沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
HomeNovelBlogGalleryToolsProfileContact

1話 怪しい織物

小説一覧へ

 22時半。

 控えめなノックの音が、あの人の到来を告げる。
 私は笑顔でその人を迎え、当たり前のようにベッドに向かう。

 口の中を貪る、生温かな滑り。
 いつもと違う意図を持って、全身を這い回る大きな手。
 そして……知りたくもなかった、貫かれ注がれる熱さ。

 その全てに嫌悪して、なのにその全てに快楽を感じて。
 ありとあらゆる汚濁を飲み込み……私はただ、笑う。

 ――あの人も、欲情に満ちた顔で、笑う。

 かつて向けられた……否、今も向けられる優しい仮面の下には、ずっとこんなものを隠していたのだと知れど、もう私の心には何も響かない。

 それで良いんだ。
 ……何かが響けば、こんな狂った家で生きることなんかできないのだから。

「パパ」
「可愛いな、知世……」

 私はただ、求められるがままに股を開き、腰を振り、甘く鳴く。
 ――なんの価値もない汚れ切った私が、ここで命を繋ぐために。


 ◇◇◇


 どこにでもあるありふれた教室には、板書の硬くリズミカルな音が響いている。
 外はそろそろ冬の足音が聞こえてきていて、どこかもの悲しく沈鬱な空と窓ガラスを鳴かせる風の音は、来週に迫った定期試験へのプレッシャーを体現しているかのようだ。

 そんな、ちょっと張り詰めた空気が漂う中、場違いなほど暢気な息の音が、一つ。

「むにゃ……んふ…………あんまん…………」
「知世ちゃん、知世ちゃん!! 寝るのは良いけど、寝言はまずいってば!!」
「ほぇ……美味しいねぇ……」

 最後尾の窓際の机、教科書を立てた向こうには、すぅすぅと寝息を立てるこんもりした山ができている。
 柔らかなブロンドの髪の合間から覗く、もちもちした白い肌はほんのり赤く染まっていて、閉じられた眦はどこか幸せを醸し出していて。

 ……そして黒縁の眼鏡と共に机に置かれたノートには、彼女の夢が知れるような水たまりがわずかな書き込みをすっかり滲ませていた。

「……じゃあ次のページを山吹、読んで」
「ん……? ……もう一個ぉ……」
「ちょ、知世ちゃん起きて! ほらここ、65ページから読んでって!!」
「ほぇ……65円……? げきやすあんまん……んふふ…………」
「……だめだこりゃ。せんせー、今日の山吹はあんまん食ってるみたいっす!」
「あーあんまんか、そりゃ起きないな……起きたら昼休みに職員室へ来るよう伝えておいてくれ」
「はーい」

 しょうがないなぁ、という緩んだ空気が一瞬教室を満たしたのも束の間。
「ここ、テストに出すからな」という教師の一言で、彼らは再びひりつくような緊張感と共に、一斉に板書をノートに写し始めた。


 ◇◇◇


「うぅ……お腹空いたぁ……」
「あはは、お疲れ知世。流石にあれだけ堂々と寝てたら、職員室行きは仕方ないねー」
「知世ちゃん、限定ランチ確保しておいたよ! ほら、食べて元気出して」
「うわぁ、ありがとう陽菜ちゃん!! はぁ、今日も美味しそう……」

 ピークを過ぎた学食の一角では、ようやく説教から解放された少女を取り囲んで遅めのランチに花が咲いていた。
 その中心で幸せそうにスプーンを口に運ぶのは、この学園の2年生である山吹知世(やまぶき ちせ)だ。

 健康的な……というには少々ぷっくりした頬を膨らませ、限定ランチ(ご飯大盛り)をもぐもぐと頬張るその姿は、154センチという身長も相まってか、すっかりクラスの癒やし担当である。

「はぁ、ほんっとこの学園を選んで良かったよぉ、やっぱりご飯が美味しいのが一番だよねぇ!」
「はいはい、良かったねぇ知世ちゃん。ほら、私の分のデザートも食べな」
「いいの!? ……でも、後でやっぱあげるんじゃなかったって、後悔しない?」
「そこで後悔するのは、知世だけだと思うよ? それと……ほら、さっきの授業のノート貸したげるから、ちゃんと家で勉強しな。このままじゃ知世、一緒に進学できなくなっちゃう」
「う……」

 知世ちゃん、授業中は寝てばっかりだもんねと肩をすくめる友人からノートを渡され、知世は「えへ、いつもごめんねぇ」と屈託の無い笑顔を見せる。
 そんな彼女の笑顔に「しょうが無いなぁ」と頬を緩めた少女達は再び、たわいの無い話で学食の一角を賑やかした。

 ――その笑顔の下に何があるかだなんて、誰も気付くことが無いまま。


 ◇◇◇


 始まりの時は、今でも鮮明に思い出せる。

 不意に近づく唇、知らない温もり。割開かれ、中を蹂躙される気持ち悪さ……
 全てが空気と共に切り取られたかのような瞬間は、きっと死ぬまで心の奥深くを貫いたまま、何度だって新鮮で鮮明な悪夢を再生し続けるのだ。

(私がこんなことをしてるなんて、思いつきもしないんだろうな。……うん、それでいいの)

 目の前でおしゃべりに興じる彼女達は、何も知らない。
 ……否、知られてはいけない。

 自分は決して可愛くもなければ、スタイルも良くない。
 制服のお陰でお腹のお肉が誤魔化されているような残念な容姿の持ち主だが、この敵と見做されない外観は余計な諍いと勘ぐりを避けるにはもってこいだ。

 それに、どんな見た目であっても……中に注ぎ込まれたヘドロと、隅々まで穢された全てを覆い隠す位の用はなしてくれるらしい。

(まだ何年も一緒だしね。……内部進学できたら、だけど)

 友達から貰ったデザートを瞬く間に腹に納め、甘い余韻を口の中で楽しみながら知世は人知れずそっとため息をついた。

 ここの学食は3年前から学園の目玉として力を入れているだけあって、定食からデザートまでメニューも豊富だし、何より何を食べても外れが無いと、出入りの業者や保護者までが利用する人気っぷりを博している。
 当時「大学までエスカレーター式だし山吹さんには合ってる、これから頑張れば合格圏内に入るから」とこの学園を強く勧めてくれた塾の先生には、五体投地して感謝を伝えたいくらいだ。

 ただ残念ながら……その頑張りも台無しになりそうな危機に、現在の知世は立たされている。

 この一年、彼女の成績は下がる一方で、このままでは進学は難しいとさっきも教師から釘を刺されたばかりだ。
「取りあえず起きて授業は聞け、な? 必要なら補習もするから」とは言われるものの、正直お手上げだという空気が職員室には流れていて。
どうにもいたたまれず、ひたすらぺこぺこと頭を下げ、その場を切り抜けてきたのである。

 もちろん、流石の知世もこの状況に危機感は抱いていて、何とか成績を上げようと努力はしている。
 けれど勉強をしようと思っても家では集中出来ない日が続いて……夜は夜で、どうしても身体が強張ってなかなか寝付けないし、何となく眠りも浅い。

 結果、授業中のほぼ8割は夢の中で過ごし、最早食べるために登校していると周りからは生暖かい目で見守られる始末なのだ。

(……分かってる。でも……仕方ないよね。私には何も出来ないし)

