第9話 祝福を、あなたに
ようやく春の足音が聞こえ始めたある日の夕方、知世は通い慣れた学食を訪れていた。
「鞍馬さん! あ、従者さんも来ていたんですね!」
「おお、チセか。久しぶりだな、もう学校は来なくても良いのであろう?」
「今日は荷物を取りに来たんです。明日……卒業式なので」
「……そうか、もうそんな季節なのだな」
夕暮れ時だというのに人気の無い学食で、目当ての人物は揃いの耳飾りを揺らしながら笑顔で知世を迎えてくれる。
――思い起こせば、鞍馬と過ごす夕方のひとときはいつだって潮が引くように人がいなくなっていた。これもお布団さんの配慮だったのかも知れないと、知世は今になって思い至る。
「それで、受験の方はどうであった?」と静かに訊ねる鞍馬は、もう次に出てくる言葉が分かっているかのような落ち着きっぷりだ。
本当に不思議な人だと思いながら、ちゃっかり寄り添って座る二人に知世は満面の笑みで――そう、かつてこの学食で何の憂いも無くランチを頬張っていた頃のように目を輝かせながら、二人に結果を報告したのである。
「合格しました! 春からは、東京でご主人様……じゃない、晃さんと同じ大学に通います!!」
◇◇◇
年が明けてからは登校することも減り、学食こそ利用するもののこうやって鞍馬達と話す機会は無くなっていた。
だから知世は、この二月の間に……正確にはここ半月で怒濤のごとく変わった世界を、順を追って二人に語る。
「そうか『ご主人様』は実在したのだな」
「もう、全っ然気付きませんでしたよ! 鞍馬さんもそれとなく教えてくれていたのに……受験会場で話しかけられたときには、起きたまま夢の世界に入っちゃったのかと」
同じ織物の引き合わせによって出会ったご主人様は、知世とぴったり嵌まる願望を持っているのみならず、苦手な数学の救世主でもあった。
彼女の鬼のような――いやもう、本当に二度と数学には触れたくない――指導の甲斐あって、知世は見事合格を勝ち取る。
『……あっ……た! 知世、番号あったぞ!!』
『え…………あ……うわぁ…………』
『やったな知世、これでその家ともおさらば……知世? おーい知世、生きてるか!?』
ネットで晃と共に受験番号を確認したときには、画面の向こうでガッツポーズを決める晃とは対照的に、安堵で魂が抜けてしまいそうだった。
すぐさま母に連れられ報告に来た職員室では「奇跡だ」「大金星だ」と大騒ぎで。
父は合格の一報に一瞬固まっていたし、母ですら「応援はしていたけど、正直あの成績だと厳しいかなと思っていたのよね……本当に良かったわ」と入学金の振り込み手続きを取りながら心底ほっとした顔で零していたほどだ。
「結局私が合格するって信じてくれていたのは、鞍馬さん達と晃さんだけだったんですよね……まぁ、晃さんにも『崖っぷちの自覚を持て!』って何度もお尻に活を……えへぇ……」
「山吹さん、心の声がダダ漏れになっています」
「ふっ、良き理解者が側にいて何よりだな。大学にはその子と一緒に通うのか?」
「学部は違いますけど、キャンパスは一緒なので。それに…………実は、一緒に住もうって言われたんです」
「ほう」
諸手続を終え、正式に入学が決まったと報告した夢の中で、知世は晃から提案を受ける。
曰く、進学による上京という形で、ひとまず元凶から離れることは出来る。
けれど、国内なら来ようと思えばいつでも来られることに変わりは無い。その事実が知世に拭えぬ不安を与える可能性もあるだろう。
……それなら、もう一つ強固な守りを足してみてはどうか、と。
『守り、ですか?』
『ああ。俺が春から一人暮らしをするって話はしたよな? うちの物件の一室なんだけどさ、その物件……実は俺が被害に遭ってすぐに親が建てた女性専用のマンションなんだ』
『へ……すぐに、建てた……!?』
『親バカってさ、ああ言うのをいうんだろうな。まだ家から一歩も出られない頃に、俺がいずれ一人になっても安心して暮らせる場所を作らねば! って』
『うわぁ……なんという行動力と財力……』
男性との接触を最小限にしたい晃の為に作られた物件は、身内であっても男性は簡単に入れないようになっているらしい。
そんな部屋に、二人で住む。いくらなんでも友達が同居しているところに押しかけて事に及ぼうとはしないだろうし、万が一の時は……無自覚に殺意たっぷりの攻撃を繰り出す晃相手に、素人が敵うはずがない。
「……だから、親にも晃さんのことをちゃんと話すようにって言われました。男装趣味の男嫌いで、趣味は空手で二段だって」
「ほう、確か段がつけば黒帯になるのであったか。私のヴィナより強いでは無いか」
「はぇっ!? え、いくら何でも従者さんよりは」
「山吹さん、俺も空手習ってますけど、まだ緑帯……3級なんです……」
「ほえぇ、本当に強かった……」
何にしてもそれなら安心だな、と鞍馬がすっと席を立つ。
そうしてカウンターの向こうから何かが乗った皿を手に取り、知世の前にことりと置いた。
「……おめでとう、チセ。これは私とヴィナからの祝いの菓子だ」
「これ…………初めて見ます。なんだろう、ぷるんぷるんだ」
「私の故郷の菓子でな、ヴィナの好物でもある。材料調達と少々手が込んでいるのもあって、学食では出せないのだが……お主のために、特別に用意したのだ」
「私のために……って、ほんっと鞍馬さんは何者なんですか? あのお布団さんといい、絶対学食で働いてていいお兄さんじゃ無いですよね!」
「ははっ、今の私は愛し子に美味しいご飯を食べさせたいだけの……ただの男に過ぎぬよ」
まあ食べてみてくれと知世の目の前に置かれたのは、鮮やかな緑と白のコントラストが美しい不思議な菓子だった。
下層は蒸した餅米のように見える。その上には緑色の層が重ねられていて、パッと見た感じはういろうの親戚のようだなと、知世はそっとフォークで切った菓子を口に運ぶ。
もにゅ……
「…………!!」
含んだ瞬間、ふわりと南国の香りが知世の口いっぱいに広がる。
嗅ぎ慣れたココナッツと爽やかな甘い香り――これはきっと緑色の元なのだろう。
少し固めのカスタードのような滑らかなコクのある甘味が、蒸した餅米のほのかな塩味と混ざり、思わず頬が緩んでしまう。
「すごい……おいしい……!! うわぁ、食べちゃうのが勿体ない……!」
「それほど喜んでくれるなら、作った甲斐があったな」
「はい、ありがとうございます! はぁ、幸せ……晃さんにも食べさせてあげたいなぁ……」
「ならばレシピを送ろう。東京ならば、ここよりも材料は手に入りやすいだろうしな」
連絡先を教えてくれるか? と訊ねる鞍馬に、知世は一瞬怪訝な顔をする。
だが「これが会えるのは最後であろう? ……まだお主の傍にはあやつがいるからな」と続く言葉に、はっと鞍馬の顔を見た。
「鞍馬さん……」
「私の意志では無いとは言え、あのような物を渡してしまった以上私には最後まで見届けねばならぬ責務がある。よいかチセ、何かあればいつでも遠慮無く相談するが良い」
「っ……ありがとうございます……!」
(そうだ、逃げるって事は……別れもあるって事なんだ……)
今更ながら気付いた事実に、寂しさが過る。
きっと、次にこの土地を踏む日はずっとずっと先の話になるだろう。
長期の休みだからといって帰省する危険を冒す気はない。母には寂しい思いをさせてしまうが、きっとこれも自立なのだと受け入れてくれると思う。
「……チセよ」
何かを噛みしめるように南国のぷにぷに菓子を口にする知世に、麗しの青年はいつもと変わらぬ顔で微笑む。
そして……ただ一言、彼女に尋ねたのだった。
「この世界でお主の幸せを、見出せそうか?」
「……分からないです。でも」
「晃さんと二人で…………普通には戻れないかも知れないけど、この現実で生きていきますから」
◇◇◇
「パパまで着いてこなくても良かったのに……荷物だってそんなに無いんだし」
「そうはいかないよ、向こうの親御さんにもきちんと挨拶をしないと」
「とか言って、パパは知世と離れるのが寂しいだけなのよ。ね? パパ」
「そりゃそうだよ……はぁ、娘が遠くに行くのがこんなにショックだなんて想像もしなかったなぁ……」
そろそろ桜の便りが聞こえる、3月下旬のある日。
知世は両親と共に、住み慣れた故郷を離れ一路東京へと向かう。
手持ちの荷物は、大きなスーツケースが二つだけ。
衣類や身の回りの大切なものだけを詰め込んで……後は全て現地で調達する予定だ。
既にアパートには晃と話し合って決めた家具が一揃い搬入済みで、彼女も一昨日から住み始めたと聞いている。
兄弟のいる家庭で育った彼女には、一人暮らしは気楽だけどちょっと静かすぎるらしい。一人っ子の知世には、ちょっと想像のつかない感想だ。
――当然、スーツケースの中に「お布団さん」は入っていない。
あの大きさを詰めるだけのスペースは無いし、何よりあの寝具のことだ、何も言わなくたって寝る頃にはちゃっかりベッドを占拠して、知世を待っているに違いないから。
(……はぁ、こんなにドキドキするなんて……んもう、鞍馬さんが余計なこと言うからだよぉ!)
