第5話 小さな一歩
現実が纏わり付くような湿気に気が滅入る季節でも、この白い世界は変わらず穏やかな時間を刻み続ける。
夜を越えたその先で、今日も今日とて知世は床に這いつくばり、残してくれた痛みにだらしなく顔をにやけさせながらご主人様を見上げていた。
「……餌皿は獲物として使うものじゃないな。音もいまいちだし、何より叩きにくくて」
「うう、ごめんなさい……まさか、あんなにへっぽこな音しか出ないだなんて……しかもあんまり痛くなかったし」
「知世の尻のせいじゃないから、気にしなくていいよ。けど、やっぱり尻を叩くなら素手に限るな」
ため息をつくご主人様の膝に乗せられているのは、ありふれた犬の餌皿だ。
知世が「金属製の餌皿で叩かれれば屈辱感も増してきっと楽しいに違いない!」と思いつき寝具に持ち込みを依頼した代物である。
――当然、この日のためにペットショップで下見も済ませてきた。あの乗馬鞭のような失敗を二度と繰り返すわけにはいかない。
『……小ブタちゃんを卒業したら、次はメスイヌになりたくなったって?』
『えへへ……あ、呼び方は名前のままがいいんですけど、やっぱり人じゃ無い扱いが』
『はぁ、知世は懲りないなぁ……まあ叩けるなら俺はいいけどさ』
ご主人様の呆れと哀れみを込めた瞳にぞくりとした興奮を覚え、目を輝かせていそいそと四つん這いになったところまでは、知世の思惑通りだった。
しかし残念ながら、人間の身体は餌皿を武器として扱えるようには進化していなかったようだ。
「……んっ…………」
「…………」
ぱふん! というなんとも情けない音も、知世にとっては被虐の良いスパイスであったけれど、ご主人様は実にお気に召さなかったらしい。
あれこれ打ち方を試行錯誤すること10分、痛みの物足りなさを知世が感じ始めた頃
『……ちっ、まどろっこしい!! これじゃいつまで経っても知世が鳴かないじゃんか!』
『へっ、ご主人様? ふぐっ痛ったあぁっ!!』
すっかり焦れた彼女は、餌皿を放り出してご自慢の右の手のひらを思い切り白い双丘に振り下ろしたのである。
その後は……いや、本当に凄かった。
今日の鬱憤を全て込めたかのような打撃は、腰が入っていて胎までビリビリ響いて堪らなかったなと、知世はまだプレイの快感が抜けきらない身体をふるりと震わせる。
「……お、いけた」
「ご主人様…………それ、何ですか?」
「見ての通りだよ、ミューズリーと牛乳。……って、知世凄い顔してるけど」
「あ、ごめんなさい。眼鏡が無いからよく見えなくて……んん? これ、もしかして口コミサイトで一番人気のメーカーじゃ無いですか!?」
「ふぅん、知ってるんだ」
「知ってるもなにも、私これ大好物なんですよ!! このメーカーのミューズリーはざくざく感があって、牛乳を入れてもふやけにくいんです! ナッツとドライフルーツの割合もちょうど良くて、あっでも冷凍のベリーとかバナナとかを一緒に混ぜてヨーグルトをかけると朝からしっかりと」
「あ、ああ、うん分かった、取りあえず知世の琴線に触れたんだな」
ご主人様がざらざらと音を立てて餌皿に盛っているのは、知世が最近はまっているミューズリーだった。
ついうっかり漏れ出た食いしん坊の剣幕に、ご主人様は少々どころでなくドン引きのようだが、こればかりは仕方が無い。流石私の夢、好物はしっかり外さないなと知世は途端相貌をへにょりと崩す。
(にしても、またどうしてミューズリーなんか……あ、まさか……)
一体どこから出てきたのだろう、とぷとぷと牛乳を注ぐ手をうっとりと眺める知世に過る、勝手な願望。
いくら何でも都合が良すぎるかな……と妄想を振り払う前に、ご主人様の手がすっと床に降りてきた。
ことり……
「ほら、食べな」
「……へっ」
「折角餌皿を持ってきたんだしさ、餌は必要だろ? 好物みたいだし、遠慮せずに食べなよ。……メスイヌらしく、手は使わずにな」
「!!」
ご主人様の足元に置かれた、銀色の餌皿。
いつも食べ慣れたミューズリーが、ちょっと入れすぎた牛乳に浸っている――それを見た瞬間、ごくり、と知世の喉が鳴る。
(あ……本当に、イヌみたいに…………食べさせられる……っ!)
ずくりと重い感覚が、胎を満たす。
知世が思わず見上げた視界には、いつも通り透き通るような水色の瞳が楽しそうに微笑んでいて。
(……あ、これはご主人様が悲しくないやつなんだ)
「はぁっ……」
目を潤ませ熱い吐息を漏らした知世は、よろよろと四つん這いでご主人様の足元に近づき、四つん這いになって再び彼女と目を合わせた。
「……いただきます、ご主人様」
「そこは鳴き声の方がいいんじゃない?」
「っ……わ、わんっ……!」
「ん。よし、食べな」
合図と共に、知世は餌皿にそっと顔を近づける。
まずは並々と注がれた牛乳をずずっと啜り、少し減らしてからミューズリーを口に頬張った。
(うわ……これ、顔びちょびちょになっちゃう……)
手を使わずに、顔を餌皿に突っ込んで食べるのは案外難しい。
口の周りをドロドロに汚しながら、知世は一心不乱に慣れた味を口の中に放り込む。
――毎朝のように食べているのに、今日は何だか、いつもよりも甘くて……頭の中までミルク色に染まっていくようだ。
「……美味しい?」
「は……んっ、わんっ!」
「そ、なら残さず食べちゃいな」
「あうっ……んぐ、むぐ……」
良い格好だなと見下ろすご主人様の声は、明らかにこの状況を楽しんでいて。
ああ、これはちょっと癖になりそうだと餌にがっつく知世の秘裂からは、とろりと白い蜜が太ももにまで伝っていた。
◇◇◇
「はぁっ、はぁっ……ご、ごちそうさまでした……じゃなかった、わん……っ!」
「……ははっ、そんなに気持ちよかった? ピンクに染まって小ブタちゃんになってるじゃん」
「ぁ……んっ、はいぃ……」
ゆっくりと時間をかけて、全てを腹の中に収めて。
口の周りを白く汚した知世を、ご主人様はどこからか取りだした濡れタオルで丹念に拭っていく。
何でも無いただのタオルの筈なのに、肌を滑る布地はまるであの織物を思い出させるような滑らかな感触に感じて……自分がネコなら、今頃ゴロゴロと喉を鳴らしていただろう。
(きもちいい……ふわふわの、きらきらだ……)
行為だけを見れば現実の夜より余程酷いことをされているはずなのに、ここで与えられる快楽には濁りの一つも見当たらない。虫唾が走るような何かが染みこむことも無い。
ただ、胸の奥がどうしようも無く高鳴って、温かくて、世界に星が瞬いて見えるだけ。
(……そっか、結局私は)
恍惚に耽りながら、知世はかつて己に投げた問いかけへの答えに、ようやく辿り着く。
『本当に自分はこの扱いを好むのだろうか』
ブタと蔑まれ、手酷く罵り、ぞんざいに扱って欲しい――
どうしようも無く歪んだ欲望は、きっとあのくすんだ世界で生きるために芽生えたもの。
だからこそ、扱いは酷ければ酷いほど良かった。己を貶める刃がいくつも心を貫いて初めて「この泥に侵された醜い身体には相応しい」と、自分を納得させることが出来たのだ。
「……こうやって見てるとさ、頭を踏んで床に押しつけたくなるな」
「はわっ!? そ、そのっ、ご主人様踏んで下さるんですか!!」
「ん? ……んー、知世なら俺に踏まれる妄想だけで気持ちよくなれるだろ?ほら、この足が頭の上に触れて……ぐっと床に押さえつけられるの、想像してみな?」
「は……はひ、っ……バレてるぅ……おっと涎が」
身に付けさせられた歪みは、今も胸の中心を貫いている。