 原因は、火を見るよりも明らかだ。
 ……そう、全ては「あの日」から始まっていて。
 そして終わりを決める権利などこちらには無い以上……お手上げなのは知世も同じである。

「どしたの知世? 何か難しい顔して」
「! え、ううん、そのっ……ちょっと物足りないかなぁって」
「もう、知世ちゃん相変わらず食いしんぼすぎー!」
「まあ知世は、そんなところが可愛いんだけどさ!」
「えへへ……」

(だめ、笑ってなきゃ)

 内心冷や汗をかきながら、知世は彼女達に話を合わせる。
 咄嗟の言い訳はご飯にしておけば、彼女達はあっさり納得してくれる。いやまあ、食べるのが好きなのは昔からだけど、こういう当たり障りの無い属性を持っていることに、知世はそっと感謝するのだった。

 ――何としても、この内側を見られてはいけないのだ。
 誰かに勘づかれ、話が広がれば――友達だけじゃ無い、私の家も壊れてしまうから。


 ◇◇◇


 年頃の少女がひとところに集まれば、話が色恋に流れていくのは最早必然であろう。
 今日も今日とて彼女達は、やれ誰それがくっついただ、別れただ、体育倉庫から不審な声が聞こえただと、心をときめかせる情報収集に忙しい。

 そんな話をぼんやりと聞いていれば、隣に座る友達から「知世はまだ、好きな人いないの?」と声をかけられた。

「うーん、特には……好きってよく分からないし。おやつは大好きだけど」
「おやつが恋人、流石は知世」
「うん、知世ちゃんはずっとそのまま純粋なままでいてね!」

 ……このやりとりはお決まりの構文だなと、知世は心の中でそっとため息をつく。

 期待を裏切らないように返して、同じ反応を得られれば、彼女達は深くは突っ込まずに笑ってくれる。
 少しだけ虚しさは感じるけど、これで空気が和むなら別に問題はない。

「知世はむしろ、鞍馬さんラブじゃないの?」
「もう、どうしていつもそうなるのよぉ! 確かに鞍馬さんのご飯は超絶美味しいけど、それとこれとは話は別!!」
「何言ってるのよ、胃袋を掴むのは恋愛の基本なんだから」
「知世ちゃん、男嫌いだけど鞍馬さんはそこまで怖がらないしね……もう餌付けされてるようなものじゃん」

 そんな中、知世を茶化す彼女が指さしたのは、学食のカウンターだった。
 そこでは深緑の三角巾とエプロンを身につけた、周りの空気までキラキラ光っていそうな美しい青年がおかずをよそっている。
 ことりとトレイにお椀を置く仕草からは、とてもこんなところで学食のおばちゃん……もといお兄さんをしていてはいけないような気品がダダ漏れだ。

 ……ほら、思わず見惚れている女子学生がいる。襟章を見るに、彼女は新入生だろう。
 あまり男性の美醜に興味の無い知世ですら、これがイケメンという生き物か! と直感するくらいには、彼は美麗な顔立ちをしているのだ。彼に思いを寄せる男女(そう、男女らしいのだ!)が後を絶たないのも、無理は無い。

 さっき知世に話を振った彼女も、カウンターを眺めながら「まあ……鞍馬さんはちょーっとライバルが多すぎるよね、知世には厳しいか」とさりげなく酷いことを言っている。
 いや、事実だとは思うけど、こうあからさまに言われると知世だって一応傷つくのだ。

(でも、本当に興味は……というか、どれだけ綺麗でも所詮『男』だしね…………)

「……っ!」

 どこか冷めた視線で青年の方をちらりと見れば、ふと目が合ったような気がして、知世は慌てて顔を背けた。

「あれ、知世どうしたの? なに、とうとう鞍馬さんに惚れた?」
「っ、そ、そんなわけ無いでしょっ!」
「あはは、むきになっちゃって。そんなところも可愛いよねぇ知世ちゃんは」
「むう……何だか馬鹿にされている気がする……」

 ……まだ、心臓が痛い。
 身体が強張って、知世は机の下で思わず拳を握りしめてしまう。

 同級生ならまだしも、年上の男性はどうにも苦手なのだ。
 出来ればこの世から消え失せて欲しい、それが無理なら視界には入らないで欲しいとすら思っている。
 それはあの壮麗な青年でも変わりは無く……美味しいご飯のお陰で、その存在がかろうじて許せているだけに過ぎない。

 だって……どれだけ美しかろうが、そのガワを一枚剥げば、中に詰まっているのは人体模型で見たようなグロテスクな器官……いや、それよりもっと汚らしい淀みに違いないから。

(……私だって、同じになっちゃってるけど、ね)

「あ、もうこんな時間だ。知世、物足りないはまた後にしな」
「むぅ、残念……」
「まぁ仕方ないよね、元はと言えば知世ちゃんが呼び出されたのが原因だし。ほら、行こう!」

 そうこうしていれば、予鈴のチャイムが学食の中に響き渡る。
 友達に促されるまま知世は席を立ち、いつもと変わらぬ様子で学食を後にした。

 ……そんな彼女の背中をじっと見つめる視線に気付いた者は、恐らくいない。

 少し鋭い視線で知世を見送る、麗しい青年。
 その形の良い唇から漏れた小さな呟きは、瞬く間に喧噪にかき消されたから。

「よりに寄って、あの子に渡すのか……お主、くれぐれもよからぬ事は企むでないぞ?」


 ◇◇◇


「ただいまー」
「お帰り、知世。パパもお帰りなさい。ご飯もうちょっと待っててね、今グラタンを温めてるから」
「やったぁ! ママのグラタン大好きなんだよねぇ」

 玄関のドアを開けた途端、ふわりと鼻をくすぐる甘いミルクと香ばしい焦げたチーズの香りに、知世は思わず頬を緩めた。
 きっと付け合わせはサラダとコンソメスープ、そして近所のパン屋さんで手に入れたバゲットだ。想像するだけでくぅとお腹が催促の声を出してしまう。

 今日の呼び出しも、車の中のこともすっかり食欲で洗い流された知世は、いつものように二階の自室で着替える。
 リビングに降りようとしたその時ふと目に入ったのは、ベッドサイドのテーブルに飾られた家族写真だ。

「……多分、変わらないように、見えてるんだよね」

 北欧系の血を引き外資系企業勤めの母と、市役所に勤める父、そして一人娘である知世――
 どこにでもある、ありふれた家族。
 無邪気さの残ったあどけない笑顔と、それを見守る優しい眼差しが、そこには映っている。

 そう、この一枚の紙で切り取られた時間は、確かに幸せだった。
 それに今だって暖かな家で、美味しいご飯を食べられて、大切に育てて貰っている自覚はある。
 電車通学は危険だからって毎日迎えに来るのはちょっと過保護じゃ無い? とは思わなくも無いけど、少なくとも愛された子供であることは疑いようも無くて。

「…………」

 なのに、その写真を見ていると、どうしようも無く胸が詰まって苦しくなる。

 だからといって写真立てをしまう勇気は無い。余計な異変は作ってはならない……
 だから知世はそっと目を逸らし、何事も無かったかのように階下へと足を運んだ。

「知世、学園から連絡が来てたわよ。また職員室に呼び出されたって」
「う……ごめんなさい……」
「成績も振るわないし、このままじゃ外部受験を考えた方がいいって先生は仰ってたわ」