あの夜明けを模したブランケットが脳裏に浮かぶや否や、知世は卒業式前日の……祝いの菓子と共に繰り広げられた一幕を思い出し、慌てて窓の外に顔を向ける。
頬が熱くて、胸が高鳴って……きっと今の自分は、人に見せられる顔をしていないから。
『そうだ、共に住むというなら一つ忠告があるのだ』
『忠告ですか? あ、もしかしてお布団さんと枕カバーが一緒になると、何かあるとか』
『なに、あやつら寝具は時空を超えて結託するからその点は今まで通りだ、ただ』
『ただ?』
『…………良いかチセ。初めての時には、織物に決して邪魔をするなとこんこんと言い聞かせておくのだぞ』
『ちょ……っ、ムシュカ様ぁ!?』
いつになく真剣な顔で声を潜め、重々しく放たれた助言の意味が、知世には初め皆目分からなくて。
素っ頓狂な声を上げて耳まで真っ赤になった従者さんが「ムシュカ様は! そろそろ恥じらいという言葉を覚えて下され!!」と全力で諫める姿に、ようやく諌言の真意を理解する。
『え、そっそんな、あわわわ初めてとか……そのっ、あっ晃さんとはっ、そう言う関係では無くて!』
『今はそうで無くとも、いずれそういう事があるやもしれぬであろう? 何といってもお主らは我らと同じ、あの寝具が結びつけた縁で』
『はいはいストーップ!! ムシュカ様っ、それ以上はいけません!! そっ、そんなえっちいことを学生さんに教えるだなんて!』
『何を言う、チセはもう立派な大人では無いか! それに恋人たるもの、まぐあいは必須であろう? 私のように織物ともじもじヴィナのせいで、延々お預けを食らう羽目になったらどうするのだ!』
『うわぁ、情報がてんこ盛り過ぎる……』
あの日、目の前で始まった「私のヴィナが如何に奥手で、いつまで経っても食べてくれなかったか」話と「誰か……神様を止めて……むしろ俺の介錯をしてえぇ……!」と突っ伏す従者さんの嘆きに、知世は菓子のお替わりをもらいつつ目を白黒させたのだった。
(二人は最後まで、ずっといちゃラブだったな……)
どこまでも素直に、そして堂々と愛を語る鞍馬と、そんな恋人に振り回されながらも決して揃いの耳飾りは欠かさない従者さん。
そんな関係が、羨ましくないわけでは無い。
晃の泥を知った今、きっと織物の元持ち主であった鞍馬の光り輝く美貌の裏にも、筆舌に尽くしがたい苦難があったことは容易に想像出来る。
であるならば、彼らの関係はどこか知らない世界の話では無く、知世や晃にも訪れるかも知れない未来のひとつだ――
(……うん、でも……私達には……ずっとずっと遠い未来かな)
知世は、恋を知らない。
憧れていた男子はいたけれど、それが恋と呼ばれる感情に変わる前に、粘ついたヘドロの中へと埋められてしまったから。
(いつかはそうなるかもしれないけど……今は、プレイだけで、いいや)
人知れず物思いに浸る知世の姿は、もしかしたら少しだけ大人びて見えたのかも知れない。
ぼんやりと窓の外を眺める彼女に「……知世」と父が声をかける。
その姿は……気のせいだろうか、いつもより小さくみえた。
「何かあったら、いつでも頼ってくるんだよ」
「……うん、ありがとう、パパ」
(……あと少し)
娘を想う穏やかな言葉も、その皮に浮かぶ優しい笑みも、今の知世には醜悪な何かにしか映らない。
けれども、否、だからこそ、彼女はこの人の好む作り慣れた隙の無い笑顔で、望まれる答えを紡ぐ。
(あと少しで、私はこの笑顔を手放せる――!)
窓から見える緑が、いつの間にか減ってきている。
知世は逸る心を抑え、春霞でけぶる空に向かって(待ってて下さい、もうすぐ行きますから)とそっとひとりごちた。
◇◇◇
タクシーと新幹線、そして見たこともない複雑な路線図に目を回しつつ電車を乗り継いで、約三時間半。
ようやく新居へと辿り着いた知世と両親は、お上りさん丸出しですっかり挙動不審になっていた。
「二重エントランスは、入居者のカードキーがなければ中に入れません。エレベータもカードキー必須で、地上と居住階のみしか止まらない仕組みですね。宅配はボックスかロビーの管理室預かり、引っ越しや家具搬入など業者が入るときは、今回のように事前登録の上で来館カードを貸し出します」
「……お、思っていたよりずっと凄いわね、パパ……」
「本当だね……監視カメラもあちこちにあるし。そうすると友達を家に呼ぶのは難しい?」
「来館登録をすれば、訪問は問題ありませんよ。ただし、入れるのは女性だけです。男性は入居者の親族、かつ正当な理由がある場合のみ入館許可を出します」
「…………凄い徹底ぷりですね……」
事前にセキュリティ完備のマンションだと知世から聞かされていた両親も、まさかここまでとは思っていなかったのだろう。
首から来館証をさげ、困惑を浮かべた彼らを乗せたエレベータは、階数が表示されていない最上階へと向かう。
「最上階はオーナーの居住階です。といっても、うちは娘は晃一人なので、実質彼女以外が住むことはないでしょうが」
「3LDKでリビングも結構広いから、二人で住むにはちょうど良いと思いますよ」
柔やかに案内してくれる晃の両親に続いて、知世達は新居のドアをくぐる。
中は思ったより普通の――どう見ても家族向け物件だが――マンションで、両親はちょっと胸をなで下ろしたようだ。
「よっ、いらっしゃい『知世ちゃん』」
「こ、こんにちは、晃さん。えっと、今日からよろしくお願いします」
「ん、こちらこそ宜しく。……あ、昨日話したパティスリーの3月限定ケーキ、買ってあるから後で一緒に食べようよ」
「わぁい、ありがとうございます!! ネットでめちゃくちゃ美味しいって評判だったから、ずっと気になってたんですよ!」」
挨拶もそこそこに、晃は知世を部屋案内に連れて行ってしまった。
晃の母に促されてダイニングに腰掛けた二人は、紅茶を勧める彼らにおずおずと訊ねる。
「あの、本当に……このような立派なところに娘を住まわせて貰っていいんでしょうか?」
「大丈夫ですよ。地方から女の子一人で出てくるとなれば、どれだけセキュリティを厳しくしたって親御さんの心配は尽きないでしょうから」
「ここはちょっと大きめの部屋ですけど、階下は基本的にシングル用の物件なんです。入居しているのは学生さんやOGがほとんどですね」
「万が一のことがあれば、私達が駆けつけますから。どうぞご安心下さい」
笑顔で語る晃の両親に、知世の両親もようやく緊張がほどけたのだろう。
二人は深々と頭を下げ「どうか娘のことをよろしくお願いします」と頭を下げるのだった。
◇◇◇
「……ふぅ、何とか手を出さずにすんだ……」
「時々危ない目をしてましたけどね……無事終わって良かったです……」
「そうだな、父さんも何度殴りそうになったことか」
「ちょっ、おじさんは晃さんの抑止力じゃなかったんですか!?」
共に昼食を食べて、駅で知世の両親を見送って。
どこか名残惜しそうな父と、あっさり「大学生活、楽しみなさいね」と爽やかな笑顔を残した母が乗る新幹線が見えなくなったホームで、ぽつりと晃が呟く。
「何か……思った以上に普通のおっさんだったな、知世の親父」と晃が零す傍で「見かけで人は判断出来ないといういい例だな」とうんうん頷くのは、晃の父親だ。
こんな状況でもきっちり間合いを取っている彼のかんばせも、ついでに圧の強さも晃そっくりだ……と知世が妙に感心しているところに落とされた爆弾に、知世は思わず目を剥いて晃の方を振り返った。
「……あ、あのっ晃さん、もしかして……」
「あー……全部喋っちまってる。『SNSで相談されて』勉強を見てたことも、その……知世ちゃんが家で、されていたことも……」
「えええ、まさかの!? あわわわ……!」
何てことを……と知世が目をぐるぐるにして頭を抱えていれば「大丈夫よ、知世ちゃん」と優しい声をかけたのは晃の母親だ。
