも居心地が悪そうだ。
自分ほどでは無いが大柄な体躯に、きっちり後ろに流した髪と作務衣のお陰で気付かなかったが、おどおどした様子はまだまだ社会人になってから日が浅そうに見える。
年を尋ねれば「に、22です……この四月に大学を卒業して」と幸尚は蚊の泣くような声で答えた。
(……新人君は大変だよなぁ、まああの店長さんの感じだとブラックでは無さそうだけど……別の意味で気苦労が絶えなさそうだ)
未だ、ムシュカ達が帰ってくる気配は無い。
初対面のおじさんと二人きり、沈黙に耐えるのはしんどいだろう。ここは年長者として話の一つも振るべきかと、新太は先ほどふと気にかかったことを青年に尋ねる。
「……志方君は、ご主人様……その、プライベートで奴隷がいるんだよね」
「あ、はい。正確には僕と伴侶の奴隷なんですけど」
「そうなんだ。……さっき塚野さんが『最初はさめざめ泣いていた』なんて言ってたからさ、俺みたいにそっちの気は元々なかったのかなって思って」
「ああ……そう、ですね。今でも塚野さんや奏……あ、伴侶ですけど、二人のような虐めて楽しむってのはよく分からないです」
随分と昔、初めて奴隷にピアスを開ける――どこにかは聞かないことにした――ため、彼らがこの店を訪れた日。
すっかり盛り上がる伴侶と奴隷とは対照的に、彼はその事実を受け入れられなくて泣いて反対したことがあったのだという。
色々あって結局奴隷の希望は叶えたわけだけれど、やっぱり貫かれるのを見るのはしんどかったです、と幸尚はその日のことをどこか懐かしそうに語る。
(それでも……君はちゃんとご主人様をしているんだな)
奴隷は奴隷で、恋愛感情を向ける先は伴侶だけ。
それでも大切に思う気持ちは伴侶と変わらないと断言する姿は、確かに気弱ではあるけれどこれも主従関係の一つの形なのだろう。
だから、彼なら分かるかもと新太は問いかける。
「……志方君、俺もいつか、ムシュカ様のご主人様になっちゃうのかな」
先ほどの塚野の予言が、外れて欲しいと願いながら。
「毘奈さん?」
「あーほら……ムシュカ様、いつも俺に手酷く抱かれるのを喜ぶから……そのためにドマゾに間違われるような事も平気でやっちゃうし、そのうち俺も段々染められていくのかな、って、ちょっと心配になって……」
唐突な質問に、幸尚は一瞬虚を突かれたようだった。
けれどすぐに真剣な表情を見せ「んー……」としばし思案した後、穏やかな声で口火を切る。
「毘奈さんは、ご主人様になりたいんですか?」
「ないです」
「そ、即答ですね……」
「俺にとってムシュカ様は、生涯最推しの尊い神様ですから!」
「……そっか、推し……うん、推しの力って凄いですもんね……」
ちょっとだけ遠い目をしながら、でも、と幸尚は新太に微笑み返す。
とんでもない推しのせいで想定外の世界に迷い込んだこの人は、それでもきっとこちら側に足を踏み出すことはないだろうと、確信を持って。
「毘奈さんは、多分大丈夫ですよ」
「……そう、思いますか」
「うん。僕は、彼女が僕たちの奴隷になりたい、僕にもご主人様でいて欲しいと望んだからそうなっただけです。それに二人が喜んでくれるのが僕の幸せだから、これで良かったと思ってます。ただ」
「ただ?」
「…………毘奈さん、鞍馬さんがこの先奴隷になりたいと言い出す日は」
「ぜっっったいに来ないですね! あのお方の望みは、俺の理性を焼き切って激しく抱かれることだけですし!!」
「でしょ? それが答えですよ」
「!」
大丈夫と頷く幸尚の言葉に目を丸くした新太は「……そっか」と小さな声で呟く。
その口から漏れたため息は、どこか安堵に満ちていた。
◇◇◇
「すみません、晩ご飯まで頂いて……」
「いえいえ、ご迷惑をおかけして遅くなっちゃったのはこちらのせいですから! 塚野さんも、もうちょっと自重して下さいよホント!」
「にしても幸尚君、料理上手っすね。このだし巻き卵なんて、店で出せるんじゃ」
「えへへ……自炊は中学の頃からしてたんで、料理は得意なんですよ」
あの後、たっぷり1時間近くソファで休ませて貰った新太は、上機嫌で戻ってきたムシュカと共に事務所で遅めの晩ご飯を頂くことになる。
当然ながら「見よヴィナ、なかなかに美しいであろう!」と事務所に戻るなり開口一番シャツを捲って新太をその場に突っ伏させたのは言うまでも無い。
そんなムシュカはと言えば、事務所の給湯室で作ったとは思えない家庭料理に舌鼓を打ち「この卵料理の作り方を教えてくれぬか」と幸尚に早速レシピを強請る始末である。