 夕食に舌鼓を打つ知世に、母が少し真剣な顔で口火を切る。
 あちゃぁ、と気まずそうに項垂れる知世に向けられる母の感情は、叱責よりは心配の方が勝っていて……いつもながらそれが余計に、知世の胸を抉るのだ。

 知世の通う学園は、学力的には中の上くらいだ。
 進学校ほど厳しくは無く、とはいえそれぞれの段階で外部から入ってくる学生はいるため、決して遊んで過ごせるほど楽でもない。
 元々はクラスで真ん中くらいの成績を取っていたが、ここ1年は何とか留年を免れるレベルを維持している状態だから、母だって気が気では無いだろう。

「次の試験で成績が振るわなければ、本格的に進学先を探すことを勧められたの。……知世は、どうしたい?」
「…………」
「なに、知世は頑張り屋さんだからきっとなんとかなるさ。なぁ、知世?」
「……うん、がんばる…………」
「そう、分かったわ。塾の先生にも相談してみなさいね」

 それきり話は終わり、再び温かな団らんがダイニングに戻ってくる。
 友達の話を聞いた限りだと、知世の両親はかなり物わかりの良い部類らしい。小さい頃から理不尽に叱られた記憶は無いから……そう、本当に自分は恵まれているのだろう。

 ――だからちょっとくらい、マイナスがあるのは、仕方が無いこと。

「ごちそうさま、勉強してくる」
「温かくするのよ。お風呂は入る前に追い炊きしてね」
「はーい」

 ああでも、学園から連絡が来たのはちょうど良かったかも知れない。
 成績を上げるために勉強をしなければならないから……そう言えば、あの時間も少しは減るかも知れないとちょっとした打算を込めて、言葉にして。

 ……そんな狡い自分を気遣う、何も知らない母の優しさが、チクリと胸にささった。


 ◇◇◇


「……良かった。今日は、綺麗なままで寝られる……眠くないけど……」

 どうやら知世の目論見は、上手くいったらしい。

 いつもの時間を過ぎても鳴らないノックにようやく安堵を覚え、どっと疲れが襲いかかるのを感じながら、知世はさっと風呂を済ませて部屋に戻ってくる。
 ――脱衣場で待っていたこともあるのだ。流石に母に見つかる危険が高いからそうそう無いとは思うけど、用心に越したことは無いから。

 本当はもう少し勉強をした方がいいのは分かっているけど、貴重な時間を無駄にしたくないと言わんばかりに、知世はさっさと部屋の明かりを消してベッドに潜り込んだ。
 その手に握りしめられているのはスマホとワイヤレスのイヤホン。どうせ横になったってすぐに寝られるわけでも無いし、それならばと寝落ちするまで動画を漁るのがいつもの日課だ。

「……あ、この人、新作動画がきてる」

 知世は毒々しい見た目の動画サイトが表示するおすすめには目もくれず、とあるリンクをクリックする。
 暫くすればぱっと映像が表示され、途端大音量が耳に流し込まれた。

『ひっ!! ああっ! ……はぁっ、はぁっ……いやぁ……っ! ごめんなさい……ごめんなさいっ……!!』
『ふぅん、何? もっと叩かれたいんだ? だよなぁ、痛いって行ってる割にはここはぐっしょりじゃないか』
『そんなっ、もう無理ですっ、痛いのいやぁ……んあぁっ!』

 パシン、パシンと響くのは、肌を打つ乾いた音。
 派手な音が弾ける度、尻を突き出した状態で天井から伸びる鎖に戒められた女性の身体はびくりと震え、悶え、艶めかしく汗ばんだ肢体をしならせる。

 パシン!!

『あああぁっ!!』

 男の振るうパドルが、尻の間、股間のきわどいところを打ち据えれば、新たな悲鳴が溢れ、ぎゅっとつぶった眦から溢れた涙が、紅潮した頬を伝う。
 必死に耐えるその姿は痛々しい……けれど、喉を震わせる声はどんどん甘さを増して、知世の鼓膜から熱を送り込むのだ。

「すご……気持ちよさそう……」

 はぁ、と思わず漏れる知世の吐息は、画面の向こうで泣き叫ぶ彼女と同じ色を孕んでいた。


 ◇◇◇


 ――この「お楽しみ」が始まったのはいつだったか、知世にはもう思い出せない。
 ただ少なくとも「あの日」よりは後だったように記憶している。

 友達に勧められたちょっとエッチな漫画のサイトを漁っていたときに、何気なくタップした広告。
 その先に広がっていたのは、小耳には挟んだ事があるものの自分には無関係だと思い込んでいた、とんでもない変態の世界だった。

 枷を付けられ、鎖に繋がれ、または黒くてテカテカした物でいろんなところを、時には全てを覆われた人が、とても気持ちが良いとは思えない仕打ちで脳が蕩けたような悲鳴を上げている。
 それどころかもっとしてくれと這いつくばって強請り、靴を舐めて罵倒に打ち震える姿は、無理矢理快楽を教え込まれ日々汚れていくばかりの知世には正直理解し難く、なのに動画を探す指が止められなくて……
 結局その日は、朝まで夢中で様々なプレイを視聴したものだった。

 普通は気持ちよくない行為で、気持ちよくなれる――

 自分の常識をひっくり返す世界を知った彼女が、若者らしい好奇心も手伝いすっかりのめり込んでしまったのは言うまでも無い。
 今ではお気に入りの動画も随分増え、こうして夜な夜ないけない動画を眺めては、胸の高鳴りを覚えている始末である。

「うわ、竹の棒かな……? すごい、あんなくっきり痕が……痛いんだろうなぁ…………」

 その中でも殊更知世の目を惹いたのは、様々な道具で尻を打つ……いわゆるスパンキングやウィッピングの動画だ。
 まるで子供にお仕置きをするように――にしては少々過激な道具が並んでいるが――容赦なく打ち据えられる尻の赤みと、純粋な痛みに叫ぶ甘い嬌声は、間違いなく知世に新たな扉を開かせた。

 ――これなら、汚れないキモチイイが得られそうだな、と。

「んっ……はぁっ…………」

 幾度目かの鋭い打撃音に、知世の口から思わず悩ましい声が漏れた。

 過激な、好みど真ん中の動画を見つめていれば、息はどうしたって荒くなる。
 胎がきゅぅと切なさを訴え、股間の前の方がじんじん、むずむずして……思いっきり擦りたい、何かを咥えたいと訴えてくる。

(……っ、やだ……!)