すらりとした体型の父とは異なり、なかなか立派な筋肉の持ち主の厳つい母は「ありがとうね」と知世に向かって頭を下げる。
「え、っと」
「晃から聞いたわ。晃のことも全部、知っているのよね」
「あ……はい」
「この子、こんな性格だから友達に弱音なんて吐いたことがないのよ。だから、初めて自分から話したって聞いて、ああいい友達が出来たんだなって」
「知世ちゃんも大変だったろう、良くここまで頑張ったな。……大丈夫だ、君はもう苦しまなくていい」
「…………っ!」
あの家にお父さんは入れないわよ、安心してねと微笑む晃の母が、そっとハンカチを手渡してきて。
ようやっと知世は、自分が大粒の涙を零していることに気付く。
(…………逃げられた)
「っ……ひっく……ひぐっ、ずずっ……うわあああんっ……!!」
「……知世ちゃん、大丈夫だ。これからは……俺も一緒だから」
「ひぐっ、ひぐっ、あきらしゃん……ひぐっ……!」
(私は……あの沼の底から、やっと這いずり出せたんだ)
往来の激しいホームで、知世は声を上げて泣きじゃくる。
そんな知世を抱き締めた晃の手のひらは、ぽん、ぽんと宥めるようにいつまでも背中を叩き続けていた。
◇◇◇
「ふぅ、やっと静かになったな。……にしても、父さんは酷すぎね? 『晃なら熊でも倒せるだろうから全力で頼りなさい』ってさ……俺を何だと思ってるんだか」
「ふふっ、晃さんは本当に強いんですね。学食のお兄さん達も言ってました、黒帯って凄いんだって」
「ちょ、そんなことまで喋っちゃってるのかよ……知世ちゃんも人のこと言えないじゃんか!」
両親と別れて新居に戻った二人は、くったりとソファに沈み込む。
ついいつもの癖で足元に座りかけた知世を「ここではちゃんと座る!」と晃が一喝したのは言うまでも無い。
「ケーキ、美味しかったぁ……あんな美味しいパティスリーが大学の近くにあるなんて、幸せすぎる……」
「何だか毎日通いそうな勢いだな。ま、他にも美味しい店はいっぱいあるからさ、一緒に行こうか」
「はい! ……あ、でも晃さん大丈夫なんですか? そもそもこれも、どうやって買いに……」
「これは友達に頼んだんだ、ここに住んでる子がいるからさ。あと、俺もう免許持ってるから……店には入れなくても、近くまでなら一緒に行ける」
「あ、なるほど。後はアプリでやりとりすればいいですもんね」
他愛ないやりとりを交わしながら、知世はぐるりと部屋の中を見渡す。
広々としたリビングには、三人がけのソファとローテーブルが鎮座している。
お洒落な棚に並んでいるのが筋トレ用具なのは実に晃らしい。
ダイニングのテーブルも四人がけ。これは「二人用だと、部屋が広すぎて逆に落ち着かないから」という晃の判断だ。
カウンターキッチンの向こうに見える家具も合わせて、全体的にナチュラルな優しいトーンに合わせたのは知世の希望。
というより、晃に任せると部屋から色が無くなることが発覚したためである。
「でも、ご主人様は本当に良かったんですか? ベッドは別々が良かったんじゃ……私、幅とっちゃいますし、ご主人様を潰してしまいそう」
「クイーンサイズなら大丈夫だって。てか知世ちゃん、呼び方」
「……はっ!! ご、ごめんなさいっ…………お仕置きします?」
「それ、全然反省して無いって顔じゃん。今にも脱ぎ出しそうな顔してさぁ」
「えへへ……」
うっかり「ご主人様」と呼んでしまった知世を、晃はすかさず咎める。
……これは、二人で決めたルール。
要らぬ誤解を受けないためにも、お互いのことは「知世ちゃん」「晃さん」と呼び合うことにしたのである。
とは言え、一年以上に渡り毎日夢の中で使っていた呼称はなかなか代えがたく。
知世の合格が発覚して以来、二人は毎夜のように互いの呼び名を練習することとなった。
ちなみにやらかしたときのペナルティは
『……知世ちゃんは一回ご主人様って呼んだら、次の日のスパンキング無しとおやつ無し、どっちがいい?』
『えええ!? ちょっとご主人様、何でそんな地獄みたいな究極の二択を突きつけるんですか、ってあああ早速言っちゃったあぁ!!』
『だってさ、知世ちゃんのチョロさはこの一年で身に染みてるから。で、どっちを無しがいいい?』
『うううっ……お、おやつ無しでぇ……!』
『そこまでしてスパンキングを取るんだ!?』
……何故か知世だけやたら重かった。
非常に解せないが、実際晃は一度もペナルティを食らわなかったので、文句も言えない。
「ま、今日は疲れているだろうしさ。ペナルティも無しでいいよ、さっさとご飯食べてゆっくり……そんなあからさまにがっくりしなくてもさ……」
「だって……私、凄く楽しみにしていたんです!! 東京に来ることもだけど、晃さんに、その……リアルでお尻ぺんぺんしてもらうの……」
「気持ちは分かるけどな、今日はだめ。ちゃんと食べて、お風呂入って、寝る、な!」
この世の終わりだと言わんばかりにソファに突っ伏す知世に、晃は「そうやっていじけてると、楽しみにしてたコンビニスイーツを勝手に食べちゃうぞ?」と夕食用に買ってきたサンドイッチを取り出しつつ、わしわしと知世の髪を撫でる。
そうして
「仕方ないな……やりたくなったらまずいから明日のつもりだったけど、ご飯食べたら『部屋』の見学だけ! これ以上はだめ!」
「!! やったぁ! あ、スイーツは一口だけならいいですよ!」
「そこで半分こって言わない辺りが、知世ちゃんだよな!」
とっておきの飴で、あっさりと知世の機嫌を直してしまうのだった。
◇◇◇
この家には、リビングダイニング以外に三つの部屋がある。
一つ目は、寝室。
中央に置かれたクイーンサイズのベッドの上には、既に東雲の色を模したブランケットと枕カバーが仲良く待機しているのを確認済みだ。
二つ目は、勉強部屋。
学生たるもの、勉強が本分! ということで、二人並んで勉強出来るように机周りを整えた。
今はスカスカの棚も、大学生活が始まればすぐに色とりどりの本で埋まることだろう。
そして、三つ目は――
「わぁ……通話でも見てたけど、実際に入ると……」
「凄いだろ? 本当にあの中にいるようだよな、『知世』」
「っ……んもう、晃さんもここでは私を呼び捨てするんだから、私もご主人様って呼びたいですぅ」
「それはだめ。……俺達は対等な関係、そう決めたよな? もう知世は……誰のものでもないんだから」
「……はい」
興奮で少し震える手が、ノブを回す。
何の変哲も無い扉の向こうに広がっていたのは――六畳の真っ白な空間だった。
『……プレイルーム、ですか?』
『ああ。これからは一緒に住むんだ。わざわざ夢の中に潜り込んで、尻を叩く必要もないだろう?』
『はっ、そう言えばそうだった!!』
白のクッションマットを敷き詰めた部屋の真ん中には、飾り気の無いソファが一つ。
あとは扉付きの収納があるだけの部屋は、言うまでも無く二人のどうしようも無い歪みを包み込んでくれた、あの夢の中を模したものだ。
「……っ」
「これ、思った以上にいいよな。知世と部屋にいるだけで……ゾクゾクする」
「はい……ここが、きゅぅって……なっちゃいます……」
白い空間に一歩踏み出した途端、二人が纏う雰囲気はがらりと変わる。
獰猛さを増した水色の瞳に、知世は思わず喉を鳴らし、はぁ、と厚いため息を漏らした。
そんな彼女を見つめる晃の口端は、少しだけ上がっていて。
「知世、そっちのクローゼット開けてみな」
「あ、はい……っ、これ……!?」
「……何で俺が、あんなにたくさんの道具を夢の中に持ち込めていたと思う?」
「!!」
知世が思わず隣を見上げれば「言っただろ、やり方は練習してたって」と晃は少し照れくさそうに笑う。
良く見ればどの道具も小さな傷や折り目、明らかに使用した跡が見受けられて……これは反則だ、こんな物を見せられたら……もう、立ってなんていられない……!
