第7話 もう一つの泥
「……ごめん!!」
「へっ、あっ、あのっ……」
木枯らしが吹きすさぶ、構内の一角。
呆然と佇む知世の目の前で、セーラー服に身を包んだご主人様が突如謝罪を叫び、深々と頭を下げる。
(うわぁ、ぴっしり直角のお辞儀が綺麗……じゃなくて!! 何で? どうしてご主人様が、ここにいるの!?)
突如知世の眼前に繰り広げられたのは、信じがたい現実だった。
夢の中の住人が――己の変態願望を叶えるために作り出したはずのご主人様が、確かに現実の質量を持って今知世の前に立っている。
知世は思わず頬をつねろうとして……ミトン型の手袋じゃ無理だと、右手で思い切り太ももを打ってみた。
ぽふん
(……うん、これじゃ夢か現実かなんて、全然分からないよね!)
そんな知世の動揺を知ってか知らずか、がばっと頭を上げたご主人様は「あの」と聞き慣れたハスキーな声で、目の前のもこもこした塊に話しかける。
「ここじゃ寒いしさ、その、良かったらカフェテリアでお茶でもしていかないか?」
「え、えっと……」
「色々話したい事があるんだ。時間がよければ少しだけでも」
「時間……はっ!! そうだ新幹線!! すみませんご主人様、今から駅で三時間迷子になる予定なので、時間ギリギリになっちゃいます!」
「いやそれは迷いすぎだろ!! ……はぁ、知世は現実でも知世なんだな……」
どうやったらあそこで三時間も迷えるんだ? と頭を抱えながらも、彼女は鞄からすっとスマホを取り出す。
そうして「なら、連絡先交換して」と通話アプリの画面を知世に見せた。
「これ、アカウント持ってる?」
「あ、はい、持ってます」
「んじゃこれ俺のアカウント、登録して俺にチャット送って」
「はい……」
登録したばかりの連絡先に「ご主人様」と送れば、軽快な通知音が彼女の手元から鳴り響く。
画面を確認したご主人様は「帰ったら連絡して」と言うが否や、知世の腕をがしっと掴んでずんずんと歩き始めた。
「はへ、ちょ、ご主人様っ!?」
「東京駅に行くんだろ? バス停はこっち。今、反対向いて歩いてたの、気付いてる?」
「……全然気付いてませんでした……」
「だろうと思った。南門まで送ってやるからさ、出たらすぐ左側にバス停がある。240番のバスに乗って終点、いいな?」
「はい……ご主人様、よく知ってますね……」
「そりゃ、調べたからな」
「え」
どういう事? と訊ねようとするも、いつの間にか二人は大学の敷地外に出ていて。
彼女の指さす先には、同じく受験生であろう制服を着た学生たちが並んでバスを待っていた。
「俺、すぐ戻らないといけないからさ。いいな知世、真っ直ぐ家に帰れ。美味いものに気を取られるな。おやつあげるって言われても、知らない人には付いていくなよ!」
「だっ、大丈夫です! 私だって子供じゃないんですから……はっ! あれは地元には無いコンビニ!! ちょっとスイーツをチェックして、うにゃあぁいひゃいれすぅごじゅじんしゃまぁ!!」
「だから!! 寄り道せずに、帰れ!!」
「はひいぃ!!」
両の頬を冷え切った……あの美しい指で全力で横に引っ張られ。
低くドスの効いた声と圧を込めた視線に、知世は泣く泣くコンビニ巡りを諦めバスに乗り込んだ。
「…………ご主人様、だよね……どう見ても……」
駅へと向かうバスの中、知世は真っ赤な痕が付いた頬を潤んだ瞳で擦りながら、スマホを取り出す。
立ち上げたアプリの連絡先には、確かに今までなかった「ご主人様」の四文字が輝いていて。
「妄想じゃ、なかったんだ……」
少なくとも、あの学校の制服に身を包んだ彼女は、幻覚ではなかった。
この一年あまり、何度も射貫かれた水色の瞳。女性にしては少し低くてハスキーな声。
そして何より……知世の尻を楽しそうに打つ、すらりとした女性らしい綺麗な手のひらと、そこから与えられた頬の痛みは夢よりもずっと鮮烈で。
「もう訳が分からないや……」
人生初の東京に、受験に、突如知世の世界へと顕現したご主人様。
頭の中は立て続けのイベントにとっちらかったまま、それでも別れ際の痛みが気を持たせてくれたお陰で、知世は予定通り地元へ向かう新幹線へと辿り着く。
「…………次は、あのコンビニに寄るんだ」
空が少しずつ色を変える中、希望の街はあっという間に遠ざかっていく。
出来ることは全てやった。後は良き結果を祈るだけ――
そんな願いを込めた言葉が、知世の口からほろりと零れ落ちる。
ぎゅっと握りしめられたスマホの画面には、まるで何かを確かめるかのように、いつまでも「ご主人様」のアカウント情報が表示されていた。
◇◇◇
「お帰り、知世。……試験、どうだった?」
「んーまあまあかな。あっ、ご飯食べたら友達と通話するから、部屋に入ってこないでね」
「はいはい、学校のお友達?」
「あ、えっと……進路を決めてる時にネットで知り合った子。で、今日受験会場で会って……」
「あらあら、じゃあ春からは同級生になるのね!」
「んもう、ママったらまだ合格は決まってないってば」
家に辿り着いたときには、夜の8時を回っていた。
夕食もそこそこに知世は寝支度を済ませ、とんとんと軽い足取りで自室へと向かう。
(ちゃんと、パパにも聞こえるように言ったし……大丈夫だよね……)
自室に向かう知世の顔には、友達と話すとは思えないほどの緊張が浮かんでいるし、足音なんて喧しいほどの心臓の音にかき消されて、全く聞こえやしない。
それは、いつもの夜への警戒故か……それとも、これから繋がる現実への、ぐちゃぐちゃになった気持ちのせいだろうか。
『ご主人様、家に着きました』
『分かったちょっと待ってな、こっちからかける』
『はい』
(……来る…………ご主人様が、現実にやって来る……!)
短いやりとりの後、しばしの静寂が知世を取り囲む。
時間にすればきっと一分にも満たなかったであろうそのひとときは、まるで永遠に続くかのようで。
喉に詰まった重いものを思わずごくりと飲み込めば、聞き慣れたアプリの通話音が部屋に鳴り響いた。
「あ、あわわわ……」
知世は震える指で画面を連打する。
何度目かのタップでボタンに当たったのだろう、画面は暗転し……次の瞬間、ぱっと小さなディスプレイにショートカットの女性が映し出された。
「見えてる?」
「あ、はい。……えっと、カメラカメラ……」
「……ビデオ無しが良ければ切るけど」
「ううん、つけたいです……あった、これだ……」
スマホを充電器に繋ぎ、知世はよいしょ、とベッドの上に上がる。
ご主人様の向こうに見えるのは、飾り気のない部屋。
多分彼女の自室なのだろう、その殺風景さはご主人様によく似合ってるなとひとりごちつつ、知世はカラカラになった喉から、何とか声を絞り出した。
「あっ、わ、私、山吹知世、ですっ」
「ん。俺は八束晃(やつか あきら)晃って呼んで」
「あ、はいっご主人様! …………はっ!!」
「……うん、まあ呼び慣れてるもんな、それでいいよ。あと、そんなに緊張しなくても取って食やしない」
「ご、ごめんなさい……」
(うはぁ……改めて見ると、思ってた以上に綺麗な人だった!! 画面越しなのに眩しい……!)
