沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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第5話 夢織物語りはかく交わりき(MIX)

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 ようやく夏の暑さも和らぎ、わずかな秋の到来を告げるような爽やかな空気を感じる、十月のある日。
 都心から郊外を目指す車の中では、若い女性二人がおやつを片手に和やかな雰囲気で語らっていた。

「大きな公園って、想像がつかないんですよね……ブランコとかシーソーとか、あと砂場やタイヤが置いてあるって感じで」

 慣れた手つきでハンドルを握る晃に、はい、と包み紙を剥いたチーズケーキバーを渡し、知世はタッパーを開けて緑色の団子を頬張っている。
「それ、向こうで食べるつもりだったんじゃないの?」と横目に知世を確認した晃の口元は、少し剣呑な口調とは裏腹にどこか楽しげだ。

「多分、知世ちゃんの知る公園とは別物だと思うよ。子供が遊ぶだけじゃなくて、家族連れでやってきたり、デートスポットになったりするくらいだし」
「……夜のデートも?」
「それはまぁ、ちょっと特殊な用途だけどさ……ほら、もうそろそろ入れるから」
「うわぁ、公園なのに有料駐車場……! 本当にあるんだ……」

 上京して半年、未だ都会の生活に慣れない知世の反応は実に面白い。
 歳も変わらないのに、育った場所が違うだけでこれほど常識とは異なるものかと、いつだって晃に新鮮な驚きを与えてくれる。

「駐車場待ちしてたら結構時間を食っちゃったし、先に広場でお弁当食べてから動こうか」
「は、はいっ! あ、ちゃんと側にいてくださいね」
「当然。こんな所で『事件』は起こしたくないからな」

 知世が抱き締めていた大きなバッグをひょいと肩にかけ、その重さに「知世ちゃん、どれだけおやつ持ってきたんだよ」と苦笑しながら、二人は並んで公園の広場へと足を運ぶ。
 女性にしては背丈があり、補正下着で整えた身体にライダースジャケットとメンズのジーンズを身に付けたショートヘアの晃は、きっと遠目には男性にしか見えないだろう。
 隣に並ぶ知世はといえば、腰回りをカバーするゆったりしたチュニックにワイドパンツ。今日は歩くと晃に言われているからぺたんこ靴を履いて来ていて、二十センチ上にある晃の視線が随分遠い。

「休みの日だし、結構人がいますね……でもこれなら」
「流石に身体が触れることはないな。うん、大丈夫だ」

 少しほっとした様子で、けれど周囲を何となく警戒している晃の耳たぶには、知世とお揃いのピアスが光っている。
 そして首元にそっと覗くチェーンは、知世のネックレスの鍵……だなんて、余程の「有識者」じゃなければ、きっと気付くことはないだろう。

 端から見れば、ただの友達。よく言って男女の大学生カップル。
 どこにでもある、ありふれた関係にしか見えない——けれど彼女たちは、その内に消えない泥を抱えた主従として、この世界の片隅に生きているのだ。


 ◇◇◇


 ルームシェアをしているマンションの一室で、初めて口付けを交わしたあの日から、二人の関係は少しずつ深まっている。
 想像以上に二人に残された淀みの後遺症は大きくて、今でも二人はどれだけ昂ぶろうが、自らに手を伸ばすことは出来ない。

『晃さん……綺麗……』
『っ……ひっ、ちっ、知世っそれっ! ……や……はぁっはぁっ、知世っ……「俺」に触れるな……!』
『晃さんっ!? あわわ、えっと深呼吸! そう、晃さんゆっくり息して下さい……!!』

 夏のある日のこと。
 いつものように口付けを交わした知世の唇が流れるように晃の首筋を這い、鎖骨をなぞりながら伸ばされた手のひらの感触に、晃が突如パニック発作を起こしセーフワードを叫ぶ事態が発生する。
 そして事が落ち着いた後「ほら、アタシ恋人とこういうことはしたことが無いからさ」と、謝りながら泣きじゃくる知世を慰めんと発せられた言葉で、知世は非情にも自分の好きの表現が直接性行為に繋がっているという、悲しい歪みを突きつけられたのである。

 晃は大切な人の手のひらすら拒んでしまう身体に、知世は大切な人への当たり前の触れ方が分からない事実に愕然とし。
 以来、親しい間柄として「普通」に見える触れ合いは、手を繋ぐことと、口付けだけと決めている。

 そんな、自然な想いを遂げる事すら許さない過去に嘆きと怒りを覚えながら、けれども二人は決して関係を諦めてはいなかった。

『楽しいプレイを、二人で作ろう』

 鍵付きのネックレスを初めて身に付けた日に晃が差し出した希望は、少しずつ形を成してきている。
 相変わらず二人が「生きる縁」と呼ぶスパンキングからは離れられないけれど、形を変えたペインプレイなら知世の記憶がフラッシュバックしづらい事も発覚した。

 身体を傷つけないプレイも、今は餌皿を使ったメスイヌプレイだけではない。
 思いつきでやってみたサランラップでのマミー拘束は、晃の言葉責めも相まって随分知世の琴線に触れたらしく、一時は二人のバイト代が様々な拘束具で消えていく有様だった。

 そんな中、とかく上下関係をはっきりさせたい、何なら底辺の扱いをされたい知世の欲望を全て叶えるのは難しいけれど、羞恥を取り入れたプレイなら晃も満足出来そうだと二人が気付いたのは先週のこと。
 すぐさま計画を立てて、ネットで情報を集めて——今夜彼女達はここで初めて、二人だけの部屋から飛び出したプレイに臨む。


 ◇◇◇


「はぁっ、はぁっ……あ、晃さんっ歩くの速いぃ……脇腹がぁ……」
「まったく、昼からは歩くって言ったのに。知世ちゃん食べ過ぎだって」
「ひぃ……でも晃さんだって、同じくらい食べてたじゃないですか……何でそんなに元気なのぉ……」
「そりゃ鍛え方が違うからな。あ、良かったら知世ちゃんも朝一緒に走る?」
「それ、講義に行く前に一日が終わっちゃうやつですよ!」

 芝生の広場で仲良く手作りの弁当とデザートを平らげた二人は、公園の中心から外れた遊歩道を散策していた。
 郊外の森をイメージして作られた遊歩道自体はありふれた光景だが、舗装された初心者コースとは別に、起伏が激しく自然に富んだ森の中を歩くトレッキングエリアがあるのがこの公園の特徴だ。
 己の限界を顧みず、無謀にもチャレンジする人が後を絶たないせいだろうか。所々に水飲み場と東屋が設けられているお陰で、知世でも行き倒れることは無さそうに思う。

「け、結構茂みとか、多いですね……はぁ、はぁ……」
「遊歩道側も一応柵はあるけど、隠れられそうなところは多かったな。街灯は……夜に散歩するにはちょっと心許ない。でも……プレイには確かに向いてるな。あの茂みとか……しゃがんでアタシに見られながら出すにはちょうどよさげな」
「うわああん!! 晃さんっ、それだけはだめです!!」
「お、まだ叫べる元気があるじゃん。一休みしたらもっと奥まで行くからな」

 東屋で真っ赤になって伸びる知世を撫でながら、晃は入口で貰った地図にメモを取っていく。
 街灯や休憩ポイントの位置、人気の少なそうな場所、そして咄嗟に身を隠せそうな場所……どれも今夜の知世を守るために大切な情報だから。
 ——ここは、まだ現実の知世と出会う前に晃が毎朝のように通った実家近くの公園で。
 歪められてしまった晃の思い出と数多の感情が詰まったこの公園が、実は夜の顔を持つ……所謂屋外プレイでその界隈では有名だったなんて、出来れば知りたくなかった。
 いや、ある意味では勝手知ったる庭のような公園だから安心出来るとも言えるけれど、正直なところ胸中は複雑である。

「これで良し、と。知世ちゃん、そろそろ行こう……って、んん?」

 メモを取り終えた晃が、バッグを肩にかけて立ち上がる。
 と、脇腹に当たる感触に違和感を覚え、何気なく外から手で触れ……次の瞬間晃はごそごそとバッグに手を突っ込みつつ「……知世?」と一段低い声で呼びかけた。

「あのさ、重くなるから夜の道具は車に残しておけって言わなかったっけ? どうしてこんな物が入ってるのかな?」
「あ、あはは……ほら、予行演習がいるかなって」
「ふぅん、うちのメスイヌちゃんは真っ昼間からお散歩したかったんだぁ……ほんっと変態だよな、知世は」
「はうぅ……!」

 にっこり笑う——全然目は笑っていないけれど——晃の手に握られていたのは、真新しい金属の首輪と鎖で。
 じゃらり、と無機質な音が耳に入るだけで、知世の背中にゾクゾクとしたものが駆け上がる。

(はぁっ、あれをつけて、晃さんが引っ張るんだ……メスイヌちゃんって、言われながら……!)