 その欲望にはっと気付いた知世は、心の中で拒絶を叫ぶ。
 無意識に伸びかけた指は……決してそこに触れぬよう、ぐっと布団の中で握り込まれた。

 ……初めての快楽と絶頂を教えられて暫くは、暇さえあれば指を伸ばし、自ら慰めることが止められなかった。
 だが、自分でしているのだから大丈夫、これは悪いことじゃないと、湧き上がる罪悪感を宥めながら毎日のように繰り返された行為は、結局その後に何とも形容のし難い淀みを心に沸かせるだけ……
 
 その事実に気付いて以来、知世はどれだけ渇望を覚えてもその中心を刺激するものかと、まさに気合いだけで我慢を繰り返している。

 ――だって、植え付けられた快楽を追ってしまったら、あの時間を肯定してしまう気がするから。

「……も、だめ…………」

 そうしてただひたすら甘い疼きに耐え続けていれば、いつか眠気に襲われ強制的に欲を冷まされる。
 ただ、皮肉なことに部屋の扉がノックされない日ほど、耐えがたい欲情は知世を支配するもので。

「…………ちょっとだけ……今日は……」

 だから熱に浮かされた身体を持て余し、知世は手を伸ばす。
 ……ただし、その先は柔らかな下着の奥では無い。

 カララ……

 ベッドサイドに置かれたテーブルの引き出し。
 知世はその奥深くに手を突っ込み、暗闇の中でお目当ての物の感触を確かめ、すっと引き出した。

「はぁ…………っ」

 握ったものの感触に、ごくりと喉が鳴る。
 心臓がばくばくと音を立てていて、けれどこの痛いほどの鼓動は嫌いじゃない。

 少しの緊張と恍惚を浮かべた視線の先に握られていたのは、使い込まれた木じゃくしだった。
 何の変哲も無い、その辺のホームセンターで売っているような代物である。
 少し角が取れた感じが、年季を物語っているようだ。

 知世は随分前に台所からちょっと拝借した調理器具をぽふんとベッドの上に置くと、待ちきれないとばかりにパジャマのズボンを脱ぎ始める。
 ……流石に下着まで取り去るほどの勇気は無いけれど、冬物の厚手の生地ではこのお楽しみは存分に堪能出来ない。

「はぁっ、はぁっ……」

 ほんのり色づいた頬と、潤んだ瞳に宿るのは、明らかな期待。

 早く、と急く心の声を宥めながら、知世は掛け布団を剥ぎ、左側を下にして身体を横たえる。脇の下には枕とクッションを入れて上半身を起こせば、手も後ろに回しやすい。
 本当は四つん這いとか土下座のように、もっと惨めな体勢が好みだけど、優先すべきは刺激の強さだと熟考した結果だ。

「ん……」

 少し震える手で握られた木じゃくしを、ひたひたと尻たぶに当てれば、下着越しに感じる木の感触に、またずくりと身体が震えた。
 そのまま手を振り上げて、先ほどの冷たさを狙い……できるだけ勢いを付けて、ぶんと振り下ろす。

 ぺちん

「……っ、はぁっ……!」

 少し籠もった打撃音が、後ろから耳に届く。
 遅れて肌に響くのは、弾かれたような小さな痛み。

 動画の様な、まるで尻を楽器のように打ち鳴らす音にはほど遠く。
 けれど、自ら与えた痛みの音は、確実に知世の心を昂ぶらせていく――

 ぺちん……ぺちん、ぺちん……

「んっ……ふっ…………んぅ……っ」

 動画の音に合わせて、知世はただひたすら己を打ち据える。

 スナップをきかせたところで、不自由な体勢では大した威力にはならない。
 それでもひとところに集中すれば、徐々に痛みは奥に染みこんでいって、じんとした余韻は深く……長くなる。

「んくっ……はっ…………も、っと……」

 気がつけば、知世の頭の中は知らない誰かに丸出しのお尻を打たれている妄想で、すっかり埋め尽くされていた。
 耳から流し込まれる音と、ぐるぐると全身に渦巻き溜まり続ける熱……そして痛みは、現実と想像の垣根をちょっとだけ取り払ってくれる。

「もっと……もっと、下さい……っ……」

 とろんと蕩けた焦点の合わない瞳は、脳裏に描かれた架空のご主人様を映している。
 この時間はいつもそうだ。木じゃくしという秘密道具を登場させるかどうかはともかく、動画を見ているうちに打たれる人と一体になって、理想の、けれど姿のはっきりしない妄想に更なる痛みを強請り続ける。

 そうすれば画面の向こうの彼女のように……何かに満足出来るような気がして。

 快楽は未だ分からないけれど、こうやって与える痛みは悪くないなと、倒錯した行為に酔いながら知世はふと思う。
 じんじんと神経が傷を訴えるうちは、この胸のドロドロしたものも忘れられるからだろうか。

「はぁっ、はぁっ……いっぱい叩いちゃった……痛いなぁ……ふふっ」

 ――やがて、知世の手が止まる。

 肩で息をしながら、のろのろとした動作でパジャマを身につけ、そっと引き出しの奥に木じゃくしを戻してごろんと寝転ぶ。
 そうして知世は、ジンジンとした熱い刺激が未だ止まない尻にそっと指を這わせた。

 鏡が無いからどうなっているかは分からないが、周囲に比べて明らかに熱を持っている。
 今日はどうやら、思った以上にこの倒錯した慰みにのめり込んでいたらしい。

(痕が残っちゃうかなぁ……明日体育があるけどお尻ならパンツで隠れるし、バレないよね)

 延々と続いた一人遊びの時間は、実際にはほんの十数分にすぎない出来事だけれど、心地よい疲労と仮初めの満足感を知世に与えてくれる。
 興奮に火照った身体も、掛け布団を掛けずに暫く待てばすぅと冷えて……それとともにようやく待ち望んだ眠気が降りてくるから、実に都合が良い。

(……いつか、気持ちよくなれる日がくるかな)

 揺蕩う意識の中で、知世は布団を被りつつふと独りごちる。

 確かにお尻を打つ行為はえもいわれぬ安心感をもたらすけれど、それは決して性的な快楽では無い。
 痛みは痛みに過ぎず、ただその痛さがどこか、現実を忘れさせる一服の清涼剤となっているだけだ。

(道具だってこれしかないし、何となく見よう見まねだし……一人じゃ、こんなものなのかもなぁ……)

 ああ。
 多少の誇張はあるにせよ、動画の中の彼女のような恍惚を……穢れではない気持ちよさを知りたい。
 そうすればもうちょっとだけ、ここで生きることが楽になるはず――

(…………だれか、私のお尻をぺんぺんしてくれないかな)

 どう考えても叶えようがない望みなのは、自分が一番よく分かっている。
 けれど、こんな自分でも夢を見るくらいは許されたっていいんじゃないかと、知世は思うのだ。

(夢で良いから……ご主人様に…………)

 ふつり、と思考が霧散する。
 少女の歪んだ、けれどささやかな願いは、音となることも無く夜の闇の中に溶けていった。


 ◇◇◇


「こんにちはー、2年の山吹です。あの、迎えが来るまで待たせて下さい」
「はいはいどうぞー、こっちに座ると暖房効いててあったかいわよ」
「あ、ありがとうございます」

 数日後の放課後、知世はがらんとした学食を訪れていた。

 普段は教室で父の迎えを待つのだが、今日は月に数日ある迎えが遅くなる日だ。
 学生が校舎にいられるのは17時までと決まっているため、そんな日は校舎の片隅にある学食で待たせて貰うのが通例となっている。

(今日は18時過ぎになるって言ってたから……少しでも勉強しておかないと)

 試験準備期間に入っているから、いつもなら部活終わりの学生達で賑わっている学食も今は静かなものだ。
 ちょうど知世と入れ替わりで迎えを待っていた学生も、皆帰ってしまったらしい。
 学食のスタッフに手招きされて、知世は受け取りカウンター近くの椅子に腰を下ろし、早速参考書をテーブルに広げた。

