第4話 薄明の境で
……たまには、こんな解放された日があったって良い。
歓送迎会で両親の帰りが遅くなる日、久々に夜の安寧を確保した知世は、いつものように馬鹿でかい藍色のブランケットにくるまりスマホを弄っていた。
画面に映し出されているのはいつものように過激なスパンキング動画……ではなく、画像検索結果の一覧だ。
「ああ、こういうのもいいなぁ……」
「スパンキング パドル」とフォームに打ち込んだ検索結果には、拷問器具にしか見えない器具がずらりと並んでいる。
パドルと言いながら鞭も一緒に並んでいるのは検索エンジンのご愛敬だが、素材も形も様々な道具は見ているだけでついつい鼻息が荒くなって……鏡で見たことはないけれど、今の自分はとんでもなく淫らな顔をしていると思う。
「木材も良いけど、やっぱり革かな……うわ、とげとげがいっぱい……こんなので叩かれたら、絶対叫んじゃう……!」
胸をときめかせる知世の脳裏には、当然ながらそんな凶悪なパドルで打ち据えられた自分の妄想が延々と再生されている。
ただ一つだけ違うのは
「……ご主人様、きっとこんなのでバシバシ叩いて私を泣かせたら、めちゃくちゃ喜ぶんだろうなぁ……」
――妄想のお供がぼんやりした男性の像ではなく、夢の中で出会えるあの透き通った水色の瞳に変わったことか。
「ねぇお布団さん。私、すんごい欲張りになっちゃったよ……もう自分じゃ満足出来ないんだよねぇ……」
カララ……
苦笑をこぼした知世は、ベッドサイドの引き出しから木じゃくしを取り出す。
あれほどお世話になったセルフスパンキングの友は、しかしここ暫くは出番もなく、そっと引き出しの奥に仕舞われたままだ。
「誰かに見られて叩かれたら、あんなにドキドキして頭真っ白になるだなんて、思いもしなかったなぁ……」
そっと言葉にしたら急に恥ずかしくなって、知世はぽふりと毛布の中に身を隠してしまう。
当然、パドルの一覧画面は手のひらの中で煌々と照らし出されたままだ。
知世を夢の中に誘ってくれる藍色の織物は、こちらの要望を心得ている実に有能な寝具であった。
何度かお願いを繰り返した結果、今では決して無視は出来ず、けれど生活には問題が無い程度の痛みとわずかな痕をこの世界に持ち込ませ……ふとした動作の時に、そしてトイレでスカートを捲る度、彼女に「ご主人様」と「痛み」との繋がりを確かめさせてくれる。
不思議と夜ベッドに入る頃にはすっかり元通りになっているから、夢の逢瀬に響くことも無い。
『それは現実では無いのだ、チセ。夢に溺れていては――』
さて、今日はどんなプレイが待っているだろうか……
妄想に耽る意識の片隅にそっと差し込まれるのは、麗しい美貌をどこか沈鬱な感情に歪ませた、鞍馬の言葉。
あの時から時折、知世の行動を諫めるかのように脳内で再生される表情に、知世はあの時と同じように反発を覚えながらも、胸の奥は……少しだけ鈍い痛みを訴える。
「心配してくれてるのは分かるけど、ね……でも、やっぱり分からないよ。鞍馬さんは男だから」
一度刻まれた汚れは何をしても落ちることはなく、痛みで覆い隠してようやくこの世界に立ち、与えられた形を演じることが出来ているだけ。
幸せを探すなんて余裕は存在しないし、そもそも期待はとうの昔に砂となって崩れ落ちたままだ。
そして、きっとこの諦念と悲哀の混じった煮こごりは、鞍馬で無くても……誰に話したって理解される物では無い。
むしろ口をつぐまなければ、身の回りの世界に新たな災禍を呼びかねないとすら、知世は固く信じている。
「……ほんっと、いつでも夢に閉じ込めてくれていいのよ? お布団さん」
だから、知世は禁断の思いを織物に願い続ける。
この身体がどれだけ汚れていようが、醜かろうが、夢の中に作りだしたご主人様だけは気にしない。
……正確には、尻だけは気にしているようだけど、幸いなことに白くて大きなお尻を彼女は大層お気に召しているから、何の問題もなかろう。
だというのに……この寝具は知世の一番の願いだけは、どうしても叶えてくれる気がないようだ。
お陰で彼女は毎朝のようにベッドの上でため息を漏らし、けれどお詫びとばかりに与えられる夢の痛みを、そうっと手のひらで確かめる羽目になるのである。
「ほんっと、今日こそお願いを聞いて欲しい……って、うわぁ……これ、本物? 格好いい……!」
その時、ブツブツと文句を言いながらスマホを眺めていた知世の親指が、ふと止まる。
思わず拡大した画像は、何の変哲も無い乗馬鞭と呼ばれる代物だった。
これが本物かどうかは知世には分からない。けれど、少なくとも見た目は本物そっくりで……それだけに淫らな期待は高まり、妄想は捗るばかりだ。
「……木じゃくしより、ご主人様に似合いそう……」
ごくり、と知世の喉が鳴る。
あの綺麗な手が、黒くスタイリッシュな乗馬鞭を握って。
澄んだ瞳の奥に残酷な、けれど無邪気な楽しさを浮かべて、しこたま尻を打ち据えてくれる……
「うん、いつもよりいっぱいごめんなさいできそう……ふふ、こう言うのも良いよね」
知世はスマホを握りしめたまま、寝具に声をかける。
時刻は23時半、そろそろご主人様も夢にやってくる頃だろう。
最近は知世の要望に応じて、日によって手と木じゃくしを使い分けてくれるけど、そろそろ新兵器を投入するのだって悪くない――
欲望にぷくりと小鼻を膨らませた知世は、ブランケットにスマホを見せ(?)ながら、いつものように夢の世界へと沈んでいくのである。
「お布団さん、今日はこれを夢の中に持っていきたいです……えへへぇ、楽しみぃ……」
◇◇◇
「……なるほどねぇ、それで俺に新しい道具を使って貰おうと」
「その、きっとご主人様も気に入ると思ったんです。絶対痛いし、私いっぱいごめんなさいする自信あるし、新しい世界が開けそうで」
「うんまぁそれは分かった。で、持ってきたはずの乗馬鞭が」
「どうして……どこで間違えてこうなっちゃったのおぉぉ!?」
それから数分後、夢の中には知世の情けない声が響いていた。
いつものようにソファにどっかりと腰掛けたご主人様も、心なしか呆れ混じりの戸惑いを瞳に浮かべているようだ。
そんな二人の目の前にあったのは
「……俺、乗馬鞭なんて見たことないけど、流石にこれが違うことは分かる」
「ぜんっぜん違いますね! 乗馬鞭はこんな伸び縮みしませんから!!」
持ち手の付いた金属製の柄に、シリコンとおぼしき扇形の先端が付いた謎の物体だった。
(確かに形は……似てるっちゃ似てるかも知れないけど! でもこれは全くの別物なんだよ、お布団さん!!)