 一度火がつけば、この日を楽しみにしていた頭は妄想が止まらない。
 誰に見られるかも分からない屋外で犬として扱われ、しかも今夜はそれだけじゃなくて——

 パンッ

「ひぁっ!!」
「楽しみなのは分かるけど、妄想はそこまでな。……ほら、夜のためにももうちょっと頑張って下見しよ」
「は、はひっ……はぁ、屋外お尻ぺんぺんも悪くない……」
「ったく、知世ちゃんにかかったらお仕置きが全部ご褒美になっちゃうよなぁ」

 ほら行くよ、と今度こそバッグを肩にかけてずんずんと歩く晃を、知世は慌てて追いかける。
 彼女が追いつくまでのほんのわずかな間、晃の顔には……知世と同じく今夜を待ち望み、興奮を露わにした妖艶な笑顔が浮かんでいた。


 ◇◇◇


「や、やっと戻って来れた……晃さん、私もう足が棒になっちゃいました……」
「結構いい運動になるよな。あ、知世ちゃんが疲れたなら今日は下見だけでも」
「元気になったから大丈夫です!」
「ぷっ、欲望がダダ漏れ過ぎ! ほら、平常心平常心」

 広い園内をぐるりと回って、昼の目的を終えた二人が中心の広場へと戻ってくる。
 まだ陽は高いし、もう少し園内で時間を潰そうかと晃が提案すれば「あ、じゃああっちの噴水見に行きたいです!」と知世は目を輝かせた。

「凄いですよね、公園に大きな噴水だなんて!」
「むしろ公園に噴水が無ければ、どこにあるのさ」
「え、ええと……お城……?」
「いつの時代だよ、それ」

 抜けるような青い空に高く上がる噴水は、晃には見慣れた光景だが知世にとっては初めての世界だったらしい。
 目を丸くして「虹! ほら、噴水で虹かかってますよ、晃さん!!」とはしゃぐ可愛い人に晃がすっかり頬を緩めていた、その時。

「……おや、チセではないか」
「!!」

 ふいに背後から知らない声が彼女の名前を呼んで、晃はさっと後ろを振り返った。
 ——当然、いつでも対応出来るように、さりげなく構えを取ったままだ。

(……あれ、女の人? いや、確かに男の声だった……)

 そこには、ベンチに腰掛け微笑む人の姿があった。
 年の頃は……自分達よりは年上だろうか。金色のメッシュが入った前髪を流し、後ろで無造作に束ねた髪の間から覗く耳たぶには、随分と大ぶりなピアスが揺れている。
 たおやかな仕草でこちらに手を振る麗人は、しかし今度こそはっきりと「チセ」と少し吐息の混じった、けれど男性らしい低い声でこちらに呼びかけた。

「……知世ちゃん、あの人知り合い?」
「ほえ? えっと……はえっ! く、鞍馬さん!? どっどうしてここに!?」
「ははっ、やはりチセであったか。久しいな、息災であったか?」

 見知った顔に気付いた知世は「びっくりしました!」とベンチに駆け寄っていく。
 その後ろを晃は慌てて追いかけ、少しだけ距離をとって二人の様子を窺うことにした。
 ——最近では知世と一緒なら、間合いに入られても無意識に手が出ることは減ってきたとはいえ、うっかり触れるような事故があっては大変だから。

「お久しぶりです。鞍馬さんは……遊びに来たんですか?」
「うむ。この近くにヴィナが出張で来ていてな。最近は同伴して都を見物することにしておるのだ」
「ああなるほど、従者さんは今日はお仕事?」
「いや、一緒に来ておる。飲み物を買いに行っておってな、しかしなかなか戻ってこぬのだ……迷子にでもなったか」
「あー、ここの自販機って公園の入口近くまで戻らないといけないから」
「晃さん」

 相変わらず警戒を解くこと無く、晃はぺこりと頭を下げる。

 鞍馬という名前は、何度も聞いたことがある。確か、知世の通っていた学校で学食に勤めるお兄さんだ。
 都内に住んでいても食べたことの無い、不思議な異国の絶品スイーツを知世は時折振る舞ってくれるが、そのレシピは彼から教えて貰ったものだと以前言っていた気がする。

 そしてなにより彼は、全てを貼り付けた笑顔でいなし、その泥を決して外に出さなかった知世の異変に、いち早く気付いた大人でもある、と——
 危険な状況にあった知世を見守り、大学進学という形で実家から逃げる方策を授けたのは、彼と知世が「従者さん」と呼ぶ彼の恋人であったとも聞いている。
 ……目の前の青年が、男性でありながら人間不信の塊であった知世の懐に飛び込めたのは、その中性的な美貌もさることながら、折に触れて彼女に提供し続けた美味しい手作りお菓子のお陰に違いない。

「初めまして。八束晃と言います。その、知世ちゃんの……」
「ああ、話はチセから聞いておるぞ。共に暮らしておるのであろう? その節はチセが随分世話になったようだな。あの頃は学食に来るたび数学の鬼がいる、いつか数字に殺されそうだとしょっちゅう文句を言っておった」
「……知世ちゃん?」
「だ、だってあの頃の晃さんはホントに鬼か悪魔かってくらい厳しくてうにゃあぁぁ!」
「ははっ、仲が良さそうで何よりだ」

 晃に全力でほっぺを引っ張られ悲鳴を上げる知世と「何でも喋りゃいいってもんじゃないだろ!」と突っ込みを入れる二人を、鞍馬は鷹揚に眺めている。
 ——改めてその風貌を観察すれば、知世とはまた質の違う異国の血が混じっているのだろう、話に聞いていた以上に日本人離れした美しさだ。先ほどからちらちらと視線を感じるが、これは外国人の増えた都内でも目立つこと間違いない。

(……にしても、変わった素材の服だな。レザーにしちゃテカテカしてる気がするし……でも、身体のラインが綺麗に見える。どこのブランドだろう)

 耳たぶが落ちそうな豪奢なピアスも、エキゾチックな風貌にはよく似合っている。
 その下は至って普通の黒のハイネックとコートを纏っていて、だが見た感じ見慣れたニット地では無さそうだ。
 普段からレザーのアウターを愛用している晃としては少し気になる素材なのだが、流石に初見で、しかも男性の服の話を振る度胸はないなと案じていれば、不意に知らない通知音が耳に入った。
 どうやら、鞍馬のスマホが鳴ったらしい。画面を見た鞍馬が「ぬう」と困ったげに眉を寄せる。

「どうやらヴィナは、本当に迷子になっているようだな」
「へっ」
「助けてくれと写真を送ってきたのだが……これでは流石に分からぬ。チセは見当がつくか?」
「あー、私も今日初めて来た場所だから、ちょっと……」
「知世ちゃん、スマホ見せて。……あ、これ多分西口と東口を間違えて歩いてる」
「ほう、すまぬがヴィナに道を案内することは出来るか?」
「んーこれなら、鞍馬さんが迎えに行った方がいいっす。ここからお連れさん所までなら、俺、地図に書けますから」

 晃はバッグから予備の地図とペンを取り出し、ささっとルートを塗りつぶす。
 そうして「今いるのがここ、この赤色を辿れば着けます。お連れさんには、動かないように言っておいた方がいいっすよ」と地図を……一旦知世を経由して、スマホと共に鞍馬に渡した。

「あい分かった、かたじけない。ではな、チセ。アキラも助かった、礼を言うぞ」
「え、あ、そんな大したことじゃないっすから」
「そうだ鞍馬さん、今度薔薇ジュースの作り方を教えてください! を晃さんに飲ませて上げたくて」
「……チセ、あれは止めた方がよいと思うのだが……まあよい、家に戻ったらレシピを送ろうぞ」

 鞍馬はすっと立ち上がり、微笑みを残し優雅な足取りでその場を去る。
 美人というのは身体の線まで目を惹くものらしい。晃は「……あんな男もいるんだな」とその後ろ姿に見惚れていた。

 ——気のせいだろうか、立ち上がったときに少し、熱っぽさを瞳に宿していたようだった。もしかしたら、思いがけない陽気に当てられたのかもしれない。

「ふふ、綺麗な人ですよねぇ鞍馬さんって。ちょっとしゃべり方が変わってますけど……それがむしろ高貴さを醸し出しているって、学食でも男女問わず大人気だったんです! あ、鞍馬さんは従者さんにベタ惚れなんですよ!」
「前から思ってたけど、従者さんって凄い呼ばれ方だな、その恋人さん。何、お姫様とその騎士みたいな感じ?」
「確かにそんな感じかも。ちょっとお姫様がおてんばで、騎士様がよわよわですけど」
「なにそれ、ちょっと面白いな」

 空いたベンチに腰掛けて、二人はのんびり噴水を眺めおしゃべりに興じる。
 その距離は、五センチ。友人と言うには近くて、けれど確たる親密さを演出するには遠い距離。

 けれど、私達にはこの距離がちょうど良い。
 互いの気持ちは分かっていても……まだ、そこに名前を付けるには躊躇いが取れないから。

「……日が傾いてきましたね」
「だな。そろそろ……動こうか」
「っ、はい……!」

 空にオレンジがほんのり混ざり始めた頃、二人はどちらとも無く立ち上がる。
 誰も、その表情に気付くことは無い。ふっと漏れた吐息にも、夜を想って高鳴る鼓動も、知っているのは互いだけ。

「楽しみだな、知世ちゃん」
「はい……あ、晩ご飯も楽しみですよ? 初めて行くファミレスですし!」
「ぷっ! ほんっと知世ちゃんはぶれないなぁ! 今度は食べ過ぎないように気をつけろよ?」

 細くて背の高い影と、丸っこくて小さい影が、公園を後にする。
 さあ、今日はどんな新しい楽しみを見つけられるだろうかと、逸る心を宥めながら二人は車で街へと向かうのだった。

 ——まさか、これが全ての物語が交錯する基点となるだなんて、その時は誰一人気付く事も無く。


 ◇◇◇


 晃が子供の頃から行きつけだというファミレスで、しっかり晩ご飯を平らげて。
「お替わり無料だからって、これは無い」と言わんばかりに、積み上げられた皿の数に引き攣る店員に見送られ、二人は再び公園へと戻る。
 すっかり陽の落ちた駐車場は、昼間の賑わいが嘘のような静けさだ。

「降りたら入口近くのトイレで着替え。で、そのままこのポイントに向かう。……降りてもいい?」
「……はい……あは、緊張してきた……!」

 中に入れば、知世はすぐさま大きなバッグを持ってトイレに向かう。
 暫くして出てきた彼女の頬は、街灯の明かりでも分かるほど真っ赤に染まっていて「知世ちゃん、始まる前からバレバレだよそれ」と晃が全力でツッコミを入れた。

「あのっ、ちゃんと……普通に見えますか?」
「問題ないよ。家で何度も確認したまんまだ。だから、知世ちゃんが自分からバラさなければ……その下が素っ裸だなんて、誰も気付かない」
「っ! あ、晃さん、それは言わないでぇ……!」

 耳元で囁かれた低い声に、知世の口から小さな悲鳴が上がった。

 きっちりと着込まれた、この季節に合わせた薄手のコート。
 その下に知世が身に付けているのは、ガーターベルトとテカテカしたサイハイブーツ、そして……二人の関係を表す鍵付きのネックレスだけだ。
 そう、今日のテーマは「メスイヌのお散歩」
 二人の嗜癖を——尊厳の剥奪と羞恥を満たすプレイとして彼女達が選んだのは、夜の公園での露出プレイだった。
 この日のために場所を選び、新しいコートとブーツも購入して何度も家で「練習」してきたけれど、やはり外の空気は全然違うな……と、晃はよたよたした足取りの知世を気遣う。

