沈黙の歌Song of Whisper in Silence
沈黙の歌Song of Whisper in Silence
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8話 東雲の空に誓う

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 ふわり

 瞼の向こうに光を感じ、意識が浮上する感覚を覚える。

(……夢の中で目を覚ますってのは、いつもながら変な感じだな)

 これはいつもの、夢の世界へと降臨したときの感覚だ――
 心地よい浮遊感に包まれながら、晃はそっと目を開く。

 眼前に広がるのは、一面の白。
 方向感覚すらおかしくなりそうなほどの無機質な空間に一瞬戸惑いを覚えるも、晃は持ち前の身体能力を発揮して体勢を整え、そっと爪先を床に触れさせた。

「へぇ……いつもとは全然違う」

 珍しそうに辺りを眺めた晃の口から、思わず感嘆の声が漏れる。

 晃は元々良く夢を見る体質らしい。
 よく食べ良く動きよく寝るを体現するような人間だと自負している彼女の夢はいつだってハチャメチャで、けれど寝るのが楽しみに感じるくらいには希望に溢れていた。

 それが事件後は、陰鬱な風景に取って代わって。
 不思議とあの泥を流し込まれる時間を再生されることは無く、その代わり輪郭もあやふやな「男」をありとあらゆる手段で嬲り続ける夢の中で、彼女はいつだってどす黒い……麻薬のような高揚に包まれていた。

 あれ以来自ら触れることが無くなったせいで、周期的に高まる欲求が歪な形で現れているのかもしれない。
 時には夢の中で絶頂を覚え、どこか熱の残る目覚めにぎりと奥歯を噛みしめることもある。

 だから、晃にとって夢を見るという行為は……このどうしようもない燻りを落ち着かせるために必要だと分かっていてすら、出来れば避けたいものと化しているというのに。

「……いや、今の俺には眩しすぎるだろ。あの枕カバー、一体何考えてやがるんだ……」

 眼前に広がる白い空間に、晃はあの藍色の織物の仕業だと確信し苦々しい表情を浮かべた。
 こんな汚泥と業火に塗れた身体には、清らかな白など毒でしかない。汚れを浄化するでも無く、ただそのコントラストで晃を苦しめるだけなのだから。

 それにしても元々寝付きは悪くない方とは言え、リアルでおやすみ三秒を経験することになるとは思わなかった。
 やはりあの枕カバーは、ただの布ではない――

「どうせ、起きるまで出られないんだろうな……はぁ、どうすんだよこれ」

 がっくりと肩を落としつつも、何とか目を覚ませないものかと考えを巡らせていた晃であったが、ふと視界の端に何かがちらちらと過るのに気付いた。
 気のせいかと思いつつも視線を向ければ、果てしなく白い空間の中で

「…………うわ、マジで願いを叶えやがったのかよ、あの枕カバー」

 もちもちとした、お尻の妖精が当てもなく彷徨っていたのである。


 ◇◇◇


「欲しかったのは、お尻……」
「そう。でかくて、叩き甲斐がある女の子の尻な」

 晃が寝具にかけた願いを、そしてその結果を聞いた知世は、あまりにも予想外の言葉に目をぱちくりさせる。
 そんな彼女の様子に、晃は悪びれることも無く「あの時の俺には、それしか思いつかなかったんだよな」とうんうん頷いている。

「それにしても、お尻の妖精って……」
「いや……その時はマジで、夢の中に作り出された俺に都合の良い尻にしか見えなかったんだよ。何せ願ったとおりの理想的な尻だったからさ」
「確かにあの頃から、随分お尻ばっかり見てるなとは思ってましたけど……まさか妄想の『人』としてすら見られてなかったなんて……」

 あの日から一年以上経って、初めて明らかになった真実。
 知世の願いの向こう側から望まれたものは、欲望を叶えるための道具に過ぎず。
 更に当初のご主人様にとって、願いの結晶として夢に現れた知世は、ブタどころかただのお尻でしかなかったらしい――

 何とも複雑な気持ちを抱えながら、知世は続きを促す。
 ……いや、この後何が起こったのかは全てこの身体に刻み込まれているのだけれど、彼女が自分に、いやお尻に何を思っていたのか逆に興味が沸いてきて。

「……でも、最初からある意味理想的な扱いを受けていたんですね、私! はぁ、ブタ以下の物扱いだなんてもっと早く知りたかったぁ……」
「そ、それでいいんだ!? ったく、調子狂うなぁ……こっちはずっと気にしてたってのにさ」

 ほんのり頬を染めて目をどろりと蕩けさせる知世に「そう言うのは夢の中でな!」と一喝し、晃は咳払いを一つして、彼女から見たこの一年あまりの日々を語るのである。


 ◇◇◇


(……何やってんだ、あのお尻)

 そっと様子を窺うも、お尻の妖精はこちらに気がつきそうにない。
 というかこっちが見えていないかのように、あっちにぽてぽて歩いてはきょろきょろと周囲を眺め、こっちにぽてぽて歩いては両手で顔を覆っている。

 ならばこれ幸いにと、晃は妖精の後ろに回り込んでじっくりと目的のブツを眺めることにした。

(しかし……でけえな。こんな立派な尻、見たことがない)

 紺のボレロとジャンパースカートという体型がわかりにくい服装でありながら、明らかにふくよかな丸い臀部に晃はほうとため息を漏らす。
 そして、育たなかったのは胸だけじゃ無いんだよな……とひとりごち、そっと自分の薄い尻に触れた。

 ――友人達はスタイリッシュな体型だと本気で羨ましがってくれるけれど、この身体を活かした「服」が着られない自分にとっては、ただの無用の長物なのに。

「ふぅん……これが俺の望んだ形ってこと?」

 虚しさを振り払うように、晃はどこにいるとも分からない枕カバーに向かって独りごちる。
 確かに服の上から見る分には、かなり理想に近いように思う。あいつ、なかなかいい趣味してるじゃんとニヤリとしたその時、目の前のお尻が「ぴゃっ!!」と奇声をあげた。

「!」

 どうやら、ようやくお尻は自分の存在を感知したらしい。
 そこは夢なんだから最初から挨拶の一つもさせれば良いのに、と丸っこい背中を眺めていれば、おずおずと尻はこちらに視線を向ける。

(うっわ、肌白っ!! ほっぺがピンクに透けてるじゃん……)

 こちらを見るなりあからさまに身体を跳ねさせた妖精は、この世の終わりと言わんばかりの表情で晃を見つめている。
 そんなに怖がられるような顔はしてないと思うんだけどな……とふと口元に手をやって、晃は自分がネックゲイターと帽子を身に付けていることにようやく気付いた。

(あー、これは間違いなく不審者扱い……尻をビビらせすぎたな、ってまぁ夢の中の尻だし問題ないか)

 普段なら慌てて覆いを取り、作り慣れた爽やかな笑顔でごめんと言うところだけれど、夢の中でまで「王子様」を気取る必要は無いかと、晃は思い直す。
 ――そう、ここは泥にまみれた嗜虐の思いを存分に出して良いところ。
 折角あの怪しい枕カバーが用意してくれたのだ、全力で欲望を叶えさせて貰おう……

 すっと、晃の目が細くなる。
 ぞくりとした感覚が背中を駆け上がり、はぁっと熱い吐息が漏れて。
 次の瞬間、晃は掠れた声で、怯えきったお尻の妖精に冷たく命じていたのだった。

「…………取りあえず脱ぎなよ」


 ◇◇◇


「…………」
「…………ひっ……」

 妖精はプルプルと震えながら、羞恥に頬を染め必死で尻を差し出していた。
 服を取り去ったその身体は案の定雪のように白くて、すぅと指で触れれば極上の触り心地ともっちりとした弾力を晃に伝えてくる。

(尻だけ見せりゃいいのに、まさかの全裸とは……あー、すっげえ触り心地がいいな……)

 栗色の髪とヘーゼルの瞳から察するに、このお尻は西洋モチーフの妖精だろう。
 それにしては随分肌理が整っている。流石は夢というか、あの枕カバーの趣味は実によろしいと、晃は内心小躍りしながら早速この尻を堪能させて貰うことにした。

 ……途中、何故かお尻が嬉しそうに「ご主人様」と呼び始めたけれど、こちらとしては呼び名に興味は無い。極上の尻があれば、それで十分だ。

(しかし……どうやって叩くんだろうな……)

 目の前で誘うようにふるふる揺れる大きなお尻を前に、晃は今になって考え込む。
 これまで数多のスパンキング動画を見てきたけれど、よく考えたら赤くなる尻ばっかり見つめていて、女王様の叩く姿なんて気にもしてなかったなと。
 親にだって張り手くらいは食らったことがあるけれど、尻を打たれた経験は無い。

(ま、やってみりゃ分かるだろ!)

 しばしの熟考(?)の結果「理論より実践だよな」といつも通り脳筋ベースな結論を得た晃の手のひらは、自然と構え慣れた形を作っていた。
 ああ、さっきの奇声や時折漏れる声から想像するに、このお尻はきっと高くて甘い、可愛らしい声で泣き叫ぶに違いない――
 逸る心を落ち着かせ、すぅ、と息を整えて、手を振り上げ

「ふっ!」

 生まれて初めての一撃は、尻に心地よい破裂音を……響かせなかった。

「……あれ、ちょっと違う?」
「うぐ…………っ!!」
「んー……今のは綺麗に掌底入ったと思ったんだけどな……」
「…………はい?」

 予想外の音に、晃は手のひらを見つめる。
 渾身の一撃が入ったと思ったのに、意外と綺麗に音は鳴らないものらしい。

(打ち方がおかしい? お尻も悲鳴を上げなかったし。といっても、調べようも無いしな……にしても夢だからか? 叩いてもあんまり手が痛くならないのな)

 稽古でなら残るはずのじんじんした痺れも、赤みも、ほとんど感じられないのはちょっと残念だなと晃は手のひらを見つめる。
 まあ、初めてだし夢の中であっても何もが上手くいくとは限らない……早々に原因究明を諦めた晃が再び腕を振り上げた、その時

「ちょおっと待ったあああああ!!」

 目の前のお尻が、引き攣った顔で叫び声を上げたのだった。


 ◇◇◇


 パンッパンッ、パン、パシッ、パンッ!!