何でよりによってこれ!? と、知世はその場にがっくり崩れ落ちる。
一方、早々に気を取り直したご主人様は先端を摘まんだり、柄を伸ばして振ってみたりと興味津々のようだ。
「んー、これは指示棒の親戚かな……ほら、このカチカチ伸びる感じがそれっぽい。でもちょっと黒板を指すには先端が邪魔だよな」
「……あのう、ご主人様…………それ、軟膏塗りです……」
「へ? 軟膏、塗り?」
黒に覆われたわずかな隙間の中で、淡い水色の瞳がまんまるになる。
どうやらご主人様は、この製品を知らなかったらしい。
自分が作った妄想でも知識までは共有されないのか……と妙な感慨を覚えながら、知世は彼女から受け取った軟膏塗りの柄を握り、背中に回した。
「その、先端に軟膏をつけたらこうやって塗り塗りと……」
「ふぅん、小ブタちゃんはこれを使ったことがあるんだ」
「あ、モルモルの……おばあちゃんの家にあったんです。おばあちゃん一人暮らしだから、背中に軟膏塗るのが大変なんだって」
「ああなるほど、孫の手の軟膏用みたいなものか」
「ですね……はぁ、お布団さんにもちゃんとこれが良いって、乗馬鞭の画像を見せたのにぃ……」
「…………お布団さん?」
知世の言葉に、ご主人様は怪訝な顔をしているようだ。
夢の中の登場人物に、作られた意識というのはないということだろうか。それなら軟膏塗りも寝具のことも知らなくて当たり前かと、知世は何の気なしに怪しい織物について彼女に語り始める。
現実なら必死に隠さなければならない事も一切気遣わなくて良い夢というのは、実に便利なものだ。
……ずっと誰にも理解されないものを、胸の内に秘めて生きてきたせいだろうか。
今日は何だか、自分がいつもよりおしゃべりになっている気がする。
「……ということで、鞍馬さん……学食のお兄さんに返したはずが、家に帰ったらベッドの上にあって」
「それで、何の疑問もなくお尻を叩いて欲しいって願ったってこと? ……小ブタちゃんさ、いくら何でも警戒心なさ過ぎじゃ」
「そっそりゃ、ちょっとくらいは怪しいなって思いましたよ!! でも…………もう、限界で……」
「……ふぅん」
気のせいか、ご主人様の声のトーンが一段低くなったように感じる。
(あれ、これまずいかな)と知世が不安を浮かべて見上げれば、目が合った彼女はすっと冷静な瞳で「まぁ、俺はいい尻が手に入ったなら、それで十分だけどさ」と素っ気ない返事を返した。
――一瞬、彼女の目に小さな怒りが浮かんだように見えた気がしたけれど、やはり秘密を喋ってはまずかったのだろうか。
じゃあさ、とご主人様はやおら知世に向かって手を伸ばす。
その行動に首を傾げていれば「それ、貸しなよ」と彼女は知世の右手に握られた軟膏塗りを指さした。
「折角あるんだし、使えばいいじゃん」
「へっ? ……で、でもっ、これ鞭じゃないし」
「別に叩けりゃ何だっていいよ。大体、これまでだって使ってたのは台所用品なんだし、大差ないって」
「ぐっ、それは確かにそうですけど……」
どうにも腑に落ちない表情の知世を前に、ご主人様はすっかりやる気になったらしい。
ぺちぺちと自分の手のひらに打ち付けて感触を確かめるその様子は、明らかにスイッチが入っているように見えて。
(まぁ……ご主人様が楽しんでくれるならいいかな、私もいっぱい打って貰えるし)
時折見える楽しそうな瞳に、知世もまた嬉しそうに微笑む。
時折鈍い物騒な音が響く空間とは裏腹に、二人だけの時間は今日もゆっくりと流れていくのである。
◇◇◇
専用の道具じゃなければ危険だなんて言説は、過激な方向に走りがちな人をちょっと諫める程度の方便だと思っていた。
だいたい、スパンキングの道具なんてそもそもの目的からして危険しか無い訳で。
さっきまで見ていた鋲がぎっしり並んだパドルよりは、台所から失敬した木じゃくしのほうが明らかに安全だし、手のひらだって使い方を間違えたら大惨事になりかねないことは、最初に文字通り叩き込まれた。
つまり、全てはそれを使う人次第。むしろ日用品の方が使い慣れている分ましとも言える。
更にここは夢の中だから、余程のことが無い限り安全は保障済みだ。
……とはいえ、今回はちょっと舐めていたかもしれないと、知世はずずっと鼻をすすり上げる。
「ははっ……最初から鳴いてごめんなさいまでできるなんて、今日の小ブタちゃんは随分素直だな」
「いあぁっ! いだい、ごじゅじんじゃま、ぐすっ、ごれっいだいぃ!!」
「そんなに痛いんだ? ……ふぅん、まあ確かに柄は金属だし、奥まで響くよ、ねっ!」
「う゛ぁっ、ごめんなじゃいっもうぢょっと手加減しでえぇ!!」
パチン!!
綺麗な弧を描いた軟膏塗りの先端が食い込み、知世の肌に鈍い音を残す。
木じゃくしのような軽く弾ける感じとも、手のひらのように広く柔らかい感じともまた違う吸い付くような感触は、しかし音からは想像も出来ないほどの重い痛みを、白いキャンバスに叩き付けていく。
普段は双丘が真っ赤になってようやく言葉を口に出せる知世が、思わず一撃目にして叫んでしまったほどだ。
(ちょっと待って、これまずくない……? いつもの10倍は痛いんだけど! 私のお尻、夢なのに壊れちゃうんじゃ!?)
全くなんて間違いをしてくれたんだと、まじないの寝具に恨み言を唱えたところですでに遅し。
プレイが始まってしまった以上、今日も知世は濁った悲鳴を上げ、涙と涎を零しながら振り下ろされる予感に震え、既に熱さを交えた痛みを存分に味わうだけだ。
そこに快楽は無い。
ただの痛みと、安堵が知世の中に刻まれるだけ――の、はずだった。
いや少なくとも昨日まではそう思っていたし、今日に至ってはそんなことを考える余裕すら無いほどの痛みに襲われている、筈なのに。
「はぁっ、はぁっはぁっ……ぐずっ……はぁ……っ……」
目の前が、ぼんやりと霞む。
開いた口の閉じ方が分からなくて、溢れる涙は……痛み以外のものを、確かに内包している。
パチン!!
「んあぁ……っ……!!」
(!? え、今の……私の、声?)
パチッ!! パチンッ!
「あはぁんっ……んっ……!」
(……そんな、その声は…………!)
幾度目かに上がった声は、自分の口から出たとは思えないほど、甘く蕩けきっていて。
なにより聞き慣れた、出来れば忘れたいのに耳にこびりついたままの音にそっくりで……
ここに至って知世はようやく気付くのだ。
(きもち、いい……っ!)
これは、今に始まったことでは無い。
いつの頃からか、自分は……この痛みに忌まわしき快楽を感じていたことを。
「んー? 小ブタちゃん、今日はすっかりご機嫌だね」
「んひいぃっ!?」
「……打たれたとこ、敏感になってるから……これだけで気持ちいいんだ?」
「…………!!」
つぅ、とご主人様の持つ軟膏塗りの角が、赤く熟れた曲線をなぞる。
思わず飛び出た悲鳴は、どこまでも甘く誰かを誘うような色を帯びていることに、知世の身体がぎくりと強張った。
(……やだ)
「はっ……はぁっ、はぁ、はっ……」
(あれと、一緒……やだ……っ!)
夜毎繰り返される、泥と共に流し込まれる抗いがたい快楽を、身体が思い出す。
望みもしないのに、何度あの手で、中心で、全身を震わせ悦楽に咽び泣いたか……もう数え切れない。
「…………あ……ぁ……」
喉の奥に、何かが押し込められたようで。
つぅと知世の背中に冷たい汗が伝う。
いけない、これ以上感じたら、また私は泥に沈んで――
「ん? まだ余計なこと考える暇があるんだ」
「っ……」
「折角の時間なんだからさ、集中しなよ。……ほら、ここ。真っ赤っかになってる」
「んうぅっ……!」
「ここをしこたま打ったらさ、めちゃくちゃ痛くて熱くて……きっと小ブタちゃんは、良い声で鳴くんだろうな」
「!」
すりすりとひときわ赤みの強い痕を撫でていた先端が、ふと離れる。
(くる)
どくん、とひときわ大きな鼓動が、知世の全身を強張らせる。
さっきまでの嫌な汗など、気にしている場合じゃ無い。くる、くる……いつ? あの痛さが、熱が、ここに――
(……まだ……?)
