沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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2話 望んだ痛み

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 夢を見たのはいつが最後だったかと、揺蕩う意識は疑問を浮かび上がらせる。

 小さい頃は、ベッドに入れば夢を見るのが当たり前だった。
 現実の続きのように見えてどこかちぐはぐでヘンテコな世界は、輪郭がぼやけた極彩色に彩られていて……あの頃は寝ても覚めても、そこかしこに宝石のような楽しみが転がっていたように思う。

 色を変える空が広がる世界は、突如与えられた淀みであっさりと色彩を失った。
 それと同時に私は――夢を見ることさえ奪われていたのだと、今更ながら気付かされる。

「……ん…………」

 ふわりと知世の意識が浮上する。
 薄く開かれたキャラメルブラウンの瞳に映るのは、見慣れた天井ではなく……どこまでも広がる、白い空だ。

「ここ、どこ……?」

 首を傾げながら起き上がれば、その身体にかかっていたはずの布団はどこにも見当たらない。
 いや、そもそもベッドも、勉強机も、自室にあるはずの見知ったものはことごとく消え失せていた。

 眼前に広がるのは、ただの白。
 壁も、天井も、床も……いや、それらの切れ間すら定かでは無い、白一色の風景だ。
 下を向けば、目に入るのは見慣れた紺色。何故か先ほどまで着ていたはずのパジャマではなく、制服を身につけている。

「…………あー……もしかして私、夢を見てるのかな……?」

 ぼんやり座り込むこと、約十分。
 ようやく知世はこの事態を把握し、そして思わず独りごちた。

 ――夢とは本来、これほどまでに無機質で、なのにやたらリアルな感触を伴う物では無いはずだ。
 今の穢れた自分に許されるのは、これが関の山なのか、と。

「これ、絶対あのお布団さんのせいだよね……」

 生まれて初めての不可解な夢を見せているのは、先ほど意識が闇に溶ける寸前に抱き締めていた藍色のブランケットに違いないと、知世は直感で悟る。
 どこかに吸い込まれるような深い眠りに落ちる感覚は、久しく味わっていなかった。なるほど確かに鞍馬が言ったとおり、あの寝具は不眠解消に絶大な効果をもたらすらしい。

 とはいえここまで明晰な夢だと逆に寝た気がしないなと思いつつ、知世は呆然と目の前に広がる光景を眺める。

 果てすら見えない、うっかりすれば方向感覚すら失いそうな、一面の白銀。
 これは下手に動けば、確実に迷子になる奴だ。
 ……いや、既に現在地が分かっていない段階で、既に迷子のようなものではあるが。

「……何も起こらない、かぁ……まあ、そう都合のいい話はないよね。ああもう、何であんな……へっ変態みたいなこと口走っちゃったの、私……!」

 暫くきょろきょろと辺りを見回して、けれど自分以外の何も存在しないことに少しだけ落胆を覚えた知世は、同時に湧き上がる恥ずかしさに耐えきれず思わず両手で顔を覆う。
 ……どうやら自分は思った以上に「願いが叶う」という言葉に縋っていたらしい。

 そんな奇跡が自分に起こるなどありえないと、この一年何度も叩き付けられていながら、どこまでも往生際が悪い――
 全てを諦めきれない自分に、つい嫌気が差す。

「ほんと、バカみたい……あんな訳の分からない話を信じちゃうだなんて」

 万が一、本当に鞍馬の言うとおり寝具に願いを叶える力があったところで、ブランケットだって多少は内容を吟味するだろう。
 よりによってあんな変態じみた願いを、好き好んで叶えたいとは思うまい――

 どこか諦めきった笑顔と共に、知世の唇から力ないため息が漏れる。
 だが次の瞬間

「……ふぅん、これが俺の望んだ形ってこと?」
「!?」

 後ろから聞こえた知らない声に、知世は思わず「ぴゃっ」と奇声を上げて飛び上がった。


 ◇◇◇


「え、あ、ほえっ!?」

 予想だにしない声に、一瞬にして知世の全身が硬直する。
 あまりの驚きに、ちょっと漏らしてしまいそうだった。流石にこの歳でお漏らしは人として何かが終わってしまいそうだ。

 そういえば、寝る前におトイレに行き忘れてたな……と余計な思考が過るのは、あまりの恐怖を紛らわすためだろうか。

(い、い、今の……幻聴じゃ、ない?)

「…………」

 覚悟を決めて知世はそうっと後ろを振り返る。
 出来れば誰もいないで欲しい、そんなささやかな願いを嘲笑うかのように視界に飛び込んできたのは……どう見ても人影であった。
 その姿を視認した知世の身体が、再び電撃を流されたかのようにビクッと跳ねる。

(お、男……っ!? しかも、なんかめちゃくちゃ怪しい人ぉっ!!)

 その男性……というより少年と言った方がいいだろうか。
 知世よりは背が高く、けれど同級生達よりはちょっと小柄で華奢に感じる彼は、道ばたで出会っていたら全力で迂回したくなるような出で立ちで、じっとこちらを眺めていた。

 ブルーグレーの長袖シャツと紺のジーンズを身につけた体躯は、まだ大人になりきれていないけれど明らかに男性らしい厚みを纏っている。
 目深に被られた黒のキャップに、鼻から首までをすっぽりと覆う黒のネックゲイターは……きっとそう言うのが格好良いと思うお年頃なのだろう。

 本人がお気に召しているならば、敢えて突っ込んで刺激を与える必要もあるまい。
 ――残念ながら知世には、できることなら一生関わり合いになりたくない不審者でしかないのだが。

(何で私の夢なのに、こんな変な人が出てくるの!? はっ、もしかして夢なら念じれば消えて……くれるわけがなかった!!)

 全身から鳴り響く危険への警報に、今すぐ「お巡りさんこちらです!」と力一杯叫びたくなるけれど、残念ながらここは夢の中だ。交番など影も形も見当たらない。
 存在を無視すればそのうち消えるんじゃ、と知世が目を逸らすも、そう都合のいい話はなく。

 どうしたものか……とオロオロしていれば「なぁ」とその胡散臭い人影ははっきりこちらに視線を合わせて声をかけてきた。

「っ、ひっ、はいっ!」
「…………取りあえず脱ぎなよ」
「……へっ?」
「いーから脱げってんの。じゃなきゃ尻チェックできないじゃん……早く見せろって」
「は、はひぃっ! ごめんなさいすぐ脱ぎますっ!!」

 帽子の向こうから垣間見える瞳は、少し緑がかった透き通るような水色だ。
 その美しさからは考えられないほどの圧が、まだ声変わりしきっていないハスキーな音と共に知世の喉元に突きつけられる。

 ――ああ、悲しいかな。
 蹂躙に慣れた身体は、たったこれだけの威圧で、年下にしか見えない少年にすら従ってしまうらしい。

(やだ……でも、脱がないと、何をされるか……怖い……っ!)