「はっ……はぁっ、ご…………ううん、晃さん……っ……」
「お、ちゃんと間違えなかった。……やるじゃん、特訓の成果はちゃんと出てる」
「んふっ……ぁ……」
ぺたりと座り込み、床に手を突いて見上げる知世の頬を、綺麗な手が愛おしそうに撫でる。
その優しい手つきとは裏腹に、晃の瞳は明らかな情欲を湛えていて
そのよくを わたしは しっている
「あ……」
――ふと、夜の泥が重なり一瞬にして身体が凍り付くのを、晃は見逃さない。
すっと知世の前にしゃがみ込むと、両手で頬を包み込み、透き通った瞳でじっと知世を射貫く。
「……知世。これは、誰の手のひら?」
「…………はっ……はっ…………あ、あきらさんのです…………きたなくない、きもちいいをくれる、てのひら……!!」
「そうだ。ここには、知世に泥を流し込むものは何も無い」
(分かっています、ちゃんと分かっているのに……)
頭では、あの人の目では無いと理解しているのに。夢の中でなら、同じ目で射貫かれても何ともなかったのに――
これが現実で生きると言うことなのだと、知世は唇を噛みしめる。
浅い息を繰り返し言葉も無く涙を流す知世に「大丈夫」と晃はぶっきらぼうに、けれどどこか甘さを帯びた声をそっと流し込むのだった。
「一緒に少しずつ、確かめていこう。……この現実にも、汚くない気持ちいいがちゃんとあるってことを、な」
◇◇◇
「ん…………あ、れ……ここは……?」
目を覚ませば、そこは見慣れない部屋だった。
寝返りを打っても端まで届かないベッド、覚えのある感触より少し柔らかめの枕。掃き出し窓にかかる生成りの遮光カーテン、そして
「……そうだ、私もう……東京にいるんだよね、お布団さん」
見慣れた藍色のブランケットは、広々としたシーツの海ですっかり羽を伸ばしているようだ。
「まだ、六時半……あ、そっか朝はトレーニングするって言ってたっけ」
昨日の夜の話を思い出しつつ、知世はもう一度ブランケットの中に潜り込む。
入学式は3日後だ。特段出かける予定も無いし、晃もゆっくりしていていいと言っていたから二度寝を決め込もう……そう決めたはずなのに。
「ちょっと……寒いな……」
布団の中はこれまでと変わらず温かい。
とろりと蕩けるような手触りは、初めて手を突っ込んだときから全く変わること無く知世の心を落ち着けてくれる。
けれど、誰かの隣で眠る温かさを知った今、主の片割れを欠いたベッドは……少しだけ寂しい。
「……やっぱり、朝は一緒に起きようかな」
流石に晃と一緒に朝から運動する気は起きない。というか、この身体でそんな無謀をやってしまったら、朝にして一日が終わってしまう。
けれど一緒に起きて、トレーニングに勤しむ晃の帰りを待ちながら、朝ご飯を用意するのも悪くない……
そんなことをつれつれ考えていれば、かちゃりと玄関の開く音がして。
一瞬ビクッと身体を跳ねさせたものの「ただいまー」という聞き慣れたハスキーな声に、知世は慌ててベッドから抜け出してもう一人の主を出迎えるのだった。
◇◇◇
そうして、買っておいたトーストとベーコンエッグで簡素な朝食を済ませ。
「もう少し朝は食べたいよな」「ですね、明日からはサンドイッチにしましょうか」とこれからの生活を思い描きながら穏やかな朝を過ごした二人は今、改めて白い部屋に――プレイルームの床に座り込んでいる。
「結構色々と必要なんですね」
「針を使うから、衛生面は気をつけろってネットにも書いてあったしな。こういうものは通販で全部揃うから、ありがたいよ」
ソファの上に置かれた銀色のトレーの上には、奇妙な取り合わせの道具がずらりと並んでいた。
滅菌済みの手袋に、ワセリンとアルコール綿。青い水性ペン、針の入った箱。ガーゼに新しい消しゴム。
そして――小さな色つきの石がついた、ピアスが二組。
「晃さん、私が言い出しておいて言うのもなんですけど、本当にいいんですか……?」
「むしろ何でだめなのさ。いーよ、俺もピアスには興味があったし。それに、ピアスなら男だって開けるからさ、多分発作は起きない……ことにした」
「……晃さん、そこはもうちょっと考えた方が良かったんじゃ……」
合格して上京したら、まず最初にピアスを開けたい――そんな夢を語ったのは、地獄のような数学の授業で脳みそがスライムになっていたときだったか。
鞍馬が仕事終わりに手慣れた手つきでピアスを身に付ける姿が、実に印象的で……知世はいつも誇らしげに耳飾りを揺らす彼に、憧れを抱いていたから。
明らかにこの国では悪目立ちしそうなピアスを、臆すること無く堂々と付ける二人の姿は、自分の出自を、そして人生を丸ごと肯定している様に見えて。
そんな彼らの強さと気高さを一欠片でも分けて貰いたいなと思って……ともじもじしながら話す知世に対して、晃は即座に「いいじゃん、なら俺も一緒に開けるかな」と返して知世を唖然とさせたものだった。
その約束をしっかり覚えていた晃は、知世と現実で出会い始めて通話をした次の日には、ネットで必要な道具と手順を調べ手配していたらしい。
金属アレルギーが無いとはいえ、ファーストピアスだから念のために素材はステンレスで、けれどただの銀色では味気ないから、少しだけ華やかに――
そう考えた晃が選んだ石は、アクアマリンとシトリン。
つまり、晃と知世の瞳の色を模した飾りである。
「聞いてなかったけどさ、知世がアクアマリンを付けるのでいいよな?」
「はい! ふふっ、晃さんの瞳の色と一緒なの、素敵ですね。あ、でも晃さんの方はあんまり目立たないんじゃ」
「むしろこのくらいがいいよ、あんまり可愛らしい色は危なそうな気がするしさ。……この辺でどうかな」
「はい、大丈夫です……はあぁ、ドキドキしてきた……」
知世と会話を交わしながら、晃の手は一つずつ準備を整えていく。
マーキング用のペンで、左右のバランスを見ながら慎重に点を付ける。
知世が鏡で位置を確認すれば、耳たぶと消しゴムをアルコール綿で念入りに消毒し、すっと箱から針を取りだした。
「先っぽは絶対触っちゃだめだからな」と説明しつつ、ワセリンのケースの中にズボッと針を差し込んでぐりぐり塗りつける様子に、知世の口から「うはぁ……」と思わず声が漏れた。
――自分でも分かるくらい、そこには怯えと……明らかに色のついた興奮が混じっている。
「すっ……すっごい太い……!」
「だよな、俺病院でもこんな太い針見たことないわ。ピアスよりワンサイズ太い針の方が、出血はするけどピアスが着けやすいって書いてあったから選んだんだけどさ……14Gってもしかしなくても、やり過ぎだったのかな」
「ひえぇ、ここまで来て脅さないで下さいよぉ!」
「……知世、その顔はどう見ても悦んでいるようにしか見えない」
「ぎくうっ……」
知世はお尻以外も痛いのが好きなんだ、と耳元で囁きながら、晃は左耳たぶの後ろにそっと消しゴムを当てる。
そして再び、半透明のワセリンがついたたっぷり針を知世の前にかざした。
(……っ…………これが……今から私の耳に、刺さるんだ……っ!)
喉が渇いて、上手く息が出来ないのに、きっと今私の顔は……笑っている。
「よく見な、知世。これが今から、知世のかわいい耳たぶに、ぶさって突き刺さるんだ」
「ひっ……」
「ほんっと、めちゃくちゃ太いよな? この鋭い切っ先が、知世の白い肌に食い込んで……ぐっと押し込まれて、穴を開けられて……」
「はっ、はっ……あぁ…………あきら、さんっ……」
つん、と先端が耳たぶに触れれば、ビクン! と身体が跳ねる。
「動いたらずれるよ」と諫める声すら、危機を察した身体は愚かにも、緊張を興奮と取り違えて甘い疼きへの期待を否応なく高めていく――
「はぁっ、はぁっ……」
「ふっ、そんなに楽しみ? …………ならさ、反対側は……目隠しして開けよっか」
「はへっ!?」
「想像してみなよ。目を開けても何にも見えなくて、俺が何をしているのかも分からなくて……無言のまま、針がじわじわと近づいてくるのを……全身で感じて……」
「ぁ……はっ…………」
「尖った先端が、一気に知世を貫いて」
ぷつり、と近くで、音がした、気がする
「ひぁっ!」
「なすすべも無く、無理矢理押し込まれる……」
「あ、んああぁっ!!」
グッと耳に圧力を感じる。
痛い、ドキドキする、痛い、わからない……
ただ、目の前が極彩色に彩られ、チカチカと星が瞬いて、気持ち、いい――
「はい、開いた」
「はぁっはぁっんはぁっ…………へっ?」
「……ふふっ、やっぱり知世は面白いな! もう針、刺さってるよ。見る?」
「あ……はっ、はひっ……」
晃の差し出した手鏡を、知世は震える手で受け取る。
鏡の中の耳たぶは、確かに先ほどまで晃の手元にあった太い銀色にぶっさりと貫かれていて……それを見た瞬間、どくん、と心臓が跳ねた気がした。
「ほん、とうに…………開いてる……」
「凄い光景だな、こんなぶっとい針をぶら下げてるんだぜ? ……そんなに気に入った?」
「はぁっ……あっ……」
「ん、そのまま。ピアスを通すから」
中空の針の根元にピアスを差し込んだ晃の手が、ぐっと耳たぶに押しつけられる。
一度通ってしまったからなのか、それともあまりの興奮のせいか、それほど痛みも感じないまま水色の小さな飾りが知世の耳たぶに収まった。
「ちょっと血が出てるな」と手袋に包まれた指が、そっとガーゼを押しつける。
「どうだった? ……怖くなかった?」
「はい、大丈夫です」
「ん、なら良かった。じゃ、反対側も開けるからこっちガーゼ持ってて。…………目隠し、いる?」
「ほっ、欲しいです……けど、興奮しすぎて出血増えちゃいそう」
「むしろ鼻血も出ちゃいそうな顔してるしな、今の知世。……じゃ、目を瞑って」
「っ、それ……!! まさか、用意してたんですか……?」
「まあな、怖くないならプレイの時にいつか使おうと思ってさ。……いい?」
心の底からの安堵を顔に浮かべる晃に、知世はもう一度「大丈夫です」と繰り返す。
「怖い」の言葉が指すものは、決して痛みでは無いと分かっているから――
(大丈夫、だって……私は晃さんのぬくもりを、もう知っているから)
見たこともない分厚い目隠しを持った晃が、そっと知世の後ろに回る。
目を閉じれば、柔らかいスポンジのような感触が触れて……すっと目の前が暗くなった。
◇◇◇
「知世、こう言うのは思い切りが大事だって事がよく分かったな」
「う……すみません、痛かったですよね……」
「んーまあほら、お陰で余計なことを考えなくてすんだし、発作も起きなかったからいいんじゃね?」
二つの水色が知世の耳たぶを飾り、出血が落ち着いたところで二人は役割を交代する。
「同じようにやればいいから」と晃の手助けを受けながら晃の耳たぶを穿った知世であったが、緊張による震えと「ご主人様」に針を刺すという事実は思った以上に大きくて。
『知世、大丈夫だからっ、いてててっ一気にぶっさりいっちまえ!』
『えっあっでもっ、晃さん痛いって言ってるし、あっしんどくないですか! 息、ちゃんと吸えて』
『吸えてなかったら喋れないっての! そこで止めるな余計に痛いっ!!』
『うわああんごめんなさいぃ!!』
ゆっくりじっくり時間をかけて通された穴、二つ。
「発作の心配どころじゃ無かったぞ」とソファに凭れてぐったり天井を見上げる晃の耳たぶには、少し褐色がかった黄色の――知世の瞳を模した耳飾りが輝いていた。
「……綺麗ですね」
「ん。…………こんなに小さいのに、随分印象が変わるもんだな」
手鏡の中を、二人はそっと覗き込む。
頬を寄せ合った二人の耳に、互いの色が息づいている――なんて、きっと誰も気付かない。
「ちょっと悪いことしてるみたいだな」
「ふふっ、そうですね……考えてみたら凄いですよね、わざわざ身体に穴を開けてお洒落をするだなんて」
血は止まったけれど、何かが脈打つ感覚と違和感はまだ拭いきれない。
けれど、心臓の拍動を耳元で感じるのは、悪い気分じゃ無い。
これは、私のもの。この脈打つ身体は、私の手の中にある。
(……もう、私はパパのものじゃない)
存在を主張する自分にはちょっと慣れなくて、けれどようやく戻ってきた当たり前にじわじわと歓喜が広がって。
「……嬉しい?」
「はい……なんて言えばいいか分からないですけど……」
「小難しいことはいいじゃん。知世が嬉しい、それだけで十分だって」
絡みつく何かを一つ断ち切ってくれた耳飾りを、二人はいつまでも眺めていた。
◇◇◇
「これ、どうやって捨てるんですかね……」
「あー……針の捨て方までは調べてなかったな。後で調べよっか」
穏やかな午後の時間は、ゆったりと過ぎていく。
今までの習性故か、日の高いうちから「お尻ぺんぺんしてほしいです!」とおねだりするのはどうにも憚られて、二人は白い部屋のソファに凭れたまま、何をするでも無くぼんやりと過ごしている。
「…………そうだな」
どのくらいそうしていただろう。
不意に晃が独りごち、ソファからすっと立ち上がる。
そして「知世」と声をかけながら窓辺に歩みを進め、くるりとこちらに向き直った。
「晃さん?」
「……そこで、見てて」
「? はい」
いつになく真剣な面持ちで、晃は知世をじっと見つめる。
そうして意を決したかのように、怪訝な顔で晃の様子を窺う知世の前で、がばっとスウェットを脱いだ。
「っ、晃さんっ!?」
「いーから、そのまま」
「……でもっ……」
動揺を隠しきれない知世を「大丈夫だから」と宥めながら、しかし晃の手は止まらない。
そのまま靴下を、そしてパンツを脱ぎ捨てれば、そこには……初めて見る晃の「身体」があった。
「うわぁ……腹筋バキバキ……」
「だろ? 夏場に薄着したら結構綺麗に見えるんだぜ。……ま、俺は『脱いでも』割れてるけどさ」
「…………晃さん……」
露わになった身体を覆っていたのは、晃の命綱である男装用の補整下着だった。
遠目に見ればただのシャツに見えるベージュのインナーは、女性の徴である胸を完全に押しつぶし、更に鎖骨周りとみぞおちから脇腹にかけてを分厚い布地で覆っている。
横から見たシルエットは完全に男性のそれで、肩と背中周りの補正パーツも相まって服を着れば、ぱっと見だけなら女性にはまず見えないだろう。
更に、ガードルがお尻と太ももを強固に押さえつけてくびれを無くし、下腹部の膨らみを見事に平らにしている。
「すっごい、私のぽよぽよお腹もすっきりしそうな締め付け……きつくないんですか?」
「きついし結構蒸れるけど、もう慣れたよ。流石に稽古の時と寝るときは脱いでるけど、年中つけっぱなしだしな」
「そう、ですよね……あのう、その女の子にはついてちゃいけない膨らみがある気がするんですけど」
「あ、これも作ってんの、ほら」
「うひぇぇ!? あっホントだ、ただのクッションパッドだった!」
良く出来てるだろ? とその場でくるりと回る晃の笑顔に、知世の胸がズキンと痛む。
(……晃さんは、これが無いと…………外に出られないんだ)
ここまで女性らしさを排除して、男の身体を擬態しなければ、制服を着ることすらままならなかった。
今だってクローゼットに眠る衣類は、ナチュラル系で女の子っぽい服の多い知世とは違って、白と黒とグレーの男物ばかり。
ただの襟付きシャツですら前合わせが逆で無いと気分が悪くなるのだと、以前通話で話してくれたのを思い出す。
彼女に流し込まれた泥の濁りと、そこから生み出された消えない怒りの業火の激しさが、全部この中に詰まっているのだ。
きっと同情なんて彼女は喜ばないと知っていても、その淀みの深さを思うだけで、つい目が潤んでしまう――
「で……よい、しょっと…………これ、結構脱ぎ着するの大変なんだよな……」
「へあっ!? ち、ちょっと晃さぁん!?」
胸に迫るものに視界がぼやけかけた、その時。
晃の手が胸元にかかったかと思うと、グッと引き延ばして袖を引き抜いた。
(あ、上は二枚着てたんだ、じゃなくて!!)
突然のことに固まっていた知世だったが、肩周りの厚みを作るインナーを脱ぎ捨て、胸を潰すタンクトップに手をかけた晃にはっと我に返ると「ま、待って下さいっ!」と慌てて叫ぶ。
そんな知世に晃は分かっていると言わんばかりに微笑み……そして、静かに「いいんだよ」と答える。
「一緒に住んでたら、いつか見ることになるだろうしさ。それならもう今見せた方がいいかなって」
「そっ、それはそうでしょうけどっ! でも、晃さんは嫌じゃ……」
「んーほら、俺も知世の裸を毎夜見ていたわけだろ? しかも恥ずかしいところまで、全部」
「はうっ……あわわ……でもそれは」
「知世が変態だからなのは知ってるけどさ、これでおあいこ。それに」
見せたいって、俺が思ったんだ――
そうきっぱりと言い切って、ガードルに手をかけ。
そのまま下着までずぼっと一気にずり下げて足を抜くと、下着を床に放り出しこちらを向く。
「…………!!」
「これが……俺の、本当の身体」
春の柔らかな日差しがレースのカーテンを通して差し込む、白い部屋の中。
肩幅に足を開き、両手は腰の位置で拳を握って……所謂不動立ちで少しだけ頬を染めつつも真っ直ぐ知世を見据える晃の姿は、どこか神々しさすら感じさせるものだった。
「……ほ、本当に腹筋が割れてる……私の知らない景色が……!」
「ぷっ、最初の感想がそこなの、知世らしいよな!」
「あ、あわわ……でもなんというか」
「…………脱いでもそこまで女らしくは無いだろ? でもさ、こんなささやかでも俺の中の何かはこの身体が『女』だって拒絶するんだよな」
「晃さん……」
なんとも言えない気持ちで……けれども目に焼き付けるように、知世は晃の身体を眺める。
女性にしては肩や背中の筋肉は厚く、腕にもうっすら筋肉のラインが見える。
腹筋は綺麗に割れていて、鳩尾から上にあるはずの膨らみは本当にささやかなものだ。
尻も薄く、太もももふくらはぎも引き締まっていて、贅肉に塗れた知世の身体とは雲泥の差だな、とちょっとだけ悲しさが過る。
だが、確かにその身体は女性らしさを帯びている。
骨格までは如何ともし難く、どこか丸みを感じさせるし、下腹部の柔らかな膨らみも健在だ。
そして当然ながら、綺麗に整えられた叢には何も無くて……
「ちょ、知世、視線が怖い」
「ごっごめんなさい! その……私のぽよぽよがちょっと恥ずかしくなるなって」
「ええー、知世のお尻はサイッコーに可愛いじゃん。白くて丸くておっきくて、いかにも女の子です! って感じでさ」
「も、もうちょっと私は控えめがいいんですけど……」
何故か服を着ている自分の方が恥ずかしくなって、知世はちょっと背を縮こませる。
そうしてちらりと真っ直ぐ立ったままの晃に目をやり「……その」と素直な感想を吐露した。
「……身体も、晃さんらしいなって…………思いました」
「っ…………んだよ、何か照れるな……」
「ふふっ、素敵だと思いますよ。はぁ、私も増えるなら脂肪より筋肉の方がいいなぁ……」
「その尻をキープしてくれるなら、俺はなんだっていいよ」
「ほんっと晃さんもブレませんよね!」
ふっと笑う晃の瞳。
そこに宿る小さな悲しみと悔しさの色を、知世は知っている。
そしてきっと、晃自身も……
「『アタシ』だってさ、普通の女の子に戻りたいって……思うことはあるんだよ」
「…………!」
(晃さん、今……アタシ、って……!)
――そう、きっとずっと前から気付いていて。
けれどなまじ女の子が憧れるすらりとした体型を持っているが故に、彼女の切なる慟哭には誰一人耳を傾けなかったのだろう。
「晃さんは晃さんです。私はどんな晃さんでも、その……ずっと一緒ですから」
「っ! ……うん、ありがとう、知世」
いつか晃さんと二人で、本当に着たい服を着て、街にお出かけが出来る日が来ますように――
泣き笑いのような顔でグッと口を引き結ぶ晃の姿に、知世は静かに祈りを送るのだった。
この日以来、晃は知世の前でだけは昔のように「アタシ」と自分を呼ぶようになる。
晃曰く「知世ちゃんの前だと、気持ち悪くならないんだよな」だそうだ。
相変わらず言葉尻はぶっきらぼうだし、男言葉なのも変わりはしないけれど……彼女の中にもわずかな希望の光がようやく差したのかも知れない。
◇◇◇
「寒くない? 暖房は強めにかけてるけど」
「大丈夫です。晃さんこそ暑くないですか?」
「問題ないよ、補整下着も脱いでるし。暑かったら全裸になればいいしな!」
「ええと、そこは服を着て貰った方が個人的には……その、立場の違いが分かって興奮すると言いますか……」
「ははっ、知世はやっぱり小ブタちゃんになるのがお気に入りなんだな!」
夕食を済ませて、お風呂に入って。
リビングでの団らんもそこそこに、二人は白い部屋のドアを開ける。
互いにつとめて平静を装っているけれど、その語尾は少しだけ掠れているし、何となく落ち着かなくて……でも、同じ気持ちでここにいることが、少しだけ嬉しい。
――そう。
私達は今夜ここで初めて、現実世界でのプレイをする。
「あ、晃さんっ今日は何を使うか選んでも……へっ、何でここに」
「ほう……てめぇらそんなに俺に詰られたいか、ああん?」
「あ、晃さんっ、ひょえっ!?」
まさか、道具を物色しようと期待に胸を膨らませ開いた棚の中で、藍色のブランケットと枕カバーがちゃっかり折りたたまれた状態で待っているとは思わなかったけれど。
すぐさま晃が「……いいか、少しでも俺達の邪魔をしたらリビングのカーペットとトイレ用の雑巾にするからな……!」と人に見せられないような顔で凄んでいたから、きっと問題は無いはずだ。
「あー……鞍馬さんが言ってたっけ、恋人としての初めての時は邪魔をするなってこんこんと言い聞かせろって……」
「げ、あいつらもしかして覗きの前科持ちかよ! てか初めての意味合いが全然違うだろうが、ほんっと悪趣味だな!」
外からクローゼットに鍵をかけて「いいかクソ寝具、そこから出てくんなよ!」と念のために怒鳴りつけた晃はやれやれと言った様子でこちらを向く。
そして「知世、重大な問題が発生した」と深刻な顔をつくった。
……うん、口の端がちょっと笑っているから、きっと彼女にとっては悪くない展開なのだ。
「問題、ですか?」
「ああ。……アタシは今、クローゼットに鍵をかけた」
「あ、はい。お布団さん達が出てこないようにですよね? なんかこっそり出てきそうな気もするんですけど」
「なあに、ビビって縮こまってたから問題ないさ。それでだ、この鍵はプレイが終わるまで開くことは無い。……つまり」
「…………はっ、道具が取り出せない!!」
(待って、それは大問題じゃ無いの!?)
思いっきり出鼻をくじかれた知世は「そんなぁ……」と見る間にしょげてがっくりと肩を落とす。
ようやく訪れた本物のプレイの時間が、まさかこんな形で延期になるだなんて。
ここは寝具達にプレイルーム立ち入り禁止令を発令すべきだったよねとため息をつけば「いや、プレイはするから」と苦笑交じりの声が上から降ってきた。
「あ、そこは譲らないんですね……でも、どうやって」
「別に道具が無くても問題ないさ。今日はそもそも使う予定が無かったし」
「えっ」
思いがけない言葉に目を丸くする知世の眼前に、すっと差し出されたのは晃の手のひら。
夢での逢瀬の時から美しいと思っていた手は、稽古により無骨になるのが嫌で毎日手入れを欠かしたことが無いのだと、昨日知ったばかりだ。
細くすらっとした指先に、桜貝のような輝く爪……思わず見とれていた知世は、ハッと晃を見上げる。
(あ、もしかして)
……果たして、知世の予感は当たっていた。
晃は透き通った瞳に緊張と興奮と……少しの罪悪感がない交ぜになった色を浮かべながら
「……知世、今日は手で打つ」
「っ…………!」
「初めて」の再演を宣言したのである。
◇◇◇
どくん、どくん、どくん――
(あ……この手が、私の、現実のお尻に…………!)
意味を理解した瞬間、カッと頭が熱くなって。
気のせいだろうか、視野が狭くなって……もう、晃の手のひらしか、目に映らない。
「……はぁっ…………ご主人様ぁ……」
「んー、スイッチ入っちゃうとやっぱり呼んじゃうのな。まぁ今日は初めてだから許すけど、それもおいおい直していくから」
「はいぃ……あ、床に四つん這いですか? それともソファの背もたれに掴まって?」
「いや、今日は……膝にしよっか。アタシも知世の熱と柔らかさを感じたい」
「…………!」
ソファにぽふんと腰掛けた晃が、おいで、と知世に向かって手を広げる。
……ああ、これは夢では無いのだと、身体が教えてくれる。
鼻を息が通り抜ける感覚も、喉が痛くなるほど鳴り響く興奮の鼓動も、そして……太ももを伝う生ぬるい感触も、全てが夢の中とは比べものにならないほど輪郭がはっきりしているから!
(……あの手のひらも、きっと…………)
夢の中で何度も尻を打たれ、頬をつねられ、頭を撫でてくれた晃の手。
そう言えば新幹線のホームでも背中に温もりを感じたけれど、あの時は溢れる感情を吐き出すので精一杯だったなと思い返しつつ、知世は晃の傍に立つ。
「……知世?」
「晃さん…………手を」
「…………ん」
一瞬不思議そうな表情をして、それでも晃は知世の促すまま、手を伸ばす。
その美しい手を、知世は両手でそっと、包み込んだ。
(晃さんの、手のひらだ……)
もちもちで丸っこい子供のような自分の手とは違う、女性らしい美しい指。
15年以上武道を嗜んでいるとは思えないその繊細な肌触りに、知世は胎を震わせ……そうして己の口元に包んだ手を持っていくと、そっと唇を触れさせる。
「知世……」
これは、決して一方的な関係では無い。
確かに当初、私達は互いを都合のいい妄想だと見做していたけれど、そこに無理矢理という言葉は存在しなかった。
ただ、それを直接伝えたことは――知世はつい最近まで彼女の実在に気付いていなかったが故に、一度たりも無かったのだ。
(ちゃんと言わなきゃ、伝わらない……私達にはお布団さんのような不思議な力は無いんだから)
「晃さん。私は……最初からずっと変わりません。私がこの手のひらを、望んだんです」
「…………!」
意を決して静かに、しかしはっきりと初めて告げられた知世の言葉に、晃が目を見張る。
知世の手のひらの中で、晃の手がピクンと跳ねて……やがて「ああ」とため息のような感嘆が晃の口から零れ落ちた。
「……知世の手は、柔らかくて温かいな」
「晃さん……」
「そっか。うん、アタシは望まれていたんだ」
「はい。…………だから」
だから、晃さんは何一つごめんなさいなんて言わなくていいんです――
包み込まれた手が、ぐっと握り込まれる。
溢れる想いは言葉になること無く、ただ二人の間をそっと繋いでいた。
◇◇◇
「んっ……」
ひとしきり互いの手のひらを感じ合った後、知世は逸る心を宥めながら晃の膝へとその身体を横たえ、丸い尻を曝け出す。
そうすれば待ってましたとばかりに、晃の指が白いキャンバスにするりと弧を描く。
それだけで震える腰に「そんなに楽しみだった?」と笑いながら、晃は真剣な眼差しで知世に問いかけた。
「知世、確認だ。セーフワードは?」
「…………っ」
「……前にも言ったけどさ、別に辛ければ変えていいんだからな」
「ううん……これがいいんです……!」
セーフワード。
それはルームシェアをすることが決まった時に、晃から提案された概念である。
『プレイを中断する言葉……?』
『そ。ほら、夢の中ならあのクソ布達のお陰である意味やりたい放題だっただろ? どうせ現実に戻れば元通りなんだし……けど、現実は違う。事前に合意していたって、これ以上はどうしてもだめって事は出てくると思うんだ』
『そういうものなんですね……でも、それならだめって言えば』
『知世、よく考えてみろ。あんたがダメとか無理とか言う時って、本当に限界を迎えていたか? ……本当に止めて欲しかったか?』
『あー……それはセーフワード必須ですね!!』
ちょっと考えてみますと答えて、それから三日間、ネットで調べたり候補を出したりして悩んだ結果、彼女の選んだ言葉はこれ以上無く効果的なものだった。
「…………『パパ、来ないで』」
……諸刃の刃となりかねない言葉に晃は懸念を示したけれど、最終的には決して無理をしないという条件で受け入れられた。
これは、知世の決意。
これまでの自分に出す、拒絶の言葉を口にしてもいいという許可と、拒絶は叶うという確信を得るためだから。
今日もまた少し顔を青ざめさせ、震える唇から放たれた言葉に、晃は「知世も人のことは言えないよな」とため息をつきつつ、優しく尻を撫でる。
「晃さんが、教えてくれたんです……たまには脳筋で動く方が、上手くいくって」
「それにしても限度ってものがあるだろ。人のことは言えないけどさ……いいか、絶対に無理をするな。その……正直アタシも調子に乗りそうなんだ、今日は」
「……ふふっ、晃さんも楽しみなんですね」
「当然だろ、理想の尻が現実に顕現して……ははっ、喉が渇くや」
じゃあ、今日もいい声で鳴いてくれよ?
いつも以上に掠れた音で囁かれる始まりの合図に、知世は待ちきれないと言った様子でグッと尻を突き出した。
「はい、晃さん……知世のお尻を、いっぱいぺんぺんして下さい……!」
◇◇◇
現実での初撃は、夢の掌底に比べれば随分とこなれていて、それでいて……これまでとは比べものにならない鮮烈さを纏っていた。
パンッ!!
「んうっ!!」
「っ……!」
弾けるような小気味よい音が、部屋の空気を揺らす。
同時に襲う痛みと熱さに……上がったのは、二つの声。
「え……晃さん?」
現実の手のひらは明らかに違う――残された痛みと痺れの余韻を、うっとり味わう知世の耳に飛び込んできた呻き声に怪訝な声を上げれば、上からふっと笑う声が聞こえた。
「……痛いんだな」
「晃さん」
「実は夢じゃさ、いくら打っても痛みなんてほとんど無かったんだ。あれだけクソ枕カバーにもちゃんと痛くしろって言ったのに、あいつそれだけは絶対に言うことを聞かなくて」
ちゃんと痛いなと、晃は感慨深げにほんのり赤く染まった手のひらを眺める。
――知世の柔らかい肌の感触も夢の中よりずっと鮮明に感じられるのが、これほど心躍って……嬉しいだなんて思わなかった。
(ああ、やっぱり……アタシにも痛みが残るって、いいな)
もしかしたら、あの寝具はこれを危惧していたのかも知れないと、晃はふと思う。
知世の悲鳴よりも、身体に残る打撃の実感はずっと甘美で……ともすれば夢への耽溺を誘いかねないから。
「ったく、やっぱり腹立つな……」
「……えっと」
「何でも無い。知世、これ現実だとあんまり回数打てないかも。意外と手に来る」
「あ、だ、大丈夫です……その、私も夢よりずっと痛いから……」
「そっか、なら遠慮は要らないな」
「えっそこはちょっと加減しようとか、んあっ!!」
パンッ!!
何かを納得したかのように頷いた晃の手のひらが、再び白をほんのり赤く染めて。
そこからは……知世に思考を挟む余地など、何一つ与えられなかった。
パンッ、パン! ……パンッ! …………パァン!!
「うっ、えぐっ……はっ、はっ、はっ……はぁっ……んあぁっ!!」
「ほらぁっ、もっといい声で鳴きなよっ!!」
「はぁっはぁっ、ずずっ、あああっ!!」
鼓膜まで震わせるような、乾いた打撃音。
体腔に響くようにしこまた打ち鳴らして、敏感になった皮膚につぅ、と指が這えば、途端知世の身体がビクッと跳ねて、甘やかな声が白い部屋を満たす。
「ははっ……ドキドキするよな? ……ほら、手のひらが離れる……何、期待してる? それとも……怖い?」
「ひぐっ、ひぐっ……わかんにゃい、でしゅっ……痛いの……でも、もっと……ひぎっ!!」
パンッ!!
「ん? またお尻だと思った? 痛いよなぁ、覚悟決めてないところに打ち込まれるって、さ!」
「あぁっ!! いだいっ、あきらしゃんっ、はあっはあっいだいっでしゅっ!! ひっく、ひっく……ずずっ、はぁっ……んくぅっ……」
双丘を交互に、かと思えば太ももに。
リズムも、深さも、緩急を付けて決して身構えさせないように――
稽古で培った観察眼を全力で活用して、晃は慎重に、しかし恍惚の笑みを浮かべながら目の前の尻を打ち据える。
パンッ…………パァン! ……パン、パン! パンッ……
「お゙っ、あぐっ、ん゙っ……あ゙ぁ゙っ、ふぐぅっ……」
音に合わせて身体が揺れる度に、空気が押し出されるような意味の無い音が、知世の口から漏れる。
しゃくり上げながら少しずつ大きくなる悲鳴に呼応するかのように、晃の息も荒くなり、時折感極まったような嗜虐者らしい笑いを混ぜながら、知世を限界まで追い込んでいく……
「うあああん、もう無理! 痛いよう、晃さんお尻壊れちゃう! ひぐっ、ひぐっ……これっ、お布団さん、治してくれないのにぃっ!!」
「ふうん、まだそんなことを考えられちゃうんだ……ほら、余計なこと考えずに鳴きなよっ!」
「ひぎいぃっ、いだいいい!!」
知世の泣き言に、一瞬晃の手が止まる。
けれど「あの言葉」ではないと確認し、更に知世を煽る一撃が振り下ろされる。
パァン!!
いくら鍛えていたって、現実の手のひらは痛い。
そう、与えることは痛い。じんじんするし、熱を持って赤く染まっている。
けれど……与えた痛みはどこまでも心地よくて、知世の濁った悲鳴は甘露のようで……どこまでも晃を酔わせるのだ。
(ははっ……楽しい…………夢の中より、ずっと楽しい……!!)
(痛い、痛いっ……全然違うっ、痛過ぎて、頭が痺れるぅ……あぁ、熱い……っ!)
パンッ……!!
また一つ、狙い澄ました打撃が、太ももに落ちる。
二人だけの白い空間は、熱くて甘くて痛いこの歪んだ交歓を丸ごと抱き締めるかのように、全ての音を鮮やかに反響させていた。
◇◇◇
「はっ……はぁっ……ち、知世……今日は、ここまで、な……」
「ひっく、ひっく……すんっ……あ、ぁ……」
時間にすれば、きっと夢の中でのプレイとは比べものにならないくらい短いけれど。
初めての、そして今までに無く濃密なひとときは、ふわふわするような余韻を二人に残してくれる。
「やっぱり、現実の方がずっと……いいな」
「んっ……はい…………凄かった、です……んふ……」
「楽しめた? なら、良かった」
(夢とは全然違った……いっぱい痛いし、熱いし……それに何より、現実の晃さんが、傍にいる……)
くたりとした身体をうつ伏せで預けたまま、知世は敏感になった肌を這う晃の感触を、時折熱っぽい吐息を漏らしながら味わう。
何故だろうか、今日はいつもより晃の熱が伝わってきて、ときおりかかる晃の満足げなため息にすら、身体が震えてしまう。
「晃さんって、ほんっとうにお尻すき、んっ、ですよねっ……」
「ん、知世のは格別だな。透き通るような肌で、触り心地も良くて」
「んひぃっ! あっ、あきら、しゃんっ、今っ何をっ!?」
「大きくて、柔らかくて、こんなに敏感で……女の子、って感じがする」
「あっんぁっ……はぁっ、はぁ、っ……んううぅ……っ……」
そっと柔らかい感触が、赤く腫れ上がった尻に落とされる。
指とは明らかに違う柔らかさ……それが晃の唇だと気付いた瞬間、ぞくんと知世の胎に、重いものが溜まった。
「……いい声」
「はぁんっ!! ……ぁ……っ、はっ……はっ……」
「知世……だめなら、ちゃんと」
「はぁっ、はぁっ……だめ、じゃないですぅ……でもっ……晃さん、私変なのっ……おしり、触れられてるだけなのにゾクゾクして、お腹が……中が、きゅぅってなるのぉ……!」
「……変? まさか」
晃が知世の訴えにふふっと小さく笑って、離れた唇に知世がどこか安堵を覚えた瞬間
「知世は変態なんだから、何も変じゃない」
「んああぁっ!!」
ぴちゃり、と音を立てて、最も赤く腫れ上がった……最も感度を高められた場所が、温かくぬめる感触を与えられる。
ビクンと身体が跳ねて、散々叩き込まれた、与えられた熱が限界を超えて、胎を震わせ視界を白く染める、上り詰める――
(ああ、私はもう知ってる、この快楽を)
(でも)
(……これは、違う。こんなのは、知らない……!!)
「あひっ、あっあっんぁっいくっ、あきらしゃんいくっ、いく、いってるうぅ……! あっ、なにこれぇっとまら、ないっ……また、いぐっ! んっ、んうぅ、ああぁっ……!」
「……いいよ、怖くないなら……いっぱい汚くない気持ちいいに、なっちゃいな」
「あああぁ……いっ、うぁ……はっはっはぁっ、んあぁ……っ!」
絶頂を告げる高い声すら、知世の熱を煽り続けて。
全ての思考が、感情が、言葉が、洗い流される。
本能に全てを委ねた喉から勝手に漏れ出る甘い音は、意味を紡ぐことも出来ず。
(きもち、いい……逝ってる…………これ、ちがう……あきらさん、こんなに……きもちいいよぉ……)
降りてくるなと言わんばかりの優しい愛撫が、執拗に尻へと施され。
限界を迎えた頭が、強制的に意識を切り離そうとする。
暗転する間際、どこかほっとしたような声が耳に届いて……
その意味を解する間もなく、知世は力の抜けた笑みを浮かべたまま温かい暗闇に包み込まれた。
「……ありがとう、知世。アタシの手を……汚くない気持ちいいにしてくれて」
◇◇◇
「ちゃんと約束したしさ、その、合意なのも分かってるから謝らないけど……なんというか、ちょっと落ち着かないな」
「んふっ……大丈夫ですよ。このくらいの痛みなら……時々お布団さんが残してくれてたから」
「はぁ? え、それは初耳なんだけど!? ……自分から布団野郎に頼んだんだよ、な? はあぁ……ほんっと、知世ちゃんはどこまでも変態なんだから……」
「えへぇ……ありがとうございますぅ……」
目が覚めたら、お尻が冷たかった。
どうやら自分は絶頂しながら気絶してしまったらしいと、知世はぼんやりした頭で目の前に映る風景を眺める。
「……しんしつ…………」
「あ、起きた。知世ちゃん、大丈夫か? 気分は?」
「あきらしゃん……だいじょぶ……いてて……」
「痛いよな……お尻は軟膏を塗ってアイスノンで冷やしてる。一応痛み止めも買ってきてあるからさ、きつかったら遠慮するなよ」
「はい。取りあえず明日は座れないの、確定ですね」
「だよなぁ……」
くしゃりと頭を撫でる手には、申し訳なさが滲んでいて。
知世は「大丈夫」と再び繰り返し、とびきりの笑顔を晃に向ける。
――これは、作り物じゃ無い。私の心からの笑顔だと、きっと伝わるはず。
「でも……これじゃ毎日プレイするのは難しそうですね……」
「そりゃそうだ、流石のクソ寝具も現実の傷までは治せないみたいだしな。……これはあれだな、痛みが引くまでは今まで通り夢の中で、元気になったらあの部屋で、ってことで」
「そうなりますよね……ふふっ、でも」
「でも?」
「あんなに激しくて、痛くて、楽しいのを知っちゃったら……夢じゃ物足りなくなりそう」
「っ……ほんっと知世ちゃんはぶれないな! 気持ちはわかるけど、さ」
お尻の皮膚が傷まないように、これからは毎日スキンケアもしような、と晃はアイスノン越しにそっと知世の尻を撫でる。
「んっ」と痛みに顔を顰めながら見上げた晃の顔もまた、今夜のひとときへの満足が見て取れて……それでもふと過る濁りに、知世はあることを思いだした。
(そうだ……ちゃんと現実で、ありがとうって言いたかったんだ)
「……晃さん」
だからうつ伏せのまま、知世は晃に語りかける。
この一年の全てを、言葉に乗せて。
貰ってばかりだった私から、感謝と……祝福を、あなたに届けるために。
「ありがとうございます、晃さん」
「知世ちゃん……?」
「晃さんがお尻を求めてくれたから、私は今ここにいられるんです」
「…………っ!!」
知世の穏やかな言葉に、爽やかな笑顔に、晃がはっと息を呑んで。
一体どのくらい、そうしていただろうか……やがて晃の口から、震える声が零れ落ちる。
「……うん、アタシも……知世ちゃんが変態だったから、今日まで生きてこられたんだ」
エアコンの音だけが静かに響く寝室に、鼻を啜る音が響く。
ぽたりとお尻に落ちた雫は、服越しだというのに……火傷しそうなほどの熱を帯びていた。