「じゃ、鞍馬くん後はお願いね。山吹さんが最後だから、迎えが来たら閉めちゃって良いから」
「はい、お疲れ様です」

 どうやら今日の居残りは、あの輝く美貌のお兄さんのようだ。

 こうやって遅くに学食を利用する学生の対応をするのは、もっぱら若い彼の仕事になっているらしい。
 お兄さんがいるときは絶品のまかないや試作品のご相伴にあずかれるから、多分学生からのリクエストも出ていると見た。

 東南アジアにルーツを持つ彼は、日本人の友人とルームシェアをしつつ、学食で働きながら大学への進学費用を貯めていると聞いた。
 その会話は流暢ではあるものの随分格式張っていて、どこかの王様か貴族のように聞こえてしまう。
 ……きっと彼も、漫画やアニメで日本語を学んだクチなのだろう。

「チセ」

 ぱたん、とスタッフが学食を後にした音がする。
 すると鞍馬は、カウンターの向こうからちょっと息の混じった発音で彼女に声をかけてきた。

「今日は勉強か。精が出るな」
「あ、はい。私成績あんまり良くないから、頑張って勉強しないとちょっとまずくて……あはは……」
「ほう、それは大変だな。……ところで今日の試作品だが」
「もちろん頂きます!!」

 これだけ距離を取っていても、身体はビクッと固まってしまう。
 そんな彼女の内心を知ってか知らずか……もしくは単に食いしん坊がバレているせいか、彼はいつからか知世が一人で居残りになった日は、試作品と称して様々な甘味を作ってくれるようになった。

 この効果は絶大で、知世は毎回試作品が出てきた途端に、友達と変わらぬ感じで話せるくらいには警戒を解いてしまう。
 我ながらチョロすぎるとは思うけれど、こればかりは仕方ない。鞍馬さんが料理上手すぎるのがいけない。

「少し冷えるからな、氷はいれてないぞ」
「わぁい、ありがとうございます! タピオカミルクティー……あれ、コーヒーゼリー入り?」
「ふふ、飲んでみよ」

 大きめのグラスで提供されたのは、ミルクティーだった。
 普段街中で買う物よりは随分香り高くて、きっと良い茶葉を使っているのだろう。いつものように、試作用として彼が持ち込んだ私物に違いない。

 グラスの底に沈んでいるのは黒いビー玉のようなタピオカと……同じような色をしたゼリーをざっくり崩したような物体だ。
 紅茶とコーヒーを合わせるってのも斬新だよなぁと思いつつ、チセは渡された太いストローでちゅる、とミルクティーを吸う。

「!!」

 だが次の瞬間、口の中にぷるんと滑り込んできた味は想像していた物とは全く違って、チセは思わず目を見開いた。

「……これ、何のゼリーなんですか?」
「仙草を煮出したものだ。ああ、この国のものではなくてだな……つまり草だ」
「草」

 雑な説明に、つい道ばたの草が思い浮かんで怪訝な表情を浮かべてしまう。
 知世の様子に、どうやら鞍馬も言葉足らずなことに気がついたらしい。
「もっと良い言い方が無いものか……」とうんうん唸っている。

「ちょっとほろ苦いけど、ミルクティーが甘いからちょうど良いアクセントかも。でも流石に草ってのは……あ、ハーブかな?」
「ハーブ、なるほどその方が適切だな。今度からはそう説明しよう」

 いつも助かる、と輝くような笑顔で礼を口にし、鞍馬はメモを取る。
 エプロンにしのばせているメモ帳には、仕事の手順や覚えた言葉、試作品のレシピなどがびっしり書かれていて、彼の勤勉さを物語っているようだ。

『知世は鞍馬さんラブなんじゃないの?』
『知世ちゃん、男嫌いだけど鞍馬さんはあんまり怖がらないしね』

 この勤勉さは見習わないとなとノートに目を落とした途端、ふと脳裏を掠めた友人の言葉に(それはない)と知世は全力でかぶりを振る。
 確かに彼の作るご飯は美味しいが、それだけだ。あの人と同じ物がついている危険物に興味は無い。

 ――それに怖さがましなのは、美味しい料理のせいだけでは無いから。

 しゃらん……

「……鞍馬さん、それ、耳重くないんですか?」
「ん、ピアスか? ……いや、気にしたことも無かったな。私の国では、ありふれた大きさであったし」
「そうなんだ。あーでも東南アジアやインドって、そんなイメージがありますね」

 太いストローでミルクティーを飲む知世を微笑ましそうに眺めながら、鞍馬は斜め前に座る。
 そうしてポケットから取りだしたピアスを着けるのが、いつものルーティンだ。

 ピアスと言っても、普段お店で見慣れた可愛らしい物では無い。
 いくつもの青と白のガラスが連なり、ゴールドの枠で縁取られたピアスは、鞍馬が動く度にしゃらんと涼やかな音を立てていて……琥珀色の瞳と金色のメッシュ混じりの黒髪に良く映えると思う。

(こんなにごてごてして派手なピアスなのに……イメージにぴったり合っちゃうの、流石イケメンだなぁ……あ、でも従者さんには全然似合ってないけど!!)

 普段はその振る舞いから「従者」と学生に名付けられてしまった彼の友人が仕事終わりに迎えに来た時に、通用口を出てからこっそり身に付けるピアス。
 だが知世と二人きりの時は、いつも早々に耳を飾ることにしているようだ。

 そして、そんな日は学食に現れた「従者さん」の耳にも同じものが揺らめいている――それだけで、彼らがただの友人で無いことは何となく察せられる。

(でも、みんなの前では堂々と着けないんだよね……あれかな、ファンも多いし夢を壊さないようにしてるのかな?)

「……どうした、チセ」
「え、あっ、なんでもないです。その、鞍馬さんはいつも真面目でえらいなって」
「なに、まだ知らぬ事だらけだからな。新しいことを学ぶというのは、実に楽しいものだ」
「うわぁ、勉強が楽しいって凄すぎ……はぁ、でも私も見習わないと」

 青年の穏やかな笑顔と美味しいミルクティーに、ふと知世の心が緩む。
 こんな和やかな気持ちなら、少しは勉強も出来るかもしれない……ふんわりした温かさを心に抱きつつ、参考書を捲った知世であったが

「私はお主のことも知りたいと思うぞ」
「へっ」
「……チセ、お主何か、大きな悩みを抱えているのでは無いか?」
「!!」

 唐突に投げかけられた鞍馬の言葉に、安心を得たはずの知世の心は、一気にぶ厚い氷で覆われてしまった。


 ◇◇◇


「え、っと……悩み、ですか?」

 努めて明るく、何でも無いように振る舞っているつもりだけど、少しだけ語尾が震えてしまった気がする。
 頭の中では、さっきから警報が鳴りっぱなしだ。

(まずいまずいまずい!! え、なんで!? 私ちゃんと笑ってたのに……!)