 ブルブルと震える手では、制服のリボンを解くのすら一苦労だ。
 じっとこちらを見つめる瞳が何を企んでいるのかは分からないけれど、どうせ碌な目的ではあるまい。夢の中でまでこんな目に遭うだなんてあんまりだ……そう己の不運を呪いながら、知世はひとつ、また一つとその身を覆う衣を脱ぎ捨てていく。

「……っ…………」

 ぱち、ぱち……ジジッ……

 左肩のスナップを外し、そのまま脇のファスナーを下ろして。
 すとん、と音を立てて床に落ちたジャンパースカートの音が、何だか重く響く。
 そのままブラウスも脱ぎ捨てれば、目の前の少年はすっと一瞬目を丸くして「ほう」と何か予想外な驚きを覚えたような顔をした……気がした。

「…………脱ぎ、ました」

 下着姿になった知世は、顔を真っ赤に染めながら少年の様子を窺う。
 どうかこれ以上脱げとは言わないで、そんなささやかな願いを込めた視線は、しかし案の定あっさりと否定される。

「何言ってんの? パンツ履いたままじゃ尻が見えないじゃん。ちゃんと脱いで」
「……はい…………」

(やっぱり、だめよね…………)

 心臓がバクバクと音を立てる。
 自然と荒くなる息は、決して興奮ではない。世界の音は遠く、身体の外に一枚ベールがかかったように鈍くなる。
 なのに目の前の少年の声だけは、全てを超えて知世の魂を穿つのだ。

 ――この感覚は、よく知っている。
 恐怖なんて安っぽい言葉で括られたくない感情は、身体の感覚としてしか受け取れないから。
 そして……そんな反応すら、相手にとっては情欲を煽るスパイスとなるらしいことも。

 まさか、夢でもあの地獄の時間が降臨するだなんて。こんなことなら、不眠のままの方がずっと良かった……
 そう嘆きながらも顔には引き攣った笑顔を貼り付け、知世はずるりと下着を降ろし、畳まれた制服の上にぽすんと置いた。

「上まで脱げとは言ってないんだけどな……あーでもこの制服じゃ脱ぐしか無いのか」と独りごちる声が聞こえたのは、混乱した頭が作り出した都合のいい幻聴だろう。

(お願い、早く朝になって……!)

 夢の終わりを切に願いながらも、少年の怒りを買わないように、知世は指示されるまま彼に背を向ける。
 床は存外柔らかく、温かささえ感じるのはやはり夢だからだろうか、それとも緊張で足の裏の感覚までおかしくなったのか。
 近づく気配を感じれば、身体は自然と硬くなって……ぶわりと全身が恐怖と嫌悪で総毛立った。

 するり

「ひっ……!!」
「動かないで」
「は、はいっ!」

 少年の手が、知世の尻に伸びる。
 その感触は思ったより冷たくて、知世は思わず小さな悲鳴を上げさっと顔色を変えた。

(まずい!!)

 だめだ、決して怯えを外に出してはいけない。それは雄の欲情を煽るだけだから。
 何をされても笑わなければ……笑ってさえいれば、少しは優しくして貰えるから……

 そんな知世の葛藤などいざしらず、少年の手は遠慮無く尻たぶを擦り、ふにふにと軽く揉む。
 そうして

「…………へえ、随分叩きやすそうないい尻してるじゃん」
「……え?」

 これから泥濘に伸びるであろうその指への恐怖を押し殺し、覚悟を決めていた知世に、思いがけない言葉を投げかけた。


 ◇◇◇


「え……えっと……」

 唐突な言葉に、知世の思考はピタリと止まってしまう。
 その間も手は遠慮無く尻をまさぐっている。
 ぺたぺたと触って、そっとさすって、肉付きを確かめるかのように揉んで……

 だが、それだけなのだ。
 いつまで経っても、その指が奥の泥濘へと向かうことは無い。

(え、なんで? もしかして、油断させようとしてるの??)

 知世の頭の中は、あり得ない行動に混乱を来している。
 あの人にすら、こんなに執拗に尻を触れられた事は無い。一体いつになったら「本命」へと指を這わせるのか……

 理解不能な行動を訝しんだその瞬間、空っぽになった知世の頭の中に、ぱっと記憶が展開された。

『夢の中で良いから……私のお尻をいっぱいぺんぺんしてくれる、素敵なご主人様に逢わせて下さい……』

(あ)

 それはこの奇怪な夢に誘われる直前に、愚かしくも人を信じて口にしてしまった願い。
 決して叶えられることの無い、自分でも変態極まりないと断罪するような欲望は――今し方聞こえた、少年の言葉と妙に符合してはいないか?

(叩きやすそうな、尻……まさ、か……)

 いや、いくら何でもそんな都合のいい話は無い……
 頭はちゃんと理解しているのに、知世の唇はあまりにも……そう、どこまでも欲望に正直だった。

「……あの、もしかしてあなたは……」
「…………」
「ええと……お尻をぺんぺんしてくれる、ご主人様ですか?」

 どこか半信半疑な、けれど縋るような声色で訊ねられた少年はしばし沈黙する。
 いや、実際にはほんのわずかな逡巡だったのかもしれないけれど、知世には永遠にも思えるほどの時間に感じた。

 そして

「……まあ、それでいいんじゃ無い? 俺は尻を叩けりゃいいから、好きに呼べば」
「っ!!」

 背後から聞こえた、どこかぶっきらぼうな返答。
 再びビクンと跳ねた全身に走るのは……今度は恐怖では無い。

(ご主人、様……っ……)

「はっ……はっ…………」

 荒い息の温度が、変わった気がする。
 心臓の鼓動は相変わらずうるさくて、でもそこに混じるのは、大いなる当惑と……歓喜の叫びだ。

(うそ……本当に、願いが叶ったの……!?)

「ほら、いいからさっさと四つん這いになりなよ。そのままじゃ叩きにくいじゃん」
「え、あっ、はいっ……!」

 震える足を叱咤しながら、知世はゆっくりとその場に跪く。

 正直なところ、心はまだこの展開について行けない。
 けれど……身体は正直だな、なんて台詞がぴったりよねと独りごちたくなるくらい、彼女は胎の奥に昂ぶりを覚えていた。

(それにしても……綺麗な手……)

 何気なく振り返ったときに、少年の袖から覗く手が知世の目に入る。
 すらりと細い指、厚みの無い手のひら、桜貝のような色をした、きちんと整えられた形の良い爪……
 その全てが見慣れた男の手の特徴を持たないからだろうか、不思議と怖さは感じない。

 そしてあんな綺麗な手がこれから贅肉まみれの尻を打つのかと思うと……ああ、頭の中がぐつぐつで、何もかもがまとまらない……!

 目を閉じても、あの冷徹な薄い瞳と、手のひらの幻影が消えることは無いだなんて。
 ……どれだけ自分は、この瞬間を待ち望んでいたのだろうか。

「ふぅん……もっちりしてる……白くて大きいし、すべすべだし……いいね、叩いたらきっと良い赤に染まる」
「っ……」

 少ししっとりした尻たぶを、少年――否、ご主人様は相変わらず執拗に撫で回している。
 最初少しだけひんやりした感触を落とした手は、知世の熱が映ったのだろうか、今はちょっとだけ温かい。

 同じ男に撫でられているのに、あの粘り着くような泥を感じないのは……ここが夢で、ご主人様は己の妄想が作り出した幻影だからに違いない。

(あわわ……恥ずかしいっ……ごめんなさい、太ましくて醜い身体でごめんなさいっ……!)