いや、この世界の料理を覚えて下さるのは実に嬉しい。嬉しいが、この推し神様と添い遂げるには毛の生えた心臓がいくつあっても足りない気がする……と新太はちょっぴり虚無を瞳に宿らせつつ、三杯目のご飯のお替わりに立ち上がった。
その時
「鞍馬さん、さっき言ってたピアスを持ってきたわよ」
「ほぇっ」
「かたじけない、チカ殿。……ああ、この飾りは良いな。跳ねる身体の動きで良い感じに揺れそうだ、そうは思わぬかヴィナよ」
「何の身体の動きですか、何の!!」
後始末を終えて戻ってきたのだろう塚野が、いそいそと商品の載ったトレイを並べていく。
金色の装身具には色とりどりの石が嵌め込まれていたり、しゃらしゃらと流れるような音を出す飾りが連なっていたりと、この国で耳を飾るには少々目立ちそうな物ばかりだ。
恐らくは、ムシュカが事前に好みを塚野に伝えていたのだろう。本当にこの方は、どこまでも用意周到だ。
「これと、これ……ああ、こっちも良いか? 悩ましいな……ヴィナよ、どちらが良いと思う?」
「ムシュカ様、デザインを見るだけなら胸をはだけずともよろしいのでは!? というか、俺は今日何回尊死すればいいんですか!!」
嬉々として胸元に当てた飾りを見せつける伴侶が、目が眩むほど眩い。
残念ながらその後光は煩悩を浄化するどころか増やす一方で、さっきから新太の「新太君」はすっかりフィーバー中だ。
推しの18禁供給を一気に増やされて、俺今日無事にホテルまで帰れるのかな……と鼻を押さえていれば、横から「あ、鞍馬さんちょっと血が滲んでます」と幸尚が助け船を出してくれた。
「そうだ、ガーゼをメンズブラで挟んじゃいましょうか。そしたら毘奈さんも落ち着いて見られるかなって……鞍馬さんの肌だと、濃い色の方が似合いそうですね」
「……幸尚君、それ、多分逆効果よ。ほら、もう毘奈さんの魂が抜けかけてる」
「はへ……えっちぃ……黒のレース…………サキュバスムシュカ様はらめぇ……」
……うん、こんなぶっ飛んだ店で常識的な助け船を期待した自分が間違えていた。
憐れムシュカの胸を覆うために持ってきたガーゼは、そのまま新太の鼻の中へと詰め込まれてしまうのである。
◇◇◇
「ふふっ、実に良き買い物が出来たな、ヴィナよ。……いつか耳と同じく揃いに」
「ムシュカ様の勅命でも、それは聞けませんから!!」
紙袋にたんまり戦利品を詰め込み、二人は帰路につく。
もちろん袋を持つのは新太の役目だ。それはいいのだが、ピアス数点とメンズブラとショーツのセットをいくつか買ったにしては、随分と荷物が重い気がする。
電車の中でじとりと上機嫌なムシュカを見下ろせば、聞きたいことは分かったのだろう「店頭に飾ってあったロングディルドも入っておるぞ」と満面の笑みが返ってきて、新太は慌ててムシュカの口を塞いだ。
「全くもう……そんなにいっぱい買っちゃって。どうみてもこれ、玩具は一つだけじゃ無いですよね?」
「折角店まで来たのだからな、この機会に増やしておくのも良かろう? ……ほれ、言いたいことがあるならば隠すなと、何度も言っておるであろうが」
「むぅ…………」
そういう所は聡いんだよなと観念した新太は、子供のように口を尖らせ「……俺だけじゃ満足出来ませんか」と伏し目がちに呟く。
その様子はしょぼくれた大型犬のようで、どうにも可愛らしいものだとムシュカが密かに喜んでいる事は内緒だ。
がっくりと肩を落とす新太の頭をそっと撫でると、ムシュカは「これは香辛料のようなものよ」と愛しい伴侶を慰める。
「こ、香辛料ですか……?」
「うむ。お主に替わるものなど、この世界どころかかつての世界にも何一つ無いに決まっておろう? ただまあ、私は少々欲張りでな。今のお主も、かつてのヴィナらしさも、全部味わい尽くしたいだけだ」
「ムシュカ様は、少々と言う言葉の概念をまず学んだ方がよろしいかと……つまり、ピアスやアダルトグッズで俺の味変を楽しんでいるんですね」
「お主が求めに応じて素直に貪り尽くしてくれれば、このようなことは必要ないのだがな」
「ぐぅ……これでも善処してるんですけど……」
苦虫を噛みつぶしたような顔の新太が、どうにも愛おしくて仕方が無いと言わんばかりの表情を見せたムシュカは、しかしふと真顔になって「……早めに手を打っておきたいのだ」と呟く。
どう言うことかと訊ねれば、このままでは再び危機が訪れるのだと真剣な眼差しで新太を見上げた。
