第3話 夢に溺れて
「まだ内部進学の合格基準には届いていませんが、最近は知世さんが授業中に居眠りすることも随分減りましたしね。この調子で頑張れば、まだ間に合いますよ」
「そうですか……良かった……」
世間が年末特有の忙しなく浮ついた空気に包まれた、ある日の午後。
窓の外に広がる鉛色の空とは裏腹に、三者面談を行う教室の中にはどこか明るい空気が流れていた。
成績表を前に話を進める教師と母の表情も、いつもに比べてずっと柔らかい。
(……良かった、ママも安心してる)
知世は内心胸をなで下ろしながら、目の前の数値の羅列を眺める。
ここ一年は半分以上に赤点を表す線が点数の下に引かれていたが、今回は苦手な数学だけだ。それも前回よりは13点アップと明らかな改善が見られる。
(ちゃんと眠れるって……凄いんだな。授業や勉強会の内容がちゃんと頭に入ったもの……あ、でも勉強会は鞍馬さんのおやつのお陰かも)
大人達の話を横に、知世はあれ以来少しだけ色づいた教室をぼんやり眺めながら、試験前の事を振り返っていた。
あの日を境に、知世は熟睡という概念を取り戻した。
お陰で学校では授業中の居眠りが激減。
周囲からは驚かれるどころか「どこか調子悪い?」と逆に心配される始末ではあったが、ともかく授業は真面目に受けられるようになったのである。
けれど、相変わらず家ではまともに勉強をしない日々が続いていて。
そんな知世に業を煮やした友人達により、急遽開かれたのは学食での放課後勉強会だった。
「鞍馬さんのご褒美付きなら、知世でも勉強するでしょ!」
「えっ、鞍馬さんの新作スイーツ食べ放題!? するする、それなら勉強頑張る!!」
「チセよ、それは随分話が飛躍している気がするのだが……まあ学業のためならば、致し方ないか」
「やった! ありがとう、鞍馬さん大好きぃ!!」
友人たちが勝手に学食のお兄さんを巻き込み――むしろあれは、友人達がお相伴に預かりたかっただけかもしれない――毎日のように開かれたスパルタ極まりない時間も、夜毎寝具によってもたらされた深い眠りがなければ、何の役にも立たなかったに違いない。
何より眠れていると、友人達の好意もすんなり受け入れられるという事実はちょっとした驚きだった。
三大欲求に数えられているだけのことはあって、睡眠とは決して人生における時間の無駄遣いでは無かったらしい。
(お布団さんのお陰よね。毎日ぐっすり眠れて、それに……あんなことも……)
「知世?」
「っ、な、何? ママ」
「だから、知世も頑張ったし帰りにカフェに寄らない?」
「行く!! ねえママ、今日はアフタヌーンティーセットを頼んでいい?」
「いいわよー、ちょっとだけ贅沢しちゃおっか」
先生との話を終えたのだろう母の声に、知世は慌てて笑顔を作る。
大丈夫だろうか、さっきの妄想に耽るだらしない顔が漏れていたらどうしようと、ひやりとしたものが胸を過ったが、母の表情を見る限り問題は無さそうだ。
(気をつけなきゃ……もう『あれ』の無い生活なんて考えられないんだし……)
誰にも知られない、知られてはいけない秘密の時間――
言葉にすれば同じだというのに、心に流し込まれる温度は桁違いで、しかも日中の眠気もスッキリ、身体は軽く成績まで上がるだなんて。
こんなに良いことずくめだと、いつか罰が当たりそうだ。
(ふふ、これなら……私、ちょっとだけ楽しく生きていけそう)
今回の結果は、冷静に考えれば付け焼き刃に過ぎない。
けれど今は、希望が繋がったことを素直に喜ぼう――
知世は少しだけ明るい未来を描きながら、母と教室を後にするのだった。
◇◇◇
「知世、部屋に上がる前にお風呂入っちゃいなさい」
「はーい」
年の瀬を迎えても、表向きの生活には何一つ変化は無い。
夕食をと入浴を終えた後、知世はいつも暖房の効いた自室で過ごす。
本当は、少しでもこれまでの遅れを取り戻すべく勉強した方がいいのは分かっている。けれど、扉の向こうの足音に耳をそばだてながらでは、集中力が続くはずも無い。
かといって、知世はこれと言った趣味を持たない。強いて言うなら食べることが趣味だろうか。
だから部屋に籠ったところで何をするでも無く、ベッドに腰掛けて手持ち無沙汰にスマホを弄り、時が経つのを待つだけだ。
前はもっと、何か夢中になるものがあった気がするけれど、今では霧の向こうに隠れて……何も思い出せないし、思い出そうとも思わない。
――思いだしたら、きっと惨めになるだけだから。
(早く、夜になって……)
時折時間を気にしつつ、知世はぼんやりとSNSを眺める。
刺激的な動画も、感情を揺さぶる投稿も、ただ意識の上を上滑りするだけ。
むしろこれはスクロールという行為を楽しんでいるのでは無いかとすら思い始めた、その時
コンコン
「!」
小さなノック音に、知世は飛び跳ねるように起き上がった。
(やっぱり、今日も来るよね……)
途端に凍てつく心を悟らせないように、あの人の望む表情を貼り付けて。
早く終われと念じながら、知世は慣らされた快楽を悦ぶ何かに変貌する。
(でも……これが終われば……)
……けれど、数週間前の知世とその内側の景色は明らかに違っていて。
泥の中へと引きずり下ろされ、心を腐らせる絶望の奥には
(……終われば、夢に行ける……『ご主人様』に逢える……!)