思わずその場で土下座をかます知世に「本当に知世なんだな」とご主人様――晃はどこか感慨深げだ。
知世の方はというと、浴び慣れた視線と普段は見えなかった表情に、早速脳みそが沸騰してしまいそうである。
「ちゃんと新幹線に乗れたんだな、良かった」
「すみません、心配かけちゃって……あの、ご主人様は……あの制服はコスプレじゃ、ないですよね?」
「流石にセーラー服のコスプレをする趣味はないな。俺、あそこの学生だよ。といっても、もうすぐ卒業だけど」
「てことは……え、ご主人様って私と同い年!?」
「学年は一緒。歳は一つ上だけどな、俺一年休学してるから」
まだ信じられない? と晃はスマホを放り出して何かを取りに行く。
暫くして戻ってきた彼女の手に握られていたのは、紛う事なき知世が受験した女子大の附属校の学生証であった。
少し前の写真だろうか。今よりもずっと目つきが鋭い女の子が、どうにも似合わない制服を着て、実に機嫌が悪そうに写真の中に収まっている。
『そりゃ、調べたからな』
ご主人様はこれまでもずっと、同じ空の下で自分と同じように生きていた……
ようやくその事実を飲み込めた知世の脳裏に蘇るのは、帰り際さも当然のように返された、晃の一言だ。
まさかと思い、知世は恐る恐る彼女に問いかける。
「……ご主人様、もしかして私が夢の中の存在じゃ無いって気付いていたんですか? 今日も、あそこで逢えたのは……」
「まあな。志望校は模試の結果で知ってたし、国際文化学部の受験会場は調べた。だから出口で待ってたら、もしかしたら逢えるかなって思って……お陰であいつらに掴まっちまって、大量のチョコを持って帰る羽目になったけどさ」
「ああ、今日バレンタインですっけ。ご主人様、あんな怪しい格好しなきゃ普通に綺麗なのに……」
「あはは、夢の中の格好はヤバいよな。……ま、そういうわけで俺は、多分知世が思ってるよりずっと前から知っていたんだ。この小ブタちゃんは俺の作り出した都合の良い夢の産物じゃない、どこかに実在する誰かだってな」
「そっか……」
晃の告解に、知世はしょんぼりと肩を落とす。
なにせ自分ときたら、今日彼女に会うまで「もしかしたらご主人様は現実にいるのかも」なんて一ミリたりとも思いつかなかったのだから。
「どこまで鈍感なの、私……」と知世は思わず乾いた笑いを零す。
そこにはちょっとだけ「そんなこと無い」「気にするな」という定型的な慰めへの期待が滲んでいて。
……しかし残念ながら、相手はあのご主人様である。
彼女が知世の小さな嘆きに「だよなぁ」と全面的に賛同するどころか、更なる追撃を知世に打ち込むのは、少し考えれば自明であろう。
「てかさ、どう見たって知世と俺は別人にしか見えないだろ? 自分の中に、あの数学の知識が眠っていたと本気で思っていたわけ?」
「ぐっ、それを言われると痛い」
「夢に持ち込んだ中学の教科書や参考書だってさ、あれ全部俺の私物だよ? 同じ会社の教科書を使ってたってさあ、汚れとか傷を見りゃ自分のものかどうかくらい一発でわかるっしょ! 最初のレベルから想像するに、きっと知世の教科書はまっさらだろうし」
「ううう、何で分かっちゃうのぉ……」
知世は、おやつとスパンキングがかかるとびっくりするほどチョロい子になるよなと、画面の向こうから呆れ果てた顔で次々とこれまでの事実を陳列していく晃に、知世はもう恥ずかしさと情けなさで布団から起き上がれそうにない。
(あああ、やっぱりご主人様はご主人様だった!!)
何という歯に衣着せぬ人なのだ。もしかしなくても、夢の中ではあれでも気を遣われていたというのか……
叩かれてもいない尻に痛みを感じ、そろそろ床にめり込みそうなほど凹まされた知世は、けれどふと気付く。
……いつもならこういうやりとりの時には、へらりと笑顔を浮かべて「みんな」が期待する知世の形を演じなければならないのに、今日は何一つ上手くいかないな、と。
(……そうじゃない。私……ご主人様には笑わなくてもいいんだ)
そうして知世は、これまでに無かった関係が二人の間に展開されていることを、今更ながら気付かされる。
辛辣なやりとりは、友達という関係を維持するための定型文ではない。
多分、晃は知世の前で飾らない素の自分を曝け出している。
同じように晃の前では、知世はいつも通り丸裸になってたぷたぷの贅肉をその美しい瞳の前に晒し、己が欲望を口にして与えられた痛みに悶えることが、許されているのだと――
(ああ、ここは現実なのに……夢の中と同じくらい、温かいや)
胸の高鳴りは消えずとも、知世の心の中は軽く、そしてどこまでも澄み渡っていて。
知世は晃の容赦ない指摘に「そうです私はチョロいんですぅ……」と半泣きになりながらも、胸に灯る温もりに初めての心地よさを覚えていた。
◇◇◇
「まずはこれから、だよな。ちゃんと確かめておいた方がいいだろ?」
「これ? ……あ、まさかそれ……!!」
「そう、俺らが夢の中で逢った元凶。知世も持ってるよな」
ひとしきり悶絶する知世を堪能したお陰だろうか、どこかご機嫌な様子の晃であったが、ふと表情を引き締めると傍らから何かを画面に向かって差し出す。
一瞬にして画面の大部分を覆った藍色に、知世は思わず素っ頓狂な声を上げた。
(……あれは……同じ、お布団さんシリーズ!?)
晃の手に握られていたのは、深い藍色の端に差し込まれた桃色のグラデーションが美しい、東雲の空を模したような織物だった。
ただ、知世のブランケットと異なり随分と小さい。
「同じ色をしてる……ほら、私のはブランケットなんですけど」
「こっちは枕カバーなんだよ。って、でっか!! え、お布団とは聞いてたけど、それどう見ても一人用じゃないよな!?」
「お布団でかまくらが作れちゃう位には大きいですね」
ちなみにどうやって手に入れた? と訊ねる晃の言葉に、知世はあの日のことを振り返る。
学食の麗しい青年に、最近食べっぷりが悪いと指摘されたこと。
そこから不眠の話になり、それならばとこの馬鹿でかいブランケットを手渡された……ものの、あまりの怪しさに丁重にお断りして逃げ出したこと――
「で、家に帰ったらベッドの上に綺麗に畳まれた状態で置いてあって……両腕を突っ込んだらめちゃくちゃ気持ちよくて、一瞬で三時間が溶けてました」
「……どうしてあからさまに怪しい物体に、躊躇無く腕を突っ込めるかな……まあいいや、つまり知世を餌付けしている料理上手のお兄さんに貰ったんだな」
「そんな、餌付けだなんて……否定出来ませんけど!」
「知世はまず、おやつでチョロい子になるのを何とかした方がいいと思う」
ま、気持ちいいのは同感だけどな、と晃は枕カバーに頬を擦り付ける。
ほうと一瞬だけ緩んだ笑顔は、知世が見たことがない無防備で柔らかな雰囲気を纏っていて、ようやく緊張の解けてきた胸が再び早鐘を打ち始めた。
(……はっ! み、見惚れてる場合じゃ無いのよ知世!!)