――四年の歳月が流れたとは言え、かつての世界で負った心の傷は癒えきらぬまま。
もしや、何かトラウマに触れる事態が起こるのかと新太の顔に緊張が走り、思わずゴクリと喉を鳴らす。
「危機、ですか。一体どのような事が」
「うむ……それがだな、来年の春にはチセが卒業する」
「へっ」
チセという言葉が出るなり、新太はぴしりと固まる。
いや、彼女に対してどうこうという気持ちは無い。こよなく甘味を愛し、それを表すかのような小さいながら福々しい見目は新太の目から見ても健康的で愛らしいものだ。
不幸にも醜悪な欲望をその内側に流し込まれ続けている彼女は、きっと今頃平穏を取り戻すための一歩を踏み出しているはずで……どうか上手く言って欲しいと心から願ってはいるのだ。
……ただ、あの織物の縁もあってか、うちの推し神様はどうにも彼女に甘い。
新太にしか振る舞われなかったかつての世界の菓子を与える姿は、何度見ても彼の心の中に形容しがたい居心地の悪さを残して……その夜はついムシュカを手酷く抱いてしまう。
そんな複雑な思いが透けて見えたのだろう。
黙り込んでしまった新太にムシュカはにっこり笑って「……故意だ」ととんでもない爆弾を放り投げた。
「……故意?」
「うむ。あまりにお主が猛獣になってくれなくて焦れたときにはな、チセにとびきりの甘味を出すのだ。……お主の前で、な? その効果は言うまでも無いだろう?」
「ええええ俺の推しがいきなり腹黒い!! いや、そう言うモードも悪くは無いけど! むしろ珍しくて尊いありがとうございます!!」
「推しというのは本当に謎の概念であるな……そもそもヴィナよ、これはお主の負担を考えてのことだ」
どうやら我が麗しの残念な神様は、新太にかつてのヴィナを彷彿とさせる獰猛さを取り戻させるために日々策を練っていたらしい。
その結果辿り着いたのが、あの丸っこいお嬢さんへの嫉妬だったということだ。
「毎度貞操具を着けられるよりは負担も少ないし、即効性もあるからな!」と胸を張るムシュカのことだ、ちゃんと新太の事も考えてはくれているのだろうが、本音は後者の方だろう。
だが、彼女はあくまでも学生だ。
そして恐らく……夏休み前に計画した作戦が実った暁には、次の春でこの学校を去ってしまう。
つまり、あの作戦が持ち上がった頃からムシュカは次の一手を考えていて。
当然ながら好奇心の塊で恥じらいを母のお腹に忘れてきた彼が、この世界的に真っ当な手を考えるはずも無くて。
「それで、ピアス……」
「なかなかの名案であろう? 先ほどのお主の反応もなかなかであったし、首尾は上々といったところか」
「そういう事ならせめて、本当のことを言って相談して欲しかったなぁ……」
「……相談すれば、お主は私が望むままに食べ尽くしてくれると」
「すみませんごめんなさい絶対無理です」
決して伴侶として、信頼されていないわけでは無い。それは四年以上にわたる生活で身に染みている。
とはいえ毎度の事ながら唐突にあらぬ方向へぶっ飛んでいく推し神様を諫めれば、見事な正論で撃ち抜かれ「頑張ってるんですけど……うう、もっと頑張ります……」と項垂れる新太であった。
◇◇◇
ああそうだ。
確かに、上手く開ければ感度は上がるとは聞いていた。
聞いていたけど、これほどとは思わなかった……! と、新太は新幹線の中でぐっと拳を握りしめ、渦巻く煩悩に耐える謎の修行に放り込まれている。
「んふっ……ふぅ……ん、っ……ヴィナよ、今日は……殊更暑いな……ふぅ……」
「ムシュカ様、今俺頑張って素数を数えてますので話しかけないで頂けますか」
「ふふ、珍しく真顔でつれないのう……ふふっ、この感じだと今の私は大層美味そうであろう?」
「あーあー、俺は何も見てないし聞こえない!」
胸を穿ってから三日。
ムシュカ曰く出血は程なくして止まり、痛みも今は全く感じないそうだ。
しかし金属に貫かれた先端は常に硬く立ち上がり色づいたままで、薄着の季節には非常に危険極まりない。
そう、主に新太の息子さんにとって。
ということで早速購入したメンズブラは大活躍し、新太も無事残りの出張を終えることが出来たのである。
もちろん夜のお楽しみは欠かさなかったが、処置室の光景が過ってどうしてもいつもより優しくなってしまった自覚はある。
――今思えば、それが余計にいけなかったのかもしれない。
(うああああ!! だめだ横に振り向いたら! ぜっったい鼻血出して倒れてしまう!!)