 とつとつと下される尻への評価に、知世の耳は真っ赤に染まっていた。

 思えばいつもは、服を脱げばすぐに行為で熱に浮かされるだけだ。
 だから、こんな風に素面で身体をじろじろと見られ、声が上がるわけでも無い場所を延々と触られ、まして言葉にされる事態は生まれて初めての事で。

(見なくて良いのに……見たって楽しくないよ、こんな身体じゃ……)

 いつまでもやまない弄りに、知世はどこか投げやりな言葉を心で唱えた。

 ……今更確認するまでも無く、この身体はどこもかしこもぽっちゃりしている。
 お腹どころか背中の肉も容易につまめるし、胸はいつもブラウスが弾けそうで怖い。ズボンは太ももがぱつぱつになるから、私服でも総ゴムのロングスカートが手放せない始末だ。

 だと言うのに、妄想のご主人様の手は止まらない。
 まあ、確かにもちもちで柔らかい贅肉は触り心地だけは悪くないのかも知れないけれど、そんな堪能するほどの魅力は無いでしょ? と知世の瞳に涙が滲む。

「あ……」

 それから一体、どのくらい触られていただろうか。
 何の前触れも無く、満足したのであろう彼の手がすっと知世から離れた。
 思わず漏れた声の切なさに……知世の頬が見る間に赤くなる。

(こんな、声……)

 ――離れたら離れたでちょっと寂しいと思うだなんて、どうかしている。
 そして、この後にやってくるであろう、あの動画のような熱さと痛みにゴクリと唾を飲み込んでいる自分は……本当に、度し難い変態だ。

そんな知世の様子を気にすることもなく、その手の持ち主は目の前の尻に「じゃ」と軽く声をかける。

「……叩くから。好きに鳴いてくれていいけど、あんまり動くなよ?」
「はい……っ……」

(……くる)

 ご主人様の宣告に、知世の心臓が喉から飛びでんばかりの鼓動を穿つ。
 口の中はカラカラで、期待にふるりと身体は震え、瞳孔はさっきから開きっぱなしだろう、辺りがうまく見えない。

(くる、くるっ、痛いのがくる……)

 腰の辺りに、彼の左手が添えられる。
 後ろからすぅ、と小さな息を吸う音が聞こえ

(ああ、私のお尻、とうとう打って貰えるんだ……!)

 ふと空気が揺れたかと思えば

 ゴンッ!!

「……あれ、ちょっと違う?」
「うぐ…………っ!!」

(な…………な、に……今の……!?)

 スパンキングにはあるまじき鈍い音が、目から火花が飛び出そうな内に響く痛みを知世にもたらしたのだった。


 ◇◇◇


 この倒錯した趣味が出来てから、数多の動画を漁ってきた。
 けれど、手のひらで打つ行為にこれほどの鈍い音を聞いた記憶は、一度も無い、と思う。

「~~~~っ!!」

(お、お尻が、壊れたかと思った……!!)

 骨まで軋むような痛みに、知世は思わず涙を零し息を詰めて悶絶する。
 いつも自分で木じゃくしを使うのとは明らかに……そう、質からして違う痛みは、想像のずっと斜め上を行く辛さだ。

(えええ……こんなものを何発も食らうの!? いつかお尻の骨が砕けるんじゃ……それに音もなんか違ったし……あれかな、太ってると音まで鈍くなるのかな)

 痛みもだが、あの痛快な打撃音にも自分は興奮していたのだと、知世は今更ながら思い知らされる。
 しかしどうやら、あれは動画の世界特有のものだったらしい。もしくはすっきり贅肉の取れた美しいプロポーションでのみ許される音か。

「うぐっ……ううっ……」
「…………んー」

(あああ、ご主人様ごめんなさい……こんなデブでごめんなさいっ……)

 続きの打撃が来ない辺り、ご主人様もどうやら今の一撃に戸惑いを覚えているようだ。
 素材が悪くて申し訳ないという気持ちと、たった一撃で悶絶するという結果に(現実は上手くいかないよね……夢だけど……)と少し落ち込んでしまう。

 だが数秒後、知世の思い込みは見事なまでにひっくり返された。

「音が違う…………」
「ご、ご主人様……ごめんなさい……」
「……今のは、綺麗に掌底入ったと思ったんだけどな……打ち方がおかしいのか?」
「………………はい?」


 ――いま このひと しょうていって いった?


 後ろから聞こえてきた、冷静な声。
 そこに混じる絶対に聞こえてはいけない単語に、知世はぽかんと頭の中で音を反芻し……

 そして

(ちょっと待って今なんて!? し、掌底ってそれ、確か空手部の子が言ってた技じゃなかったっけええぇ!?)

 ようやく繋がった頭で、全力の突っ込みを叫ぶのであった。

(いや、それプレイじゃ無くてただの攻撃でしょ!? あああ、もうどうなってるのよぉ! 私の作り出したご主人様なのに、打ち方がド素人だなんて……ううん、ある意味玄人さんだけど!!)

「……ま、いっか」
「!?」

(いやいや諦めるのが早すぎるよっ、私のご主人様ぁ!!)

 ぐるぐる回る知世の思考の向こうで、ご主人様はどうやら原因究明をあっさりと投げ出したらしい。
 再び尻に添えられた左手に知世が思わず後ろを振り向けば、彼の手は再び振りかぶろうとしていて……慌てて知世はあらん限りの声でご主人様を制止した。

「ちょおっと待ったあああああ!!」
「……あん?」
「ひぃぃっ!! あっ、あのっ、ご主人様そのっ、たっ多分叩く場所がおかしいですぅっ!」
「おかしい? ……尻以外にどこを叩くのさ?」
「そっ、そっちじゃなくて! てっ、手です!! ここじゃなくて、こっちいぃっ!!」

 必死に叫びながら掌を指す知世に、彼は眉を顰める。
 折角気持ちよく叩こうとしたのを止められたせいだろうか、その瞳には苛立ちが混じっているようだ。

「ひぃっ……」

 剣呑な眼差しは知世の恐怖を煽る。
 痛いほどの鼓動は、易々と歓喜から不安へと色を変える。
 ああ、これは手ひどく嬲られるかも知れない……そう思えば再び身体はガタガタと震えだした。

「ごめんなさい、ごめんなさい……生意気言ってごめんなさい、ご主人様……」
「…………」

 怯える声が、必死に許しを乞うも、布越しではご主人様の表情は読み取れない。
 だが、最悪の事態を覚悟し強張った身体に、折檻は降り注がず。
 代わりに

 パンッ!!

「ひっ!! …………あ、あれ?」

 ……弾けるような打撃音が、高いところで炸裂する。

「……あ…………」
「ん……ここ、と、ここ……ホントだ、こっちの方が動画で聞いた音に近い」

 パンッ、ゴツッ、パン――

 おずおずと見上げれば、ご主人様は何度も右手を左の掌に打ち付けている。
 どうやら打ち方を変えて、望む音が出る場所を探しているらしい。

 呆然とその様子を見つめていれば、視線に気付いたのだろう、彼の水色の瞳がふっと緩んだ。

「壊れたらそれまでだろ? ……いい音で叩いて鳴かさなきゃ、意味が無いからさ」
「あ、はい……」
「ああ、もう何となく分かったから。ほらさっさと尻を上げなよ。後は実践で試す方が早い」
「あ、あは……おっお手柔らかに……」
「心配しなくても、グズグズになって泣き叫ぶまで打つから」
「ひょえぇ」

 力は抜いてなよ?
 そう話しかけながらそっと尻たぶに触れた手が離れ、再び振り下ろされた音は

 パァン!!