確かに、爪の先ほどの微かな慰めが灯っていた。
◇◇◇
「あんまり長居すると、怪しまれちゃうよね……」
23時過ぎ。
知世はトイレの中で再びスマホの画面を無意味にスクロールする。
ぼんやりと腰掛けた下からは絶え間ない水流の音が、知世の秘所を痛いほどの勢いで洗い清めていた。
本当はお風呂に入りたいけれど、流石に二度も入れば母に怪しまれかねない。
寝る前に入ることにすればいいとは分かっていても、それを言い出すことすらこの温かな家を壊してしまいそうで……
だから、せめて大切なところだけはここで丹念に洗い流す。
――どれだけ洗ったって、染みついた汚れが取れることはないのに。
「ふぅ……お待たせ、お布団さん」
すっかり冷え切った部屋の窓を閉め、クローゼットの扉に手を伸ばす。
知世の瞳に浮かぶのは、先ほどまでの光を失った笑顔とは裏腹に、どこか熱に浮かされたような期待だ。
奥の方に見つからないようしまい込まれたブランケットをよいしょと取り出すと、知世はベッドに座り込む。
そうして、頭から肌触りの良い織物をすぽんと被ってしまった。
「ん……落ち着く……」
ほう……と無意識にため息が溢れるのは、カーテンから漏れ出る月明かりすら拒む優しい暗闇が、この身体に溜まったものよりもずっと濃いからだろうか。
闇に覆われた淀みは遠くなり、ふと気になってすんすんと匂いを嗅いでも、そこに汗や埃の匂いは感じ取れない。
……どこまでも約束された清潔さは、いつだって知世を安堵へと導いてくれる。
「何をしても汚れない……いいなぁ、私もそうなれたらいいのに」
思わず漏れた自嘲混じりの本音は、余計に知世を虚しくさせるだけだった。
◇◇◇
知世が藍色のブランケットを鞍馬から譲り受けて、一月あまりが経った。
あれから彼女は、毎夜のように織物にくるまっては願いをかけ、夢の世界へと深く潜る生活を堪能している。
ありがたいことに「お布団さん」はこんな変態極まりない願いでも文句一つ言わず、知世の細かな要望にも応えて望む世界を夢の中に展開してくれるのだ。
そんなある日、知世はふと気付く。
――そう言えばこれを使い始めてから、一度も洗濯をしたことが無いな、と。
「さ、流石に洗った方がいいよね……時々涎垂らして寝ちゃうし、身体だって汚れてるし……」
散々お世話になっておきながら、洗濯の一つもしないというのはちょっと申し訳ない気がする……
そんな気遣いから一念発起した知世は、冬休みに入るや否や親が仕事で不在の間を狙って、洗濯機に藍色のブランケットをえいやと放り込んだのである。
「タグが無いから分からないけど……でもママも家で毛布を洗ってるし、大丈夫よね……」
明らかに自宅の毛布とは質が違う寝具は、洗濯機を使っていい品ではない気もしたけど、とても手洗いなんてできそうにないから、そこは見なかったことにして。
ついでに
「……はっ! 洗ったのは良いけど、これ……どこで乾かすの!?」
……先のことを何一つ考えずに。
「コインランドリーは自転車じゃ遠いし……そうだ、ベランダにこっそり干せば……ううん、無理無理絶対バレるってこの大きさじゃ!! ああああ! 知世のばかあぁぁ!」
己のやらかしに気付いて頭を抱えるも、ブランケットは既にぐるぐる回る洗濯機の中である。
もうおしまいだと、知世は絶望的な気分でがっくり洗濯機の前に崩れ落ち、終了のアラームが鳴ると同時に蓋を開ける。
だが中を覗き込んだ彼女は、次の瞬間眼前に広がる光景にぴしりと固まった。
「え…………濡れて、ない……?」
ドラムの中に鎮座する織物は、まるで洗濯機に入れたときと変わらない風合いで佇んでいた。
いや、正確には入れたときとは異なっている。
なにせ、放り込んだときは間違いなくぐしゃぐしゃだったのに、目の前にある寝具はきちんと折りたたまれた状態で……そう、ベッドの上に突如現れたときと同じ状態を保っていたのだから!
「なんで? わ、私ちゃんと水は入れたよね!? 蛇口だって開けてるし……というか、洗剤入れた段階で濡れてたはずよね!?」
嘘でしょ、と知世は震える手で取りだしたブランケットに頬ずりする。
その風合いは変わらず極上のままで、思わず頬がにやけ……ている場合じゃ無かった! と、試しに洗面台の蛇口を捻り、そうっと織物の端に水をかけた。
するとどうだろう、水はまるで見えないドームに弾かれるかのように、織物を避けて流れて行くでは無いか。
「……なに、この奇跡の防水性能…………」
明らかに人知を超えた現象を、無理矢理人の知る概念に押しつけて。
しかしこれで乾燥問題は解決した、親にもバレずにすむ……と、知世は魂の抜けた声を発し床にへなへなと座り込んだのであった。
◇◇◇
あれから数日。
良く見ればこの部屋に突如現れたときから全く色褪せない風合いからも、きっとこの怪しい織物は洗濯要らずというありがたい性能を持っていると判断した知世は、今夜も安心してブランケットの子と化している。
(汚れないなら、いい)
この中でだけは、自分は笑顔を作らなくて良い。
何もしない、何も出来ない愚鈍な自分でも、粘ついた穢れに侵された身体でも、怪しい織物は何も言わずにそっと抱き締めてくれる。
そして
(私で汚さないから……こうやっていっぱい頬ずりしても、大丈夫)
――決して取れない汚れを包んですら、その美しさも風合いも決して褪せないから……自分の全てを託せるのだ。
「お布団さん、今日も……」
小さな声で知世が呟けば、こんもりした巣の中がぼんやりと明るくなる。
まるでその先は分かっていると言わんばかりの穏やかな光に「ありがとう」と思わず笑みを零し、知世は白く霞む意識の向こうへと身を任せる。
「今日も……いっぱい、ご主人様にぺんぺんしてもらいたいです……」
……力の抜けた右手には、使い慣れた木じゃくしが握られていた。
◇◇◇
ふわり、と爪先が白い床に触れる。
そっと瞳を開けば、だだっ広い空間にぽつんと置かれたソファが一つ。
そこに背を持たせる人影を見るや否や、知世の顔に喜色が灯った。
「ご主人様!」
「……ん」
顔を覆う黒い布の隙間から、緑がかった水色の瞳がこちらを射貫く。
初めて夢の中で出会ったときと変わらない圧に、知世の背中にはゾクリとした痺れを伴う歓喜が這い上り……鼓動はいつだって高まりっぱなしだ。
そのまま知世はぽてぽてとソファに駆け寄り、すっと足元に跪く。
ご主人様とは対照的に、その身体には一枚の布きれも見当たらない。
目に映る己の肌色に、はぁ、と期待の籠もった熱い吐息をひとつ落として、彼女はいつものように妄想のご主人様へのおねだりを口にした。
「ご主人様、今日も……いっぱい、お尻ぺんぺんしてください」
「……いいよ、小ブタちゃん。じゃあ、いつもみたいに良く見せて」
「っ、はい……!」
少し高めの、ハスキーな声。
命令を受けた知世は、その場に立ち上がりくるりとご主人様に背を向けると、頭の後ろで手を組んでまろい尻を突き出した。
「…………」
「……っ…………」
静かな時間が、ゆっくりと流れていく。
背後に座るご主人様が動く気配は無い。
ただじっくりと、まるで美術品を鑑賞するかのように真っ直ぐな視線が、知世の背中を、尻を、そして……太ももを撫で上げるだけだ。
「じっとしてなよ。なに、小ブタちゃんまだ恥ずかしいの?」
「はぁっ……だって…………」
「小ブタちゃんはすぐピンクになるから、全部バレバレだね。……それとも、見られて悦んでるのかな?」
「んふぅ……っ」
(ううぅ、裸には随分慣れたけど……この時間はだめだよぉ、頭おかしくなっちゃう……!)