このすらりと長い足が頭の上に降りてきて、甘い重さを感じながら冷たい床を舐める……
ご主人様の言葉だけで身体が火照り息が荒くなるくらいには、自分はこの扱いを心の底から望んでいるから。
だけど、ご主人様に与えられる人未満の扱いは、知世が日々の生活で己を貶めて得ている安心とはちょっと異なる何かを、屈辱の快感と共にこの肉の塊の中へと注ぎ込むのだ。
――その事に、そして彼女が与えてくれるものの静かな心地よさに気付いた時、知世の内にようやく答えが芽生える。
(本当の気持ちはひとつだけじゃ無いんだ。それに……そうだよね、変わったっておかしくない)
確かに最初は、汚れきった自分らしい扱いを受けて、安心することが全てだったのだと思う。
心の底から蔑まれる行為を単純に好んでいたと言われれば、恐らく答えは……否だ。
今思えば、嫌だと叫ぶかすかな囁きは、決して途絶えることがなかったから。
自分はあくまでも……笑うために、そして生きるために欠かせない切符を手に取っただけにすぎない。
とは言っても、物事を単純に落とし込めてしまえるほど、この気持ちは一筋縄では無かったようで。
(ご主人様、楽しそう……あは……っ……)
現実に存在するための足がかりとして身に付けたはずの性癖は、いつの間にかご主人様と共に楽しむツールの一つへと変化を遂げていたらしい。
知世が望み、そしてご主人様が楽しめる枠の中で与えられる加虐は、かつて感じていた麻薬のような強烈な陶酔感まではもたらさない。
その代わり……胸の穴がぽっかり開くような寂しさも、柔らかいところを貫く刺小さな棘も連れてこない。
だから、今は胸を張って――いや、こんなこと堂々と宣言するものでは無いと分かっているけど――口にできる。
これが私の本当の気持ち。
ご主人様と二人で楽しめる範囲内で、プレイとして蔑まれるのが……私は好きなのだと。
(もっと激しく罵られたいなって、思わなくはないけどね……でも、ご主人様が悲しい顔をするなら、それはいいや)
妄想に引きずられるように頭を伏せ、冷たい床に頬を擦り付けてへらりとだらしない顔を晒す知世に、ご主人様もどこか満足げだ。
彼女はいつだって、うっかりな自分から生み出されたとは思えないほど冷静で理知的で。
無理だと判断したおねだりはさらりと躱しつつ、それでいて知世の性癖ど真ん中を的確にぶち抜いてくる……
(はぁ、ただのお布団にしておくには勿体ないくらい賢いよねぇ……)
理想のご主人様をよくぞ作り出してくれたと、知世はドロドロになった頭で怪しい寝具を褒め称えるのであった。
「あ、そうだ知世。イヌなら食べた後はおしっこもしないとな?」
「!! ちょっ」
「餌皿……だと狙いにくいか。ちょっと待ってな、今ペットシーツを出すから。ああ四つん這いでいいよ、足を上げろとまでは言わない」
「うああああご主人様、気遣いの場所がおかしい!! じゃなくて、ほんっとごめんなさいお漏らしだけは勘弁してえぇぇ!!」
ただ残念ながら、初日の決壊はどうもご主人様の性癖を捻じ曲げてしまったらしく。
名前を呼んで貰うようになって以来時折差し込まれる過激な誘いに、そこだけは絶対に譲らない! と知世は顔を真っ赤にして今日も涙目で叫ぶのである。
――いつか絆されそうな予感を感じるのは、気のせいだと言い聞かせながら。
◇◇◇
「……それでですね、夏といえばかき氷だろう! って鞍馬さんが試食で出してきたんですけど、氷の上にあんこと青虫みたいな色の細長い物体が大量に乗ってて、もう学食が阿鼻叫喚に」
「うへぇ、青虫って想像しただけで背筋がぞわってするな……で、知世はそれを」
「食べるに決まってるじゃ無いですか! 鞍馬さんのおやつに外れは無いし、新たなる美食を目指す為には見た目如きで怯んでちゃだめなんです!!」
「…………知世はおやつが目的になった途端に、目と肝が据わるんだな……」
ご主人様に名前を呼んで貰うようになって以来、プレイの後は彼女とこうやって他愛の無い話をすることが増えた。
といっても、大抵の場合知世が美味しいご飯の話をマシンガンのように話し続け、ご主人様はふんふんと相槌を打ちつつ、真っ赤に腫れ上がった知世の大きな尻や太ももを撫でているだけなのだが。
今日はさっきのペットプレイの続きだからか、ご主人様はゆったりとソファに腰掛けて足元に伏せる知世を見下ろしている。
帽子の奥に見える瞳は気のせいだろうか、以前に比べて穏やかな色を帯びたようだ。
いつ見ても透き通った、吸い込まれそうな彼女の水色を、知世は殊更気に入っている。
最初はただ自分の被虐嗜好を堪能したいだけだったのに、今やこの瞳を曇らせないことの方が大切に思えるくらいだ。
……その変化につくべき名前を、知世はまだ知らないけれど。
「てかさ、知世もソファに上がれって。これじゃお尻を愛でられねーじゃん」
「えっ、そっそのごめんなさい……でもほら、私がご主人様の隣に座るなんて畏れ多いというか、すごくだめな気がして」
「ふぅん、俺は別にだめじゃ無いけど。ああでも、むしろ見下ろされている方が気持ちいいんだ? ……ほんっと、知世の身体は素直だな。すーぐ真っ赤になって」
「ううぅ、好きで素直に生まれたわけじゃ無いんですぅ……」
時々ご主人様は、ソファに腰掛けるように知世を促す。
その度に知世は申し訳なさそうに誘いを断り……そしてその被虐性を茶化されるところまでが、お決まりの掛け合いと化していた。
今はブタ扱いも楽しみのためとは言え、安心を得る気持ちが消え失せたわけでは無いのだ。
だからご主人様の気持ちだけはありがたく受け取り、今日も知世はピンクに染まった身体を床の上で晒して、被虐がもたらす快楽に打ち震える。
――こんな汚れた身体に流し込まれるのに、光を失わない気持ちよさは……嬉しいけど、どこか自分には不似合いだな、なんて思いながら。
(それに……ご主人様の隣になんて座ったら、心臓が爆発しちゃうよう……!)
無意識のうちにもじもじとお尻を揺らす知世の身体は、まるで全てが心臓になったかのようだ。
あの日――初めて名前を呼んで貰った日から、夢の世界は明らかに輝きを増した。
夢の中は白一辺倒の世界なのに明るくなるだなんて不思議で仕方が無いが、そこはやはり夢(とあの不思議な織物)の成せる業なのだろう。
それに変わったのは、世界だけではない。
これまでだって綺麗だと思っていたご主人様の手は絹のように美しくて、怪しい人にしか見えなかった服にもちゃんと色があることが分かって……何より、最近のご主人様の瞳は実に眩しい。
現実の泥に全身を包まれた身体なんて、いつかその瞳で浄化されて塵になってしまうかもと、知世は密かに心配していたりする。
「にしてもさ」
「んっ……」
ご主人様の指が、知世の丸いおとがいにかかる。
そのままくいと上を向かされれば、思わず知世の口から甘い音が漏れた。
……さっきより近くなった瞳はいつもと変わらぬ圧を放ち、ひれ伏したくなると言うのに目が離せない。
「知世は何だって気持ち良くなるよな」
「んぅ……」
「俺がこうやって撫でても気持ちよさそうだし、小ブタちゃん呼ばわりも好きだし、痛いのだって大好物だ」
「んあぁっ……!」
すり、とご主人様の足が知世の火照った痕を撫でる。
手のひらの形が綺麗に赤く残ったところを押されれば、じんと痛みが走って……それが嬉しくて、思わず口の端が上がってしまうのが自分でも分かる。
「なぁ、何で痛いのが気持ちよくなったんだ?」
「ひぅっ」
(み、みっ、耳元で囁くの反則うぅぅ!! あああ、鼓膜から痺れて頭回らなくなっちゃう!)