「ごめんなさいっ、ひぐっ、ごめんなさいぃっ痛いよぉ……!!」
「ははっ、いい声……ほら、まだまだ鳴けるよなぁ!?」
「ひぎゃあぁっ!!」

 真っ白な空間に、晃の手のひらの音と、お尻の叫びがこだまする。
 時折鼻を啜りながら、必死に謝罪を叫ぶ甘い声に犯された耳が、見る間に真っ赤に染まっていく白い肌に釘付けになった目が、これまでに無い興奮と快楽を晃の脳に流し込んでいく。

(いやあ、凄いな夢ってのは! お尻が叩き方を教えてくれるとか、なんて親切設計なんだ!)

 必死の形相で打ち方を教えるお尻の妖精は、実に可愛らしいものだった。
 自ら打たれて鳴くための手法を授け、叫び声が少なくてつまらないと零せば、即座に謝罪という形で晃の望みを叶えてくれる。
 まさに至れり尽くせりとは、このことだろう。

(楽しい)

 いくら腕を振っても疲れは見えず、手のひらの感覚も少し曖昧で。
 お陰でこの心地よい悲鳴を存分に堪能出来るし、何より

「ごめんなしゃい! えぐっ、えぐっ、うああっ……もっとぉ…………」
「…………ははっ、流石俺の理想の尻だな」

 どう見ても限界を超えていて、意識もはっきりしていなさそうに見えるのに。
 お尻の妖精は真っ赤に腫れ上がった尻を突き出したまま、涙と共に晃の手のひらを強請り続ける。
 そのいじらしさに、安堵とも歓喜とも言えないぐちゃぐちゃな気持ちが胸を満たして……晃の覆われた口から、掠れた笑いが漏れた。

(なんだよこれ、めちゃくちゃ楽しいじゃんか……!)

 そうだった、このお尻は自分のために誂えられたもの。
 当然、どんな扱いをしようが「ご主人様」と認めた晃の欲望を全て受け止め、望み、悦んでくれる――

 全てをコマ送りで覚えてしまえるほど見続けた、お気に入り動画の中で叫んでいた女の子と、目の前のお尻が被る。
 ……ああ、きっと今、自分はあの女王様のように、満ち足りた笑顔を浮かべているに違いない。

「ほらぁ、もっと鳴けよ、っ!!」
「うわああぁん、ごめんなさいぃ……!!」

(いいなこれ、ドロドロしたやつが混ざらない……ああ、気持ちいい……)

 パンッ!! とまた一つ、乾いた音と高い悲鳴が上がる。
 晃はこの嗜癖を自覚して以来初めて、歪んだ衝動を罪悪感の欠片もなく満たすという機会に恵まれ……それを叶えてくれたお尻の妖精にすっかり魅せられていたのだった。


 ◇◇◇


「うっわ……何これ、視野が広いし……身体がめちゃくちゃ軽い……!」

 朝六時。
 見慣れた天井の姿を目にした晃は「凄い夢だった……」と半ば呆然としながらいつものジャージに袖を通す。
 朝は少し早めに起きて、近くの公園でひとっ走りした後軽く型稽古をするのが日課なのだ。

 ほんのり白み始めた空を背に走れば、冷たい空気が肌を撫でて、夢で昂ぶった身体には心地よい。
 何より今日は、明らかに体調が良いなと、虚空に蹴りを入れながら晃は如何に自分がこれまで質の悪い睡眠しか得られていなかったかを心底痛感していた。

「全っ然、歯止めは効いてなかったな……特に最後、あれは……はぁ、めちゃくちゃ良かった……」

 ベンチに腰掛け給水ボトルに口を付けながら、晃はどこか夢見心地で昨夜の逢瀬を振り返る。

 ――あの後。
 全ての淀みを出し切ったかのような清々しさにようやく手を止めた晃は、己の所業を確かめるかのようにお尻をじっくりと眺めていた。
 あれほど激しく打った割には傷らしい傷もなく、とは言え晃の指の痕が残るほど真っ赤に腫れ上がった妖精の尻は、肌の白さとのコントラストが実に目に鮮やかで……まるで晃にもっと打って欲しいと囁いているかのようだ。

 これは夜が楽しみになるな、と内心期待を抱いていたところに、尻から思いがけない嘆きが上がる。

『お……おしっこ、したいんです…………!』
『……へぇ』

(ふぅん、これは……枕カバーのサービスか?)

 今にも決壊しそうなのだろう、ぷるぷると震えながら涙目で叫ぶ妖精の姿に、晃の奥底に眠る淀みが、ぞわりと絡みつく。
 いつもならそんな不埒な考えは全力で叩きのめして、きっと優しい声で「いいよ、遠くで出しちゃいな」と背を向けただろうに……願いを許された晃の瞳は、更なるプレイの予感に残酷な光を灯していたに違いない。

『ほらっ、さっさと出しちゃいな!』
『うああぁっ! やだっ、おしっこ止まらないっ、見ないでっもうやだああぁっ!!』

 自分の目の前で漏らせと命じ、折角だからと股間の下に服を敷いて限界まで我慢させ、決壊の絶望を深めさせて。
 唇が真っ青になって震え、その振動すら膀胱に響くのか涙をぽろぽろと零しだしたところで狙い澄ました一撃を尻のあわいに打ち込めば、案の定お尻は今日一番の悲鳴を上げて、情けなく溜め込んだ物をまき散らし服をびしょびしょに濡らしたのだった。

「……お尻を打ってもいい、打たなくてもいい声で鳴かせられる……サイッコーだな、あのお尻」

 我慢の限界突破からの決壊は、ちょっと癖になりそうだな……と晃は新しい扉を開いてしまった事実にふるりと昂ぶった身体を震わせる。
 そうして、思い出してしまったが故に燻る熱をなんとか発散しようと、再び公園の向こうへと足取り軽く走り去っていった。


 ◇◇◇


 それから一時間後。
 晃は先ほどの恍惚が嘘のように、必死の形相で虚しい戦いを繰り広げていた。

 きっかけは、朝の走り込みに何気なく持ってきてしまった枕カバーだった。
 昨夜実に良い夢をみせてくれた寝具だが、晃は念願を叶えて貰ったことにこそ感謝していたものの、同時に嫌な予感を覚える。

「……俺、絶対こいつに依存してしまうわ…………」

 このままズルズルと頼り続けるのは、確実によろしくない。
 あの夢の出来事は、あまりにも気持ちが良くて楽しくて、何より理想を叶えすぎていて……そのうち現実が疎かになって夢に耽溺しかねないと、晃の脳内で何かが冷静に指摘する。

『あ、捨てても無駄らしいです。俺が試したわけじゃ無いんですけど、とにかく何しても戻ってくるって』

 昨夜、おっさんから忠告は受けている。
 晃の願いを叶え、次の持ち主が現れるまで、およそ現実で考えられる全ての「放棄」に繋がる行為は無駄にしかならないと。
 ……だが、それだけで納得するほど晃は素直な人間では無かった。

「よし、ここは一つ試してみないとな!」

 思いついたが吉日とばかりに、晃は枕カバーをトイレ脇の茂みに投げ捨てる。
 昨日の夢を思えばちょっとだけ惜しい気持ちはあったけれど、その感情自体がもう危険な証拠だよな! と思い直して、そのままくるりと踵を返した、はずなのに。

「……うっわ、マジでついてきてやがる……というか持ち主より先に帰ってるとか、どうなってんだよ!」

 シャワーを浴びて、朝食を取って。
 さて準備をするかと自室のドアを開けた途端、晃はベッドを凝視して思わず枕に怒鳴りつけた。
 ――なにせ枕カバーが、単に晃の元に戻ってくるのみならず、ちゃっかり枕にセットされた状態で……我が物顔をしているように見えたものだから。

「こ……んのぉ……!」

 まるでこちらを揶揄うかのような振る舞いに、晃の頭にカッと血が上る。
 晃はつかつかとベッドに近づくと、乱暴な手つきで枕カバーを剥がし、ガラッと窓を開けて

「おりゃあっ!!」

 全力で寝具を放り投げる。
 そうしてすぐさま窓を閉め、後ろを振り向き

「ふぅ、これでどうだ……って早っ!? おまっ、今投げたばっかだよな? どんなコントだよ!」

 ……ある意味予想していた展開に、呆れ混じりの声を投げつけた。

 そこからはもう、お互い(?)意地の張り合いである。
 窓の外に、ドアの向こうに、クローゼットの中に、ついでにマットレスの下に……
 ありとあらゆる場所へ枕カバーを隔離しても、振り向けばさも当然のような顔をして枕にセットされている藍色の寝具。
 しまいには隠そうとする晃の手をすり抜け、ふわふわと飛んで枕に覆い被さりに行くようになってしまい、流石の晃も「こりゃ無理だわ」とその場にへたり込む。

「晃、そろそろ出ないと遅れるわよ!」
「ぜーっ、ぜーっ……い、今行くっ!! くそっ、朝から余計な体力を使わせやがって……」

 階下から呼ぶ母の声に、晃は慌てて下着と制服を取り出す。
 鏡を見ながらきっちりささやかな女らしさを閉じ込め、男の徴を作る膨らみに「うへぇ」とげんなりした顔を見せながらも、その手つきは手慣れたものだ。

「……ま、調子はいいし、俺が溺れないようにしっかり自制すりゃいっか……」

 紫のタイをキュッと結んで、鞄を手にした晃は「だがな!」と捨て台詞を枕カバーに投げつけ、外の世界へと飛び出していった。

「いいか、少しでも余計なことをしてみろ? そのつやつやの布地がボロボロになるまで毛だらけの猫用ブラシでとかしてやるからな!! あとお前は、どれだけいいことをしようが呪物だ、それだけは譲らない!!」