今朝はいつもと様子が違うような気がして、何となくムシュカを窓側に座らせて正解だったと、新太は心から痛感していた。
何せ今の神様と言えば、ほんのり頬を赤く染め、伏し目がちな目は潤み、はぁ、と熱い吐息を時折漏らしながらもじもじと腰を揺らしているのだから!
まだ東京駅を出て幾ばくも無いのに、新太の理性は崩壊寸前である。
何とか自宅までは持たせねば……とひたすら他のことを考えて足掻いているというのに、残念ながらムシュカが手加減をしてくれるはずも無く。
「しかし……ふぅ、胸飾りはなかなか凄いな……チカ殿の腕は確かなのであろうな、もうずっと……んっ……じわじわととろ火で炙られているようで……んふっ、腹がじんと疼いて堪らぬ……はぁ、お主がねっとり舌で転がし続けているのを思い出す」
「ムシュカ様、それ以上はいけません。いいですか、この世界では家に着くまでが出張なんです! ここはどうか我慢して」
「はぁ……っ……不思議だな、今日のお主は一段と良い匂いがするぞ、アラタ」
「ぴゃっ!? あわわわわ、ここで名前を呼ぶのはだめ死ぬってちょっと待った、そんなとこの匂いを嗅がないでぇ!!」
……かくして、一週間にわたる出張の疲れを癒やす余裕も無く、新太は三時間近い淫らな拷問に耐え抜く羽目になった。
いや、流石に途中でトイレには立った、そのくらいは許して欲しい。
「…………ムシュカ様」
「んふっ……はぁっ……ふふ、すっかり滾っておるな……」
自宅のドアが閉まるなり、ばたん、と違う音がする。
ぐるりと視界が回って、見上げた視界に映るのは……うっそりと微笑んだ、すっかり出来上がった麗しの推しだ。
気がつけば新太は、靴も脱がぬ間に玄関で押し倒されていた。
もどかしいと言わんばかりにサルエルパンツを脱ぎ捨て、服をはだけて馬乗りになったムシュカの指がファスナーに手をかけ、ジジッと音を立てる。
今ならエロ漫画の描写も真っ青な勢いで、限界を迎えた怒張が飛び出すに違いない。
「どうだ、アラタよ。これだけ煽って我慢させれば、流石のお主であっても理性の箍が外れるであろう?」
「…………!」
(ぐぅっ、俺が神様の望むままに毎夜抱き潰さないからとはいえ……あんまりじゃ無いですか、ムシュカ様!)
ああ、これも全て計算ずくだったのだと新太は思い知らされる。
名前を呼ばれたというのに、湧き上がる尊さは明らかに苛立ちを含んだ欲情で上書きされて、目の奥に獰猛な光が灯ったのを自覚した。
「…………お覚悟を、ムシュカ様。お望み通り、骨までしゃぶり尽くしてあげますよ……正し、俺の望むがままに、ね!」
「ははっ……楽しみにしておるぞ、アラタよ!」
上手く行ったと無邪気に喜ぶ、推し神様の姿にすら今日はどうにもどす黒い気持ちが収まらない。
……きっとそれは、胸を貫く二つの小さな飾りのせいだ。
(俺以外の物で美味しくなるなんて……ムシュカ様を俺の色で上書きしなきゃ……!)