どうしてこんなにご主人様の声は、ただの囁きだけで自分を昂ぶらせてしまうのか……
訳の分からない感情に翻弄されながらも、知世は「だ、だって」と唇を開く。
「最初はっ、痛いだけだったんです……でも、痛いと安心して」
「ふぅん」
「そのうちご主人様がぺんぺんしてくれると、すっごく痛いのに段々気持ちよくなるようになっちゃって……」
「じゃあ、俺が気持ちよくしたってこと? 知世が最初から変態だったからじゃ無くて?」
「っ、私は変態じゃ……無くは無いですけど」
「そこは認めるんだ」
「……でもっ、ご主人様だから、痛いのも気持ちよくなったんです。だって……ご主人様が与えてくれるのは、全部汚くない『きもちいい』だから……」
「…………」
この手が、好きなんです――
知世は吐息混じりの柔らかな声で呟き、伸ばされた手にそっと頬ずりする。
さわさわと尻を撫でる手も、つぅと滑らされる指の腹も、もちろん上段から振り下ろされる手のひらも……
与えられる形が違えど、それは全て知世にとって清らかな祝福で。
――そして、気持ちいいと感じることが許される、唯一の快楽なのだから。
「んふ……んっ…………」
「…………」
悩ましげに腰を揺らしながら、知世はうっとりとご主人様の手の温もりを味わい続ける。
……一体どのくらいそうしていただろうか。
霞がかった頭に「知世はさ」とご主人様の落ち着いた声が降ってきた。
「前にも言ってたよな。その、一人で触ったら気持ちいいが汚れる、って」
「……そう、でしたっけ?」
「言ってたよ。俺がうっかり軟膏をヤバいところに塗っちゃったときに」
「ああ、ありましたねぇ……ただあの時はパニック状態で、何を喋ったかあんまり……」
「そっか、まあいいや。それで聞きたいんだけど」
「はい」
知世がぼんやり相槌を打つも、続きは返ってこない。
どうしたのかなと薄目を開けて、見上げれば
「…………汚い気持ちいいって、何?」
そこには、静かな問いかけとは裏腹にどこか悲しそうな色味を帯びたご主人様の瞳があった。
◇◇◇
「ご主人様……?」
ただならぬ気配を感じ取ったのだろう、知世の身体がぎくりと強張る。
その様子にはっとした様子で、ご主人様は「ああ、ごめん言い方がきつかった」と瞳の圧を和らげた。
「いや、気になったんだよ。まるで知世の言い方じゃ、エロいことして気持ちよくなるのは一緒なのに、まるで違う何かがあるみたいだったから」
「あ……」
「気持ちいい、ってのは一緒じゃん。だって気持ちいいを刺激して、身体や頭が反応しているだけなんだから」
「…………はい」
「でも、知世は違うんだろ? だから、俺が与える気持ちいいとは違う……汚い気持ちいいってのは何なんだろうな、って思ったんだよ」
聞かれるのが嫌なら忘れて、と続ける彼女は、きっとネックゲイターの下で笑顔を浮かべている。
そう、何でも無いように見せるための、貼り付け慣れた笑顔を。
(ああ、これは……めちゃくちゃ聞きたくて仕方がない顔だよね)
――世界の誰もが誤魔化される出来映えであっても、知世には分かってしまうのだ。
だって、その笑顔はいつも自分が現実で作っているものと同じだから。
(やっぱり私が作ったご主人様だなぁ……)
その反応は、むしろ知世をちょっとだけ安心させる。
そう、ここは夢の中。誰にも見つからない、知世だけの楽園。
だから普段は決して口に出来ない話をしたって、世界は壊れない。つまり何の問題もない……
(……話せば、少し楽になるかな)
知世は少しだけ逡巡して。
そうして、彼女を安心させるために、ご主人様と同じように作られた笑みを浮かべて
「パパの手で気持ちよくなると、絶対取れない汚い物がへばり付くんですよね」
まるで軽い雑談をするかのように、一年半にわたり知世の中に隠し続けてきた深い澱みを開陳した。
◇◇◇
「詳しく聞いてもいい?」と訊ねられたから。
その口調は案外素っ気なくて、かと言って興味が無いわけでも無さそうだったから、余計に口が軽くなってしまったのかも知れない。
彼女が促すままに、知世はこの一年半の出来事を語る。
全ての始まりだった口付けから、夜のノック音に、行き帰りの車の中。
22時半までは何をしていても耳をそばだてて、その時が無事に過ぎることを毎日のように祈り続けていること。
表向きは、ずっと遠くなった「普通」の日々と何一つ変わらない。見える痕は一つも無い。
ただ、優しい仮面を被ったまま――もしかしたら本当に優しいままではあるのかもしれない――かつては愛しげに頭を撫でてくれた大きな手が、今は粘りつくヘドロだけをこの身体に残していく。
「……あれとご主人様の気持ちいいは、全然違うんです。最初は分からなかったけど、今は大丈夫です、目を瞑っていたって間違えません」
「…………」
「この手のひらは私に触れても汚れないし、私に泥のような気持ちいいを与えない。……だからご主人様に触れてもらっても、私が気持ちよくなっても大丈夫なんです」
ですから心配しないで下さいと微笑む知世を、ご主人様は言葉も無くじっと見つめている。
それこそ穴が開きそうなほど眺められるものだから、流石の知世も段々気恥ずかしさを感じて……「あのう、ご主人様?」と首を傾げた、その時。
「?」
すっと、彼女の両手が知世の両頬を包み込む。
気がつけばご主人様はソファから降り、知世の前に座り込んでいた。
(わわっ、ご主人様っ顔が近い近いっ!! あああ浄化される、灰になるぅ!)
互いの鼻がくっつきそうなほどの距離で、見つめ合うだなんて……!
人生初めての経験に、知世の内側はかつて無い混乱状態に陥ってしまった。
一体何を、と問いかけて……しかし知世は口を開いたままピタリと止まってしまう。
「……え……?」
透き通った、少し緑がかった水色の瞳。
その奥に見える色は、これまで見たこともない……怒りとも悲しみともつかない、複雑な何かが入り交じっていて。
少なくとも彼女は今、辛さを押し殺しているのだと、知世は即座に理解する。
――だって、夜を終えた私の瞳の奥にも、同じ物を見たことがあるから。
(ええと……どうしたんだろう、ご主人様……)
一体何と声をかけようか……
予想外の事態にどうしたものかと知世が想いあぐねていれば、目の前の彼女はやがて意を決した様子で口を開いた。
……その声は、かつて無く低くて、圧が……重い。
「なあ知世、良く聞け」
「? ……はい」
「…………あのな」
すぅ、と息を吸う音が聞こえる。
次の瞬間、少しだけ震える声で知世に放たれたのは――その美しい手のひらで知世の小さな世界に振り下ろされた、渾身の掌底に違いなかった。
「それ、虐待って言うんだよ」
◇◇◇
その二文字は、知世にとっては思いもかけない言葉だった。
概念自体は知っていたけれど、あくまでもどこか遠くの世界にある可愛そうな子供たちの話で、自分には何の縁もないものだと疑いもしなかったから。
「……え…………ぎゃく、たい……?」
想像もしなかったご主人様の言葉に、知世は目をぱちくりさせる。
「そう」と頷く彼女の目は、決して冗談を語るような表情では無く……じわんと胸の奥に何か焼けた物が押しつけられたようだ。
「でも」とようやく振り絞った知世の声は、カラカラに掠れていて。
喉が渇いて、唇は震えていて――けれども、一体どうしてそんなに震えているのか、さっぱり見当がつかない。
「ご主人様、虐待って親が殴ったりとか、ご飯食べさせなかったりとかですよね? ……その、見ての通り私ご飯はいっぱい食べてますし、パパにもママにも殴るどころか怒鳴られたことすらないですよ……?」
「……怒鳴られたことすら無いって、それはそれで凄いな。けどな知世、普通の親は子供にエロいことなんてしない。そもそもそう言う目で子供を見ない」
「…………そう、かな」
「そう。だから性的虐待なんて名前があるんだよ」
(……分からない)
目の前でゆっくりと、真剣な面持ちで諭すように言葉を選ぶご主人様の声が、遠く感じる。
唐突に差し出された境遇への名付けに、知世の頭の中は完全に思考という能力を失っていた。
呆然とする知世を前に、ご主人様はなおも語りかける。
心なしか頬を挟む掌の力は強くなって……震えているのは気のせいだろうか。
「知世、あんたはさっさと逃げるべきだ。知世を傷つけ続けるクソ親父からな」
「……にげる……きず、つける? ……パパが……?」
「ああ。知世はもう気付いているはずだ。だって、今自分で言っただろう? 汚い気持ちいいを娘に植え付ける父親のどこが、傷つけてないって言うんだ?」
「ええと……」
ずっとここにいたいのだって、そりゃ当たり前だよなとご主人様は俯く。
その表情は帽子とネックゲイターで隠れているけど、何故か悔しそうに見えて。
(どうして?)