知世は夢の中で、決して服を身に付けない。
二度目の逢瀬の時、昨日の痛みを反芻しながらにやけ顔で夢に飛び込んだら思いがけずすっぽんぽんの姿を披露する羽目になり、思わず叫んでしまったのも今となっては懐かしい思い出だ。
『え、ちょ、待って何で裸なのおぉ!?』
『……そりゃ昨日、制服をお漏らしででびちょびちょにしたからだろ? まあどうせ尻を叩くなら脱ぐんだし、手間が省けていいんじゃない?』
『!! あ、やっ……うわああご主人様、お願いしますっこんな身体見ないでくださいっ!!』
『…………どうして?」
『どっどうしてって……だって私、全然可愛くないし……太ってるし、お腹だってお尻だってぽよぽよで……』
『いや、叩くのに問題は無いから』
『へっ……あ、ええと……そういうもの……?』
突然の全裸に頭が真っ白になり、パニックを起こした知世とは異なり、ご主人様はどこまでも冷静で現実的だった。
確かに言われてみれば、服の上から叩くなどという生ぬるいプレイで、知世が満足出来るはずが無い。
それに……下手に着込んでいたら、また初日のような尊厳を破壊し尽くす仕打ちが再来するかもしれないと、ご主人様の美しい瞳と視線を交わした知世は瞬時に判断する。
多分、そこで心底知世が納得してしまったからだろう。
あれ以来、一度たりともこの身体が夢の中で布を纏っていたことは無い。
(……問題ない、って言われたし…………本当に問題なさそうだし……)
知世は頬を染めながら、そっと俯く。
目に映るのは、同級生と比べても一回りは厚みのある身体だ。
ぽっこりしたお腹に、食いしん坊のツケが全部回ってきたかのようなお尻は、背の低さと相まっていつだって服選びに難儀する。
一応若さだけはあるから肌は張りがあるし、胸は余分なお肉が付いている分友人達よりもずっと豊かではあるけれど、決して見目麗しいとは言えないと自分でも自覚している。
なんでこんな身体に欲情の目が向けられるのか、男という物体の不可解さには首を傾げるばかりだ。
けれど、ご主人様は知世の身体をねっとりとした視線で褒めそやしもしなければ、どこか気遣いと優越感を混ぜ込んだ軽い言葉を投げつけもしない。
むしろ興味が無い……と言った方がいいのだろうか。その言葉に意味のある色が見受けられないのは、逆に新鮮だなと思う。
「はーっ……はっ……」
じろじろと這う視線に、知世の息は少しずつ荒くなる。
北欧の血が入っているせいか、人より白い肌は容易に色づいて、恥ずかしい内面をあっさりとご主人様に見せつけてしまう。
(やっぱり……私、ご主人様の視線が……気持ちいいんだ……)
ピンクの霞がかかった頭で、知世はこの一ヶ月の間否定し続けてきた事実を、ようやく認めるに至った。
――そう、認めても良いかなと思えるくらいには……この時間はいつだって穢れてなかったから。
「!!」
「ほんっと、大きくて柔らかくて……あんまんみたいだ」
「っ……んふ……」
「ほら、動かないで」
「! はいっ……」
気が遠くなるほどの時間が過ぎて――実際には10分にも満たないのかもしれないけれど――ようやくご主人様の手が知世の柔らかな丸みに伸びる。
その手つきも、布で覆われた唇から溢れる声色も、まるでこれから打ち鳴らす楽器を確認するかのように、どこか無機質だ。
「ふぅっ……んぁっ……」
「まだ叩いてないんだけどな…………これだけで嬉しいんだ?」
「……はい、嬉しい……です……」
あくまでも静かなトーンで、繰り出される問いかけ。
きっと澄んだ瞳には、何の濁った感情も乗っていない。
だからこそ、音が、皮膚を撫でる刺激が、脂肪で遠く離れているはずの胎を、ぞくりと撫で上げる。
(ご主人様なら……気持ちいい…………)
半開きの唇から漏れる吐息は、どこまでも湿って熱く。
自然と上向く瞳は潤んで、焦点が合わない。
そんな快楽を、この身体はよく知っている。教え込まれている。
――知っているからこそ分かるのだ。これはいつもと「違う」もの……ずっと望んでいた、受け入れられるキモチイイだと。
(恥ずかしいし、ちょっと情けないけど……)
(……こんなに全身がどろどろしているのに、汚くない…………)
「はぁっ……はぁ……あぁ……っ…………」
「…………」
何の欲情も載らない視線は、こんなにも心地よくて。
目眩がするほどの羞恥を覚えていながら、どこか知世に安心を与えてくれる。
(ご主人様…………もっと、見て…………)
「……もっ、と……」
「…………いいよ、いっぱい鳴く前にとろとろに蕩けさせてあげる」
熱に浮かされた頭は、自然と卑猥な懇願を口にする。
それを許されれば、もっと安心して……もっと、身体の内側が全部溶けてしまったようで……
(あ……私、また一つ、変態になった、かも……)
最初に受けた仕打ちのような衝撃は無いけれど。
確かに今、自分の中の何かが、優しく捻じ曲げられた気がした。
◇◇◇
「あのっ、ご主人様……今日は、こっ、これで叩いて下さいっ……」
「……木じゃくし? ふぅん、小ブタちゃんはこんなもので叩かれたいんだ」
「あっ……その……」
「いいよ、じゃあ掴まって」
「はっ、はいっ!」
流石は妄想が作り出したご主人様だなと、知世は自分の妄想力に感心しながら白いソファの背もたれに手をかける。
このソファも、いつの頃からか夢の空間に現れるようになったものだ。
今ではご主人様との立場の違いを分からせる小道具に、そしてお尻を捧げるためのちょうど良い支えとして活躍している。
「あれ、濡れてる」
「!!」
目一杯突き出したお尻の間からは、隠したいところが全て丸見えなのだろう。
ぐちゅりと卑猥な音を立てそうな程潤んだ泥濘をめざとく見つけたご主人様は、どこか楽しそうに知世の耳元で甘い毒を流し込んだ。
「……お尻、叩かれたくて悦んじゃうんだ」
「あ……ぁ……」
「あーんなに痛いってグズグズに鳴く癖に…………小ブタちゃんはほんっと変態だな」
「んはぁ……っ……!!」
囁く吐息が、鼓膜をくすぐるように揺らす。
それだけで知世の身体は、ますます熱を帯びていく。
(ああ……やっぱりいい……ブタって呼ばれるのも、変態って蔑まれるのも……ほっとして、けどゾクゾクして気持ちいい……!)
ご主人様は、知世のことを「小ブタちゃん」と呼ぶ。
これは呼び名を知らず思案していたご主人様に、知世からお願いしたことだ。
『あの、ご主人様……私のことはブタとお呼び下さい』
『…………ブタ?』
『あ、何なら変態とかゴミマゾとかでも』
『んん? ……はぁ、まあいいよ。じゃああんたは、今日から小ブタちゃんだ』
唐突なお願いは、妄想が作り出したご主人様にとっても意外だったのだろう。なんとも言えない感情を瞳に浮かべ、けれど最終的には知世の望みを叶えてくれた。
今日だって、突然手渡された木じゃくしを拒絶することなく、ぶんぶんと良い風切り音を鳴らして試し振りしている。
「ふぅん……手とはちょっと勝手が違うな。獲物は使ったことが無いけどまぁ、腕が長くなったと思えば」
「ご主人様、また武闘派モードになってません……?」
「心配しなくても、壊れる前には止めるって」
――いや、あれは単に知世の願いに沿っただけでは無い。
新しい玩具を手に入れて、どうすれば知世をたんまり鳴かせられるか内心盛り上がっているのが見え見えだ。
そんなご主人様の楽しそうな姿は、下腹部にずくりと痺れるような熱を灯す。
自分の妄想だから当然だけど、ご主人様だって自分と同じ変態として形作られている、その事をまざまざと見せつけられて……
ああ、その瞬間が待ち遠しすぎて頭がおかしくなりそうだ。
(はあっ……あの音が、私に…………)
心臓が、きゅっと痛くなる。
いつだってこの時間は、恐怖で身体が勝手に震えて……喉がカラカラに乾く。
まるで後ろ半分の神経が全て剥き出しになったかのように、些細な気配もビリビリと背筋に響いて……
もう、こわいのか、うれしいのか、わからない。
「んー、面全体で弾くように……次は中に響かせて……」
パン、パンっ……バシッ……
独り言と共にご主人様の手に打ち付ける音が、数を重ねる毎に澄んでいく。
「はぁっ、はぁっ……はぁ……っ……んっ!!」
ひたり
……そうして、どのくらいの時間だっただろうか。
まるで断頭台に上る己の足音にさえ思える音がようやく止んで、尻たぶの下のほうにそっと馴染みのある木肌が触れて。
「じゃ、叩くから。……今日もいっぱい『ごめんなさい』しなよ?」
「……はい…………」
ひゅっと軽い風鳴りが耳に届いた次の瞬間
パシイィッ!!