 ◇◇◇


 それから、一月あまりが過ぎた。
 晃はあの日以来、毎日のように白い夢の中に潜り込んではお尻の妖精と楽しい時間を過ごしている。

 当初はどこかぎこちなかったお尻も、最近では晃の姿を見つけるなり「ご主人様!」と花が綻ぶような笑顔で駆け寄ってくるようになった。
 いつの頃から白い世界に登場した真っ白なソファは、恐らく「掴まるものが無いと叩きにくいな」と寝起きに零した晃の要望を組んだものだろう。
 全くお節介な奴だと思いながらも、夢の中が快適になったのは事実なのでありがたく使わせて貰っている。

(もっとのめり込むかと思ったけど……ま、所詮夢だしな)

 寝具の効果でぐっすりと眠り、夢のプレイで泥の圧力を逃がしているお陰か、晃の体調はすこぶる快調であった。
 男への果てしない怒りが消えたわけでもなければ、補整下着無しに制服が着れるようになったわけでもない。
 ただ、身体のキレは明らかに良くなったし、周囲とも少しだけ余裕を持って接することが出来るようになったとは思う。

 何より、衝動を発散するために動画を見る機会は激減した。
 夢で多少感覚はあやふやとは言え、やはりただ眺めているのと己の身体を使うのとでは全く違うなと、今日も今日とてお尻の悲痛な叫びを聞きながら晃はうっそりと笑う。

 このまま上手く寝具を使いこなし、夢で上手くガス抜きを続ければ、時間がかかってもいつか普通の幸せを取り戻せる日が来るかもしれない――
 そんな希望すら抱くようになったある日、晃に発せられた妖精の一言が、世界を塗り替える。

「あの、ご主人様……私のことはブタとお呼び下さい」
「…………ブタ?」
「あ、何なら変態とかゴミマゾとかでも」
「んん?」

 そう言えば自分は、このお尻のことを何と呼べば良いのだろうか……
 ふと言葉に詰まって思案していた晃に、お尻の妖精は事もあろうにとんでもない提案を持ちかけてきたのだ。

(…………ブタ、だって?)

 あまりにも唐突なお願いに面食らいながら、しかしその場ではあまり深く考えず「じゃああんたは、今日から小ブタちゃんだ」と妖精に宣言した。
 その瞬間の彼女の表情は、今でも忘れられない。
 心から蔑称を喜んでいるようで、けれどその瞳の奥には……どこか諦めを含んだ濁りがちらついていたから。

「……いや、あれはおかしいだろ」

 初めての道具を使ったスパンキングに高揚した気分のまま、晃はいつものように朝の走り込みに向かう。
 吐く息は白くて、キンと頭が痛くなるような冷たさが晃に冷静さを取り戻させ……そして、彼女は今更ながら違和感に気付くのだ。

「枕カバーが作るのは、俺の願望だよな……? じゃあなんで、あの尻は俺にブタ呼ばわりをしろなんて言ってきたんだ?」

 夜明けはまだ遠く、街灯に照らされたランニングコースを走りながら、晃は自問する。

 確かに自分は、歪んだ嗜虐嗜好の持ち主だ。
 誰かを甚振ることで、その傷みを想像し悲鳴を耳にして恍惚と快楽を覚える、危険人物だという自覚はある。
 けれど男はともかく、女の子に対して侮蔑的な言葉を投げたり、尊厳を破壊し尽くすような扱いを――あのお漏らしはともかくとして――好む趣味はない、と。

 だというのに、お尻の妖精はまるで心から望んでいるかのように、ブタ扱いを喜びそれどころか興奮さえしていた。
 つまり――

「っ、てめぇ何てことをしやがるんだ!!」

 自宅に帰るなり、晃はバン! と自室のドアを乱暴に開ける。
 そうしていつものように鎮座していた枕からカバーを引っぺがし、全力で……そう、引き千切らんがばかりに引き延ばしながら、怒鳴り声を上げた。

「あの尻は、お前が作ったものじゃないだろう! あれは……あの子は、この世界のどこかにいる、実在する女の子だ! 違うか!?」
「…………」
「何とか言いやがれ、このクソ枕カバーが!!」

 晃が更に力を込めて破こうとすれば、枕カバーがチカチカと淡い光を点滅させた、気がした。
 良く見ればいつもよりサイズも小さくなっている気がする。もしやこいつ、こちらの言葉だけでなく感情も解して……晃の剣幕に怯えているのか。

「あああもうっ!! 何てことをしちまったんだ、俺は!!」

 枕カバーを握りしめた拳を、晃はベッドマットに叩き付ける。
 何度も、何度も……いくら知らなかったとは言え、己の淀んだ欲望の捌け口として、ただの便利な尻として彼女を傷つけ続けてきた、そんな自分を罰するかのように。

「くそっ……くそっ、俺は、あの子に……ううっ……!!」

 ぽたり、と握りしめた拳に雫が落ちる。
 泥を流し込まれる苦痛を誰よりも知っているはずなのに、自分はあのクソ野郎と同じ事をしてしまったのだ。
 今この瞬間も、自分の淀みを叩き付けられた彼女は、同じ空の下で抗えない泥に溺れているかもしれない――

(何故、気付けなかった? ……どうして最初から、都合のいい尻だと決めつけて、相手を見ることを止めた!?)

 己の欲望に溺れ、目が眩んでいた自分が、どうにも腹立たしくて、許せない……
 嗚咽を零す晃の姿を、藍色の織物はただ静かに眺めている。

「……いいか、このクソ枕カバー」

 やがて、晃がゆっくりと顔を上げ、改めて藍色の織物を掴む。
 その瞳は真っ赤に充血していて、何より己への怒りと覚悟が滲んでいて。

「絶対に、現実のあの子を傷つけるな。……夢の中のことは俺が何とかする。お前は余計な事をせずに、あの子を全力で守りやがれ、分かったな……!」
「…………」

 年末の少し浮かれた空気など吹き飛ばすような、冷たい圧が織物を射貫く。
 ……次の瞬間、分かったと言わんばかりに枕カバーはチカチカと晃の手の中で点滅するのだった。


 ◇◇◇


 それからというもの、晃の「小ブタちゃん」への扱いはがらりと変わった。

 ……といっても、表面上はそれほど変化は無いように見えるとは思う。
 これまでの経験から、彼女が心の底からスパンキングを楽しんでいること、そして無意識の感情はともかく、本人はブタだゴミだと蔑まれそれ相応の扱いを受けたいと望んでいることは確実だったから。

「その、もっとご主人様の自由に、なんならゴミマゾブタって汚物を見るような目で詰りながら全力で打ってもらっても」
「そう言うのは俺が決めるの。小ブタちゃんが指示してどうするのさ」
「あ……ご、ごめんなさいご主人様、ブタ風情が生意気な口を」
「…………はぁ、まったく……」

(あー今のは……ちょっと漏れちゃったかな)

 新しい獲物で散々尻を堪能し、赤くなった肌に指を這わせて己の「成果」にうっとりする中、晃の諌言でふっと曇る彼女の瞳に、晃は慌ててご主人様としての顔を取り繕う。

 女の子をブタ呼ばわりする趣味は無いとはいえ、彼女が望んでいる以上全てを突っぱねるのは忍びない。
 とはいえ、過激な要求に乗る気はない。無理をして彼女の変態極まりない欲求に合わせてしまえば、恐らくこの内を満たす泥は更に勢いを増し、結果的にこの子を打つ手を凶器に変えてしまうだろうから。

 ただ、本心で無いという事実は変えようも無くて。
 晃は彼女を「小ブタちゃん」と呼ぶ度(だめだよ、あんたは立派な女の子だ。ブタなんかじゃない!)と叫び出しそうになるのをずっと押しとどめていたのである。

(だめだ、ちゃんとご主人様として振る舞ってあげなきゃ……安全な範囲で、俺も楽しませて貰っているんだから)

 それでも晃は、この夢を放棄する気にはなれなかった。
 突然自分がここに来なくなれば彼女はきっと戸惑うだろうし、何より晃にとってもままならない衝動を発散し楽しむ場は思った以上に心の支えとなっていたから。
 ――ただし、安全には心を配りながらだが。

 彼女が実在する人物だと分かったその日から、晃は勉強もそこそこに調べ物に没頭する日々を送ることとなる。
 その対象は、現実におけるSMプレイ、特にスパンキングに関する情報だった。

「あーもう、こういう抜き動画じゃなくってさ……俺が欲しいのは、実際にどうやりゃいいかって事なんだってば……!」

 ネットで情報をかき集め、書籍や動画を購入し、SNSで見つけた「同士」にやり方を教えて欲しいとDMを送ったこともあった。
 例え夢の中とは言え、あの子を傷つけるわけにはいかない。……まあ、スパンキングを筆頭としたペインプレイは傷つけること自体が目的ではあるけれど、少しでも安全に、そしてお互いに楽しく――

 これまでの所業への罪悪感故か、晃の「まっとうな」プレイに対する情熱は留まることを知らない。

「よっし、今日はこれを試すか。んじゃ旭、机に手をついて尻突き出して」
「うへぇ……頼むから俺の尻を壊すなよ! あと、十回厳守だぞ! それと俺の共テ対策は協力して痛ってえぇぇ!!」
「へいへい、ちゃんと数学は見てやっからさ。んー、もうちょい力抜いて叩いた方がいいんだな。自分の尻を叩くのとは勝手が違いすぎる」
「はぁ!? お前自分の尻まで叩くとかどれだけ変態ぐはぁっ!!」

 都会という地の利を活かし、兄を無理矢理連れ出し決死の覚悟でその手の実店舗に突撃して、現物を手に入れついでに兄の尻を借りたこともある。
 ……まあ、兄とは言え流石に男相手ではやり過ぎることもあるから、回数だけは事前にしっかり決めておいたけれど。

(でも……前よりは、旭や父さんに手が出ることはちょっとだけ減った気がするな。知らない男は相変わらずだけどさ)