「どう、歩きづらくない? 知世ちゃんはヒールの高い靴には慣れてるだろうけど」
「ヒールは大丈夫ですけど、ブーツが……お肉で弾けそうでちょっと怖いです、それに……その、おまたがスースーして……」
「んー、知世ちゃんの足に合うブーツは要検討だな。あと、今はいつも通りの顔してないと、すれ違った人にバレるよ」
「はっ、はひぃ……」
 少し掠れた声で返事を返す知世の瞳は、既に舞い上がっているのだろう、焦点が定まらない。
 これは早いところ移動した方がいいと判断した晃は、周囲に目を光らせながら人気の無い公園の中を知世のペースに合わせて歩き始めた。

「…………ひっ」
「大丈夫。知世ちゃん、ここには『誰もいない』、いい?」
「はっはいっ……ふぅっ、んっ……」

 あれほど賑わっていた公園の広場も、今はほとんど人気が無い。
 ……いや、人気自体はあるのだ。昼間ほどでは無いが、目を凝らせば時折人の姿は認められる。
 ただ……昼間とは明らかに色の違う風景ばかりなだけで。

(うわぁ……ガチで遊んでる人だらけじゃん! 夜は公園に走りに行くなって言われてたの、こういうことだったんだ……)

 木陰でハードにお楽しみ中の三人組を目にし、思わず声を上げかけた晃が慌てて口を押さえる。
 ここでは「何も見なかった」が暗黙のルール。
 だから二人も、時折視界に映る心臓を高鳴らせるような人影や声は無かったものとして……とはいえいつものように振る舞えるほどの度胸も無く、何となく無言で通り過ぎるのだ。
 ——自分達も「無かったもの」と見做されていることを祈りながら。

「はぁっ、はぁっ……」
「流石にピンヒールで歩くのはきつい……せいじゃないな。想像しちゃう?」
「……だって、こんな短い……風が吹いちゃったらって思ったら、もう……!」
「ははっ……知世ちゃんはえっちなメスイヌだもんなぁ」
「っ、はぁっ……」

 無意識にだろう、コートの裾を押さえながら知世は慎重に足を運ぶ。
 裾丈は太ももの真ん中くらいまであるから、姿勢良く歩いている分には心配ない……頭では分かっているし、家でも確認したけれど、外の空気に触れればそんな下準備なんて頭から吹き飛ぶわけで。
 明らかに脚の贅肉が文句を言っていそうなボンレスハム状態のサイハイブーツに、ゆったりした薄手のコートを着込む彼女の瞳は蕩け、コートの下はすっかり興奮に熱く潤んでしまっていた。

(はっ、はっ……んふっ……これ、思ったより……分からされちゃう……!)

 足を一歩踏み出す度、コートのざらついた感触がずるりと知世の敏感になった肌を撫でる。
 本来なら触れるはずの無い胸や尻を粗い布地が擦る度、お前は人としての慎みすら忘れた、淫らな変態なのだと突きつけられているようだ。
 秋口の風はまだ、言うほど冷たくは無い。
 けれど爽やかなそよ風にすら知世の肩はビクッと震え、その度に太ももにぬるいものが伝う。

「……出来上がるのが早すぎだよ、知世ちゃん。まだ何にも始まってないぜ?」
「だってぇ……」
「ほら、もうすぐ着くから頑張って」

 呆れたように肩をすくめる晃の目線が、隣にある。
 十七センチのヒールは、いつも見上げてばかりのご主人様がそれとなく知世を守ってくれている風景を知世に見せてくれて、何より……彼女と同じ世界を見られるのがちょっとだけ嬉しい。

(これは、プレイの時だけの特権だよね……ふふ、何だか不思議な感じ)

 上下関係がはっきりする時間だけ目線が対等になれるだなんて、本当に私達らしいと心の中でそっと呟く知世の足が、先ほどとは違う感触を覚えた。
 ……どうやら熱に浮かされ余計なことを考えているうちに、二人は舗装された道を外れ目的の遊歩道へと辿り着いたようだ。

 じゃらり……

 誰もいないよなと再び辺りを見回した晃が、リュックから首輪と鎖を取り出す音が、やけに耳に残る。
「知世」と真っ直ぐ見据える目は、彼女もまたこの瞬間を待ち望んでいたのだと雄弁に語っていて。

「……最後の確認な。セーフワードは」
「はい。『パパ、来ないで』」
「ん。……じゃあ始めようか、知世。いや、メスイヌちゃん。……楽しい夜のお散歩を、な」

 美しい手で首に回された金属の冷たさが、ますます知世の熱を上げた。


 ◇◇◇


 ちゃり、ちゃりちゃり……

 秋の夜風は、火照った身体には心地よい。
 けれど肌を撫でる感触と夜闇に響く鎖の音が伝えるのは、今自分がとんでもないことをしているという現実と、それが織りなす妄想だけ。

(誰も、いない……いない、よね? ……あ、あそこの茂みでこっそり見られてたら……)

 ザッ……

「っ!!」
「結構風があるな。寒くは……無いか、その顔じゃ。なに、誰かが来たと思った?」
「は、はひっ……はぁっ、はぁっ……」

 夜風で木の葉が揺れる音に、知世の全身はバネのように跳ね、心臓は痛いほどに鼓動を打ち鳴らす。
 多分、まだ五十メートルも歩いていないはずなのに、肌はしっとりと汗に濡れ、喉はカラッカラに渇いていて。
 いつもなら気にもしないような周囲の環境音すら、歪みを抱えたこの身体は鋭敏に受け取ってしまう。
 そのたびにずくんとした痺れが全身を駆け抜け、不安混じりの興奮という熱を下腹部に流し込んでいくのだ。

「平坦な道ならさ、足枷を着けるのもありだよな。あ、後ろ手に手枷くらいなら慣れればいけそう? 割とヒールで歩くのは安定していそうだし」
「はっ、はっ……晃さぁん……んうぅっ……」
「ん? ああ、メスイヌちゃんは初めてのお散歩が楽しくてそれどころじゃ無いか。……乳首、ガチガチに勃っちゃってるよ」
「ああぁっ!!」

 ずくんっ……!

 ——小さな悲鳴と共に、下腹部に詰め込まれた熱が、頭をドロドロに溶かしていく。
 たまらず身じろぎすれば、すっかり昂った胸の飾りは貪欲に快楽を貪って……もう、足がちゃんと前に出ているかすら、よくわからない……

(だめぇ晃さん……意識させられたら、余計に……ひっ、コートが擦れて、気持ちいいのぉ……!)

「初めてだし様子を見ながらな」という晃の提案で、知世はコートの前をはだけた状態で首輪を繋がれ、鎖を晃に牽かれてよろよろと次のチェックポイントまで歩いていた。
 階段の少ないルートを選んでいるとは言え、勾配のある道は鍛えている晃はともかく、知世には結構な運動だ。

「はぁっ……はぁっ…………」

 つま先立ちを強制された足は震え、心臓は高鳴り、息は荒くなるばかり。
 けれどその反応は、こんな恥ずかしい姿を晒している羞恥と緊張が作り出すものとあまりにも似ているから、脳は全てを「興奮」と誤認し……とぷり、とまたはしたない蜜を泥濘から吐き出させる。

「んぁっ、はぁっ、晃さん……お願いします……おしり、ぺんぺんしてぇ……」
「なに、もう我慢出来なくなったんだ? ……だぁめ。えっちなメスイヌちゃんは次の街灯で周りに見せつけながら鳴かさないと、な!」
「あ……あは……あぁぁんっ!!」
「ん? ああ、見られるのを想像して気持ちよくなっちゃった? いーよ、言葉で逝けるなら逝きながらお散歩でも」
「そんなぁ、晃さぁん……私、もっとおかしくなっちゃいますぅ……!」

 すげなく懇願を笑顔で断る晃に、思わず知世の口から泣き言が漏れる。
 ——どれだけ昂ぶっても、彼女達にそれを慰める術は無い。
 戒められているわけでも無いのに知世は決して胸に手を持っていかないし、晃も言葉で煽ることはあっても、そのすらりとした指で熟れた蕾を転がし、知世に甘い声を上げさせようとはしない。
 溜まる一方の熱は、互いに抱き合って静まるのを待つか、泥の記憶に苛まれる事を承知でしこたまお尻を打ち据えるか——歪まされたが故に触れ合いを恐れる二人に許される発散方法は、たったそれだけだから。

(あ、灯り……あと、ちょっとぉ……ひっ……)

 どうやらこの公園には、昼には見かけない小動物が生息しているようだ。
 カサカサ、ガザッと不意打ちのように浴びせられる音は、否応なく緊張を高め、その度に知世の足を鈍らせる。
 その度に「ほら、知世」と晃が鎖を引っ張ることで、ようやっと知世は次の一歩を踏み出せる有様だ。

(まだ……一つ目の街灯すら辿り着いてないのに……)

 今日、予定しているチェックポイントは三つ。
 もちろんお互いの様子を見ながら続けるかどうかは決める予定だけれど、正直この調子では、体力以前にあまりの昂ぶりに知世の足腰が立たなくなりそうだ。

「はっ……あきら、さん……」
「ん、大丈夫だって。ちゃんと周りは見てる」
「うぅっ、こんなに……お外を歩くのって練習と全然違って……怖くて、恥ずかしくて……」
「それが堪らない?」
「…………はい」

 こつん……こつん……ちゃり……

 足から伝わる振動にすら、最早形を失った脳みそは快楽を覚え、ふわりと緩く達しては目の前の景色を白く滲ませる。
 涙で潤んだ瞳を隣に向ければ、知世の大好きな緑がかった水色の瞳もまた、興奮の色を宿していて……ああ、晃さんも楽しいのだと熱に溺れた頭がほんのり安心を覚えた。

「ほら、着いたよ知世。……大分来てるな、水でも飲んで少し休憩する?」
「はぁっはぁっはぁっ……あ、晃さん……もうだめ……」
「ちょ」

 あれから、一体どうやって道を歩いたのか……知世の記憶は朧気だ。
 気がつけば二人は昼間に見つけたチェックポイント——人気が少なく茂みが近くにある街灯の下に立っていた。
 知世の様子を窺いながらペットボトルを出そうとする晃を制し、知世は熱に浮かされた視線を晃に向けながら、コートをその場に脱ぎ捨てる。

 ぱさり……

(あ……これ、めちゃくちゃ目立ってるぅ……!)