「ぐっ……うぅ……っ……!」
いつもと少し違う感触と共に、待ち望んだ狂宴は幕を開けた。
◇◇◇
浴び慣れた手のひらより、ずっと乾いた、どこか弾けるような痛み。
とは言え積もり積もればいつもと同じように、この白い肉は痛みと熱さを訴え、一打毎に身体が勝手に跳ねて……やがて涙と共に言葉が溢れ始める。
パシッ、パシッ、パンッ……
「えぐっ、ひぐっ……ごめん、なしゃいっ! ずずっ、ごしゅじんさまぁごめんなしゃいいっ!!」
「お、やっと調子が出てきた。いいね、もっと鳴いて、俺を楽しませてよ」
「ひぎいぃっ、痛いよぉっ!! うわああんごめんなさいぃっ!!」
無様に鳴けば鳴くほど、ご主人様の打撃は鋭くなる。
顔は見えなくとも、きっと今ご主人様は満足そうに笑っているのだろうなと、知世は痛みで時折白くなる頭に思考の欠片を並べていた。
(ほんと……いつもだけど、容赦ないなぁご主人様は……)
この逢瀬が始まった当初は、ご主人様が望むような醜態を演じれば、きっとこちらの満足がいくまで叩いてくれると知世は軽く考えていた。
だが余裕のある浅知恵に気付いたのか否か、美しい手から繰り出される痛みは、そんなこざかしい余裕をいつもあっさりと奪っていって。
だからいつだって知世は、演じるまでもなく訳の分からないぐちゃぐちゃな感情に早晩飲み込まれ、ただ謝罪を……決して意味を受け入れられず、だが嘆きだけは受け止められる言葉を全力で叫ぶ羽目になるのだ。
(にしても、木じゃくしってこんなに痛かったっけ!? 自分でペンペンしてたときと別物じゃ無いの、これ!?)
溢れ出る涙を拭うことも出来ず、鼻水をずずっと啜り込みながら、知世はいつもと勝手の違う痛みに心の中で叫んでいた。
いつも自室のベッドで己の尻と太ももを打ち据える木じゃくしも、ご主人様にかかれば殺傷力のある武器に変わってしまったかのようだ。
……この調子ではお尻が倍に腫れ上がって、またスカートが合わなくなりそうに思えて、ちょっとだけ怖い。
「ん? 小ブタちゃん? 余計なこと考えてないで、もっと鳴きな、よっ、と!」
「ひぎぃっ、ごめんなしゃいっ!!」
ひときわ強い一撃が、叩かれすぎて少し紫色を帯びてきた太ももに振り下ろされる。
小気味良い打撃音と共に、相変わらず殺風景な空間を彩るような濁った悲鳴が響き渡った。
パン、パン、パシン! パシッ、パンッ……!!
「うああん、ごめんなしゃいっ、ごめ、ひぐっ、いだいっ、ごっ、ごめっうぐぁっ!」
「あーあー、もう謝れないほどぐずぐずじゃん。ほんっと……もっといけるよ、ね?」
「ああああ……っ!!」
いつもながら、ご主人様の体力は無尽蔵だ。
武道経験者という設定と、夢の中というチート性能が成せる業なのだろうか、いつだって知世の足が限界を迎え床に崩れ落ちるまで、その打撃が止むことは無い。
(にしても、今日はいつもより……長くない……?)
そもそも知世の辞書に「やめて」という言葉は存在しない。
あまり早々にギブアップしたらご主人様を失望させるし、自分も後で物足りなさを感じるのが目に見えている。
だから知世は、いつも限界まで――足腰が立たなくなり床を舐めながら泣きじゃくることしか出来なくなるまで、痛みを堪能するのだ。
……ただ、気のせいだろうか。
普段なら時折訪れるインターバルが今日は随分少ない気がするし、何より既に満身創痍でその場にへたり込みそうな知世とは対照的に、ご主人様はいつも以上に興が乗っているような……
そんな知世の小さな疑問に気付いたかのように、腕を振るうご主人様の覆われた口から呟きが漏れたのを、知世は聞き逃さなかった。
「あー道具ってのもいいな……手が痛くならないから、いつもより長く楽しめるんだ」
「……!?」
たまには道具を使うってありだなと頷いているであろう音を拾った知世は、即座に理解する。
(……そうだ、手のひらと違って、道具はいつまで経っても痛くならないよね!!)
――ああ、神様。
この狂宴が終わったとき、私のお尻と太ももがこれ以上サイズアップしていませんように――
終幕の見えない舞台にくらりと目眩を覚えつつ、知世に出来ることはただ、意味の無い謝罪を泣き叫ぶことだけ。
……けれどこんな予想外もちょっと嬉しいかもと内に響いた悦びは、ひときわ強く与えられた痛みへの、あらん限りの絶叫にかき消された。
◇◇◇
「うぅ……痛いよぉ…………」
「ま、これだけ腫れれば痛くもなるさ……あ、ちょっと内出血してる」
あれから一体、どのくらい打たれていたのだろう。
限界を迎えへたり込んだ知世を「んー、今日はここまでかな」とご主人様は特段詰ることも無く、かと言って痛みに耐えたことを褒める訳でも無く、無言で知世を抱え上げソファへとそっと下ろした。
(ご主人様……力強いなぁ、こんな重量物を軽々と……)
うつ伏せに寝かされた知世の肌には、真っ赤な痕がお尻から太ももにかけてびっしりと刻み込まれている。
知世を横たえたご主人様は床に座り込み、この色のない世界に目覚ましの音が聞こえる時まで、延々と己の刻んだ痕をじっくりと眺め、そっと指を這わせるのが常だ。
「んぎゅぅ……」
「痛いのか気持ちいいのか、分かんない声だね。ま、小ブタちゃんは痛いのも悦いから一緒みたいなものか」
「…………はい……」
(……こんなことして……ご主人様は何が良いんだろうなぁ)
この静かな、そして腫れ上がった双丘とは不釣り合いなほどに穏やかな時間を好む趣味は、知世にはない。
最近はご主人様に感化されたせいか、真っ白な肌を眺められることには慣れ……るどころか気持ちよさすら感じるようになったけれど、どこか居心地の悪い時間を紡ぐ度に知世は新たな思いを胸にする。
(自分が作ったご主人様なのに……知らない人みたい……)
確かめるまでもなく、夢の中の登場人物であるご主人様は知世の妄想の産物……の筈だ。
なのにあらためて過去を振り返れば、最初からこの人はまるで独立した人格を持つかのような振る舞いを見せていた。
大体、初手からお漏らしをさせるだなんて発想は、知世の中には一ミリたりとも存在しない。
……こればかりは、実は奥底に眠る願望でしたなんて言われても、絶対に認めることはないだろう。
そして時が経つにつれ、ご主人様の「別人らしさ」はますますはっきりとしているように思う。
(あれかな、漫画を描くと自分の作品のキャラが勝手に動き出すって話と一緒……?)