その穏やかな顔をずっと見ていたい……突如湧いた気持ちに動揺を覚え、知世はそんな不埒な考えを振り払おうと知世は「ご、ご主人様も誰かから譲り受けたんですか?」と慌てて話題を振る。
だが、その答えは完全に知世の想像を超えたものだった。
「ああ。ちょっと電車で鳩尾に正拳を叩き込んだおっさんから」
「はえ!? な、なんか情報量が多すぎるんですけど……!?」
(待って? 東京の電車って、そんな気軽に殴られるような修羅の世界なの!? しかも殴った相手に贈り物を貰う? それって、むしろ奪ったって言うんじゃ……)
おかしい、気持ちを落ち着けるための質問が、更なる混沌を作り出してしまった……
顔を赤くしたり青くしたりと忙しい知世の様子にようやく気付いたのだろう、画面の向こうから「……知世、東京は怖くない」と実に説得力の無い慰めが返ってくる。
信じられないとばかりの眼差しを返せば、画面の向こうのご主人様は暫く沈黙を貫き、やがて何かを決心したかのように重い口を開いた。
「……ま、ちゃんと話そうって決めたしな」
「ちゃんと、ですか? え、東京の恐ろしい真実を」
「そうじゃない。……俺のこと、多分凄く長くなるけど、話聞いて貰える?」
「! ……もっ、もちろんです!!」
(ご主人様の話かぁ……そういや一年以上お尻ぺんぺんして貰ってるのに、ご主人様の事は何も知らないんだよね、私……)
一も二も無く、知世はどこか嬉しそうに頷く。
知世だって誰にも話したことが無かったこの穢れの事を、そしてそこから始まった今へと繋がるたくさんの話を聞いて貰ったのだ。
今度は自分が、彼女の話を聞く番。
何より今は、ただ純粋にご主人様のことを知りたい――
きっとそんな気持ちが溢れていたのだろう。
晃はどこか眩しそうにすっと目を細め、そして……大きく息を吸って、真っ直ぐな瞳で知世を見つめながら、長い話を始めたのだった。
◇◇◇
晃は、小さい頃からとかくやんちゃな女の子だった。
不動産業を営む両親の元に生まれた、男女の双子の片割れ、それが晃だ。
名前の由来は「性別がはっきりしなかったから、男女どちらでも使える名前を生まれた順番に付けた」という、実に適当なものだったらしい。
空手を始めたのは、四歳の時。
両親が通う道場に連れて行かれた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
元はと言えば、引っ込み思案で泣き虫な双子の兄が少しでもしっかりするように、そして四歳にして気の強さを存分に発揮し、近所の小学生にすら喧嘩を売りに行ってしまう晃が少しでも落ち着けば……という想いで習わされた空手だったのだが、往々にして親の思うとおりに子供とは育たないものである。
案の定、晃はますますそのやんちゃさに磨きをかけ、兄や五つ年下の弟、そして近所の男の子たちを従える立派なガキ大将となってしまったのだ。
「……ご主人様は、小さい頃から強かったんですねぇ……」
「いや、俺は普通だって。旭や陽……あ、兄貴と弟な、あいつらが大人しすぎたからさ。特に旭を虐めるやつらを片っ端からなぎ倒していたら、いつの間にか子分が増えて」
「ひえぇ、無自覚な武勇伝だ……」
そんなはっちゃけた晃に、両親は随分頭を抱えたらしい。
結果、お嬢様学校として有名な女子校に入れれば少しは落ち着くのでは無いかというこれまた安直な結論に至り、晃は半ば無理矢理女子大の附属校を受験させられてしまう。
当初は女子校なんてガラじゃ無いと強く反発していた晃であったが、通い出してみれば案外楽しくて。
相変わらず道場にはせっせと通い腕を磨く一方、学校では早々に伸びた身長とそのやんちゃな性格がむしろ周囲を惹きつけ、友人にも恵まれて充実した学生生活を送っていた。
周囲がどんどん女性らしさを身に付けていく中で、何故か胸は一向に育たなかったけれど、稽古をするにはその方がむしろ好都合だとさえ思っていた。
それでも、いつかは周りの子と同じようにお洒落をして、好きな人を見つけ、両親のように幸せな家庭を築くのだろうと……そう、何の疑いもなく生きていたのだ。
「……馬鹿だよな、真面目に生きていれば当たり前の幸せが壊れることは無いって、純粋に思い込んでさ」
「…………ご主人様……っ!?」
蕩々と語っていた晃が、ふと口をつぐむ。
どこか思い詰めた表情のご主人様から、瞳の奥に宿るかすかな濁りを画面越しに見出した知世は、思わずひゅっと喉を鳴らした。
(嘘でしょ、なんで……ご主人様の目に……!?)
その目には見覚えがある、なんてものじゃない。
あれはどれだけ笑顔を作っても消えない、けれど誰も気付かない……鏡の中の自分に纏わり付く、泥を流し込まれた淀みと同じ物――!
「ご主人様……そのっ……」
「……全部、話すよ。知世だって話してくれたんだ。俺だけ隠すのはフェアじゃ無い」
「っ…………」
知世の気遣いに「ありがとな」と微笑む顔は、どこか悲しげで。
つきりと胸に突き刺さる痛みは、泥に沈められる夜よりも……ずっと苦しい。
「…………」
「……ご主人様…………」
震える唇が、何度も言葉を飲み込む。
一体どのくらいの時間が経っただろう……ようやっと晃の口から語られたのは、知世とはまた異なる、もう一つの泥の顛末だった。
「……今から四年くらい前。あの日、形ばかりは女だった……いや、これから女になれるはずだった『八束晃』は、死んだんだ」
◇◇◇
自分は、そこら辺の男よりよっぽど強い、そう晃は思っていた。
実際に道場の中でも同年代では一番の実力者だったし、屈強な男たちとも互角に渡り合っていたから。
けれどあの日、長年鍛練を積んだこの身体は強張り、磨いてきた腕は何一つ活かせぬまま、自分はただ無力な何かへと成り果ててたのだ。
「早い話が、痴漢に遭ったんだよ。一学期の中間試験初日の朝に、電車の中で」
「…………痴漢、ですか」
満員電車の中だから、身体に何かが触れるのは日常茶飯事だった。
だからお尻に何かが触れたのも、最初は気にしていなかった。
けれど、その手はどんどんと大胆になり……逃げたくても混雑した電車の中では避けようが無く、そして――
「スカートの中に、手が入ってきたところまでは覚えてる。……次に気がついたときには、目の前ではげたおっさんが乗客に取り押さえられていて……俺はただ、震えながら立ち尽くしていたんだ」
ふと冷たい感触を手のひらに感じて。
見ればスカートには、濁った淀みが染みを作っていて、それを見た瞬間目の前が真っ赤に染まって――再び、晃の記憶はそこで途切れている。
その日からしばらくの記憶は、曖昧だ。
連絡を受けるや否や、仕事を放り出して駆けつけてきた両親は知らないおじさん――どうやら懇意の弁護士だったらしい――を伴っていた。
そうして、お家になかなか帰れなくなるよ? と放心状態の晃にそれとなく示談を勧めていた警察官を一喝し、即座に被害届を出して厳罰を希望すると宣言したらしい。
結果初犯だった犯人に下った判決は、執行猶予付きの懲役刑。
愛娘を穢された両親の怒りは凄まじく、民事でもかなりの損害賠償をむしり取り、犯人は職を追われ一家離散……恐らく、被害者のなかでもかなり溜飲の下がる結果となったのだと思う。
けれど、どれだけ相手が社会的に没落しようが、はした金を得ようが、一度流し込まれた泥は濯がれることはない。
それどころか、時が経つにつれますます晃の心身を蝕んでいく。
「身体の方は、特に傷つけられてなかったからさ。基本的にはずっと、心療内科でカウンセリングを受けてたんだ。学校なんてとても通えなかったし、診断書を書いて貰って夏休みまでの二ヶ月丸々自宅学習ってことになったんだ」
「……ご主人様も、辛かったんですね」
「まあ、な。でも知世に比べたら随分恵まれていたと思うよ。俺には全面的に味方になってくれる両親も、ずっと帰りを待ってくれてた学校の友達や道場の仲間たちもいたから」
季節が巡るにつれ、少しずつ涙が出る日も、あまりの恐怖に叫び暴れるしかできなくなる日も減ってくる。
気分が良い日は、家を訪れた友人たちと少しだけ話すこともあった。
夏休みの終盤でようやく医師の許可が下り、まずは親による送迎と保健室への短時間滞在から少しずつ学校へ復帰しようとなった、夏休み明け初日。
やっと元の生活への一歩を踏み出せる……そんな希望を誰もが抱いていたというのに、現実はあまりにも残酷だった。
『はぁっ、はぁっ……おぇっ……いやだ…………こんなの……ひゅっ、ちく……しょう…………っ……』
『晃? 晃っ、しっかりして!! お父さん、晃が倒れたの! すぐ救急車を――』
新調した制服を身につけた途端、激しい吐き気と呼吸苦に襲われて。
晃はその場に倒れ込み、そのまま病院に運び込まれることとなる。
「制服が、だめだった……?」
「正確には女物の服が着られなくなっていたんだ。見るのは平気なんだけどさ、袖を通すだけで息が出来なくなって、胃の中のものを全部ぶちまけちまう」
「そんな……あれ、でも被害に遭った当初は……?」
「それがさ、俺女の子っぽい服って一着も持ってなかったんだよ。クローゼットの中だけ見たら、兄貴と変わらないレベルでさ。ユニセックスなTシャツとジーンズとか、スウェットとか……」
「……まさか、それで誰も気付けなかった、なんて」
「そのまさかだったんだよ。今から考えると、ギャグみたいな話だけどさ!」
晃の通う女子校は、いかなる理由があっても制服や指定された防寒着以外の着用を認めていない。
そして晃のPTSDは当初考えられていたよりもかなり重症で、年単位での治療が必要だろうと医師からも改めて診断される。
とてもではないが、彼女が復学出来る日は来ない――
誰もがそう諦め、両親も晃に私服登校の出来る学校への転校を勧めてきた。
けれど、晃は頑として首を縦に振らず
『ここで諦めたら、あんなクソ野郎に人生全部奪われてしまうじゃん! そんなの、絶対に嫌だからなっ!!』
『晃……気持ちは分かるけど、これで何回倒れたと思ってるの!? 闇雲に慣らせばいいってものじゃないのよ!』
『だって他にやり方はないじゃんか! なら、気合いで乗り切る……ひゅっ……かは……っ……』
『あああもう!! ほら晃、ゆっくり息を吐いて……!』
――全てを気合いでねじ伏せようという、実に脳筋らしい解決法を選んだのである。
「……ご主人様、それは解決法なんですか……?」
「あーまぁ、医者にも止めとけって言われたけどさ。でも他に良さそうな方法も無かったし、年単位で時間なんてかけてられないだろ。ここは一つ、鍛え抜いた身体と根性で何とかしようと」
「私も大概チョロいですけど、ご主人様も負けず劣らずの脳筋ですよね!!」
そんな周囲にとっては傍迷惑な、しかし本人にとっては至極真面目な訓練の日々が続いた、年末のある日。
SNSを見ていた兄が「なぁ、この男装かっこよくね?」と見せてきたあるアニメキャラのコスプレに、晃は天啓を得たのである。
「……早い話がさ、女物の服を着て女になるのがだめな訳じゃん。なら体型補正下着で男の身体になって制服を着ればただの『女装』になるから、大丈夫なんじゃ無いかって」
「あのう、私ご主人様が、実は賢いのか馬鹿なのか分からなくなってきました……」
「いーじゃん、まあ兄貴にも散々笑われたけどさ……結果として、これが正解だったんだし」
人間、窮地に追い込まれれば、常識に囚われない策を思いつくものである。
母と結託して様々な補整下着を試した結果、ようやく晃は多少不快感は残しながらも制服が着れる男性の身体(?)を手に入れ、めでたく倒れた日から一年後の秋に復学を果たしたのだった。
◇◇◇
「てわけで、俺は学年こそ知世と一緒だけど、歳は一つ上ってわけ」
「そっか……」
「犯人は社会的な制裁を受け、被害者は紆余曲折あったものの取りあえずは以前の生活を取り戻した。これで一件落着、元に戻れて良かったね……とまあ、世間は思ってる」
「え? ……全然終わってない、ですよね? 何で?」
晃の男装に込められた執念に、知世は圧倒される。
自分とは異なり自らの力で――大分無茶はしたようだけど――普通の欠片を取り戻した彼女は、とても一つしか歳が変わらないとは思えないほど大人びて見えて。
けれどそんな晃の口から、何でもないようにあっさり紡がれた周囲の認識に、思わず知世は色をなし「どこが一件落着なんですか!」と声を張り上げた。
そんな彼女の剣幕に、晃は「知世はどうしてそう思う?」と静かに問いかける。
真っ直ぐに向けられた瞳に浮かぶ淀みが全てを物語っているけれど、きっと彼女の欲しい答えはそこじゃない――
知世は感情が抑えきれないまま「どうしてって」と口を開く。
「だってご主人様、今もずっとその下着を使っていますよね? 夢の中でだって……男の子の格好をするときだって、ちゃんと体型を補正して」
「単に男物の服を着ているより、この方が安心していられるからさ。脱ぐのは寝るときと、後は稽古の時だな、流石に暑いから」
「それは、全然元通りじゃないじゃないですか! ……それにっ、本当に普通の幸せに戻れていたなら、お布団さんの親戚はご主人様のところに来るはずがない……っ!!」
「…………ああ、それはそうだよな」
溢れる感情に溺れ、くしゃりと顔を歪め大粒の涙を浮かべる知世を「俺は、大丈夫だから」と晃は優しく慰める。
……きっと、彼女も分かっているのだろう。その言葉は全く大丈夫では無いことも、そして笑顔の向こうに詰め込まれたままの泥に、知世が気付いていることも。
「さっきも言ったけど、俺は知世みたいにたった一人で耐えてきたわけじゃない。ま、当初は誰も信じられなくなって暴れたり飛び降りかけたりしたけど、それでも絶対に手を離さず味方でいてくれた両親や仲間がいるんだ。だから」
「ひぐっ、ひっく……でもっ、今だってご主人様は、いっぱい辛い……!!」
「それは……ああうん、お互い比べるのは無しだよな、ごめん」
部屋の中に、知世の泣きじゃくる声と、空調の音だけが静かに満ちる。
夜のひとときよりずっと、ずっと胸が痛い――
知世はご主人様を穢した淀みの深さに涙し、そして……あの日の言葉に思いを馳せる。
『クソみたいな現実ってのは、てめぇの拳でぶちのめして、無理矢理変えるしかないんだよ!!』
――知世が笑いながら、初めてあの人の話をご主人様に打ち明けたとき。
虐待という言葉も、逃げるという選択肢もどこか遠い世界のものとして耳を塞ごうとした自分に、彼女は一体どれだけの想いを込めて、あの言葉を叫んだのだろうと。
「……何も変わっちゃいないさ」
やがて、苦しそうな声が画面から聞こえてきた。
知世はティッシュを抱え、時折鼻を啜りながら、ただ晃の独白に耳を傾ける。
「一日たりともあの日のことを忘れることはないし、今だってふとした瞬間に、訳もなく叫び出しそうになる。元々制服以外が男っぽい格好だったから、余計に元に戻ったように見えるんだろうけどさ……俺の中にはずっと、あれから男という生き物へのどす黒い感情が渦巻いたままだ」
◇◇◇
復学した後も、通学は特例で親による送迎が認められた。
事件のあった電車は恐怖で足が竦んで乗れない――それは被害者であれば当然の反応だろうし、無理強いをして再び症状が悪化しては元も子もない。
ただ、晃の場合はそれ以上に厄介な理由で、電車通学を断念せざるを得なかったのだ。
『晃ぁちょっと数学教えてー……って何見てんの?』
『っ、ノック位しやがれこのクソ旭!!』
『おっと危なっ、いきなり裏拳は殺意が高いぜ? で、晃ってSM好きなの? 男の玉潰し動画とかヤベぇ、ガチ変態じゃん』
『二次元百合専に言われたくねえよ、このキモ旭が』
自室で動画を堪能していた晃は、双子の兄の旭が近づくや否や、見事な裏拳を顔面に向かって決めようとする。
すんでの所でその攻撃を躱した旭は「ホント空手を習わされてて良かったわ、じゃなきゃ今頃晃に殺されてる」と笑いながら、それでも懲りずに数学の問題集を足でずい、と晃の方に寄せた。
『ったく、メッセで送りゃいいじゃんか。タブレットあるだろ?』
『だってさぁ、タブレットじゃ頭に残らないし』
『そりゃ旭の頭が悪いだけ』
『ひでぇ』
まったく、とため息をつきながら、晃はいつものように兄の宿題を手伝う。
……本当に、今日も兄を傷つけずにすんで良かったと苦々しい思いを抱えながら。
「手が、出てしまう……?」
「無意識にな。男が近寄ってきただけで、ガチで殺す気で殴ったり蹴ったりしちまうんだ。うちの家族はみんな小さい頃から道場に通ってるからさ、怪我するのは十回に一回くらいなんだけど……普通の人なら下手したら骨くらい折れちまう」
「ひょぇ、晃さん実はめちゃくちゃ強いんじゃ……あっもしかして動画を見るのも、される側じゃ無くて」
「あー、知世はされる側でスパンキング動画を見てたんだな? 俺は逆、する側で……男に加虐する側で動画を楽しんでた」
晃に染みこんだ泥は、己への不甲斐なさと無力感、そして男という生き物への怒りを纏った、苛烈な嗜虐嗜好へと彼女を捻じ曲げた。
男とみれば、無意識のうちに見境無く殴りつけ、急所を蹴り上げようとする。
触れるなど論外、間合いに入られるだけですっと目が据わり、戦闘態勢に入ってしまうのだ。
悶絶する男の姿を眺め、カエルの潰れるような悲鳴を聞けば、うっそりと笑みを浮かべる――そんな自分に気付いたときの絶望は、被害に遭ったときの比ではなく深かったという。
悲嘆に暮れるのも無理はない。小さい頃から鍛えてきた、己と誰かを守るための力をどす黒い欲望のために使ってしまったのだから。
これでは電車はおろか、街を歩くことすらままならない。学校でも男性教師が近づくのは危険すぎる……
復学後三ヶ月続いた保健室登校の中で晃は学校と交渉し、男性教師の授業は別室でオンライン受講とするなど、様々な配慮を得ることとなった。
これは晃が学年でも五本の指に入る成績を収めていたからこそ実現したもので、また両親からそれなりの額の寄付が学校に寄せられたことも大きかったと聞き及んでいる。
「一応女性専用車両なら大丈夫だけど、いつもあるわけじゃないだろ? それに駅の問題もある。どうしても電車に乗らなければならないときは、友達が周りを取り囲んでくれるんだ」
「あー、ご主人様の親衛隊状態ですね……いいお友達なんだ」
「……そだな」
ちなみにその対象となったのは家族も同様で、ただ長年稽古や激しい兄弟喧嘩という形で研鑽(?)を積んできた父や兄弟達は「もっと強くならないとなぁ」「無意識に殺されちゃ浮かばれない」と軽口を叩きながらも、決して晃を責めることはない。
大切な家族の苦しみに寄り添うのは当然のこと――そんな優しさが、余計に晃の罪悪感を募らせる。
「動画を見始めたのは、ああ言うので発散すれば少しでもマシになるかなと思ったからなんだ。……ただ、むしろ股間をみじん切りにしたい欲が増すばかりで……そのうち百合系のSM動画ばかり見るように」
「待って、どうしてそこで百合に!?」
夜な夜な動画を漁り、男の苦悶の表情と泣き叫ぶ声を聞けば、自分の中のどす黒い何かが少しだけ洗い流された気がして……けれど手が出なくなる日は一向に来なくて。
それどころか、醜いオス共を嬲っては高笑いするような夢ばかりを見るようになった晃は、これではいけないと……よりによって兄に相談し、案の定百合を布教されてしまったらしい。
『百合の(甘々な)動画を見たら、晃の心も浄化されるんじゃね』
『なるほど、百合の(ガチハードペインプレイ)動画なら……見てみるか。ありがとな、旭』
意外にも、抑えきれない殺意の湧かない女性とのプレイ動画は、心穏やかに楽しむことが出来て。
男への憎しみは何一つ消えないけれど、無意識の衝動は以前に比べると押さえられるようになってきたから、まんざら兄の提案も的外れでは無かったんだよと晃は笑う。
……なお、そんな兄に礼だとお気に入りのハード百合SM動画を教えたら「俺の欲しい百合はこんな酷いものじゃない」と泣かれてしまった。実に解せない。
「まあそんな感じで、家族にも友人にも随分助けて貰いながら、何とか普通っぽい生活はしてきたわけ。でもさ……消えないんだよ、何一つ」
「…………そう、ですよね」
「俺、こんな性格だからさ。それでも気合いだけで何とかやってきて……でも復学して一年経っても、全然元に戻れる気配がなかったんだよな。正直、人生のどん詰まりって状態で……そんな時に」
「枕カバーがやってきたんですね」
知世の問いかけに、晃は頷く。
そして遠い目をして……ちょっとだけ苦々しさを纏わせて、あの白い世界に至るもう一つの物語に触れたのだ。
「……俺は知世と違って、最悪の出会いが始まりだったんだよ」
◇◇◇
話は、今から一年と少し前……二年生の晩秋に遡る。
「晃先輩、大丈夫ですか? 気分悪くないですか?」
「大丈夫だって。てかさ、そろそろその先輩ってのやめない? 俺、あんたたちと同級生なんだしさ」
「いいえ! 先輩はいつまでも私達の先輩ですから!!」
「今日は全力でお守りしますから、大船に乗った気分でいて下さいね!」
「何だかなぁ……まあいいや、ありがとな」
そろそろ冬の足音が聞こえてきた頃、期末試験を終えた晃は友人達と共に最寄りの駅の改札を通り抜けた。
友人の手前何ともない風を装ってはいるが、正直さっきから不安で足が覚束ない。
(電車を試すのは夏以来……あの時は道場の仲間と一緒だったけど、今日は……気合いれてないとな)
普段の登下校は母が送迎してくれるのだが、よりによって父が海外出張しているこのときに、弟が学校で怪我をしたらしい。
病院の廊下から連絡をしてきた母の顔は真っ青で、あまり良い状況では無さそうだと晃は確信する。
『ごめん晃、これからすぐに処置があるらしくて……何とか家まで辿り着けば、道場までは三ツ瀬さんに送迎をお願いできるのだけど』
「そっか……困ったな、流石に学校に泊まり込んだら怒られそうだし」
「!! 晃先輩、私達が家まで送りますよ!」
「え」
「晃先輩のお母さん、大丈夫です! ちょっとみんなに声かけて、晃先輩を取り囲んで送ります!!」
『そ、そう? ちょっと心配だけど……晃、どうする?』
「……やってみる。これからだって、こんなことはあるだろうしさ。いつまでも母さんに頼ってるわけにもいかないだろ」
普段散々迷惑をかけている母に、これ以上負担をかけたくない。
最悪手足を縛って運んで貰えばいいやと、友人達に聞かれたら叫ばれそうな計画を胸に提案を受け入れれば、彼女達は早速「晃先輩を家まで送り届けるミッション」参加者を募集しにどこかへ飛んでいってしまった。
……それから20分後。
晃は10人近い友人と後輩達に取り囲まれ、電車に乗り込んでいる。
幸いにもこの時間は比較的空いているようで、突然の女学生軍団が電車の一角を占拠していても、周囲の迷惑にはならなさそうだ。
(まぁ……めちゃくちゃ悪目立ちしちゃってるけどさ……くっそ、こっち見るんじゃねえよ……!)
集団の中からぴょこりと頭が飛び出ている晃を取り囲み、周囲に目を光らせる友人達の姿はどう見たって異様だろう。本当に申し訳なくて頭が下がる。
だが、あまりの怪しさが逆に功を奏したのか、こちらに近づく乗客はいなさそうだ。
自宅の最寄り駅までは後二つ。これならば何とか無事に乗り切れそうだと晃がほっと肩の力を抜いたその時
「きゃっ」
「っ、うちの後輩に何しやがるんだてめぇ!!」
大柄なサラリーマンが、後輩に触れて。
思わず悲鳴を上げたその声に、かっと頭に血が上って
ドゴッ!
「がは……っ!!」
鈍い音と共に、晃渾身の正拳突きがサラリーマンの鳩尾に綺麗に決まった。
◇◇◇
「あっ、晃先輩っ落ち着いて!!」
「ああん? 落ち着いてられるか、こんな白昼堂々痴漢だぁ? 舐めくさりやがって!」
「ちっ違います晃先輩、私は大丈夫ですからっ」
「だめだ聞こえてないよ! 先輩止まってえぇぇ!!」
その場に蹲った男に、晃はなおも追撃を加えようとしたらしい。
らしい、なのは我に返るまでの記憶が曖昧だったから。
ようやっと晃が正気を取り戻したときには、友人達がなおも暴れようとする彼女を必死に押さえこみ、幾人かはしゃがんだまま呻いている男に「すみませんでした!」とぺこぺこ頭を下げていた。
「あ……俺……」
「あー先輩戻ってきた! 大丈夫ですか?」
「こっちは大丈夫です、あの人、電車が揺れてよろけて私にぶつかっただけで! 何にもされてませんから!」
「そ、そっか……それなら、いいんだ……」
(くそっ、これは想定外……! まさかこんなことでキレてしまうだなんて! 俺のせいでみんなが……)
ここは何とか穏便に済ませて貰おうと、晃は慌てて男の前に駆けつける。といっても、間合いは保ったままだ。
そうして姿勢を正し「申し訳ございませんでした!」と声を張り上げたその時、男がよろよろと頭を上げた。
「……ひっ!!」
「…………!」
その顔を見た女学生達は、一斉に凍り付く。
何事かとこちらを伺っていた乗客すら、そっと目を逸らす始末だ。
それもそうだろう、厳つい風貌をした男の額には、右眉に向かって大きな三本の傷がくっきりと刻まれていたのだから。
(げ……まさか、ヤクザか……!?)
とてもカタギの者とは思えない相貌に、流石の晃も一瞬たじろぐ。
だが、ここでこの男に対峙出来るのは自分だけだと気合を入れ直し「俺が痴漢と勘違いして手を出してしまいました、すみません!」と再び頭を下げた。
「あ、晃先輩……」
「下がってな、あんたらは何も悪くない」
「でも……」
今にも泣き出しそうな顔でオロオロとする後輩を宥めていれば、男はゆっくりと立ち上がる。
そして「……あ、お気になさらずに……」とどうにも気の抜けるか細い声を上げた。
「……へっ?」
「こちらこそすみません……電車が揺れて、吊り革に掴まって無くて……あのっお怪我はありませんでしたか」
「はっはひっだいじょうぶでしゅっ!!」
「そっか、良かったぁ……」
目の前の熊のような男は、後輩の無事を確かめるとふにゃりと相貌を崩す。
――この騒動の直後に、どう見てもカタギとは思えない男が笑みを浮かべることがこれほど恐ろしいとは思わなかったと、周囲の誰もが震えたことだろう。
気遣われた後輩に至っては、腰が抜けてその場にへたり込む始末だ。
そうこうしているうちに、電車は最寄り駅へと辿り着く。
これはおぶってあげないと無理かなと、晃は「ほら、行こうか」と彼女に手を差し伸べる。
……だが、運の悪い事というのは続くもので。
「あ、大丈夫ですか、手を」
「ひっ、触るんじゃねぇ!!」
「げふっ!!」
親切心だったのだろう、厳つい男が後輩に差し出した手と、晃の手が触れてしまって。
あ、と周りが凍り付く暇も無く、晃の振り向きざまの裏拳は、見事に男の顎にクリーンヒットしたのだった。
◇◇◇
「はぁっ、はぁっはぁっ……ごめん……みんな、大丈夫か……?」
「だ、大丈夫です……晃さんこそ、大丈夫ですか?」
「ああ、俺は……くそっ、こんな日に限って最悪だ……!」
晃の行動にはっと我に返った友人達により、晃と腰を抜かした後輩を含む学生達は慌てて電車から降り、後ろを振り返ることもなく一目散に改札を抜ける。
そうして全速力で駅の外に走り出て、交番の前でようやく立ち止まった。
(……追ってきてない。ひとまずは安心、だな……)
息を整えながら晃はキョロキョロと周囲を見渡すが、それらしい影は見られない。
立ち上がったときの感じだと、恐らく男の身長は190センチ近いであろう。あれほど大柄な男なら遠くからでも分かるはずだしと、ようやく晃も張り詰めていた糸が切れたのだろう、ホッとした表情を浮かべ思わず壁によりかかった。
「ほんとごめんな……俺のせいで」
「そんな、謝らないで下さい! むしろ守るはずの私達が守られちゃって……」
「でも晃先輩、あの人ヤクザっぽかったですよ? 制服見られてるし、流石にまずいかも」
なおも怯える友人の頭を、晃はくしゃりと撫でた。
不安そうな顔に、胸の奥が痛い。自分のせいで怖い目に遭わせてしまった罪悪感が、じわじわと晃の中に広がっていく。
そんな重苦しさを吹き飛ばすように、晃は敢えて笑って「あんなヘタレが、ヤクザなわけないだろ」とうそぶいた。
「確かに顔は厳つかったし良い筋肉してたけどさ、あの程度の電車の揺れで盛大にこけたんだろ? どう見ても見掛け倒しってやつだよ、あれ」
「そうなんだ……晃先輩が言うと説得力が違う」
「やっぱり先輩は、強くて格好いいです……!」
「お、おう、ありがとうな。……あ、もうここ曲がったらすぐ俺んちだから。あんたらも気をつけて帰れよ」
「はい、ありがとうございます!」
「先輩さようならー!」
晃が振り返れば、友人達はまだ手を振っていた。
きっと彼女達は、晃が家の敷地に入るまで見送るつもりなのだろう。慕ってくれるのは嬉しいが、少々こそばゆいものがあるなと苦笑しながら、晃は門をくぐる。
「ただいま」
誰もいない玄関でも、挨拶だけは欠かさない。
晃はさっさと制服を脱ぎ捨てると、着古したスウェットを身に付けリビングのソファにドサリと座り込んだ。
――まだ、嫌な汗が引かない。心臓はドクドクと緊張を訴え続けていて、晃が未だ臨戦態勢から抜けきっていないのは一目瞭然だ。
「……格好よくなんか、ないさ」
冷蔵庫から取りだしたペットボトルを咥え、一気に炭酸を流し込む。
喉を伝う刺激は、ちょっとだけこの緊張を中和してくれるようだ。
(元に戻ったようで、俺はどこも戻っちゃいない……男言葉だって、直せないままだ)
復学して一年あまり。
一つ下の学年に戻った晃を、かつての後輩達はそれはそれは歓迎してくれた。
事件のことは当然のように知れ渡っていたけれど、特に腫れ物に触るような扱いを受けることも無く、かと言って今日のような非常事態には皆我先にと協力してくれる。
かなりの人数が幼稚部からエスカレーターで上がってきているからか、学年が違っても意外と知り合いは多い。
何より晃は、170近い背丈と元来姉御肌な性格が幸いして女子校では何かと王子様扱いされることもあり、学園での生活は今でも順風満帆。
それどころか、自然と使うようになった「俺」の一人称と男言葉は彼女たちの何かを刺激したらしい。
最近では崇拝に近い感情を語るものまで現れて、晃としては少々複雑な気分である。
それでも。
少しずつ大人の女性らしさを纏っていく彼女達を見ていると、ふと一人だけ取り残されたような寂しさを覚えてしまって……
「みんなの方が……いいじゃん、制服も似合ってるし……女の子らしくて、さ」
「アタシ」が当たり前だと思っていた普通の幸せには、もうどうやっても届かない――
ぽつりと漏れた晃の諦め混じりのため息が、誰もいないリビングの空気を少しだけ震わせた。
◇◇◇
「すみません三ツ瀬さん、うちの馬鹿弟のせいでご迷惑をおかけして……」
「いいのよぉ、右足首の骨折だっけ? 陽くん何やったの?」
「友達とどっちが高いところから飛び降りれるか競ってて、校舎の二階から跳んだらしいっす」
「あはは、それ確か昔旭くんも晃ちゃんもやらなかったっけ? 血は争えないわねぇ!」
今でも週に三日は、家族揃って道場に行くのが八束家の日課だ。
母の代わりに迎えに来てくれた道場仲間の車で、晃はいつものように道場へと向かう。
兄は助手席、晃は運転席の後ろなのはもう鉄板である。
「そうそう、今日は出稽古に来てる人がいるからね」
「へえ、強いんですか?」
「晃ちゃんの期待には沿えないわよ-、まだ始めて二年くらいの社会人だし、優しくしてあげてね」
「はいっ」
(……大丈夫、道場なら…………あの頃のままだから)
三ツ瀬と他愛ない会話を交わしながら、晃は窓の外をぼんやりと眺める。
家路を急ぐ人たちでごった替えする往来は、今の晃にとってはあまりにも遠い世界だ。
放課後に友人達と連れだって遊びに行っていたひとときは、少しだけ色褪せた大切な思い出と化してしまった。
そんな晃だが、幼少期から通い慣れた空手道場でだけは様子が異なる。
あれほど加害の不安に神経を使わなければならない日々が嘘のように、道着を身につけた途端、晃の怒りはまるでスイッチを切ったかのように静まりかえって。
相手が男であろうが無意識に手が出ることもなく、お陰で事件前と変わらぬ稽古を淡々と今も積み重ねている。
道場の仲間達も、時に暑苦しいばかりの心配とお節介を焼いて、まるで家族のように変わらず晃を受け入れてくれるから、余計に安心出来るのかも知れない。
晃の、唯一生き残れた部分が、ここに残っていた――
どうしようも無く歪んだ自分を受け入れられず荒れていた彼女にとって、この事実はまさに一縷の曙光として、今も八束晃という人間の根幹をギリギリの所で支え続けてくれている。
(空手を習ってて、本当に良かった……まあその分攻撃力も高くなってはいるんだけどさ……)
今の状況を思えば複雑な部分もあるけれど、それでも彼女が道場に深く感謝しているのは事実で。
だから、自分も出来ることから少しでも道場の役に立ちたいと、晃は心から思っている。
思ってはいるけれど。
「え、あんた」
「……あ、あわわわさっきの……ひいぃっ!」
まさかこんな、碌でもない再会が待っているだなんて聞いちゃいない! と、晃は道場に入るなり目に付いたひときわ大柄な男の姿に、心の中で全力の叫び声を上げたのだった。
◇◇◇
「……その格好」
「あ、えっと、きっ今日は出張で東京に来てましてっ! そっその折角なので出稽古に……」
「…………マジかよ……」
道場の脇でぬぼっと突っ立っていた、黄帯の大男。
晃を見るなり顔を引き攣らせた彼の額には、立派な3本の傷が走っている。分厚い筋肉といい厳つい面構えといい、どう見ても他人の空似ではあるまい。
「ん? どうした晃、毘奈君と知り合いか」
「あ、館長……いや、実は今日の帰りに……」
道場に現れた館長に晃が渋々事情を説明すれば、案の定彼は「だから遠慮するなと言っただろうが!」と晃を一喝し、その場に正座させる。
……何故隣で、彼も一緒に正座をして縮こまっているのだろうか。もしかしなくてもこの男、思った以上にヘタレなのかもしれない。
「そういう時は俺らを頼れ! 大した距離じゃないんだし、迎えくらいいくらだって琴乃が行くと言っているだろう!」
「……送迎は、親のみの特例っすから……」
「駅で待ち合わせすりゃ何の問題もない! いいな、次からはそうしろ! ……で? ちゃんと謝ったんだろうな」
「…………一発目は、ちゃんと」
「この大馬鹿もんがっ!!」
館長の雷に晃はしおらしく俯き「……すんませんでした」と呟く。
周囲では「なに、晃ちゃんやらかしたの?」「久々だなぁ館長の雷は」と仲間達が生暖かい目で成り行きを見守っていて、どうにも居心地が悪い。
そっと隣を見れば、被害者であるはずの大男は今にも泡を噴いて倒れそうである。外見はともかく、中身はおよそここにいて良い人間では無さそうだ。
「毘奈君、うちの者が本当にすまなかったな。お詫びと言っては何だが、稽古の後に是非奢らせてくれ」
「え、あっそんな、お気遣いなく」
「いいやここは奢らないと気が済まねえ! 晃、お前もちゃんと来て毘奈君と仲直りするんだぞ! あと、今日から3日間彼の稽古を見てやれ」
「……うす」
ほら稽古始めるぞ! と 張り上げられた館長の声に、道場生たちはわらわらとその場に並び始める。
「気落ちすんなよ、晃」
「……落ちてませんから」
「ははっ、そうこないとな! あ、今日は俺と組み手やっか?」
「! はい、お願いします!」
ああ、ここには『八束晃』がちゃんと残っている――
幼い頃から家族同然に可愛がってくれた仲間達の気遣いに感謝しながら、晃もまたすっと表情を変え、稽古前のストレッチを入念に行うのだった。
――威勢の良い声で活気づく道場の片隅に置かれた、見慣れないスポーツバッグ。
その中で丁寧に折りたたまれた藍色の織物が淡く光ったことを知る者は、誰もいない。
そう、ただ一人を除けば――
「……そっかお前、あの子を選んだんだ」
◇◇◇
「……おっさん、その顔と筋肉は飾りっすか」
「ぐう、反論の余地もございません……あと、できればお兄さんと呼んで頂けると……」
「30は立派なおっさん。あ、三ツ瀬さんはお姉さんですから!」
「ううぅ、なんて分かりやすい塩対応」
みっちり2時間の稽古を終えて、一行はいつものファミレスへと突撃する。
店で合流した晃を見るなりすすっと下がって引き攣った笑顔を見せる男に、晃は呆れ果てた声で開口一番彼が気にしているであろう事実を突きつけた。
大の男がベコベコに凹んでいる姿を見ると、胸が空く思いがする。
……こんなのいけない、そう理性は晃を諌めるけれど、手は出さない分このくらいは許して欲しいと、罪悪感に苛まれながら晃は心の中で言い訳を繰り返すばかり。
「あっ毘奈さん、晃ちゃんの正面はだめよー」
「……俺のことは、館長から聞いたんすよね」
「はっ、すすすみませんっ!!」
乾杯するなり一気に大ジョッキを飲み干すあたり、男はそれなりに飲める人なのだろう。
厳つい風体によく似合っているよなと、晃はジンジャエールをちびちび飲みながらハンバーグ定食(大盛り)に箸を付ける。
皆と和やかに談笑する中、男は「えっと改めて」と居住まいを正し晃の方を向いた。
――目の前の皿は既に半分以上無くなっている。晃も大概大食いだが、この食べっぷりには勝てそうにない。
「俺、毘奈新太と言います。今日は稽古を付けて頂きありがとうございました」
「……八束晃です。……電車の中ではすんませんでした」
「あ、それはもう気にしないで……事情は伺いましたから。それにほら、俺筋肉だけは無駄に厚いので平気っす!」
「突き指はどうにもなってないっすけどね。拳の握り方からやり直した方がいいかと」
「ひぃ容赦が無いぃ」
(ホント、変なおっさん……)
初めての場所で奢ってもらう立場でありながら、早速お替わりを注文する姿はなかなか図々しいけど、稽古中の彼は初心者であることを差し引いても実にヘタレだった。
いや、謙虚で素直ではあるのだ。相手は黒帯とは言え、一回りは歳の違う小娘の指導も嫌がらず、真面目に稽古に励む姿は実に好感度が高い。
ただ、根本的に戦うことには向いていなさそうには見えるけれど。
そんなちぐはぐな姿と、何より同じ空手をする仲間という意識もあってか、打ち解けるまでにはそれほど時間はかからなかった。
「ほれにひても……むぐむぐ……」
「おっさん、食うか喋るかどっちかにしたらどうっすか」
「んぐ……あの、八束さんって結構酷い不眠症だったりします?」
「あーまあ。ちゃんと寝ちゃいるんですけど、睡眠の質は悪いって言われたことがあるっすね。食いしばりが酷くて、ナイトガードを付けて寝てるけど一年経たずに壊れちゃうし」
隈もひどいっしょ、と指さす目元は明らかに黒ずんでいて、男はどこか痛ましげな表情を浮かべた後「……そっか、だから君になんだ」とぼそっと呟いた。
「ん? なんすかおっさん、人の顔をじろじろ見て。ここ道場じゃないから、あんまり近づいたら危ないっすよ、それ以上額の傷が増えたら困るんじゃ」
「それはまずい。……あの八束さん、俺、怪しい不眠対策グッズを持ってるんですけど、使ってみませんか」
「怪しいってはっきり言われてるものに、手を出すわけがないっしょ。……無駄っすよ、何しても治らなかったんですから」
唐突に始まった謎のグッズの話に、晃は眉を顰める。
被害に遭って以降、晃の弱みにつけ込むような「親切」には家族共々何度も遭遇してきたから、警戒心が高まるのも無理はない。
そもそも睡眠障害については、原因がはっきりしているのだ。晃の心が落ち着く日が来るまで、まともな眠りなど望めないとすっかり諦めの境地である。
だというのに、男はこちらの気も知らずスポーツバッグをごそごそと漁る。
「俺もこれを貰って、酷い不眠から抜け出せたんで」と彼が引っ張り出したのは、その厳つい手には全くもって似合わない……深い藍色の布製品だった。
「何それ」
「枕カバーです。これをくれた人曰く『願いが叶う枕カバー』だそうで」
「うわ、名前だけでめっちゃ怪しい」
「効果は折り紙付きですよ。眠れるのもですが、本当に願いも叶いますから」
「はぁ!?」
(おいおい、大丈夫かよこのおっさん! 目が逝っちゃって……はないな、いたく真剣じゃんか、くっそ調子狂う)
周囲の大人達はそれぞれ話に夢中で、晃の様子には気付いていなさそうだ。
仕方なく、怪訝そうな顔を浮かべながらもお替わりのハンバーグを頬張る晃の前で、これまた無料のお替わりライスが届くなり物凄い勢いで口に放り込みつつ、男は枕カバーの効能について蕩々と語る。
どんな状況でもこの枕カバーを使えばおやすみ三秒、深い眠りで次の日はまるで世界が変わったかのように身体が軽くなること。
自身も半信半疑でかけた願いは見事に夢の中で叶えられ、お陰でブラック企業を脱することが出来たし、今は色々ありながらも幸せに暮らせていること。
直接人の命に関わらなければ、大抵どんなことも夢の中で叶えてくれる。それどころか、時々余計なお節介を働いてくれること……
「だからなるべく具体的に願う必要はあるけれど、使い方さえ覚えればきっと、君の心強い味方になってくれます。……俺も、そうだったから」
「結構っす。そんな怪しいもの、誰がはいそうですかって受け取ると?」
「……まあ普通はそう言いますよね……でも、もう拒否権がないんで」
「はぁ?」
何を、と言いかけた晃に、男は自分の手を見るよう促す。
そこには話題の主である枕カバーが握られていて……
「え」
そう、確かに握られていたはずなのに。
ふわりと淡い光を放ったかのように見えた瞬間、織物は忽然と姿を消し
「…………は!? うっそ、おっさんこれ、手品?」
「流石に俺、こんな魔法みたいな手品はできないです。第一俺が八束さんに触れたら、今頃俺ボッコボコなんじゃ」
「それはそう、だけどさ……えええ、ガチでヤバいやつじゃん……」
呆然とする晃の膝の上に、まるで最初からいましたと言わんばかりの顔をして鎮座していたのだった。
◇◇◇
『なあおっさん、もしかしてこれを持っていたのって』
『出張だろうが何だろうが、お構いなしでついてくるんで。……でも、次の持ち主をこいつが決めたってことは、俺はもうお役御免ですね』
『いやちょっと待てよ、え、もしかして俺、これからずっとこいつに付き纏われるの!?』
「はぁ……どうすんだよ、これ……」
稽古を終え、寝支度を整えた夜23時過ぎ。
殺風景な自室で、晃はベッドの上に座り込み広げた枕カバーを前に途方に暮れていた。
あの後、晃は結局「電車の中のことを悪いと思っているならお詫びだと思って受け取って下さい。……とはいえ、もう離れないと思うけど」と半ば押しつけられる形で織物を新太から受け取る。
『君にとって必要で無くなった後、次に必要とする人が現れれば渡しに行くことになりますよ、今の俺みたいにね』
何かあったら相談に乗りますからと言われ、一応連絡先は交換した。
「おっさん」と素っ気なく書かれたこのアドレスに助けを求めることなど、まず無いとは思う。
とはいえ、彼は数ヶ月おきに出張で上京するらしいから、その時にはみっちり鍛えてやるつもりだ。
「大体さ……おっさんが使ってたんだろ、これ? いくら洗濯しているったってさぁ……」
晃はげんなりした顔で、枕カバーをつまみ上げる。
あの言い方だと数年は利用していたとおぼしき藍色の織物は、しかしそれにしては布地が傷んでいなくて――いや、それどころかまるで新品のような風合いを保ったままだ。
恐る恐る匂いを嗅いでみたが……おっさんの臭いはおろか、洗剤の香りさえしない。まさに今買ってきて開封したばかりの布だ、これは。
するり
「……んっ…………」
匂いで安心したのだろうか、晃は何の気なしに布地に頬を寄せる。
途端に顔を包み込む、これまで感じたことも無いような心地よさに、自分でもふわりと顔の筋肉が緩むのが感じられて……
「うわぁっ!」
晃は慌てて大声を上げ、枕カバーを放り投げた。
「……なっ、何だよ今の……いや、呪いでもかかってるだろこれ、絶対……」
こんなものは、知らない。
晃の家庭はそれなりに裕福で、身の回りの物もそれなりの品が揃っている環境にいるけれど、それにしたって頬に触れるだけで身体が緩むような布製品など、見たことも聞いたことも無い――!
これはまずい、迂闊に手を出してはいけない……晃の頭の中で、警告が鳴り響く。
けれど一度心地よさを……それもあの日から何年も忘れさせられていた、恨みに強張る顔から力が抜ける感覚を与えられた身体はもう、これを拒む事なんてできなくて。
「くそっ……ああもう、こうなったら全力で利用してやりゃいいんだろ!!」
実に悔しげな表情を浮かべ、けれど緑がかった水色の――晃の家系では先祖返りよろしく、時々この色を持つ者が生まれるのだ――瞳の奥に明らかな期待を滲ませながら、彼女は床から枕カバーを拾って自分の枕にセットする。
明らかにサイズは合わなさそうだったのに、まるで誂えたかのように枕にフィットする感じは……いや、もうこれ以上考えるのはよそう。
「確か、具体的に願えば夢の中で叶うってって言ってたよな……」
静かに佇む枕を前に、晃の頭に過ったのは、最近お気に入りの百合動画である。
日用品から本格的な拷問用具まで、あらゆる道具で延々と尻を叩くだけのその動画は、叩かれる女の子の表情と悲痛な声が、実に晃好みだった。
何より叩いている女王様がその子を相手しているときだけは明らかに楽しそうな表情を浮かべているのが、ずっと気になっていて。
現実には出来そうも無いし、そもそも相手だっていない。他校に恋人はいたが、被害に遭った後あっさりと縁が切れてそれきりだ。
取り巻きの女の子はたくさんいるけれど、迂闊に手を出したら彼女達の間で戦争が起こりそうだし、何より……そう言う色恋沙汰には今は関わりたくないと思っている。
(てかさ、いくら女の子相手なら殺る気で手を出すことはないったって……現実にやったらただの犯罪だしな)
そう、今の晃にとってこれはあくまでもフィクションで、おとぎ話の中でしか許されないプレイ。
……ならば、夢の中であれば許されるのでは無いかと都合よく考えてしまうくらいには、晃は限界まで追い詰められていることに気付いていない。
(おっさんだって最初は半信半疑だったって言ってたしな……願いをかけるだけなら、別に変なことも起こらないだろ)
これで、自分の内側に巣くう泥が落ち着き、それが作り出すどうしようも無く歪んだ衝動が少しでも晴れるなら……
そんな祈りを込めて、晃は枕を睨み付け「おい」とドスの効いた声をかけた。
「いいか枕カバー、俺が欲しいのは心置きなく叩けるお尻だ。夢の中で安全に、どれだけ叩きまくっても大丈夫なお尻を出せ。あ、デカい方がいいな。あと間違えても野郎の尻なんか出すんじゃ無いぞ? 俺が欲しいのは女の子の、デカい尻、忘れるなよ!」
「…………」
「流石に返事はないか。……ったく、馬鹿なことしちまった」
いや、ここは返事が無くて良かったのかも知れない。
万が一この枕カバーが男の声を出したら、反射的に殴りつけていただろうから……ふとした思いつきにぞっとしながら、晃は電気を消してごろんとベッドに転がる。
と、次の瞬間
「へ? ……あ…………ねむ……」
(嘘だろ、ガチでもう寝てしま……う……)
ふわりと頭が軽くなるような感触を覚えて、すぅと全身が沈んでいって。
数秒後、暗闇の中でぼんやりと光る枕カバーが照らす寝顔は、数年ぶりの安息に途方もない穏やかさを湛えていたのだった。