 月明かりも無い夜の闇に光を受けて浮かび上がる、北欧の血が混じった雪のように白い肌。
 お世辞にもスタイルが良いとは言えない身体はほんのり桃色に染まっていて、生まれたままの姿を晒し薄い下生えを透明な粘液で濡らしながら、エナメルのブーツだけを履いている——
 鏡に映されなくたって分かる。今の自分は、間違いなくプレイルームで「試着」したときより、ずっと淫らな姿を晒しているに違いない。

「あきらさぁん……ここで、お尻ぺんぺんしてぇ……!」
「んもう、我慢の効かないメスイヌだなぁ、知世は! ……今のところは大丈夫そうだな。ほら、街灯に掴まってお尻を突き出して。……あんまり大きな声を出すと、誰かが寄ってくるかもな」
「ひぃっ!!」

(うっそだろ、まだ一つ目のポイントじゃん! 知世、ほんっとちょろすぎ!)

 心の中で盛大に突っ込みを入れながら、晃はそれとなく周囲を見回す。
 敢えて中心の広場からは離れた、夜は道に迷いやすいエリアを選んでいるだけあって、ここまでの道中人の気配は感じられなかった。
 それにしても、全てを曝け出すのは後半に、それも晃が仕掛けることになると踏んでいたのに。思った以上に、屋外で人目を忍びながらのお散歩は知世の琴線に触れたようだ。

(……ま、アタシも大概舞い上がっちゃってるけど、さ)

 驚き、嘆き、興奮に羞恥——知世はいつだって、晃を予想外の反応で楽しませてくれる。
 この子から、自分が望む反応を引き出したい。そうして手のひらの上で転がして、愛でて、色とりどりの鳴き声に耳を傾けたい……

 そんな晃の願望を、今夜の知世は新鮮な反応で早くも叶えてくれたから。

「あ、はっ、はぁ……っ……」
「まだお散歩は続くから、手のひらで十回だけな。……いい声で鳴けよ」
「んあぁっ!!」

 パンッ!! と小気味よい音が、夜のしじまに鳴り響く。
 緊張の極致に与えられた愛しい痛みに、知世は興奮を隠しきること無く高い声を響かせるのだった。


 ◇◇◇


「はぁっ、はぁっ……あは、足が笑っちゃうぅ……」
「まさか真っ赤なお尻を撫でられるだけで逝っちゃうなんてな……そんなに夜のお散歩が気に入ったんだ、メスイヌちゃんは」
「あは……だってぇ、家とは全然違うドキドキで……いっぱい、気持ちいいですぅ……」

 約束の十回を終えた後、戯れに晃が這わせた指で、知世はあっさりと達してしまう。
 そのまま地面にへたり込んだ彼女にコートを掛けた晃は、今度こそ落ち着きなよと冷えた水を差しだした。

「んっ、んくっ……ぷはっ、お水美味しい……」
「それだけ緊張してたってことだろ。どう、立てそう? てか続ける? ……うん、返事は要らないな。顔に書いてある」
「全部は無理かもですけど……次のポイントまでは、行きたいなって」
「んで、そこでもお尻ぺんぺんな。……パドルも持ってきてるから、次はそっちにするか」
「っ、はい!!」

(はぁ、お散歩楽しいぃ……)
(これは採用だな、月に一回くらいなら出来そうだし)

 思った以上の成果に、二人はすっかり盛り上がっていた。
 知世は快楽に溶け、晃は興奮を隠しきれない様子で、早速次の計画を頭に描き始める。

「……んー、そうだ折角だし餌も食べちゃう? 持ってきてるけど」
「えっ、餌皿あるんですか! たっ、食べたいです!!」
「ははっ、知世食いつき早すぎ!」

 とはいうものの、どうやら知世はまだ腰が立たなさそうだ。
 無理に歩いて足を痛めてもまずい。ここはサプライズのプレイで興奮を持たせようと、晃はリュックの中に手を入れる。

 だが、その時

「っ!!」

 晃の鍛えられた勘が、これまでとは違う気配を感じる。
 バッと知世を庇うように立って後ろを振り返れば、まだ何も見えはしないが、明らかに人が近づいてきている——

「っ、知世! 隠れるぞ!!」
「へっ? ほ、ほぇっ!」

 突然のことにポカンとする知世を抱き上げ、晃は近くの茂みに身を潜ませる。
 そして「晃さん?」とまだぼんやりした瞳で見上げる知世の耳元で「……人が来てる」と囁いた。

「……!! あ、あわわ……」
「落ち着け知世。大丈夫、ここなら見えないから……しーっ」
「は、はひ……」

 街灯の奥に広がる茂みの中、二人はじっと息を殺す。
 服の下ではつぅと冷たい汗が背中を伝い、さっきまでは心地よかった夜風が妙に冷たい。

 どくん、どくん、どくん……

 心臓の音がうるさくて、息が荒くなりそうなのをぐっと噛みしめて。
 腕の中で震える知世をぎゅっと抱き締めていれば、果たして晃の直感通り、人の立てる音が近づいてきた。

 こつん……こつん……

(……ブーツだな。もう一つ音がするから……カップルか。同じようなことをしてるのかもな)

 段々大きくなる足音に、二人の緊張は否応にも高まっていく。
 早く、早く通り過ぎて……必死に心の中で祈りながら身を固くして待つこと、数十秒。


 しゃらん


 この場には場違いなほど涼やかな音が、沈黙を切り裂いた。

(何の音……?)

 晃が訝しむと同時に、耳に飛び込んできたのは、どこか熱に浮かされたような……低い声だ。
 どうやら通りがかったのは男らしい。身を固くした晃は、いつでも知世を守って飛びかかれるよう無意識に体勢を整える。

 だが、次に続く吐息混じりの声は……そんな二人の緊張を華麗にぶち壊してしまった。

「んふっ……なるほど、このスリルは良いな。明らかにそこかしこで人の気配がする……はぁっ、折角だし誰かに見つからぬものかな」

(……はい!?)

 何と言うことだろう、この茂みの向こうを歩くのは、大層な変人らしい。
 姿は見えないが、どう考えても人に見られては不味い何かをしているに違いない声の主は、実に艶やかで……そして今にも鼻歌を歌い出しそうな声色で、軽やかな足音を立てている。
 これは話しかけた相手——恐らくこの変態のご主人だろう——も相当ぶっ飛んだ人だろうと思案していれば、またしても晃の予想を全力で裏切る控えめな叫び声が耳に届いた。

「ちょ、ムシュカ様しーーっ!! 声が大きすぎますって! お願いですからせめてストールだけでもっ、ってちょ! あああっ見えちゃいけないモノがくっきり分かるじゃ無いですかっ! ほっほらっ、腰巻きもありますからっ!!」
「ん? 何を動揺しておるのだ、ヴィナよ。今日は前回と違ってちゃんと全身が覆われておるのだから、何の問題もないであろう? ほら、しっかり手綱を引いて胸を張って、堂々と散歩をせぬか」
「いやいや、推し神様を首輪で繋いで夜のえっちいお散歩ですよ!? 鼻血だして尊死せずに着いてきているだけ、えらいと思って下さい! あああ、お召し物を早速脱ぎ捨ててるし!!」

(…………?? なんだこの、緊張感ゼロな掛け合い……)

 一体、茂みの向こうでは何が起こっているのだろうか。
 頭の中にはてなマークをいくつも浮かべながら、晃は慎重に茂みの向こうに目をやり……そして、目の前の光景に絶句した。

(は……はあぁぁぁ!? 何この、極まった変態!!)

 そこにいたのは、黒い衣装に身を包んだ……うん、ただの変態だった。というか、そうとしか形容の出来ない人物だった。
 しゃらん、と大ぶりな耳飾りを鳴らしながらうっとりした表情で歩いている整った顔立ちの……男性らしき人影は、革製の首輪とテカテカしたボディスーツを身につけている。
 首輪から伸びるリードは随分後ろの方まで伸びていて、多分その先には未だに「待ってくださいムシュカ様あぁ!!」と情けない声を上げている変態のご主人様? がいるはずだが、この闇の中では姿ははっきりと見えない。
 足元は、知世が履いているのと同じくらいのピンヒールだろうか。こちらはブーツでは無いが、ぴったりした衣装が作り出す脚線美は晃から見てもため息が出る程見事なものだ。
 だというのに、そこから視線を上げればどう見ても中心は不自然に盛り上がっているし、なんなら胸の二つの飾りも……どう見ても乳首ではなさそうな形が、くっきりと浮き上がっている。

 ブゥン……ブブッ……

 極めつけは、複数のモーター音だ。
 時折「んふっ」とどこか感じ入った表情で悩ましい吐息を漏らす元凶は、テカテカの中に仕込まれたこの音を奏でる物体のせいに違いない。

「うわぁ、ガチ変態じゃん……やべぇもの見ちゃった……」

 思わず晃の口から、正直な感想が漏れる。
 やっていることはどう見ても屋外露出——そう、さっきまで二人が楽しんでいた羞恥プレイと同じ筈。
 なのに、目の前を通る残念な麗人は身を縮こめるどころか、もっと見てくれと言わんばかりに堂々たる出で立ちで「ヴィナよ、そうもじもじするでない」とご主人様らしき遠くの影を一喝している。
 ……幸いにも彼は、こちらの気配には気付いていないようだ。もしくは気付いていても、知らぬフリをしてくれているのかもしれない。
 これならじっとしていればやり過ごせそうだと、晃はほっと胸をなで下ろす。後は、後ろでもじもじしているらしき「ご主人様」が追いつけばいいだけだ。

「いや、あれだけ堂々とされたらさ……ご主人様もドン引きするよな……」

 気の毒に、と姿の見えない相方に同情の念を覚えていれば、ふと腕の中で「え……?」と小さな声がする。
「大丈夫だよ知世」と声をかけた晃は、しかし彼女の表情に引っかかるものを感じ、そして

「くっ、鞍馬さんなんでここにっ!? え、ちょっ、えええええ!?」
「!?」

 見たことがないほど目を丸くし、突如茂みの向こうに向かって叫ぶ知世の大声に、ぴしりと世界ごと固まったのである。


 ◇◇◇


(鞍馬さん!?……うわぁ本当だ、あの変態野郎、まさかの昼間に会った学食のお兄さんじゃんか!!)