 そんな知世の焦りも知らず、鞍馬はゆったりとした手つきでミルクティーを味わいながら「いや、お主の反応がな」と切り出した。

「チセはご飯が大好きだろう? 特に甘い物には目がなくて、異国の菓子でも躊躇無く手を出すくらいには」
「……はい。鞍馬さんの作るお菓子、見た目はともかく全部美味しいですし」
「皆が青虫みたいだと大騒ぎになったカキ氷すら迷いなく手を出したのは、お主だけであったな、そう言えば……何にしても食への飽くなき好奇心は実に好ましいし、料理を頬張るときの幸せそうな笑顔は、作る側からすれば極上の褒美とも言えよう」
「は、はぁ……ありがとうござい、ます……?」
「案ずるでない、褒めておるのだ。学食のスタッフの間でも、お主の食べっぷりは有名だからな」
「待ってそれは初耳なんですけど!」

 ……おかしい、なるべく穏便に、そして目立たないように生きてきたはずなのに。
 まさか、食堂における知名度がそれほど高かったとは思いもよらず(ちょっと食いしん坊も控えた方がいいのかな)と知世は焦りでぐるぐる回る思考により、新たな作戦を捻り出す。

「それがここ数ヶ月、どうにも陰りが見えてだな……前ほど食べっぷりが良くないのだ」
「…………い、いつもと同じだけ食べてるつもりなんですけど……」
「我々は厨房からお主を見ているからな、些細なお替わりの変化や、食を満喫するときの笑顔の違和感にも気付きやすいのだろう」
「ひょえ……思った以上に見られてた……」

 残念ながら、単純なアイデアは秒で瞬殺された。
 むしろ決行していたら、余計に疑念が深まるばかりだった。有能な学食スタッフ恐るべし。

 背中に嫌な汗が伝うのを感じながらも、知世は眼鏡の奥に必死で笑顔を作る。
 けれど、全てを見通すような透き通った琥珀色の瞳は、きっとそんな焦りすら見抜いてしまうに違いない。

(だめ、バレるのだけは絶対だめ……!)

「……チセ?」
「はっ……あ、ええとその、悩みというか……ほら、成績も下がっちゃってるじゃ無いですか」
「そう言えばそうだったな。しかしお主、元々そこまで成績は悪くなかったであろう?」
「うっ、実は……夜眠れなくて……登校しても起きてるのはランチと放課後だけで……」
「そうか。……眠れぬのは辛いな。何か心当たりはあるのか?」
「私にもよく分からないんです。あれかな、いっぱい食べてるのに運動しないからかな……」

 何も無い、なんて誤魔化すのはどう考えても無理だ――
 一瞬にしてそう判断した知世は、全てを総動員してそれらしい言い訳を並べ立てる。
 もちろん、本当に困っているような仕草も忘れてはならない。俯き気味に、ちょっと小さな声で、少し言葉の間を置いて……

 生活の中で培った、本音を悟らせないための演技は、どうやら鞍馬にも通じたようだ。
 知世が何気なく混ぜた事実に、目の前の青年はその輝きは失わないまま、どこか気の毒そうな表情を浮かべ「それでここでも勉強しているのか。辛いであろうに……お主こそ真面目ではないか」と慰めてくれた。

「ふむ……不眠はたちどころに心も体も蝕むからな……お主はそれでも食べられている分ましなのだろうが、それでは確かに勉強どころでは無かろう。保健室で相談したことは?」
「一度だけ……でも、紹介状を書いたから病院に行ってね、としか言われませんでした」
「なるほどな……」

(良かった……なんとか乗り切れた……! はぁ、びっくりしたぁ)

 特に「眠れない」という言葉に、鞍馬は何か思うところがあったようだ。
 どこか思い詰めたような、寂しそうな表情を見るに、もしかしたら彼も不眠に悩んだ経験がるのかもしれない。

 何にしても、これ以上内情に突っ込まれることは避けられたと、知世はほっと胸をなで下ろした。

 時計を見ればそろそろ18時、父の迎えも来る頃だろう。
 そうすれば笑って席を立って、この話はおしまい。学生の他愛ない悩み相談なんて、明日には忘れられているはず。

(……でも、もうちょっとお替わりはしたほうがいいよね)

 今後の作戦に思いを巡らせている知世の前で、鞍馬もまた何か思案しているようだ。
「あ、でも大丈夫ですから」と笑顔を作った彼女に「そうだな」と頷いた鞍馬は、しかしその返答とは繋がらない唐突な提案を知世に投げたのだった。

「チセよ、明日の放課後、少し学食に寄ってくれぬか? 渡したいものがあるのだ」
「えっ……あの、何を」
「ああいや、そうお主を困らせる物では無い。だが、眠れないというなら少しは役に立つかも知れぬ」
「はあ……でも……あ、すみません迎えが来たので」
「そうか、ではまた明日な」

 軽快なメッセの通知音に、どこか救われたような表情を浮かべた知世は、そのまま温かな学食を後にした。
 そんな彼女を見送る鞍馬の顔から、すっと笑顔が消える。

「……危ういな、確かに必要ではあるが」

 小さな背中は、彼女が思っているよりもずっとその境遇を語っていることに、多分若い彼女は気付けない。
 片付けをする学食のアイドルたる青年は、いつになく真剣な面持ちで洗い上がったグラスを見つめながら、ぽつりと独りごちた。

「渡すまでは、勝手に付いていくでないぞ。この世界には本来存在しないまじないなのだからな、お主は」


 ◇◇◇


 他愛ない誘いなど、忘れていたことにしてしまえば良い。
 それが一番平和だと思っている癖に、どうしても昨日の彼が浮かべた思案顔が気になって……結局知世は学食に足を運ぶ。

(……気まぐれかも知れないし、騙そうとしてるかもしれないのに……バカだよね、私も)

 家でのことはともかく、不眠についてはこれまでにも大人に相談を持ちかけたことはあった。
 というより、ある日を境に学舎を寝所とするようになった彼女を心配した教師によって、強制的に保健室に連れて行かれたというのが正しいか。

 けれど、簡単なカウンセリングの後は「この年頃にはままあること」と心療内科に回され、そこでも得られたのは当たり障りの無い会話と、睡眠導入剤だけ。
 薬を飲んだところで睡眠の質は上がることも無いから、いつの間にか通院はやめてしまって……現在に至る。

(知られたくないのに、気付いて貰えないのは悲しいって……もう、自分でも訳がわからないや……)

 だから、ちょっとだけ。
 そう、あの美麗な相貌に浮かんだ随分真剣な眼差しに、自分はほんの少しだけ期待をしているのかも知れない。

「おお、来たか。すまないな、試験前で忙しいときに」
「大丈夫です。あ、でもすぐパパが迎えに来るから」
「うむ、手間は取らせぬ」

 がらんとした学食の扉を開ければ、テーブルでお茶を飲んでいた鞍馬が立ち上がる。
 その手には大きな紙袋が握られていた。

「これは……?」
「ブランケットだ。厚手では無いから年中使える。この季節なら、上から掛け布団を被った方がよいだろうが」
「はぁ……」

 紙袋の中を覗けば、そこには藍色の掛け物が綺麗に折りたたまれていた。
 その表面は滑らかで、少し光沢のある素材らしい。
「触れてみよ」と促されておずおず手を伸ばせば、するりと肌を撫でる感覚は生まれて初めての風合いで、知世は思わず手を引っ込めた。

「え、なんか、めちゃくちゃ肌触りが良くないですか!?」
「心地よいであろう? これはな、どんな頑固な不眠でも三つ数える内に夢の中に誘われるという魔法の寝具なのだ」
「ま、魔法……?」

 突拍子もない言葉を耳にし、眉を顰める知世に、鞍馬は自らの経験を語る。

 数年前、心を痛める出来事で何をしても眠れなくなった彼は、とある露天商からこのブランケットを勧められたらしい。
「どんな願いも夢で叶えてくれる、ついでに不眠症が治る」という、随分胡散臭い売り文句には半信半疑だったが、とにかく当時の鞍馬はあまりの眠れなさに疲弊していて。

「藁をも縋る思いで購入したのだが……その日の夜から、眠れず朝を迎えたことは一度も無い」
「えええ、それちょっと効果高すぎません!? 逆に怪しすぎる……しかも夢で願いが叶うとか、今時中学生でも騙されませんよ?」
「そう思うだろう? それが……本当に叶ってしまったのだ。まあ少々紆余曲折はあったがな」
「信じられない……」

 あまりにも胡散臭い効能に、流石の知世も警戒心剥き出しである。
 これは新手の宗教勧誘か、それともやはりこの人も「男」なのか……そんな思いに駆られつつ、知世は困ったような笑顔を作って「鞍馬さんの気持ちは嬉しいですけど」と頭を下げた。

「ごめんなさい。これ、凄く高そうですし……流石に受け取れないです。親に知られたら、鞍馬さんが問題になっちゃう」
「……ふむ、それはそうかもしれんな。だが…………残念ながら渡さぬわけにはいかぬのだ」
「え?」
「この織物がお主を選んだ以上、ここでお主が受け取らずとも、勝手について行くであろうからな」
「…………はへ?」

(ついて、行く……? はあぁっ!?)

 今度こそ知世は、胡乱な眼差しを鞍馬に向ける。
 この麗しいお兄さんは、実は頭の中が随分残念な世界に繋がっているようだ。
 宗教で無いなら、流行のスピリチュアルとやらにどっぷり浸かっているのかもしれない。

(ああこれは、逃げないとまずいかな)

 織物への願いのかけ方を蕩々と説明する鞍馬を怒らせないよう、曖昧な笑顔を向けながら、知世はタイミングを見計らう。
 そして、いつもの通知音がスマホから鳴った瞬間

「あ、パパだ! 鞍馬さんすいませんもう私行かなきゃ」
「ん? ああ……って、待つのだチセ、これを」
「お気持ちだけ頂いておきますごめんなさいさようならあぁぁ!!」

 全力の早口でお断りした後、脱兎のごとく外へと駆け出した。

「おかえり、知世……って、どうしたんだい? そんなに息を切らして」
「はぁっ、はぁっ、だ、大丈夫……パパ、早くお家に帰ろう?」
「ああ、けど今日は寄り道をしなくていいのかい? コンビニの新作スイーツが食べたいって、昨日言っていただろう?」
「う、うん、それは明日でいいよ。何か今日は早く帰りたいなって」

 ぜいぜいと息を切らしながら、知世は素早く迎えの車に乗り込む。
 エンジンの低い音が背中に響いて学園が見えなくなって、ようやく安堵を覚えた彼女はくったりとシートにもたれかかった。

(怒っちゃったかな、鞍馬さん……でも、大人だし……きっと友達とランチを食べに行くぶんには大丈夫だよね……?)

 例えお兄さんが怪しい世界の人でも、こんなことであの絶品料理を失うのは実に惜しい。
 今日のことは胸の奥にしまって、明日からはいつも通り。それで万事丸く収まる――

 知世はともかくその場を乗り切った事に半ば放心したまま、横から伸びてくる手にピクリと身体を震わせるのだった。


 ◇◇◇


 一方。

「ふむ……まじないの無い世界のものは、こういう反応をするのだな」

 あっさり取り残された鞍馬は、特段気分を害することも無くテーブルを拭いて回る。
 知世がいなくなるまでは閑散としていた学食には、彼女が逃げ出した途端人が戻ってきて「これもお主の力か?」と手を動かしながら彼はカウンター近くのテーブルを見つめた。

 その上に置かれているのは、先ほどの紙袋だ。

「……なるほど、確かに渡そうとするまでは待っていたと。まったく、お主はせっかちが過ぎやしないか? 仕事熱心と言えば確かにそうだが……」

 掃除を終えた鞍馬は、ポケットから取りだしたピアスを耳に付けて帰り支度を進める。
 そうして紙袋を手にし……ふと中を覗いて思わずため息を漏らす。
 苦言の一つも呈したいところだが、告げるべき相手はとうの昔に去っていたようだ。

「まじないの織物よ」

 小さな、けれども凛とした声が、鞍馬の唇から紡がれる。
 その視線は、先ほど食いしん坊な彼女が出て行った扉に向けられていた。

 祈るように呟かれた言葉は、少し外の寒さが忍び込んできた空気に、そっと溶けていく。

「一応説明はしたが……どうか私のような過ちを犯さぬよう、あの娘を正しく導いてやってくれ」

 しゃらん、と涼やかな音を立て、鞍馬はそのまま通用口から学園を後にする。
 右手に持った紙袋の中身は……きれいさっぱり消え失せていた。


 ◇◇◇


 着替えに上がったときには、特に何も無かった、筈だ。
 少なくともベッドの上に置かれていたのは、鞄と脱ぎ捨てたブラウスだけだったはずなのに。

「……えっ、ど……どういう事……!?」

 夕食を終え、自室のドアを開けた知世は思わず大声を上げかけ……慌てて自分の口を塞ぐ。
 彼女の見開かれた視線の先――己のベッドの上には、どう見てもこの部屋にあるはずもない藍色のブランケットが綺麗に折りたたまれ、ででん! と鎮座していた。

「っ……これ、鞍馬さんが持ってきていた掛け物……だよね……?」

 恐る恐る近づいて触れれば、手の甲に感じる滑らかさは間違いなく、数時間前に学食で経験したものだ。
 すぽっと隙間に腕を差し込むだけで、ふっと身体の力が抜けて心がほかほかしてくるような心地よさに、ほぅ、と柔らかな吐息が漏れる。

(気持ちいい……あれ、何か忘れてる気が……)

 ――どうやら自分は、今日の予期せぬ出来事に案外疲弊していたらしい。
 ぼんやりと織物が与える至福の刺激に揺蕩っていた知世だったが、やがて頭の片隅に生じた引っかかりに気づき……慌ててずぼっと両手を引き抜いた。

「あーもう、こんなことしてないで勉強しなきゃ……って、嘘っもう22時!?」

 スマホの画面に映し出された時間に、知世は愕然とする。
 だって、彼女が夕食を食べ終えたのは19時。すぐに部屋に上がって、このブランケットを見つけて……まさか、三時間も腕を突っ込んだままぼんやりしていただなんて!

 大体、何故このブランケットは知世の部屋に置かれているのだろうか。
 確かにあの時、自分は紙袋を受け取らずに逃げ帰ったはずなのに……そう頭を抱えて思案する知世の頭に、ちらりと過ったのは鞍馬の穏やかな声。

『この織物がお主を選んだ以上、ここでお主が受け取らずとも、勝手に付いていくであろうからな』

「……まさか、本当に…………?」

 ぞわりとしたものが、知世の背中を駆け抜ける。
 自分はとんでもない事に巻き込まれてしまったのかも知れないと、冷や汗をかきつつぎゅっと目を瞑って……十数えてそうっと瞼を開けても、ここにあってはならない藍色は相変わらず我が物顔でベッドを占拠していて。

「現実、だよね……うわぁ……」

 思わず漏れた声は、あり得ない事態への恐怖と、ほんの少しの好奇心を滲ませていた。

 鞍馬の胡散臭い説明を信じたくは無いが、残念ながら事実は厳然としてそこに佇んでいる。
 しかも無言で――いや、ブランケットが話し出したら自分の頭を疑った方がいいけど――鎮座する織物は、まるで知世を誘っているかのように感じられるのは、何故だろうか……

「…………さ、触るのはまずいよね……気持ちよすぎて時間が溶けちゃうし……」

 このままでは気になって勉強どころで無い。
 だが、また触れてしまえば……あの心地よさにずっと包み込まれていたいと願ってしまいそうで。

 意を決した知世は、クローゼットから手袋を取り出す。
 そうして素肌に触れよう、手袋を着けた手でそっと織物を畳まれたまま持ち上げ、クローゼットの中にしまい込んだ。

 ぱたん
 
 扉の閉まる小さな音は、緊張を奏で続ける心臓にとん、と響いて、知世をへなへなとその場にへたり込ませる。

「取りあえず、これでよし、と……明日鞍馬さんに返さなきゃ、これじゃますます勉強できなくなっちゃうよぉ! ……でも、この状態で返せるのかな……?」

 一抹の不安を覚えつつも、知世はこの話はおしまいとばかりに机に向かう。
 けれど、ノートを開いても思い出すのは、鞍馬の真剣な言葉と先ほどまでの柔らかな温もりばかりで。

 だから、知世はすっかり油断していたのだ。


 コンコン


「!!」

 ――まだ22時半は……気を抜いても良い時間は過ぎていなかったことを、忘れてしまうほどに。


 ◇◇◇


 ブランケット登場事件(?)に振り回されたお陰で、お風呂に入りそびれていたのは幸いだったかも知れない。
 ……そんなことを思いながら、知世は真夜中のバスルームで丹念に身体を洗う。

「……綺麗に、しなきゃ」

 お気に入りのボディソープを泡立てて全身をもこもこに包んでも、シャワーをたっぷりと浴びても……肌を這う悍ましさは、そして染みこんだ汚れは取れる気がしない。
 それでも、少しでも綺麗になりたくて……せめてこの身体が全て汚泥に飲み込まれる日を少しでも遅らせたくて、知世は柔らかい肌がほんのり赤みを帯びるほど、身体を擦り続けた。

 触りたくも無い泥濘も、泡で包み込む。
 何も注がれてはいないけれど、穿たれ奥に叩き付けられる迸りの感触はすっかり焼き付いて……欲しい、と叫ぶ身体に反吐が出そうだ。

「…………今日も勉強、できなかったな……」

 部屋に戻れば、開け放たれた窓から入る肌を刺すような寒さに、風呂上がりの身体はふるりと震える。
 ……これだけ寒ければ、きっとさっきまでの湿った空気は全部追い出せたはずと、知世は静かに窓を閉めて暖房のスイッチを入れた。

「寒っ……」

 布団にくるまっても、完全に冷え切った部屋で寒さは凌げない。
 暖房が効いてくるにはもう少し時間がかかるだろうし……そもそもこの寒さは外からきたものだけではないと、知世はとうに知っている。

 ――心を冷たい氷の中に、閉じ込めて……そのうち痺れて完全に感情を亡きものにしてしまえれば、もうちょっとこの時間も楽になれるだろうか。

「……あれ?」

 冷たい空気を追い出そうと、布団をぎゅっと握りしめ寝返りを打った知世は、ふと額に触れた心地よさに気付く。
 これは、確か……と思い出す間もなく眼前に広がったのは、深い藍色だ。

「…………ちゃんと、片付けたよね? まさか、勝手に出てきちゃうの……?」

 その存在に戸惑いを覚えながらも、知世の手は無意識に織物へと伸びる。
 先ほどの温かさを思い出して……これにくるまったほうが寒さは凌げるかも知れない、そんなことを思いながら握った掌は、先ほどと変わらぬ心地よさにもう手放したくないと訴えているかのようだ。

 もう百歩譲って、織物が自分に付いてくることは受け入れよう……とりあえず知世は、常識に抗うことを諦めた。
 ただ、それにしたって人のベッドを居場所に決めて貰うのは少々都合が悪い。部屋に入ってきた両親に見つかったら、話が実にややこしくなりそうである。

「でっ……か…………!」

 さて、存在を認めたとなればせっかくだからくるまってみようと、知世は重い身体を起こし、丁寧に畳まれたブランケットをベッドの上で広げる。
 藍色の織物かと思っていたが、長辺の片方には淡い桃色の差し色が入っていて、朝焼けのようなグラデーションになっているようだ。
 この部屋にはちょっと似合わないけど、これはこれで綺麗だな……と知世は思わずその美しさに見惚れてしまった。

「タグも付いてない……これじゃどこのものかも分からないや」

 それにしても、見たこともない上品な光沢に、この手触り。
 さらにどう考えても二人で使うとおぼしき大きさを見るに、このブランケットは少なくとも、その辺のスーパーの二階で買えるようなお値段の代物では無い。

 あの時は何となく言い訳として高そうだと言ったけど、多分、これは本当に高価な……知世のような庶民が本当は手にしてはいけない寝具なのだろう。

「……いいのかな……まあ、勝手について来るなら、良いも悪いもないけど……」

 物思いに耽りつつもじっと眺めていれば、無性にこの心地よさをもっと味わいたくなって。
 いつのまにか知世はブランケットに頬を埋め、ぎゅぅと胸に抱き締めていた。

怪しい織物


「はぁ……」

 とろりとした感触は、まるで天国にいるかのような癒やしを知世に与えてくれる。
 あの倒錯した動画と痛み以外の、綺麗な「キモチイイ」がここにあった……そんな思考すら、柔らかい織物は包み込んで溶かしていく。

 ――まるで、知世をそっと慰めてくれるかのように。

(……ふわふわ……眠くなってきた…………)

 微睡みという時間を得たのは、一体いつ以来だろうか。
 いつも動画を見ているうちに気絶するように寝落ちしていたというのに……夢と現の間を揺蕩う時間の何と温かく甘美なことかと、すっかり身を委ねた知世の頭に、鞍馬の声が響く。

『眠る前に、こやつに言葉で具体的に願えば、夢の中で何でも叶えてくれるのだ』
『ただし、死者の復活を願うような道を外れた願いは無理であるがな……無理矢理にでも願いを叶えようとすれば、後で必ずしっぺ返しを食らう。決してそのような事は願うでないぞ?』

『しかしまあ、お主の言えぬ本当の悩みは、恐らくそういった物では無いであろう? ならば、願えば夢で叶い……ひょっとすれば現実すらも変えてしまうかもしれぬな』

 あの時は逃げる算段に精一杯で、聞き逃していた言葉……願いの叶え方。
 穢され、冷たさに晒され、そして限界まで疲弊し壊れかけた心には、甘美なる誘いであると共に……ただの失望をもたらすだけかもしれない、あやふやな希望として映って。

(いいや、もう……これ以上傷ついたって、穢れたって、ちょっとマイナスが増えるだけなんだから)

 半信半疑ながらも、諦念が生み出した何の期待も無い願いが、知世の口から零れ落ちる。
 次の瞬間、織物は暗闇の中でぼんやりとした光を放ち……彼女を今度こそ夢の中へと全力で誘ったのだった。

「お布団さん……夢の中だけで良いから」

「私のお尻をいっぱいぺんぺんしてくれる……素敵なご主人様に逢わせて下さい……」

© 2026 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence