第10話 証を胸に抱いて
知世と晃の新しい生活が始まって、三ヶ月。
喧噪に包まれた都会の一角で、彼女達は今日も穏やかな朝を迎える。
「♪~♪~」
「ん……むにゅ……」
軽快なスマホのアラーム音が鳴り響く寝室。
もぞ、と東雲の空を模したブランケットの中から飛び出たもちもちの手が、音の元を探してぺちぺちとベッドサイドのテーブルを叩くも、どうやら今日のスマホはちょっと遠くにあるようだ。
「……知世ちゃん、もうちょい右」
「んん……ふぅ、止まった…………もう、ちょっとだけぇ……」
「これでスヌーズ三回目だぞ? アタシ、先に起きちゃうけど」
「っ、だめですっ私も起きますっ!!」
呆れたような晃の声に、知世は慌ててブランケットから顔を出す。
薄暗い視界の中に飛び込んできたのは、紫紺色のショートヘアに緑がかった水色の瞳が美しい、穏やかな笑顔だ。
「おはよ、知世ちゃん」
「……おはようございます、晃さん」
晃はブランケットと同じ色をした枕に頭を預け、Tシャツとホットパンツ姿でベッドに転がり、楽しそうにこちらを見つめている。
彼女は今日も目覚まし無しできっちり覚醒して、惰眠を貪る知世の姿を堪能していたに違いない。
「あれ、外……雨ですか?」
「ああ。ちょっと強いから今日はリビングでバイクを漕ぐかな。……知世ちゃん、髪が爆発してる」
「ううぅ、梅雨は猫っ毛の天敵ですぅ……ご飯食べたら戦わなきゃ……」
――ああ、ここが安全だと分かる目覚めがこれほど輝いていただなんて、きっと普通に生きていれば知ることはなかったのだ。
夢を通して毎日のように逢瀬を重ねていた時も楽しかったけれど、現実に戻った時の虚しさは如何ともしがたくて。
だから、この世界にあなたの存在を確認できるこの瞬間が、堪らなく愛おしい――
ようやっと掴んだ平穏を噛みしめながら、知世はベッドから降りて身支度を整え始めた。
◇◇◇
広々としたリビングには、この三ヶ月で随分と物が増えた。
そのほとんどは晃のトレーニング器具で、このままでは家がジムになってしまうのでは? と知世は少々懸念している。
「ふぅ、さっぱりした。いつもありがとな知世ちゃん、朝ご飯全部作らせちゃって」
「大丈夫です! 作るっていっても火を使うのは卵だけで、あとはほぼ並べてるだけですし」
「その並べるだけすら面倒じゃん。アタシ一人なら、間違いなくパックからそのままハムとチーズを囓ってる」
「や、野性味溢れてる……ちなみにパンは」
「腹に入れば皆同じだしな。パン? 塊でがぶっと」
「やっぱり!」
バスルームから出てきた晃の髪から滴る雫に「んもう、もうちょっと拭きましょうよ」と知世は口を尖らせ、頭を無言で傾けてくる晃の肩からタオルを取る。
Tシャツ一枚の体躯には、しっかりと筋肉がついていて……けれど、どこか女性らしい丸みを帯びたままだ。
「……晃さん、そのままでもその……胸、擦れません?」
「ん?時々くすぐったいし変な気分にもなるけど、まあそこは気合いでどうにかしてる」
「それは、気合いで何とかしていい問題なんですか!?」
いつの頃からか、晃は自宅では補整下着をあまり着なくなった。
というより、着ることを忘れている事が多くなったと言う方が正しいだろうか。
この間なんて、知世と一緒に近所のコンビニへそのままの姿で歩いて行って、帰ってから「え、まさか、着てなかった……!?」と真っ青になって取り乱していたほどだ。
女性用の服は、とても着られるとは思えない。けれど、きっと近い将来には補整下着無しで生活出来るようになりそうだ――
言葉にはしないけれど、二人はそんな明るい未来を思い描いている。
「いただきます」
「おあがりなさい、私もいただきます」
知世が用意した朝食は、いつもと代わり映えが無いメニューだ。
スライスしたライ麦パンのバスケットをどんとテーブルに置いて、周りに並べたジャムや具材を好きに選んで作るオープンサンドイッチと、温かいコーヒー。
朝はタンパク質をしっかり取りたいという晃の希望もあって、スクランブルエッグとハム、スライスチーズは皿にてんこ盛りだ。
「あ、これ昨日作っていたジャムか」
「はい。ココナッツミルクと卵と砂糖で作るんです。折角冷凍のパンダンリーフが手に入ったし、嬉しくなっちゃって」
「ふぅん、味の想像がつかないな……甘いって事だけは分かるけど」
見慣れない緑のジャムを興味深そうに眺めながら、晃はパンを手に取る。
そうして瓶からジャムをたっぷりすくい取り、分厚く塗るとパクリと勢いよくかぶりついた。
「ん……!」
途端、濃厚なココナッツの香りが口いっぱいに広がる。
少し爽やかさが混じっているのが、多分パンダンリーフなのだろう。
ジャムと言いながらそのコクはピーナッツクリームやカスタードに近くて、けれどもそれらとは全く違う南国の風味に「んまっ!」と思わず晃の口から感嘆の声が上がった。
「これ、美味しいな! 何枚でもパンが食べられる」
「ベビーカステラに入っているのも美味しかったですよ! 次のバイト代が入ったら、たこ焼き器を買って作りましょ!」
「確か夢の中でガチ語りしてたおやつの一つだよな。それにしても、こんなものが学食で食べられるって贅沢だよな……アタシが知世ちゃんの学校に通ってたら、絶対太ってた」
卒業後、鞍馬が教えてくれたレシピはこの家で大活躍中だ。
どうやら、晃は夢の中で嬉々として語られる知世の学食話にすっかり飯テロを食らっていたらしく「まさか実物が食べられる日が来るなんて」と知世の手作りおやつをいつも楽しみにしてくれる。
まだパンダンリーフは残っているし、週末はあのもちもちお菓子に挑戦するかなと知世はストックを確認しつつ片付けを終え、晃の隣にぽふんと腰掛けた。
「知世ちゃんも今日は昼からだっけ」
「はい。あ、バイトのシフトが交代になったから、今日は一緒に帰れますね」
「そっか。昼は学食で食べるとして夜は……ローストチキンとマッシュポテトにしようよ、あれオーブンに放り込むだけで意外と簡単だし」
「晃さん、大食いだけど作るのは全力で省エネしたいタイプなんですね……野菜はどうしようかなぁ」
「ん? ジャガイモは野菜だろ」
「その理論は却下します」
ソファに並んで、スマホを取りだして。