 嗜虐の衝動は、全く消える気配がない。
 この綺麗ともてはやされる顔の下には、植え付けられ増殖した泥が、はち切れんばかりに詰めこまれている。
 今だって男に触れられれば、まず最初に股間を潰しに足を振り上げたり、昏倒させるために顎を狙ったりと殺意の高い攻撃が無意識に飛び出てしまうのだ。

 それでも、晃の中には明らかな変化が訪れていて。

(……お尻を叩くのは、あの子だけがいい)

 ふわふわの栗色の髪に、くりくりしたヘーゼルの瞳。
 手のひらを見れば、そして新たな獲物を振り上げれば、恐怖と共に瞳にはどろりとした欲情が灯り、ぷっくりした頬は大粒の涙で濡れ、高い声でちょっと甘さの混じった悲鳴を上げる。
 かと思えば、尻をまったりと愛でる晃の視線に震え真っ白な身体をピンクに染める初々しさは、今も変わることが無い。

(確かにぽっちゃりしてるけどさ……いいじゃん、めちゃくちゃ女の子、って感じだし)

 ぐずぐずと泣きべそをかく顔も、うっとりと獲物を見つめる瞳も、彼女の全てはいつだって晃を昂ぶらせて。
 何よりあの子は、心の底からこの汚れきった手のひらを求めてくれる――

「…………」

 風呂上がり、いつものように晃はベッドの上にあぐらをかき、目の前の枕を……正確には藍色の枕カバーを見据える。

(あの子が女の子だから、俺はこのどうしようも無い歪みを楽しめるんだ)

 しばしの沈黙の後、彼女はすっと目を細め……相変わらずドスの効いた声で、どことなく縮こまっている枕カバーに向かって「お願い」を口にするのだった。

「なぁ、夢の中でももうちょっとさ、俺の手のひらに痛みを感じるようにしろよ。……あの子の尻には罪はないんだ。なのに俺にはこの歪みをぶつける罰も……痛みも無いだなんて、あまりにも俺の勝手すぎるだろう?」


 ◇◇◇


 呪いの枕カバーが晃のベッドに居座るようになって、四ヶ月あまり。
 夢でのプレイを楽しむ日々も、学園生活や稽古に明け暮れる日々にも特段の変わりは無いまま、晃は泥に塗れた幾度めかの春を迎える。

「晃先輩は、進路希望もう出したんですか?」
「ああ、俺は工学部一本だから。材料工学科に進みたいんだけど、まあ工学部ならどこでもいいかなって」
「うはぁ流石先輩、工学部なんて格好いい……うちらの成績じゃ絶対希望通らない……」
「そもそも内部進学で、工学部を希望する子はほぼいないけどな。今年の新入生だって工学部は半分以上外部受験だし」

 この女子校は、附属する女子大にほぼ全員が進学する。
 大学は外部受験するにはそれなりの難易度だが、内部進学では余程成績が悪くない限り希望の学部への進学が保障されているため、三年生になっても周りの空気はのんびりしたものだ。

(あの時無理矢理ここ入れられて、本当に良かったよな……余計なことを考えなくてすむ)

 晃はこの春大学に進学した兄の奮闘を思い出し、ようやく家庭教師もお役御免だなと心の中でほっと胸をなで下ろす。
 あの数学の出来で、よくぞ志望校に入れたものだ。これで少しは、迷惑ばかりかけてきた兄に報いることが出来ただろうか……

「どうしました? 晃先輩」
「ん? ああ、何でも無い。そろそろ教室に戻ろうか」

 友人達と教室へと向かう晃の胸に過るのは、あの夢の中の「小ブタちゃん」だ。
 随分小さくて丸っこい彼女だが、恐らく歳は自分とそう変わらないはず。あの子も今頃、どこかの空の下でこうやって他愛ない会話を楽しんでいるのだろうか――

(……少しでも現実世界を楽しんでくれているといいけど)

 名前も知らない彼女が、どうか少しでも心穏やかに日々を過ごしていますように……
 いつの頃からか、晃はふとしたときにあの丸っこくて大きなお尻が可愛い彼女の平穏を祈るようになっていた。


 ◇◇◇


 そんなある日の夜。
 晃は、目の前の全裸の小ブタちゃんから、思いもかけない提案を受ける。

「あのう、ご主人様。お願いがあるんですけど……」
「なに? いつものおねだりなら、俺は聞かないけど」
「……その」

 いつの頃からか、彼女は毎日のように「もっと家畜以下の存在として扱って欲しい」「手酷い方が嬉しいんです」と晃に強請るようになった。

 当然ながら、晃がその願いを叶えることは無い。
 なるべく感情を出さずに淡々と「それは俺が決めること」と伝えれば、彼女もそれ以上はねだってこないから、どちらかというとこれはプレイの始まりを告げる合図と化しているのだろう。

 とは言え、強請られる瞬間というのは今でも慣れないもので。
 胸の中にざわざわと何かが這い回るような感覚を覚えながら、晃は彼女の口から発せられるいつもの言葉を待つ。

 だが、何度も言いかけては口をつぐむのを繰り返し、ようやっと飛び出した言葉は……思いもかけない安堵を晃にもたらすのである。


「……ご主人様。私のことを……名前で呼んでくれませんか?」
「…………へ?」


 ――最初は一体何が起こったのか、理解が出来なかった。
 けれど同じおねだりが再び彼女の口から紡がれた途端、晃は(やっとだ……!)と心の中で快哉を叫ぶ。

(ああ、やっと、やっと……俺はこの子を、小ブタちゃんと蔑まなくてすむ……!)

 どうやら自分は、思った以上にこの子を小ブタちゃんとして扱うことに苦しんでいたようだ。
 突然訪れた苦役からの解放に言葉も無く喜びに打ち震えていれば、返答の無いことに不安を覚えたのだろう「あのう……」と控えめな催促が下から聞こえてきた。
 ハッと我に返った晃は、慌てて――彼女の気が変わらぬ前に――名前を尋ねる。

「えと、知世、です。知ると、世界の世で、知世」
「ふぅん。良い名前じゃん」
「え……あ…………はい」

(可愛い、女の子らしい……うん、あんたに似合いの名前だな)

 知世、知世……と何度も口を動かす晃の表情がふっと緩む。
 ネックゲイターがあるから、きっと彼女は晃の笑顔に気付いていないだろう。ここはあまり喜びを見せない方が彼女の好みだろうと晃は咳払いをし、そして凜とした声で、その二文字を音にした。

「知世」
「…………っ、はい!」

(あ……色が、変わった……)

 初めて口にした、彼女の名前。
 呼んだ瞬間に、知世の存在が急に鮮やかになったように感じて……ああ、これでこの子を一人の人間として扱えたのだと、晃の肩からふっと力が抜ける。

(……いい顔するじゃん。小ブタちゃんって呼ばれた時より、ずっと……可憐だ)

 プレイの開始を告げれば、今日は軟膏塗りでのスパンキングを所望する知世が、ゆっくりとソファの後ろに回り込む。
 ほんのり頬を染め、大きな瞳を輝かせ、その中に歪んだ欲望を携えて……その姿はいつも以上に期待を煽り、晃の熱を上げていく。

(知世も、現実では色々あるんだろ? ずっとここにいたいくらいには、さ……なら、せめて夢の中にいる間は全力で、お互い楽しまないとな!)

「ご、ご主人様……今日もいっぱい、お尻ぺんぺんして下さい……!」
「いいよ。俺がいっぱいその可愛い尻を愛でてからな」

 晃は上擦ったおねだりと共に目の前に差し出された大きな尻を、今日も望む限り鳴かせてやると宣言するかのように、軟膏塗りの角でつぅとなぞるのだった。


 ◇◇◇


 ――晃が知世の瞳に時折宿る濁りに気付いたのは、彼女がただの尻で無いと知った頃だったか。

 彼女の身の上に何があったのか、詳しいことは分からない。
 そもそも知世は、自分が現実世界に存在する誰かであることに今も気が付いていない、と思う。

 ただ、彼女もどこかでその泥を流し込まれ、それ故に晃とは別の方向に歪まされ。
 そして「お布団さん」と彼女が呼ぶ……恐らくはあの枕カバーの親戚によって、この白い夢の中へと誘われた――それだけは間違いない。
 故に晃は、知世の期待するご主人様として振る舞いながらそれとなく探りを入れ、何よりこの白い世界に永遠に棲み着こうとする想いを上手く逸らさせることに、四苦八苦している。

(ほんっと、呪い以外の何者でもないだろ、お前ら!)

 晃は知世の尻を愛でながら、心の中でベッドに居座る枕カバーとまだ見ぬ「お布団さん」に苛立ちをぶつける。
 知世がかけた願いは……なんて考えるまでも無い。
 きっとあのクソ寝具達は、互いの願いが歪ながらもマッチングするように仕組んでいるに違いないから。

「……じゃ、今日もいい声で鳴いてくれよ、知世」
「っ、はい……!」

 だがどれだけ毒付いたところで、結局自分に出来ることはたかが知れている。
 互いの泥と歪みを持ち寄り、願いを叶えて明日を生きるための、力に変えることだけ――

 パチン!! パチン……パチッ!!