願望が織りなした筈の所有物が、自分の手を離れて動くのは実に不思議な感覚だ。
しかも、知世が気付いてもいなかった心の奥深くにある小さな欲望まで暴いていくだなんて、あの寝具がもたらす夢は実に親切というか、むしろお節介が過ぎるというべきか。
――暴かれることは嫌じゃ無いし、想像だにしなかった行動も……悪くないと思っているのも事実だから、我ながらちょっとたちが悪いなと思う。
「んぎっ……」
「ははっ、良い声……ほんっと、小ブタちゃんは最初から最後まで俺を楽しませてくれるな」
じんじんとした熱さは止まず、過敏になった肌をなぞられれば、潰れたカエルのような色気の無い音が口から漏れた。
それすらも彼女は、良い声だと評する。
きっとそのネックゲイターに覆われた唇は、声色から察するに優しい微笑みを湛えているに違いない。
(……そうなの。ご主人様は……本当は『女王様』なんだよねぇ……)
するりと赤い肌を滑る滑らかな指の動きに身体を震わせ、時折謎の声を漏らしながら、知世はそっと後ろを振り返る。
目に映る姿は、初めて会ったときから少しも変わらない。
クラスの男子よりは、少し小柄な身体。瞳以外の頭部を覆った帽子とネックゲイター。
くびれの無い腰つきに薄い尻は、どう見たって大人になりきれていない少年の姿だ。
なのに……その指はすらりと長く、爪の先まで手入れされているのが一目瞭然で。
声変わりが終わっていないと思っていた声だって、少し低めの女性の声だと思えば納得がいく。
顔や首元を隠しているのは、きっと女性らしさを感じさせないためだ。
……何より、ちょっと視線を落とせばあまり見たくない膨らみは見受けられるものの、こんなことをしている割には見慣れた大きさに変化していない。
(男の子のような体型に見えるけど……男装って、そんなところまで作れるのかな)
男としての見た目を作り、振る舞っている女性。
それがご主人様について知世が辿り着いた結論だった。
「……何?」
「え、あ……何でも、ないです……」
ちょっとぶっきらぼうで、知世がたくさん鳴くと実に楽しそうで、叩く手のひらはいつだって痛くて熱くて……けれどこうやって赤みに触れる指先は、静謐な優しさを描いている。
触れた軌跡が発する痛みとも痺れとも言えない不思議な感覚は、事ここに及んですら粘ついた色の乗らない声色と相まって、少しずつ知世の心を溶かしていくようだ。
(……男の子みたいな見た目の女の子だから、いいのかもなぁ……)
オスの醜悪さだけを煮詰めたような泥を飲まされた身は、妄想であってもきっと男を許容しないのだろう。
かと言って、女に尻を打たれたいかと問われれば……またそれも違う気がすると、知世は独りごちる。
この醜い身体を打ち据え、痛みと汚くない気持ちよさを与えてくれるのは、やっぱり男がいい――
自分でも訳が分からない矛盾した願望を、どうやらあの寝具は男装女性のご主人様という形で叶えてくれたのだろう。
(ほんと、お布団なのに賢すぎる……)
ピピッ、ピピッ……
「あ」
「……もうそんな時間か」
やがて、遠くからアラームの音が聞こえてくる。
どうやら今夜の夢は、そろそろ終わりを迎えるらしい。
――身体が訴える痛みも、刻まれた赤みもこの音の元に戻ればさっぱり消えてしまうのは、いつもちょっとだけ寂しく思う。
「……ご主人様、その、明日も……」
「いいよ、ここで待ってるから」
「はぁい……ありがとう、ございます…………」
何にしても、だ。
表向きは自分に危険と恐怖、嫌悪をもたらす形なのに、中身は安全が保障されている(気がする)最適解を導き出した織物には、本当に感謝しかない。
(どうか、夢がこれからも……出来ることなら永久に続きますように……)
少し甘さの混じった声を漏らしながら、知世は覚醒を惜しみ揺蕩う意識の中で、ただただこの痛くて甘い逢瀬の継続を願うのだった。
◇◇◇
「ん……寒っ……」
目覚ましに伸びた手を取り巻く空気があまりにも冷たくて、知世は思わず布団の中に潜り込む。
夢の中は冬なんて知らないかのような温かさだったから、余計に現実の寒さが沁みるなぁ……と身を捩り、そして
「んうっ!?」
突如走った飛び上がるような痛みに思わず声を上げて、その場に丸まった。
「え、なに……ひいぃっ、痛ててて……お、お尻がぁ……」
一気に覚醒した頭に叩き込まれるのは、お尻から太ももの裏側にかけての脈打つ痛みだ。
じっとしていればじんじんした熱さを感じるだけだが、そっと触れれば途端に顔を顰めたくなるような痛みが知世を襲う。
「……ここ、夢じゃ無いよね……? でもっこの痛み……うぅ、パンツ脱ぐのも痛いよぉ……」
半泣きになりながらのろのろと身体を起こし、パジャマとパンツを脱ぎ捨てた知世は、震える手でスマホをお尻に回す。
そのままパシャパシャと何度も撮影ボタンを押して……適当に撮った写真をうつ伏せに戻って眺めれば
「……ちょっと、赤い……?」
そこには知らない人が見ればきっと気付かないくらいの、けれど知世にははっきりと分かる赤みが――ご主人様の残した痕の名残が写っていた。
見た目と痛みのギャップが激しすぎるが、恐らくこの痛みは夢の続きだと確信し、知世はそっとお尻を撫でる。
「うわぁ……え、お布団さんってこんなことも出来るの……? 万能すぎない?」
ふと彼女の頭を過ったのは、覚醒間際の寂しさだ。
きっとこの織物は、相変わらずの世話焼き精神を発揮して、知世の望みをすぐさま叶えてしまったのだろう。
「ねえ、これお布団さんがしたんだよね?」と訊ねたところで、知世を包むブランケットは静かなものだ。ここまで謎の力を発揮しつつも言葉だけは喋らないのは、寝具としての一線を越えないためだろうか。
「ああもう、こう不思議なことが続くとこっちの頭までおかしくなっちゃいそう……一体何よ、寝具としての一線って!」
それにしても、夢の痛みを現実に再現するだなんて。現実に痛みを感じていてすら、俄には信じがたい。
けれど、人は思い込みだけで傷を作ったり錯覚で痛みを感じてしまうことがあるとネットで見たこともあるし、少なくともあの驚異的な防水性能に比べればまだ了解可能だろう、うん、そういうことにしよう……
数分にわたる思索の後、知世はあっさり考えることを放棄した。
大体相手は、最初からこちらの常識の外にあるブランケットなのだ。ここはご主人様に習って、少し脳筋方面で受け入れた方がいい。
「にしても、どうしよう……夜には座れるようになってるといいんだけど……」
時間を見るに、既に両親は仕事に出た後だろう。
この痛みではとてもじゃないが、座ることはおろか寝返りすらまともにできないだろう。
今日は一日ベッドの中で大人しくしているのが吉だと、知世は時折呻き声を上げつつうつ伏せでスマホを弄る。
「んっ……痛い…………スパンキングの後って、こんなに痛いんだ……夢じゃなきゃ毎日は無理だよねぇ……」
けれど、画面の内容は頭に入ってくるはずも無い。
じんじんした痛みが突きつけるのは、昨夜の……いや、これまで知世に夢で刻み込まれた、願いの叶ったひとときばかり。
「痛いなぁ……ふふっ……ご主人様、お尻ぺんぺんされた次の日ってめちゃくちゃ痛いですよ……」
いつしか知世は、うっとりと笑みを湛えて遠くを見つめながら、患部をわざと押しては痛みがもたらす小さな幸せに身を委ねていた。
(痛みが残るって、悪くないな……)
あれは寝具が作り出したとは言え、ただの夢だ。
そんなことは分かっているし、ご主人様だってあくまでも自分が作り出した幻影に過ぎない。
「ふふっ……すんっ、痛いなぁ……ぐすっ……あははっ……」
でも、ほんの少しだけ現実に持ち帰れた夢の証のお陰で……確かに自分はご主人様の手のひらで、この鉛色の人生を生きる祝福を与えられたのだと実感できるのが、泣けるほど嬉しくて。
「お布団さん、ありがとう……ちゃんと、ご主人様は、ここにいるんだ……」
部屋の中に、すすり泣く声が響く。
知世の涙は握りしめられた織物には触れることなくぽろりと零れ、静かに枕を濡らすのだった。