 知世の声は思いのほか夜の公園に響き渡った、気がした。
「!? ちょっ、知世ちゃん!!」と慌てて晃が口を押さえるも、時既に遅し。目の前を通り過ぎようとしていた変態、もとい学食の麗人はピタリと足を止め、こちらを見つめている。

「ん? ……ああ、そこにおったのか。昼振りだな、チセ。……と、アキラだったか。良い夜だな」
「あ、はい、こんばんは……?」

 ……どうやらこの変態麗人は、随分と夜目が利くらしい。めざとく二人の姿を見つけて微笑む姿は少し上気しているものの、首から上だけなら昼間と変わらぬ気品を保っている。

 というか、どうしてこの状況でそんなに悠長な挨拶が出来るのだろうか。

(本物の変態は、格が違う……ってことか?)

「それはそうと、あまり茂みに長くおらぬ方が良いぞ。この辺りは蛇も出るしな」
「げっ」
「ひぇっ……あわわわ……」

 戸惑いを隠し警戒心剥き出しで見つめていれば、相変わらず緊張感の無い口調で、鞍馬はさりげなく二人に暗闇から出てくることを促す。
 流石にそこまでは調べてなかったと、晃は慌てて知世を抱えたまま茂みから飛び出した。
 そうしてリュックから取りだしたバスタオルを地面に敷き、別の意味で腰が抜けている知世をそっとその上に降ろす。

「……あの…………えっと、その格好は一体……?」
「ふふっ、夜のお楽しみという奴だ。折角ここまで来たのだしな、たまには羽目を外すのも良かろうと」
「それは、羽目を外すってレベルなんですか……?」

 何も話さないのもまずかろうと声はかけてみたものの、さっきから聞こえる低いモーター音が気になって仕方が無い。
 どう考えても胸と股間から鳴り響いている残念な振動は、しかし鞍馬の余裕を崩すには至らないようだ。
 一体この状況をどうするべきかと、さりげなく知世と鞍馬の間に立った晃は全力で頭を回す。

(よく分からないけど、取りあえずこっちに手を出してきそうにはないな……それなら変に刺激せずに、ここはスルーすれば……駐車場くらいまでなら、知世をおぶっても十分動ける)

 大丈夫、知世を傷つけさせやしない——
 まだ状況が良く飲み込めてないといった様子でへたり込む知世をちらりと見やると、晃はすぅと息を整え、動揺を隠して当たり障りの無い言葉を口にしようとした。

「じゃあ、俺らはそろそろ——」
「はぁっ、はぁっ、ムシュカ様ぁ! もう、置いていかないでくださいよお!!」
「ん? ああすまぬな、ヴィナ。すっかり昂って足が軽くなってしまった」
「!」

 ……したはずなのに。
 暗がりからぬっと姿を現した男の影に、晃の緊張が一気に高まる。
 状況と声から察するに、あれはこの残念なお兄さんのご主人様であろう。
 随分気弱そうな様子だからこれ以上危険が増すことはないだろうし、いざとなったら叩きのめしてやると晃はさりげなく大きな影に向かって構え……そして、ふと奇妙な感覚を覚える。

(……この声、どこかで……?)

 どすどすという足音が、こちらに近づいてくる。
 ぜいぜいと息を切らしながら姿を現した男は、晃達には目もくれることも無く黒い被膜に覆われた麗人の肩に幅広のストールをかけた。

「や、やっと追いついたぁ……ほらムシュカ様、灯りのあるところは人目につきますから羽織り物を……って……」
「…………は?」

 どうせなら隠すのは上より下だろ、と思わず心の中で突っ込みを入れていた晃が、男を二度見する。
 頬を真っ赤に染めて彼の肩を抱く大男もまた、ふとこちらに視線を移し……途端、さぁっと顔を青ざめさせた。

「な、な、なっ……!」

 厳つい風貌には似合わない、震えた小さな声。紙のように白くなった額には、三本の太い傷跡。
どれもこれも晃には見慣れたもの……というか、昨日の夜にも対峙して、指導なる名目で散々叩きのめしたばかりだ。
 ……そう、目の前にいたのは、晃が通う空手道場に時折出稽古でやってくる大男。
 その恵まれた体躯がお飾りだと道場でも有名な、中学生にすらコテンパンにされる残念な青年——毘奈新太(びな あらた)だったのである。

「……毘奈のおっさん、何でこんな所にいんの?」
「あ、あわわっややや八束さん!? ひっその、これはなんというか……」

 新太も、流石にこんな所で知り合いに遭遇するとは思っていなかったのだろう。
 しどろもどろでなんとか状況を説明しようとするも、完全にパニックに陥っているようだ。
 そんな大男と、相変わらず鷹揚に構え微笑む麗人の顔を何度か往復し、晃は「……おっさん」と自分でもびっくりするほど低い声で凄んだ。
 ——ああ、床に座り込んでいる知世がその剣幕に顔を引き攣らせている。これは後でしっかりフォローをしてあげなければ。

「まさかてめえ、その美人さんを拐かしたんじゃねえだろうな……?」
「かっ拐かす!? ごっ誤解ですっ!! ムシュカ様は、俺のそのっ、最推しでして」
「……ふぅん、推しってのはいかがわしい道具とリードを着けてデートするものなんだぁ……誰が信じられるか、このドスケベ変態野郎が!」
「ヴィナよ、そこは伴侶だと伝えるべきでは無いのか?」
「お願いですから、ムシュカ様はこれ以上話をややこしくしないでください! って待った、なんで飛び蹴りの姿勢!? 八束さんいつもながら決断が早すぎますって、とっとにかく話を聞いて下さいっ!」
「おっさんを叩きのめしたらな!!」
「ひどい!!」

 ……そこからはもう、阿鼻叫喚である。
 こめかみに青筋を浮かべた晃の大立ち回りを、新太は必死にさばいて……いるようで、時々綺麗に食らっては「ぐぇっ」とカエルが潰れたような呻き声を出している。

「……これは暫く収まらぬな、チセよ」
「えっあっはい、そうですね……?」
「なら、アキラが落ち着くまで我々はここで待つか」

 呆然とする知世の隣に、鞍馬が何食わぬ顔で腰掛けた。
 普段学食では後ろに束ねていた髪を下ろしているせいだろうか、それともエプロンの下に隠れていたであろう身体のラインが綺麗に見えるからか……今夜の鞍馬は彼女の知る学食のお兄さんとはまるで別人である。

「……ふむ、良い突きだ。そう言えばチセが前に言っていたな、アキラはとても強いと」
「あ、はい……あの、止めなくていいんでしょうか? このままじゃ従者さんが半殺しになってしまうんじゃ」
「なに、ヴィナもあれで急所は半分くらいは外しておるから問題ない。そのうちアキラの頭が冷えるであろう。にしても……ふふっ、当初に比べればヴィナも随分と上達したものよ」

 そう言って乱闘を繰り広げる……いや、乱闘から逃げ回る新太を見つめる鞍馬の瞳は、あの頃と何も変わらない。
 本当に、下を向いたり謎のモーター音を聞いたりしなければ、卒業式の前日に手作りの菓子で知世を送り出してくれた鞍馬のまま。

(うん、鞍馬さんと従者さんが変態だってのは前から知ってたけど……思った以上に突き抜けてたんだ、この二人……)

 場にそぐわない他愛ない会話を交わし、内心乾いた笑いを立てること、多分十分くらい。
 どうやら、晃の怒りは収まったのだろう。「どうかこの件はご内密に!!」と地面に土下座したままの新太を一瞥すると、はっとこちらを振り返り知世の方に駆け寄ってきた。

「知世ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい。多分もう立てます……」
「そうか。ならば今日はここらで撤退とするか。あまりここで騒ぐのもまずいであろう?」
「……あ……その、すんませんでした」

 十分に間合いは取りつつもぺこりと頭を下げた晃に、鞍馬は「いや、気にするでない」と笑みを浮かべる。
 ……この青年、首尾一貫してどこまでも気品に溢れているせいか、身に纏う変態装束とのギャップにこちらの頭が破壊されそうだ。

「こちらこそ、んふっ、すまなかったな。んうっ……少々、刺激的なものを……はぁっ、見せてしまった」
「んんっ、少々かどうかは置いといて……そう思うんなら、せめて隠したほうがいいんじゃないっすか。後、スイッチは流石に切ったほうが」
「ははっ、残念ながらこの玩具の操作は、ヴィナの手にあってな」
「っ、てめぇ、さっさとお兄さんの破廉恥な道具を止めやがれこの変態が!」
「ひぃっ! ごめんなさいごめんなさい今すぐ止めますからっ!!」

 晃の一喝に、新太が慌ててポケットの中を探る。
 ようやく人工的な音が消えた空間は、気まずさも相まってどうにも居心地が悪い。
 さてと、とその場から立ち上がった鞍馬は、今度こそ新太から腰巻きを受け取り、慣れた手つきで巻き付けると「チセ達は、明日は休みか?」と訊ねてきた。

「へっ……あ、はい。日曜ですし」
「そうか。ならば、お主らを驚かせてしまった詫びをさせてくれぬか? ……互いに、話しておいた方が良いこともあろう」
「あ、ええと……」
「ここから二駅先に、新しくできたスイーツカフェがあるのだ。男二人で入るのは恥ずかしいとヴィナも言っておったし、チセ達が来てくれれば心強いのだが」
「行きます、何時にします?」
「ちょ、知世ちゃん食いつき早すぎ!!」

 晃の突っ込みも虚しく、知世は嬉々として鞍馬と約束を取り付けてしまう。
 ……その横顔は、食い意地と大人への安心感に溢れた……晃が見たことのない表情だ。

(……ま、仕方ないか。知世ちゃんの唯一の味方だったんだもんな)

 少々過激で心臓に悪すぎる再会ではあるが、彼女を(おやつという力で)生きる方向へと引き留めて続けてくれた青年なのだ。変態だが少なくとも悪い人には見えないし、積もる話もあるだろう……
 晃は苦笑いをこぼし、地面に敷いたバスタオルを拾って撤収の準備を始めた。

「ではな、明日……もう今日だな、十三時に駅前広場で」
「はい! 楽しみにしてます!!」
「うむ、私も楽しみにしておる。あと……チセよ、コートの前はしっかり合わせてから移動するのだぞ?」
「はい……はい?」