こんなことで我を忘れるなどみっともないと頭のどこかが諫めるも、もう衝動は止められない。
目の据わった新太は身体を起こし、股間に腰を擦り付けあえかな声を上げるムシュカの唇に勢いよくかぶりついた。
◇◇◇
『心配しなくても一月もすれば慣れるわよ、感度は上がったままだしメンズブラは手放せないと思うけどね』
「それ、全然安心出来ない未来じゃ無いですか!!」
次の日。
いつものように新太の全裸土下座から始まった朝は、腰と喉が完全に死んでいるムシュカの介抱と廊下に転々と脱ぎ捨てられた衣類の回収やら掃除やらで、あっという間に過ぎていく。
一夜が経っても彼の色気は収まる気配を見せず、これでは生活が成り立たない、息子さんの危機じゃないか! と慌てて塚野に連絡を取れば、返ってきた答えは実にあっさりしたものだった。
いや、ムシュカにとっては朗報であり、新太にとってはただの死刑宣告であったが。
「ムシュカ様、明日から仕事に行っても大丈夫なんですかね……学生さんが神様の艶っぽいご威光で人生を踏み外したらと思うと、俺……」
「お主は私を何だと思っているのだ? 四年も共におれば、私がただの人であることは身に染みておるであろう? ……なに、仕事はきっちりこなすから心配するでない。これまでだってお主がどれだけ抱き潰そうが、仕事を休んだことはないぞ?」
「……言われてみればそうだった、ムシュカ様強すぎでは……?」
外すことも出来ませんよね、と新太はムシュカの口にせっせと粥を運びつつ、少々恨めしそうに乳首に輝くバーベルピアスを見つめる。
内側が表皮で覆われる前に外してしまえば穴は閉じてしまうから、このなんとも言えないモヤモヤした気持ちは慣れるしか無い。
これからは、きっと毎日目にすることになるのだ。ムシュカが今の感度に慣れる頃には落ち着くと良いなと、新太は大きなため息をつく。
そんな新太を慮るように、ムシュカは「……嫌であったか」と神妙な顔をする。
そんなことはないです、と新太は頭を横に振り、そうして言いにくそうに本音を吐露した。
「ムシュカ様が俺達のためにして下さったことです、嫌とはいいません。ただ……俺、思った以上に同担拒否だったみたいで」
「また訳の分からぬ概念が出てきたな……ふふっ、胸飾りと張り合うとはなんとも愛おしいものよ」
でも、出来たら飾りは控えめが良いです……とそっぽを向きながら真っ赤になって強請る姿は、在りし日の忠臣であった彼には決して見られなかった一面だ。
またひとつ、新たな彼を知れたとムシュカは実に満足そうに笑い、しかし愛し子の心をざわつかせるのは本意では無いと、ある約束を交わすのだった。
◇◇◇
――それから、数ヶ月後。
そろそろ年の瀬も近づいてきたある日の夜、いつものように新太はムシュカの手料理を堪能していた。
今日は塩漬けの魚を使った炒飯にフライドチキンだ。いつもよりちょっと長くてパラパラした米と、カリカリに揚げた魚のほぐし身が舌の上でほぐれ、小さな青唐辛子を漬けた醤油がピリッとしたアクセントを加えている。
「うん、このくらいの辛さなら美味しいっすね。ちょっとは辛さに慣れた気がします」
「そうだな、こちらに来た当初はこの醤油だけでヒーヒー言っておった……懐かしいな」
目の前で青唐辛子まで米の中に混ぜ込んで「もう少し辛みが欲しいな」とのたまう我が最推しの神様は、屋内でも肌寒さを感じる季節だというのにエプロン一枚だ。
……言い間違いでは無い、つまり裸エプロンという奴である。当然、その下で「準備」は着々と進められているのだろう。
もうこの程度では驚きもしなくなった辺り、俺もすっかりムシュカ様の変態っぷりに馴染んじゃったな……と妙な感慨に浸っていれば「ヴィナよ」と涼やかな声が己を呼んだ。
――うん、これは間違いなく夜の誘いだ。いや、もうその格好だけで誘われてはいるけれど、食事の終わり時に声をかけるときは確実に何かを仕込んでいる。
(さて、今日は何かな……胸飾りはバーベルだけだといいなぁ……絶対そんなことないけど……)
嫌な予感を覚えつつも、新太は覚悟を決めてムシュカの次の動きを待つのである。
◇◇◇