「ひぎっ、いだいっ、ごめんなしゃいっ、ごしゅじんしゃまぁっごめんなしゃいぃ!!」

 柔らかい肌に吸い付くような感触と、金属の柄の重さ。
 少しだけ鈍い打撃音に続く知世の叫び声は、最初から涙混じりで……ゾクッとするほどの艶っぽさを纏っている。

(なあ知世、俺達は)

 晃からは、どう考えても泥を流し込んでいるようにしか見えないのに、知世は汚れの無い快楽としてこのどうしようも無い歪みを受け止めてくれて。
 その歪な心地よさが、楽しくて、嬉しくて……そして、どこまでも悔しい。

「ほら、もっといい声で鳴けるよ、なっ!」
「うわあああんっ!! いだいっ、ごしゅじんじゃま、いだいい!!」

(俺達はいつか……この呪いから解放される日が、来るのだろうか)

 ご主人様として、嗜虐の快楽にネックゲイターの下で頬を染めながら、晃は今日も先の見えない未来への不安を振り払うかのように、腕を振るうのである。


 ◇◇◇


「晃さ、好きな人でも出来たの?」
「……はぁ? 俺に好きな人? 出来るわけねーじゃん!」

 梅雨に入り、うんざりするような湿気が続くある日。
 間合いを保ちながらも懲りずにリビングで寛ぐ晃の側へと突撃してきた兄が、ふと突拍子も無い事を訊ねてきて、晃は思わず目を剥いた。

「あのさ、今の俺のどこに恋愛なんて要素があるんだよ……なに、大学入って彼女が出来たからって、脳みそ溶けたんじゃねえの、旭」
「いいじゃん、ちょっとくらい浮かれたってさ! でもおかしいな……この感じ、絶対晃にいい人ができたんだと思ったのに」

 兄の言葉に、晃は「うーん……」と首を捻る。
 双子だからだろうか、晃と旭は互いの感情や状況が話さなくても何となく通じるときがあるのだ。
 それにしても恋人は流石にない、と言い返そうとしたその時、脳裏に思い浮かんだ泣き顔に「あ」と晃は声を上げた。

「あー……もしかしたら」
「お、心当たりあるんじゃんやっぱり」
「いや、恋人じゃねーし恋愛感情もゼロだけど! けど……」
「けど?」
「……よく分かんないけど、大事だなって子はいる」

(いやいや、いくら何でも恋愛は無いわ! 大体知世は女の子だし、そもそも恋って……こんなドロドロで歪みきった物じゃ無かったからな!)

 考え込んでしまった晃を、兄は何も言わずそっと見守る。
 その瞳に浮かんでいた色に、晃が気付くことは無い。

「……よくわかんねえけどさ、晃に大事な人が出来たってのはいいことだよな」
「なんだよそれ」
「ははっ、恋人か友達か知らねえけど大切にしろよってこった」
「だから恋人じゃねえって言ってるだろ!!」

 軽口を叩きながら、晃は自室へと向かう。
 思いがけず差し込まれた「恋人」「友達」という概念に、動揺と反発を覚えつつ。

(……そんな名前の付くものじゃないんだよ、俺らは)

 ただ、知世を傷つけたくない。
 そして……あの大きな瞳から涙を零させ、ぐしゃぐしゃの顔で濁った悲鳴を上げさせたい――
 こんな矛盾だらけの感情に、言葉という枠はあまりにも小さすぎる。

(いーんだよ、そういう名前を付けるのは現実世界だけでいい)

 扉を開ければ、いつもと変わらず藍色の織物は枕を覆って鎮座している。
 今日も晃はいつもと同じように、ベッドにあぐらをかいてその美しい布地に胡乱な目を向けながら、低い声でお願い……という名の恐喝を施すのである。

「いいな、知世に余計なことをするんじゃねえぞ。あの子を鳴かせて良いのは俺だけなんだからな!」
「…………」
「よし、寝るか」

 ふわりと淡い光を放つのは、応諾の印、ということにしている。
「おい、いつまでも光ってたら寝づらいだろうが」と文句を言いつつ、晃は明かりを消してほんのり輝き続ける枕に頭を乗せた。

 ――二人にとっての転機がまさに今から訪れるなど、欠片も思わずに。


 ◇◇◇


 物には適した役割というものがあるのだと、晃は興奮を隠しきれない瞳で足元を眺める。
 そこにはもちもちした赤いお尻を時折悩ましげに揺らしながら、恍惚とした表情で「餌」を貪る知世の姿があった。

(思いつきでやってみたけど、これはなかなか……うん、そそるな)

 泣き顔と悲鳴以外の新たな楽しみが出来たと、晃は一人ほくそ笑む。

 彼女が今日の獲物として持ち込んだペット用の餌皿は、晃の予想通りスパンキングの道具としては失格だった。
 持ちづらいし、力は入れにくいし、ついでに打撃音もへっぽこで……シチュエーションが刺さっているであろう知世すら「これは物足りない」と微妙な表情を浮かべる始末。

 結局餌皿を放り出し、しこたま手のひらで吸い付くような肌と知世のいい声を堪能した晃は、何となくの思いつきを心の中で唱える。

(……おい、枕カバー。餌皿に盛って知世に食わせるのに良さそうな物を出せ。あ、知世の好物がいいな。向こうのお布団さんとやらに聞きゃ分かるだろ? 変な物を出したら……ってはやっ!)

 知世が持ち込む道具のお陰で、夢の中に物を具現化させるコツは分かっている。
 案の定、どちらかの寝具が出したであろうミューズリーが餌皿に盛られるのを目にした知世は、途端目をキラキラと輝かせて如何にこの商品が素晴らしいかを息継ぎ無しで語り出した。

 ――前から思っていたが、この子はおやつとスパンキングがかかると実にチョロい。あまりにも与しやすすぎて、ちょっと心配になるレベルだ。

「はぁっ、はぁっ……ご、ごちそうさまでした……じゃなかった、わん……っ!」
「……ははっ、そんなに気持ちよかった? ピンクに染まって小ブタちゃんになっているじゃん」
「ぁ……んっ、はいぃ……」

 ベトベトに汚れた口の周りを、晃はこれまた枕カバーに出させた濡れタオルで丁寧に拭う。
 うっとりとした表情でされるがままになっている知世の姿は、不思議と晃の荒れ狂う泥を鎮めてくれるようだ。
 ……いや、尻を叩きたい欲望は変わらないけれど。

(あんなに苦しかったのにな……今は呼んでも、何ともない)

 知世の名前を知ってから、小ブタちゃんと呼ぶ事への抵抗は自然と消え失せていた。
 どうやら名前呼びを許されたことで、蔑称はあくまでも「一人の女の子である」知世を喜ばせるために使うものだと、晃の中で認識が書き換わったらしい。

 この子が痛みと侮蔑を必要とすることに、変わりは無い。
 それでも時には違う形でその泥を忘れることが出来るなら、それはお互いにとって悪いことでは無いなと、晃の言葉にすっかり妄想を膨らませる知世にまんざらでもない晃であった。

 ……だが、初めての日に成り行きでやってしまったお漏らしプレイだけは、断固拒否される事に変わりは無くて。
 いくら割れ鍋に綴じ蓋でいい感じに嵌まった関係とは言え、スパンキング以外の趣向を合わせるのは難しいものだ。

(いや、これだけはいつか絶対やらせてもらう! 俺だって、知世のブタ扱いに散々付き合っているんだしな!!)

 晃が不穏な決意を心の中で立てているともつゆ知らず、知世は実に幸せそうな表情で学食のおやつについて語り続けている。
 これも、知世の名前を知ってからのルーティンだ。
 プレイの後は目覚めのアラームが鳴るまで、彼女がひたすら美味しそうなおやつについてのマシンガントークを続け、自分はそれをふんふんと相槌を打ちつつ真っ赤に腫れ上がった素敵なお尻をじっくりと愛でる。

(いつ見ても良い色だな……めちゃくちゃ痛そうだけど……)

 自分でやっておきながら今更だとは思うけれど、良くこんな酷い痕が残るほどの痛みを喜べるものだと、晃は知世の変態っぷりに感心する。
 そして、何の気なしに……そう、本当にただの世間話のつもりで、晃の手のひらにどこまでも愛おしそうに頬ずりする知世に、前々から気になっていたことを口にしてしまったのだ。

「ご主人様が与えてくれるのは、全部汚くない『きもちいい』だから」
「…………汚い気持ちいいって、何?」

 そして、彼女の口からようやく、その正体が露わになる――


「パパの手で気持ちよくなると、絶対取れない汚い物がへばりつくんですよね」


 世間話の続きとして、笑顔を浮かべながらさらっと語られた、知世の泥。
 その一言を聞いた瞬間、晃の目の前が真っ赤に染まる。

(パパ……は? パパ、だって……!? 嘘だろ、それは……!!)

 帽子とネックゲイターで、不審者然とした姿を保っていて本当に良かった……
 晃は思わず叫び出したくなる衝動を必死に押さえつつ、勉めて冷静に知世の話を促す。

 ――彼女の中に流し込まれた、否、今も塗り込められている泥は、晃のそれとはあまりにも様相を異にした……そして信じがたいものだった。
 何があっても最後まで味方であると信じて疑わない親という存在が彼女を泥の中に突き落とすことも、そしてその事実を笑いながら平然と、けれど大きな瞳から光を失ったまま口にする知世も、何もかもが晃の世界には無いものばかりで。

(……知世は、これを普通じゃ無いけど「普通」だと思っているんだ)

 家族という真綿でくるまれ、巧妙に仕組まれた罠。
 ここまで腐臭が漂ってきそうな醜悪さを流し込まれ、それでも無知であるが故に笑って受け入れることしか出来ない……
 その素敵な尻の中に詰め込まれていたのは、罪だと断じることすら許されなかった、名前を付けられていない害悪だと気付いた瞬間、晃の中で何かがぷつんと切れて

「……いいか知世、良く聞け。…………それは、虐待って言うんだ」

 泥を持つ悲しみに呼応した晃の泥と黒い業火が、彼女を飲み込んだ。


 ◇◇◇


「…………やっちまった…………くそっ、何で俺はいつもいつも、大事なときに限って考え無しに動いてしまうんだよ……!」

 いつもの時間に目を覚ました晃は、飛び起きるなり己の頭を支えていた枕を思い切りぶん殴った。
 緑がかった水色の瞳からは、幾筋もの涙の跡が頬を伝っていて、寝起きだというのに目元は真っ赤に腫れ上がっている。

 間違えたことを言ったつもりは無いという、晃の考えに変わりはない。
 あのまま放置すれば、知世はいずれ完全に泥に飲み込まれ白く甘やかな世界へと耽溺するしかなくなる。
 そうなればこの呪いじみた織物のことだ、彼女の望むままその心を夢の中に……永遠に閉じ込めてしまうに違いないから。

「だからといって……言い方ってものがあるだろう!」

 事件後、晃は治療の過程で世の中には信じられない形の性被害が思った以上に蔓延していることを知った。
 けれど晃のように真っ当な治療と支援を受けられる例は希有で、大抵は被害を訴えることも……否、気付くことさえも出来ず、自分の責任と汚濁を押し込めざるを得ない。

 それが被害であると知ってしまえば――あまりにも壊れる物が大きすぎるから。

 だから、晃は彼女の話を聞いた段階で即座に判断する。
 知世の笑みは、明らかに現実を知らない、もしくは一生懸命見ないふりをしているそれだ。だから慎重に言葉を選んで、彼女の自覚をゆっくりと待つべきだ――

 残念ながらその判断は、何に対してか自分でも分からない怒りで、見事に塗りつぶされ。
 直裁に現実を突きつけ、必死に自分を守ろうとする知世を追い込み……それどころか、この手のひらを凶器に変えて無理矢理彼女の本音を引きずり出してしまった。

「俺じゃ無いんだぞ……あの子にはあまりにも厳しすぎるだろうが……」

 再び溢れてきた涙をごしごしと拭って、晃はいつものようにジャージに着替える。
 既に明るくなった外は相変わらず嫌になるほどの湿気を帯びていて、どれだけ汗をかいてもこの重苦しさは晴らせそうに無い。

「……もう、来ないかもな」

 ぽつぽつと降りだした雨を避けることも無く、晃は淡々と公園を走り続ける。
 今は少しくらい雨で冷えた方がいい。それに……動いていないと、出口を失った感情に翻弄され叫びだしてしまいそうだから。

 あれほどまでに頑なに認めようとしなかったのは、きっと彼女の心を守るだけではない。
 認めてしまえば、彼女が大切にしてきた「家」が砂のように崩れてしまうからだろう。
 後先考えずに逃げろと叫んでしまったけれど、では同じ立場に自分が置かれたとして、どうやって家から逃げ出し、生きていくことが出来るだろうか――

「知世……ごめんな」

 本格的に降り出した雨を浴びながら、晃はその場に立ち尽くし空を見上げる。
 そうして、きっと今頃あの子の心はこの空よりも暗く濁っているに違いないと、まだ見ぬどこかにいるであろう彼女に平穏が訪れることを、ただ祈るのだった。


 ◇◇◇


「……知世?」
「あ、ごしゅじんさまぁ……はぁ、はぁっ……」

 その夜。
「絶対に無理矢理知世を連れてくるなよ? お前の仲間のクソ布団にも良く言い聞かせておけ!」と何度も枕カバーに凄んで眠りについた晃の前に、知世はまるで何も無かったかのように笑顔で現れた。

 だが、今日は少し様子がおかしい。
 白い肌は全身がほんのりピンクに染まっていて、目は潤み、まるで熱に浮かされているかのようだ。
 いきなり出来上がってるな!? と目を丸くした晃は、いつものようにソファの足元へと跪く知世の様子を少し戸惑いながら眺める。

(……ん? 知世、震えてないか……?)

「はぁっ……ご、ごしゅじんさま……おしり、ぺんぺん……」
「あ、ああ……今日は何にする? ってちょ、知世めちゃくちゃ身体熱くないか!?」
「あれぇ……? 夢の中なら、元気だと思ったのにぃ…………」
「…………はい?」

 爪先が触れた知世の身体は、随分熱を帯びている気がする。
 おかしいなぁと、こてりと首を傾げる知世の唇は、良く見れば真っ赤で。
 晃は慌ててソファから飛び降り、額に手を当てながら「……で、寝る前は何度だったんだ?」となるべく感情を抑えて訊ねる。

 果たして晃の予想は見事に当たっていて。

「えへ……よんじゅってん、にど……さんど……あれぇ、どっちだっけぇ……?」
「っ、この馬鹿知世!! 寝ろ!!」
「……ええ……おしりぃ…………」
「却下だ。いくら俺だって、こんなふらふらの奴の尻を叩けるか!! うおっ知世、結構重いなっ!!」

 晃はぽやぽやと状況がよく分かって無さそうな知世をふんぬと抱え上げ、ソファに無理矢理寝かし「おいこらクソ布野郎共!!」と白い空間に向かって思い切り声を張り上げた。

「今すぐ布団と枕と、あとアイスノンも出しやがれ! あ、冷たい水もだ! あとは……ええと、プリンとかヨーグルトとかだな、食べやすい知世の好物を持って来い!」

 空間を震わす晃の叫びが消えないうちに、床にどばどばっと注文したグッズが現れる。
 追加で冷えたゼリー飲料やハーブティ、チキンスープまで並べられているあたり、あの傍迷惑な寝具達も流石に申し訳なさを感じているのかも知れない。

「ったく……だから無理に知世を連れてくるなと……」

 ぶつくさ文句を言いながら、晃はてきぱきと看病体勢を整える。
 頭を冷やせばうつらうつらと船を漕ぎ始めた知世であったが、なんとなくプリンを掬って口元にスプーンを近づければ、ちゅるん! ともの凄い勢いで腹の中に収めてしまった。
 ……まあ、熱が出ていても食べられるのはいいことだ。いいことだけど、まさか持ち込まれた物を早々に食べきってしまうとは、この子の胃はブラックホールか何かだろうか。

「ん……むにゃ…………あんまん……」
「それは元気になってからな! ……はぁ、調子が狂うわ……でもそっか、来てくれたんだな……」

 もう逢えないかも知れないとあれほど晃を苛んでいた不安は、へろへろの知世によって見事に吹き飛ばされた。
 あんな酷いことを言ったのに、そしてこんな状態になっても自分の手のひらを求めてくれたのかと思うと、つい顔がにやけてしまう。

「…………にげる……にげ、たい……? ……にげる……」
「うん…………ごめんな知世、酷いことを言っちまって……」

 譫言のように「逃げる」「逃げたい」と呟く姿に、晃の顔がくしゃりと歪む。
 その言葉に感情は伴わず、ただ機械的に繰り返される言葉に胸を痛めながら、晃はいつまでも知世の頭を優しく撫でていた。

「……今は逃げなくていいんだ、知世。……またいっぱいお尻を打ってやるから、早く元気になれよ」


 ◇◇◇


 それから一週間あまりが経った。
 すっかり元気になった知世は、どうやら熱を出していた間のことは覚えていないらしい。
 これまでと変わらず「ご主人様、今日はこれでお願いします!」とあまりに増えすぎて新設された棚から好みの獲物を持ってきては、すっかり欲に蕩け潤んだ瞳で痛みを強請る。

(うん、知世がそれを選んだなら、それでいいんだ。……夢に溺れないようにだけ、してやらないとな)

 あの日以来、虐待に関する話が二人の間に上ることは無い。
 きっと知世は、ひとまず晃の話を無かったことにしたのだろう。
 少し悲しさは残るけれど、この子が心安らかにいられるならそれでいい――晃も彼女の意思を尊重し、これまで通り楽しくお尻を愛でる方向に舵を切った。

 ……そう、そのはずだったのに。

「……外部受験?」
「はい。ご主人様が言ってたとおり、私取りあえず逃げてみることにしました!」
「取りあえず、って……いや確かに俺は逃げろと言ったけどさ、それで本当にいいのかよ!?」

 夏休みに入って数日後、いつものように晃を見つけるなり満面の笑みで駆けつけた知世は、床にぺたりと座るなりとんでもない発言をかましたのである。

(え、いや逃げるって、そう言う方向!? まあうん、確かに家出するよりはよっぽど安全で現実的だけどさ……)

 目を白黒させながら話を聞けば、どうやらこの作戦は常々おやつでお世話になっている食堂のお兄さん、の従者からの提案らしい。
 なんだ従者って、と全力で突っ込みたかったが、ここはぐっと堪えて傾聴に徹することにする。

 しかし話が進めば進むほど、晃は頭痛を覚えて天を仰ぐ羽目になって。

(待て待て、俺が勧めたから自分の気持ちも分からないけど逃げるって!? いや、いくらお尻を打ってくれる理想のご主人様だからって、チョロすぎやしないか? 大体知世あんた、俺のことまだ自分が作った妄想だと思ってるよな? 妄想の妄言で人生決めるお馬鹿が、どこにいるんだよ!!)

 素直とか、馬鹿正直とか、そんなまともな概念で定義するにはあまりにもこの子は危うい。
 話に聞く学食のお兄さんが、何故これほど知世を餌付けし面倒を見ているのか、晃は今身をもって痛感した。
 ――自分のようなひねくれた人間ならいざ知らず、こんなおやつとスパンキングがかかるとチョロいポンコツになってしまうぽやぽや娘に呪いの布団を(きっと意図的ではない筈だ)渡してしまえば、とても放置なんて出来やしないだろうと!

「……当然、成績は大丈夫なんだよな?」
「大丈夫、の筈です! 明日の模試で成績が上がってれば、きっと、多分」

(なんだその反応、悪い予感しかしないじゃんか!!)

 更なる追撃に、晃はがっくりと肩を落とす。
 もはや、あまりにも予想外の展開に「……模試は結果が出たらここに持って来な」と不思議がる知世に指示を出すので精一杯だった。

「……あれ、放っておいたら絶対成功しないよな」

 いつもより早めに目が覚めた晃は、涼しいうちにと日課のトレーニングに公園へと向かう。
 見上げればそこには、遠くが少し桃色がかった夜明けの空が広がっていた。

「しののめの……別れを惜しみ 我ぞまづ……鳥より先に なきはじめつる……」

 ふと口をつく和歌に思い浮かぶのは、この色の織物が繋いだ縁だ。

 夜明けの色は、あの織物と同じなのだと気付いたのはいつだっただろうか。
 あの日以来、どれだけ治療に奮闘しようが稽古を重ねようが、この瞳はまるで色をくすませるフィルターがかかったかのように、全てが晃から遠く見えていたというのに……今、こうして空の色を感じられる点だけは、あの枕カバーに感謝してやってもいかもしれない。

「泣くのも、泣かれるのも、やだよな」

 今日はとりわけ、眼前に広がる藍が美しく見える。
 知世が無事に逃げおおせて、その先に夢の逢瀬がどうなるかなんて、今はなんとも言えない。
 もしかしたら彼女はそのうち痛みを必要としなくなって……夢の世界が閉じる日が来るのかも知れない。

 だとしても。
 俺はあの子の泥を、少しでも濯いであげたい――

「言い出しっぺは俺なんだ。焚きつけたからには責任を取る。……覚悟しろよ、知世」

 真一文字に口を結び、晃は東雲の空に知世への助力を誓う。
 晃の言葉を聞き届けたと言わんばかりに、夜の名残の中でひときわ明るい星が輝きを増した気がした。


 ◇◇◇


 それから一月後、晃の家にはいくつもの荷物が届いてた。

「ん? 晃が頼んだのこれ? ……へっ、参考書? しかも数学の?」
「晃あなた、もう内部進学は決まってるでしょ? また何でこんな物を」
「あー、いや、実はさ……」

 荷物を受け取った家族が怪訝な顔を浮かべる中、晃はとある少女の話を打ち明ける。

 SNSで知り合った(ことにした)、同じ学年の少女。
 最初は趣味の話で盛り上がる(嘘は言っていない!)だけの関係だったのだが、ある日彼女は晃に自分が父親から性虐待を受けていることを打ち明ける。
 そんな少女に家から逃げることを勧めたところ、彼女は悩んだ末に家から離れた大学に進学することで、ひとまず家と距離を取ることを決意したのだという。

「ただ、さ……その、彼女の成績が……」
「大分ヤバいと」
「ヤバいなんてレベルじゃない。旭なら分かると思うけどさ……彼女の志望校、実はうちの国際文化学部なんだよ。で、夏の模試がギリギリC判定。しかも数学の偏差値、47」
「はああぁ!? それ俺以下じゃんか!! え、しかもこの時期にC判定? 晃のとこ、文系でも60くらいあるよな? いくら何でも無謀過ぎね!?」
「だよな! 俺も流石に模試の結果を見た段階でぶち切れちゃってさ……」

 どうにも踏ん切りの付かない知世に「スパンキングお預け」なる新たなおしおきを発動し両親の許可も得させたことで、外部受験計画はようやっとスタートラインに立った。
 これで一つ壁は越えた……と安堵した晃に突きつけられたのは、親よりはるかに高い、しかも当の本人が全く気付いていない分厚い壁だったのである。

(こ、これで成績が上がっただって……? 外部受験するって言いだした段階で、嫌な予感はしていたけど……知世、いくらなんでもうちの学力を舐めすぎだろ!?)

 得意気に差し出された模試の結果に記されていたのは、全国トップクラスの英語とそれなりの点数を出している国語、そして……それらが霞んでしまうほど実に残念な数学の成績だ。
 そして合格判定欄には限りなくDに近いC判定を下された志望校が――晃の進学先である女子大の名前が記されていて、それを見た途端、晃はくらりと目眩を覚える。

(……だめだこれ。並みの努力じゃ、どう足掻いても合格は無理! しかも実力不足の自覚無しとか、タチが悪すぎる!!)

 こめかみに浮いた青筋が帽子で隠れているといいけど、と顔を引き攣らせながら、晃は成績が上がったと胸を張る知世の頬を両手で挟み込み、幼子に言い聞かせるようにゆっくりと、しかし容赦なく

『知世、この数学は大丈夫とは言わない。……こうなったら、夢の中でも受験勉強な!!』
『え……ええええっ!?』

 知世にとっては魅惑の白い空間を、スパルタ地獄に変えると宣言したのである。


 ◇◇◇


「……なるほどねぇ、それで参考書を」
「もうさ、どう考えても中学レベルからやり直さないと無理そうなんだよな……ただ、俺で何とか出来るかどうか」

 事情を話すことに、躊躇いが無かったわけでは無い。
 けれど、晃は既に希望学部への進学がほぼ決まっている。言わば今は、比較的自由な身だ。
 そして家という穢れの沼で足掻く彼女に手を差し出すことを、うちの家族が反対するはずが無いと、どこかで確信していた。

 案の定、話を聞いた母は「晃なら出来るわよ」とあっさり彼女の背中を押す。

「あれほど絶望的だった旭の数学すら、何とかしたんだもの。自信持って勉強見てあげなさいな、晃」
「母さん」
「そうだ、あの旭が現役で大学に入れたんだからな。晃、小遣いだけで足りなければいつでも頼りなさい。何としてもその子を、家から出してあげなければ」
「父さん……」
「晃姉ちゃん、中学の問題集なら俺のを使っていいよ! あ、旭兄ちゃんに解かせたら、躓きポイントもわかるんじゃ」
「…………陽」

(ああ、本当に……俺は恵まれている)

 こみ上げるものを必死に堪えながら、晃は家族の心強い言葉に「……ありがとう」と笑顔で告げるのだった。

 なお

「え、ちょっと待った。何か俺、随分な言われようじゃね!?」
「陽の言うとおりだ、旭は晃を手伝ってやりなさい。うんうん、その頭脳が役に立つときが来て良かったじゃ無いか」
「親父ほんとひでぇ!!」

 双子の兄は、またしても晃の企みに否応なく巻き込まれることになるのである。


 ◇◇◇


「は? そんなところで躓くの? これ中学の問題じゃん、旭マジで馬鹿だったんだ」
「はーくっそ腹立つ、馬鹿の気持ちが分からなきゃ、その子に教えられないだろ!」
「はいはい、感謝してますよ、お兄様ぁ」
「うわ、気持ち悪っ」

 それ以来、晃の生活は受験一色となった。

 志望学部の過去問を分析した感じ、国語は少し頑張れば十分太刀打ち出来る。
 英語は晃よりも成績がいいし、実は三カ国語ペラペラだと言っていたから、何の心配も無い。
 ならば夢の中では数学に全振りして、中一からやり直させる! と晃は倉庫から昔の教科書を取りだし、弟に借りた問題集と共に夢の中に持ち込んではスパルタで教え込む日々を過ごす。

「旭、実に残念な知らせがあるんだ」
「ん? 何だよ晃……おいおい随分落ち込んでるな」
「あの子……旭が天才に見えるくらい数学がダメダメだった。もうどこから手を付けていいか、俺には分からない!!」
「お、おちつけ晃!! まままずはどの問題で詰まったか一緒に、って腕を振り回すなぐはっ!!」

 時には兄に泣きつき、ストレス発散に付き合わせ(?)一緒に対策を練る。
「何で俺が」とぶつくさ文句を言いながらも付き合ってくれる辺り、兄弟とはいいものだ。

「……その子はさ、晃の……その、全部を知ってるのか?」

 今日も今日とて夜に持ち込む問題作りに明け暮れていたとき、ふと兄が遠慮がちに訊ねてきた。
 何を、なんて訊ねるまでも無い。きっと彼女の話をした段階から、兄はずっと気にしていたのだろう。
 晃はノートに目を向けたまま無言で首を振り「……けど」と前々から決めていたことを口にする。

「受験が終わったら、全部話すつもり」
「そっか。……良かったな、晃」
「何だよ急に。そういうの、旭のガラじゃないだろ」
「あのなあ、お前は一体俺を何だと思ってるわけ!?」

(うちに受験しに来るんだ。きっとそこで逢えるはず。そしたらちゃんと顔を見せて、俺は実在する人物だって宣言して……全部知世に話そう)

 もしかしたら晃の話は、知世に余計な泥を被せるかもしれない。
 ずっと綺麗だと信じてきた手のひらの汚れに愕然とし、痛みをもたらす可能性だってある。

 でも。
 知世にだけは、自分もこの世界に足を付けて立っているのだと知ってもらいたい。
 そして彼女ならきっと、晃の話に耳を傾けてくれる――

(ああ、その日がちょっと怖くて……でも、楽しみだ)

 知らず笑顔になる晃の瞳が、いつの頃からか少しずつ往事の輝きを取り戻していることに気付いているのは――少し離れたところで全力の突っ込みを入れている、生まれる前から一緒だった兄だけで。

(良かったな、晃。大切な人が見つかって……)

 そんな妹を、旭は感極まった様子で見守っていた。

 ――それから三ヶ月後。
 まだ夜も明けぬうちに、晃の部屋から歓声が上がる。

「ちょ、晃っ朝っぱらからうるせぇ!」
「いーじゃんか! 知世が、知世がっ、やっとB判定を取って来やがったんだよ!!」
「!! マジか、やったじゃん!」

 晃の寝室に、不思議な枕カバーが押しかけてきて一年。
 二人の時が重なるときは、すぐそこまで近づいていた。


 ◇◇◇


「……というわけで、今俺はこうやって、知世と話をしている」
「…………はい……」

 聞き慣れたハスキーな声が、白い世界に繋がるもう一つの話の終わりを告げる。
 ベッドの上にティッシュの山を築きながら聞き入っていた知世は、不審者じみた「ご主人様」の後ろに隠されていた、あまりにも数奇で……そして胸を抉られるような軌跡に圧倒され、何とか掠れた声で頷くのが精一杯だった。

「……そんなに深刻に捉えなくていいよ」

 何とか言葉を探し出そうとする知世を、晃は穏やかな笑顔で制する。
 そうして「取りあえず言っておきたいのはさ」と真顔になった。

「知世の希望はこれからも出来る範囲では叶える。俺だって、知世の素敵な尻を愛でて鳴かせるのは楽しいからな。……ただ『小ブタちゃん』以上の尊厳無視な扱いは期待しないで」
「あわわわ、ほんっとうにごめんなさい……!」

(あああ、ご主人様の悲しそうな顔は、本当に悲しかったんだ!!)

 ご主人様は、最後の最後まで自分の妄想だと信じて疑わなかった。
 何ならご主人様が見せる感情は、自分の無意識の感情だろうなんてあっさり思い込んでいた――

『まぁ、おとぎ話であればそのご主人様とやらは、どこかの現実に存在する女性であっても良いだろうが……』

 よくよく思い起こせば、あの温かな学食でご主人様の悲しそうな瞳を吐露したときに、麗しいお兄さんはちゃんと可能性を示唆してくれていたのに! と全力で自分に突っ込みつつ平謝りの知世に「謝らなくていいって」と晃は笑う。

「ずっと、俺も……知世とは反対の方向から同じ事を望んでいたんだ。お互い様ってこと」
「でっ、でも、ご主人様は出会ったときにごめんなさいって」
「あーあれは別。最初にお尻の妖精だと思い込んで、散々酷いことをした分だから」
「んもう……それじゃなんだか平等じゃない気がします……」

 逢ったら直接、ごめんなさいとありがとうを言いたかったんだと、晃はどこか吹っ切れたような眼差しで知世を見つめる。
 画面越しだというのに、水色の瞳はこれまでで一番透き通って見えて……きゅぅと胸が切なくなって心臓が飛び出してしまいそうだ。

(……ありがとうございます、ご主人様)

 知世は心の中で、そっと感謝を告げる。
 ちゃんと口に出すのは、次に直接会ったときに。きっと、こんな画面越しでは伝えきれないほどの感謝が、その言葉には溢れていると思うから。

「あ、でも……」
「でも?」
「……お漏らしプレイは、俺、謝らないし諦めてないから」
「ぶっ!! ご主人様、そこは全力で謝って諦めて欲しいんですけど!!」

(ああもう、私のしんみりした気持ち、返してよぉ!!)

 どうやら晃は、最初の邂逅ですっかり新しい扉を開いてしまったらしい。
 まったくもう……とふくふくした頬をぷっくりと膨らませる知世に、晃がぷっと笑いを零す。

「……ふふっ」
「んもう……ふふ……あははっ……」

 いつしか二人の笑い声は、画面越しに唱和して。
 まだ春の足音が遠い互いの部屋の空気を、すこしだけ暖めてくれるのだった。


 ◇◇◇


 それから二人は、ここに至ってようやく年頃の女の子らしい話題に花を咲かせる。

「ご主人様の学校は、まだ登校必須なんですか?」
「いや、2月はもう自主登校。ただ大学に入るまでは、学校の敷地内では制服か体操服必須なんだよ。お陰であっさり後輩に見つかっちゃってさぁ……見てよこれ」
「うっわぁ凄いチョコの数! ご主人様モテモテじゃないですか、ってちょっと待ってその緑のラッピング! それ、日本未発売のブランドのチョコじゃないですか!!」
「へっ、そ、そうなの? てか知世、良くこんな小さい画面で見分けが付くな!」
「おやつのためなら視力だって上げますから!」

 互いの学校のこと、住んでいる地域のこと、趣味……は散々夢で暴露しているのでいいとして、これからのこと……
 この一年あまり、見事に手のひらと尻だけの関係だったお陰で、話題には事欠かない。

 晃は内部進学だが、春からは家を出て一人暮らしを始める。
 別に実家暮らしが嫌なわけではないが、少しでも家族を自分の暴力から遠ざけられればと思いきることにしたという。

「ま、うち不動産屋やってるし。一人暮らしったって、うちの物件に住むから家賃ゼロだしな」
「なにそれ羨ましい……東京だと家賃も凄いんですよね」
「まあ、うちの大学は地方から上京する学生向けにお得物件を紹介してるけどな。あれ、親の会社も絡んでるんだよ。母さんうちのOGだし」

 知世は国際文化学部で北欧文化を学ぶ予定で、晃は工学部で材料工学を選択している。
 将来は自分のルーツを活かした仕事がしたいと話す知世に「いいじゃん、夢があって」と微笑む晃は、卒業すれば家業を手伝うつもりだそうだ。

 卒業までに、この厄介な男への憎しみが消えるとは思えないからと語る晃の言葉を、知世は簡単に否定出来ない。
 ……形こそ違えど、互いの身の内に巣くう淀みの深さは身をもって知っているから。

「知世の所は卒業式いつ?」
「うちは来月2日です。ご主人様は?」
「5日。いやぁ、やっと制服を着なくてすむと思うと、もの凄い開放感があるな! これからは一日中好きな服を着ていられるんだから」
「そうですね……あーでも、私服かぁ……選ぶのが大変そう」

(ご主人様……本当は……)

 その時知世が見つけてしまった、嬉しそうな晃の瞳に混じる小さな悔しさは、そっと心の中にしまっておくことにした。


 ◇◇◇


 楽しい時間というのは、あっという間に過ぎていくものだ。
 ……こんなに早くいつもの時間が過ぎたなんて、信じられないくらいに。

「……来なかったな」
「え……」
「時間。今、22時半過ぎ」
「!!」

 指摘されるまで、時間のことを忘れていただなんて――
 晃の少しほっとしたような表情に、ようやく知世の中にじわじわと実感が湧いてくる。
 何をしていても常に神経をとがらせ、耳を澄まし、わずかな足音にさえ身体を跳ねさせる日々が、こんな方法であっさりと回避出来るだなんて……ちょっと拍子抜けかも知れない。

「今日は、通話するって言ってあったから……」

 流石にこの状況では来ないですよね、と笑顔を作る知世を「そういう時は無理に笑わなくていいんだ」と晃は窘める。
 そうして「なら、これから毎日通話すっか!」と口の端を上げるのだ。

「え、ええっ!? そっその、ご主人様流石にそれは不自然なんじゃ……」
「なんでだよ? ネットで仲良くなった、しかも春から同じ大学に通う同級生と毎日話すなんて、何もおかしくないじゃん」
「え、ええと……そもそも通えるかは私が合格してるかにかかってて……」
「してるさ、俺がどれだけ教えたと思ってんの? それに」
「それに?」
「お尻ぺんぺんのかかった知世の底力は、別格だからな!」
「うう、否定できないぃ……」

 稽古がある日でも21時過ぎには帰るから、帰るまではリビングにいろよ! とさっさと予定を決めてしまうご主人様は、実に頼もしい。
 けれど、その自信たっぷりな顔の内側に詰まった全てを知った今、ただ盲目的にご主人様を慕い寄りかかるなど、知世にはできそうにもなくて。

(……私にも何か、できることはあるんだろうか……でも、私何にも出来ないチョロい子だしなぁ……)

 ふと芽生えた、明らかにこれまでとは異なる想いが花を咲かせるには、もう少し時間がかかりそうだ。

「そろそろいい時間だよな」
「あ、そうですね……切りましょうか」
「だな。じゃあ」


「また、あとで」
「…………!!」


 気がつけば時計は23時を回っていた。
 少し名残惜しそうな顔をする知世に、晃が残した言葉の意味を……わからない、はずがない……!

「……そっか。現実に逢ったからって……夢で逢えなくなるわけじゃ、ないよね?」

 寝支度を整えた知世は、いつものようにブランケットの中に潜り込む。
 知世の独り言じみた問いかけに、藍色のかまくらの中はふんわりと光を帯びたから……きっと、これは肯定なのだと思うことにした。

「はぁ……んん……だめだぁ、これじゃ寝られないよぉ……」

 暫くゴロゴロと織物の中で転がっていたが、今日は一向に眠気が訪れない。
 いつもなら布団に入るや否や問答無用で眠らせてくるブランケットは、今日はまるで知世の姿をどこか楽しそうに眺めているようだ。
「んもう、いじわる」と口を尖らせれば、何となくブランケットの光が強まった気がする。

「お布団さん……お願い。ドキドキして眠れそうにないから……早くご主人様に、逢わせ……」

 焦れた知世が頬をほんのり染めながら願いを口にした、その瞬間。
 ブランケットは待ってましたと言わんばかりに、彼女を一気に夢の中へと送り込む。

「…………」

 いつもなら、すぐに月の光すら届かない漆黒の静寂を提供するはずなのに。
 藍色の織物は、安息の繭の中で寝息を立てる知世の姿をずっと見守るかのように、優しく照らし続けていた。


 ◇◇◇


「ご主人様! ……あ、顔……」
「……ここに来たらこうなってたんだ。ま、もう俺達には必要ないだろう?」
「はい! ふふっ、なんだか新鮮ですね……」
「ちょ、そんなじろじろ見るなってば」

 昨日と変わらない白い空間に置かれた、白いソファ。
 ゆったりと腰掛けるご主人様の姿を認めた知世は、思わず声を上げる。

 ブルーグレーの長袖シャツに、紺のジーンズ。
 出で立ちはいつもと変わらないけれど、目深に被られていた黒のキャップと、鼻から首までをすっぽり覆っていた同じ黒のネックゲイターは影も形もなく、さっきまでと変わらない笑みを湛えていたから。

「で、今日は何にする?」
「じゃあ受験終了祝いって事で、軟膏塗りがいいです! あと……終わったら久々に餌がほしいなって」
「やっぱり知世はぶれないな……いいよ。そうだ、折角だしこの間見つけた地域限定味のミューズリーを使ってみるか」
「やったあ!! んもうご主人様、分かってるぅ!」

 いつもと同じように、知世はソファの後ろに回り背もたれに手をかけ、丸くて白い……ご主人様が素敵だと褒めてくれる大きな尻をグッと突き出す。
 そうすれば、晃は口元を綻ばせながらじっくりと白いキャンバスを眺め、つい、とその美しい指先でなぞる。

「……実際に逢ったからかな。何か今日は凄い……興奮してるよ、俺」
「わ、私も……あ、でも私がドキドキしてるのはいつもですけど……はぁっ……」
「だな、小ブタちゃんは最初っから筋金入りの変態だし」
「はぁんっ……へんたいぃ……!」

 晃の声が、知世の耳をくすぐる。
 覆いが取り払われた声はいつもよりクリアで、息の音すら感じられて……それだけでゾクゾクと熱が上がっていくのが止められない……!

 そんな知世の姿に煽られたのだろう。
 晃もまた上擦った声で……隠しきれない凶暴さと歓喜を乗せて、その手のひらに力を込めるのだった。

「知世、今日もいい声で鳴いてくれよ?」
「……はい、ご主人様……っ!」

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