 くるりと踵を返しカツカツとヒールの音を響かせて、鞍馬が闇の中に消えていく。
 何度もペコペコと頭を下げつつその背中を追う新太が見えなくなった頃、夜風にふるりと身を震わせて……知世は、ようやく鞍馬の残した言葉の意味を理解した。
 ——確か茂みに隠れたとき、コートは晃が背中からかけてくれただけで。
 そのまま袖も通さず羽織っていると言うことは、つまり……肌色の部分は、丸見えなわけで……

「…………はっ、ちょ、うあああああ!!」
「知世ちゃん、落ち着いて! 大丈夫、もう二人ともいないから! とにかくボタンを合わせて……ああアタシがやる、ほら深呼吸」
「はわわ……どうしましょう晃さん、わっ私、鞍馬さんに裸を……うわあぁん! ぽっこりお腹はずっと制服でうまく隠してきたのに! 食い意地に見合ったお腹だってバレちゃいましたあぁ!!」
「え、ショック受けるの、そこなんだ!?」

 ぐずぐずとべそをかく知世を宥めながら、晃はコートの前をきっちりと合わせ、前にリュックを、後ろに知世を背負って全速力で駐車場へと戻る。

(にしても……そうだよな、準備してたって事故は起こるんだ。流石にこれは危険すぎたよなあ……もう少しやり方を考えないと)

 道すがら脳裏に描くのは、今日の反省点と、明日への不安。
 きっとかつての知世をサポートしてくれたお兄さんのことだ、悪い方には転がらないとは思うものの……別の意味でとんでもない方向に転がりそうなのが、少々気にかかる。

(ま、何かあればおっさんを脅せばいいだけか)

 いつも外では知世が、晃の手が無意識に男を傷つけないよう守ってくれているのだ。こんな時こそ自分が知世を守らなければ——
 背中に温もりを感じながら「大丈夫、大丈夫、もうすぐ駐車場だから」と知世にかける優しい声とは裏腹に、内心では物騒な解決法を即断する晃なのであった。


 ◇◇◇


 流石に興奮して眠れないかと思いきや、流石に初めてのプレイと緊張による疲れの方が勝っていたらしい。
 家に着くなりベッドに飛び込んだ二人が目を覚ましたのは十一時で、時計を確認するなり悲鳴を上げながら外出の準備をする羽目になる。

 ——二人で生活を始めてから、そろそろ半年。
 当初は道場の仲間達に守られなければ難しかった外での食事も、今は知世と一緒ならほぼ平気だ。
 もちろん男性店員とのやりとりは全て知世に任せるけれど、少しだけ広がった世界は晃に確かな未来への希望を抱かせている。

 ……とは言え、こんな事態は当然ながら想定外で。

「スイーツカフェだから、ご飯ものはないよな……食べながら行こうか」
「晃さん、運転しながらバゲット丸かじりは危ないですって! それにお腹を空かせておかないと、たくさん食べられないですよ?」
「アタシは知世ちゃんと違って、たくさん食べるなら肉の方がいいんだよなぁ」

 車内の会話はいつもと同じく雑多で、けれど少しだけ空気がひりついている。
 それも無理の無い話だろう。何せ、初めての屋外プレイで知り合いに遭遇という事故を起こしてまだ半日も経っていない上、その当事者に会いに行こうとしているのだから。

「……大丈夫です、晃さん。あの二人は……鞍馬さんと従者さんは超ラブラブですし、悪いことにはなりませんよ、きっと。ほら、美味しいご飯を作る人に悪い人はいないから!」
「知世ちゃんのそのチョロさは、ほんっと……いつかおやつにつられて誘拐されそうで怖いよ、アタシは」

 何の気休めにもならないけれど、その気持ちだけは受け取っておくよと笑いながら運転すること1時間半。
 駅前広場で鞍馬達と合流した二人は、そのまま近くのカフェへと足を運ぶ。
 ……もちろん、前を歩く鞍馬と新太とは十分な距離を取った上で。

「わぁっ、内装がめちゃくちゃ可愛い……!!」
「確かにこれは……おっさんにはきついな」
「お付き合い頂き感謝します……その八束さん、できれば変態を見るような目つきで睨むのは止めていただけると……」
「ふぅん……昨日の今日でどの口が言ってるんだ?」
「げふぅ、ごもっともで……」

 扉を開ければ、ふんわり甘い香りと共にベビーピンクで纏められた内装が目に飛び込んでくる。
 席に案内されながら晃がそっと見渡した限り、男性客はまばらだ。その全てが幸せそうな恋人の前で鼻の下を伸ばしているか、いたたまれない様子で縮こまっているかである。
 ……気持ちは分からなくも無い。晃とてたとえ一人で店に入れる日が来ても、ここに飛び込める気はしないから。

「ヴィナから話は聞いたぞ、アキラ。お主は私の前に座るが良い」
「え、でも」
「ものは試しであろう? ……私の推測が正しければ、恐らく問題ない。少なくとも隣に座るよりは良かろうよ」
「んー……殴っても怒らないで下さいよ……」

 四人掛けのテーブルに通された晃は、渋々といった様子で鞍馬の前に腰掛ける。
 だが、最初はどこか居心地の悪そうな顔をしていたものの、メニューを眺める内にふと首を傾げぽそりと独りごちた。

「……反応、してない?」

 確かに晃の目の前には、鞍馬が腰掛けている。
 隣に座る新太といちゃつきつつメニューを選ぶ姿は、確かに女性と見まごう美しさを誇っているけれど、広い肩幅や凹凸の無い胸、そして低く穏やかな声は、補整下着で男を装っている自分とは全く異なる……どこからどう見ても男性のそれだ。
 なんなら昨日の変態姿で、決定的な膨らみだって確認済みなわけで。

 なのに、男と認識した途端に湧き上がる止めようのない衝動が、今日は一欠片も沸いてこない——

「…………晃さん」
「ん、知世ちゃんはもう注文決めた?」
「はい。先に書いておきました!」
「……うん、晩ご飯はカロリー控えめにしような」

 戸惑いを隠せない晃に気付いた知世が、心配そうな視線を送る。
 そんな知世に晃は「大丈夫」と笑顔を作り、まずは注文とばかりにメニューを捲った。

 目の前では先に注文を書き終えた鞍馬が、相変わらず麗しい笑みを湛えこちらを眺めている。
 ……その瞳には晃の全てを見透かされているようで、どうにも居心地が悪い。

「何で俺が鞍馬さんを殴らないって思ったんですか? ……変態だから?」

 思わず口を突いた棘のある言葉にも「ははっ、手厳しいな」と余裕の笑みで返されてしまう。
 なんだかなぁと晃がため息をつけば、まずは自己紹介をするかと青年は前髪をかき上げた。
 黒髪に金色のメッシュの入った髪は染めているとは思えないほど艶やかで、どことなく品格を漂わせているのが実に不思議である。どれだけお手入れに力を入れているのだろうか。

「アキラと私はほぼ初対面であるからな。私は鞍馬・ムシュカ・衣織だ。知世の母校で学食のスタッフとして働いている」
「あ、そうっすね……改めて、八束晃です。知世ちゃんと同じ大学の、工学部一年です。えと、俺は鞍馬さんと呼べば」
「ああ、ムシュカで良いぞ。知世もな、もうお主は卒業しておるしプライベートでまで名字で呼ぶ必要もあるまい。……実を言うと、ミドルネームで呼ばれるのが私は一番しっくり来るのだ」
「あ、はい。ふふっ、ムシュカさんって呼ぶの、何だか不思議な感じですね」

 母は日本人だが、成人するまでは父の母国である赤道直下の国で育ったという鞍馬の説明に、やはりその美貌は異国の血が混じっていたためかと晃は納得し「じゃあムシュカさんで。俺はそのまま晃でいいです」と頷く。
 そして敏感に変わった空気を察知し、怪訝な顔を斜め前に向けた。

「……毘奈のおっさん、何変な顔してんの」
「ぎくぅ……い、いや、何でもっ……」
「どうしたヴィナ? ああ、お主も二人に名前で呼ばれた方がよいな、『アラタ』」
「うっひょえぇぇ!? むっムシュカ様、あなた様の口からその呼び方はいけませんっ! あああ尊さに畏れ多さが掛け合わされて、心臓が爆発するぅ……!」
「全く……何年経っても、私はお主を名前で呼べそうにないのう」

 名前を呼ばれた途端奇声を上げてオロオロし始め、かと思えば拗ねた子供のような表情を見せる新太。
 くるくると変わる表情を、ムシュカはどう見ても楽しんでいるようにしか見えない。仲が良さそうで何よりである。

 どうやら出会ったときから今に至るまで、新太は生涯最推しと豪語して憚らない己が伴侶から、名前で呼ばれるだけで尊死してしまうのだとか。
 気持ちは分からなくもないが「名字で呼ばれるのだって、ちょっと母国語訛りがあっておしゃれ感が増すのに! ムシュカ様の名前呼びはリーサルウェポンです!!」と早口で叫ぶのは止めて欲しい。さっきから周囲の視線が痛すぎる。

「で、何故そのような渋い顔をする?」と鷹揚に訊ねるムシュカに、新太は口を尖らせながら「お分かりでしょう……?」と少々不満げだ。
 知世達がきょとんと首を傾げれば、耳まで真っ赤に染めながら「……その呼び方を、他の人に許すんだ……」と小さな声で呟き俯いてしまった。

(……えっと、晃さん、これは)
(醜い男の嫉妬というやつだな。おっさん、心はヘタレで乙女だから)
(あー……何となく分かる気が……)

 ——泣く子も黙りそうな強面でマッチョな大男が、口を尖らせてうじうじとする……あまりのギャップの激しさだが、とても萌えることはできなさそうだ。
 だがそんな新太の姿に、ムシュカだけは喜びを隠しきれないと言わんばかりの笑みを湛えている。

「ふふっ、そうかそうか。これはお主の琴線に触れるのだな、しかと覚えたぞ」
「むぅ……覚えないでください。いや、むしろ覚えて貰ってこれ以上増やさないでほしいなって」
「ここでは、お主とチセ達だけなのだから良いでは無いか。それに……たまには焼きもちを焼かせねば、お主はすぐ私を宝物のように優しく抱くであろう?」
「ちょっムシュカ様しーっ! こっ、こんな所でとんでもない暴露をしないで下さいっ!!」