痛いほどの胸の高鳴りに、きゅうと視界が狭まって。
けれど待ちかねている瞬間が訪れないことに、知世の身体が少しだけ緩んで。
その瞬間
バチンッ!!!
「いああああっ!! ……ひぐっ、だいっ、いだいぃ……ひっく、ひっく……うわああああっ!!」
今日一番の打撃が、既に赤い点々が広がる肌に振り下ろされた。
途端、知世の喉から振り絞られる絶叫は、内に、外に響いて、知世の鼓膜を震わせる。
痛みと、熱さと、ドキドキと……頭が真っ白になるほどの、紛う事なき快楽が知世の全身を満たして……
(……あ、れ…………?)
「はあ、ほんっと良い声……そんな声も出せるんだ。まだ太ももも残ってるし、もうちょっと頑張れるよな?」
「うあぁぁっ!! ごめんなしゃい……いたいの……でもっ、もっとぉ……っ!!」
「ふふっ、そうこなくっちゃ」
(…………泥が、ない……?)
けれど……薄らぐ意識の中で、知世はふと気付く。
何度も味わわされた形の快楽なのに、ご主人様のくれるそれは、ただ純粋に気持ちよくて……少しだけ胸が高鳴って、そしてこの感覚にはつきもののヘドロのような粘ついた何かが、どこにも纏わり付かない。
「んー、やっぱり回数打つのは難しいか、これ。じゃ、小ブタちゃんあと十回だけな。……最後まで俺を楽しませて、よっと!」
「んはぁっ!! ひぐっ……はぁっはぁっはぁ……っ、ごめんなしゃい……ごしゅじんしゃま、ぁ……っ」
パチッ!! パチン、パチン……
痛みは、消えない。熱さも、一打毎に増すばかりだ。
そして……頭の中の真っ白な何かは打ち寄せる波のように全てを飲み込み、腹は甘くじんと疼いて、勝手に溢れ出す涙まで温かい。
けれど、事ここに及んですら、どこにも忌まわしき痕は現れず。
積み重なるのは、きもちいいと、途方もない安心感だけ……
(ああ、いいな)
もう、己の叫び声すら上手く聞こえやしない。
知世の全ては、ただ快楽の塊と化して、言葉にならない何かを上下の穴から延々と吐き出している。
その時、霞んだ意識の中にぷかりと浮き上がった泡のような思考は……知世が生まれて初めて、与えられた快楽を受け入れた瞬間だったのかもしれない。
(……ご主人様のきもちいいは、きもちいいになって、大丈夫なんだ)
パチン、パチンと肌を打ち据える音は衰えることが無く、どこか心が弾むような音色にすら聞こえてくる。
でも、さっき十回って声が聞こえた気がするから、この内を満たしてくれる響きはじきに止んでしまうのだろう。
――ああ、この時間が終わってしまうことが、胸がきゅっとするほど名残惜しいだなんて……!
(もっと、欲しいのに)
そんな気持ちが、どこか甘い声に混じっていたのだろうか。
ふっとご主人様が笑った音が、聞こえた気がする。
「そうそう、そうやって何も考えずに鳴いてるほうが、小ブタちゃんらしいよ――」
意識の遠くから聞こえる、ちょっと低めの揶揄うような声は不思議と温かくて、知世は泣き叫ぶ身体とはかけ離れた穏やかな充足感を覚えるのだった。
◇◇◇
「また随分うっとりしてるな……そんなに軟膏塗りは気持ちよかったんだ」
「……はい」
「ま、俺も楽しませて貰ったよ。いつもと小ブタちゃんの反応が全然違ったし。にしても、初めての獲物は難しいな。……ちょっとやり過ぎちゃったかも」
「そっ、そんなっいいんです! むしろもっとご主人様の自由に、なんならゴミマゾブタって汚物を見るような目で詰りながらでも、痛うぅっ!」
「そういうのは俺が決めるの。小ブタちゃんが指示してどうすんのさ」
「あ……ご、ごめんなさいご主人様、ブタ風情が生意気な口を」
「…………はぁ、まったく……」
どうやら最後は、少しだけ気を失っていたらしい。
はっと意識が戻れば、知世は床に伏せ尻を高く上げた体勢で、腫れ上がった臀部を後ろに座り込んだご主人様に曝け出していた。
……おまたがスースーするということは、大切なところも全部見られてしまっているのだろう。
すっかり見られ慣れた身体には、恥ずかしさはあれどちょっとしたご褒美にしか感じられないのだけど。
(それにしても、また……どうして、ご主人様はいつもあからさまにしょんぼりするんだろうなぁ……)
彼女の視線を感じてふるりと身を震わせながら、知世は良く回らない頭で最近のご主人様のことを考えていた。
男言葉を使ってはいるけれど、ご主人様はれっきとした女性だ。
特にこうやってプレイ後に知世を撫でる指は、どこまでも繊細で優しくて、ちょっと居心地が悪くなるほど気遣われているようにすら感じてしまう。
その手つきは、知世よりも余程女性らしい。
――そう、残念ながら女としてご主人様に叶うところは、一つも無いと断言出来るくらいに。
(本当に、私が作ったとは思えないよねぇ。そもそも、理想とはちょっとどころでなく違う気が……)
だからこそ、不思議なのだ。
知世はスパンキングも恥ずかしい姿を見られるのも好きだが、殊更蔑まれ詰られることを好むことを、この数ヶ月でしっかり自覚していた。
だからこそ、ご主人様にはブタと呼んで欲しいと早々に強請ったし、それ以後もなるべく雑で人権の欠片も無いような扱いをして欲しいと、折に触れて口にする。
けれど、彼女はスパンキングに関しては知世の希望を全面的に叶えてくれるくせに、こと侮蔑的な扱いとなると、途端に頑として拒否を貫いてしまうのだ。
しかもそんなときは決まって、どこか気落ちしたような……そして悲しそうな色を瞳に浮かべているのが、どうにも解せない。
(妄想なのに、悲しむって……ほんと、変なの)
……不思議だとは思うものの、深く追求するだけの余力は今の知世には残っていない。
願いを叶える寝具とはいえ、今日の乗馬鞭が軟膏塗りに変化した事件のように、全てが万能で完璧というわけでも無いのだろうと、結局知世はあっさりと思考を投げ捨てることにした。
「んっ……んふ……痛っ…………」
「…………」
痕をたどる細い指。
その度に漏れる、鼻にかかった甘い声。
二人だけの空間に響く嬌声は、何故かいつもただ穏やかで、淫靡さの欠片も見当たらない。
(うぅ……足にまで垂れてるぅ……)
ご主人様に丸見えの股間が大変なことになっているのは間違いないのに、彼女は決して泥濘には触れない。
それは彼女なりの気遣いなのか、単に興味が無いだけなのかは分からないけれど……ただその行動は、もどかしさと共に守られているかのような安堵感で、知世の心をそっと包み込んでくれる。
「……そういやさ」
一体どのくらいそうしていただろうか。
いつものように知世の尻を堪能していたご主人様が、ふと口を開いた。
「これ、軟膏塗りだって言ってたよな」
「ん……そうです、けど…………?」
「なら折角だし使うか」
「へっ?」
(え……いつの間に、こんな物が……?)
これ、とご主人様が知世に何かを見せる。
目を凝らしてみれば、手のひらにちょこんと鎮座しているのは金色の蓋が輝く小さなガラス容器だ。
「お尻に塗る軟膏、ちょうどいいだろ?」と、彼女は知世が怪訝そうに眺める前で容器の蓋を開け、白い半透明の軟膏をたっぷりと指で掬った。
「これを先端に乗せて、っと……短くしないと塗りにくいな……」
「あ、あの……ご主人様……?」
「いいから、じっとしてな」
「……はい」
ぴと……にゅるぅ……
ねっとりした感触が、火照った肌に落とされる。
そのままご主人様は知世の真っ赤に腫れ上がった尻と太ももに、軟膏塗りを滑らせた。
「んぅ……」
シリコンの先端は、ちょっと冷たくて気持ちが良い。
暫くすると塗られたところがスースーしてきて、痛みも心なしか和らいだようだ。
(……こんなに気を遣わなくたって、いいのに)
知世は釈然としない想いを抱き、心の中にため息を零す。
夢の中の傷はどれだけ酷くても、寝具が良い感じに調節した上で現実に持ち込んでくれるから、安心してどこまでも傷つけられる――
なのにわざわざご主人様が知世の尻を気にかけ、あまつさえ手当のような仕草を取るのは、どうにも不思議で……だからだろうか、どこか胸がざわついてしまう。
「…………」
「……んふ……っ……」
(ああでも、これはこれでいいかも……)
執拗に塗り込むように、何度も知世の表面を往復するのは、ご主人様の綺麗な指ではなくただの軟膏塗りだ。
この距離で決して使う必要の無いものを敢えて使って、知世に直接触れてくれない……
その事実に気付いたとき、知世の被虐心がちょっとだけ満たされて。
(……もしかして、気付いていたのかな)
ずっと知世が蔑んで欲しい、人扱いしないで欲しいと望んでいることを、ご主人様はどこか気に止めてくれていたのかも知れない。
けれど彼女はあまりそういう事に興味はなくて、とはいえ小ブタちゃんが満たされないのも可愛そうだと、少し情けをかけてくれたのだろう。
「ありがとうございます、ご主人様……」
「……ん」
知世がどこかうっとりした声色で感謝を口にすれば、いつも通りの素っ気ない返事が後ろから返ってくる。
……肌に触れるシリコンの当たりが、少しだけ柔らかくなった気がした。
◇◇◇
「……ずっと、ご主人様とここにいられたら良いのに」
「…………どうしたのさ、いきなり」
軟膏塗りの動きが心地良いせいか、それとも塗られたところが冷たいのに熱くて、いつも以上に触れる刺激に敏感になっているせいだろうか。
時折あえかな声を上げながら、知世は大切なところをご主人様に見せつける姿勢のまま、ぽつりと本音を漏らす。
いつもは言葉もなく、ただ知世の吐息だけが時折響くひとときに零れ落ちた言葉に、彼女はせっせと軟膏を継ぎ足しながら知世に続きを促した。
「あ、えっと……その、ご主人様にこうやってお尻を叩いて貰えるのが……楽しくて」
「楽しい、か。確かに、こんなに真っ赤になって痛くて堪らないのに、もっとって強請るくらいだもんな」
「うぅ……改めて言われると変態すぎる……それで……」
知世は頬を染めながら、ぽつぽつと彼女がかけた願いを語る。
最初はただ、お尻ぺんぺんをしてくれるご主人様が欲しかったこと。
夢でご主人様に会えて、けれど朝が来れば何も無かったかのように全てが消え失せて、あまりの寂しさに夢の痕を残して欲しいとお願いしたこと。
そして……今は夢の中の住人になりたいと毎夜のように織物に願い続けていることも。
「お布団さんにも、何度もお願いしてるんです。もう、ずっと夢の中でご主人様と一緒にいたいですって……でも、その願いだけはどうしても聞いてくれなくて」
「……そりゃ、叶えたら小ブタちゃんの一番の願いが色褪せちゃうからだろ?」
「…………え?」
不満を口にすれば、ご主人様から返ってきたのは、思いもかけない理屈だった。
色褪せるとは、と戸惑いを顔に浮かべれば、彼女は「簡単なことじゃん」と何でも無いようにさらりと理由を口にする。
「毎日出会って別れるからいーんだよ。終わりもなく夢の中で同じお尻を叩いてちゃ、楽しさも無くなっちゃう」
「ぶっ!! そ、そういうもの……?」
「そういうもんだよ。小ブタちゃんだって、ずっと同じじゃ飽きちゃうだろ? だから乗馬鞭を夢に持ってこようとした訳だし」
「それは……」
思わず噴きだしてしまったけれど、続く言葉に知世は虚を突かれる。
なんだろう、少し前に似たような話をどこかで聞いた気がして。
「あ」
記憶を探っていた知世が、はっとした表情を浮かべる。
どうしたのかと訊ねるご主人様に「私、分かったかも」と振り向くその顔は、何故かちょっと……どころでなく生き生きとしていた。
「ココナッツジャムベビーカステラと一緒ですね!」
「は……? なに、カステラだって?」
「あ、学食の新メニューなんです。ベビーカステラの中にたっぷりココナッツミルクで作ったジャムが入っていて、びっくりするほど濃厚で美味しいんですよ!!」
「そ、そう、なんだ……」
「でも、ジャムはこの国じゃ市販されて無くて、全部手作りでしかもあんまり日持ちしないから、週に一度の限定メニューになっちゃって! もう木曜日が毎週待ち遠しいんです!! 早く学食に行かないと売り切れてしまうし……」
「……なるほど、何となく話が分かった」
「そうなんです! もしあれが毎日、しかも売り切れずにいくらでも食べられたら、最初は嬉しいだろうけど飽きて来ちゃうかもなって……ご主人様の言いたいことはそういうことですよね!」
キラキラと瞳を輝かせ、怒濤のごとく早口で喋り続ける別人のような知世にちょっと引いてしまったのだろう、ご主人様の顔がヒクついているように見える。
ややあって彼女は、ふんすふんすと鼻息荒いお尻の持ち主に「……小ブタちゃんらしい例えだね、それ」と肩をすくめた。
……今、ご主人様はネックゲイターの下で、きっと笑ってくれている。
少し細められた瞳がどこか優しくて、彼女の笑顔が見られないことがちょっとだけ残念だなと思いつつも、知世はひとりうんうんと納得していた。
(……鞍馬さんにも、同じことを言われたのになぁ)
ある冬の日の放課後、試食会でちゃっかり菓子を堪能する知世を窘めるようにかけられた鞍馬の言葉が、今になって心に沁みる。
もしかしたら彼は、知世の現状をはっきりと知る前から何かに気付いていて、あの言葉を口にしたのだろうか。
けれど、不思議なものだ。
鞍馬に言われたときにはピンとこなかった言葉の意味が、ご主人様から告げられればすっと胸の奥に響いてくる。
これも男装女性という形のお陰なのだろうか。
それとも、彼女が自分の作った妄想だからなのか……今の知世には判断が付かない。
(でも……やっぱり私、ここが楽しい。ずっとここにいたい……)
――どちらにせよ、言葉が響いたからと言って知世の気持ちが変わるわけではなさそうだが。
そんな知世の気持ちを知ってか知らずか、ご主人様は珍しく饒舌に話を続ける。
彼女はどうやら夢の中で二人きりの世界に閉じこもることには、あまり意味を見出していないらしい。
「小ブタちゃんだって、ずっと夢にいたらあんな小道具を探して持ってこれないだろ? ……まあ、目的のブツとは随分異なったみたいだけどさ」
「うう、なんでなのぉ……」
「そりゃ、流石に実物を知らなきゃ夢でも再現できないんじゃないの? 話を聞く限り、形は似てるんだし……第一そのブランケットだって、目がなきゃ画面は見えないんじゃね?」
「はっ! その発想はなかったかも……!」
軽口を叩きながらも、ご主人様は現実と夢とを行き来することを、知世に勧めているようだ。
今の知世には、その提案に是を唱えることはとても出来ない。
ただ、彼女の言葉は心の片隅に置いてあっても、反射的な反抗心が沸かないのがなんとも不可思議ではある。
それにさ、とご主人様は言葉を綴りながら、シリコンの先端を太ももへと伸ばしていく。
大分容赦なく謎の軟膏をべっとりと塗りたくられている気がするが、夢だから問題は無いのだろうか。
「小ブタちゃん、夢に引きこもったら……さっき言ってたなんちゃらカステラも食べられなくなるけど」
「それは困る」
「ちょ、即答じゃん。小ブタちゃんは随分食いしん坊なんだな」
ハッとした表情で見つめる知世に、ご主人様は「まさか気付いてなかったのか、この子」と少し呆れた、けれどどこか知世を慈しむような視線を返す。
――彼女の視線は、時折あの麗しい学食のお兄さんを思い起こさせるのは、何故だろうか。
(……そうだよね。現実の全てが不幸って訳じゃ無いんだ)
お尻の熱さに悶えつつ、知世は先ほどのやりとりを振り返る。
反射的に答えてしまったけれど、確かに昼間の世界は決して辛いことばかりでは無い。
学食は毎日堪能しているし、鞍馬のおやつは何だって絶品だ。友達とだって、壁を感じることはあっても独りぼっちにはなっていない。
最近は良質な睡眠も手伝って、成績も以前の水準に戻っている。
……たしかに夜のひとときは知世の中に影を落としているし、どう足掻いたって普通の幸福とやらは見つからないけれど、それ以外はむしろ数ヶ月前と比べて良い方向に向かっていて。
「……なんでだろうなぁ」
「どうしたの、小ブタちゃん?」
「え、あ、えっと……そうなんですよね、現実だって楽しいことはあるのに……でも私、やっぱりご主人様と逢える夢無しじゃもう生きていけないし、ここに閉じ込めて欲しいって思っちゃうんです」
「ふぅん、何か心当たりは無いの?」
「んん、心当たりかぁ……」
静かに返された問いかけに、何故か胸の奥がざわめく。
もやもやとしたものが広がって、ここから先は考えてはいけないと、身体のどこかがずっと警告を鳴らしているようだ。
「例えばさ……っと、ごめん手が滑った」
「うひゃっ!? だ、大丈夫ですっ……」
なおも問いかけようとしたご主人様の手が滑ったのだろう。軟膏塗りの先端が、ずるりと秘裂をなぞっていく。
思わず素っ頓狂な声を出した知世は「気にしないで下さい」とご主人様に笑おうと……した、筈だった。
「…………ひっ!? え、なに、これっ……」
次の瞬間、知世を襲ったのは感じたことの無い――熱さと冷たさを凝縮したようなとんでもなくスースーした感覚。
散々快楽を教えられた泥濘が、その先に息づく肉芽が、カッと燃え上がるような、それでいてキンキンに冷やされビリビリと痺れさせられるような、訳の分からない感覚に塗りつぶされていく――
「うあああっ、あっ熱い!? え、冷たい!? 分かんない、なにこれぇっ!!」
「……あー、ごめん。多分軟膏が付いちゃったせいだ……てか、思ったよりたっぷり付いちゃってたな……」
「ええええ!? ちょ、ちょっとご主人様ぁ!?」
とてもじっとしていられない感覚に、知世は思わず身を悶えさせる。
「この軟膏、絶対に粘膜に塗っちゃだめらしいんだよ。タイガーバームってやつで……メンタームより鬼スースーするんだよな……」とどこかすまなそうに語るご主人様の説明も、最早知世の耳には入らない。
(触りたいっ……むずむずして、熱くて、辛い……嫌っ……それだけは……!)
敏感なところを刺激されたせいだろう、途端に燃え上がる欲望を、知世は必死に噛み殺す。
きっと敏感なところはぷっくりと腫れ上がって、止めどなく涙を流しているだろう。
けれど……決めているのだ。
そこだけは……あの人に教えられた泥の源は、何があっても決して自分では触らないと――
だからただ、知世はうっかり伸ばしそうになる腕を胸で押しつぶし、拳を握りしめて、早くこの効果が切れてくれることを祈るばかり。
……残念ながら、そんな決意を嘲笑うかのように、もどかしさは膨れ上がるばかりなのだが。
「うわあぁんっ! 熱いよぉっ、こんなの耐えられないよおぉ!!」
「…………小ブタちゃん、俺あっち向いて耳塞いでるから、その、何とか自分で」
「無理っ! 絶対、やですっ!! こんなところに触るなんて! ……やだよぉ、ひぐっ、ひぐっ……触ったら、折角ご主人様に貰ったきもちいいが……汚れちゃうぅ……っ!!」
「……っ!」
涙ながらに思わず叫んだ言葉が何だったのか自分でも分からないほどに、知世はすっかり衝動に翻弄されていた。
――だから、ご主人様が息を呑んだ音も、耳には届かなくて。
「……小ブタちゃん」
やがて、何かを押し殺したような低い声が、知世の耳に届く。
やっとの思いでのろのろとご主人様の方を向いた知世は、その様子に一瞬ぽかんと口を開けた。
だって涙で滲んだ視界の中には、思いもかけない体勢を取っているご主人様がいたから。
「あちゅいっ、いやぁっ……え、ご主人、様? …………なんで、軟膏塗りを構えて……?」
「ん、ああ。そんなに辛いなら、痛みがあった方が気が紛れるんじゃない?」
「ちょっとおおおご主人様それ脳筋すぎません!? あ、でも、良い案かもっ!」
ぴとり、と先端が触れるのは、まだ赤みの少ない太ももの外側。
どうする? と問いかけてくる彼女の瞳は、やっぱりいつも通り冷静で、澄んでいて。
(……ちょっと怖いけど…………うん、大丈夫。ご主人様なら……)
だから、知世は理性の箍を一つ外し、ご主人様に向かって叫ぶ。
「お願いしますっご主人様! じんじん取れるまで、お尻ぺんぺんしてくださいっ!」
「……ん、分かった。叩けそうなところだけな」
(ご主人様なら、私を穢れた何かに漬け込まない……!)
バチンッ!!
「うああああぁ……っ!!」
承諾を得るなり、ぶんっと重めの風切り音と共に、軟膏で濡れた肌に打撃が落とされる。
思わず口から飛び出た絶叫は、痛みと共に泥濘の予期せぬ疼きと訳の分からないモヤモヤを、一気に吹き飛ばしてくれたのだった。
◇◇◇
春を迎えたとは言え、大多数が内部進学を選ぶ学園の雰囲気はそれほど変わりが無い。
あれほど進学の……それ以前に留年の危機を迎えていたはずの知世も、学年末の試験で随分成績が向上したお陰で教室に流れるゆったりした空気を堪能していた。
「最近のチセは、食欲も一年の頃に戻ったように見えるな」
「むぐ? そうれふか?」
「……チセよ、口に物を入れたまま喋るでない。団子は逃げぬぞ」
今日も今日とて、放課後の学食は勉強会という名の、鞍馬による試作を当て込んだ学生たちで賑わっている。
雑多に広げられた参考書たちの真ん中に置かれているのは、ビー玉大の団子だ。
草団子にしては随分鮮やかな緑色の、表面を白いフレークで覆われた菓子は、一口噛めば口の中にじゅわりと黒糖に似た蜜が広がる、和菓子を南国で包み込んだような味がした。
「くらまひゃんのくにって、おいひいもの、おおいれすよね……もぐもぐ」
「うむ、しかしこの国も食にかけては……料理も人も随分貪欲であると思うが」
「知世ちゃんなんて典型的よね! あ、知世ちゃん私もうお腹いっぱいだから、これ食べる?」
「食べる!! ありがとう~!」
友人から分けて貰った菓子を、知世は幸せそうに頬張る。
その様子は、教室が輪が寝床と言わんばかりに眠りを貪っていた頃とは見違えたように生き生きしていて――いや、当時もおやつの前では元気だったけれど――一時はどうなることかと心配していた友人たちもどこか安心した様子だ。
「知世は学部の希望調査票、もう出したの? 一緒に上がれるんだよね?」
「うん、学年末の試験で赤点も無くなったし、次の定期試験でも維持出来ていれば大丈夫って。学部はねぇ、まだ悩んでるの。文学部か外国語学部かなとは思うんだけど……どこもピンとこなくて」
「知世ちゃん、英語は得意だし三ヶ国語喋れるもんね。いいなぁ、私なんてアルファベット見ただけで頭痛くなっちゃうのに……」
(……ちょっと疲れるけど、別に不幸のどん底ってわけじゃないよね、これも)
他愛ない会話に、美味しいお菓子。絶えない笑い声。
混じれているようで混じりきれない、一枚の透明な膜はやっぱり消えないけれど、求められる形を演じて得られるこの関係は、現実を捨てる主因にはなり得ない――
いつもと変わらない掛け合いの裏で、知世は止めどなく思いを巡らせる。
あの夢の中で感じた、外を楽しみながら夢に閉じ込められたいという矛盾の理由は、いつもより強めに残った痛みでも隠しきれないひっかかりを知世の心に残したままだ。
「ん、痛てて……」
「どしたの知世、お尻痛いの?」
「え、あ、ちょっとね。家で筋トレしたら、筋肉痛に」
「……へーぇ、筋トレ? ダイエット? ……もしかして、とうとう知世にも春が」
「そんなわけ無いでしょ!! これ以上お肉が増えたら、制服が破けちゃうからだよぉ!」
(……うん、ちゃんと自然な理由になってるよね)
「だめじゃん!」「知世、陸上部で一緒に走ろっか!」と湧き上がる歓声に、知世は今日も上手く切り抜けられたと安堵のため息を漏らし、それはそうとしておやつは楽しまないとね! と言わんばかりに皿に残った団子にもちもちした手を伸ばした。
◇◇◇
「チセ、もしかしてお主が夢から持って帰る痕とは、その尻の痛みか?」
「ぎくっ。……ええぇ、何で鞍馬さんには分かっちゃうかなぁ……」
「なに、お替わりが少ない日はいつも尻を庇っておるからな。一度や二度ならず、こう数ヶ月にわたり頻繁だと流石に予測が立つ」
「むぅ……鞍馬さんは、学生の食事情を把握しすぎだと思うの」
しゃらん、と聞き慣れた音が、鞍馬の耳から響いてくる。
いつ見ても耳たぶがちぎれそうで怖いなと、ちょっと心配しながら整った横顔を眺めていた知世は、唐突に振られた話題にがっくり机に突っ伏していた。
「今日も親御さんは、遅くなると?」
「うん、18時過ぎちゃうって。出張も増えるし……夏からはママが迎えに来るようになるかもって」
「そうか、それは……いや、何でも無い」
新年度になり、父はどうやら昇進したらしい。
そのせいか迎えが遅くなる日も格段に増え、最近で週に3日は最後まで学食で鞍馬と二人……時には彼の恋人たる「従者さん」と三人で、父を待つ日々が続いている。
「それで、そのような痛みを残すとは……チセよ、もしやお主、夢の中で酷い目に遭っているのではあるまいな? あまり辛いようであれば、私が織物に説教するが」
夢の中で得た痕が現実に反映される――鞍馬曰く「良くない兆候だ」と夢への耽溺を諫められたあの日からも、彼の知世への接し方は変わらなかった。
ただ、だからといって知世の様子を窺うことを止めたわけではなかったらしいと、知世はその観察眼に舌を巻く。
(鞍馬さん、絶対めちゃくちゃ優秀な人だと思うんだけどな……どうして学食のお兄さんなんてやってるんだろう……)
まったく、この人は才能の活かし方を間違えている気がすると内心全力で突っ込みを入れながら、知世は慌ててその場を取り繕おうとした、のだが
「え、えっと、だだ大丈夫です! 酷い目に遭って……るのはお尻だけですし! それにがっつりぺんぺんされるのは、私の望みですから!」
「……お尻に酷いことが、望みだと……?」
「はっ!! うわああ、何でうっかり喋っちゃうのよおぉ知世のあんぽんたんっ!!」
残念ながら、美味しいおやつに絆された身体は、どうにもこの青年に対して警戒を怠りがちらしい。
さっと顔色を変え「まじないの織物め……純粋な若者をたぶらかすとは、遠くからの説教だけでは足りぬというのか。かくなる上は……」と物騒なことを言い始めた鞍馬に、知世は(これはまずい!)と観念してこれまでの経緯を洗いざらい話すことにしたのだった。
――友人たちの言うとおり、自分はとうの昔にこの麗しい青年によって胃袋を半分くらい掴まれていたのだろうと、今更ながら痛感しつつ。
◇◇◇
「……というわけで…………そっその、すみませんこんな変態極まりない話を」
「いや、それは構わぬ。むしろ言いにくいことを言わせてしまったな」
「はあ……えっと、鞍馬さんは怒らないんですか?」
「……何故怒る必要があるのだ? 趣味は人それぞれであるしな、お主が辛い思いをしていないのであれば良い」
「そ、それでいいのかなぁ……」
十分後。
茹で蛸のように真っ赤に全身を染め、最初の出会いから軟膏塗りを使った最新事情までを洗いざらい話し終えた知世は、あまりに淡泊な鞍馬の反応にすっかり面食らっていた。
(えええ……そこは大人の男なんだし、軽蔑の眼差しで説教するとか、あの人みたいな目で舐め回すようにじろじろ見るとか、そういうものじゃないの?)
戸惑いを隠し切れない知世の前で、とんでもない話を聞かされたはずの青年は「なるほどそう言う世界もあるのか……」と目を輝かせうんうんと頷いている。
その様子はいつもの大人びた印象とは一転して、どこか幼子のような純粋さが垣間見えた。
(まぁ、良かったのかな。否定はされなかったし……変なこともされそうに無い、よね?)
彼の周りを取り囲むキラキラした何かにどうにも居心地の悪さを感じながらも、知世はほっと肩の力を抜く。
どうやら、自分はこの話を打ち明けることにとてつもなく緊張を覚えていたらしい。
……これだけ汚れた身体なのに、更に穢されることを警戒するだなんて。
どれだけ自意識過剰なのかと、心の中でつい自嘲してしまう。
「……つまり、チセがどれだけ願っても夢には閉じ込められなかったと」
「はい。他の願い事は……お尻に残す痕を調整してくれるくらい懇切丁寧に応じてくれるんですけど、それだけは一切聞いて貰えなくて」
「ふむ、願い続けているお主の胸の内は気にかかるが、少なくとも最悪の事態は避けられそうであるな……しかし『すぱんきんぐ』と言ったか? 刑罰として尻を叩く光景は見たことがあるが、あれを楽しむ世界があるとはまさに盲点であった」
「け、刑罰!? って、それは楽しみとは全く別というか、もうだめな予感しかしないんですけど……」
どうやらこの青年は、思ったより好奇心が旺盛だったらしい。
知世によりもたらされた新しい概念に興味を抱きつつ鞍馬が話してくれたのは、彼の国では今でも行われているという鞭打ち刑の話だった。
鞭と言っても使われるのはケインと呼ばれる細長い棒だ。
台に固定した罪人の尻や背中を全力で打ち据えるその刑罰は、一撃で皮膚が裂け肉が見えるのだと、まるでその目で見てきたかのような話に、流石の知世も顔色が青くなる。
(そう考えると……ご主人様ってちゃんと壊さないように気を遣ってくれてるんだ……)
――いくらお尻を叩かれるのが性癖とはいえ、壊されるのは勘弁願いたい。
もちろん、壊されない程度ならちょっとくらいはいいかな……と小さなときめきを覚えたのは事実だけど。
何なら次は、ケインをお布団さんに強請ろうかなとも思ったけれど!
「あのっ鞍馬さん、私がしてるのはそんな過激な物じゃ無いですから! そりゃ赤くなったり内出血したりはしますけど、皮膚が割れるだなんてことは」
「うむ、その辺は安全に配慮されておるのだな。それに、夢ならば多少過激な行為であっても安全に行える……お主の願いがそれで叶うのであれば、悪くは無いのかもしれぬ」
誤解はまずいと慌てて釈明する知世を「夢に閉じ込められないのであれば、ひとまずは問題なかろう」と安心した様子で見つめる青年の瞳は、どこまでも慈愛に満ちていて。
いくらあのブランケットに見初められたからとはいえ、こんな取るに足らない学生にすら目をかけてくれる位なのだ。多分彼は、本当にいい人なのだろう。
(男だからと言う理由で、無闇に警戒しちゃだめよね……信じ切れるかって言われたらそれは無理だけど……)
知世は少しだけ己の先入観を反省しつつ、しかしこの場が丸く収まりそうな気配にほっと胸をなで下ろした。
これからもきっと近況は聞かれるだろうが、知世が夢に囚われる未来は来ないと分かったのだ。鞍馬にも、余計な心配をかけずにすむ。
それに現実がこれ以上変わらずとも、あの夢の時間さえあれば、美味しい楽しみを味わいながら何とか生きていけるだろう。
これで話は一件落着、良かった良かった……
「しかし、純粋な痛みが快楽になるとは実に興味深い。これは一度、ヴィナと試してみねばならぬな」
「ちょっと待った」
女性と見まごうばかりの美貌から放たれた、斜め上に天井を突き破るような発言に、知世は思わず真顔になる。
――うん、前言撤回しよう。
どうやら、暢気に一件落着を宣言している場合では無かったようだ。
自分への追求こそ免れたものの、よりによって麗しの青年を変態の道に導いてしまうとは、、いくら何でも想定外がすぎる。
しかもこの物言いだ。
間違いなくあの屈強な従者さんの尻に、大変な未来をお届けしてしまうではないか!
「くっ鞍馬さん、スパンキングは流石に上級者向けだと思うので……従者さんとはよく話し合われた方が」
「なに、あやつのことだ。なんだかんだ言っても入念な準備と計画をもってすれば、鼻血を出しながら付き合ってくれるであろうよ」
「いやいや鼻血を出させるのは、なんかその、すっごくだめじゃないですか!?」
だめだこれ、どうしようと知世が頭を抱えたその時、ギィと扉が開くと共に聞き慣れた低音が学食を震わせる。
「ムシュカ様、お迎えに上がりました!!」
「おおヴィナよ、ちょうど良いところに。実は今、チセから良き話を聞いてだな」
「うああ鞍馬さんそれ以上はだめえぇ!」
額に三本の大きな傷跡を持つ、目つきの鋭い厳つい男性――鞍馬がヴィナと呼びかける通称「従者さん」がのっそりと学食の中に入ってくる。
慌てて鞍馬を止めようと思ったものの、振り向いた眼前に広がる頬をほんのり染めた溢れんばかりの笑みに(あ、これは無理だ)と早々に諦めた知世は、実に申し訳なさそうな表情で大男の方に向き直った。
「あのう従者さん、ごめんなさい。……強く生きて」
「へっ? 山吹さん一体何が…………はっ! ムシュカ様、その目はまた何かとんでもないことを企んでおられますよね!? 俺っ、まだ死にたくないんですけどっ!!」
「案ずるな、今回はお主が尊死するような話では無い。……ところでヴィナよ、お主すぱんきんぐというものを知っておるか」
「全力でお断りさせて頂きます!!」
「ぬぅ、まだ一言も話しておらぬでは無いか……」
――そこから十五分。
新たなる概念に目覚めてしまった鞍馬が嬉々として語る夜の計画を、気の毒な恋人は全力で断念させる羽目になるのである。
◇◇◇
「あの……ほんっとうにごめんなさい、従者さん……」
「い、いや……山吹さんは悪くないです。そう、悪いのは全方位に向かって積極的すぎるムシュカ様ですから……」
「ふふっ、そうは言うがきっとお主は気に入ると思うぞ、ヴィナよ? 大体先日のペットプレイも、なんだかんだ言って楽しんでおったでは」
「ああああいけませんムシュカ様! それ以上はしーっ!!」
「はひっ!?」
(……ぺ、ペットプレイ……? え、もしかして鞍馬さん、こんな厳つい恋人をペットにしてるの!? と言うか、その美貌で口にしていい性癖じゃないと思うの!!)
新たに飛び出した概念に、どうにも微妙な空気が三人の中に流れる。
沈黙に耐えきれず最初に口を開けたのは、盛大な勘違いをしたままの知世だった。
「ペットプレイって……あれですか? ブタとか犬とかにする感じ」
「山吹さん、お願いだからそこは忘れて」
「……はあぁ良いですよねぇ、ブタって罵られながら足蹴にされるとか、想像するだけで」
「あっどうしよう、山吹さんの変なトリガーを引いちゃってるよこれ!」
あわあわする大男とは裏腹に、知世はどこかうっとりした表情で「素敵だなぁ……」と呟く。
そうしてどこか寂しそうに「……ご主人様も楽しんでくれたら良いのに」と零したのを、聡い鞍馬は案の定聞き逃さなかった。
――多分、彼のはちみつを煮詰めたような美しい瞳が一瞬キラリと光った、気がする。
「その様子では、チセも夢の中でペットプレイをしたことがあるのか?」
「ええっと……お願いしたことはあるんです、もっとブタって罵ってとか、手酷く扱って欲しいとか」
「ふむ、だがその様子ではおねだりを拒まれたのだな」
「……ご主人様はいつも凄く悲しそうな顔をするんです。あ、ご主人様っていつも目以外は覆われてますから、もしかしたら気のせいかも知れませんけど!」
ここまで話せばもう隠す物は無いと感じたからか、むしろ「同類」の匂いを本能的に嗅ぎ取ってしまったせいなのか。
ともかく知世は最近胸に燻っている思いを、ぽつぽつと二人に打ち明ける。
ご主人様のプレイは、いつだって苛烈だ。
知世が濁った声で泣き叫べぶほどに、その手から振り下ろされる痛みと熱さは、楽しさというおまけを纏って知世の中に深く刻み込まれる。
だというのに、彼女は決して知世を粗雑に扱ってくれない。
個人的には家畜やそれ以下のモノとして嬲られたいと思い、何度も願っているというのに、ご主人様が受け入れてくれたのは「小ブタちゃん」という呼び名だけ。
「不思議ですよね、自分が作り出した妄想なのに……自分の思い通りに動いてくれないなんて」
「山吹さん……それは」
「ヴィナ」
「っ…………失礼しました、ムシュカ様」
何かを言いかけた従者を静かに制し、鞍馬は穏やかな笑顔を湛え「チセよ」と問いかける。
その瞳はいつも通り美しく輝いて……けれどあの冬の日のように、小さな葛藤を奥に秘めたままだ。
「夢というのは、お主の深層心理を映し出していることもあろうよ」
「深層、心理……?」
「自分でも自覚出来ない、思いがけない想いとでも言えば分かるか? ……まあ、おとぎ話であればそのご主人様とやらは、どこかの現実に存在する女性であってもよいだろうが」
「んもう、それは流石におとぎ話が過ぎますよぉ」
笑いながら、けれど鞍馬の言葉に知世の心はつきりと小さな痛みを覚える。
(……気付いてない気持ち、かぁ)
性癖に対して「何故」だなんて、深く考えたことも無かった。
ブタと蔑まれたい、ぞんざいに扱われたい、そうすればゾクゾクして――そう、お前は汚れている、普通の人では無いと認められるようで、安心するからだと、安直に信じていた。
けれど、実は……そんな欲望の奥底に眠るのは、真反対の気持ちだったとしたら?
安心するから言われたいだけで、逆に言えば別の方法で安心するなら、本当に自分はこの扱いを好むのだろうか――
「……何だかモヤモヤすることばかりだなぁ」
「…………」
肩を落とす知世を見つめる二人の眼差しは、彼女を責めず、嗤わず、急かしもしない。
その穏やかな沈黙が、知世の口を滑らかに開かせる。
「今だって……ずっと夢の中で一生お尻ぺんぺんされていたいんです。でも、ご主人様はそれじゃ楽しくないって言うし、確かに鞍馬さんのおやつが食べられなくなるのは私も嫌だし……ごめんなさい、こんなこと喋っちゃって。自分でもおかしいと思うんですけど……」
「なに、気にするでない。……そうだな、夢のために現実を過ごすのも一つの選択肢ではあろう」
「えっ」
「む、ムシュカ様!?」
(反対、しないの……?)
思いがけない言葉に、知世は思わずピタリと動きを止める。
彼の恋人に至っては目を真ん丸にして「お言葉ですが……」と相変わらず従者と言われるに相応しい物腰で鞍馬を窘める始末だ。
「ムシュカ様、織物による夢に溺れることを肯定するのは、いかがなものかと」
「肯定では無い。ただ最悪の事態が回避されているならば、今のところはひとまず許容しても良かろう」
「それはそうですが……」
「とはいえ……チセよ、その生き方に今、お主は割り切れぬ気持ちを抱えておる。であるならば、ただ夢に拘泥するのではなく、出来ることから動くことも考えてはどうだ?」
「…………動く……」
「なに、今すぐどうという話では無い。お主はまだまだ若いのだ、じっくり考えてみるが良い……おや、迎えが来たようだな」
「!」
どこか重く張り詰めた空気を破るかのように、春風が部屋の中に舞い込んできた。
そうして聞き慣れた「山吹です! すみません、遅くなりました!」という声と共に、鞍馬はいつもの「学食のお兄さん」として父を出迎え
「パパ、今日は帰りにコンビニ寄って欲しいな~。今日こそ春限定スイーツを手に入れるんだ!」
「いいよ、ママからもうご飯が出来てるってメッセが来たから、目当てのお菓子だけ買ったらすぐ帰ろうな」
――知世はいつもと変わらぬ笑みを浮かべ、泥に満ちた車の中へと吸い込まれていく。
(……分からないよ、鞍馬さん。多分、ずっと……)
幹線道路に出るとすぐさま伸びてくる、手の温もりと小さな振動が白い肌に黒く染みこんでいく中、知世は甘い吐息を漏らしながら光を失った瞳で天井の染みを眺めるのだった。
(だって、自分にできることなんて……終わりの見えない地獄を諦めて、じっと我慢するだけだよ)
(――そうすれば、みんな平和でいられるんだから)
◇◇◇
現実の世界は、自分には変えようが無いほど巨大で、堅牢で。
けれど夢の中なら……私の願いを叶えてくれる世界であれば、一歩踏み出してみるのもありかもしれないなんて思えたのは、きっと彼女の瞳がいつだって真っ直ぐに自分を射貫いていたからだと思う。
「あのう、ご主人様。お願いがあるんですけど……」
「なに? いつものおねだりなら、俺は聞かないけど」
「……その」
夢の中に降り立った知世は、いつも通り床に土下座して、ソファにゆったりと座るご主人様を見上げる。
何度も同じおねだりを繰り返す知世を、ご主人様はこれまた根気強く「それは俺が決めること」と怒ることもなく、ただ悲しそうな色を瞳に浮かべてすげなく断る……
今やこのやりとりは、二人にとって始まりの儀式に近い立ち位置と化していて。
だから。
震える唇を一度噛みしめ、放たれた言葉は、慣れた世界に初めての小さなヒビを入れたのだ。
「……ご主人様。私のことを……名前で呼んでくれませんか?」
「…………へ?」
ぽかんと知世を見下ろすご主人様の瞳には、明らかな当惑が広がっている。
(そりゃそうよね)と向けられた視線に納得しながら、知世は再び同じおねだりを、彼女に向かって投げかけた。
――結局、鞍馬と話してからというもの、何日考えても自分の本音はさっぱり分からなかった。
けれど、蔑んで欲しいと願う度にちらつくご主人様の悲しそうな顔は、いつしか知世の痛みにすら感じられるようになっていて。
(それならもう……思い切って試してみた方がいいよね!)
……このままでは、埒があかない。
そう判断した彼女が最終的に選んだのは、ご主人様を見習った脳筋的手法であった。
とはいえ、ご主人様は知世をこれ以上蔑むような言動を確実に拒否するだろう。
ならば、逆の方向から確かめてみれば良い。これはあくまでも実験で、お試しで、だめなら元に戻せば良いだけだから……
「…………」
「……あの…………だめですかね?」
「名前」
「えっ」
「だから。名前、知らなきゃ呼べないだろ?」
「…………はっ!!」
そんな知世の提案は、思ったよりすんなり受け入れられたようだ。
(妄想に教えるって変な感じ)と思いつつも慌てて名前を告げれば、ふっとご主人様の雰囲気が和らぐ。
「もう小ブタちゃんじゃ無くていいんだ」と零す揶揄い混じりの笑みは、明らかに安堵の感触を含んでいた。
「で、今日は何で叩かれたいの?」
「軟膏塗りでお願いします!」
「ふふっ、ほんっとうにこれが気にいったんだな……いいよ、じゃあ」
「知世。お尻を突き出して、俺におねだりして」
(…………!!)
ドクン……
少し低くてハスキーな、ご主人様の声が、二つの音を紡ぐ。
生まれてこの方、数え切れないほどたくさんの人に呼ばれ続けた己を示す音は、一気に知世の心臓を高鳴らせ、身体の熱を上げて
(…………綺麗だ)
なのに……たった一言で、この真っ白な世界すら輝かせるだなんて。
こんな音は知らない。
あの人に呼ばれたときと同じように、心臓は高鳴るけれど……ご主人様の呼び声は、何もかもが違う。
そう、生まれて初めての世界が、そこに――
「……知世?」
「!! あ、はいっ…………」
ハッと我に返った知世は、いつものようにソファの後ろに回る。
一歩、また一歩、踏み出される知世の足は少し震えていて。
心臓が飛び出そうな程の鼓動も、熱くなる頬も、全く収まる気配が無くて。
そうして
(ご主人様……美しいな……)
隣にやってきた、色の無い世界に落とされた黒ずくめの塊でしかなかったご主人様が、眩いほどの色彩に生まれ変わって知世の心をぎゅっと抱き締めた……そんな気がした。