――出張から帰った明くる日、ムシュカは一つの提案をする。
それは夜の誘いの段階で、猛獣としての新太を望む日は明示するという話だ。
「確かに、私はお主に骨まで食らい尽くして欲しいと思っておるが、優しく抱かれることも好んでいるのだ。しかし、貞操具とチセいう良き手法を導入して以来は、その想いを言葉にすることが減っていたと少々反省してな」
「良き手法かどうかはともかく、ムシュカ様がどちらもお好きなのは存じております。でも……そうですね、ここのところはずっと手酷い方をお望みな気がして、心苦しくはありました」
「うむ。故に、今後はこれで意思表示をしようと思うのだ」
「これ……って、乳首のピアスで!?」
曰く、猛獣となって欲しいときには飾り付きの胸飾りを身に付ける。
その代わり、新太に委ねたいときは簡素なバーベルピアスのみとする。もちろん、日常でも同様だ。
「買ってきた胸飾りに付け替えるのは、穴が安定するまで待った方が良いと言われておるがな。こうやって片方の栓を外して……飾りをつけるくらいであれば、短時間なら良いと」
「うっ、これはこれでエロい……」
更に穴が安定すれば、日常用のピアスはガラス製のバーベルに替えるつもりのようだ。
胸の先端に輝く金属よりは、透明なガラスの方が新太の精神的負担は少ないであろうと語るムシュカに、ああ、やはり俺の尊き推しは慈悲深いとあの時はその場で崩れ落ちたものだった。
先日の出張の時にJail Jewelsに顔を出し、塚野から入れ替えOKの許可を得たムシュカは、早速ガラス製のバーベルピアスを買い足していた。
……他にも何やら買っていたのは知っているが、怖くて内容は聞けていない。
◇◇◇
(さあ……どっちだ? バーベルか、それともしゃらしゃらした飾りか……!?)
白いムシュカの手が、エプロンの裾にかかる。
「ピアスをな、入れ替えてみたのだ」とゆっくりと持ち上がる布の下からは、いつまで経ってもぶら下がる飾りは見えない。
ああ、これはガラス製のバーベルだ。今日は優しく交われる日だとほっとした次の瞬間
「ふふ、どうだ? 少々趣向を凝らしてみたのだが」
「…………!?」
眼前に広がった光景に、新太の時が止まる。
カシャン、と派手な音を立てて、手から滑り落ちたスプーンが床に叩き付けられた。
「な……な……っ……!?」
わなわなと震える指が差す、その先。
ムシュカの胸に輝いていたのは、金色の飾りだった。
だが、その形はあまりにも新太の想定外で。
「え……お、檻ですか、それ……?」
「ふふ、花のようであろう? シンプルながら可憐な形が気に入ってな。ちなみに幸尚殿のデザインで、業者に作って貰ったそうだ」
「……!!」
形としては、いつも通り乳首を真っ直ぐ貫くバーベル。
だが、その上から淡い色の蕾を閉じ込めるような金属の飾りが被さっている。
確かに正面から見れば蓮の花のようにもみえなくもないその意匠は、まるでぷっくりと熟れた果実を守るかのように、新太の目の前に立ちはだかっている――
(これ、絶対わざとだ! ムシュカ様、俺の同担拒否まで利用するおつもりですか!!)
例え飾りであろうが、ムシュカ様を独占するのは許さない――ざらりとした感情が、新太の心をなで回す。
案の定、複雑な表情にすっかりご機嫌なムシュカはうっそりとした様子で愛し子を誘うのであった。
「揺れる飾りも良いが、お主が大切に育てた蕾を隠してしまうのもよかろう? ……うむ、目が血走っておるな、これは気に入ったか」
「……俺の尊い神様なのに、俺が食べられないようにするんですか……? ムシュカ様、後でちゃんと俺好みに美味しくしてあげますから。それとも……すぐに食べましょうか?」
「っ……はあっ、やはりお主を猛獣にするには焼きもちが一番だな。まったく、このような飾りにまで嫉妬するとは愛い奴め……!」
――二時間後、風呂を終えた神様が新太により骨までしゃぶり尽くされ。
次の日はいつも通りしおしおになった新太が床で土下座し、腰は死んでいるが妙に肌艶の言いムシュカがベッドの中から「これは実に効果的だな」と満足そうにのたまったのは、言うまでも無い。