見ている物は別だけど、互いの体温を感じる距離は実に心地よい。
「……あいつらとおさらば出来る日は、まだまだ遠そうだよな」
ゆったりとした空気の中、画面から目を離さないまま、晃がぽつりと呟いた。
瞳の中には、どうしようも無いもどかしさと少しの諦めが浮かんでいる。
「やっぱりあのクソ寝具は、呪いの産物だと思うんだよな……」
「まあ勝手についてくる段階で、明らかに怪しいですもんね」
二人を歪んだ性癖で結びつけた、藍色の布地に桃色のグラデーションが美しいブランケットと枕カバーは、今日も寝室で主の帰りを待っている。
晃が全力で「お願い」した結果、寝具達が勝手に寝室を抜け出してあの白い部屋に突撃することは無くなったが、晃は今でもプレイ前には棚の中をくまなく検分しているようだ。
(そもそも私達に、選択権はないものね……)
晃が以前話してくれた、彼女に寝具を手渡した「ヘタレなおっさん」から伝えられた話を知世はふと思い出す。
曰く、この寝具達は自ら持ち主を選ぶらしい。
選んだ持ち主の願いを叶え、かつ新しい持ち主を寝具が見出すその日まで、彼らが側を離れることは無いのだと。
実際、晃は当初あの枕カバーと仁義なき戦いを繰り広げ、何をしても戻ってくる布に完全敗北したという。
「アタシは現実で理想のお尻を手に入れたし、知世ちゃんだってスパンキングをしてくれる『ご主人様』を手に入れた。願いは叶ったからさ、とっとと次の持ち主を見つけるかと思ってたんだけどな……あいつら、全力でうちに居座ったままじゃん」
「うーん、結局今もお世話になってますし、しょうがないんですかね……」
願いは叶ったのだから、もうこんな怪しい寝具を使う必要は無い――
ルームシェアを始めて暫く経った頃、二人は話し合って寝具をクローゼットにしまい込んだことがある。
けれど、平穏を手に入れたところで身体に染みこんだ癖はそう易々と消えないという悲しい現実を、二人は早々に思い知らされる。
『知世ちゃん、昨日……寝た? ……っ、痛てて……』
『三時半くらいまでは起きてましたね……ふあぁ……晃さんは、ずっと顔を顰めて唸ってましたよ……』
『だよなぁ……うう、久々に頭痛薬飲まないとだめなやつじゃん、これ』
結果として、寝具を使わないと知世は未明まで眠りにつけず、晃は食いしばりが復活して朝から頭痛に悩まされる日々が再来してしまう。
これには流石の晃も参ってしまい、結局文句を言いつつも寝具達をベッドに復活させて、今は純粋に良質な眠りのために彼らの力を借りている状態だ。
「でも」
大きなため息をつく晃に、知世は微笑みを返す。
――ここでは笑顔は溢れるもので、作るものではない……それだけのことに、小さな幸せを感じながら。
「ちょっとずつですけど、私達も変わってきてます。晃さんだって、補整下着を忘れて外に出ちゃえたんですし」
「……まあ、それもそっか。でもアタシとしてはさ、クソ寝具をここから追い出せる日がさっさと来て欲しいけどな!」
「前々から思ってましたけど、晃さんはお布団さん達にめちゃくちゃ塩対応ですよね……」
「そりゃ、あのクソ枕カバーがこれまでやってきたことを思えば当然……げ、知世ちゃんごめん、昼の講義で使う教科書を買っておけって今頃……」
「あーじゃあ早めに出ましょっか。準備しますね」
スマホに向かって文句を言いながらクローゼットを開け、補整下着を身につけ始めた晃を視界の端に映しながら、知世もまた外出の準備を始める。
(私はお布団さんにいてもらっても別に構わないんだけど……でも、自力で寝られるようにはなった方がいいよね)
互いの歩みは遅々としているかも知れない。でも、確実に前には進んでいる。
だからきっといつか、彼らにお役御免を感謝と共に伝えられる日が来る――
まだ先の見えない未来を、それでも二人はしかと見据えて、今日もこの現実に足を置く。
そんな彼女達の手探りな生き方を、まじないの寝具達は静かに見守っている……のかもしれない。
◇◇◇
電車を使えば15分の距離だというのに、道路は渋滞が読めないからどうしたってかなり余裕を持って登校せざるを得ない。
それでも運転免許証の存在は、晃に圧倒的な外出の自由をもたらしてくれた。
もちろん、人の多いところに近づけないのは今も変わりないけれど、誰にも頼らずどこにでも行ける――その事実があるだけで、心には随分ゆとりが生まれるらしい。
「つくづく家業が不動産屋で良かったと思うよ。駐車場の心配が無いってのは、都会じゃかなり大きいからさ」
「本当に車を停めるのが大変ですよね、駐車料金も高いし……コンビニの駐車場がほとんど無くて、びっくりしました」
「アタシは知世ちゃんの地元の写真にびっくりしたよ! 何であんな無駄にだだっ広いのさ、駐車場にコンビニがもう二つくらい建てられそうじゃん!」
構内に足を踏み入れた途端、晃の肩からふっと力が抜ける。
駐車場はすぐ近くにあるとはいえ、外では身体が勝手に臨戦態勢を取るのは今のところどうしようもなさそうだ。
(ほんっと、ままらなねえよな……)
そんな自分に気付いたのだろう、晃は一瞬顔を顰めるも頭を振って口を引き結び、知世と共に目的地へと向かう。
「ええと……これだな。ったく、前期で使うなら先に指定しておいてほしいっての! そしたらネットで買えるのにさあ」
「しかも、買ったからって使うとは限らないですしね……あ、レジ……私買ってきます」
「ん、ありがと」
生協で指定された教科書を物色し、知世が本を受け取って、レジへとぽてぽて歩いて行く。
店員が男性の時は、念のために知世や同じ学部の友人に手助けして貰うのが基本だ。
もちろん普段の生活ではなるべくネットや宅配で終わらせるけれど、どうしたって完全には避けられない。
(このくらいは、出来るようになりたいんだけどな)
小さな後ろ姿に、晃はそっと独りごちる。
いつまでも周囲の優しさに頼り切りではいけないとは分かっていても、足を踏み出すには晃の性質は……あまりにもハードルが高い。
何かあれば自分だけでは無い、誰かが被害に遭ってしまうのだから。
特にあの日――時々出稽古にやってくる、顔だけは厳ついヘタレなおっさんに見事な正拳突きと裏拳を決めてしまって以来、晃は前にも増して男性との接触を減らしたままだ。