事態を深刻に捉える彼女の様子が、知世には理解出来ない。
確かに自分がされていることは、いわゆる普通では無い……それは流石の知世も理解している。
それでも、身の危険に晒されるような子供たちに比べれば、至極些細なものだ。
何よりちょっとだけ我慢して、笑っていれば、誰も傷つかない……世界は自分を置いて、変わりなく時を進めていくのだから。
(何だか気を遣わせちゃったなぁ……虐待だなんて、そんなに大したことじゃ無いのに)
「……大丈夫ですよ、ご主人様」
だから知世は、相変わらずの笑顔で彼女に微笑みかけて言葉を綴る。
むしろご主人様に要らぬ心配をかけてしまったことを、申し訳なく思いながら。
――そして、おやつの話でも無いのにつらつらと言葉が流れ出す理由も、分からないまま。
「ほら、別に私どこにも傷は無いですし……あ、ご主人様の付けてくれた傷は別ですよ! これは宝物だから! じゃなくて、大丈夫です。ここでご主人様と毎日逢ってお尻ぺんぺんして貰えるなら、ちゃんと生きていけます」
「…………」
「あっ、大学に入ればまた変わるかも知れませんし! いつまでも続くわけ無いですよ、だからちょっと私が我慢すればいいだけなんです」
「……知世」
「それに……逃げるったって私、お金も持ってないです。働けるわけでも無いし、自転車で行けるところまで行ったって何にも出来なくなって終わりですから……ってごひゅじんひゃまぁ!?」
「…………さっきから黙って聞いてりゃ、ったく……この口は美味い物を食べて語るのに特化してたんじゃ無いのか? このもちもちほっぺめ!!」
「んにゃぁいたいいぃ……!」
だから何も心配しなくて良い、これまで通りここで楽しくお尻を叩いて欲しい……
そうご主人様に伝えたかったのに、言葉は無理矢理途切れさせられて。
頬を包んでいたはずのご主人様の手のひらは、いつの間にかふくふくした知世のほっぺを全力で横に引き延ばしていた。
あまりの痛さに目を潤ませれば、どこか呆れたような、そして怒ったような目つきで知世を見据えながら、目の前の彼女はゆっくりと、まるで知世に教え込むように言葉を放つ。
「つまり、知世は逃げたいんだろうが!」
「…………へ?」
「言い訳を並べたてるってことは、本心では逃げたいからだ。今の状況に満足しているなら、喋る必要なんて無いからな」
「……!」
「そもそも、ずっとここにいたいって願うのも同じだろ? あんたは、現実では逃げたくても逃げられないと思っている。だから夢の中だけでも俺にお尻を叩かれて、逃げているんだろうが!」
「っ、それは……でも……」
(――無理だよ)
初めて見るご主人様の剣幕に押され、咄嗟に言葉が出てこない。
だから知世は作り慣れた笑顔を貼り付け、せめてもの想いを……いつの間にか涙を溢れさせていた瞳で懸命に訴える。
(私なんかに、出来るわけが無い)
正直なところ、夜の時間や通学のひとときが虐待と断じられるものかは、知世にはまだ判断出来ない。
自分が逃げたいと思っているかだって、よく分かっていない。そんな概念すら、今の今まで知世の中には存在しなかったから。
ただ、ご主人様の言葉が全て正しかったとしても、この薄汚れた醜い生き物に、出来ることなんて何一つない。
ブタはブタらしく、ただ飼われて与えられる物を待つだけ――
(ご主人様にだって、お布団さんがいなければ逢えなかったのに……もう十分助けて貰ってるのに……)
そう、自分は夢という形で度し難い性癖を叶えて貰った果報者。
こんな自分がこれ以上を望むだなんて、あまりに分不相応だ。
だから私は、精々与えられたご主人様という祝福に縋って、濁った現実という泥に沈む以外の選択肢を持たない。
ここから誰かが引き上げてでもくれない限り、世界は変わらないに決まっている……!
「……ご主人様、私は」
ようやく声を発せられた知世は、何とかして頭の中でぐるぐる回る決まり切った結論を彼女に届けようとする。
けれど、その試みは――まるで全てを見透かしたかのような一言で、あっさりと叩っ切られた。
「来ないよ、助けなんて」
「え…………」
ぴしり、と白い世界が凍り付く。
今度こそ完全に思考を途切れさせた知世の心の中に、鋭い、そして狂おしいほどの何かを纏った一撃が、打ち込まれる。
「そうやって全部諦めて、愛想笑いしてさぁ! 自分を卑下して我慢してうじうじしてりゃ、そのうち誰かが助けてくれるとでも思ってんの!?」
「……それは」
「どれだけ待ったって、助けは来ない。例え来たところで、今のあんたには見えない! ……クソみたいな現実ってのは、てめぇの拳でぶちのめして無理矢理変えるしか無いんだよ!!」
「…………!」
ご主人様の声が、何も無いはずの世界に反響する。
その迫力に、知世の全身は総毛立ち、なのに彼女から目を離すことが出来ない。
けれど
(…………なんで、そんなに辛そうなの……?)
強い言葉とは裏腹に、ご主人様はどこか思い詰めたような顔を浮かべていて。
彼女には何も関係ないのに……そんな思考が過った次の瞬間、知世の中に小さな電撃が走った。
(あ。これ、あの時と一緒だ……)
脳裏に展開されるのは、在りし日のご主人様の悲しそうな瞳の色。
知世がもっと罵って欲しい、蔑んでくれと望む度に見せた、あの胸がぎゅっと締め付けられるような痛々しい表情だ。
確かにご主人様は、知世が作ったとは思えない行動を見せる。
何が楽しいのか分からないけれど、毎度のように大きくて白いお尻を飽きもせずに撫で続けるし、隙あらば再びのお漏らしプレイを誘いかけてくる。
『夢というのは、お主の深層心理を映し出していることもあろうよ』
――でも、あくまでもご主人様は、自分の夢の登場人物。
かつて学食の麗しいお兄さんが語ったとおり、確かに蔑みへの懇願で見せた彼女の悲しみは、自分でも知らなかった心の奥底を映していた。
だとすれば
(……私もどこかで、あの時間が苦しくて……逃げたいと、思っているんだろうか)
……とは言え、心のどこを眺めたってそんな気持ちは浮かんでこない。
これはまた現実に持ち帰って、あの時と同じようにしばらく考えることになってしまいそうだなと、知世はどこか人ごとのように思いに耽る。
「…………」
「…………はぁ、ったく……」
そんな知世に何を思ったのか、頬を全力で引っ張っていたご主人様の手がそっと離れて。
ため息と共に、指の痕をついと撫で上げた。
「……あーもう、赤くなっちまった。俺、赤くするのは尻と太ももだけで十分なんだけどな」
「ごめんなさい……」
「何で知世が謝るのさ。別にあんたが……あー、そうだな」
「……?」
戸惑う知世の目の前で、ご主人様の目が緩い弧を描く。
あ、これは何かプレイを思いついた顔だと、知世はこれまでのやりとりをすっかり意識の外に放り投げ、ヒリヒリする頬を撫でつつ、彼女の次の言葉を待った。
(まだご主人様は落ち込んでるけど……プレイしたらきっと、元気になるよね!)
果たして、それは当たっていて。
「このタイミングで使うなんてな」と零しつつすっと上げられた彼女の右手には、いつの間にか黒い何かが握られている。
思わず目を凝らしその正体を確信した瞬間……知世の体温が一気に上がった。
(楕円形の、平たい、革っぽい板……あれは……!)
「それ、本物のパドル……っ!?」
「シンプルな奴だけどさ。一度はこういう専用の道具で叩かれてみるのも、いいだろ?」
画面に穴が開くほどに検索し続けた、憧れの道具が、ご主人様の手の中にある――
すでに散々打たれた痛みすら消えるほどの快楽が、腰からじわりと後頭部に駆け抜けていく。
そんな知世に、彼女は少し含みを持たせたような笑顔で、思いもかけないプレイを宣言したのだった。
「ご主人様の言うことが聞けない小ブタちゃんにはさ、お仕置きがいるだろ? ……知世、俺の膝の上に寝そべって。あ、お尻はこっちな」
「はひっ…………へっ、はいいぃっ!?」
◇◇◇
「あっ、あのっ、ご主人様ほんっとうに潰れませんか!? その私、結構重たいですよ……?」
「いーからつべこべ言わずに寝る! これでも鍛えてるから、知世くらいの重さじゃ何ともないって」
「うわぁ凄い力こぶ、じゃなくて乗るのは足なんですけど……」
五分後。
「ご主人様が圧死するからだめです」「俺を何だと思ってるんだよ、さっさと来な」と押し問答を繰り返した結果、案の定ご主人様に押し切られた知世は初めてソファの上に上がることとなる。
彼女の太ももの上にもちもちの腹をのせ、膝をついて尻を上げた状態で寝そべれば、早速ぺたぺたと尻を触る両手のひらの感触を覚えた。
「これだけ赤くなってると、最初からいっぱい鳴けそうだな」
「……んぅ…………」
「言っておくけどこれはお仕置きだから。いつもとは違う……って知世、分かってんのかな……」
(うわぁ、こっこんなゼロ距離でお尻ぺんぺん!? おっお腹の下にご主人様の足があぁぁ!! 何だか柔らかくていい匂いがするし! これ絶対ヤバい、シチュエーションだけで頭が溶けちゃうよぉ!)
ご主人様は少し呆れたような声で何かを言っているけど、すっかり初めての体勢に大盛り上がりの知世は、それに気付く様子も無い。
じわんとした痛みと共に与えられる温かさは、身体が触れているだけでいつも以上に心地よくて、こんな状態でお尻を打たれたら一体どうなってしまうのか……期待と興奮で頭がクラクラしそうだ。
パン!
「……なぁ」
「ひぎっ!」
いつまで経っても暴走した妄想から帰ってこない知世に、流石のご主人様も堪忍袋の緒が切れたのだろう。
小気味よい打撃音と共に落とされたパドルは、軟膏塗りに比べれば軽い、けれどすっかり色づいた臀部には強烈な一撃となって、知世の意識を無理矢理ここに引き戻す。
(痛い痛い痛いっ……!! ひぃ、お尻ぺんぺんのお替わりは初めてだけど、ちょっとレベルが高いかも……)
痛みに顔を顰め涙目で振り向いた知世の瞳をじっと覗き込んだご主人様は、奥にどろりと流れる悦楽の蜜を見出すと一つため息をつき「あのさあ」と知世を諌めた。
じっと見下ろす瞳は相変わらず綺麗で、ただ……これは逃げられないと直感する圧を知世に押しつけてくるのが、ちょっと不穏だ。
「これはお仕置きだって、俺さっき言ったよな? 誰が早速気持ちよくなってんのさ」
「んふぅ……ごめんなさい…………すんっ……」
「……なぁ知世、なんであんたは俺にお仕置きされるか分かってんの?」
「ええとそれは…………何でですっけ」
「あのなぁ、さっきまでの話を全っ然覚えてないだろ!? ……まあいいや。今日はちゃんとお仕置きとごめんなさいの意味が分かるまで、俺叩くの止めないから」
「えっちょっ」
(待って、お仕置きとごめんなさいの意味って、どういうこと!?)
突如突きつけられた、謎の課題。
せめてもう少し説明が欲しいと、知世が声を上げるよりも早く
パァン!!
「っ……うああぁぁっ!!」
焦がれた音と、喉の奥からの絶叫が、白い空間を揺らした。
◇◇◇
パン! パンッ! パンッパンッ、パァンッ!!
「うあああっ! 痛いっ痛いよぉ!! ひぐっ、はぁっ、ひぐっ……はっ、はっ、うああっ!! ごめんなしゃい、ごめんなしゃいいぃっ!!」
「……で? 知世は何でごめんなさいしてるの?」
「うっ、ううっ、ひぐっ、ひっく……わ、わかんないですっ……」
「そ。んじゃまた二十回な」
「そんなっ、ごめんなしゃいうわあああっ!!」
お仕置きの意味が分かるまで、叩くのを止めない――
そう宣言して振り下ろされた一撃は、とうの昔に限界を迎えていた真っ赤な肌をこれでもかと打ち据えた。
先ほどのプレイの痛みが残り、じんじんとした熱感と空気の震えすら感じ取れるほどの敏感さを植え付けられたお尻に、逃げ場は無い。
いや、逃げようとすれば逃げられる気もするけれど、ご主人様から逃げるだなんて考えは知世の中には存在しない。
どこか打ち慣れたようにすら感じるパドルの衝撃は、知世の想像を遙かに超えた痛みを叩き込む。
たった一撃で涙が零れ、鼻を啜り込みながら「ごめんなさい」と泣き叫ぶのは、あの軟膏塗りを初めて使われて以来だなと、知世は痛みに翻弄されながらどこか人ごとのように考えていた。
――そう、最初はそんな余裕もあったのだ。
「……ふぅ。パドルの音は結構好みだな、良く響くし、知世もいい声で鳴くし……それで? 知世は分かったの?」
「えぐっ、えぐっ……だって…………ご主人様がごめんなさいしなさいって、言ったから……」
「つまり分からないってことだな。んじゃまた二十回っと」
「うわあぁぁんっ!! もう無理ですご主人様っ、お尻壊れちゃう!!」
「大丈夫、ここ夢だから。あとは『お布団さん』に何とかして貰えば問題ないっしょ」
「そんなあ!!」
流石のご主人様も、あからさまに限界を迎えているであろう皮膚を延々と打ち続ける気は無いらしい。
二十回、知世の様子を見ながら――それは好む鳴き声になるよう調整しながらという意味だけど――振り下ろせば、必ず一度手を止めて少し紫がかった肌をなぞり、知世に問いかけるのだ。
「知世は何に、謝ってるんだ?」と。
(分かんない、分かんないよぉご主人様っ!! いっぱいごめんなさいすれば、ご主人様が喜んでくれるから……そうじゃないの!?)
痛みと、そしてこんな状態でも奥に響く打撃で揺らされた胎が訴える気持ちよさに翻弄されながら、知世は回らない頭で必死にその訳を考える。
だけど答えがご主人様を満足させることはなくて……そっけなく却下された途端に、また次の音が振ってくる、その繰り返し。
終わりの見えないプレイは、徐々に知世から何かを剥ぎ取っていく。
――これまで積み重ねてきた理性も、笑顔も、ちょっと世界を諦めた目で見つめる視点も……全ての余裕が、一打毎になぎ倒されて。
(わかんない……ごめんなさいって言えば、叩いてくれるから……?)
泣き叫びすぎてガラガラになった声。
止まらない鼻水は、閉じない口から伝う涎と混じって、きっと今の自分はぐちゃぐちゃの醜い顔をしている。
いつもならそんな惨めな自分にどうしようも無い興奮を覚えるのに、今はただ、この時間が早く終わって欲しい……
すっかり消耗した知世は、初めて痛みの終わりを願っていることにすら、気付けない。
パンッ!!
「うあぁ…………」
(叩かれるの、好きだから……ごめんなさいするの)
パン、パァンッ!!
「ひぐっ、ひぐっ、うっ……痛い、よぉ……ひっく……」
(好き? ……本当に、好き? …………ブタ扱いと同じ、好き?)
朦朧とした頭に過るのは、蔑まれることを好んだ、本当の理由。
穢れた自分に相応しい言葉で、安心するために得た、歪んだ性癖。
(……痛いも、安心? …………なんで、叩かれて、安心するの?)
パァン!! パンッ!
「ぁ…………すんっ……うぁ……」
「知世、あんたは何でお仕置きされてるんだ?」
「……わるいこ、だから……おしりぺんぺん、される……」
「…………っ」
思いがけず口から零れた言葉に、息を呑む音が聞こえる。
知世もまた、音となった自分の答えに……考えたことも無かった結論に、当惑を覚える。
――わからない。何かが溢れそうで、怖い。
けれどこの言葉は私が本当に思っていたことだと、自分の中のどこかが叫んでいる――
(わるいこ……ああ、うん。あれが、わるいこと)
ぐちゅり……
言葉に引きずられ脳裏に……否、全身に再現されるのは、散々浴び慣れた夜の手と、ヘドロとともに流し込まれる気持ちよさ。
まるで今まさに触れられているかのように黒い感触に、濁った熱に、知世は悟る。
あの大きな手で、流し込まれる快感を……汚い気持ちいいを、私はどこか楽しんでいたのだ。
だから私は……悪い子で、お仕置きをされなければならなくて、いっぱいお尻をぺんぺんされて、それすら気持ちよくなる悪い子で――
(――違う)
ぐるぐると回る自責の思いに、かすかな、けれどはっきりと聞こえる拒絶の声。
朦朧とした意識の中でも必死に呼びかけるようなその訴えを、心の壁の向こうから知世はそっと握りしめる。
そう、違うのだ。
ご主人様にお尻を打たれる気持ちいいは、汚れてなんかいない。
彼女と共有した、この歪な時間を楽しむことは、決して悪いことじゃない――
「……もう二十回だな」
はぁ、とどこか思い詰めたようなため息が上から落ちてくる。
そうして再び、尻を撫でていたパドルがすぅと離れ
(今は、汚い気持ちいいを楽しみたくない。……楽しんでなんか、いない)
ぶんっ、と鈍い風切り音が、耳に届いて
(……泥みたない気持ちいいを、楽しまない私は、もう)
パアンッ!!
ひときわ大きな打撃音が、知世の心を穿った瞬間――全てが、溢れ出す。
「っ、うあああああっ!! やだ、いやああぁっ!!」
「……知世」
「ひぐっ、わっ、わたしっ、ごめんなさいなんて、しないっ!! ……しないの、だって、だって……」
「…………うん」
「私、汚い気持ちいいは、もういらないの!! 楽しんでないの! だから、悪いことはしてないのおぉっ!! うっ、ううっ、うわああああ…………っ!!」
あまりの奔流に、言葉すら流されてしまう
ああ。自分の中に、これほどの慟哭が詰まっていただなんて――
「やぁっ、やだ、ひぐっ、うわあああっ!! ひっ、ひっくひっく……あああああああっ!!」」
「…………ん」
一度堰を切った思いは留まることなく、意味の無い絶叫が、知世の口から止めどなく湧き出てくる。
……いつの間にかパドルの音は止んでいて、あの美しい手が、そっと知世の腫れ上がった尻と……泣きじゃくる頭を撫で続ける。
ご主人様の慈しむような温かさを感じる度、更に感情の濁流は勢いを増して。
わあわあと子供のように喚くその内側で、知世はやっと、己の押し込めてきた思いを自覚させられた。
(……私、泣きたかったんだ)
スパンキングを好むその訳も、やっぱり一つではなかった。
いけないことで感じてしまった……悍ましい泥を受け入れ快楽を楽しんでしまった自分を、誰かに罰して貰いたかった。
――そう、あの行為は悪いことなんだと、酷いことなのだと誰かに言って欲しかったのだ。
そして……全てを押し込め、笑うことばかりが上手くなった私は、そう言えば現実で涙を零した記憶も遠くなっていて。
もはや仕置きという形で痛みを与えて貰わないと、泣くことすら出来なくなっていたのだと、今になって気付かされる。
表向きは、何も変わらない日常で。
ちょっとした「マイナス」は、私の外側を傷つけず、荒い言葉もかけられず、ただ優しく穏やかに、心地よく私を泥に沈めていくだけ。
故に、夜の時間は誰にも気付かれることも無く。
かと言って、誰かに気付かれてしまえばこの日常が壊れることは明白で……気がつけば身動きが取れなくなっていて。
だから、知世はひょんなことから与えられた夢を終の棲家として選びかけた。
たくさん罪を償って、涙を流せて、淀みの無いきもちいいをくれる世界に閉じこもり、そのまま……現実から姿を消したいと、願い続けた。
けれど一方で、私は――
「……生きたかったの…………私も、みんなみたいに……幸せに笑いたかった……っ!」
吐息と共に、沼の底で呟き続けた願いが、白い世界へと放たれ……すぅ、と意識が暗闇へと溶けていく。
眦から零れた涙を救う指は、私に穢れなききもちいいを教えてくれた……楽しむことを許してくれた、美しい人のものだ。
(私、普通になることを、諦めてなかったんだ……)
遠くから、アラームの音が響いている。
知世の全てが暗転する直前に聞こえた少し低いハスキーな声は、少し震えていて……何故か涙を滲ませているようだった。
「…………ちゃんと言えたじゃん、知世」
◇◇◇
「ん…………あ……朝……」
目を開ければ、そこは見知った自室だった。
鳴り続けるアラームに手を伸ばそうとした知世は、途端お尻に走る激痛に思わず「ったあぁ!?」と奇声を上げる。
「ひいぃ……痛ったい……ちょ、これっベッドから降りられないよおぉ……」
やっとの思いで下着を下ろし写真を撮るも、そこに写った肌はいつも通り、良く見れば何となく痕が残っているかなという程度。
だというのに、お尻と太ももが訴える痛みはどう考えてもブランケットが調整を敢えて放置したとしか思えない激烈さだ。
「知世、そろそろ起きないと遅刻するわよー」
「う……ママ……今日学校休む……」
「どうしたの? どこか具合でも悪い……知世、随分熱いわね。ちょっと体温計を取ってくるわ」
「……うん」
流石にうつ伏せのままでは怪しまれると気合いで横を向き、手渡された体温計で測った結果は38.7度。
見事な発熱に母は風邪を引いたと思ったのだろう「温かくして寝てなさいね、今日は在宅勤務にするから」と温かいハーブティーを用意してくれた。
「起きられる?」
「今はちょっと無理……大丈夫、後でゆっくり飲むから……」
自室のドアがパタンと閉まるなり、知世は「はあぁ……」と大きなため息をつく。
北欧生まれの祖母の影響か、この国の人のように何でも病院へとすぐ駆け込まない風習が、こんなところで役に立つとは思わなかった……
そんな安堵を抱きつつ、取りあえず藍色のブランケットには「お布団さん、いくら何でもこれは残しすぎじゃない……?」と顔を顰め苦言を呈しておく。
――いや、この賢い寝具のことだから、きっと昨日の夢を忘れさせないためのお節介なのだとは思うけれど。
それにしたって、寝込むほどの残し方をするのはいかがなものだろうか。
「生きたい、か……」
随分時間をかけて起き上がり、けれど腰掛けることはとてもできなくて。
ふらふらしながらも立ち上がった知世は、ゆっくりとハーブティーを喉に流し込む。
身体はぐったりしているし、お尻はずっと氷水につけておきたいくらいだけれど、不思議と胸の辺りは何かつかえが取れたかのようにすっきりだ。
「……お布団さんは、私の気持ちを知ってたの?」
振り返ったベッドの上に向けて、知世は言葉を投げる。
訊ねたところで、答えは返ってこない。
それこそが答えだろうなと知世はふっと微笑み「ありがとうね」と再びブランケットにくるまった。
「…………」
何も無い、静かな時間。
いつもならすぐにスマホを握りしめて、読みもしない画面をただスクロールする作業に明け暮れるのに、今日はそんな気にすらならなくて。
お尻に移動させた氷枕の冷たさを感じながら、知世はぼんやりとレースのカーテンが掛かった窓を見つめる。
「……逃げたい…………」
熱い息と共に言葉にしてみても、特段の感慨はない。
ただ、それを否定する材料も無くて、どこかすんなりと受け入れられる……
だから、表向きはいまいち分からなくても、心のどこかではずっと願い続けていたのだろうと、知世は判断する。
「でも……」
同時に湧き上がるのは、冷静に現実を見つめた結果と言う名の……そう、ご主人様が教えてくれた、これは言い訳と名付けられるものだ。
「……逃げたい…………逃げる……」
時に熱に浮かされ、意識を揺蕩わせながら、知世は何度も手に入れたばかりの概念を繰り返す。
現実味はあまり沸かない。これからどうすればいいかなんて、熱が出ていなくたって分からない。
(……逃げたい……私、ここから、逃げるんだ……)
だから今はただ、知世はご主人様に与えられた言葉を抱き締める。
二度と泥の底に押し込めてしまえないように、誤魔化して見ないふりをしないように……
外はしとしとと雨が降り注ぎ、陰鬱な気配を漂わせている。
けれども一度火を着けられた……否、思い出した生への渇望は、確かに沼に沈んだ少女の足を動かそうとしていた。
◇◇◇
「鞍馬さぁん……お腹すいたぁ…………」
「お主、今日はいつも以上におかわりをしておったではないか。授業で身体を動かしたのか?」
「ううん……頭を使いすぎてお腹まで空っぽに……はぁ、もうだめかもしれない……」
「ぬぅ、迎えまでまだ一時間以上あるであろう? これは少し腹に溜まるものを食べた方が良さそうだな……少々待っておれ」
正式に内部進学が決まる定期試験を控えたある日、いつものように学食にやってきた知世を出迎えた鞍馬は、思わず眉を顰める。
いつもは鞍馬のおやつ目当てに目をキラキラと――いいや、あれはギラギラと、と表現するべきであろう――輝かせてやってくるはずの知世は、今日は随分萎びた様子で。
椅子に座るなりテーブルに突っ伏す彼女に、これは一大事だと鞍馬はさっと顔色を変え、慌てて調理場へと駆け込み冷蔵庫を開けた。
それから15分後。
「ほら、これでも食べて少し元気を出すが良い」
「すんすん……はぁ、いい匂い……これ、ココナッツミルクですか?」
「ああ、サツマイモとかぼちゃの粥だ。随分疲れておるようだし、温かいもので胃を休めた方がよいであろう」
「わぁい、ありがとう鞍馬さん! ……はふっ……ずずっ……」
テーブルの上に置かれた器の中には、角切りのサツマイモとかぼちゃが浮かんだ、白い海が広がっていた。
ふぅふぅと冷ましてスプーンで頬張れば、優しい芋の甘さとココナッツミルクのコクが混ざり合って、喉を滑る温かさにふっと身体が緩む。
鼻に抜ける南国の香りは、窓の外の強烈な日差しを和らげてくれるかのようだ。
しゃらん……
「ムシュカ様、お迎えに上がりました! ……んん? この香りは……」
知世が満面の笑みでお替わりを堪能していれば、涼やかな金属の音と名乗りを上げるかのごとく到来を告げる声が、学食に響く。
見た目にそぐわない豪奢な耳飾りを着けた強面の従者さんは、入るなり鼻をひくひくさせて知世の隣のテーブルへと陣取った。
――たおやかな容姿の鞍馬とは対照的に、厳つい面持ちの従者さんは主に女子にに怖がられることが多いせいか、少し離れたところで大きな身体を小さく丸めて座るのが常だ。
そんなに気を遣わなくても……と思わなくも無いが、知世も正面に座られたらきっと身体が強張ってしまうに違いない。
「おおヴィナ、今日は早いな。何、チセが死にそうな顔をしておったのでな、芋粥を作っておった……どうした、そんなにむくれて」
「…………その、今日はムシュカ様が耳飾りを着けてないなって。しかも、その粥を振る舞うだなんて……むぅ……」
「さっきまでこれを作っておったからな。ほら、もう耳飾りも着けたしお主の粥もあるから機嫌を直すが良い。それとも……今夜はやきもちで『仕置き』でもしてくれるのか?」
「ぶっ!! ちょっ、ムシュカ様そんなえっちな話をこんな所でしちゃだめですってば! あ、お粥は頂きます!」
(……えっちなお仕置きって……うはあ、凄い響き……)
二人の掛け合いに噴き出しそうになりながら、知世はいつものように出来上がった二人の空間をそっと見守る。
耳まで真っ赤に染めながら、そして「俺はまだ、機嫌を直してませんからね!」と主張しつつ、従者さんは粥をもの凄い勢いで腹に納めていた。
……残念ながら、一口食べた途端「はぁぁ……流石はムシュカ様、ただのサツマイモが極上の美食に……」と蕩けてしまった顔では、微塵も説得力が無いのだが。
「そう言えば、久々に山吹さんを見た気がしますね」
「あ、先週は熱を出しちゃって……学校を休んでいたんです」
「そうであったか。……時に、あの織物はお主に無理を強いておらぬか?」
「だ、大丈夫ですっ! ちょっと痕を残す加減を間違えちゃったみたいで、先週は起き上がれなく……ひょえっ、鞍馬さんも従者さんも顔が怖い」
「……チセ、一度織物をここに呼び寄せよ。私が直々に説教をしてやろう」
「ムシュカ様、ここは実力行使の方が。切れぬ織物とは言え、拳ならば届きましょうぞ」
「待って二人とも落ち着いて!!」
どうやら美味しいお粥で蕩けていたのは、知世も同じだったようだ。
うっかり緩くなった口が余計なことを口走ったせいで、途端に殺気を纏い物騒なことを口にし始めた青年二人を、知世は慌てて押しとどめる。
「ご、合意の上ですから!!」とその場を取り繕うも、なおもどこか不満げな鞍馬に(これは話題を変えなければ!!)と知世は一計を案じ……前々から気になっていたことを口にした。
「あのっ、どうして従者さんは鞍馬さんのことをムシュカ様って呼ぶんですか?」
「……ん? ああ、ムシュカは私のミドルネームだ。本名は鞍馬・ムシュカ・衣織。ただ、日本名は呼ばれ慣れておらぬのでな」
「そっか、確かにここじゃ名字でしか呼ばれませんよね。じゃあ従者さんも、ミドルネームですか?」
「いえ、それはムシュカ様の発音のせいで……そう言えば名乗ったことがないですよね。俺、毘奈新太(びな あらた)って言います」
「毘奈……ヴィナ……なるほど。鞍馬さんが呼ぶとお洒落になっちゃったと」
「そのようであるな、ヴィナにも昔言われたことがある。もっとも、私はアラタと呼びたいのだがな……こやつはその名を呼ぶと、たちまち鼻血を出して尊死してしまうから」
「とう、とし……?」
「うああああムシュカ様、それは秘密にしましょうよ!! って、なんで秘密にしなきゃならないのか? って顔をしないで下さい! そんなの、俺が恥ずか死んでしまうからに決まっているでしょうが!!」
(はあぁ、良かったぁ……いつもの二人に戻った……)
どうにもこの二人の前ではうっかりが発動しやすいなと、知世は今度こそ頭のてっぺんまで真っ赤になりテーブルに突っ伏してしまった従者さんと、それをどこか嬉しそうに眺める鞍馬に視線を向ける。
男が怖くて油断ならないことに変わりは無いけれど、こうやって本気で知世のことを心配しているように見える分、どうしても警戒が緩くなってしまうのだろう。
特に鞍馬の反応は、ただの一学生に向けるにしては随分と親密な、というかまるで保護者のようにすら感じられる。
怪しい織物の持ち主という繋がりがあるとは言え、その対応はいささか過保護ではないかと首を捻っていた知世であったが、ふとある事を思い出した。
(……鞍馬さんも、大変な過去があったのかな)
目の前で幸せな掛け合いをしている二人は、どう見ても知世が当たり前のように続くと思っていた、普通の幸せを謳歌しているようにしか思えない。
けれど……思い返せば鞍馬は当初から知世のことをかなり気遣っていたし、何より知世が不眠のことを暴露したときには、見たこともない沈痛な面持ちをしていたように記憶している。
(ま、想像だけどね、想像! …………でも)
過度な期待はしちゃだめだよと己に言い聞かせながら、それでも知世はほのかな希望を抱く。
もし、鞍馬が何か辛い過去を持っていて、あの織物により叶った願いで幸せになったのならば。
こんな泥にまみれた自分にも……逃げた先にそんな未来が来るかもしれない、と。
(……ただ、あくまでも逃げられればだけどね…………はあぁ……)
終わらない幸せなやりとりを眺めながら、知世はあれ以来頭の中から離れない悩み事に、また一つ大きなため息を漏らすのだった。
◇◇◇
「今日のチセは食欲も凄いが、ため息も随分多いな。……本当に織物に悩まされておるのでは無いな?」
「ほんっとうに大丈夫ですから! ……ただ…………その」
「……ふむ、何か大きな悩みがあると」
「ぎくっ……はあぁなんで鞍馬さんは、毎回あっさりと見抜いちゃうのかなぁ……」
あれだけわいわいと甘い掛け合いを繰り返していた癖に、こちらのことはしっかりと観察しているあたりは流石と言うべきか。
ようやく落ち着きを取り戻した空間で、さりげなく向けられた問いかけに、知世の胸がどくんと大きな音を立てる。
(……大丈夫、って……笑うところ……)
その問いかけに対する答えは、何百回と繰り返してきた。
今日だって――さっそく美味しいおやつでうっかり内情を漏らしたことは、見なかったことにしよう――いつもと同じ笑顔を貼り付けて大丈夫だと柔やかに拒絶すれば、鞍馬のことだ。きっとこちらのことは気にかけながらも、大人らしくすっと手を引いてくれる。
それが、正しい。
……これまでは、正しかったのに。
(やっぱり私、ご飯で絆されすぎなのかな……)
何故だろう、今日は少しだけ、その手を取ってみたいと思うのだ。
話したところでこの悩みが解決するとは思えない。けれど、少なくとも彼は、そして彼の恋人たる従者は、きっと今の関係を変えることは無い――
これまでの付き合いが、知世に確信を抱かせる。
(鞍馬さんと従者さんは男だけど甘々ラブラブだし、そもそも私がスパンキングが好きな変態だってこともバレてるし、ついでに二人も変態の気配があるから……大丈夫、かな)
腹から滲む温かさが、知世の心にもじんわりと染み渡って。
何より、あの真剣な水色の眼差しが放った言葉が、耳から離れなくて。
『クソみたいな現実ってのは、てめぇの拳でぶちのめして無理矢理変えるしか無いんだよ!!』
ご主人様の過激な後押しは、内側に渦巻く不安も疑念も、男への根深い不信と恐怖さえ全て取り払ってくれるようだ。
しばしの思案ののち、拳と言うにはあまりにも柔らかい手を、知世はおずおずと……人生最大の勇気を振り絞って、目の前の青年達に伸ばした。
「……鞍馬さん、従者さん…………話を、聞いて貰っても良いですか」
◇◇◇
いざ話すとなると、一体どこから話せば良いのか分からなくなって。
けれど真っ白になった知世のたどたどしい独白に、鞍馬はいつもと変わらない穏やかな笑顔で相づちをうち、それとなく彼女を導いてくれる。
「……なるほど、夢の中のご主人様にお主が虐待を受けていると言われたと」
「はい。……その、詳しくは…………」
「ああよい、話したくないこともあるであろう。それで、お主はどう感じている?」
「…………正直、よく分からないんです。虐待かどうかもだし、逃げたいとも……思わないというか」
この一週間、熱に浮かされながら考え続けた――そのせいできっと熱はなかなか下がらなかったのだろう――ことを、知世は言葉に変えて紡いでいく。
虐待かどうかはともかくとして、自分が欲しいのはご主人様の手のひらだけだということ。
逃げるという選択肢も正直なところピンとこなくて、何度も自問自答を繰り返したけれど「逃げなきゃ」という強い決意はどこにも見つけられなかったこと。
「でも、あの家でこのままいることを考えたら……私、もっと汚れちゃうんです。あ、今も汚れきってますし、今更と言えば今更なんですけど」
「……ふむ、チセはそう思っておるのだな」
「なので……ここはご主人様を見習って、もうあんまり深く考えずに逃げるってことにしてみようかな、って」
「そうだな、そのくらい軽い気持ちの方がお主には良いのかも知れぬ」
そう、そこまでは一週間で辿り着いたのだ。
とにかく逃げるという選択肢を採ってみよう――こんな適当な決め方で良いのかは分からないけれど、一度決めたら何となく胸のつかえが取れたから、間違えてはいないのだと思うことにした。
とはいえ、そこからが大問題で。
お陰で知世は、最近では起きている間中その事を考え続け……結果、脳がカロリーを消費しすぎてご飯がとても美味しく感じるようになってしまったのである。
どうして脳はこんな時に、溜め込んだ脂肪を優先的に使ってくれないのか。人間のエネルギー利用は、きっと何かがバグっている。
「考えれば考えるほど、何も出来ないなって思うんです……逃げるったって、友達の家じゃすぐにバレちゃうし……はっ、鞍馬さんのお家に匿って貰うのは」
「それは無理」
「むしろ誘拐扱いされそう」
「……ですよねぇ…………やっぱり、無理なのかな……」
何せ、知世にはあまりにも足りないものだらけなのだ。
お小遣いは当然のように買い食いで消えて、手元には大して残っていない。バイトは禁止だから出来るわけが無い。
自転車はあるけど、それだけで当てもなく放浪するわけにもいかない。いくら食いしん坊でも、道ばたの草を食べられるほど胃は丈夫ではない、と思う。
事情を話せない以上、友達や、まして祖母のところに駆け込むだなんてどだい不可能。
万が一匿って貰えたところで、長々とお邪魔するわけにもいかない――
「もう、考えれば考えるほど、何も出来ないなって思って……お腹だけが空いて……」
「なるほどな。ふむ、どうしたものか……」
思案顔の鞍馬と、頭を抱える知世。
どうにも沈鬱な空気が、がらんどうになった学食を支配する。
「……あの」
そんな空気を破ったのは、隣のテーブルに座っている従者さんだった。
声のする方を向けば、強面の彼はふっと明後日の方に視線を逸らしながら「思ったんですけど」と小さな声で口火を切る。
――きっと、視線が合えば知世が怖がると気を遣ってくれているのだろう。
本当に人は見かけにはよらないものだ。
「逃げるなら、入念な作戦を練った方がいいんじゃないかな、って」
「作戦、ですか……?」
「それは同感だな。してヴィナよ、何か妙案が?」
「えっと、妙案って程じゃ無いんですけど。……確かこの学園、基本は内部進学ですけど、外部受験も可能ですよね」
「あ、はい。私も元々は外部受験のつもりだったんです。成績がちょっと残念なことになってたから……」
「そっか、なら例えば……遠くの大学に進学すれば、家からとりあえずは逃げられませんか」
「え」
ぽそぽそと口にする提案に、真っ先に反応したのは鞍馬だった。
「なるほどその手があったか! さすがは私のヴィナだな!」と従者さんに飛びついて……ああ、従者さんが真っ赤になって「あわわ……あひぇ……」と謎の声を上げている。
このままでは、そろそろ魂が抜けてしまうのではなかろうか。
「でっでも、逃げるってバレちゃったら」と不安を口にする知世に、それは大丈夫だろうと従者さんは蚊の鳴くような声で、けれどその瞳には確信を湛えて返す。
「多分、山吹さんがうっかり喋らない限りはバレないと思います。それこそここよりレベルが高い大学への進学となれば、表向きは真っ当な理由にしか見えないですし……ご両親は進路に関して口出しをされますか?」
「いえ……私が思うように決めれば良いって、いつも」
「うん。それならこの方法は使えます。そして逃げた後は、ゆっくり寝て、美味しいものを食べて、何よりたくさん休んで……先のことはゆっくり考えればいいかなって思うんです」
「そこで美味しい物を食べるという選択肢が入るのは、やはりヴィナだな」
「当然です。美味しいご飯は心も元気にしますから!」
(……そんな方法、思いつきもしなかった)
目の前でご飯の効能について熱く語り始めた従者さんを、知世は呆然と見つめる。
進学という手段を使って、表向きは堂々とあの家からひとまず逃げる――灯台もと暗しとはまさにこのことであろう。
完全に親との接触と関係を断つことばかりを考えてきた知世には、彼の提案はまさに目から鱗であった。
思わず「大人って、凄い……」と漏らした知世に、従者さんはどこか照れくさそうにポリポリと頭を掻きながら、相変わらずあらぬ方向を向いたまま「大したことじゃ無いです」と零す。
「何にも凄くないですよ。俺も……何年か前にブラック企業から逃げただけなんで」
その口の端は、少しだけ微笑んでいるように見えた。
◇◇◇
「いつも遅くまで預かっていただいてありがとうございます。夏休み明けからはもう少し早く迎えに来ますので」
「いえ、こちらは大丈夫ですのでお気遣い無く」
ようやく太陽が沈みかけ、けれど昼間の暑さが収まる気配も無い世界に向かって、知世は母親と共に学食を後にする。
「鞍馬さん、従者さん、私……夏休みに調べてみます」
そう語って家路を急ぐ知世の背中は、いつもと違ってどこか、力が抜けているようだ。
「……一歩、進みましたね」
窓から差し込む夕日を浴びながら、新太は視線を扉の外に真っ直ぐ向けて、ぽつりと呟く。
「ああ」と答える鞍馬の瞳も、ようやく未来へと顔を上げた少女の背中に向けられたままだ
彼らの真剣な眼差しは、慈しみと……織物という縁を得てしまった者への祈りに満ちていて。
「幸せに、なれますかね」
「……なれるかではない、なるのだ。お主と私が共にこの生活を掴み取ったように、な」
さて帰るか、と鞍馬はそっと新太の手を握る。
おずおずといった様子で握り返す恋人と共に通用口から外に出た鞍馬は、オレンジ色の空を振り返りどこか感慨深げに笑顔を零すのだった。
「大丈夫だ。あの子はとうとう……小さくはあるが、偉大なる一歩を踏み出したのだからな」