 ……どうもこの御仁に、慎みや節度と言う概念は存在しないらしい。そもそも昨日の段階で既に明らかだったなと、晃と知世は赤裸々な暴露に思わず水を噴きだし、目を白黒させつつも妙に納得してしまう。
 そうして互いにそっと目を合わせ、無言で頷き確認するのだ。

 ……この二人の突き抜け具合に比べれば、自分達のプレイなどまさにままごと。そう、変態と呼ぶのも烏滸がましい、ささやかな触れ合いに過ぎないなと。

「……平和だな、知世ちゃん」
「ほんと平和ですねぇ、晃さん」

 窓の外をぼんやり見つめながら、知世達は言葉を交わす。
 いつの間にかテーブルには色とりどりのスイーツと、ほかほかと湯気を立てる紅茶が並べられていた。
 きっと注文を届けてくれた店員は、ドン引きしていたことだろう。少々悪いことをしたなと申し訳なさを感じながらも、知世達は痴話喧嘩と呼ぶには圧倒的実力差を感じる掛け合いを続けるムシュカと新太を、生暖かい目で見守ることにした。

 もちろん、ケーキはもしゃもしゃと頬張りながらである。
 さすがムシュカが上京したら必ず寄ると決めていただけのことはあって、なかなかレベルが高い。全体的には甘さ控えめながらクリームの滑らかさが絶品で、舌の上で蕩ける感触はお替わり必至と見た。

「ヴィナよ。元はと言えば、お主が私を獰猛に抱かぬのが問題なのだ。最近は、貞操具や胸飾りだけでは激しくなってくれぬだろう? チセが教えてくれたスパンキングは未だ拒むし……なればお主が昂ぶれるような振る舞いを研究するのは、道理であろうが」
「そんな道理を振りかざさないで欲しかった……それ、絶対俺のためだけじゃ無いですよね?」
「当然であろう? まぐわいとは二人で楽しむものだからな。何よりこの国は、性に関する振る舞いが実に多様で興味が尽きぬ。死ぬまでに全てを網羅出来るか、心配になるほどにな」
「ムシュカ様、できれば俺の心臓の方を心配して頂きたいのですが」

 軽妙な掛け合いを繰り返しながらも、二人してケーキに伸ばす手を止めるつもりはないらしい。
「やはり生クリームが絶品だな」と頬を緩めつつも、ムシュカの暴露は終わる気配が無い。一応周囲を気遣っているのか声量こそ抑えているが、傍を通りがかったカップルが何組か、ギョッとした目でこちらを見つめていることには気付いていなさそうである。

(……ああなるほど、昨日の凄い格好も従者さん……新太さんのためだったんだ……)
(ムシュカさんも大概楽しんでいそうだけどな、元凶はやっぱり新太じゃねーかこの変態)

 優雅な手つきでフォークを口に運びつつ、蕩々と赤裸々な情報公開を続けるムシュカと、その横で「殺して……お願いもう腹を切らせて……」と突っ伏す新太は、確かに知世が言っていたとおり、おてんば姫とよわよわ騎士という名付けがぴったりだ。

 ……いや、おてんばと言うには少々過激な気がするけれど、もうこれ以上考えるのはよそう。何ともミスマッチな光景は見ている分には面白いが、そろそろ止めてやらないと周囲の視線が痛いし、何より新太が床に沈んでしまいそうだ……
 そう判断した晃は、そうだと先ほど引っかかった事ををムシュカに問いかける。

「あの、ムシュカさん。さっき知世ちゃんがスパンキングを教えたって……」
「ん? ああ、お主との逢瀬は随分楽しかったようでな。菓子を馳走するたび、最初の出会いから全てを詳細に話してくれたものよ」
「へっ」

 助け船を出したはずなのに、火の粉は残念ながらこちらにも飛んでくるらしい。
 凍り付いた晃の表情にも動揺すること無く、そして「あっやばい」と顔色を変える知世の目配せも全力でスルーし、ムシュカは更なる爆弾を穏やかな昼下がりのテーブルに投下する。

「アキラは手のひらでチセの尻を打ち据えるのが好きだというのも、ふくよかな尻を好み真っ赤になった尻をいつも嬉しそうになぞっているのも……ああそうだ、餌皿から食べさせるのは随分気に入ったようで何よりだ」
「むっムシュカさんそれ以上はうみゃあああいだいいぃ!!」
「……知世ちゃぁん? どうしてこの口は、すぐおやつにつられてムシュカさんに余計なことまで伝えちゃうのかなぁ!?」
「うわぁぁんごめんなさいぃ!!」

 こめかみをピクピク震わせながら全力で頬を引っ張り低い声で問い詰める晃に、半泣きの知世。
 晃により丸く収まるはずだった現場はますます混沌を極め、なのにお替わりだけは容赦の無いテーブルの様子は、暫く店員の間で語り草となったという。


 ◇◇◇


「こほん。とっ、ともかく、俺たち男には興味ねーから! 下らない嫉妬でもじもじする暇があったら男を磨きやがれ新太は! で、知世ちゃんは何でもムシュカさんに喋らない! もうちょっとおやつ耐性をつけてくれ!」
「ぐっ……正論が痛い……」
「ほっぺも痛いですぅ……あ、店員さんお替わりを」
「ははっ、チセの道のりは随分長そうだな!」

 晃の怒りがようやく収まり、落ち着きを取り戻したテーブルには食後のコーヒーが運ばれていた。
 コーヒーよりもたっぷり乗ったクリームを堪能しているムシュカは、混沌などどこ吹く風と言わんばかりの優雅さで微笑んでいて、思わず「まさか知世ちゃんから聞いてた学食のお兄さんが、ここまで残念な美形だったなんて……」と呆れる晃にも表情を変えることが無い。

「そうか? そう直裁に褒められると、少々照れるな」
「ムシュカさんは、ポジティブが過ぎると思います」
「なに、人生楽観的な方が何事も上手くいくものだ。……チセはどうだ? 大学では楽しくやっておるのか」
「あ、はい。まだ都会には慣れないですけど……」

 話を振られた知世の口から、この半年の穏やかな日々がぽつぽつと語られる。
 もちろん、全てが順風満帆では無い。むしろ、その身体に流し込まれた泥の影響を目の前に突きつけられることが増えて、落ち込んでしまうことも度々だ。
 それでも、己に刻み込まれた傷の深さにすら気付けず更なる傷を増やし続けていた頃に比べればずっといいですとはにかむ知世の手は、テーブルの下で晃の手のひらにそっと包み込まれていて。

「……そうか、この世界に足を着けて生きておるのだな」
「はい。……大丈夫です。ここには美味しいおやつがいっぱいですし、晃さんもいますから!」
「ふふっ、そこで先に菓子の話が出る辺りはやはりチセだな!」

 何にしても良き顔になったと感慨深げに二人を見つめるムシュカの瞳は、そしてその隣でどこか安心したように頷く新太の表情は、ずっと知世を見守り続けてきた誠実な大人のそれであった。
 知世の傍に彼らがいてくれて本当に良かった……晃はしみじみした思いでコーヒーに口を付ける。

 そうしてひとしきり知世が語り終わった後。
 ようやくコーヒーを飲み終えたムシュカが「では、次はこちらの番だな」と……すっと表情を変えた。

「ムシュカさん?」
「二人の変態生活は昨日垣間見ちまったけど? いや別に、誰にも言わないけどさ」
「それはありがたいが、今日の話は別でな。……お主らの家に居着いている、あの織物の出自についてだ」
「!」

 昼下がりの柔らかな空気に、ピリッとした緊張が走る。
「俄には信じがたい話であろうが」と前置きをする彼の表情は、明らか先ほどまでとは異なる真剣味を帯びていて、思わず二人はゴクリと喉を鳴らし、居住まいを正した。

「織物……お布団さんと、枕カバーですか?」
「そういや新太も元々誰かから貰ったって言ってたっけ。ムシュカさんも?」
「うむ。正確には、私は王族の宝物庫から盗まれた盗品を買い戻しただけだが」
「ほ、宝物庫ぉ?」
「いきなりスケールが大きくなりましたね……」

 そうしてムシュカは、この4人に奇跡をもたらしたまじないの寝具と……自らの出自について語る。

 元は異世界の王太子であったムシュカの国に、織物達は危険な宝物として封じられていたこと。
 それが野盗の襲撃により市井へと持ち出されてしまったこと。
 襲撃により当時王国の近衛騎士団副団長であった青年が命を落とし、そして何の因果かこの世界に生まれ変わると同時に、後を追うように枕カバーがこの世界に出現したこと……

 生まれ変わりという言葉に思わず知世達が新太を見れば、大柄な青年は神妙な顔つきで「俺のことです」と頷く。

「と言っても、前世の記憶は数年前に夢でムシュカ様と再会するまで忘れていたんですけどね」
「詳しい事情は省くが……紆余曲折あってな、私もこの世界へと導かれたのだ。当然、掛け物も同伴でな」
「つまりムシュカさんは、いわゆる異世界人……」
「しかも向こうでは王族だった、かあ……信じられない話だけど、確かにしっくりくるかも。もしかして俺が男相手なのに殴ろうとしないのも」
「恐らく、お主の魂が私をこの世界の男性とは見做していないからであろうな」

 ムシュカの告解に、言われてみれば合点がいくなと二人はこれまでのことを思い起こす。
 良く見れば染めていると思っていた髪も地毛で、何ならメッシュは内側からほのかに光っているようだ。
 それはあの怪しい織物達が願いをかければ(もしくは脅せば)放つ淡い光に似ていて、確かにこの話が与太話では無いと知世達が確信するには十分であった。

 ただ。
 彼の口から語られた話は……真実ではあっても、全てでは無い。
 隣でどこか神妙な面持ちをしている新太の様子からも、それは明らかだ。

(いやそれ……クソブランケットに見初められたってことだろ? つまり)
(やっぱりムシュカさんも……)

 何でも無いことのように笑顔で語るムシュカの姿に、知世と晃は複雑な想いを抱く。
 断片的に拾った情報だけでも、彼が愛しい人との死別を経験し、王族という身分を捨ててこの世界にやってきたことは確実だ。
 きっと紆余曲折などと言う言葉だけでは表せない壮絶な過去が、この笑顔の下には詰まっているのだろう。