人は、変われる。普通には戻れなくても、近づくことは出来る。
だからいつか、この厄介な状況だって改善する日が来ると信じてはいるけれど……
その「いつか」は果てしなく遠い。
「晃さん、どうぞ。……ごめんなさいは無しですよ? お互い様なんだから」
「何で分かっちゃうかなあ……うん、ありがとう知世ちゃん」
「どういたしまして。さ、お昼食べに行きましょ!」
(お互い様、か)
知世の言葉に、ふっと晃の顔が緩む。
泥に染められ歪んだ心はあまりにも脆弱で、「普通」であろうとすればどうしたって互いの手助けは必要で。
だがそれは、決して恥じるべき事では無い。泥を流し込んだ人間が断罪されることはあれど、流し込まれた自分達は何も悪いことをしていないのだから。
それに案外、自分達からは普通の顔をして生きているように見える人たちだって、似たようなものなのかも知れない――
(ありがとな、知世ちゃん)
晃はもう一度、隣ですっかりお昼ご飯に心を奪われている知世に心の中で呟く。
生協の建物を出て見上げた空は、雲間から夏の到来を告げるかのような眩い光が差していた。
◇◇◇
「ここの学食も、割と美味しいですよね。ビュッフェなのにちゃんと日替わりメニューもあるから飽きないし、何より定額食べ放題だし!」
「だな。でも知世ちゃん、デザートは三皿まで。ちゃんと栄養は取らなきゃ」
「むうぅ……そういう晃さんも、お肉ばっかりじゃダメですよ? お皿に緑がゼロじゃ無いですか!」
開放的な雰囲気の学食は、少し早い時間だというのに大賑わいだ。
窓際のテーブルに合流した友人達と共に陣取った二人は、今日も今日とてプレートにたんまり盛り付けたおかずを幸せそうに頬張る。
軽妙なやりとりを繰り返しながら、しかし止まらない手に友人達は「相変わらず気持ちがいい食べっぷりよねぇ」と感心しきりだ。
「いやぁ、世界は広いよね! まさか、晃先輩と張り合えるほどの食いしん坊少女がこの大学にやってくるだなんて」
「しかも二人って、確かルームシェアしてるんでしょ? 食費ヤバくないですか?」
「むぐむぐ……だいじょぶ、平日の昼はここで食べれば食費は抑えられるし」
「俺ら基本自炊だしな。知世のおやつ代くらいは、バイトで賄ってる」
「え、まさか晃先輩もバイトしてるんですか? 知世ちゃんは知ってたけど……」
「家業の手伝い。物件情報の更新とか、SNS運用したりとかなら家で出来るしさ……あ、お替わり取ってくる」
「晃さん、私もお替わり行きます」
いそいそと三回目のお替わりに突撃する二人の背中を友人達は微笑ましく見送る。
実は「あの二人、学食出禁にならないといいね……」と彼女達が密かに心配しているのは内緒だ。
「……ほんと、知世ちゃんがうちに来てくれて良かったよね。晃先輩も随分雰囲気が柔らかくなったし」
しみじみと呟くのは、内部進学の友人だ。
彼女の今と昔を知る友人達は、みな口を揃えて「晃先輩は大学に入って変わった」とどこか安心した表情を見せるという。
「にしてもあの二人、どこで知り合ったの?」
「あーSNSだって言ってた。知世ちゃんが学食の美味しそうなおやつばっかり呟いてて、毎晩飯テロを食らってたって、晃先輩が」
「きっかけも食べ物か……先輩らしいけどさ」
――当初、あの「晃先輩」が外部受験の子と「同棲」するという噂は、特に親衛隊よろしく晃の側に付き従っていた女の子たちに大変な衝撃を与えた。
とうとう晃先輩にも恋人が出来てしまった! と意気消沈し、寝込む子までいたという。
だが蓋を開けてみれば、長身の晃の隣に立つのはふわふわのブロンドとふくふくとした白いほっぺが気持ちよさそうな、それでいて随分ちまっとしたマスコットのような少女で。
大学で連れ立って歩く二人の間には、どう見ても甘さが無い。そう、食い気以外は欠片も見当たらない。
ただ、大学に入学以来周囲に向けられる晃の笑顔がうんと柔らかくなり、どこか苦しそうな表情を見せることが激減したのは間違いなくて。
食いしん坊という共通点だけでなく、二人には何か通じ合うものがあるのだろうと、晃から知世とのなれ初め(と言う名のシナリオ)を聞いた彼女達はそっと二人の行く末を見守ることにしたようである。
「あ、帰ってきた」
「……晃先輩、また肉しか盛ってないよね、あれ」
「知世ちゃんはデザート山盛りだし……あの二人、互いに忠告したことを全然聞いてない……」
満面の笑みで山盛りのプレートを持ってこっちに戻ってくる、まるっこくてちっちゃな知世と、相変わらずクールな笑みを湛え、けれどそのプレートには知世と変わらぬ量をよそっているすらりと背の高い晃。
友人達は「ねぇ、二人の胃袋ってどうなってんの?」と呆れつつも、この新たな凸凹コンビの誕生を心から祝福するのだった。
◇◇◇
大学のすぐ傍にある、お洒落なパティスリー。
季節のフルーツをふんだんに使ったケーキが評判のこの店に併設された小さなカフェで、知世は週三日、晃の稽古がある日にアルバイトをしている。
「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」
「四人だよ、知世ちゃんエプロン似合ってるじゃん!」
「えへへ……四名様ですね、こちらへどうぞー」
元はと言えば、知世がこの店に通い詰めていたのがきっかけだった。
「東京のケーキはレベルがおかしい」と、上京して初めて食べたケーキに度肝を抜かれた知世は、それ以来まるで刷り込みされた雛のように足繁く店に通い始める。
当然、商品は端から端まで全種類制覇した。
結果ちょっと体重が増えてしまったが、これは必要経費(?)である。めざとく体重計を見咎めた晃により「……知世ちゃん、食べた分は消費な!」と日々のエアロバイクと筋トレを義務づけられる形で負債は支払わされているし、問題は何も無い。
そして、そんな美味しい日々が一月ほど続いたある日、知世はとうとうオーナーから声をかけられて。
ついうっかり「どれだけここのケーキが美味しいか」を熱く語ってしまった結果
『そんなにうちのケーキが好きなら、うちのカフェでバイトする? ちょうど募集しててさ……あ、残り物はタダで持って帰れるよ』
『あっはい! 今日からでも大丈夫です!』
実に魅惑的な勧誘文句により、あっさり契約を結んできてしまったのだ。
……もちろんその夜、あまりのチョロさに呆れた晃による「お仕置き」が敢行されたことは想像に難くない。
と言うわけで、完全に成り行きで始めたバイトではあるが、今は残り物以外にも働く目的が出来たのもあって、実に大学生らしい生活を堪能している。
(……自分で稼いだお金で生きるって、いいな)
親からは、贅沢しなければ生活出来るだけの仕送りはして貰っている。
晃も接客業のバイトはちょっと心配だと零していた。
「知世ちゃんはおやつがかかると、悪い男にもホイホイ着いていきそうだ」なんて酷い言われ様だけど、残念ながら反論の余地はない。
それでも、家からの仕送りはただの数字だというのに、あの人から漏れ出る泥の気配をどうしても感じてしまうから。
もちろん今の自分は親の仕送り無しには生活できないけれど、それでも少しでも泥のついていないお金で生きたい――
知世は初めてバイト代の入った茶封筒を貰った日に、密かに決意する。
だから、ちょっとだけ晃には申し訳ないけれど、このバイトを辞めるつもりは無い。
(卒業までは、仕方ないけど……もう、あそこには戻らない)
夏休みはバイトもあるから家には帰省しない。
流石に正月くらいは顔を見せに行くけど、夜自室にいる間はずっと通話していようと、晃と約束済みだ。
そうして卒業し、職を得て本当の意味で自立した時、私はようやく完全にあの淀みから離れられる――
「すいませーん、あの、追加で注文したいんですけど、お勧めありますか?」
「あっはい! えっとマンゴーのパンナコッタをお召し上がりでしたよね……そしたらサクランボのタルトはいかがでしょう? ここのタルトは大粒のサクランボを贅沢に使っていて、アーモンド生地のタルト台の中にたっぷり入った濃厚なカスタードクリームと、甘酸っぱいサクランボのバランスが完璧なんですよ!」
「へぇ……美味しそう。じゃあそれを二つ」
「はい、ありがとうございます!」
物思いに耽っていれば、お客さんから声がかかる。
知世はいそいそとテーブルに向かい、今日もここのケーキが如何に美味しいかを幸せそうに語るのだった。
――ちなみに「お勧めを聞いた途端に目の色が変わって、熱烈に推しケーキをプッシュしてくる店員がいる」「あれは絶対全部実食したうえでの食レポだ、熱量がおかしい」と今や名物店員となった知世見たさにやってくる客も相当数いることに、彼女は気付いていなかったりする。
◇◇◇
「お疲れ知世ちゃん。……今日のお土産ボックス、なんか大きくない?」
「えへへ……試作品のコンポートを貰ってきたんです! 白桃ですよ、白桃! 明日の朝食で一緒に食べましょ!」
「そりゃ楽しみ、だけどアタシも運動を増やした方がいい気がしてきたな……」
バイトが終わる頃、知世のスマホには晃からメッセージが送られてくる。
いそいそといつもの駐車場に向かえば、見慣れた車が知世を待っていた。
助手席に乗り込み大事そうに箱を抱える知世を横目で見ながら、晃は口元に笑みを湛えハンドルを切る。
「晃さん、その、稽古の後なのに私の迎えまでするなんて、負担になってません? 私は電車も乗れますし、帰りは一人でも大丈夫ですよ?」
「帰りにちょっと寄るだけだし、気にしなくていいって。それに……マンションの敷地内はともかく、若い女の子が一人で夜道を歩くのはちょっと、な」
「そういうものですか……」
「何かあるときは一瞬なんだよ。避けられる危険なら、避けた方がいい」
晃は自分に対して、ちょっと過保護すぎやしないかと知世は時々感じている。
もちろん晃の性質上、一緒に出かけることが増えるのは必然だし、それをどうこう言うつもりは毛頭無い。
ただ、こうやって知世が一人で行動出来そうなときでも、彼女はなるべく知世を守ろうとしているようで、……それが少しだけ、早く独り立ちしたい心にざらりとした感情を生じさせる。
(……分かるけど、ね。晃さんはきっと……こうやって守られたかったんだ)
とはいえ一応主張はするものの、知世も意地を張るつもりは無い。
彼女の行動の源が、そのかんばせの内に植え付けられたものから来ていることは、十分理解しているから。
結局、互いに歪みを補うことは出来ても、最終的には自らの足で立ち向かわなければならないだなんて、あまりにもこの世界は残酷だと思う。
それでも、夢に耽溺する道を絶ったのは、自分達だから……だから知世は、いつか晃が安心して自分を送り出せる日が来ることを、ただ祈り寄り添うだけ。
――そう、こんな形でも。
「知世ちゃん」
「…………はい」
マンションへの信号を曲がった頃、真っ直ぐに前を向いたまま、晃がぽつりと知世を呼ぶ。
その声は酷く掠れていて、そして……いつも透き通っている瞳には、人前では決して見せない濁りを含んでいて。
ああ、これは「お誘い」だと、知世は直感する。
「今日、金曜だしさ。……全力で鳴かせたい」
「っ、はぁっ……!」
案の定、晃の口から出たのはプレイへの直截な提案であった。
獰猛さを纏わせた少し低い声が、知世の腰を震わせる。
思わず漏れたため息は……どこまでも甘く熱い。
「はい……いっぱいお尻叩いて下さい、ご主人様ぁ…………あ」
「ん、今のは素で呼んだな? 知世ちゃん、もうご主人様呼びは無しって、約束したよなぁ? ……ふぅん、そんなに『お仕置き』が欲しいんだ。すっごい……エロい顔してる」
「あはぁ……だ、だって……」
ゾクゾクが、とまらない。
お腹がずんと重くなって、首の後ろに痺れが駆け抜けて……息が勝手に荒くなっていく。
ゴクリと唾を飲み込んでも、この渇きは決して紛らわせられない。
思わず、ハンドルを握る晃のすらりとした手を目にすれば
(あの てのひらが ほしい)
――全身が叫び出すなんて、わかりきっていた癖に。
「はぁっ……!」
「ふふっ、想像した? ……ああ、アタシまで興奮してきちゃうじゃん、運転してるのにさ」
「ご、ごめんなさい……んぁっ……」
「それ、ごめんって顔じゃ無いって」
まだ何もされていないのに、お尻がじんと熱くなる。
早くこの身を纏う布を脱ぎ捨てて、あの白い部屋で、水色の瞳を見上げ、泣き叫びたい……!
((……ああ、今日も楽しみだ))
そんな知世の姿をちらりと視界の端に捉えた晃は実に満足げで……心なしか車のスピードが上がった気がした。
◇◇◇
「ご主人様」の呼び名は、もう使わない――そう決めたのはいつだったか。
こういうプレイをする以上主従関係はどうしたって付き纏うけれど、できる限り私達は対等であろうと封印したはずの言葉は、けれどいざ期待に昂ぶれば、今でもうっかり口から滑り落ちてしまう。
……それはそれで、お仕置きというプレイのスパイスが増えるから悪くないと互いに思っているあたり、本当に私達はどこまでも歪みきった変態なのだ。
「一応確認するけどさ」
家に辿り着いて、ざっとシャワーで汗を流し。
いつものように白い部屋で晃の足元に跪く知世に、ハスキーな声が静かに問いかける。
晃は半袖のTシャツにホットパンツというラフな出で立ちだ。Tシャツの胸元は……申し訳程度に膨らんでいる。
「今日のは『うっかり』だよな?」
「っ、はい……晃さんの声に、ゾクゾクして、嬉しくて……つい、呼んじゃいました……」
「分かった、なら今日は普通のお仕置きな。……明日は一日ベッドでゆっくりして貰うから」
「はひぃ……!」
晃がわざわざ確認するのは「そうじゃない」事があるから。
知世にとって「ご主人様」の呼び名は、今やお仕置きが欲しいという言葉無きおねだりと化していて……だから期待に潤んだ瞳でうっそりと呼びかければ、晃は最大限知世の希望を叶えてくれる。
まあ、次の日のお尻が大変なことになるのは変わりないけれど、好みの獲物で打たれるのは実に満足度が高いのだ。
その言葉が、晃のどうしようも無い辛さを晴らしてあげたい想いから出ることがあるのも、多分晃は気付いていて……けれど、知らないフリをしてくれているのだと思う。
――辛さを晴らすための手助けをするのもまた「お互い様」だから。
「よし、クソ寝具達はいないな……じゃあ今日は、これ使うか」
「っ……く、靴底……!?」
「面白いだろ? ほら、スパンキングってスリッパとか靴とかで打つこともあるからさ。……この白いお尻に靴の跡が刻まれた景色は、きっとそそる」
「靴跡が、お尻に……あはぁ、っ……」
「その様子じゃ、お仕置きじゃ無くてご褒美になりそうだな……気に入った? 小ブタちゃん」
「は、はひっ……嬉しいですぅ……!」
念入りに棚の中を調べた晃が戸棚から出してきたのは、靴底を模したパドルだった。
膝の上で叩くのに特化しているのだろう、柄の短いパドルには、本物の革靴の底を再現した凹凸が整然と並んでいる。
触れてみれば思った以上に硬くて重いし、凹凸にはしっかり角があって……それがますます知世の熱をあげてしまう。
だってこれは……間違いなく普通のパドルより痛い。
そしてパドルには付きものの穴が開いていない分、晃への負担も大きいに違いない。
(今日の晃さんは……随分しんどそうだな)
既に出来上がっている知世を愉快そうに見下ろすかんばせに、時折混じる苦しそうな表情を、知世は見逃さない。
きっと知世の知らないところで、何かトラウマを刺激するような出来事があったのだろう。
現実という喧噪の中で生きていれば、どうしたって避けがたい刃はそこかしこにあるものだから。
ただし気付いていても、知世は内容を聞こうとは思わない。
反対に知世が引きずり出された記憶に苦しんでいるときでも、晃は決して理由を問いたださない。
思い切り甚振りたい、甚振られたいと望む気持ちだけは確かだけれど、そこに至るまでを言葉で表すのは、存外難しいものだから。
何より、プレイこそが……私達の言葉になってくれるから。
「んっ……」
「すべすべで、吸い付くような肌だよな……ちゃんと手入れするようになってから、ますます触り心地が良くなった」
膝の上に身体を預ければ、丸い尻を晃が優しく撫でる。
その手が少し震えているのは、興奮からだろうか、それとも……罪悪感からだろうか。
大丈夫、と言わんばかりに軽く尻を揺らせば、晃の手はそれに答えるようにぽんぽんと知世の尻を軽く叩いた。
「知世、セーフワードは」
「……『パパ、来ないで』です」
「ん。無理はするな。それと……ごめん、多分今日は歯止めが効かない」
「ふふっ……いっぱい鳴かせてください、晃さん」
セーフワードを確認して、申し訳なさそうな晃の言葉が上から降って来る。
まるで泣き出しそうなその声に、知世は甘い声で応え、誘い……そうして
パン!!
「っ、くううぅっ……!!」
部屋に響く乾いた音と共に、二人だけの秘密の時間が始まった。
◇◇◇
あれほど毎夜のように耽溺していたというのに、共に暮らすようになってから、意外にもプレイをする回数は減った。
互いの欲望を曝け出して好き放題出来る夢の中とは異なり、この部屋でのプレイには必ず「痕」が残される。
それも、あの寝具達が生活に支障が出ないよう調整してくれるような余韻を楽しめる物では無い、本物の痛みと傷だ。
だから、プレイをするのは週末か、次の日の講義が楽な日に限られるという事情は大いにあると思う。
ただ、それならば他の日は夢の中でこれまで通り楽しめば良いだけ――
だというのに、現実にはこの三ヶ月で夢の中の白い空間を「そう言う目的」で利用したのは、片手にも満たない。
「い゙っ、う゛ぁっ、いだいっ、あきらしゃん、い゙だい゙よ゙ぉ!」
「ははっ、やっぱりぐちゃぐちゃになって叫ぶ知世は最っ高だな! あー靴の痕がくっきり……いつもより綺麗に赤くなってる……」
「んひぃ……っ!」
「お、軽く逝っちゃった? これだけ打たれりゃ敏感にもなるよな」
部屋に響く打撃音が、ふっと止む。
もはや痛いのか熱いのか分からないほどに腫れ上がった尻に刻まれた赤みを、晃が触れるか触れないかの距離ですぅと撫でれば、途端に身体がビクビクと跳ね、知世の口から甘ったるい嬌声が上がった。
「やっぱり、いいよな。パドルで打っても」
「ゔあ゙ぁ゙っ!!」
「夢とは違って、はっきり感触が残る。腕も疲れるし、息も切れる……っ」
「あ゙ぎっ! うぐっ、はっ……!」
一度達して力が抜けた身体は、実に素直だ。
晃の手が一度振り下ろされる度に、衝撃はそのまま知世の身体から息を吐かせる。
声帯が作り出す音は、苦痛と快楽の混じった複雑な色を伴い、それが晃を、そして……知世自身を更に昂ぶらせる。
(そう、現実のプレイは、ずっと痛くて)
(手が痺れて、汗が流れて、息が上がって)
((そして……ずっと、気持ちいい))
泥に沈められ、業火に燃やし尽くされ、ただこの世界で生きるだけで精一杯だった頃には気付かなかった。
夢はやはり夢で、どれだけ寝具達がリアルに感覚を再現してくれようが、現実の輝きには何一つ敵わないのだと――
「ぁ……はっはっ……はぁっ……んぁ……っ」
「知世。……まだ、いける?」
「ひっ! あ、ああ……晃、さん……」
「うん」
「……もっと……痛いのが、欲しいです……っ!」
「ん、じゃああと20回だけ」
それに。
ここは安全で、更なる泥を流し込まれることが無いから。
身の内に燻る怨嗟に火がついても、喜んで受け止めてくれる人が、隣にいるから。
……互いに安心を得たからこそ、毎日何かに追い立てられるようにプレイにのめり込む必要は無くなったのだろう。
「……知世、何考えてる?」
「んっ……」
痛みと快楽で朦朧としながらも、ぼんやりと物思いに耽る知世に気付いたのだろう、晃が尻の感触を楽しみながら訊ねる。
知世は潤んだ瞳で晃を見上げ「いいな、って、思って……」と掠れた声で呟いた。
「上手く、言えないんですけど……」
「うん」
「こんなに痛くて、叫んでばっかりで、気持ちよくて……ぐちゃぐちゃなのに……今、私、晃さんといっぱい、お話ししてるみたい……」
「……知世」
「ふふっ……夢の中よりはっきりしてる分……晃さんが近くて……安心します」
「…………ああ、そうだな」
まったく、これは随分と歪んで、変態で、そしてどうしようも無く愛おしい、自分達だけのコミュニケーションだ――
どこか自嘲を含んだ声は、どこまでも加虐の欲に濡れていて。
パンッ!!
「っ……うああああっ!!」
「いーね、今完全に油断してたもんなぁ? あーほんっと素敵なお尻……もっと、もっとぐちゃぐちゃになって、叫んで、震えて……アタシに全部、委ねちゃいな」
「ひぐっ、ひぐっ、っあぐぅ……くうう……っ!!」
(ちょ、晃さんっなんでまだそんなに元気なの!? 明らかに痛みが強くなってるんですけど!!)
ひとつ、ふたつと嬉しそうに数える声とともに、先ほどより威力を増した打撃が、既に限界を超えた知世の尻に振り下ろされる。
行為の激しさとは裏腹に、打ち込まれる熱はどこまでも温かくて……
(この泥に塗れた手のひらを、今日も美しいと……気持ちがいいと受け止めて)
そんな晃の願いが、ふと知世の耳に届いた気がした。
◇◇◇
激しくも楽しい時間のあとは、いつだって穏やかで……ちょっとだけ、胸が苦しい。
「んっ……んふぅ……」
「これはかなり痛みそうだな、熱が出ないといいんだけど……しっかり冷やそうな、知世」
エアコンの動作音だけが静かに響く部屋の中、さっきまでとは一転して囁くような甘い声が、晃の耳をそっとくすぐる。
軟膏塗りを使ったアフターケアは、随分知世の琴線に触れているようだ。
普段のスキンケアでは刺激の少ないオイルを使われるけど、アフターケアで使うのは夢の中と同じ、メントールとカンファーをたんまり含んだ異国の軟膏だ。
粘膜に触れさえしなければ打ち身から肩こり、虫刺されまで何にでも使える万能性と、火照った肌には心地よい清涼感は、他の物には替えがたい。
――まあ、それ以上に大事なのは「粘膜に触れさえしなければ」という部分なのだけど。
「はぁん……んっ……」
いつもより熱を帯びた声と、何かを強請るように揺らめくお尻、そして……双丘の間で歓喜の雫をとぷりと溢す泥濘に、つい晃の悪戯心が疼く。
「また、鳴かせてみたくなるな……」
「は……っ、お、お替わりですかぁ……?」
「それは流石に現実じゃ難しいかな、これ以上やったら皮膚が切れそうだし。……これを、さ」
「っ、んひっ!!」
「……また粘膜に塗っちゃったら、いい声が聞こえるよなって」
中心に触れるか触れないかの所を、軟膏塗りがゆっくりと往復する。
その度に上がる小さな悲鳴は、明らかな期待を滲ませているせいだろうか、実に耳に心地よい。
……どれだけ楽しくても棘のように刺さったままの罪悪感は、こういうときには良い抑止力となってくれるようだ。
「あぁぁ……はっ、はっ、んぁ……っ……」
「いいよな、ちょっとアタシの手が滑れば大変なことになるっての、ドキドキして……気持ちいいんだろ?」
「はっ、はひぃ……あ、でも…………塗られちゃうのもいいな、って」
「マジかよ、知世はほんっとうにド変態な小ブタちゃんだな!」
「あはぁっ……!」
(ああっ、ヘンタイって言われたぁ! んっ、気持ちいい……もっとぉ……!)
思いがけないご褒美に、知世はすっかり大盛り上がりだ。
耳から流し込まれた音は、頭の中をどろりと蕩けさせるだけで無く、お腹の奥まで甘い疼きを響かせてくる。
――それでも。
悦楽の最中に不意に差し込まれる記憶が、途切れることは無い。
夢の中で堪能し続けたスパンキングは、確かに歪んだ性癖を満たす楽しい時間ではあったけれど、そこには必ずあの人と泥からの逃避という目的が纏わり付いていた。
だからだろうか、現実でのプレイは夢よりずっと痛くて、楽しくて、気持ちがいい代わりに……きっとお布団さんが上手くぼやかしていたのだろう泥の記録を、嫌でも意識してしまうのだ。
「……いつかさ」
そんな小さな葛藤を、知世の瞳に見出したのだろう。
腫れ上がった尻をケアする手はそのままに、晃が静かな声で呟く。
「いつか、こんなことは止めれるといいと思うんだ」
「……晃さん」
「あ、心配しなくても今すぐどうこって話じゃ無い。けどさ……生きるために誰かを痛めつけるってのは、やっぱり……だめだよなって」
「…………」
これでよし、と晃は知世の背中をぽんぽんと叩く。
そのままころんと横になった知世の膝枕になりながら、じっと手のひらを見つめて「……だから、いつかは止めたいんだ」と繰り返した。
(晃さん……)
少し思い詰めたような表情に、知世の胸がずんと重くなる。
晃の気持ちは、痛いほど分かるのだ。特にずっと「される側」である知世と違って、晃は「する側」……加害を好み嗜む立場だから。
暢気に行為を楽しむには、自分達を侵した醜悪な穢れはあまりにも重くて、時に自分へと跳ね返る刃となるのも頷ける。
ただ、だからこそ――
「……晃さん。私は……プレイを止めたくないです」
「知世……」
知世は明確に、否定する。
プレイは、言葉だ。知世と晃の間でだけ成り立つ、歪んだ心のやりとりなのだ。
例え泥の存在を突きつけられたとしても、二人の何かを交わせるこの時間を失いたくは無い。……否、きっと、一度覚えた途方もない安らぎと快楽をもたらす新しい交歓の形を、私達はきっと手放せない。
だから、プレイを止めるという選択肢は無いのだ。
その代わりに、選べる選択肢があるとするならば
「……でも、晃さんの罪悪感や、私の……記憶が楽しいを邪魔するプレイだけじゃなくて……なんて言えばいいのかな、二人で純粋に楽しいって言えるプレイができたらいいな、って……」
「楽しい、プレイ……」
「それに、変態プレイったって私達は別に誰も傷つけては無いですし! 確かに楽しいだけじゃ無いですけど、少なくとも悪いことをしてるわけじゃ無いですから!」
――それはどこまでも纏わり付く泥から、そして私達が植え付けられてきた常識から離れることなのかも知れない。
「…………っ!」
知世の言葉に、晃はハッと息を呑む。
「目から鱗ってこういうことを言うんだな……」と目をパチパチさせながら呟くあたり、やはり晃はどこかでこのプレイを悪だと……そこまでは言わずとも、あまりよろしくない行為だと断じていたのだろう。
「そっか。……楽しむことは悪いことじゃない」
「そうですよ。美味しいおやつを食べるのと同じ事です!」
「知世、それはちょっと説得力に欠ける。でも、そっか……そうだよな、言われてみれば……」
(楽しいだけのプレイ……自分達にも、できるだろうか)
「そろそろ出ようか」と知世を促し、二人はプレイルームを後にする。
プレイの後は、知世は先にアイスノン片手に寝室に戻ってお尻を冷やし、晃は道具の手入れと後片付けをしてから寝室に向かうのが、いつものルーティンだ。
(二人が楽しめて、それでいて知世を傷つけなくて、知世も辛い記憶を思い出さないような……明日、ちょっと調べてみるかな)
軟膏塗りの汚れを丁寧に拭いながら、晃は一人思いを巡らせる。
いつか、純粋に楽しいプレイを――その言葉はいつまでも、晃の中に静かに鳴り響いていた。
◇◇◇
「あのさ知世、今日は荷物が届いたから開けようって言っただけなんだけど」
「えへへ……いやぁこの部屋で開けるなら、すぐ試せるように脱いでおかないとだめかなって……」
「ほんっと、知世は筋金入りの変態だな! 残念ながらこれ、パドルじゃ無いんだけど」
「ええーそんなぁ……」
それから一月後の夜、知世と晃はプレイルームの床に座っていた。
「荷物を取って来るから先に用意していて」と伝えた晃の言葉は、どうやらプレイへのお誘いと受け取られてしまったらしい。
晃が段ボール片手に扉を開ければ、そこには一糸まとわぬ姿でほんのり白い肌を桃色に染めた知世が、既に準備万端と言わんばかりの蕩けた顔で、思わず額に手をやる晃を迎えたのである。
「でも、ここで開けるって事は……プレイに関係するんですよね?」
「ん、まあな。でもスパンキングって訳じゃ無いんだ」
「はぁ……」
首を傾げる知世の前で、晃は包みを開ける。
べったりと貼られているパウチを見るに、どうやらこれは海外から個人輸入した品物らしい。
「……箱の割に中身が小さい…………」
「ほら、海外からだと扱いも乱暴だからじゃね? ……開けてみな」
ほい、と晃に渡されたのは、白いケースだった。
アクセサリでも入っていそうなベルベット調の布を張ったケースをそっと開けた知世の目が、真ん丸に見開かれる。
「……ネックレス?」
部屋の照明を反射してきらりと光るのは、シンプルなネックレスだった。
ハート型のモチーフは一円玉くらいの大きさで、両脇にはローズゴールドのアクセントが添えられている。
まじまじと眺めていれば「色々と考えたんだ」と晃が口を開いた。
「知世もアタシも、スパンキングはやっぱり……楽しいけどさ、不純物が多いわけじゃん。それが悪いって訳じゃ無いけど、自分達のどうしようもない部分を満たすための手段だから」
「……そうですね」
「あまりにも特別すぎるんだ。泥と結びつきすぎていて……アタシはどうしたって罪悪感が拭えないし、知世も……きっとスパンキングが純粋に楽しくなるまでには、もっと時間が必要になるとアタシは思っている」
「……」
だから、と手にしたのは、もう一つの箱。
晃が開ければ、そこにはピルケースのようなペンダントトップが光るネックレスが収まっている。
「ただ、特別なのはお尻を打つことだけだろ? その、スパンキング以外のことならさ……知世の言う楽しいプレイが出来るかなって。……例えば餌皿でご飯を食べさせてペット扱いしたのは、純粋に楽しかったし」
「ふふ、あれは癖になりそうでしたねぇ……それで、このネックレスは一体」
「実はこれさ、首輪代わりなんだ」
「!!」
流石に普段から首輪を付けるのは無理だし、と晃はネックレスを手に取り、円筒形の筒を開ける。
と、そこには小さな金属の棒がぶら下がっていた。
「このネックレスは鍵付きなんだよ。特別なロック構造になっていて……この鍵が無いと、開けられない」
「鍵、ですか……」
晃の言葉に、知世は手元のネックレスをもう一度まじまじと見つめる。
確かに留め金の部分は、見慣れた金具ではない。そもそもどうやって外すのかすら見当がつかない。
当惑を浮かべる彼女の目の前で、鍵……というより工具にしか見えない棒を、晃は留め金の裏にある凹みに差し込み、くるくると回した。
そうしてすっと引き抜けば、鍵の先には六角形のネジがついていて、留め金が左右に分かれて……
「…………っ!」
小さなパーツに、知世の胸がどくん、とひときわ大きな音を立てた。
「そ、それ……あの、晃さんがいないと外すことができない……?」
「もちろん、この鍵はアタシが身に付けるからな。……そりゃさ、その気になればネックレスを壊して外すことも出来るけど、知世はやらないだろう? だって……これは『ご主人様』との繋がりなんだから」
「……っ、はぁっ!!」
(あ、ああ……っ……ご主人、様……なんて、なんてことを……っ!)
柔らかな下腹部の奥で、歪んだ欲望が歓喜を叫ぶ。
プレイであっても対等だという約束は守られ、ただ安心では満たされない渇望を、目の前の彼女はこの素敵な「首輪」で癒やそうと考えたに違いない――!
「これならさ、ずっと着けっぱなしに出来るだろ? 素材もステンレスだし、シルバーみたいなお手入れも必要ないから」
「はひっ!? つ、つけっぱなし……」
「そ。大学の友達も、バイト先の人も、このネックレスの意味は知らない。知ってるのは知世と、アタシだけ。……バレないように堂々と変態の証を見せびらかすのは、楽しいよな?」
「んああぁ……っ!」
「ははっ、いーい顔するじゃん。……もう着けていい? って聞くまでも無いって、顔に書いてるな」
掠れた笑い声が、知世の鼓膜を震わせる。
美しい唇は弧を描き、透き通った水色の瞳には……愛おしさと悦楽だけが浮かんでいて、ああ、これは彼女が受け入れられる「プレイ」なのだと、知世は直感して。
「……わん!」
「そうかそうか、知世はちゃんとお返事の出来るお利口なメスイヌだな。……一応言っておくけど、外で鳴いたらおやつ抜きな。バイト先で貰った残り物は、アタシが全部食べるから」
「えええそんなぁ、晃さんの鬼っ悪魔ぁっ! じゃなかった、わふん!!」
「心の声がダダ漏れじゃん! ……着けるよ」
(うん、これなら……『目的』は達せられそうだ)
思わず漏れた鳴き声に、晃は満足そうな笑みを浮かべながら、知世の首元へとそっと手を回した。
◇◇◇
それから20分後。
知世は、すっかりご満悦な様子で時折腰をくねらせながら、晃に身体を預けていた。
「どうだった? 餌皿で与えられるおやつは」
「あはぁ……おにゃか、ずくずくで堪んないですぅ……」
「ん、食べ物を冒涜するなって言われたらどうしようかと思ってたけど、その様子ならこれはOKなんだな」
これなら手軽に出来て楽しめるな、と晃は濡れたハンドタオルで知世の口元を丁寧に拭う。
「首輪」を着けた後、ご褒美だと餌皿で差し出されたのは、いつも夢で味わっていたミューズリーでは無く……まさかのティラミスで。
何の変哲も無い餌皿に、ちょこんと盛られた美味しそうなケーキがあまりにもミスマッチで、頭が沸騰しそうだったな……と、知世は余韻に浸りながら温かいタオルの感触を楽しむ。
(フォークも使わずに、跪いて口だけでケーキを食べるだなんて……ああ、晃さんが私のドストライクを突いてくるぅ!)
綺麗に飾られたケーキをぐちゃぐちゃにしながら頬張る惨めさは、これまで感じたことも無い恍惚を知世に与えてくれた。
確かにスパンキングのような痛みは無い。身体にも、心にも傷はつかない。
なのに、合意の上で与えられる尊厳破壊はあの痛みと同じくらいの気持ちよさを運んできてくれて、何より……「家」の影がちらつかないのだ。
「はあぁ、おやつは毎日これでもいいかも……」
「……知世はもうちょっと学ぼうな。毎日やったら飽きるって、前に夢の中でも言ったぞ?」
「ゔっ……で、でもっ、このくっ首輪は毎日なんですよね!?」
「そっちはむしろ、ちょっと慣れて欲しいからな。そんなエロい顔して大学に行ったら、知世の変態がバレちゃうかも……うん、アタシが悪かった。今のは知世を煽るだけだな」
「あ、あは……想像だけで逝っちゃう……」
「ならちょっと頭を冷やしてあげよっか。……知世、アタシは今もお漏らしプレイを諦めてないから」
「ひょぇっ! そっ、それだけはご勘弁を!!」
一瞬にして恍惚とした表情を泣き顔に変えた知世に、ひとしきり笑い転げて。
そうして晃はすっと表情を変え「知世」と床に座る彼女に声をかける。
「スパンキングは、止めない。あれは、アタシ達の生きる縁だ。そもそも……止めようとして止められるものじゃないと思う」
「はい。私も……あの時間を捨てたくはないです」
「だよな。だからさ、それとは別に……ここから始めよう」
「始める……?」
その意味を問いただす視線に、アタシ達は自由なんだと晃は真剣な顔で語る。
確かにこの身体と心は、泥に漬け込まれ、穢され、当たり前の幸せを……「普通」であることを奪われた。
歪められたものは元に戻らず、燃えさかる怨嗟の炎は燻り続け、いつ何時この淀みに、業火に飲まれるか……そしていつかそれが和らぐ日が来るのか、自分達にだって予想がつかない。
それでも他者から植え付けられたものを、楽しい未来を諦める理由になんかしたくないのだ――
そう淡々と、しかし熱量を持って話す晃の口ぶりは、まるで自分に言い聞かせるかのようだ。
(……そう、ちょっとは変わったけど……汚れは残ったまま)
「普通」の幸せは未だ遙か遠くに見えて、手が届く気配すら無い。
元に戻る未来を諦めたくは無いけれど、だからといって今を諦めるのは違うと思うから。
だから、と晃は言葉を切って、すう、と大きく息を吸って……希望を語る。
「楽しいプレイを、二人で作ろう」
「晃さん……」
「アタシ達はここから、アタシ達が決めた『普通』を作り出すんだ」
「…………っ!」
(ああ、やっぱり晃さんは、綺麗だ)
泥にまみれ、へばりつく怨嗟に足掻き、それでもなお凜と立つ姿は、知世の胸を温め……そして、高鳴らせる。
この感情が恋なのかは、分からない。ただの傷のなめ合いだと言われれば、そうかもなと納得するくらいには、経験の無い感情はあまりに輪郭が曖昧だから。
けれど
(きっと、私達はこれから)
(互いに……本当の恋をするんだ)
言葉にはならなくても、二人の中に生じた確たる想いは、同じ方向を向いている。
「……晃さん」
「なに」
「ちょっと、失礼します」
「え、んっ」
ふらり、と立ち上がった知世の顔が、すっと晃に影を作る。
次の瞬間
「!」
唇に触れたのは、あたたかくて、やわらかいもの。
「んふ……」
「ん……晃さん、口を……」
「んっ、んうぅっ……!」
言われるがままに唇を開けば、知世の舌がぬるり、と入ってくる。
ちゅ、と晃の舌を絡めて、吸って、敏感なところをさすって……ぞくりと走る快感に、どんどん二人の息が上がっていく。
(……っ)
たまらず晃がお返しとばかりにそっと触れた感触に、知世の頭は一瞬にして「あの日」を再現する。
近づく顔、生暖かい濡れた感触、口の中を這いずり回る気持ち悪さ、知らない匂い……
(違うの……これは、あの人じゃ無い)
記憶に溺れそうになる心を叱咤して。
口付けを交わす今を感じれば……そこに嫌悪は無い、気持ち悪さなど微塵も存在しない。
晃と大切なところを触れさせ、交わしている――それだけで、どこまでも甘く蕩けるような幸福が、心にとぷとぷと注がれていくようだ。
「っ、はぁっ……」
「んふっ、はっ、はっ……あ……知世、だい、じょうぶか……?」
名残惜しい気持ちを振り払い唇をそっと離せば、見たこともない潤んだ瞳で、晃がどこか心配そうに知世を気遣う。
その瞳すら、涙が出そうな程に嬉しくて……知世はそっとかぶりを振った。
「……私が決めたの。……これが私の、初めて」
「知世……」
「私の初めては、晃さんです」
「……っ!」
(知世……!!)
知世の言葉に晃は目を大きく見開き、思わず口元を押さえる。
みるみるうちに溜まっていく涙に潤んだ瞳を見つめながら、知世は再び足元に跪き、満面の笑みで二人の未来を高らかに宣言するのだった。
「晃さん、どうか……これからも知世を楽しくいじめてください」
――手のひらの祝福を、あなたに 完