――なお、ひとしきり泣いてすっきりした知世が改めてブランケットに願い直したのは、言うまでも無い。
「あの、お布団さん……痛いのを残してくれるのは嬉しいんだけど、できたら……椅子に座れるくらいの痛みにして欲しいかな、って……これじゃ親にばれちゃうから、ね!」
◇◇◇
「ちぃーっす、鞍馬さん腹減った-! 今日はまかない……あれ、何かいい匂いするっすね」
「ん? 部活が終わったのか。ちょうど良い、お主達も食べていくといい」
「やった! いやぁ、神様仏様鞍馬様だわ!!」
年が明けて、寒さも厳しくなる一方のある日。
いつものように部活を終えた学生達がまかない目当てに学食を訪れれば、暖かい部屋の中には甘い匂いが漂っていた。
彼らが人の集まっているテーブルに向かえば、その中心には深緑の三角巾とエプロンを身につけた鞍馬が座っている。
その手元に並んでいるのは……どうみても家庭用のたこ焼き器だ。
「なに、鞍馬さん今日はタコパするの?」
「たこぱ? ……いや、たこ焼きではないのだ。試作品の菓子を丸く作るのにちょうど良くてだな……まあ見ておれ、すぐに焼ける」
「あ、鞍馬さん次入れても良いですか?」
「うむ、入れすぎぬように気をつけるのだぞ、チセ」
鞍馬と向かい合って座っている女子学生が、クリーム色の生地を半球状の穴の中にカップでとぷとぷと注いでいく。
それに合わせて、鞍馬は手元の瓶から茶色い何かをすくい、生地の中へと手際よく埋めていった。
学生達が固唾を呑んで――本当にゴクリと唾を飲み込む音と一緒に、誰かの腹の音まで聞こえた気がする――見守る中、ピックを持つ男性とは思えないほっそりした手が、器用にくるくると生地を丸めていく。
「……こんなものか。ほら、まだ食べてない者が優先だぞ。熱いから気をつけるがよい」
「へへっ頂きますっ! はふっ、あっあちちっ……」
早速とばかりに、お腹を空かせた学生が熱々のボールにかぶりつく。
ふっくらとした生地はホットケーキミックスだろうか、ほんのりした甘味と小麦の香りが口の中に広がって、それに続いて舌に触れたのはミルクのようなコクがある、けれど食べたことの無い風味のクリームだ。
「んっ、うま……っ!」
「めっちゃ濃厚クリームじゃん! え、でもこれカスタードじゃ無いよな? 初めて食べる味」
「だよね、これ鞍馬さんの国のココナッツジャムなんだって!」
「ふぅん……え、もしかしてジャムも手作り? 鞍馬さんガチで料理上手すぎ」
日常ではお目にかからない珍しい異国の味に、わっと学生達が沸き立つ。
そんな賑やかな放課後の学食は鞍馬にとっても楽しいひとときなのだろう、どこか満足げな笑みを浮かべている。
「そんなに気に入ったのなら、ジャムの作り方を教えよう」と声をかければ、早速周囲の女子たちがスマホを取りだした。
と、その時。
一人の男子が「ところでさ」と口を開く。
「なんで山吹は、さっきからこれが焼ける度に食ってるわけ? 順番じゃないのかよ」
「……ほむ?」
「ほむ? じゃなくてさ。いや、うん……美味しいのな。それはよく分かった」
「むぐむぐ……ほら、鞍馬さんのお手伝いをしてるから……バイト代?」
「いやいやお前、生地を流し入れてるだけじゃん!」
「ふぅ、ねっとり甘い南国のジャムさいっこー……ほっぺ落ちちゃうぅ」
「いや聞けって……あーもういいよ、うん、山吹に飯で突っかかった俺が悪かった」
先ほどから新しく菓子が焼き上がる度に、しれっと一つ手元に残してから皿を回す知世に、クラスメイトの男子が顔を顰め全力で突っ込みを入れる。
しかし、もしゃもしゃとこの場にいる誰よりも幸せそうな表情を浮かべて菓子を頬張る知世の姿は、食べ盛りの学生達の毒気すらあっさり抜いてしまうようだ。
一瞬ピリッとした学食の空気も、たちまち元通り、どころかすっかり緩んでしまって。
知世は相変わらず「知世だから仕方ない」「良かったね知世ちゃん、今日も鞍馬さんのおやつを食べられて」と女子達に愛でられながら、5つめのボールに手を伸ばした。
「って知世、もう5個目でしょ! 流石に食べ過ぎ-!」
「えええ、だってこれほんっとーに美味しくて……もう毎日まかないがこれでもいいかも、今年一番のヒットだよぉ」
「チセ、今年はまだ始まって一月も経たぬぞ」
「……はっ」
「それに、こういうものはたまに食べるからこそ良いのだ。どれだけ美味しいものでもずっと食べ続ければ味気なく……そうしょげるでない、これほど好評であったなら学食のメニューとして提案するのも悪くはないし」
「ほっほんとですか!! 鞍馬さん是非お願いします、これ絶対人気出ますって!!」
「う、うむ、チセよ、お主相変わらず甘味となると目の色が変わるな……」
急に目をギラつかせる知世の姿に、どっと学食の一角が笑いに包まれる。
外の寒さなどどこ吹く風と言わんばかりに、ここには何気ない日常が、温かなやりとりが当たり前のように飛び交っていた。
――そのうちの何割が本当の食い意地で、どの位が食いしん坊の役割を演じているものなのか……もう、知世にもよく分からないけれど。
◇◇◇
「じゃあ俺、迎え来たから帰るな。鞍馬さんさようならー」
「うむ、温かくしておるのだぞ」
「バイバイ、また明日ー!」
すっかり日も落ちた空の下へ、学生達は一人、また一人と家路を急ぐ。
急な残業で遅くなると父から連絡を受けた知世は、いつものようにそんな彼らを笑顔で見送っていた。
その胸中を過るのは、人が減っていく安堵感と少しの羨ましさ。
自分も1年ちょっと前までは、あんな風に何も知らずに……笑顔で夕食への期待に胸を躍らせ家へと帰っていたはずなのだ。
――もう二度と、知らなかった頃には戻れない。壊れたものは、戻らない。
しゃらん……
物思いに耽る知世の傍で、涼やかな金属の音が鳴り響く。
ふと音のする方を見れば、そこには片付けを終えすっかり帰り支度を整えた鞍馬が腰掛けていた。
「すみません、鞍馬さん。今日も居残りさせちゃって」
「なに、チセが気にすることでは無い。それにこちらもまだ迎えは来ぬしな」
知世と話しながら彼が手にしているのは、大ぶりな飾りの付いたピアスだ。
控えめな飾りを好むこの国において、十人並みの顔では浮いてしまうであろう煌びやかな耳飾りは、けれど鞍馬の耳に収まればまるでこの人のために誂えたかのように、彼の魅力をますます引き出してくれる。
「……どうした、チセ?」
「あの……どうして鞍馬さんは、私が一人で残っているときには、ピアスを着けるんですか?」
知世は前々から気になっていたことを、ふと彼に問いかける。
鞍馬は他の生徒の前では、おおっぴらにこのピアスを身に着けない。
仕事中は当然として、こうして居残りの生徒がいるときにも決してポケットから取り出さないし、従者さんと呼ばれる彼の同居人が迎えに来たときも、食堂を出てから学生達に気付かれないようこっそり身に付けているのを何度も目にしている。
なのにどうしてと問えば、鞍馬は少しだけ逡巡して「……焼きもちを焼かせぬ為だな」と微笑んだ。
「焼きもち……ですか」
「うむ。実はな……随分前にこうやってお主と二人で談笑しているのをみたヴィナが、大層焼きもちを焼いたことがあってだな。いや、あやつの焼きもちなど天然記念物ものであるから私としては大歓迎なのだが、とは言え度々心労をかけるのは本意では無い。故に、お主と二人の時には揃いの耳飾りを着けることにしているのだ」
「ああ、なるほど……ってはああ!? わっ私と話して焼きもち!? え、ヴィナさんって、あの従者さんですよね!?」
「うむ、いや可愛いものであろう? あの厳つい大男が、口を尖らせてしょんぼり俯き拗ねておるなどな!」
随分おかしそうに笑う鞍馬の笑顔は、いつもとはちょっと違って艶めいている。
相変わらず男とは思えない美形だなと一瞬見惚れるも、その前に放り投げられたとんでもない爆弾に知世は(いやいやあり得ないでしょ!!)と全力で突っ込んだ。
(私が!? 鞍馬さんとそっそんな関係? ないない、あり得ない! それ、月とすっぽんとかそう言うレベルを超越してるから!!)