 賑やかなカフェの一角に、沈黙の帳が落ちる。
 なんとも言えない複雑な表情をする二人に、ムシュカは「そう思い悩むでない」と気遣うように微笑んだ。

「この話をしたのは、あの寝具達の性質を説明するためだ。既に経験しているやも知れぬが、あれはこの世界の常識では説明のつかない力を持つからな」
「でも」
「……まあ、色々あった。今もその傷が癒えたわけでは無い。それでも……私は今のヴィナと逢えて、この世界で食卓を共に出来る選択を後悔した日は一度たりとも無い」

 今は王太子でも何でも無い、ただのムシュカにすぎない。
 この世界に降り立った一人の人間として、どうかこれからも畏まること無く付き合って欲しい——
 そう深々と頭を下げる異世界の元王族に、二人は少しだけ表情を和らげ「ムシュカさんはムシュカさんですから」「過去を言いだしたら俺らも大概だし」と頷くのであった。

 なお、肝心の織物はと言えば

「ああそうだ、あやつらに関して何か困ったことがあればいつでも相談するがよい。王族の血筋故か、私は今でもあの織物達と夢の中で簡単な意思疎通は可能であるからな。説教くらいはわけもない」
「……はい。といっても、最近は覗き見されることも減りましたしね」
「散々ラグマットと雑巾にするって脅した甲斐があったよな」
「なんと…………脅しが効くとは。前々から気にはなっていたが、あやつらお主らには随分と甘くないか?」

 ……どうやらムシュカの心配は、杞憂に終わりそうである。
 すっかり異界の寝具を使いこなす二人に「我々の苦労は一体何だったのか」とムシュカ達はがっくりしていたようである。


 ◇◇◇


 どことなく遠巻きに眺められている雰囲気に「これは二度とこの店には来れないな」と(主に知世が)残念に思いつつ、四人は駅への道をのんびり歩いて行く。
 相変わらず前を歩くのはムシュカと新太だが、行きよりは少しだけ距離が縮まった……かもしれない。

「ムシュカさん達って、新太さんの出張の時はいつもあんな……過激なプレイをしてるんですか?」
「えっ、あっ、あのっその毎回公園というわけじゃ」
「いつも世話になっている店に顔を出したり、同好の士が集まる店に行ったりもするがな。それに今回は、前回に比べれば随分大人しめであったぞ?」
「…………新太、いっぺん殴らせろ」
「何で俺だけ!?」

 ふと知世が切り出した話題は、折角落ち着いた大人らしい雰囲気で終わっていた二人の印象を、再び変態方向へとずらしてしまう。
 ……この変態っぷりは、ムシュカが異世界人であることとは多分関係ない、筈だ。むしろそうであって欲しい。

 聞けば、ムシュカが新太の出張に着いてくるようになったのは知世が外部受験を決意した頃からだと言う。
 以来、二、三ヶ月に一度の出張には必ず同伴し、都会を……まあそう言う意味で楽しんでいるようだ。
 一体前回は何をと、好奇心に負けた知世が恐る恐る訊ねれば、ムシュカは実にいい笑顔で「……今回のお主らと似たようなものだ」と随分な爆弾を投げてきた。

「今回の、私達と……って、まさか露出……」
「うむ。まだ暑い季節であったからな、人気の無いところで服を脱ぎ捨てて、仕込んでおいたディルドを抜いて新太にここで食べよと命じたのだ」
「ぶっ!! ……一応聞くけどムシュカさん、それって新太と相談して」
「……先に話してしまえば、面白みに欠けるであろう?」
「「やっぱり!!」」

 夏の夜を思い出したのであろう、新太が遠くを見つめて魂の抜けたような顔で「平常心、平常心、屋外露出スチルは封印……」と呟く中、ムシュカが語ったプレイは……二人からすれば、出来れば同じにはして欲しくないレベルの高さ(?)だった。

 新太が出張の日程を全て終え、美味しいご飯に舌鼓を打ち、いい雰囲気になったところでこの公園に誘われて。
 夜目の利くムシュカに手を引かれ、どんどん奥の方に進むかと思えばはたと立ち止まり……事もあろうに街灯の真下で、この残念な麗人はいそいそと服を脱ぎだしたのだ。

 突然の開陳に凍り付く新太の前で、ムシュカは手際よく一糸まとわぬ姿となって。
 その美しい身体に埋まっていてはいけない太さと長さを兼ね備えた凶悪な物体を「んっ」と悩ましい吐息と共にずるりと抜き取り……質量を欲してほんのり口を開けたまま戦慄く様を新太の眼前に突きつける。

『此度もご苦労であったな、ヴィナ。お主が奮戦しておる間に私も食べ頃に仕上げておいた。ほれ、明日は帰るだけなのだ、たんと食うが良い!』
『はへぇ……おおお屋外で俺の最推しが全裸になって据え膳モード……きゅぅ……』
『ぬ、ヴィナ? おーい、ヴィナ!? ……なんと、鼻血を出す前に倒れてしまうとは……お主はいつまで経っても初心なことよ』

 ……その後、ムシュカが「このままでは勿体ないな」とすっかり元気になった新太の息子さんをその場で味見し、正気を取り戻した筈の新太が再び奇声すら上げる間もなく天に召されたのは言うまでも無い。

「とまぁ、前回はヴィナには少々刺激が強かったようでな。どうも屋外で全裸というのは、かなり威力が高いらしいと馴染みの店長にも諭された。あの時は見物人もいたようだし」
「ひぇっ、けっ見物人!?」
「ムシュカさん、良く無事に帰って来れたな……」
「後でヴィナにも随分説教されたのだ。いやあ、あの仕置きはなかなか過激かつ美味で」
「全然反省してないじゃん、この変態麗人!!」

 それからニヶ月が経った、昨夜。
 今回は前回の反省を活かし(?)裸にはならないと約束した上で、新太は屋外プレイを了承したらしい。
 ちょっとした玩具を仕込んで、服を着たまま一緒に夜の公園を歩いて、多分途中で美味しく頂くことになるんだろうな……と不安と期待を抱きながら迎えた昨夜。
 いい雰囲気になったところでムシュカはまたまた服を脱ぎ初め、瞬く間に首から下を黒いテカテカした……いわゆるラバースーツで覆った姿となり「では、散歩と行こうか」と着替えを詰めたトートバッグに自ら嵌めた首輪に繋がるリード、そして遠隔バイブのリモコンを新太に手渡したのである。

「な? 私もちゃんと反省はするのだ。だから、今回は裸にならずに楽しむ方向にしてだな」
「あれはほぼ裸です、ムシュカ様!! いや、確かに覆われていればいいと言ったのは俺ですけど、あんな黒いテカテカでボディラインを強調するとか、裸より酷い!」
「……そりゃ新太の調査不足だな」
「ムシュカさんが普通に服を着るなんて、私達でも思わないですけど……」
「ちょ、二人とも俺に厳しすぎません!?」

 帰ったら覚えていて下さいよと鼻息を荒くする新太の瞳には、確かに普段の気弱さとは違う獰猛な色が覗える。
 その視線にヒュッと喉を鳴らし臨戦態勢になりかけた晃を「大丈夫です、あれはムシュカさんに向いたものですから!」と慌てて知世が宥めていれば、ムシュカが立ち止まってこちらを振り向いた。

「……だが、裸では無い。薄い被膜ではあるが、肌は晒しておらぬ。……私はどちらでも良いが、お主らには必要なのでは無いか?」
「!!」

(……あ)
(言われてみれば……)

 その言葉に、知世と晃の時が止まる。
 頭の中に流れるのは、昨夜の事故……初めての屋外露出で、知世の肌を知り合いとは言え他者に見られてしまった出来事だ。
 たまたま通りがかったのがムシュカ達で、しかも変態プレイ中だったから良かった(?)ものの、これが見知らぬ男であれば……その危険に思考が辿り着いたとき、ざわっと二人の背中に鳥肌が立った。

 確かに、裸と大して変わらないという新太の意見は分かる。つやつやのラバーに身を包んだムシュカの肢体は、女性である自分達でも見惚れるほどの色気を放っていたから。
 それでも……薄い皮膜であったとしても、着用している側からすれば肌を晒すことに比べ圧倒的な差があるに違いない——

 少し考え込んでしまった二人に向かって、ムシュカは優しく諭すようにアドバイスを残し、そうして新太と共に駅のホームへと吸い込まれていったのだった。

「遊ぶことを止めはせぬ。それはお主らに必要な物であろう? それに……まあその、散々過激なことをしている私が言えた義理では無いのだが」
「あ、過激な自覚はあるんだ」
「お主らは……互いに色々あったであろう? 二人なりの形を作るための試行錯誤とはいえ、あまり無茶はせぬようにな」
「これほど説得力のない説教もないと思うよ……でも、うん、ありがとうムシュカさん」

 仲睦まじく帰路へと就いた二人の姿が見えなくなっても、知世と晃は暫くその場に立ち尽くしていた。
 正直、たった二日のうちにあまりにも多くのことが起こりすぎて……まだ頭の中はぐちゃぐちゃになったままだ。

 けれど、一つだけ確かなことがある。
 昨日の自分達は、初めての屋外プレイにはっちゃけすぎて少々危険な橋を渡っていたこと。
 それでも、全てを諦める必要は無さそうだと言うこと——

「晃さん、その……」
「……ムシュカさんが言ってたラバーっての、興味ある?」
「…………はい」

 きっと同じ事を考えていたのだろう、晃からの問いかけに知世は真っ赤になって俯く。
 そんな彼女の頭をポンポンと撫でながら、晃は「じゃ、今度調べてみよっか」と微笑んで車のドアを開けた。

(まさか、ムシュカさんとこんな形で再会するなんて……しかも、二人のプレイを見てしまうなんて思いもしなかったけど)
(なんだか長い付き合いになりそうだよな……ったく、こんな身近に変態が転がってるなんて世間は狭すぎだろ)

「…………」
「………………」

 車内には、沈黙の隙間を埋めるように流れるラジオの音だけが響く。
 車窓から何気なく見上げた街の空は、怒涛の一日の終わりを告げる茜色だ。

 空気までオレンジに染まりそうな見事な夕焼けは、まるで二人の興奮と当惑が覚めやらぬ心を移したかのようで。
 きっとこの出会いは、自分達の世界に大きな変化をもたらすに違いない——そんな予感を知世達に抱かせるのに、十分だった。

© 2026 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence