第6話 重なる世界
茜色の空がそろそろ宵闇へと移り変わろうとしている、残暑厳しいある夏の日。
エアコンの効いた部屋の中で寛ぐ両親に、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔のまま何気ない風を装って……けれど内心の緊張が漏れ出た少し掠れた声で、少女は重い口を開く。
「あのね、ママ、パパ。私……外部受験しようと思うんだ」
――あの日から、約一月半。
夏休み最終日にして、知世の「一歩」はようやく現実へと踏み出された。
◇◇◇
「んふっ……はぁ、お尻も太ももも、じんじんするぅ……」
「ったく、相変わらず知世は軟膏塗りがお気に入りだな。……で、もう話したんだよ、な?」
「…………えへ」
「……ふぅん、このお薬べったりの軟膏塗りが、ちょっと粘膜側に滑ってもいいと」
「ヒィッごめんなさい! それだけは勘弁してぇ……!」
話は、少し前に遡る。
学食で鞍馬の恋人から「逃げる」為の方策を授かった知世は、夏休みが始まるや否や進学先の候補を調べ始めた。
ここからなるべく遠く両親を説得出来る理由があり、何より知世が今から頑張れば合格出来そう、かつ今よりレベルの高い大学となると、決して数は多くない。
『……外部受験?』
『はい。ご主人様が言ってたとおり、私取りあえず逃げてみることにしました!』
『取りあえず、って……いや確かに俺は逃げろと言ったけどさ、それで本当にいいのかよ!?』
そうして悩みに悩み、ようやく志望校を二校に絞った段階で、彼女は自分の選択をご主人様に報告する。
「やっぱり逃げたいかどうかはよく分からないけど、ご主人様の勧めだし……離れたらまた何か分かる日も来るかなって……」とバカ正直に自分の気持ちを話せば、ご主人様は暫く「なんだこの生き物、チョロすぎやしないか」と言わんばかりの呆れ顔で頭を抱えていたものの、結果的には応援してくれる気になったようだ。
『……責任は取らなきゃな…………』
『え?』
『何でも無い。で、当然成績は大丈夫なんだよな?』
『大丈夫、の筈です! 明日の模試で成績が上がってれば、きっと、多分』
『……今、凄い不安要素が聞こえてきたんだけど? まあいいや、それ結果が出たら持って来な』
『へっ? ええと、何で』
『いーから。実物があるなら夢にだって持ってこれるだろ?』
そんなわけで、夏休みはひたすら勉強に明け暮れた。
内部進学を決定する試験は既に終わっていて、周囲からは遊びに誘われることもあったけれど、美味しい誘いすら断って机にかじりつくくらいには知世は全力で努力していた。
一年の途中から丸々一年勉強をサボったツケは意外と大きく、定期試験はなんとか付け焼き刃で乗り切ってきたものの、受験となるとそうもいかない……
だからおやつを我慢して参考書を購入し、塾でも進路のことは伏せて基礎固めをしたいと相談に乗って貰って、何とかこの夏で遅れを取り戻そうと試みたのだ。
……もちろん、夢でのプレイは一日たりとも欠かさなかったけれど。
それどころか新しいタイプのパドルや、博物館で見物してきたケインも夢に持ち込んで、すっかりご主人様から与えられる痛みを堪能し尽くしていた。
――これは受験勉強の息抜きであり、何の問題も無いはずである。
そんなこんなしているうちに、夏はあっという間に過ぎ去って。
そろそろ二学期の足音が聞こえてきたある日、知世はご主人様により重大な逃避を指摘される。
『……でさ、親は良いって言ったの? 外部受験のこと。…………知世? 何で目を逸らすんだ? まさかとは思うけどあんた、話を』
『え、えっと、します! ちゃんとしますよ!! ただその……本当にこれでいいのかな、って……』
『はあぁ!? うっそだろ、まだ何も話してないのかよ! あれから一月は経ってるよな!!』
そう、全ては順調に進んでいた。
――両親に話すというミッションから全力で逃げていること以外は。
もちろん知世だって、全く何もしなかったわけでは無い。
夕食後の時間を狙って、さりげなく話をしようと何度も試みてはいたのだ。
けれどその度に、足が竦む。声が出なくなってしまう。
この、夜の時間以外は温かい家が自分の一言で壊れてしまうので無いか……そもそも逃げたいと強く思っているわけでも無い、本当にこのまま外部進学に舵を切って良いのか……
そんな想いが知世の身体の中を埋め尽くして、結局何も言えないまま自室に籠もって「まあいいや、まだ時間はあるし」と己を慰め夢に飛び込む、そんなひとときの繰り返しで。
「だからその、決めたけど迷っているというか……別に私が我慢すればいいし……ご主人様は分かってくれてるからそれでいいかな、と思ったり……でも逃げた方がいい気もして……」
「…………」
とつとつと事情を話す知世をソファから無言で見下ろしていたご主人様は、話が終わるや否やすくっとその場に立ち上がる。
「ご主人様?」とその顔を見上げた知世は、次の瞬間ぴしりと固まってしまった。
(……あれ、ご主人様……怒って、る……?)
「…………知世、膝の上」
「え」
「この後に及んでうだうだと言い訳ばっかり並べ立ててる悪い子には、お仕置きがいるよなぁ?」
「えええ!?」
明らかに苛立ちを含んだ透明な瞳で射貫かれ、ちょっぴりドスの効いた声で凄まれて。
知世は「ぴゃっ」と奇声を発し、既にプレイを終えてヒリヒリ痛む尻を庇いながらも、あの日のようにご主人様の上に寝そべる。
……その後はどうなったか、もう説明するまでもあるまい。
初めてのお仕置きは限界まで追い込まれていたお陰で、あれでも痛覚はちょっと麻痺していたのだと実感出来るくらいには、おかわりのお仕置きプレイは泣きの一手だった。
「うわあぁんっ!! ごめんなしゃいっ! ひぐっ、ひぐっ、いだいいぃっ!! ごしゅじんしゃま、ちゃんといいますっごめんなしゃいぃ!!」
「それ、お仕置き止めて欲しいから言ってるだけだろ? もう20回追加な」
「ひっ、そんなあぁっ!! もうだめだよぉ、おしりこわれちゃう!」
何度ごめんなさいと叫んでも「この程度で小ブタちゃんが反省する筈が無いよ、な!」と容赦なく振り下ろされる手は、本当に熱くて。
けれど、ちらっと見えたご主人様の瞳は……案の定怒りの奥にちょっと興奮を伴う、明らかな楽しみの色を覗かせていた。
更に気を利かせてくれた寝具により、痛みはクッションがあれば何とか椅子に座れるレベルで残されて「こんなところでタッグ組まなくたっていいのに!」と知世は毎日のように嘆きながら机に向かう羽目になったのだ。
――しかし、人間とは適応する生き物である。
そして変態の適応力は、ご主人様の思惑などあっという間に超えていってしまうらしい。
夏休みもあと数日となったある夜、知世はいつものように訊ねてくるご主人様に向かって、ちょっとだけ申し訳なさを纏わせた曖昧な笑顔を向けていた。
もちろん、秘所への軟膏塗布は全力でお断りした上で、である。
「あのさ……もう夏休み終わっちゃうの、分かってる? 外部受験に切り替えるなら、二学期入ったらすぐ学校に言わなきゃだめなんだしさ」
「そ、それはそうなんですけど……でも……まだ、迷ってて……」
しおらしく言い訳を並べ立てて、知世はちらっと彼女を見上げる。
……嘘は言っていない。どうしても決心が付かず、リビングで宣言するだけの勇気も持てないのは事実だから。
しかし知世の瞳に灯る感情は……明らかにこれまでとは異なる色を帯びていた。
そして毎夜のように知世を堪能してきたご主人様が、そんな変化を見逃すわけは無く。
暫く無言で腕組みし、知世をじっと見つめていた彼女の口から、はぁ……と大きなため息が漏れた。
(……ふふっ、これでお替わり決定、かな?)
この後は、いつものように少し苛立った声で、膝の上に乗るよう命令されて。
昨日は革のパドルだったから、今日は手のひらだろうか。それとも新兵器のアクリル製穴あきパドルか……
決して期待を表には出さず、しかし内心小躍りしている知世に向かって、ご主人様は「分かった」と重々しく口を開く。
「つまり、俺が間違えていたと」
「…………え?」
「そうだよな、知世はリスクも顧みず訳の分からない寝具にお願いするくらい、お尻ぺんぺんが大好きな変態だもんなぁ? ……スパンキングがお仕置きになるわけないじゃん!」
「え? あ、あのっ……」
おかしい、何だか風向きが怪しくなってきた――
そう知世が焦りの色を見せても、残念ながら既に時遅し。
ご主人様は、その場に仁王立ちとなり、知世を見下ろす。
明らかに呆れを通り越したなんとも言えない表情を瞳に浮かべた彼女は、すぅ、と大きく息を吸った後
「わかった。知世が外部受験の話を親にして許可を貰ってくるまで、俺は尻を叩かない!」
「……ええええ!?」
とんでもない「お仕置き」を、知世に宣言したのであった。
◇◇◇
それから数日後の、現在。
知世はどうにも疼く尻を持て余しながら、夕暮れ時のリビングに腰掛けている。
あの日以来、本当にご主人様は知世の尻を叩かないどころか、触れることすらしなくなって。
夢の白い空間に持ち込んだ道具を丹念に手入れし、風切り音を立てて素振りこそしているものの、知世には「床に体育座りして、黙って見物な」とおねだりすら封じる徹底っぷりだった。
そんな「おあずけ」に、この一年近く毎日のように躾けられてきた知世の身体と心が耐えられるわけがなく。
今日、彼女は観念してようやく重い腰を上げたのである。
――もちろんこれは、未来へ踏み出すための一歩ではある。
そんな重大な一歩ではあるけれども、一世一代の舞台に立たされた知世の脳みその三割くらいがご褒美スパンキングの期待で占められていることは、否定が出来ない。
(な、何としてもここで許可を貰って……今日はパドルでしこたまぺんぺんしてもらおう……もうお尻もお腹もうずうずして、勉強も身が入らないもん!)
そんな彼女の邪な意図などつゆ知らず、両親は唐突に告げられた娘の決断に、少し面食らったような顔をしていた。
「……知世、訳を聞かせて貰える?」
「あ、うん……ママあのね」
エアコンの空調音だけが、やたら耳に付くリビング。
背中に冷や汗が伝う中、ややあって母が穏やかな口調で知世の言葉を促す。
(大丈夫、いっぱい練習したから、ちゃんと話せる……!)
すぅ、と一つ、大きく息を吸って――きっとこうすれば、ご主人様みたいに堂々と話せるに違いないから――知世は堰を切ったように、この夏休みの間考え抜いた理由を話し始めた。
「内部進学できそうだし、どの学部で希望を出そうかずっと考えてたんだけど……うちじゃ、私のやりたいことはできなさそうなの」
元々、成績的に内部進学が難しいと言われていた知世は最早諦めの境地で近隣の大学を調べていたことがある。
その中で彼女の興味を引いたのは、海外の文化を学ぶ学部だった。
母方祖母のルーツでもある北欧について、知世は断片的な知識しか持っていない。
言葉こそ日常会話程度は話せるものの、年老いた祖母は日本暮らしの方が長くなっていたし、母に至っては外資系企業に勤める以外は一般的な日本人と何も変わらない生活を送っている。
昔話として祖母の故郷への想いを聞くことはあっても、盆と正月しか逢わない環境では自分のルーツを知る機会もほぼ無いに等しい訳で。
他に興味ややりたいことがあるでなし、それならば現時点で三カ国語が話せる利点を活かした仕事に就こう、そのために故郷の文化を知るのは悪くないかなと思ったのだ。
「……うちは、北欧系の文化を学べる学科は無いんだ。で、どこかないかなと探したのがこの二校で……あ、こっちの女子大が第一志望なんだけど」
「どれどれ……ふぅん、東京の大学なのね。まあこの国で北欧文化について学ぼうとしたら、そもそも選べる大学は少なそうだものねぇ」
「うん、もう一つも関東だし、他の大学だと……その、私の成績だとちょっと現実的じゃ無いかなって」
何より、知世がその二つを選んだ理由。
それは学力的に「頑張れば何とか手が届きそう」なこと、そして……一人暮らしが出来ることだった。
知世の住む街から大学のある街までは、新幹線で二時間以上かかる。この段階で自宅を離れることは確定だ。
「都会で女の子の一人暮らしは、ちょっと心配ね……」
「大丈夫だよ。こっちの女子大は大学が提携しているセキュリティのしっかりしたマンションを斡旋してくれるんだって」
「へえ、最近じゃそんなことまで大学がしてくれるのねえ」
「だからさ、私ここを受験してみたいなって……模試の成績も上がってたし……どう、かな」
知世が渡したサイトを、両親はそれぞれのスマホでぽちぽちと調べている。
何気ないため息や表情が垣間見える度、知世の心臓はひときわ大きな鼓動を奏で、自然と拳を握りしめていた。
(大丈夫。ちゃんと全部言えた。自然に話せたよ……)
伊達に笑顔の作り方は上手くなっていないのだ。
きっと両親には、いつもと変わりの無い愛娘の姿が映っているはず……そう固唾を飲み込んで目の前の二人を見守る知世に「でもなぁ」と最初に声を上げたのは父だった。
「流石に東京は遠くないかい? 何かあってもパパやママがすぐに駆けつけてやれないし……遠く離れて一人暮らしはちょっと心配だよ、知世の性格を考えても」
「パパ」
「外部受験にチャレンジするのは、いいと思うけどね。けれど、もう少し近場の方がパパは安心出来るかな」
「……うん」
(…………違う)
優しい声に、胸の辺りがざわざわと嫌な感触に包まれる。
父の「提案」に気付いたと、バレてはいけない――必死に笑顔を作りながら、知世は心の中で叫ぶ。
知世に向けられた父の表情は、いつもと変わらない。柔和で物わかりの良い、見慣れた「優しいパパ」ののままだ。
けれどやんわりした反対が――否、知世の意見を受け入れた上でそっと差し出される圧を伴った誘導の思惑が、ずっと顔色を窺い続けてきていた彼女には見える……そう、ありありと見えてしまう。
(手放したくないんだ、あの夜を)
下劣で醜悪な泥の臭い。
その温厚な皮の下に詰まったヘドロが漏れ出る言葉を、知世は嗅ぎ分ける。
そして……ああ、何と自分は無力なのだろうか。たったこれだけの穏やかな提案すら、はねのけるほどの力を持てないだなんて!
(やっぱり、だめなのかな……)
触れられていないのに、淀みが知世を絡め取り、諦めの言葉が頭の中で鳴り響く。
背中を押してくれた、あの美しい水色の瞳が、遠ざかる――
どうしようもない絶望にただ一人立ち尽くし、思わず頷きかけたまさにその時
「あら、いいんじゃない? ママは賛成よ」
助け船を出したのは、この家庭に巣くう淀みを何一つ知らない、母の一言だった。
◇◇◇
「え……」
思いがけない言葉に目を丸くした知世に、母はにっこりと笑みを浮かべる。
そうして「初めてよね。知世がご飯以外で、こんなにはっきり自分の希望を言ったのって」とどこか嬉しそうにスマホを見つめるのだ。
「志望校はこの二つね? そうと決まれば、塾にもすぐ伝えなきゃ! ああ、学校には知世からちゃんと話せる? まだ外部受験に切り替えるのは間に合うはずだけど」
「う、うん。それは明日先生に話すよ……でもその、ママはいいの?」
「いいもなにも、知世が考えて決めたのでしょ? なら、反対する理由は何もないわ」
「……!」
自分のルーツを知りたいなんて素敵な動機ねと、母は今にも塾に連絡を入れかねない勢いだ。
そうだった、母は昔から行動力の塊で良いと思ったらすぐ動いちゃうんだったとポカンとしながら成り行きを眺める知世の前で「ちょっと待った、ママ」とそれを諫めたのは、やはり父だった。
「いくら何でも東京に進学はちょっと……ママは心配じゃ無いのかい?」
「パパ、可愛い娘が心配なのは分かるけど、これは知世の人生よ。……何より引っ込み思案な知世が、自分で調べて選んで挑戦したいって言ってるなら、親としては全力で応援してあげるべきでは?」
「そ、それはそうだけどさ……でも女の子だよ? しかも知世だよ? 都会に出すだなんて、危ないのでは……」
目の前で始まった論戦は、いつもながら母の方が優勢だ。
どうにも諦めきれず食い下がる父と、それを笑顔で軽くいなす母のやりとり。こうなると知世の出る幕は無い。
(……お願い、ママ。パパを説得して)
吐きそうなほどの緊張に襲われながら、知世はただ、祈り続ける。
――その胸の中に、先ほどまで胸で渦巻いていたはずの迷いは一欠片も見当たらない。
手元を離れると分かった瞬間、あの人が見せたもの。それこそが、知世にとっては己の気持ちに確信を持つ決定打だったのだ。
(私は、ここから逃げたい……うん、これでいいの。私、逃げるの……!)
笑顔の下で知世を沼の底に沈め続ける欲望は、いくらそれ以外が理想的な温かい家族であっても、決してただのマイナスと差し引きでは終わらせられない――
ようやく、傷ついたことすら悟れないよう優しく沈められてきた少女は、事実を思い知らされる。
「まあね、男親は娘に過保護になるものだから……パパの気持ちも分かるわよ」
「そ、そうだろう? だから」
「でも私は譲らないわ。第一、子供は必ず親から自立するものよ? そしてきっと、今が知世の巣立つときなの。大体私達は先にこの世を去るのに、手を離してあげなくてどうするの?」
「むぅ……」
意外にも、話は長引いているようだ。
いつもならあっさりと折れる筈の父も、今回ばかりは首を縦になかなか振らない。
その理由が訳の分からない感情と共に胸を過る度、つい口を挟みそうになる衝動を知世は必死に押さえ込む。
(だめ……!)
……この関係を、彼の所業を暴露すれば、確実に母は自分の味方になってくれる。母はそう言う人だから。
それどころか、彼女のことだ。にっこり笑って離婚届を差し出し、自分一人の稼ぎで知世を大学に通わせるとこの場で宣言して、愛していた夫をさっさと叩き出してしまうだろう。
実際、母の方が収入は高いと昔小耳に挟んだ記憶もあるから。
(…………言えないよ。ママにこんなこと、言えない。こんなもののために、ママを悲しませたくなんか無い……!)
それでも、知世は決して口を開かないと固く誓う。
ずっと夫婦仲も良く穏やかな家庭を築いてきた、そう思っている母をわざわざ悲しみの中に突き落とし、苦境に立たせる必要など無い。
私がここから、ただ、逃げる。
それだけでこの家庭はそのまま回り、私もこれ以上汚れずにすむのだから――
(ここは黙っていたって……ご主人様も、怒らないよね?)
知世は、すっかり暗くなった窓の外を照らす月を見上げる。
その傍らでは、知世が思い描く最も最良の形でこの話に決着が付きかけていた。
◇◇◇
夏休み明けの学食は、相変わらず賑やかだ。
夏季限定デザートのマンゴープリンを全力でゲットした知世は、実に満足そうな笑顔を浮かべて友人と共にランチを頬張っていた。
(……ここにいるのも、あと半年なんだ)
いつもと変わりの無い、他愛ない世間話に恋バナに。
知世を囲む世界は夏休み前と何一つ変わっていないけれど、少しだけ眩しく見えるようになった気がするのは、明確な区切りが見えたからなのだろうか。
……それはそれとして、今日も鞍馬さんの手作りデザートは絶品だ。
多分これは本場のマンゴープリンなのだろう。普段コンビニで食べるものよりはあっさりしていて、ついついお替わりが欲しくなる。
「そう言えば知世、進路希望票出した? 結局希望学部はどこにしたの?」
「むぐむぐ……ん? わらひはねぇ……もぐもぐ……」
「知世ちゃん、食べ終わってからで良いって」
「うん……ふぅ、ごちそうさまぁ……あ、私は外部受験するんだ」
「ふぅん、そうなんだ。…………って外部受験? 嘘でしょ!?」
何気ない友人の問いかけに、これまた何気なく答えれば、友人たちが素っ頓狂な声で叫ぶ。
中には目を丸くして「え……知世、うちで上がれなかったの?」と固まる子までいる始末だ。
(……あ、まずかったかな)
「どうして」「やっぱり成績だめだったの?」と怒濤のごとく質問を繰り広げる友人たちに愛想良く笑みを返しながら、知世は内心冷や汗をかく。
どこまでも平均よりちょっと下であった知世が、よりによって都会の大学を目指すなど、下手に答えればずっと保ってきた居心地の良いポジションを失いかねない。
ここは、上手く彼女達が満足出来る形の自分を演じて――
(……もう、いいんじゃないかな)
慌てて思考をフル稼働させようとした知世の脳裏に、そっと心の声が囁きかける。
だって、これ以上取り繕っても彼女達とは確実に離ればなれになるのだ。残り半年のために作る笑顔に、何の意味があるだろう……
(うん……今は、どう思われてもいいや)
少しだけ逡巡した知世は、しかし迷い無くその決意を口にする。
「その、やりたいことがあって……東京の女子大を目指すことにしたの」
「……うそ…………」
「そういや知世ちゃん、うちには行きたい学部が無いっていってたもんねぇ」
「うん。私さ語学は得意だし、折角海外にルーツも持ってるんだから、それを活かしたいなって思ったの」
「…………そっか」
賑やかなはずの学食の一角に、重たい沈黙の帳が降りる。
無理も無い。仲良しグループの中では一番成績が悪くて、ようやっと内部進学が決まってみんなで同じ大学に行けると思っていた知世が、まさか外に、それも遠く離れた都会に出るだなんて誰一人想像しなかったのだろう。
そんな重苦しい空気を破ったのは、知世にしょっちゅうおやつを分けてくれた友人だった。
「でも……外部受験って落ちても内部進学はできなくなるんだよね」
「……うん、昨日進路指導の先生からも言われた。成績上位者なら全落ちしても内部進学を受け入れることはあるらしいけど、私は無理だって」
「そんな、じゃあ合格しなかったら知世はどうなっちゃうの!?」
「陽菜ちゃん……」
「やだよぉ、知世、このまま一緒にうちの大学に行こうよぉ……!」
俯き涙ぐむ友人に、知世は「ごめんね」と微笑む。
今までの自分なら、曖昧な笑みを浮かべてその場はお茶を濁して、きっと無かったことにしていただろう。
けれど、もう知世は迷わない。
夏休み最終日にはっきりと突きつけられた泥は、もはや知世の足を引き留める楔にはなりやしない――
「もう決めちゃったんだ。先生にも反対されたけど、やりますって」
「知世……」
「大丈夫、頑張るから! それにもし全部落ちちゃったら……ここの学食で雇って貰って、美味しいご飯を作るのもいいかなーなんて」
「それはだめ」
「知世、ますます丸くなっちゃう」
「味見で食材が目減りする未来しか見えない、特にスイーツ」
「ちょ、それはいくら何でも酷くない!?」
丸いほっぺを膨らませたその時、予鈴のチャイムが鳴り響く。
彼女達はいつもと変わらぬ様子で席を立ち、何事も無かったかのようにおしゃべりをしながら教室へと戻っていく。
――そこに激励は無い。賛意も無い。けれど、否定もされない。
彼女達は突如現れた異分子を、見なかったことにするらしい。
つまり、これから卒業までの半年はこれまでと変わりない付き合いを続けて……それで「おしまい」なのだ。
(……うん、これでいいの)
知世もまた、これ以上何かを望むことは無い。
友人たちとの間に知世だけが感じてきていた透明な膜が、ちょっとだけ厚くなって彼女達にも見えるようになっただけ。
夏休み前までの自分なら、きっと関係を修復したくて内心躍起になっていただろうけれど、知世の心の中は思いがけず澄み渡っていて。
(ふふ、今日の私、ご主人様の瞳みたい)
どこか足取り軽く、知世は学食を後にするのだった。
◇◇◇
「わぁ、もしかして取っておいてくれたんですか! ありがとうございます!!」
「今日は遅くなる日であるからな、随分幸せそうに食べておったし気に入ったのなら何よりだ。……エバミルクもあるが、上にかけるか?」
「エバミルク? へぇ、濃厚ミルクって感じなんだ……んー、それはちょっといいかなって」
「うむ、分かった」
放課後、いつものようにやってきた知世を、鞍馬はマンゴープリンと共に出迎えてくれた。
部活終わりの学生たちにやっかまれそうだと、知世が少し心配していれば「何、彼らの分はちゃんと用意してある」と麗しの青年は調理場を指さす。
そこには大量の平麺とソース、野菜と魚介類が用意されていた。どうやら今日はもちもち平麺焼きそばを振る舞う予定らしい。
「その様子だと、計画は順調か?」
「あ、はい! 志望校も決めましたし、母も賛成してくれました。進路指導の先生には随分反対されちゃいましたけど、もう決めたんですって押し切って」
「そうか、後は勉強を頑張るだけだな」
「大丈夫です! 今日模試の結果返ってきたんですけど、前回より随分成績が上がってましたから!」
ほら、と知世は鞄から取りだした成績表を鞍馬に見せる。
紙を一瞥した彼は「表は良くは分からぬが、順調ならばよい」とどこか安心した様子だ。
(あ……結果はご主人様に見せないと……はぁ、それにしても相変わらず鞍馬さんはピアスがよく似合う……)
鞍馬が何気なく髪をかき上げれば、しゃらん、と涼やかな音が耳元から小さく鳴り響く。
その仕草はまるでどこか愛しい人を待つ祈りのようで……知世はふと、彼に問いかけた。
「あの……鞍馬さん」
「ん? どうした。お替わりはもう無いのだが」
「あ、それは大丈夫です、後で焼きそばを貰えれば……じゃなくて! ……こんなこと聞いて良いかどうか分からないんですけど」
「ふむ」
「……恋って、どんな感じなんですか?」
……この胸に生じたときめきの、答えを知りたくて。
◇◇◇
「何かあったのか?」と穏やかな口調で訊ねられるまま、知世は夢の少し過激な逢瀬について鞍馬に語る。
周囲の学生たちも、今は焼きそばに夢中でこちらに来る者はいなさそうだ。
何より……彼には知世の変態性癖は筒抜けだし、更には広い意味の同士(?)でもあるのだ。今更恥ずかしがる必要もあるまい。
「……ということで、最近ご主人様に見つめられるとドキドキして……浄化されて灰になりそうなんです」
「ふむ。それはまた、どこかで聞いたような台詞だな……」
「だからその、これは恋なのかなって……でも、ご主人様は見た目は男みたいな格好してるけど女の子だし……恋ってのもおかしいのかなと思ったり……」
「女の子だと、おかしいのか?」
こてり、と首を傾げた鞍馬に知世は「だって、同性だし……」と俯いてもじもじとする。
その顔は耳まで真っ赤に染まっていて、それだけで彼女の気持ちはダダ漏れなのだが、鞍馬は敢えてそこには触れないことにしたらしい。
穏やかな、しかしどこか威厳のある凜とした声は、ただ知世の背中をそっと押す。
「……何故同性ならば変なのだ?」
「え? ええと……変じゃないんですかね……」
「ふむ……ではお主には、私とヴィナが変に見えておるか?」
「へっ……? ……はわっ!! ご、ごめんなさい、私ったらなんて失礼な事をっ!!」
満面の笑みで返された答えに、一瞬戸惑った知世はその意味を理解した途端「あああ知世のバカああぁぁ!!」と全力で机に突っ伏した。
(そうよ、鞍馬さんの恋人は従者さん! おもいっきり同性じゃない!!)
やらかした、とオロオロする知世を「なに、気にすることは無い」と焼きそばと共に慰めながら、鞍馬は蕩々と彼の恋愛観を語る。
部活終わりの学生も減ってきているせいであろうか、その説法はいつの間にやら愛しい恋人への盛大な惚気と変貌し、気がつけば焼きそばすら甘く感じるレベルになっていた。
「き、九歳で一目惚れですか……!?」
「うむ。私を危機から救ってくれたあやつの勇姿は、今も目に焼き付いておる。男が惚れる男というのは、まさにこういうものだと見せつけられたようでな。あの日から一日たりとも、ヴィナへの想いが薄れたことは無い」
「へ、へぇ……何だかいつも見ている従者さんと、印象が全く違うような」
「それなのだ。あやつはこと恋愛に関しては、壊滅的な鈍感さの持ち主でな……」
(じ、情熱の桁がおかしい……! やっぱり海外の人って、全然違うんだなぁ……)
日本人ならきっと臆してしまうであろう己の尽きぬ恋心を、実に堂々と、むしろ誇らしげに語る鞍馬。
話を聞く限り、彼の恋はびっくりするほど情熱的かつ積極的で、これは間違いなく従者さんが尻に敷かれていると知世は確信する。
「失礼します! ムシュカ様、お迎えに……わわっ、ちょっムシュカ様ぁ!?」
「ふふっ……今日も愛いな、私のヴィナよ。ああ、チセにお主のことを話していたら少々昂ぶってしまってな……ほら、今日も私は美味そうであろう? 少々味見をせぬか?」
「ちょ!! ちょっと待ったあぁ、学生さんの前でそれは無し! そんなことしたら俺、三日は墓の下ですよ!! ムシュカ様は、週末ずっと俺が尊死したままでいいんですか!?」
「ぬう、折角新たな道具を手に入れたというのにそれは勿体ないな……仕方が無い、家に帰ってからのお楽しみとするか」
「ひぇ……あのっムシュカ様、俺はできたらもっと優しい甘々えっちがいいな、って……」
「ん? 我らのまぐわいは、いつだって甘々であろう?」
「……すみません、ムシュカ様に一般的な定義を教えなかった俺が悪いです」
迎えにきた途端、とんでもない爆弾を落とされ夫婦漫才を始めた従者さんは、どうやらこれ以上抗うことを諦めたらしい。
学食のテーブルに腰掛けるや否や、後ろからべったり引っ付いてご満悦な鞍馬のなすがままに身を任せつつ、必死に無表情を決め込もうとしている。
しかしその真っ赤に染まった頬では、隠す方が無理というものだ。
「とまぁ、少々語りすぎてしまったが」
「鞍馬さん、多分それは少々とは言いません」
「そうか? ……まあ何にせよ、恋の形など人それぞれであろうよ」
「……人それぞれ、ですか」
ヴィナと私の恋とて、同じ物では無いぞ? と鞍馬は笑う。
「こやつは、私を最推しの神と認定しておるからな。焼きもちも焼くし案外独占欲も強いし」と実に嬉しそうに暴露する麗しの君の腕の中で、厳つい恋人はそろそろ天に召されそうだ。情熱的なのはよく分かったから、そろそろ勘弁してあげて欲しい。
「だから、チセが恋だと思えば、それでよいのだ」
「そういうものかぁ……そ、その、鞍馬さん達は……えっと、大人の付き合いもするんですよね……」
「ちょ、山吹さぁん!?」
「無論だ。想い合う同士で肌を合わせるのは、実に心地よく楽しいものだぞ?」
「ムシュカ様はそろそろ落ち着いて!!」
悲鳴を上げる従者さんにはお構いなしに、彼はどこか確信を持った眼差しで今の知世には想像もつかない未来を告げるのだった。
「なに、きっとお主は、その良さが分かる日が訪れるであろうよ。……まじないの織物の助けを借りたとは言え、己が足で確かな一歩を踏み出せたのだからな」
◇◇◇
「うーん若いっていいわねぇ、これぞ青春! って感じで」
「い、いいのかな……従者さんはともかく、鞍馬さんのはちょっとやり過ぎな気が」
「あら、あなたのおばあちゃんも随分情熱的におじいちゃんを口説いたそうよ? 海外の人はあれくらいが普通なのかもね」
「えええ、まさか身近に実例がいたなんて……」
母の迎えと共に、青年たちのいちゃつきは終わりを迎えて……いるようで、やっぱりいなくて。
駐車場に向かう二人の背中を見送りながら、母はその様子を微笑ましそうに見つめている。
(……あ、手が)
周りにハートが飛び散るのが見えそうなムシュカの腰に、そっと回された従者さんの大きな手。
どこか遠慮がちで、けれど愛しい人への慈愛に満ちた触れ合いは……己の腰に回されていた手とは、何もかもが異なるに違いない。
(ご主人様となら、どうするかな……あーでもあの距離はないなぁ、手を繋ぐのが精一杯かも……)
「知世も、好きな人がいるの?」
「……んー、分かんないや」
ぼんやりと彼らを見送る知世に、何か思うところがあったのだろう。
何気なく母に訊ねられた知世は曖昧な笑みを返し、助手席に乗り込む。
(恋だと思えば、恋、かぁ……)
自宅への道すがら、心地よい振動に身を任せながら知世は物思いに耽る。
知世の心に灯る光は、どこまでも澄み切った、少し緑がかった水色――
自らが作り出した妄想にすぎない彼女への想いを、まだ自分は恋とは定義できなさそうだ。
(でも……ご主人様がいるから、頑張れる)
とはいえ、この温かい気持ちに名前は無くとも、大切に抱き締めたいものであることに変わりは無い。
今はそれでいいのだろうと、知世はぼんやり窓の外に視線を移す。
(……ご主人様への気持ちがあれば、きっと私はここから逃げられると思うんだ)
流れるように後ろへと消えていく景色とは裏腹に視界に留まり続ける夜空の星が、今日は一段と煌めいて――なんだかご主人様と重なって見えた。
◇◇◇
「ご主人様、いつかトゲトゲ付きのパドルも使ってもらいたいな、なんて……」
「それはお布団さんとやらに相談しな。やり終わった後で傷が治せません、なんて言われたら大問題だろ? 穴の開いた尻じゃ、受験勉強どころじゃなくなる」
「あっ、それは確かに……ううん、こうなったらお布団さん喋ってくれないかなぁ……」
いつもと変わらない、白に覆われた夢の中。
無事にご主人様からの課題をクリアした知世は、数日ぶりに取り戻したプレイの日々をそれはそれは全力で満喫していた。
特に両親に進学の許可を得た夜のプレイは、今でも忘れられない。
最初こそ、鼻息荒く夢の中に飛び込んだ途端「ご褒美で! おかわりつきスパンキングがいいです!!」と目を輝かせておねだりする知世に盛大なため息を漏らしたご主人様だったが、どうやらおあずけの鬱憤が溜まっていたのはお互い様だったらしい。
「ははっ、やっぱりこの尻は叩き甲斐があるよなぁ! ほら、これを待ってたんだろ? いっぱい鳴きなよ、っと!」
「うあああっ!! あがっ! ぐっ、ひっく、ひっぅ、いだいぃ……もっとぉ……っ!」
「あ-、ほんっと可愛いな……良い色に染まって……ははっ、堪んない……!」
その日は派手な打撃音と知世の叫び声、そしてご主人様の笑い声がこだまする中、手とパドルで頭の中が真っ白になるまで打ち据えられ、実に晴れ晴れとした気持ちで朝を迎えたものだった。
以来、知世は受験勉強で疲弊した心身へのちょっとした(?)ご褒美とばかりに、更なる過激な道具への興味を募らせている。
「まあ今日の所はレザーのパドルで……って知世、それは?」
「へ? あっ、忘れてた! ご主人様、夏休みの模試の結果が出たんです! 後で見て頂けますか?」
「!! いや、先に見る。……結果次第じゃ『お仕置き』も必要だろ?」
「あはぁ、ご主人様よく分かってるぅ……!」
いつものように黒いパドルを手にしたご主人様が、ふと知世の右手に視線を移す。
そこにはいつの間にか、折りたたまれた紙が握りしめられていた。
そう言えば結果が返ってきたら見せろって言われてたっけ、と知世は途端相貌を崩し、淫らな期待と共に用紙を彼女に渡す。
(ふふ……結構成績は良かったからお仕置きは無理かな……あ、でも数学の点数なら……!)
……そう、ただ打って貰うのも楽しいけれど、お仕置きという名目が付くのはまた違った気持ちよさがあるから。
最初にしっかり躾けられたお陰で、今やスパンキングとなるとごめんなさいを叫ぶのが定番となった知世にとって、お仕置きの理由は大切な要素なのだ。
それがこじつけであれ、些細なことであれ……これからの「ごめんなさい」は、納得して言いたい――
そんな気持ちにどことなく気付いているのだろう、ご主人様もここ数日は何かしら理由を考えてくれている様に思う。
「ふぅん、知世って英語が得意なんだ。結構やるじゃん……んで、こっちが志望校かな……って……」
「…………ご主人様?」
「ん? ああ…………何でも無い、訳でも無いか」
「ほへ」
夏前から比べると結構成績が上がったんです! と胸を張る知世とは対照的に、ご主人様はどこか浮かない顔だ。
一瞬顔が強張って、それから先は随分真剣な眼差しで結果を熱心に見つめている。
戸惑いを覚えた知世がおずおずと話しかければ、暫く考え込んでいた彼女がスッと顔を上げた。
「……!?」
その表情はネックゲイターに隠れていて、詳細には読み取れない。
けれど、明らかに変わった纏う空気に、知世の身体は自然と強張ってしまう。
「あ、あのっ……ごめんなさい、私何かご主人様を怒らせて」
「別に怒っちゃいないさ。……ちょっと、いや、大分呆れてるけどな」
「はひっ!?」
怒っていないという言葉が信じられないほど、ちょっとドスの効いた低い声で、ご主人様は知世の頬を両手で挟みゆっくりと言い聞かせる。
ああこれは、あの時と同じ説教モードだ……と知世は思わず遠い目をしかけるも、ご主人様は「こっちをしっかり見ろ」と逃げる猶予すら与えてくれない。
「……あのさ知世、今何月だ? 俺とあんたの時間感覚が一緒なら、もう九月だよな? 私大の入試まであと5ヶ月切ってるの、分かってる?」
「え、あ、それはもちろんっ」
「それで今、第一志望がC判定ってさ……これで成績が上がっただぁ? ギリギリって言うんだよ、これは!」
「ぐっ……」
「しかも英語に気を取られてたけど、何だよこの数学の点数!? 文系だからって許されるレベルじゃ無いし! 英語のアドバンテージを食い潰して、むしろ借金状態じゃんか!!」
「あ、あはは……数学はちょーっと苦手で……」
「いいか? これは、ちょっととは、言わない」
「うぅ……ご主人様の圧が今までになく強いぃ……」
半泣きになる知世に対して、ご主人様は真剣そのものだ。
というより、眉間にくっきり皺が寄るほど深刻な表情をして、何やらブツブツと独り言を呟いている。
先日進路指導の教師に意志を伝えたときには「……まあ、今から頑張れば何とか間に合うかも知れないわね……」と心強い(?)励ましを貰ったはずなのだが、もしかしてこの志望校はちょっと背伸びをしすぎなのだろうか……
ふと思い出した教師の表情があまりにご主人様と似通っていて、恐る恐る訳を聞こうと口を開いたその時「よし、決めた!」と彼女が声を上げた。
その瞳はいつも以上に真っ直ぐで、美しくて、知世の鼓動を一気に高鳴らせて――なのに、少しだけ嫌な予感がして。
「あのう、ご主人様……まさかまたお尻ぺんぺんをおあずけ……」
「いや、それはない。ここで尻を叩くのを止めたら、知世のストレスが増えるだけだろ?」
「ほっ、良かった……」
「ただし、この成績はだめだ知世。特に数学な、これは中学からやり直した方がいいレベル」
「ぎっくぅ……」
(うわぁ……おあずけが無くても、もの凄くヤバい気がするの!!)
だから、と彼女の瞳がすっと細くなる。
果たして、知世が覚えた不安は予想外な形で的中して。
「……いいか知世、明日から赤本と手持ちの問題集を全部ここに持って来な。ああ、筆記用具も、あと眼鏡も忘れるなよ」
「へっ」
「起きてる間だけじゃ、どう考えても時間が足りない。こうなったら、夢の中でも受験勉強な!」
「え……ええええっ!?」
楽しいはずの白い空間は、来年の春まで逃げ場の無いスパルタ地獄と化すことが決定したのだった。
◇◇◇
ここでは一糸まとわぬ姿こそが正装だけど、それはあくまでプレイのための甘い空間だったから受け入れられていたのだと、知世は久しぶりに顔を熱くする。
「ちゃんと持ってきた? じゃ、ここ座って。取りあえず何持ってきたか確認するから」
「は、はい……んっ……」
いくつかの参考書とノート、そして眼鏡ケース――
白い世界には全くもって似つかわしくないものを腕に抱え、柔らかな胸に無機質な冷たさを感じつつ、知世はご主人様の勧めるがままぺたりと座る。
いつの間にか夢の空間には、白いローテーブルとドーナツクッションが用意されていた。
どうやらお布団さんは、今回もご主人様と共同作戦を張る気満々らしい。
(これ……恥ずかしい……でも)
はぁ、と熱い吐息を漏らす知世の瞳は蜂蜜のように蕩けていて。
そんな知世をちらりと見咎めたご主人様は、ふっと笑みをこぼす。
「……なに? 小ブタちゃんらしい扱いが気に入った?」
「っ……恥ずかしいのに……どうしよう、ご主人様気持ちいいですぅ……」
「いいんじゃない? 知世らしくて。あ、でも勉強は真面目にやれよ?」
「そんな無茶なぁ……」
知世の持ち込んだ問題集をパラパラと捲る彼女の瞳は、真剣そのものだ。
今は自分に向けられている物では無い筈なのに、その視線が贅肉に溢れた躯体に向けられた瞬間を思い描くだけで、自然と息が荒くなる。
これで本当に勉強になるのだろうか……? とどこか冷静な思考が突っ込んだその時、水色の視線が知世を射貫いて、思わずぎくりと身体が跳ねた。
……ああ、多分今の自分はとんでもない顔をしている。
「うーん、これが解けてない……他の科目はまだいいけど、数学はやっぱり中学からだよな。教科書を持ってきて正解だった」
「っ……ふぅっ……」
「ん? ……知世、なにそんな物欲しそうな顔してんの? あ、尻は勉強の後だからな。ほら、まずはこれ解いてみて」
「あっはい……ええっ!? そんな、おあずけえぇ!?」
「一応ドーナツ座布団は用意したけどさ。プレイの後じゃ確実に座れなくなるし、何より満足して集中力が削がれるだろ? ……だから、つべこべ言わず、まず解く!!」
「はひいぃっ!!」
――流石はご主人様、自分のことをよーく分かっている。
ここで真面目に勉強をしなければ、きっと彼女は夏休みの終盤よろしく、素振りを延々と見せつけて知世の尻に満たされない煩悶を植え付けるに違いない!
(もうおあずけは嫌なのぉ! ううっ、何でこんなことに……)
お楽しみへの危機を感じ取った知世は、嘆きながらも慌てて差し出された問題を読み始める。
その頭から羞恥心という言葉は、とうに消え失せていた。
◇◇◇
それから、夢の中での生活はがらりと変化した。
自分が作り出した妄想とは思えないほど、ご主人様は教え上手だった。
「数学ならまあ、なんとかな」と謙遜しつつも、中学レベルの問題にすら頭の上にはてなマークを浮かべ首を傾げる知世に「良くそのレベルで、この志望校を選んだよな……」と呆れつつも、怒ることなく地道に説明を繰り返す。
時にはお手製の問題まで登場する始末で、自分の作り出した妄想とは思えない優秀さに知世は内心舌を巻いていた。
「にしても、知世の変態力は思った以上にぶっ飛んでるな……こんな凶器で尻を叩かれるためなら、嫌いな数学も全力で取り組むってか」
「えへへ……っ、うわぁ、思った以上にトゲトゲしてるぅ……」
「ったく、約束だから使うけど十回だけだからな! せーの、っと!」
「んぎっ!? ……はあぁ、痛いっ、刺さってるの痛いぃ、穴が開いちゃうっ!!」
パンッ、パン、パシッ……
「ご褒美」として導入された鋲の付いたパドル欲しさに、知世のやる気は上がる一方だ。
知世の皮膚が傷つかないよう随分手加減して打ってはくれているものの、いつもより鈍い音と鋭い打撃は想像以上に知世の心を抉って……絶叫と共に胎と頭が訳の分からない快楽で満たされる。
(あは……いたくて……でも、こころがほこほこする…………あたま、まっしろぉ……)
夢でも現実でも受験勉強に追われて、けれど頑張ればご主人様の手のひらが待っている――
いつしかスパンキングに込められた意味は変わり……そしてご褒美のスパンキングでは「ごめんなさい」の叫びが出なくなっている事にも、知世は気付いていない。
ただ、これまでと変わらない苛烈さと、これまで以上の温かな幸せが、ここには詰まっている。
……今の知世には、それだけで十分だったのだ。
「にしても、今日の知世はちょっと元気がないな。なに、食の頂に挑戦して腹でも壊したの?」
「あ…………その、ここに来る前に……」
「またかよ? 秋から明らかに頻度増えてるじゃんか!」
「うう、やっぱりそう思いますよね……」
一方で、夜の到来は増える一方だった。
ここ最近は二日と開けずやってきては、今まで以上に何かを塗り込め、染みつかせるかのような時間がこれまで以上に長く続く。
だからといって笑顔の出迎えも、漏れ出る甘い声も、何も変わらない。変えるわけにはいかない――
知世はいつもと同じように振る舞いながら、今日も泥に飲み込まれる。
それでも自分は生きていけると、少し悲しい微笑みを浮かべながら。
「何があったって、ご主人様はここで待っていてくれます。……それにこの手のひらを私は知ってますから、大丈夫です。ほら、もう半年切ってますし!」
「とか言いながら、明らかにしおっしおな顔してるじゃんか! ったく、手放すのが惜しいからって往生際が悪いにも程があるな……知世、こうなったら股間の一つでも蹴り飛ばしてやればいい。あ、正しい蹴り方くらいなら教えるけど」
「ひえぇご主人様が過激……だ、大丈夫です! それに……バレたらママが悲しんじゃう……」
どうしてここまで怒りを抱けるのだろうかと、知世は拳を振るわせこめかみに青筋を立てたご主人様の姿を不思議に思う。
知世の中には、嫌だなと思う気持ちはあっても、こんな全てを灰にしてしまいそうな怒りの業火は渦巻いていない、筈だ。
もしかしたらこれも、自分ではまだ自覚出来ない想いをご主人様が代弁してくれているのかも知れない。
だって、彼女の突きつける言葉はあまりにもまっすぐかつ予想外で……なのにいつも、自分の中の何かを揺さぶってしまうから――
「というかさあ、娘がこんなに苦しんでるのに気づきもしない母親なんか、わざわざ気遣う必要があんの?」
「え」
「…………っ、ごめん、言いすぎた」
「えっと……あ、あれ? 何で涙が……ひぐっ、ひぐっ……」
「あーもう、今のは忘れろ! ほら、泣いてる暇があったら問題解く!」
「っ、はいっ……!」
(……分からないや…………まあでも今は受験が優先だから、分からなくても良いのかな……)
名前の付かない感情と、理由を持たない大粒の涙。
いくら考えても、答えは出ない。きっとご主人様の前でだけ溢れ出るものの意味に気付くには、まだ早すぎるのだろう。
知世はそう結論づけてゴシゴシと涙を拭い、彼女の用意した問題に再び向かうのである。
そんな誰も知らない、倒錯した真面目な日々は着実に現実を動かしていて。
「……まさか短期間でここまで成績があがるとは……山吹さん、まだ気は抜けないけどこれなら第一志望も合格圏内に入りそうね。あと二ヶ月、頑張って」
「あ、ありがとうございますっ!」
知世が怪しい織物を学食のお兄さんから譲り受け……というより織物が家に押しかけて来た日から、季節は一回りする。
進路指導室で目の前に広げられた模試の結果には、明らかに伸びた数学の偏差値と、第一志望のB判定が記載されていた。
◇◇◇
「はぇっ!? こ、こんな所まで付いて来ちゃったの!? あわわ……あのっ、これ以上荷物は持てないから帰りも自分でおうちに帰ってね!」
その日、知世は人生で初めて新幹線に乗り、東京へと降り立った。
「東京は寒いらしいから」と母によりもこもこに着込まされ達磨のようになった知世は、案の定駅で迷子になり予定の時間を三時間も超過して、ようやく今日の宿へと辿り着いたのである。
そうして客室のドアを開けた瞬間、目の前に広がるベッドの上でさも当然のような顔をして鎮座する藍色の織物が目に入り、知世がへなへなと床に座り込んだのは言うまでも無い。
「……外は人だらけだし、ピカピカだし、喧しいのに……ここはすんごい静かだね、お布団さん」
耳鳴りがするほどの静寂の中、知世はブランケットを膝に掛けコンビニで買ってきたおにぎりとスイーツをもぐもぐと頬張る。
ベッドの上でブランケットを頭からかぶってご飯を食べるなんてお行儀が悪いけれど、今日ばかりは許して欲しい。
「あ…………そっか、今日は大丈夫なんだ……」
ふと目にしたスマホの画面。
そこに表示された時間に一瞬ぎくりと身体が強張るも、ふと辺りを見回して知世はほっと胸をなで下ろす。
そうだった、ここはあの家ではない。
故に22時半を待たずとも、ノックの音が響き渡ることはない――
「……凄いね。こんなに夜は穏やかだったんだ…………」
早々にシャワーを浴び、慣れた手触りの中に全身をすっぽり包んだ知世は、静謐な暗闇の中で誰に言うとも無く胸の内を零す。
あの夜が始まったのは……確か二年くらい前だったはずなのに、もう生まれてこの方こんな安らぎは知らなかったようにすら思えるほど、清らかであった日々は遠く感じられる。
「……」
思わずぎゅっとブランケットを握りしめれば、極上の織物はいつもと変わらない滑らかな手触りで、知世の心をそっと撫でてくれる。
まるで彼女を守るかのような藍色の繭に、知世は「ありがとう、お布団さん」と微笑みつつ、白くなる意識の中へと落ちていく。
「私、明日……頑張るから……」
この安寧を二度と奪われないよう、あの家から逃げるための明日が、もうすぐやってくる。
だから、今日はとびきりの安眠と……とびきりのお尻ぺんぺんが欲しいなぁと、この後に及んでぶれることのない願いを、きっと寝具は苦笑しながらも受け取ってくれたに違いない。
「むにゃ……ご主人様ぁ…………」
ふわりと淡い光を放つ寝具が織りなす小さな空間には、心から安心しきった寝顔だけが残っていた。
――なお、この後知世がご主人様から実に手荒い激励を貰ったのは、言うまでも無い。
「あの、ご主人様……」
「ああうん、まあ前日なら緊張でそうなるよな……で、今日は何にすんの?」
「軟膏塗りでお願いします! あ、痛みはお布団さんにしっかり全消ししてもらいますから」
「つまり心置きなく叩いていいってことな! いいよ。……その代わりこれで不合格だったら、ぺんぺんは暫くおあずけだから気合い入れて受けてこいよ?」
「えええ、そんなの聞いてないぃ!!」
◇◇◇
決戦の時というのは、案外あっさりと過ぎていくものらしい。
というよりあまりにも緊張しすぎて、時間の感覚もおかしくなっちゃっていたな……と知世は相変わらずもこもこに着ぶくれた姿で試験会場を後にする。
「つ……疲れたぁ……もう暫く数学は見たくないよぉ……にしても結構難しかったな、解けたとは思うんだけど……」
ダッフルコートを着込み、揃いのニット帽にマフラーという出で立ちで外に出れば、吐く息で眼鏡がたちまち曇る。
真っ白になった視界の中で、知世は不安を口にしつつも確かな手応えを感じていた。
(大丈夫、ご主人様の特訓は無駄になんてならない……!)
正直、第一志望の一般入試科目が英数国に小論文と知ったときには、何も考えずに回れ右しようとしたのだ。
けれど、今の知世にとって女子大という環境はあまりにも魅力的で、自分でもちょっと無謀かなとは思いつつもやっぱり諦めきれなくて。
結果、夏の成績に愕然としたご主人様による鬼のような宿題(そう、まさかの現実でやる宿題まで出されたのだ!)地獄をくぐり抜けた知世にとって、この大学は今や手の届かない場所ではない。
あの時思い切って決断した自分を、ちょっと褒めてあげたいなとにやける知世の耳に、賑やかな笑い声が飛び込んできた。
(……あ、附属校の子達かな)
キャンパスからバス停へと向かう道すがら、時折すれ違うのはセーラー服姿の学生だ。
白いラインが三本襟に入った、濃紺のセーラー服。タイの色が白と藤色の学生がいるのは、中等部と高等部の違いだろう。
古き良きお嬢様学校の名残を残しながらもどこかお洒落で、こういう制服も着てみたかったなぁと知世はちょっとだけ羨ましく思う。
(ま、私が着たら大変残念なことになっちゃうけどね! ほんっと、お腹の目立たないジャンスカの学校でよかったよ……)
時間的に、放課後のひとときなのだろう。
語らいながら歩く彼女達の姿は、自分と変わらぬ歳なのに何故か洗練されてどこか輝いて見える。これが都会の人というものだろうか。
きっとこの中には、春から学び舎を共にする子達も混じっている……
緊張とちょっとした興奮を覚えながら知世がぽてぽてと家路を急いでいた、その時。
「あ」
後ろから、小さな声が知世の耳に届いた。
◇◇◇
(…………?)
それは、普段なら決して気にも留めない通りすがりの誰かの声。
だというのに何故か足が止まって、振り向いてしまったのは――その身体に刻まれた何かが、思わず快哉を叫んだせいだろうか。
「ん? どうしたんですか、晃先輩?」
「……あの子、受験生かな。ちっちゃくてもっこもこ……あ、もしかして先輩の知り合いですか?」
「ああ。……ごめん、先行ってて。俺も終わったらすぐ行くから」
「はーい、カフェテリアで待ってますからね!!」
「今年は逃げちゃだめですよ! みんなチョコ持ってきて、ずっと待ってるんですから!」
知世の視界に映るのは、セーラー服に身を包んだ在校生集団だ。
五-六人はいるだろうか、その中でひときわ背の高いショートカットの女子が、取り巻きと別れた後ずんずんと近づいてくる。
(あれ? こっちに来てる……?)
濃紺の制服に藤色のタイを靡かせる、女性にしては肩幅が広く腰のくびれもない、ついでに胸の膨らみも見られない男の子のような身体。
どうしたのかなと何気なく眺めていた知世の瞳は……次の瞬間、大きく見開かれる。
「…………!!」
ようやく視認出来る距離になった、彼女の顔。
少し思い詰めたような表情で口を真一文字に結び、拳を握りしめて大股で姿勢を正しやってくる、その圧のある眼差しを……透き通るような緑がかった水色を、私は確かに知っている――!!
どくん
(そんな、そんなことって)
ざっ、と冷たい木枯らしが植栽を揺らす。
信じられない光景に、知世は瞬きすら忘れてその場に立ち尽くしていた。
「あ…………」
掠れた声が、喉を震わせる。
いつもの逢瀬と異なり布に覆われた身体は、まるで全てが心臓になってしまったかのようだ。
あまりの緊張に思わず息を吸い込めば、喉に突き刺さるような冷たさがこれは現実だと囁きかけてくる。
(夢じゃ、ない)
何より、昨日寝具が全て治してくれたはずのお尻が、熱くて……じんじんする……!
(足……ちゃんとある、幽霊でも、ない……っ!)
――そう。
今にも雪が降り出しそうな鉛色の空の下、目だけが外気に晒された知世を真っ直ぐに見下ろすのは
「…………知世」
「う、そ…………まさか、ご主人、様……!?」
この一年あまり知世に祝福をもたらしてくれた、あの美しい手のひらの持ち主だったのだ。