「っ……たあぁ……!!」
「……うん、いい音」

 憧れた音と痛みを、ようやく知世に与えてくれた。


 ◇◇◇


 パン! パン!! パシッ、パンッ……!

「っ……ふっ……んっ、痛…………っ……」

 何も無い空間を彩るかのように響く、小気味よい打撃音。
 時折すぅと混じる小さな呼吸が、ご主人様の冷静さを表しているようだ。

 そんな中に時々混じる、かすかな呻き声。
 そこに快楽は無い。無秩序に、前触れなく与えられる弾けるような痛みはやっぱり痛みでしか無くて……けれど確実に、知世の中に悦びを灯してくれる。

(どきどき、する……まだ……? 次、まだ……っ痛ったぁぁっ!!)

 打ち据えられる度に大袈裟に身体が跳ね、勝手に呻き声が漏れるだなんて知らなかった。
 動画に合わせているとは言え基本自分のペースで、しかも不自由な体勢で振り下ろされる痛みとは、何もかもが違いすぎる。

 そう、飛んでくる痛みも、己の呼吸を外すようなタイミングへの恐怖も、ドキドキも――全てが、現実より鮮明で、頭がクラクラしそうだ。

「……何我慢してんの? もっと鳴きなよ、じゃないと楽しくない」
「くうぅっ……!!」

 一体あれから、どれくらいの間尻を叩かれているのだろう。
 最初の内はまんべんなく叩かれていた尻たぶは、いつしか同じところを執拗に繰り返す打撃へと変わり、重ねられる痛みは熱と痺れを伴い始めていた。

 ひとつ、ひとつ、ご主人様の手のひらが音を立てる度に、その響き方は洗練されていくようだ。
 空気を震わせる乾いた音は、最初の打撃ほどでは無い、けれど明らかにこの脂肪の奥にある知世の胎を震わせ始めている。

 ――まだ、そこに快楽を見出せるほど、知世は熟れてはいないけれど。

 パンッ!!

「っ、あぁ……っ!!」

 真っ赤に腫れ上がり熱を持った柔らかな皮膚に、また一つ鋭い痛みが与えられる。
 堪らず上げた叫び声は、どうやらご主人様のお気に召したのだろう、ふふっと笑う声が聞こえた。

 ……笑われているのに、知世を汚す濁りも纏わり付く粘つきも染み出さないだなんて、実に不思議な感じだ。

「そうそう、そうやっていっぱい良い声で叫びな、よっ、と!」
「あぅっ……!」
「はぁ、ほんと良いお尻……真っ赤な手形が映えるね」
「ううぅ……っ……!!」

(痛い……終わらない……痛いよぉ……)

 ご主人様の手は、未だ休むことを知らない。
 さっきちらっと「夢って体力も無尽蔵なんだな」と恐ろしい言葉が聞こえたから、多分この仕打ちが終わる日は当分来ないのだろう。
 明日、私は椅子に座れるのだろうか……いや、そもそも明日は来るのか……?

(ずっと、このまま……こちらの事なんてお構いなしに叩かれ続ける…………)

 ――ふと過った妄想に、知世の何かがゾクリと震えた。

 パンッ!

「ぐぅ……っ……」

(もっ、限界……痛いし……崩れちゃう、辛いよう…………)

 打たれたところは、どこもかしこも痛くて……さっきから視界は涙でぼやけたままだ。
 普段運動らしい運動をしない身体は、ご主人様と違って夢の中でもへたばってしまうのだろうか。膝も痛ければ、太ももも笑っている。

 けれど無意識に腰を落とせば「叩きにくいよ?」と冷たい声が降ってくる。
 だから知世は鼻を啜りながら、必死に腫れた尻を彼に差し出し続けるしかない。

(でも、限界なのに……)

(…………終わって、欲しくない)

 ――これはご主人様のために従っているのか、それとも自分が望んでいるのか……もう、知世の頭の中はぐちゃぐちゃだ。

「うっ……んあっ……ぐぅ……っ……」
「んー……もっとガンガン叫んで欲しいのになぁ……ちょっと期待外れかな」
「!!」

(え……あ……期待、外れ……!?)

 その時。
 幾度か促されても、つい声を噛み殺してしまう知世の様子にすこし焦れたのだろう、彼の独り言が耳に届く。

 その言葉は、ご主人様にとってはきっと何気ない呟きにすぎない。
 けれど、知世にとっては……明確な断罪にしか聞こえない。

(……っ!!)

 少しだけ低くなった声色と、評価の宣告。
 それは痛みと羞恥、そして言葉に出来ない何かにすっかり翻弄されていた知世の心に、さっと冷や水を浴びせた。

(いけない、機嫌を損ねちゃだめ! 酷いことをされる……って、あれ、既に痛いことされている場合は……ううん、そんな事を考えてる場合じゃないっ!!)

 ここで間違えてはいけない。望む反応を返さなければ、二度と次のチャンスは無い――
 途端恐怖に襲われ、生き延びる術を鈍い頭で必死に考える知世の尻に、新たな一撃が加えられる。

 パンッ!!

「っ、ごめんなさいっ!!」
「……?」

 痛みが呼び水となって、知世の口から思わず飛び出したのは、謝罪の言葉だった。
 そして……一度溢れた言葉は、感情は、己を否定される恐怖と混ざり留まる術を知らない。

「いぎっ! ごめんなさいっ! ごめんなさい、痛いって叫ばなくてごめんなさいっ!! ……うあぁっ、ごめんなさい……ごめんなさいぃ……!」
「……ふぅん、それ、いいな。ほら、もっと謝りなよ。全力で、大声で、涙と鼻水でぐちょぐちょになりながら、さっ!」
「うわぁぁんっ、ごめんなさいっ許してえぇ……!!」

 知世の惨めったらしい謝罪は、どうやらご主人様のお気に召したらしい。
 先ほどよりも威力を増した手のひらの熱さが、ますます知世の箍を外す。

 パン、バシッ、パンッ! パンッ! パシンッ!!

「ひぐっ、痛いっ! 痛い、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
「ははっ、ぐっずぐずで情けなくて、いい声……ほら、まだまだ鳴けるよな?」
「ひぎゃあぁっ!!」

 バシッ!!

「うああ……っ!」

(ごめんなさい、痛いの、つらいの、もう嫌、痛い、やめて)

 パンッ!

「ひぐっ……ひぐっ……ああ……」

(ううん)

 バシィッ!!

「ほら、何て言うの?」
「ひっく、ひっく、ごめんなさいっ……ああああっ!!」

(もっと、もっと……やめないで――!)

 一体何に謝っているのか、何でこんなに涙が溢れるのか……かき混ぜられた思考は何も解決してくれない。
 けど、叫んだらもっと涙が出て、叫ぶ声と熱い雫は溜め込んだ淀みをが溢れさせるようで……

(ああ……なんだろう、安心……する……)

 全身が次の打撃に震え強張っているはずなのに、何故か肩の力が抜ける気がした。

初めてのスパンキング



 ◇◇◇


「うわぁ、真っ赤っか……あ、ここ指の痕がくっきりだ」
「ひぐっ……ごめんなさい……」
「ははっ、まだ謝ってんの? 今日はもうおしまいだよ、俺すっきりしたし」
「はひ……っ、ずずっ……」

(お、おわ、った……)

 一体何百回打たれたのか、とてもじゃないけど数え切れない。
 兎も角、ようやく終わりを迎えた暴虐の時間に、知世はほっと胸をなで下ろす。

 ブルブルと震える尻は、両方とも真っ赤に腫れ上がり、ところどころ点状の出血が広がっている。
「いいよ、姿勢を崩しても」とご主人様は許してくれたけれど、正直とても座れる状況ではない。
 それ以前に、ずっと踏ん張りすぎた足はガチガチに固まってしまって、力の抜き方すらよく分からない始末だ。

 ――こんなにボロボロなのに、安堵の中に明らかに寂しさが混じっているなんて……本当に自分は、どうしようも無い変態だったらしい。

 気持ちいいかと言われたら、やっぱり今の知世には「痛い」しか残っていない。
 けれど、夢から醒めればこの痛みも無くなってしまうかと思うと、それはそれで惜しい気がする。

(……また、お布団さんにお願いしたら……叩いて貰えるかな)

 明日の晩も試してみようと淡く歪んだ期待を抱き、しかし流石に身体を横たえたいな……と知世は震える身体を叱咤して腰をゆるりと動かす。
 が、ふと緩んだ心と身体に忍び込んできた予想外の感覚に、その動きはピタリと止まってしまった。

(え、ちょっと、ここで……!?)

 ――なんてことだ。
 気付かなければもっと耐えられたかも知れないのに、一度自覚してしまった切迫感は、急激に増して出口を苛むばかりじゃ無いか!

「……何してんの? もっと叩いて欲しい?」
「え、あ、そっその……」
「何? はっきり言いなよ」
「ひっ…………おし、っこ……」
「はい?」
「だっ、だからっ」

 こんなこと、言いたくない。
 そんな気持ちとは裏腹に、尻を打ち据えてくれたご主人様にすっかり恭順してしまった身体は、素直に現状を打ち明けてしまう。

「おしっこ、したいんです……っ!」

 思いも寄らない大声を出して、その言葉すら膀胱に響いて。
 ぶるりと身体を震わせれば、刺激はダイレクトに括約筋へと襲いかかる。

「んっ、ああっ……!!」

(ちょっと、待って!? 何で夢の中なのに、こんなに死ぬほどおしっこしたくなるの!? とっ、トイレ……なんてあるわけ無いし!)

 ぶわっと浮かんだ脂汗が冷たくて、余計に膀胱を刺激する。
 はぁはぁと涙目で息を荒げ、ひょっとしたら願いを叶えてくれないかと必死に念じるも、そう都合良くトイレは登場しないようだ。持ち主のピンチだというのに、意外とあの寝具はいけずである。

「どっ……どうしよう……おしっこ、もれちゃう……」

 知世は、カタカタと震えながらずずっと鼻を啜る。
 ここは夢だ、漏らしたところで大した実害は無い……はずだが、年頃の少女にそんな現実的な理屈など通じるわけが無い。

 何より、目的を果たしたはずのご主人様は、未だ傍らで知世が尿意に苦しむ姿をじっと眺めているのだから。

「ふぅん……動けないの? まぁ動けたところでここ、トイレなさそうだけどさ」
「む……むりです……動いたらもう、出ちゃいそう……」
「じゃ、そのまま漏らせば良いじゃん」
「っ、そんなぁ!」

 素直に言えば、もしかしたらちょっと向こうに行ってくれたりするかな、なんて男に期待した自分がバカだったと、知世は己の甘さに絶望する。
 知世の危機を知ったご主人様は、あろうことか真っ赤に腫れ上がった尻の前に再び陣取ったかと思うと、そうっとぽっこり膨れた下腹部をなぞって

「ひゃぁぁっ!!」
「……ここで俺に見られながら出したら、違う鳴き声が聞けそうだな」
「そん……な……!!」

 ……少し意地悪そうな声で、知世の決壊と悲鳴を所望したのである。


 ◇◇◇


「はぁっ、はぁっ、うぐうぅぅっ……!」
「ふぅん、意外と頑張るじゃん。もっと押してあげる」
「うあああっ!!」

 カタカタと身体が震えて、歯の根が合わない。
 半開きになった口からは涎がぽたりと床に落ちている。
 涙を零しながら「ごめんなさい」と何度も繰り返される知世の懇願も、彼には心地よいBGMにしか聞こえないようだ。

 まるで悲鳴を調整するように不意に食らわされる下腹部への刺激に、知世はただただ嘆き赦しを乞うことしか出来ない。
 ――どう考えても決壊の時は近い。夢だからなのか、現実よりもずっと我慢が効かなくて、だんだん力が入らなくなる股間に絶望だけが募っていく。

(ど、どうして!? おしりぺんぺんだけじゃないんですか、ご主人様ぁ!!)

 とても口に出来ない叫びを心の中で唱えれば、まるでそれが聞こえたかのように彼は目を細めて「……これはこれで楽しいな」と新たな玩具を見つけたかのような声色で呟く。
 ……妄想のご主人様とはいえ、こんなタイミングで新しい変態行為に目覚めないで欲しかった。

「ああでも、むしろもっとギリギリまで頑張って決壊した方が、良い声で鳴きそうだよね」
「……え…………」

 すっと後ろからご主人様が離れる気配がする。
 一体何かと知世が戸惑いを覚えていれば、彼は「これ、なーんだ?」と限界を超えて狭まった視界に何かを差し出した。

「え……あ……せい、ふく……」

 それは、先ほど脱がされ、きっちりと畳まれた制服だ。
 一番上に乗った、色気も何も無い白いパンツが妙に卑猥に見えて、カッと顔が熱くなる。

 それにしても一体何を、と震える唇が問いかければ、ご主人様は「これ、敷いてあげるよ」と再び背後に回り込んだ。
 そして……何やらごそごそという音の後、知世の膝の内側に馴染みの布が触れる。

(まさか)

 お腹を刺激しないようにそっと覗き込んだ股座。
 ちょうど股間の下に当たる部分には、畳まれたままの制服が置かれていて。

「ほら、大事な制服を汚したくないなら、我慢しないと」
「…………あ……あぁ……」
「ああでも、自分から裸になってお尻ぶって貰いたい変態には、制服なんて必要ないか。いいよ、要らないなら漏らしてびちょびちょにしちゃえば? 俺はさ、良い声で鳴いてくれりゃどっちでもいいから」
「そんな…………っ!」

 その言葉に、そして避けられない絶望の確定に、知世は大粒の涙を流して叫ぶ。
 今にも決壊しそうな尿道を、無理矢理堰き止めるかのような仕打ち。素直に屈するにはあまりにも恥ずかしく罪悪感が伴って、けれど反抗を試みられるような余裕は一ミリも残っていない。

 ――少し身体を避ければ、汚すことは避けられる。
 けれど頭での理解など嘲笑うように、知世の身体は動かない……いや、動かせない。
 動くと漏らしそうなのもあるけれど……それ以上に、従わないという選択肢がもたらす恐怖の方が、ずっと大きいから。

「ああっ、ごめんなさい、ごめんなさい……許して下さい……それ、だけは……!」
「嫌なら我慢すれば良いだけだろ? それに……逃げないって事は、漏らしたいんでしょ?」

(違う)

 心の中では、必死に反論している。拒絶している。
 嫌だ、こんな事したくない、自分は変態じゃ……いや、お尻は叩かれたいけど、少なくとも男にお漏らしを見られて喜ぶような極まった変態では無いのだと。

 けれど、その言葉は喉から先には出ない。声帯を震わせることは、許されない。

「あ……うぅ……はぁっはぁっ……ぐぅっ、はぁっ……ああぁ……!」
「…………このままじゃ時間かかっちゃうな」

 意味の無い言葉だけが、切羽詰まった息だけが、知世の口から漏れる。
 ……それを彼は一体どう解釈したのだろう。
 弄ぶように押していた下腹部の手が、突然すっと離れていく。

(……あ、諦めてくれたのかな……?)

 長時間のスパンキングで昂ぶらされ、羞恥と尿意で限界まで追い詰められた心は、裏に隠された意図など感じ取れない。
 ただ、膀胱を押し込む手が離れた……その安堵感に知世の身体から、そして心から、ふっと緊張が抜ける。

 その瞬間を狙い澄ましたかのように

「ほらっ、さっさと出しちゃいな」
「ひぎっ!!」

 パァンッ!!

 尻の間、柔肉が顔を覗かせるところに、渾身の一撃が振り下ろされた。

(だめ、それ、だめっ!!)

 チョロ……

「あ……っ」

 知世の心の叫びも虚しく、衝撃で緩んだ尿道から水滴が漏れて。
 そして……一瞬決壊した括約筋は、もはやその用を為さなくなる。

 ショロロロ……シャーッ…………

「や……とま、って……おねがい、とまってぇ……!」

 必死に力を入れようとしても、溢れる水流は増えるばかりで。
 恥ずかしい水音と共に、着慣れた制服が己の汚れを飲み込んでいく。

 生ぬるい感触と、ツンとしたアンモニアの匂いが、知世の何かを崩して――

「ひぐっ、ひぐっ……」
「あーあ、制服汚しちゃったね。うわぁまだ出るの? これ、制服で吸いきれるのかな」
「ううっ……ひっく……あっ、ああっ……ひっく……」
「ま、もう制服なんて要らないよね? こーんな白くて大きくて可愛い、叩きがいのある素敵なお尻はさ、俺がいつでも叩けるように丸出しにしておく方がお似合いだよ!」

(やだ……こんなの、やだ……)

 恥ずかしいところを、じっくりと男に見られて。
 しかもそんなみすぼらしい自分がお似合いだと嘲笑われて。

「うああぁぁっ! やだっ、おしっこ止まらないっ、見ないでっもうやだあああっ!!」
「ははっ、いーい声……もっといっぱい鳴きなよ、ほら!」
「いやああぁぁっ!!」

 更に加えられる張り手に、ぷつん、と知世の何かが切れる。
 気がつけば知世の口からは、堰を切ったかのような拒絶の悲鳴が上がっていた。

(ああ、こんなの酷いよぉ……私、穢れた泥だけじゃなくて、おもらしする変態にもなっちゃった……!)

 ぐらり、と意識が遠のいていく。
 己の叫ぶ声も、ご主人様の笑う声も、段々遠くなっていく。

 絶望と、羞恥と、開放感。そして未だじんじんと痛みと熱を訴えるお尻。
 全てが脳をかき乱し、混沌へと引きずり込み、生み出された新しい感覚の名前を、まだ知世は知らない。

 ただただ、心の底から嘆いて、声が枯れるまで大声を上げて泣きわめいて……
 そして、激流の中に添えられたご主人様の言葉に混乱を覚えながら、知世の意識はふつりと暗転した。

(可愛い……素敵なお尻って……意味が、分からない……)


 ◇◇◇


「……はっ!!」

 ガバッと飛び起きれば、そこは見慣れた部屋だった。
 外はまだ、夜明けの声を知らない。耳が痛くなるほどの静寂だけが、混乱の極みにある少女を包み込む。
 
 起き上がった背中はじっとり汗で濡れていて、その冷たさに知世は顔を顰め……途端全てを思い出したのだろう、顔色を悪くし慌てて布団を捲った。

「……濡れて、ない……はあぁぁ、良かったぁ……!」

 ぽんぽんとシーツ全体に触れて、ついでに灯りを付けて確認しても、そこには染みひとつない。
 思わずその場にへたり込めば安堵感からだろうか、急に尿意が増してきて、知世は今度こそまずいと足音を殺して階下のトイレに駆け込んだ。

「はぁ……間に合った…………あれかな、夢の中だとおしっこ行きたい感じも強調されちゃうとか……あんな尿意、生まれて初めてだったよぉ……」

 膀胱を満たすものがすっかり抜けて、ついでに気も抜けて。
 よたよたとベッドに戻るついでにパジャマも着替え、枕元の時計を見れば時間は5時半を回ったところ。
 流石に起きるにはまだ早いと寝転がるも、とても二度寝が出来るような気分では無い。

 というより

「……すっごい、いっぱい寝た気がする……」

 今の彼女に、これ以上の睡眠は必要なさそうである。

 こんなに頭というのはすっきり冴え渡るものだったのかと、知世は布団の中で少々驚きを覚えていた。
 どうやらこれまでは、なかなか寝付けないだけでなく睡眠の質も悪かったのだろう。
 目覚ましが鳴るまで寝ていた普段よりもずっと感覚は鮮明で、思考は働いて

 ――だから、夢の内容も細部まできっちりと思い出せる。

「…………うあああああ! お布団さんのばかあぁぁ!!」

 先ほどまで展開されていた、願望を大幅に超えた寝具の出血大サービスに、知世は思わずブランケットを抱き締め控えめな声で叫ぶのだった。

「いっぱい寝られたよ? 寝られたし、そのっ、確かにお尻はいっぱいぺんぺんしてもらったけど……あっ、あんなっ、お漏らしさせるようなご主人様なんて、聞いてないっ!!」

 ぶんぶんと頭を振ったところで、残念ながら記憶が飛んでいく気配は無さそうだ。
 
 いや、あれは本当によろしくない。
 焦がれ続けた欲望の時間を叶えてくれたおまけとして刻まれた変態極まりない醜態は、あの薄い水色の……ゾクリとするような圧を湛えた瞳と共に、きっとこれからは動画を見る度脳内で再生されること間違い無しだ。

「ああもう……恥ずかしかった……でも…………ううん、恥ずかしかったの!!」

 その先にちらりと浮かんだ感情の泡は、今のところ見ないことにしようと知世は決めた。
 取りあえずは叶った願いを堪能する。そう、今はあの痛みと熱さを、何度も反芻したい。

「…………痛くないや……当たり前だけど……」

 パジャマ越しに触れた、もちもちのお尻。
 理想からは遠くかけ離れたその肌には、先ほどまでの激しい行為の痕跡すら見当たらない。
 きっと鏡に映せば、いつも通りただの白い尻があるだけなのだろう。

「……」

 ぽふっ

 知世の手のひらが、何気なく尻を打ち据える。
 二度、三度……叩いたところであの部屋を満たすような色は奏でず、思わず涙が出るような衝撃も伝わらない。

「……痛かったな…………」

 名残惜しそうに腕を振るいながら、知世はぽつりと呟く。

 そう、初めてのスパンキングは想像以上に痛かった。
 他人のペースで打たれることが、これほどまでにドキドキして、痛くて、熱くて……なのに、心は明らかに安心を覚えていて。

 あんなに鳴かされたばかりなのに、また夢に舞い戻りたいと思うだなんて、と己の強欲さにちょっと呆れてしまう。

「……お布団さん」

 やはり今夜の出来事は、ひとかたまりの記憶として刻まれてしまったようだ。
 スパンキングの情景と共にふっと決壊した瞬間の絶望と、嬉しそうなご主人様の声が脳裏によぎって、耳まで真っ赤に染めながら知世は顔をブランケットに埋め、そっと語りかけた。

「あの……これからも、毎日……ご主人様におしりぺんぺんしてもらいたいです……できたら、道具とかも使って……あ、でももうお漏らしはやめてほしいな、なんて」
「…………」

 当然、返事は返ってこない。
 けれど知世は何となく予感していた。

 多分、これは始まりに過ぎない。
 きっとこれから自分は、毎日妄想のご主人様に夢の中で、憧れ続けたスパンキングを授けて貰うのだと――

 ピピッ、ピピッ……

「……起きよっか」

 いつの間にか時間が経っていたのだろう、起床のアラームが鳴り響く。
 知世は丁寧にブランケットを折り畳み、クローゼットの奥にそっとしまって「あの、ママに見つからないようにここから出ないでね……あと、学校にも着いて来ちゃだめだよ?」と囁き、ハンガーを手に取った。

「……おしっこ臭くない……って、何やってるのよ、私……はあぁ……」

 ――袖を通す前につい、制服の匂いを嗅いでしまったのは、言うまでも無い。


 ◇◇◇


「知世ちゃん、今日は珍しく授業中に寝てなかったね!」
「あ、そういえば……どしたの知世、とうとう覚醒した?」
「んーん、昨日は凄くよく寝られたから……」
「そっかそっか、寝られたのはいいことだよね! ……で、試験勉強は? ……どうして目を逸らすのかな、知世ぇ?」

 放課後、知世はいつものように学食へと顔を出した。
 今日はいつもの時間に迎えが来るから教室で待っていても問題は無いのだが、一刻も早く鞍馬に寝具のことを報告せねばと思ったのだ。

(本当は一人で行きたかったけど……仕方ないよね)

 案の定、友人達は「なになに? 学食行くの?」「鞍馬さんに告白? なわけないか!」と知世を茶化しながら一緒にやってくる。
 これでは話が出来ないかもなと不安になりつつもドアを開ければ、人もまばらな受取カウンターの近くに、この時間には珍しい客人が陣取っていた。

「あれー、従者さんだ! 今日は早めのお迎え?」
「え、あ、うん。出張帰りだから早めに上がってて……あ、ここにいたら邪魔かな」
「だいじょぶだいじょぶ、今試験前だから部活上がりの子もいないし!」
「あれ? 従者さん、どうしたのその指? はっ、もしかして抗争で」
「だからっ、こんな顔だけど俺はヤクザじゃ無いんだってば!! ちょっと稽古で怪我しただけで……」

 友人の声にちょっとおどおどした様子で応じるのは、いかにも体育会系……というよりどこぞの組の者ですかと尋ねたくなるような風貌の、大柄な青年だ。

 年の頃は三十路に届くくらいであろうか。立派な胸筋のお陰で、ワイシャツのボタンはちょっと力を入れたら漫画のようにはじけ飛びそうだ。
 毎日のようにルームシェア仲間である鞍馬を迎えに来るため、いつしか学生から「従者さん」と呼ばれるようになった彼の額には、太い三つの傷跡が刻まれている。

 噂によれば、あれはかつて熊と戦い、鞍馬を守った証なのだとか。
 流石に熊は無いだろうと思うけど、黙っていれば鋭い眼光と190センチ近い上背、そしてがっちりした体躯は、噂と一笑に付すには少々凄みがありすぎる。

 ……あれで中身が気弱なヘタレだなんて、神様は属性の付け方を間違えすぎだと、ここにいる誰もが思っているに違いない。

「ねぇねぇ従者さん、鞍馬さんって彼女いるの?」
「へっ!? え、いや、その」
「鞍馬さんの好きな食べ物って何か知ってる? 趣味は?」
「あ、あわわわ……」

 鞍馬を密かに狙っている彼女達からすれば、滅多に遭遇しない従者さんとの邂逅は千載一遇のチャンスなのだろう。ここぞとばかりに彼を質問攻めにしている。
 知世に引っ付いてきた友人達も、こんな面白いことは無いと言わんばかりに野次馬の群れに合流してしまって。

(……ま、その方がいっか)

 思いがけず邪魔が減ってよかったと安堵しながら、知世はカウンター近くを通りがかった鞍馬に声をかけた。

「あのっ、鞍馬さん……きっ、昨日はその……」
「ああ、チセか。どうであった、しっかり寝られたか?」
「……っ、はい! 帰ったらベッドの上にあったのはびっくりしましたけど、朝までもうぐっすりで……その、ありがとうございました。あんな高そうなものを」
「なに、礼には及ばぬ。あやつがお主を選んだのだからな」
「あはは、はぁ……」

(選んだ、かぁ……あんなことがあったから信じざるを得ないけど、なんか……むずむずするよねぇ……)

 いつもより目の下のクマも薄いなと微笑む鞍馬が、曖昧な顔で笑う知世にすっとトレイを差し出す。
 その上に載っているのは、抹茶アイスの乗ったあんみつだ。恐らく知世が来た段階で作っていてくれたのだろう。
「その顔色なら、今日はいつもより堪能出来るであろう」と微笑む笑顔は相変わらずキラキラと輝いていて、知世は少し緊張しながらトレイを受け取った。

 ――本当に、この人の美しさは眩すぎて……こちらの汚れが全て浮き上がるようだ。

「んむ、むぐっ……はぁぁ、この抹茶の香りがしっかり効いているのが堪らない……あんこ多めなのもポイント高いですよね! しかもつぶあん!!」
「それが分かるなら、本当によく眠れたようだな。今日は一段と良い顔をして食べる」
「ふふっ、確かに……今日のあんみつは格別美味しいです!」

 一口、二口、大切そうにあんみつを口に運ぶ知世の満足げな笑顔に、鞍馬はどこかほっとした様子だ。
 そうしてふと知世の心が緩んだのを確認したのだろう、穏やかな口調で「ところで」と話を切り出した。

「チセはあれに、願いをかけてみたのか?」
「! ……あ、えっと……いち、おう……」
「ふむ、その様子では、叶うには叶ったが少々予想外であったと言うところか。……なに、内容までは聞かぬ。そうだな、なるべく具体的に言い聞かせれば齟齬も無くなるであろうよ」
「あ、はい、そうみたいですね。ちゃんと学校にも着いてこずに、クローゼットでお留守番しているみたいですし」
「……ほう、そうか……」
「?」

 知世の言葉に、鞍馬は少し眉を顰める。
 不安そうに見つめる知世に何でも無いと微笑みながらも「あやつ、ちゃんと仕舞われて待てるのでは無いか……私の時と随分態度が……」とぶつぶつ呟いているあたり、かのブランケットは元の持ち主である彼には少々塩対応だったのかも知れない。

 何にしても、具体的な願い事を聞かれなくて良かった……
 そう心底胸をなで下ろしていた知世の後ろから「あーっ!」と叫ぶ声が聞こえた。


 ◇◇◇


「もう、ちょっと目を離したら美味しく食べてるんだから!! 知世、それ鞍馬さんから?」
「いいなぁ知世ちゃん、またおやつ貰ってる……鞍馬さんって、前から思ってたけど知世ちゃんには甘いですよね」
「そうか? 食を楽しむ学生には、皆同じようにしているのだが……そもそもお主らは、この時間に菓子を貰うのはだいえっとに差し障ると言っておったでは無いか」
「それはそう。でも見てると欲しくなる」
「ふむ、乙女心は複雑だな」

 どうやら今日の仕事は終わったのだろう、鞍馬は帰り支度をしながら、知世の友人達と軽口を叩いている。
 そんな彼女達をもぐもぐ口を動かしながら眺める知世の瞳の奥には、小さな悲しみと諦めが灯っていた。

(……いいなぁ、みんなスリムで……綺麗で……)

 流石に鞍馬の神々しいばかりの美貌には劣るけれど、友人達は皆スタイルも良いし、顔だって整っていると思う。
 身長180センチ近い母の遺伝子が強く出ていれば、私もあんな風に堂々とイケメンと話せたのかなと、知世はスプーンを持つ己の手を見つめる。

(……身長はクラスで一番低いし……ぷくぷくで子供みたいな手だし……)

 また体重増えちゃったしなぁとため息をつきながらも、あんみつを食べる手は止まらない。
 知世にとって食べることは、この世界で得られる唯一の安らぎなのだ。
 ほっそりした手足もくびれのあるウエストも平らなお腹も憧れるけど、この時間を捨てることはとてもできそうにない。

 それに

(このくらいの残念な身体が……私にはちょうど良いから)

 容姿が優れなければ、男の目に付くのを少しは避けられるだろう。
 十人並みよりちょっとだけ劣るくらいの立ち位置は、目立つことも無く、そして要らぬ敵を作ることも無く人生を渡っていけるのだと、知世は気付いている。

 ――脂肪と共に汚れを詰め込んだこの筐体は、今の自分には似合いの装束だ。

「ふふーん、知世ちゃんのほっぺはもっちもちで癒やされるよねぇ」
「ふにぃ……ただのお肉だよ? はぁ、私もみんなみたいに頑張って痩せた方がいいかなぁ……」
「えー知世はそのまんまでいいじゃん! ぽっちゃり癒やし系でさ」
「そうそう、クォーターだから肌の色だって白いし、髪だって天然のブロンドとかお人形さんみたいで、ほんと可愛くて羨ましい!」

 知世の食べてる顔を見てたらこっちまで幸せになるわぁと、友人は自分をぬいぐるみのように愛でている。
 だから知世も「そっか」と屈託のない笑顔を浮かべて、彼女達の望む形に合わせる。

 ……自分と、彼女達では、可愛いの形は異ならなければならない。
 優越感をちょっとだけくすぐる位置は、きっと心地よいのだろう。

「ね、鞍馬さんだって知世のこと可愛いと思いますよね?」
「ちょ、ちょっと陽菜ちゃん!?」
「ん? ああ、そうだな」

 不意に話を振られた鞍馬は、彼女達に頷くと知世を見つめる。
 その瞳は、かつてあの人から向けられていた眼差しに似ていて……だからだろうか、安心と裏切りへの猜疑心が混じり合い、心の中がかき回されるのがどうにも落ち着かない。

「ふくよかなのは健康で豊かな印だ、誠に良いものだと思う。何より、幸せそうに食べる姿ほど作る側としては嬉しいものは無い」
「ふぅん、もしかして鞍馬さんは大食いっ子が好き?」
「そうかもしれぬな……さて、そろそろ帰るか」
「はーい、また明日ね、鞍馬さん!」

(……嬉しい、かぁ)

 席を立ち、鞍馬を待っていた青年と共に学食を後にする後ろ姿を見送りながら、知世はひとりごちる。

 従者さんと共に暮らす鞍馬は、彼の食事も作っていると以前聞いたことがある。
「あやつに作らせると、指は切るわ火柱は立てるわ……心臓がいくつあっても足りぬからな!」と零す彼は、いつも従者さんの豪快な食べっぷりをどこか誇らしげに語ってくれるのだ。

 ――だから、きっとさっきの言葉も心からの本音だろう。
 彼の基準は、表の美醜より食い気……というと随分俗っぽいけど、自分の周りで観測する男達とは随分ずれているのは間違いない。

(ほんと、不思議なお兄さんだよねえ……)

 鞍馬は決して、見た目で知世を評価しないし、美味しそうに食べていても邪な色も浮かべない。
 だから彼は他の男の人ほど怖くないのかもしれない……

「♪~」
「!!」

 ぼんやり流れる思考は、唐突なスマホの着信音でかき消される。
 ……一瞬曇った知世の顔に、気付いた者はいない。

「あ、パパもう来ちゃった。じゃあね!」
「バイバイ知世、また明日ー!」

 バッグにスマホを入れた知世が立ち上がる。
 ガラスの扉の向こうには、見慣れた影が穏やかな笑顔を貼り付け待ち構えていた。


 ◇◇◇


(分かんないや)

 迎えに来た父の後ろを歩きながら、知世は止めどない思考を巡らせる。

 誰がどう見ても知世には分不相応であろう「可愛い」という言葉。
 それをいとも容易く自分に投げてくる彼らの、たった四文字に隠された質感は、あまりにも異なっている。

 父があのベッドの上で口にする言葉は、いつだって怖気のする泥で覆われているし。
 友人達が自分を撫でながら放つ言葉は、彼女達の望む形であれと押しつける圧力でしかない。

 その事実に怒りは無い。悲しみも、ほぼ無い。
 自分に向けられるこの言葉の色は、それがお似合いだと知世は心の底から思っている。

 ……思っているのに。

(びっくりするほど我が儘で……いっそ清々しかったよねぇ)

 知世の中に溜まる淀みも、それぞれの場面で演じる姿も、何も関係ない。
 生まれたままの姿で、誰も注目しない大きな尻に向かって投げられたご主人様の「可愛い」は、何者の評価も――知世の気持ちすら歯牙にかけない、目的への純粋さだけを含んでいた。

(同じ……男の欲望のはずなのに……)

 何故そんな風に感じたのか、自分にもよく分からない。
 もしかしたら、ようやく夢が叶った喜悦に酔っていたが故の、勘違いかも知れない……

 とかくこの言葉は、裏にあるものがあまりにも違いすぎて。
 故に一体どれが「本当」だか、今の知世には見当すらつかなくて。

 けれど

(……叩きやすい、素敵なお尻、かぁ…………)

 今日は妙に、あの夢の……ご主人様の言葉が、嫌では無い感覚で耳に残る。

「知世?」
「あ、ごめんパパ、今行くー!」

(……ああ、夜が来る)

 冬を知らせる風の音が、鼓膜を鳴らす。
 その冷たさに、知世はとりとめの無い思考を身震いと共に振り払い、己を呼ぶ父の方に向かって歩き出す。

 ふと見上げた夕焼けに染まる空――憂鬱な夜を告げるその警告色は、何故か昨日までより……ほんの少しだけ、鮮やかに輝いて見えた。

© 2026 ·沈黙の歌 Song of Whisper in Silence