あの見た目と中身のギャップがおかしすぎる青年は、きっと目がめちゃくちゃ悪いに違いない……そう知世は結論づける。
いくら気弱でどこか自信が無さそうな人とはいえ、たかが小娘と話していただけでこの絶世の麗人を取られてしまうかもと危惧するだなんて。
従者さんは、一度自分の顔をじっくり鏡で見て欲しい。
彼が恋人だと知った上で鞍馬に手を出せる者など、それこそ熊くらいしかおるまいに。
「ああでも、やっぱり恋人なんですね、鞍馬さんと従者さんは」
気を取り直して訊ねれば、鞍馬は今度こそ心底嬉しそうに「ああ」と微笑む。
その表情は……きっと自分には一生縁が無いものだと胸が妙にざわつくけど、知世だって人の恋路にケチを付けるほどお子様でも無い。
「いいですね、ラブラブで」と笑顔を作れば、鞍馬は「恋仲になるまでは随分と困難な道のりであったからな、何せあやつは色恋沙汰には鈍くて……」とすっかり惚気顔である。
――知世は気付かない。
鞍馬が相貌を崩す寸前、一瞬だけ見せた知世へのどこか悲しそうな表情に。
(……いいなぁ、みんな……普通の幸せを、当たり前に抱き締めている)
「でも、それならどうして公表しないんですか? 学生にもその、鞍馬さんが好きな子って結構いますし……従者さんがまた焼きもちを焼きません?」
「これまで学生からは、特に恋人の有無を聞かれはしなかったしな。何より、あやつが焼きもちを焼く相手は……己の同類、つまり類い希なる食いしん坊の資質を持つ者だけであるから」
「えええ、それちょっと複雑な気分なんですけどぉ!」
だから知世は、今日も上手く笑顔が作れたと自画自賛しつつ、心に吹きすさぶ虚しさをいつものことと押さえつけて、鞍馬の恋バナに耳を傾けるのだった。
◇◇◇
「ところで、最近は……あの織物はお主に余計なことをしておらぬか?」
知世の知らない従者さんの意外な側面をたっぷり聞かされた後、鞍馬はスッと真面目な顔をして知世に訊ねた。
鞍馬が織物を知世に手渡して(結局は勝手に付いてきたけど)から、そろそろ二ヶ月。
どうも鞍馬はあのブランケットに相当手を焼いた経験があるようで、事あるごとに知世を慮り困っていることは無いかと気にかけてくれる。
幸いにも知世は寝具により迷惑を被ったことはほぼ無いし、問題があっても諭せばなんとかなっている。
それをそのまま伝えれば、鞍馬が「解せぬ……」と難しい顔をするのがお決まりのパターンだ。
「一体何が違うというのだ……チセは願いのかけ方が私と違って上手いのかもしれぬな……」
「えっ、あっ、あははそうですかねぇ……」
「まあ何にせよ、あやつのお陰で良き眠りを得ているならば良いのだ。成績も上向いたのであろう?」
「そっそうですね……もうちょっと上げないと、内部進学は難しいんですけど」
「なに、お主は真面目な子だ。きっと上手くいく」
「あはは……ありがとうございます……」
鞍馬の言葉に笑顔で応じつつも、知世の内心は冷や汗をかきっぱなしだ。
――まさか真面目に見える目の前の学生が、夜な夜な淫らな変態行動に現を抜かしているだなんて、明らかにそんな世界とは無縁に見える麗しの青年には想像できないに違いない。
別に嘘をついているわけでも騙しているわけでもないけれど、彼の笑顔を見ているとどうにも罪悪感が湧いてきてしまう。
だからだろうか、ついぽろりと……余計な言葉が零れ落ちてしまったのは。
「でも本当に凄いですね。鞍馬さんが言っていたとおり、夢が現実になるだなんて」
「ほう? 何か良いことでも?」
「良い事って程でも無いですけど……あ、でもやっぱり良い事かな! だって、夢で付けられた痕が現実にも残ってて」
「なに……夢の痕が、現実にだと……?」
「…………はっ!」
(え、もしかして……これは鞍馬さんの想定外? 喋ったらまずかった……!?)
ふんふんと穏やかな表情で知世の話に相槌を打っていた鞍馬の雰囲気が、ピリッとしたものに変わる。
あからさまに冷えた空気の温度に、知世は一瞬ぽかんとし……そして、自分の発言が大層まずいらしいことをすぐさま悟った。
「あ、えっと、そのっこれは!! あわわ……」
「…………落ち着け、チセ。私はお主を責めぬし、そもそも子細をお主に訊ねる気も無い」
「でっでもっ、もしかして私の願いはだめだったんですか!? そんな、今あれを失ったら私は」
「……ふむ、これでは話を聞くどころでは無いな」
少し待っておれと言い残し、鞍馬は厨房へと消える。
ややあって戻ってきた彼の手には、ピンク色のドリンクが入ったグラスが握られていた。
「これを飲んで少し落ち着くがいい」
「はっ、はひっ……んぐっ、んんっ!?」
言われるがままにグラスを煽れば、口の中に広がるのは鮮烈な薔薇の香り。
味は甘くてミルクのコクが感じられるのに、妙に香りだけが豪華な謎の飲み物に、知世は思わず目を見張る。
「んぐっ、んぐっ……ぷはっ……すっっっっごい、口から胃まで薔薇だらけ……」
「ふふ、この国では馴染みの無い味だろう? ……少しは落ち着いたか」
「んぷ……落ち着くというか、パニックにパニックをぶつけて相殺させられた気がします……」
(不味くはないけど……独特すぎて感想に困るよ、これ)
未だ口の中に残る薔薇の香りに、多分今自分の顔は実に微妙な表情を浮かべているはずだ。
いかに知世といえども、これではとても笑顔が作れそうにない。
いや、確かにお陰で頭は冷えたが……この人、こんな強硬手段も採れる人だったのかと思わず鞍馬に向かってむぅと口を尖らせれば「いや、試作品で作ったシロップだったのだがこれがいたく不評でな……気付けにはちょうど良いかと」と悪びれることなく返され、知世はがっくりと肩を落とした。
◇◇◇
「なるほど、夢でされたことがそのまま現実の身体に反映されると」
「あ、でもお布団さんに控えめにしてって頼めば、減らしてはくれます」
「……本当に私が使っていたのと同じ織物とは思えぬ融通の効きっぷりだな……まあよい」
結果として、知世は詳しい内情を全力でぼかした上で冬休み頃から続く「証」の話を鞍馬に明かす。
一通りの話を終えたあと、鞍馬は寝具に対してであろう、どうにも解せないという表情を浮かべつつも「それはあまり良くない兆候ではあるな」と冷静に状況を判断したようだ。
「良くない兆候、ですか」
「うむ。……その織物にはまじないがかかっているという話は、以前したであろう? この国には存在しないものではあるが、かなり強力なものでな」
「ふぅん、もしかして鞍馬さんの故郷のまじないですか?」
「そんなところだ。それでだな……夢で願いを叶えるのは良いのだが、こやつには時々願いをかけたものが夢に閉じ込められて永遠の眠りにつくといういわくが」
「ち、ちょっと待って! 鞍馬さん、今とんでもないことをさらっと言いませんでした!?」
良くない兆候という言葉から少し覚悟はしていたが、鞍馬の口から語られた言葉には流石の知世もぎょっと目を剥く。
「しっ、死んじゃうってことですか……!?」と震える声でなんとか問いただせば、今度は鞍馬が「ぬ……いや、死ぬわけでは無いが……」と困惑を顔に浮かべた。
「ただ夢の中に閉じ込められ、誰も起こせない眠りにつくだけだ」
「ああ、そういう……はぁびっくりしたぁ! 鞍馬さん『永遠の眠り』って日本語だと死ぬって意味なんですよ」
「何とそうであったか。それはすまない、決して死ぬことは無いから案ずるでない。ただ、死ぬまで昏々と眠り続けるだけであって」
「いやそれ、死んでるのとほぼ同義なんじゃ……」
これでは話が進まないと、知世は鞍馬に続きを促す。
「この国に住まうものには信じられぬ話かも知れぬが」と前置きして口を開いた鞍馬が語ったのは、遠い国に伝わるまじないの寝具のおとぎ話であった。
――もともと、この寝具には恋愛成就のまじないがかけられていたという。
今は滅びた部族の風習で、婚姻を望む恋人は三日間床を共にし、神に結婚の許しを得る必要があったのだそうだ。
その際、恋人達は真新しい寝具に神を歓待するまじないをかけるのが通例であった。
閨を覗きに来た神々に楽しい夢を見させ、ご機嫌にすることで結婚の許可を得ようとしたのだ。
「……それが転じて、まじないの寝具はそれを使う者の願いを夢で叶えるようになったという。ただ、一つ大きな問題があってな」
「夢に閉じ込められる……」
「うむ。正確には寝具が閉じ込めるのではなく、願いをかけたものが自主的に閉じこもってしまうのだが」
「…………」
神々すら歓待するほどの力を持った織物なのだ、人の願いを叶えるなど朝飯前であろう。
その由来から恋愛成就の寝具としてもてはやされたまじないの織物は、主に現実では叶わぬ恋を夢で叶えるための慰みとして使われることが多かったそうだ。
――その結果、夢の中に幸せを見出す者が続出したため、一時期この寝具一式は宝物庫に封印されていたという。
「それが、どうしてこんなところに……」
「詳しくは話せぬが、私もひょんな事から見初められてな。この織物は、持ち主の延々と願いを叶え続け、願いを必要としなくなった段階で新たな持ち主を探し出すという性質を持っている。つまり」
「鞍馬さんも私も、拒否権はなかった、ってことですね……」
(そっか、だから鞍馬さんはしょっちゅう様子を聞いていたんだ……私が危ない目に遭わないように……)
二人の間に、しんと沈黙が落ちる。
鞍馬は真剣な顔を崩さない。男性の真剣な顔はちょっと怖いけれど、状況が状況だけに仕方が無いのは知世も理解している。
(それ、見初められたというより呪われたって言った方が正しい気がするなぁ……でも……)
一方、知世は鞍馬の話にそこまでの危機感は抱いていなかった。
あまりに突拍子も無い話で、まだ理解が追いついていないというのもあるかもしれない。
ただ……現実にあのブランケットが叶えてくれた、そして今も叶えてくれている願いは、知世にとっては祝福以外の何者でもなくて。
「……とはいえ、分かっていれば怖がる必要は無い」
ややあって、鞍馬は再び静かな声を上げる。
「チセよ」と呼びかけるその眼差しは相変わらず真剣で、けれど……美しい琥珀色の瞳はどこか切なさのような、もしくはもどかしさのような複雑な色を醸し出していた。
「夢は夢。願いが叶ったとはいえ、現実との境を飛び越えて良いものでは無い」
「……鞍馬さん」
「願うなとは言わぬ。お主にも人に言えぬ悩みはあるであろうし、チセはもう立派な若者だ。お主の切なる願いに、口を挟む気は無い、だが」
「それは現実では無いのだ、チセ。夢に溺れていては、この世界でお主が幸せを見出す眼を曇らせてしまう」
「……!!」
(……無いよ)
ぞくり、と何かが知世の背中を駆け抜ける。
それは寝具への恐怖でも、夢に囚われる不安でも無い。
ただ
(無いよ、鞍馬さん。この世界で幸せなんて……汚れきった私には、二度と与えられない)
心の奥底から発せられる、小さな怒りと嘆きが、知世の唇を震わせるだけ。
「閉じ込められるなら、それはそれで良いのに……」
「……チセ」
「っ、なっ、何でも無い! ごめん今の無し!! 大丈夫、うん、ホント大丈夫だから、鞍馬さん」
「…………そうか」
思わず顔を覗かせた淀みを、知世は慌てて心の中に押し戻す。
なおも鞍馬が言葉を紡ごうとしたその時
「こんばんは、山吹です-。すみません迎えが遅くなって!」
ガラスの扉から冷たい冷気と共に流れ込んだ、穏やかな男性の声が学食に響いた。
◇◇◇
「いや、本当に申し訳ない!! いつもこちらの都合でご迷惑をおかけして」
「お気にならさずに、仕事の都合は仕方がありませんから」
ぺこぺこと頭を下げる背広姿の男性は、知世の父親だ。
人の良さが滲み出ているような顔で「いつも助かります」と礼を口にするその表情は、知世とそっくりだなと思いながら、鞍馬は学食を後にする親子を見送る。
「…………ふむ。作り慣れた笑顔は、あれが理由か」
扉が閉まった、その向こう。
すっと知世の腰に回された父親の手に、ぴくりと鞍馬の眉が動いた。
――その何気ない仕草に込められたものを、自分は良く知っている。
とはいえ自分に向けられたものは少々どころでなくおっかなびっくりの……恋人からの温かい熱情であったけれど。
あれは同じ色を帯びたものだ。
そして……彼女には、決して向けてはいけないものだ。
「……警告はした。これ以上は……今のチセでは耳に入るまい」
とうに誰もいなくなった外を眺めながら、鞍馬は静かに呟く。
きっと誰かがこの場にいれば、彼が学食では見せたことの無い表情と身に纏う覇気に、きっと腰を抜かしていたであろう。
「まじないの織物よ。……あまりチセを夢に縛り付けるで無いぞ」
いつもとは別人のような鋭い瞳で、鞍馬はその場に仁王立ちとなり願いを口にする。
まずはあのブランケットが、要らぬお節介を焼かぬように釘を刺し、そして
「チセよ。溺れたくなる気持ちは分かるが、夢に囚われた先に幸せは無いぞ……疾く気付くのだ、私のようになる前に……」
かつての自分に輪をかけて危うい少女が、どうかこれ以上溺れないで欲しいと、その美しいかんばせに苦悶を滲ませ唇を噛みしめるのだった。